真田幸歓
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真田 幸歓︵さなだ ゆきよし、またはゆきしげ[1]、文政7年4月1日︵1824年4月29日︶ - 明治20年︵1887年︶︶は、仙台藩伊達氏家臣。仙台真田家8代当主真田幸清の子。母は喜曽︵林友通の娘︶。初名は幸之、通称・喜平太。
生涯[編集]
藩主伊達慶邦の小姓となり、のちに慶邦の命で下曽根信敦に西洋砲術を学んだ。安政3年︵1858年︶講武場で多くの藩士に西洋砲術を教えた。元治元年︵1864年︶脇番頭となり、慶応2年には近習目付となり、経験を生かし藩の軍政の改革を行った︵軍制変革侍読長︶。また、藩主慶邦の密名により上京したこともあったという。慶応4年︵1868年︶1月に若年寄に任じられ軍制係の長となる。同年4月、新政府軍より会津藩討伐の命を受け土湯峠まで出陣した。その後、奥羽越列藩同盟成立後は病により潜居していて、その後藩主慶邦の命により軍監となるが、指揮をする前に撤兵した為その職務を果たせなかった。同年12月若年寄を免職となり石巻に閑居し︵俸禄は廃藩置県まで給される︶、学校教育関係の事務官や、牡鹿郡の書記官などに務めるとともに和歌などを嗜んだ。 明治20年︵1887年︶に死去した。享年64。長男の昌棟は1883年に亡くなっていたため、四女・萬寿の子・徹寿を後継者に指名した。家族[編集]
●父‥真田幸清︵1800 - 1871︶ ●母‥喜曽 - 林友通の娘。 ●生母不明の子女 ●長女‥蓮子︵1845 - ?︶- 佐藤氏室 ●次女‥敏子︵1847 - 1874︶- 岩淵氏室 ●三女‥理子︵1851 - 1900︶- 後藤喜平室 ●四女‥萬寿︵1854 - 1927︶- 萱場順の妻。真田徹寿、柔太郎の母。 ●長男‥昌棟︵1857 - 1883︶- 父・幸歓に先立って死去。 ●養子 ●真田徹寿︵1881 - 1937︶- 萬寿の子で幸歓の外孫。幸歓の死後、仙台真田家を相続。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 歴史群像編集部 編『全国版幕末維新人物事典』学研パブリッシング、2010年。ISBN 9784054044630。
- 真田の郷蔵王町PR活動公式ページ