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﹃ 美 し き 青 き ド ナ ウ ﹄ と も 表 記 さ れ 、 ま た ﹁ 青 ﹂ で は な く ﹁ 碧 ﹂ と い う 漢 字 を 用 い る こ と が あ る 。 当 記 事 で は ﹃ ヨ ハ ン ・ シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 作 品 目 録 ﹄ ︵ 日 本 ヨ ハ ン ・ シ ュ ト ラ ウ ス 協 会 、 2 0 0 6 年 ︶ 記 載 の ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ に 従 う 。 オ ー ス ト リ ア で は 単 に ﹃ ド ナ ウ ・ ワ ル ツ ﹄ ︵ D o n a u w a l z e r [ 3 ] 、 D o n a u - W a l z e r [ 4 ] [ 注 釈 2 ] ︶ と 呼 ば れ る こ と も 多 い [ 7 ] 。
ち な み に 、 ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ と い う 邦 題 は 、 原 題 ﹁ A n d e r s c h ö n e n , b l a u e n D o n a u ﹂ の う ち の ﹁ An ︵ 英 語 の by に 相 当 ︶ ﹂ を 無 視 し た も の で 、 正 確 に 訳 す と ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ の ほ と り に [ 8 ] [ 9 ] ﹄ と い っ た 題 に な る 。 原 題 と 異 な る 邦 題 が 定 着 し て い る の は 日 本 だ け で は な く 、 た と え ば 英 語 圏 で は ﹃ T h e B l u e D a n u b e ︵ 青 き ド ナ ウ ︶ ﹄ と な っ て い る 。
1865年 初頭、シュトラウス2世は、ウィーン男声合唱協会 (ドイツ語版 ) から協会のために特別に合唱曲 を作ってくれと依頼された。この時シュトラウス2世は断ったが、次のように約束した。
「
今はできないことの埋め合わせを、まだ生きていればの話ですが、来年にはしたいと、ここでお約束します。尊敬すべき協会のためなら、特製の新曲を提供することなど、おやすい御用です[10] 。
」
約 束 の 1 8 6 6 年 、 新 曲 の 提 供 は さ れ な か っ た が 、 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は 合 唱 用 の ワ ル ツ の た め の 主 題 の い く つ か を ス ケ ッ チ し 始 め た [ 1 0 ] 。 1 8 6 7 年 、 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 に と っ て 初 め て の 合 唱 用 の ワ ル ツ が 、 未 完 成 で は あ っ た が 協 会 に よ う や く 提 供 さ れ た 。 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は ま ず 無 伴 奏 の 四 部 合 唱 を 渡 し て お い た が 、 そ の 後 、 急 い で 書 い た ピ ア ノ 伴 奏 部 を 次 の お 詫 び の 言 葉 と と も に さ ら に 送 っ た [ 1 0 ] 。
「
汚い走り書きで恐れ入ります。二、三分で書き終えないといけなかったものですから。ヨハン・シュトラウス[10] 。
」
シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 か ら ピ ア ノ 伴 奏 部 が 協 会 に 送 付 さ れ て き た と き 、 こ の 曲 に は 四 つ の 小 ワ ル ツ が ワ ン セ ッ ト に な っ て い て 、 そ れ に 序 奏 と 短 い コ ー ダ が 付 い て い た [ 1 0 ] 。 こ の 四 つ の 小 ワ ル ツ と コ ー ダ に 歌 詞 を 付 け た の は 、 ア マ チ ュ ア の 詩 人 で あ る ヨ ー ゼ フ ・ ヴ ァ イ ル ︵ ド イ ツ 語 版 ︶ と い う 協 会 関 係 者 で あ っ た [ 1 1 ] 。 歌 詞 を 付 け る 作 業 は 一 筋 縄 で は い か な か っ た 。 ヴ ァ イ ル が 四 つ の 小 ワ ル ツ に す で に 歌 詞 を 乗 せ た 後 で 、 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 が さ ら に 五 番 目 の 小 ワ ル ツ を 作 っ た か ら で あ る 。 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は ヴ ァ イ ル に 四 番 目 の 歌 詞 の 付 け 替 え と 、 五 番 目 の 小 ワ ル ツ の 歌 詞 、 コ ー ダ の 歌 詞 の 改 訂 を 要 求 し た [ 1 0 ] 。
