直 (姓)
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直(あたい)は、ヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つ。「費」・「費直」とも記した。
概要
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﹁あたい﹂または﹁あたえ﹂と読み﹁費﹂﹁直﹂﹁費直﹂という三つの書き方があるが読みは同じ。臣︵おみ︶・連︵むらじ︶など、中央豪族が保持した称号とは異なり、国造︵くにのみやつこ︶などの地方豪族に与えられた例が多い。直姓氏族は210あまり存在していた。凡直︵おおしのあたい︶や舎人直︵とねりあたい︶といった直姓も存在する。東漢氏︵やまとのあやうじ︶に代表される渡来人にも例がある。
語源については﹁あたい﹂とは﹁ぴったりと一対一で合う﹂という意味の﹁あたあひ﹂が転訛したものという説の他、諸説がある。
日本最古の金石文と呼ばれる隅田八幡神社人物画像鏡の銘文には、
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
とある。この﹁開中費直﹂は﹁かわちのあたい﹂とよみ、姓の初出例である。﹁癸未﹂年をいつに比定するかによって、443年説、503年説の2つが考えられている。
これは﹃日本書紀﹄欽明天皇2年︵541年︶の箇所に引用された﹁百済本記﹂の﹁加不至費直﹂︵かふちのあたひ、現代仮名遣いではかわちのあたい︶[1]に相当するのではないか、とも言われており、すなわち、5 - 6世紀にはこの称号があったことが判明している。なお、河内直は、天武天皇10年︵681年︶には﹁連﹂に改姓している。この時、他の﹁直﹂﹁造﹂姓など13氏族も改姓させられている[2]。683年にも同様に52氏族に﹁連﹂姓が与えられた[3]。
さらに、八色の姓が制定され、685年には上述の元﹁直﹂姓を含む新﹁連﹂氏族から11氏族が選ばれて、第4位の忌寸︵いみき︶を賜姓されている[4]。
費直・費・直について
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現在、金石文においてカバネと目されるものは、費直、費、直、首、大臣、朝臣、臣、君、連の9種類で、 特に費直や費は﹁旧姓﹂として一般には用いられていない。
費直・直・直の変遷について、北村文治は、
●隅田八幡神社人物画像鏡作成以前︵443年あるいは503年︶から推古朝頃までは費直
●乙巳の変前後から庚午年籍成立後数年までは費
●庚午年籍成立以降のどこかのタイミングに直
が用いられたとした[注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
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(一)^ 費直・費・直の3つの呼称は、従来の通説においてはいずれも等しく﹁アタヒ﹂というカバネであったとされている。そしてその言葉の語源については種々言及されてきたが、なぜ3つの異なる漢字の表現が用いられているかについては考察されてこなかった。その理由は、カバネというものが文字としてよりは言葉として古くから存在してきたものという想定に加えて、﹃日本書紀﹄所引﹁百済本記﹂に﹁河内直﹂を﹁加不至費直﹂としてあり、さらに﹁隅田八幡神社人物画像鏡銘文﹂に見える﹁開中費直﹂が﹁河内直﹂と読めるところから、年代を詮索することなく、アタヒというカバネが費直とも費とも直とも書かれた、という通念が形成され、それ以上疑問を追求することがなかったためであるとされる[5]。
しかし、北村文治は、金石文に現れる費直・費・直の例を比較して、それぞれの変遷について考察した[5]。
