道登
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概要
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﹃日本書紀﹄には、645年︵大化元年︶に僧旻などとともに﹁十師﹂として挙げられ[1]、650年︵白雉元年︶に、穴戸国︵後の長門国︶の国司が白雉を献上した際に、天皇の諮問に高麗の故事を引いて祥瑞であることを上奏して、白雉に改元されることとなったという記事がある[2]。
また放生院にある宇治橋断碑︵﹃帝王編年記﹄に碑文の全文を残す︶には、646年︵大化2年︶に宇治橋を架設したとある。ただ﹃続日本紀﹄では道昭の功績とされており[3]、実際のところは不明[4]。同じ碑文に山尻︵山城︶出身とある。﹃日本霊異記﹄[5]や恐らくそれを踏まえた﹃今昔物語集﹄[6]には高麗の僧であるとするが、これは高麗の故事に通じていたことに引きずられた訛伝だろう。
脚注
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(一)^ 孝徳天皇大化元年八月癸卯﹁以沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙而為十師﹂
(二)^ 孝徳天皇白雉元年二月戊寅
(三)^ 文武紀四年三月己未の道照︵道昭︶伝﹁乃ち山背国の宇治橋は、和尚の創造せし所の者なり﹂
(四)^ 松村博は大化年間に道登が民間の協力で架けた宇治橋はその後洪水で流出し、天智天皇の時代に道昭が近江朝廷の支援で宇治橋を架けたため、民間事業であった道登の事業は顧みられなかったと推測している︵松村博﹁渡河施設﹂館野和己・出田和久 編﹃日本古代の交通・流通・情報 3 遺跡と技術﹄︵吉川弘文館、2016年︶ ISBN 978-4-642-01730-5 P213・217-219︶。
(五)^ 上巻、人畜所履髑髏救収示霊表而現報縁第十二
(六)^ 第十九、髑髏、報高麗僧道登恩語第卅一