肥前高木氏
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肥前高木氏(ひぜんたかぎし)は、肥前国国府の南郊の佐嘉郡高木村から出た豪族で、藤原北家の後裔と称した[1]。
解説
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﹁刀伊の入寇﹂を撃退するのに活躍した大宰権帥藤原隆家の曾孫とされる肥後守・文貞︵文定︶のとき高木氏を称する。庶家は菊池氏、於保氏、龍造寺氏、上妻氏、赤司氏、肥前井上氏、草野氏︵嵯峨源氏出自説もあり︶などのの諸氏が分出したと伝わる。
宗家は源平合戦に際しで源氏方に立ち、文治二年︵1186︶8月、源頼朝から本領の佐嘉郡深溝北郷内甘南備の地頭職に補任され、御家人となる。鎌倉時代には肥前国一宮の河上社の大宮司職を相伝し、免田の給主として、神事や造営に努めた。勢力が拡大するにつれて、同社座主職との対立が激しくなったと伝える。
高木氏はこの地方で有力であったため、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての使節としての史料が多く、公的立場で所両の遵請行に関与していたことが見て取れる。河上社大宮司としては南北朝時代中期までで、それ以後、大宮司職は千葉氏︵東国御家人系︶によって代わられたため一在地領主となり、その勢力は衰退していった。