普 墺 戦 争 の 勝 敗 を 決 し た ケ ー ニ ヒ グ レ ー ツ の 戦 い 。 こ こ で オ ー ス ト リ ア ・ ザ ク セ ン 連 合 軍 は プ ロ イ セ ン 軍 に 致 命 的 な 大 敗 北 を 喫 し た ︵ 1 8 6 6 年 7 月 3 日 ︶
普 段 の ヴ ァ イ ル は 警 察 官 と し て 働 く 人 物 で あ り 、 彼 の 詩 は 猥 雑 で 愉 快 な も の と し て 知 ら れ て い た [ 1 1 ] 。 前 年 の 1 8 6 6 年 に 普 墺 戦 争 が あ り 、 わ ず か 7 週 間 で プ ロ イ セ ン 王 国 と の 戦 い に 敗 れ た こ と に よ っ て 、 当 時 オ ー ス ト リ ア 帝 国 の 人 々 は み な 意 気 消 沈 し て い た 。 ヴ ァ イ ル は こ う し た 世 相 に お い て 、 プ ロ イ セ ン に 敗 北 し た こ と は も う 忘 れ よ う と 明 る く 呼 び か け る 内 容 の 愉 快 な 歌 詞 を 付 け た [ 1 2 ] [ 1 3 ] 。
(ドイツ語歌詞)B : Wiener, seid froh …T : Oho, wieso? B: No-so bli-ickt nur um - T: I bitt, warum? B: Ein Schimmer des Lichts … T: Wir seh'n noch nichts! B: Ei, Fasching ist da! T: Ach so, na ja! B: Drum trotzet der Zeit … T: (kläglich): O Gott, die Zeit … B: Der Trübseligkeit. T: Ah! Das wär' g'scheit! Was nutzt das Bedauern, das Trauern, Drum froh und lustig seid!
(日本語訳[12] [13] [14] ) ウィーンっ子よ、陽気にやろうぜ! おう、どうして? 見回してみろよ! だから、どうして? ほら、ほのかな光だ そんなもの、見えないぜ! ほら、謝肉祭 さ! ああ、そうだった! ご時世なんて気にするな… こんな、時世なんざ! 悲しんだって、どうしようもないさ そうだな、その通りよ! 苦しんだって、悩んだって、 何の役にも立ちゃしない だから、楽しく愉快にいこうぜ!
カール・イシドール・ベック (ドイツ語版 )
オーストリア=ハンガリー帝国 時代のドナウ川 (1890年 から1905年 の間に撮影)
協 会 の 記 録 や 議 事 録 、 パ ー ト 譜 の セ ッ ト や 1 8 6 7 年 2 月 15 日 以 前 の 新 聞 に は 、 ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ と い う 曲 名 は 一 切 出 て お ら ず [ 1 5 ] 、 初 演 の 直 前 に な っ て 曲 名 が 決 め ら れ た よ う で あ る [ 1 0 ] 。 最 終 的 に ハ ン ガ リ ー の 詩 人 カ ー ル ・ イ シ ド ー ル ・ ベ ッ ク ︵ ド イ ツ 語 版 ︶ の 作 品 ﹃ A n d e r D o n a u ﹄ の 一 節 を 曲 名 と し て 拝 借 す る こ と に な っ た が 、 誰 が こ の 曲 名 に 決 め た の か は 明 ら か で な い [ 1 5 ] 。
『An der Donau 』Und ich sah Dich reich an Schmerzen Und ich sah Dich jung und hold Wo die Treue wächst im Herzen Wie im Schacht das edle Gold, An der Donau,An der schönen, blauen Donau .
