藤山竹一
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Fujiyama_Takeichi.jpg/200px-Fujiyama_Takeichi.jpg)
藤山 竹一︵ふじやま たけいち、1885年︵明治18年︶12月[1] - 1930年︵昭和5年︶2月12日[2]︶は、佐賀県出身の日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。板垣退助伯爵彰徳会(日光板垣会)初代名誉会長。
来歴
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佐賀県出身。大地主・藤山ミスの三男として生まれた[1]。第五高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科︵独法︶を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる[1][3]。
1911年4月、富山県試補となる。以後、同事務官補、同教育課長、同警視・警察部警務課長、和歌山県理事官・学務課長、同視学官などを経て、1918年1月、福島県警察部長に就任。1919年6月に休職。1920年9月、長崎県警察部長となる。その後、福岡県警察部長を経て山口県内務部長に転任[1]。
1927年(昭和2年)5月、大分県知事に就任。政友会色の強い県政運営を行い、農山漁村の振興、道路網の整備に力を注いだ[1]。1928年(昭和3年)6月、栃木県知事に転任。同12月、栃木県日光町に﹁板垣退助伯爵彰徳会﹂が設立され、名誉会長に藤山竹一栃木県知事、会長は日光町長、評議員に輪王寺門跡、日光東照宮宮司、二荒山神社宮司、日光町助役、日光精銅所長ら16名が名を連ねた[4]。
今日、世界の日光たるを得しめたるは、維新当時の官軍の主将・板垣退助氏の敬虔なる態度と周到なる措置とに由来することを、我等は追慕の念慮と感謝の誠意とを以て永久に忘れることが出来ないのである。︵中略︶明治維新の後に於ける政党の領袖、民権の首導者として隠れなき板垣伯は、一面武将として、精神家として、亦、特に世界の名勝たる我が日光にかうした尊き事跡を残されてゐる。︵中略︶郷土、人士さへこの社廟保護と日光発展の上に、斯くの如き人傑の偉力が注がれてゐることを熟知する者は比較的少数であることを思ふと洵に遺憾に堪へぬ[5]。(板垣退助伯爵彰徳会設立趣意書[5])
前任地の大分県とは異なり、公平な県政を行うことを表明したが、県会での政友会、民政党の勢力争いにより、1929年(昭和4年)、栃木県選出の民政党所属帝国議会議員が、﹁知事に対する誹謗質問書﹂を議会に提出した事件が起こった[6]。同年7月、休職[7]となり、同年に退官した[3]。
1930年(昭和5年)2月12日逝去。
補註
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。