谷口謙
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谷口 謙︵たにぐち けん、1856年2月7日︵安政3年1月2日︶ - 1929年︵昭和4年︶9月21日︶は、日本の明治期の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医監︵少将相当官︶。位階勲等は正四位・勲二等・功三級。医学博士。
東京大学医学部の同期に小説家の森鷗外がいる。
生涯
[編集]生い立ち
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1856年2月7日︵安政3年1月2日︶、美作勝山藩︵現・岡山県北東部︶藩士・谷口有年の長子として江戸の藩邸[1]︵現・東京都千代田区霞が関3丁目‥東京メトロ銀座線虎ノ門駅付近︶に誕生した。武家の子として幼い頃から武芸を習い、13歳頃からは国文や漢文を、その翌年からはスイス人のもとでドイツ語を2年間学んだ[2]。
1873年︵明治6年︶大学東校︵現・東京大学医学部︶に入学、1881年︵明治14年︶に卒業した。
軍医任官
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1881年︵明治14年︶7月、東京陸軍病院治療課僚に配属する。その後、東京陸軍病院、陸軍大学校、医務局副課員、隊付勤務を経て1884年︵明治17年︶に軍医本部に入り、徴兵業務に従事する。また橋本綱常軍医総監の命令で陸軍衛生部諸制度を翻訳する。
1885年︵明治18年︶11月、陸軍大学校の参謀旅行に従属してクレメンス・メッケルから近代戦の指導を受け、同校衛生学教官になる。
ドイツ留学
[編集]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3d/Japanese_students_in_German_Reich_cropped_2_Ishiguro_Tadanori_Kaikyu_90_nen_Frame_165.jpg/200px-Japanese_students_in_German_Reich_cropped_2_Ishiguro_Tadanori_Kaikyu_90_nen_Frame_165.jpg)
1886年︵明治19年︶、官費留学の機会が訪れる。これは陸軍軍医として5人目で、谷口の直前︵1884年︶には鴎外がライプツィヒに派遣されている。8月7日、ドイツ・ベルリンに向け出発し、9月25日に到着する。現地ではウィルヒョウから病理学を学ぶなどする。
1889年︵明治22年︶11月18日、石黒忠悳の出迎えで帰国し、軍医学校で教官として軍陣衛生学を教える。
日清戦争・日露戦争
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1894年︵明治27年︶7月25日、日清戦争が勃発。一等軍医正に昇進し、名古屋衛戍病院長になっていた谷口は留守第三師団︵名古屋︶軍医部長や南部兵站軍軍医部長、金州半島兵站軍軍医部長、第二師団︵仙台︶軍医部長を務める。1896年︵明治29年︶4月に帰国する。
1899年︵明治32年︶6月近衛師団軍医部長︵鴎外の後任︶兼陸軍軍医学校長になる。1901年︵明治34年︶3月には軍医監に昇進し、第四師団︵大阪︶軍医部長を務める。
1904年︵明治37年︶2月8日、日露戦争が勃発。第一軍軍医部長として鴨緑江、様子山嶺、遼陽、沙河の戦闘に参加する。翌年1月には韓国駐留軍軍医部長を務める。
1907年︵明治40年︶1月、日露戦争での功績が認められ、功三級勲二等金鵄勲章を受章する。
晩年
[編集]1907年(明治40年)2月に休職し、11月には予備役となる。退役後は年金で生活し、仙台市の病院で内科診療に携わるなどする。
1929年(昭和4年)9月21日、死去。
逸話
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●13歳頃から漢文を学んだが、特に好んだのは韓非子、老子、荘子、荀子である。
●14歳に洋学を志し、渡米を計画した。資金を得るため、静岡から老牛を買ってきて東京・神田橋の屠牛屋に売りつけようとするが、途中で脚気にかかり、結果的にその療育費で差引き50円以上の損をする。
栄典
[編集]家族
[編集]- 父:谷口有年
- 妻:せい(1896年11月結婚、1906年5月協議離婚。旧姓:片山)
- 長男:稠
著作
[編集]論文
[編集]訳書
[編集]- 「儒氏内科新書」(原著:テオドル・フォン・ジュルゲンゼン(英語版)), 巻1-7, 足立寛閲, 1893[9][10][11][12].
- 「薬性論」, 英蘭堂, 足立寛閲, 1894[13].
- 「外科的診断」(原著:エドワード・アルベルト(英語版)), 刀圭書院, 1885[14].
- 「国政医論」(原著:エルンスト・チーゲル)1879[15].
脚注
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(一)^ “︹江戸切絵図︺, 外桜田永田町絵図”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(二)^ 小関恒雄 (1984). 谷口謙と鴎外. 49. 至文堂. pp. 163-168. ISSN 0386-9911
(三)^ 石黑忠悳著﹃石黑忠悳懷舊九十年﹄博文館、1936年、241頁。︵ページ番号記載なし︶
(四)^ abc石黑忠悳著﹃石黑忠悳懷舊九十年﹄博文館、1936年、242頁。︵ページ番号記載なし︶
(五)^ ﹃官報﹄第2551号﹁叙任及辞令﹂1892年1月4日。
(六)^ ﹃官報﹄第5304号﹁叙任及辞令﹂1901年3月12日。
(七)^ ﹃官報﹄第7352号﹁叙任及辞令﹂1907年12月28日。
(八)^ “軍医学校業府 國文之部 第2”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(九)^ “内科新書︵儒氏︶巻1-5, 7”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(十)^ “儒氏内科新書 巻6”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(11)^ “内科新書︵儒氏︶巻4上”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(12)^ “内科新書︵儒氏︶巻4下”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(13)^ “敏氏薬性論”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(14)^ “外科的診断”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
(15)^ “国政医論”. 国立国会図書館. 2019.02.24.閲覧。
参考文献
[編集]- 小関恒雄「谷口謙と鴎外、国文学」『解釈と鑑賞』 49(2), 163-168, 1984.
- 吉野樹「奥村済世館の命名者について」『POアカデミージャーナル』 26(3), 193-196, 2018.