︵ 日 本 語 訳 [ 1 6 ] [ 1 7 ] [ 9 ] [ 1 8 ] ︶
憂 い に 満 ち た 君 が 見 え る 。
若 く 美 し い 君 が 見 え る 。
変 わ ら ぬ 思 い が 心 の 中 で 大 き く な っ て い く 、
高 貴 な る 黄 金 の ご と く 。
ド ナ ウ 川 の ほ と り で 、
美 し く 青 き ド ナ ウ の ほ と り で 。
ウ ィ ー ン か ら 眺 め る ド ナ ウ 川 の 色 は 、 濁 っ た 茶 色 か せ い ぜ い 深 緑 色 と い っ た と こ ろ で あ り 、 ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ と い う 曲 名 の イ メ ー ジ に は 程 遠 い [ 1 7 ] 。 ド ナ ウ 川 が 美 し い 青 色 に 見 え る の は ハ ン ガ リ ー 平 原 に 入 っ て か ら と い わ れ [ 1 7 ] 、 ベ ッ ク が ハ ン ガ リ ー 人 で あ る こ と か ら も 推 測 で き る が 、 こ の 詩 は そ も そ も ハ ン ガ リ ー ︵ お そ ら く 国 土 の 南 部 [ 1 8 ] ︶ を 流 れ る ド ナ ウ 川 の ほ と り を 舞 台 に し た 恋 の 詩 だ と 考 え ら れ て い る [ 1 7 ] [ 9 ] [ 注 釈 3 ] 。 ︵ も と も と は ウ ィ ー ン か ら 見 て も 綺 麗 な 川 だ っ た が 、 皇 帝 フ ラ ン ツ ・ ヨ ー ゼ フ 1 世 の 治 世 下 で 治 水 工 事 が 行 わ れ た 結 果 、 景 観 が す っ か り 変 わ っ て し ま っ た と す る 説 も あ る [ 1 9 ] ︶
シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 の 父 ヨ ハ ン ・ シ ュ ト ラ ウ ス 1 世 の ワ ル ツ ﹃ ド ナ ウ 川 の 歌 ﹄ ︵ 作 品 1 2 7 ︶ の 旋 律 が 、 こ の ワ ル ツ に 似 て ﹁ ソ ・ ド ・ ミ ・ ソ ・ ソ ﹂ で 始 ま る こ と も 、 ド ナ ウ 川 に 関 す る 曲 名 に 決 ま っ た 理 由 の 一 つ だ と 指 摘 さ れ る [ 2 0 ] 。 お そ ら く 、 ﹃ ド ナ ウ 川 の 歌 ﹄ の お か げ で ま ず ド ナ ウ の 題 名 と す る こ と が 決 ま り 、 そ し て ベ ッ ク の 詩 の 一 節 か ら ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ に 決 ま っ た の で あ ろ う 。 い ず れ に せ よ 、 歌 詞 が 先 行 し て 付 け ら れ 、 最 後 の 土 壇 場 で 歌 詞 と は ま っ た く 無 関 係 な 曲 名 が 付 け ら れ た と い う こ と は 疑 い よ う が な い 。 な ぜ な ら ば 、 初 演 の 直 前 ま で ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ と い う 曲 名 が 出 て こ な い の に 加 え て 、 ヴ ァ イ ル の 歌 詞 に は ﹁ ド ナ ウ ﹂ と い う 文 字 が 一 度 た り と も 出 て こ な い [ 1 5 ] [ 1 7 ] [ 1 4 ] か ら で あ る 。
初演時のプログラム。「宮廷舞踏会音楽監督 ヨハン・シュトラウスによる合唱とオーケストラのためのワルツ。ウィーン男声合唱協会 (ドイツ語版 ) に献呈(新曲)[15] 」
「
ワルツは迫力不十分だったかもしれない。しかし合唱曲を作ろうとして、その声楽パートを考えるとき、ダンスのことばかり念頭に置くわけにもいかない。聴衆が私からなにか違ったものを期待していたとしたら、このワルツはそうそう客を満足させてやれないよ[22] 。
」
男 声 合 唱 協 会 が こ の ワ ル ツ を 歌 っ た の は 、 そ の 後 の 23 年 間 で わ ず か 7 回 だ け で あ っ た [ 2 3 ] 。 敗 戦 を 受 け て 付 け ら れ た 風 刺 的 な 歌 詞 は 、 時 が 経 っ て ウ ィ ー ン 市 民 が 敗 戦 の シ ョ ッ ク か ら 立 ち 直 る に つ れ て 時 代 に 合 わ な く な っ た の で あ る [ 2 3 ] 。 2 月 15 日 の 初 演 は 失 敗 で は な か っ た も の の 、 大 成 功 を 収 め た と は 到 底 い え な か っ た 。 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は と り あ え ず 合 唱 版 か ら 長 い コ ー ダ を 省 き 、 3 月 10 日 に フ ォ ル ク ス ガ ル テ ン ︵ ド イ ツ 語 版 ︶ で オ ー ケ ス ト ラ の み の 版 を 初 演 し た [ 2 2 ] 。
ヨハン・シュトラウス2世 (1867年 、パリ において撮影)
