竹下豊次
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Takeshita_Toyoji.jpg/200px-Takeshita_Toyoji.jpg)
竹下 豊次︵たけした とよじ、1887年︵明治20年︶2月2日 – 1978年︵昭和53年︶4月25日[1]︶は、大正から昭和期の官僚、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員︵緑風会︶。
経歴[編集]
宮崎県、のちの南那珂郡福島町[2]︵現串間市︶出身。1911年︵明治44年︶、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ[3]。1912年︵大正元年︶高等試験行政科に合格し、翌年に福岡県属警部となった。以後、同県警視、製鉄所副参事、同参事、農商務省工場監督官、同書記官・工場課長を歴任した[3]。1922年︵大正11年︶、国際労働会議政府代表道家斉の随員として渡欧[3]。国際労働機関に勤務し、第5回及び第6回国際労働会議の政府代表顧問を務めた[3]。 1924年︵大正13年︶に帰国し、社会局書記官、長野県警察部長に在勤。 1926年︵大正15年︶、長野県下の警察署の統廃合を契機に抗議運動が活発化︵いわゆる警廃事件︶。同年7月18日、群衆が県知事公舎や警察部長官舎を襲撃、官舎にいた竹下は下駄や棍棒などで殴打された[4]。同年8月、依願免官。 1928年︵昭和3年︶、台湾総督府社会課長、同地方課長を歴任し、勅任事務官に昇進した[3]。1932年︵昭和7年︶、台中州知事に就任し、1935年︵昭和10年︶には関東州庁長官に転じた[3]。 退官後の1939年︵昭和14年︶に貴族院議員に選出され、1947年︵昭和22年︶に貴族院が廃止されるまでその職にあった。同年の第1回参議院議員通常選挙に出馬し、当選[1]。第3回参議院議員通常選挙でも再選を果たした。その間、第2次吉田内閣で労働政務次官を務めた[1]。 1964年︵昭和39年︶秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章︵勲三等からの昇叙︶[5]。 1978年4月25日、老衰のため東京都世田谷区田園調布の自宅にて死去。91歳[6]。死没日をもって従四位から従三位に叙される[7]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 人事興信所編『人事興信録 第11版(下)』人事興信所、1937年。
- 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
関連項目[編集]
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