葉挺
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葉挺 | |
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![]() 新四軍軍長時代の葉挺 | |
プロフィール | |
出生: |
1896年9月10日 (清光緒22年8月初4日) |
死去: |
1946年(民国35年)4月8日![]() |
出身地: |
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職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 葉挺 |
簡体字: | 叶挺 |
拼音: | Yè Tǐng |
ラテン字: | Yeh T'ing |
和名表記: | よう てい |
発音転記: | イェー・ティン |
葉 挺︵よう てい、イェー・ティン、1896年9月10日 - 1946年4月8日︶は、中華民国の軍人。南方政府、国民政府︵国民革命軍︶の軍人で、粤軍︵広東軍︶出身。はじめは中国国民党、後に中国共産党に属した。南昌起義の主導者、新四軍軍長として著名である。原名は詢。字は希夷。
事跡[編集]
初めは恵陽県中等蚕業学校︵養蚕業の専門学校︶で学んでいた。しかし、転じて広州陸軍小学に入学した。 1914年︵民国3年︶12月、湖北陸軍第二予備学校に入学する。1916年︵民国5年︶より保定陸軍軍官学校工兵科で学んだ。民国7年︵1918年︶、南方へ向かって粤軍︵広東軍︶に加入する。1919年︵民国8年︶、中国国民党に入党した。以後、順調に昇進し、1923年︵民国12年︶3月、憲兵司令部参謀長兼第1営営長に就任した。 1924年︵民国13年︶秋にソ連を訪れる。東方大学に入学し、あわせて中国共産党に入党した。1925年︵民国14年︶秋に帰国し、国民革命軍第4軍参謀処長に就任した。その後、第4軍第12師第34団団長に就任する。さらに同団は独立団に改組され、引き続き団長を務めた。1926年︵民国15年︶5月、葉挺の独立団は北伐先遣隊の任務を受け、同年8月の湖北省での呉佩孚軍との戦いで軍功をあげた。これにより、第4軍が﹁鉄軍﹂と呼ばれる栄誉を受ける上で貢献した。 1927年︵民国16年︶に武漢国民政府が成立してからは、第4軍第24師師長、第11軍副軍長、武漢衛戍司令などを歴任した。しかし同年8月1日、南昌起義を主導して、共産党として蜂起し、国民革命軍から離脱した。12月、共産党の広州起義にも参加したが、失敗に終わり、欧州へ逃れた。これにより、葉挺と共産党との関係は、しばらく途切れてしまう。 1937年︵民国26年︶、日中戦争が全面勃発すると、葉挺は帰国し、抗戦に参加した。同年10月、葉挺は新編第4軍︵いわゆる新四軍︶軍長に任命され、華中で転戦する。しかし、新四軍は紅軍主体の軍勢であったため、蔣介石から猜疑を受けるようになってしまう。そして1941年︵民国29年︶1月14日、安徽省南部で、新四軍は国民党の大軍に包囲攻撃されてほぼ殲滅される。葉挺は捕虜となり、副軍長項英は戦死した︵皖南事変︶。 以後、葉挺は各地で拘禁され続け、1946年︵民国35年︶3月4日に、重慶でようやく釈放された。その3日後に葉挺は共産党に再入党している。しかし同年4月8日、葉挺は、王若飛、博古、鄧発らとともに空路で延安に戻る途中、乗っていた飛行機が山西省興県黒茶山附近で墜落して死亡した。享年51︵満49歳︶。顕彰[編集]
中国人民解放軍陸軍第379連隊は、葉挺が指揮した独立団をルーツとし、栄誉称号﹁葉挺独立団﹂を有する。同連隊の所属する第127師団は、﹁鉄軍﹂の称号を継承している。参考文献[編集]
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。