1 8 6 7 年 4 月 、 パ リ 万 博 が 開 催 さ れ る と 、 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は 弟 の ヨ ー ゼ フ と エ ド ゥ ア ル ト に ウ ィ ー ン を 任 せ て 単 身 パ リ に 向 か っ た 。 そ し て 万 博 会 場 に お い て し ば ら く 遠 ざ か っ て い た ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ を 演 奏 す る と 、 今 度 は 期 待 以 上 に 高 い 評 価 を 受 け た [ 2 5 ] 。 5 月 28 日 、 パ リ の オ ー ス ト リ ア 大 使 館 で の イ ベ ン ト で は 、 臨 席 し た フ ラ ン ス 皇 帝 ナ ポ レ オ ン 3 世 か ら も 賞 賛 を 受 け た と い う 。 ジ ュ ー ル ・ バ ル ビ エ ︵ フ ラ ン ス 語 版 ︶ に よ っ て フ ラ ン ス 語 の 新 し い 歌 詞 が 贈 ら れ 、 や が て 人 々 は こ の 歌 詞 を 口 ず さ む ほ ど に な っ た [ 2 5 ] 。 こ の パ リ で の 大 成 功 の 後 、 8 月 上 旬 に シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は ロ ン ド ン に 渡 っ た が 、 こ ち ら で も パ リ と 同 様 に 絶 賛 さ れ た 。 ま た 、 こ う し た 評 判 が ウ ィ ー ン に も 届 く と ウ ィ ー ン で も 演 奏 さ れ る よ う に な り 、 た ち ま ち 世 界 各 地 で 演 奏 さ れ る よ う に な っ た 。
各 国 ご と に 大 量 の 楽 譜 が 印 刷 さ れ 、 そ の い ず れ も が 好 調 な 売 り 上 げ を 記 録 し た [ 2 6 ] 。 当 時 シ ュ ト ラ ウ ス 一 家 の 楽 譜 出 版 を 一 手 に 担 っ て い た C . A . シ ュ ピ ー ナ 社 は 、 一 万 部 印 刷 可 能 な 銅 板 を ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ の た め に 1 0 0 枚 も 必 要 と し た と い う [ 2 7 ] 。 こ れ は ラ ジ オ 誕 生 以 前 の 楽 譜 の 売 れ 行 き と し て は 最 高 の 数 字 で あ っ た [ 2 7 ] 。 シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 は 演 奏 旅 行 の 際 に は 必 ず こ の 曲 を 披 露 す る よ う に な っ た [ 2 6 ] 。 1 8 7 2 年 6 月 17 日 に シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 を 招 い て ア メ リ カ 合 衆 国 ボ ス ト ン で 催 さ れ た ﹁ 世 界 平 和 記 念 国 際 音 楽 祭 ︵ 英 語 版 ︶ ﹂ で は 、 2 万 人 も の 歌 手 、 1 0 0 0 人 の オ ー ケ ス ト ラ 、 さ ら に 1 0 0 0 人 の 軍 楽 隊 に よ っ て 、 10 万 人 の 聴 衆 の 前 で こ の ワ ル ツ も 演 奏 さ れ た [ 2 8 ] 。
日 増 し に 高 ま る 名 声 を 受 け て 、 初 演 か ら 7 年 後 ︵ 1 8 7 4 年 か ︶ 、 エ ド ゥ ア ル ト ・ ハ ン ス リ ッ ク は こ う 論 評 し て い る 。
「
皇帝と王室を祝ったパパ・ハイドンの国歌 と並んで、わが国土と国民を歌ったもう一つの国歌、シュトラウスの『美しき青きドナウ(ママ)』ができたわけだ[22] 。
」
新版のピアノ譜表紙絵。右側にフランツ・フォン・ゲルネルト (ドイツ語版 ) の名前があるため、1890年 以後の出版である
こ の ハ ン ス リ ッ ク の 論 評 は 、 歌 詞 の 内 容 を ま っ た く 考 慮 し て い な い 、 曲 名 と メ ロ デ ィ ー だ け を 評 価 し た も の で あ っ た が 、 や が て ﹁ 国 歌 ﹂ に ふ さ わ し い 歌 詞 が 伴 う よ う に な る 。 1 8 9 0 年 、 フ ラ ン ツ ・ フ ォ ン ・ ゲ ル ネ ル ト ︵ ド イ ツ 語 版 ︶ に よ る 現 行 の 歌 詞 に 改 訂 さ れ た の で あ る [ 2 2 ] [ 2 9 ] 。 ゲ ル ネ ル ト も や は り ヴ ァ イ ル と 同 様 に ウ ィ ー ン 男 声 合 唱 協 会 の 会 員 で 、 彼 は 作 曲 や 詩 作 を た し な む 裁 判 所 の 判 事 で あ っ た [ 1 8 ] 。 新 た に 付 け ら れ た 歌 詞 は 、 か つ て ヴ ァ イ ル が 付 け た も の と は ま っ た く 異 な る 荘 厳 な 抒 情 詩 で あ っ た [ 3 0 ] 。
(ドイツ語)Donau so blau, so schön und blau durch Tal und Au wogst ruhig du hin, dich grüßt unser Wien, dein silbernes Band knüpft Land an Land, und fröhliche Herzen schlagen an deinem schönen Strand.
