西村総左衛門
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西村 総左衛門︵總左衛門、にしむら そうざえもん、1855年7月8日︵安政2年5月25日[1][2]︶ - 1935年︵昭和10年︶5月16日[2]︶は、明治から昭和時代前期にかけての染色家。千總当主。本姓は三国、名は直篤[2]。
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︽天鵞絨友禅嵐図壁掛︾1903︵明治36︶年 (三の丸尚蔵館蔵)。 第5回内国勧業博覧会出品。原画‥木島桜谷。
特に、絵画・室内装飾品としてそのまま通用する美術染織品は、明治政府が輸出産業として奨励したため、総左衛門も新時代を生き延びる手段として意欲的に取り組む。大半が輸出されたが、傷みやすい絹糸を使用しているため、良い状態で保存された作品は少ない。金糸と絹糸をふんだんに使った豪華な刺繡絵﹁孔雀図刺繡屏風﹂(四曲一隻屏風、172cm×264cm、推定創作年代1900~10年頃、京都国立近代美術館蔵)は、現存する貴重な総左衛門作品の一つである[7]。
経歴[編集]
三国幽眠の三男として京都に生まれる[1]。1872年︵明治5年︶に先代西村総左衛門の養子となり、1891年︵明治24年︶家督を継いで襲名[1][3]、京都の呉服商千切屋の分家千總店主となる[2]。千切屋一門の系図によると、始祖である本家の与三右衛門から数えると12代目だが、分家した西村総左衛門︵そうの字は宗、惣あり︶としては9代目となる[4]。 明治初期、岸竹堂、今尾景年らに下絵を依頼し京友禅の振興を図った[2]。ほか、ビロード友禅や無線友禅を考案し、国内外へ広く紹介した[2][5]。 明治末期には京都市内に2店舗を構え、南店では友禅染の製造卸販売、北店ではビロード友禅(ビロード生地に友禅染の技法で図柄を施す)など室内装飾用の織物製造販売輸出を営み、宮内省の御用を受けるなど成功を収めた[6]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Veludo_Y%C5%ABzen_Arashi_Zu_Kabekake.jpg/200px-Veludo_Y%C5%ABzen_Arashi_Zu_Kabekake.jpg)
親族[編集]
●実父の三国幽眠は越前三国の儒者。実家は豪商。 ●養子の總太郎︵1890-1955︶は京都の大橋孝七の次男で、1911年に養子となり、1940年に家督を継ぎ、西村総左衛門を襲名[8]。その妻・タカは髙島屋社長・飯田新七4代目の姪。娘婿に田中源太郎の孫・田中磐男︵1910-1999︶を迎え、家督を譲った。磐男の実父・田中一馬は源太郞の長男で[9]、実母・ゑんは内貴甚三郎の娘[10]。脚注[編集]
(一)^ abc清田 1915, 特71頁.
(二)^ abcdef上田ほか 2001, 1441頁.
(三)^ 西村總左衛門﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
(四)^ 千吉商店の歴史ちおん舎
(五)^ 中川麻子﹁︽美術染織︾概念の成立経緯﹂﹃デザイン学研究﹄第58巻第6号、日本デザイン学会、2012年3月、51-60頁、doi:10.11247/jssdj.58.6_51、ISSN 09108173、NAID 10030136788。
(六)^ ﹃開国五十年史:附録﹄開国五十年史発行所, 1908、p325、千切屋織物店
(七)^ 日本経済新聞・2021年1月24日(日)第14-15面﹁美の粋 万国博覧会と美術(3) 美術染織 京都の技 結集﹂(文・岩本文枝)。
(八)^ 西村総左衛門﹃人事興信録. 第12版下﹄1940
(九)^ 田中一馬﹃人事興信録﹄第8版 [昭和3(1928)年7月]
(十)^ 内貴清兵衞﹃人事興信録﹄第8版 [昭和3(1928)年7月]