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細田 時以︵ほそだ ときより、天和2年︵1682年︶ - 元文2年9月1日︵1737年9月24日︶︶は、江戸時代の旗本。勘定奉行を務めた。
通称は弥三郎、官位は従五位下・丹波守。細田時矩の長男で、母は渡辺連の娘。子に細田時敏、娘︵梶正胤妻︶、娘︵村越勝令妻︶、娘︵牧野政邑妻︶[1]。
元禄12年︵1699年︶8月3日に勘定となり、廩米150俵を賜う。正徳4年︵1714年︶7月29日に金奉行に移り、正徳5年︵1715年︶12月18日に50俵を加増される。享保6年︵1721年︶9月22日に勘定組頭、享保8年︵1723年︶5月4日に勘定吟味役となり、享保14年︵1729年︶2月25日に300石を加増され、武蔵国埼玉郡・足立郡︵現在の埼玉県︶において500石を知行する。享保16年︵1731年︶10月1日より勘定奉行となり、12月23日に従五位下丹波守に叙任される。元文2年︵1737年︶9月1日に56歳で死去。法名は日樹[1]。
元文の改鋳[編集]
1716年、徳川幕府8代将軍に徳川吉宗が就任すると、一般的に享保の改革と言われる大規模な政治改革を始めた。中でも幕府財政の再建が非常に意図されており、検見法から定免法への移行・新田開発奨励などによる年貢増徴、また米価を調節するため、度々買米令を出して︵主に大坂の︶商人に米を買い占めさせ、米価の騰貴・安定を図った。
しかし、これらの緊縮財政は深刻な不況を招く。これを受け、元文元年5月12日︵1736年6月20日︶、時以は江戸南町奉行大岡忠相とともに、貨幣の改鋳(改悪)を主導した︵元文の改鋳︶[2][3]。交換比率が正徳金‥文字金=1:1.65, 正徳銀‥文字銀=1:1.5であったため通貨流通量が増大し、インフレーションに見舞われた後物価が安定した。