︵ 日 本 語 訳 [ 3 0 ] [ 2 9 ] [ 7 ] ︶
い と も 青 き ド ナ ウ よ 、
な ん と 美 し く 青 い こ と か
谷 や 野 を つ ら ぬ き 、
お だ や か に 流 れ ゆ き 、
わ れ ら が ウ ィ ー ン に 挨 拶 を 送 る 、
汝 が 銀 色 の 帯 は 、
国 と 国 と を 結 び つ け 、
わ が 胸 は 歓 喜 に 高 鳴 り て 、
汝 が 美 し き 岸 辺 に た た ず む 。
改 訂 新 版 が 初 め て 歌 わ れ た の は 1 8 9 0 年 7 月 2 日 で [ 1 8 ] 、 こ の 後 広 く ﹁ ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 第 二 の 国 歌 ﹂ と 呼 ば れ る よ う に な っ た [ 2 6 ] 。 ウ ィ ー ン を 流 れ る ド ナ ウ 川 を ヨ ー ロ ッ パ の 国 々 に 繋 が る 一 本 の 帯 に 見 立 て た 、 国 土 を 謳 う 立 派 な 歌 詞 が 付 け ら れ た こ と で 、 こ の ワ ル ツ は ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 お よ び そ の 帝 都 ウ ィ ー ン を 象 徴 す る 曲 に 生 ま れ 変 わ っ た の で あ る 。 合 唱 団 は い ず れ も こ の 新 し い 歌 詞 の ほ う を 好 み 、 ヴ ァ イ ル に よ る 歌 詞 は 歌 わ れ な く な っ た [ 2 6 ] [ 7 ] 。 現 行 の 歌 詞 は 、 ウ ィ ー ン 少 年 合 唱 団 に よ る 歌 唱 で も 有 名 で あ る 。
オ ー ス ト リ ア で は 帝 政 が 廃 止 さ れ た 後 、 ハ イ ド ン に よ る 皇 帝 讃 歌 ﹃ 神 よ 、 皇 帝 フ ラ ン ツ を 守 り 給 え ﹄ か ら 別 の 国 歌 に 変 更 さ れ 、 さ ら に 紆 余 曲 折 を 経 て 1 9 4 6 年 に は ︵ か な り 疑 わ し い が ︶ モ ー ツ ァ ル ト の 作 品 と さ れ る ﹃ 山 岳 の 国 、 大 河 の 国 ﹄ に 変 更 さ れ た 。 そ の 一 方 で ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ は 、 オ ー ス ト リ ア = ハ ン ガ リ ー 帝 国 時 代 と 変 わ ら ず ﹁ 第 二 の 国 歌 ﹂ と し て の 立 ち 位 置 を 維 持 し た 。 1 9 4 5 年 4 月 に オ ー ス ト リ ア は ナ チ ス ・ ド イ ツ 支 配 か ら 解 放 さ れ た が 、 独 立 後 の 国 歌 が 未 定 だ っ た こ と か ら 、 オ ー ス ト リ ア 議 会 は と り あ え ず 正 式 な 国 歌 が 決 ま る ま で の 代 わ り と し て ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ を 推 奨 し た 。
戦 後 20 年 ほ ど が 経 過 し た 1 9 6 4 年 、 ウ ィ ー ン ・ フ ィ ル ハ ー モ ニ ー 管 弦 楽 団 と と も に テ ア ト ロ ・ コ ロ ン へ 客 演 旅 行 に 出 た カ ー ル ・ ベ ー ム は 、 最 後 の 演 奏 会 で ﹁ こ こ で 我 々 は 感 謝 の た め に さ ら に オ ー ス ト リ ア 国 歌 を 演 奏 い た し ま す ﹂ と 述 べ て 、 国 歌 と 聞 い て 反 射 的 に 起 立 し た 聴 衆 の 前 で ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ を 演 奏 し た [ 3 1 ] 。 ベ ー ム は こ の 曲 の こ と を の ち に 出 版 し た 回 想 録 の な か で も ﹁ 三 拍 子 の オ ー ス ト リ ア 国 歌 ﹂ と 表 現 し て い る 。 現 在 の オ ー ス ト リ ア で も 、 こ の ワ ル ツ は 依 然 と し て ﹁ 第 二 の 国 歌 ﹂ と 呼 ば れ 続 け て い る 。