まず、﹁費直﹂については、﹁隅田八幡神社人物画像鏡銘文﹂の成立︵癸未年︶が、443年であろうが503年であろうが563年であろうが、いずれにせよ推古朝以前の年代とする点ではほぼ異論がないため、推古朝以前に﹁費直﹂という呼称が存在したことは確かである。しかもその呼称は、あくまでも﹁費直﹂であって、費や直と記されることはない。そして、﹁元興寺伽藍縁起井流記資財帳所載塔露盤銘﹂は﹁丙辰年﹂に成立したとされるが、この年は文意によると塔露盤銘の完成年代であり、推古4年と考えられる。そして、塔露盤銘には﹁山東漢大費直名麻高垢鬼、名意等加斯費直﹂と記載されていたとされ、費直という呼称が推古朝にも存在した証拠の1つになる。金石文に見える﹁費直﹂の例は以上の2例であるが、﹁百済本記﹂の成立年代が推古朝から遠く隔った時期ではないとすれば、﹁百済本記﹂に﹁加不至費直﹂とあるから、金石文の記載と併考して、費直という呼称は推古朝以前から推古朝前後にかけて用いられたものであると想定できる[5]。
費直に対して、費の使用年代はやや降る。費の使用例は、金石文においては﹁法隆寺所蔵木造広目天造像記﹂の﹁山口大口費﹂のみであるが、﹁山口大口﹂は﹃日本書紀﹄孝徳紀白雉元年条に﹁是歳、漢山口直大口、奉詔刻千仏像﹂とある﹁漢山口直大口﹂と同人物と考えられ、上記の光背銘には年紀を欠くが、﹃日本書紀﹄の記載が同時に﹁法隆寺所蔵木造広目天﹂の製作をも含んでいるとすれば、製作年代は白雉元年ということになる。しかし、仮に含まないとしても、山口大口費という人物は大化前後を中心に仏像彫刻に従事していたと思われるから、その頃に﹁費﹂という呼称が用いられていたということは事実と考えられる。加えて重要なのは、白雉元年条の記載が何を資料としたものかは別としても、大化前後に﹁山口大口費﹂と記していたものを﹁山口直大口﹂と書き改めている事実は、﹃日本書紀﹄が大化前後に存在した﹁費﹂という呼称を﹁直﹂という呼称に改めて記載したという一例を示していることになる。呼称を﹁直﹂と改めているのは費直も同じであり、﹃日本書紀﹄は﹁百済本記﹂に見られる推古朝前後の費直という呼称を、本文においては直という呼称に改めている。﹃日本書紀﹄本文では費直や費という呼称は一切用いられておらず、すべて例外なく直という呼称のみ用いているが、上記の﹁山口費と山口直﹂、﹁加不至費直と河内直﹂という書き換えから、時代と共に費直→費→直という呼称の変化があった、と考えられる。費という呼称がいつごろまで用いられたか、或いは費から直への転換の時期はいつ頃かについては、庚午年籍に費の字が用いられていたという﹃続日本紀﹄の記載が参考となる。神護景雲元年三月乙丑条に見える﹁阿波国板野名方阿波等三郡百姓言﹂によると、彼等の姓は﹁庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字﹂であり、宝亀4年五月辛巳条の﹁阿波国勝浦郡領長費人立言﹂によれば、﹁庚午之年。長直籍皆著費之字﹂であった。つまりこの2つの記載は、いずれも﹁庚午年籍以後に費の字が直の字に改められた筈なのに庚午年籍のままに費の字を用いることに対する抗議﹂という点で一致しているのであり、明らかに庚午年籍に費の字が用いられていたことを表している。そして、神護景雲年間︵767年以降︶には一般には費字を用いなくなっているにもかかわらず政府は庚午年籍どおり長費にきめてしまった︵その時期には既に表記の変更が行われていた︶こともわかり、少なくとも費という呼称は大化前後から天智9年︵670年︶の庚午年籍成立まで用いられていたことは明らかであり、費から直への転換が制度として一度に行われたかどうかは不明であるとしても、その転換が庚午年籍以後行われれ、一般に費の字を用いることはなくなったといえる。実際に、天武期以後の﹁記紀﹂や﹃六国史﹄などの後世資料においても、費の字はカパネの呼称として一般的には決して用いられていない。この事実によって、費から直への転換は一般的には天智朝を境にしていると考えられる[5]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 高柳光寿・竹内理三編 『角川第二版日本史辞典』(角川書店、1966年)p24、p522
- 永原慶二監修 『岩波日本史辞典』(岩波書店、1999年)p25、p64
- 『日本書紀』(三)(五)(岩波文庫、1994年・1995年)
- 宇治谷孟訳 『日本書紀』全現代語訳(下)(講談社学術文庫、1988年)
- 井上光貞 『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社、1965年)