シュトラウス2世とブラームス (1894年 撮影)
シュトラウス2世の親友であったブラームス は、このワルツの讃美者だったことで知られる。シュトラウス2世の継娘アリーチェ[注釈 6] から彼女の扇子にサインを求められた際、ブラームスはこの『美しく青きドナウ』の冒頭の数小節を書き[32] [33] 、その下にこう書き添えた。
上 の ブ ラ ー ム ス の 言 葉 は 非 常 に 有 名 な も の で あ る が 、 そ の 他 に も こ の ワ ル ツ を 讃 え る ブ ラ ー ム ス の 言 動 が い く つ か 伝 わ っ て い る 。 ブ ラ ー ム ス は シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 夫 人 ア デ ー レ に 写 真 を 贈 っ た 際 、 写 真 の 裏 に 自 分 の ﹃ 交 響 曲 第 4 番 ﹄ の 最 初 の 数 小 節 を 書 き 、 さ ら に 対 位 法 で ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ の 冒 頭 を 組 み 合 わ せ て 書 き 、 自 分 と シ ュ ト ラ ウ ス 2 世 の 芸 術 の 結 び つ き を 示 し た と い う 逸 話 が あ る [ 3 2 ] 。
1 8 9 2 年 、 プ ラ ー タ ー 公 園 に お い て ﹁ ウ ィ ー ン 国 際 音 楽 演 劇 博 覧 会 ﹂ が 開 催 さ れ る こ と と な り 、 ブ ラ ー ム ス は 開 催 委 員 会 か ら 祝 祭 カ ン タ ー タ の 作 曲 を 持 ち か け ら れ た 。 こ の と き 彼 は ﹁ イ ベ ン ト 関 係 に は 関 わ り た く な い ﹂ と い う 理 由 で 、 自 分 で は な く ブ ル ッ ク ナ ー を 推 薦 し た [ 3 4 ] [ 注 釈 7 ] 。 ブ ル ッ ク ナ ー を 推 薦 し た 一 方 で 、 ブ ラ ー ム ス は こ の 祝 祭 カ ン タ ー タ に つ い て 大 真 面 目 に こ う 提 案 し た と い う 。
「
≪美しく青きドナウ≫に美しい文学的な詩をつけて混声合唱 用に編曲する。どうだ良いだろう[34] 。
」
「
ワルツは、あらゆる作曲家を誘惑する形式だ。だが成功したのはほんの一握りの作曲家だけだ。モーツァルトはレントラー を作曲したが、これはもうウィーン風のワルツ。ベートーヴェン が作曲したのはドイツ舞曲だ。そしてもちろんシューベルト 、シューマン 、ブラームス、シャブリエ 、ドビュッシー も作曲した。だがほんとうに成功したのはだれだろう。それはヨハン・シュトラウスただひとりだ。彼は奇跡的に、みなが書きたいと思ったワルツを作曲し得たのだ。≪美しく青きドナウ≫だよ[36] 。
」
序奏部分のピアノ譜
ア ン ダ ン テ ィ ー ノ 、 イ 長 調 、 8 分 の 6 拍 子
ト レ モ ロ に 乗 せ て 、 の ち に 登 場 す る ﹁ ド ・ ミ ・ ソ ・ ソ ﹂ と い う ワ ル ツ の 主 旋 律 が ゆ る や か に 示 さ れ る [ 1 6 ] 。 ニ 長 調 、 4 分 の 3 拍 子 の ﹁ テ ン ポ ・ デ ィ ・ ヴ ァ ル ス ﹂ に 移 り 、 ﹁ ワ ル ツ ﹂ 部 分 が 準 備 さ れ る [ 1 6 ] 。 ド ナ ウ 川 の 穏 や か な 流 れ を 思 わ せ る こ の 序 奏 の メ ロ デ ィ ー は 特 に 有 名 な 部 分 で あ り 、 オ ー ス ト リ ア の 人 々 の 挨 拶 ︵ グ リ ュ ー ス ゴ ッ ト [ 注 釈 8 ] ︶ の 代 わ り に も な っ た ほ ど で あ る [ 3 8 ] [ 1 9 ] 。
序奏の続きと第1ワルツ
第1ワルツの最初の数小節(作曲者の自筆・署名入り)
ニ 長 調 、 二 部 形 式 ︵ A ・ A ’ | | : B : | | ︶
A の 中 心 と な る の は 次 の 楽 譜 の 部 分 で あ る 。 ﹁ ド ・ ミ ・ ソ ・ ソ ﹂ と い う メ ロ デ ィ ー か ら 始 ま る こ の 第 1 ワ ル ツ は 、 曲 全 体 の な か で も 特 に よ く 知 ら れ る 部 分 で あ る 。
Aパート
続くBではイ長調に移り、次の部分が中心となる。
Bパート
第1ワルツの続きと第2ワルツ
ニ 長 調 、 三 部 形 式 ︵ | | : A : | | B ・ A | | ︶
A は 歯 切 れ の よ い 次 の 楽 譜 に 始 ま る 。
Aパート
Bはいきなり三度の転調をおこなって変ロ長調 に移行し、流れるようなメロディーが奏でられる[39] 。
Bパート
第3ワルツ
ト 長 調 、 二 部 形 式 ︵ | | : A : | | : B : | | ︶
A は 次 の 楽 譜 に 始 ま る 。
Aパート
Bは転調することなく、速度をヴィヴァーチェ に速める[39] 。
Bパート
第4ワルツ
ヘ 長 調 、 二 部 形 式 ︵ | | : A : | | : B : | | A ︶
転 調 の た め に 4 小 節 か ら な る 経 過 句 が 挟 ま れ 、 そ れ に 続 い て A の 主 旋 律 が 奏 で ら れ る [ 3 9 ] 。
経過句、Aパート
Bはフルート を用いて演奏される[39] 。次の楽譜が中心となっている。
Bパート
第5ワルツ
イ長調 、二部形式(A||:B・B’:||)
経過部
ヘ長調から経過部を通って、イ長調に移行し、Aに入る[39] 。
Aパート
Bは次の楽譜を中心とした、活発な部分である。
Bパート
一 般 的 に は 、 ﹁ 第 3 ワ ル ツ ﹂ の A の 音 型 に 導 か れ て ﹁ 第 2 ワ ル ツ ﹂ の A が ニ 長 調 で 示 さ れ 、 続 い て ﹁ 第 4 ワ ル ツ ﹂ の A が ヘ 長 調 で 奏 で ら れ 、 最 後 に ﹁ 第 1 ワ ル ツ ﹂ の 主 旋 律 が ニ 長 調 で 現 れ て 、 変 化 が 激 し い 結 び の 句 に 移 っ て 力 強 く 終 わ る [ 3 9 ] 。
合 唱 版 で は 、 ﹁ 第 5 ワ ル ツ ﹂ の B か ら い き な り 力 強 い 結 び に 入 り 、 す ぐ に 終 わ る [ 3 9 ] 。
ニューイヤーコンサート2012の『美しく青きドナウ』バレエ(画像はリハーサル時のもの)
大 晦 日 か ら 新 年 に 代 わ る と き 、 公 共 放 送 局 で あ る オ ー ス ト リ ア 放 送 協 会 は 、 シ ュ テ フ ァ ン 大 聖 堂 の 鐘 の 音 に 続 い て こ の ワ ル ツ を 放 映 す る の が 慣 例 と な っ て い る [ 2 ] 。 そ れ に 続 い て 元 日 正 午 か ら 始 ま る ウ ィ ー ン ・ フ ィ ル ハ ー モ ニ ー 管 弦 楽 団 の ニ ュ ー イ ヤ ー コ ン サ ー ト で は 、 3 つ の ア ン コ ー ル 枠 の う ち の 2 番 目 と し て こ の ワ ル ツ を 演 奏 す る の が 通 例 で あ る [ 2 ] [ 注 釈 9 ] 。 つ ま り オ ー ス ト リ ア で は 毎 年 元 日 に 少 な く と も 2 回 は ﹃ 美 し く 青 き ド ナ ウ ﹄ が 公 共 放 送 か ら 流 れ て く る の を 聴 く こ と が で き る 。 ニ ュ ー イ ヤ ー コ ン サ ー ト で は 、 序 奏 部 を 少 し だ け 演 奏 し た 後 、 聴 衆 の 拍 手 に よ っ て 一 旦 打 ち 切 り 、 指 揮 者 や 団 員 の 新 年 の 挨 拶 が 続 く と い う 習 慣 と な っ て い る [ 2 ] 。
父 シ ュ ト ラ ウ ス 1 世 の ﹃ ラ デ ツ キ ー 行 進 曲 ﹄ も 同 コ ン サ ー ト を 締 め く く る 定 番 の 曲 で あ る が 、 こ ち ら も 国 家 的 な 行 事 や 式 典 で た び た び 演 奏 さ れ る 曲 で あ る 。 こ れ ら 二 つ の 曲 が 同 コ ン サ ー ト に き ま っ て 取 り 上 げ ら れ る の は 、 た だ 人 気 が 高 い か ら と い う だ け の 理 由 で は な く 、 オ ー ス ト リ ア を 象 徴 す る 曲 だ と い う こ と も 大 き な 理 由 な の で あ る 。 ち な み に 、 カ ラ ヤ ン と ケ ン ペ は ス テ レ オ 初 期 に ウ ィ ー ン ・ フ ィ ル を 指 揮 し て 録 音 し た ﹁ シ ュ ト ラ ウ ス ・ ア ル バ ム ﹂ に 、 こ の 曲 を 含 め て い な い 。
日 本 に お い て は 、 京 都 市 交 響 楽 団 な ど が ニ ュ ー イ ヤ ー コ ン サ ー ト で 演 奏 す る 事 も 多 い 。 近 年 は 特 に 京 都 市 少 年 合 唱 団 と の 共 演 で 行 な っ て い る 事 も 少 な く な い 。
(一) ^ 管 弦 楽 法 に つ い て は 後 期 作 品 ほ ど の 巧 緻 さ は な く 、 日 本 で も 吉 田 秀 和 や 宇 野 功 芳 ら が そ の 単 純 さ を 指 摘 す る 一 文 を 書 い て い る が 、 こ の 曲 は そ も そ も が 合 唱 曲 だ っ た の で あ る 。 ま た 、 録 音 を 残 さ な か っ た フ ル ト ヴ ェ ン グ ラ ー の ほ か 、 ク レ ン ペ ラ ー 、 シ ュ ー リ ヒ ト 、 ク ナ ッ パ ー ツ ブ ッ シ ュ が こ の 曲 を 外 し た ウ イ ン ナ ワ ル ツ 集 を 録 音 し て お り 、 カ ラ ヤ ン も 一 度 ウ ィ ー ン フ ィ ル と 同 様 の 試 み を 行 っ て い る 。
(二) ^ D u d e n の 定 め る 正 書 法 に よ れ ば 、 地 名 を 含 む 合 成 語 で は ハ イ フ ン を 入 れ な い の が 通 則 だ が 、 場 合 に よ っ て は ハ イ フ ン で 繋 い で も よ い [ 5 ] [ 6 ] 。
(三) ^ た だ し 、 ベ ッ ク は ハ ン ガ リ ー で 生 ま れ ウ ィ ー ン で 没 し て い る [ 1 4 ] 。
(四) ^ 普 墺 戦 争 で オ ー ス ト リ ア 側 に つ い た こ と に よ っ て ハ ノ ー フ ァ ー は 1 8 6 6 年 9 月 に プ ロ イ セ ン に 併 合 さ れ 、 ハ ノ ー フ ァ ー 国 王 ゲ オ ル ク 5 世 と そ の 家 族 や 臣 下 は み な オ ー ス ト リ ア に 逃 れ て い た 。
(五) ^ の ち に オ ペ レ ッ タ ﹃ ジ プ シ ー 男 爵 ﹄ の 台 本 を 書 い た 人 物 で あ る 。
(六) ^ ア リ ス と も 。 の ち に 画 家 フ ラ ン ツ ・ フ ォ ン ・ バ イ ロ ス の 妻 と な る 。
(七) ^ ブ ル ッ ク ナ ー は こ の 嘱 託 を 受 け て ﹃ 詩 篇 第 1 5 0 番 ﹄ を 作 曲 し た [ 3 4 ] 。
(八) ^ ﹁ 神 が あ な た に 挨 拶 し ま す よ う に ﹂ の 意 。 カ ト リ ッ ク 教 会 へ の 信 仰 が 根 強 い オ ー ス ト リ ア や バ イ エ ル ン な ど の 南 ド イ ツ 地 方 で は 、 ﹁ こ ん に ち は ﹂ の こ と を ﹁ グ ー テ ン タ ー ク ﹂ で は な く こ う 言 う 。
(九) ^ 始 ま っ た ば か り の 頃 に は 演 奏 さ れ な い 年 も あ っ た 。 具 体 的 に は 、 1 9 3 9 年 、 1 9 4 1 年 、 1 9 4 2 年 、 1 9 4 3 年 、 1 9 4 4 年 、 1 9 4 7 年 、 1 9 5 6 年 の 7 回 。 1 9 5 7 年 か ら は 毎 年 欠 か さ ず 演 奏 さ れ て い る 。 ︵ 2 0 1 6 年 現 在 ︶