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山中貞雄『人情紙風船』
日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は比較的高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞、児童書などあらゆる書物が庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ歌舞伎や人形浄瑠璃などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも窺える。
また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い[3]。
純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデーの﹃ミモザ館﹄から着想を得た山中貞雄の﹃人情紙風船﹄や[4]ウィリアム・シェイクスピアの﹃リア王﹄が原作とされる黒澤明の﹃乱﹄などがそれにあたる[5]。
シネマトグラフ
『忠臣蔵』(尾上松之助)
関東大震災により廃墟と化した神奈川県横浜市
『鞍馬天狗』嵐寛寿郎
日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはトーマス・エジソンのキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟のシネマトグラフによるスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社︵現在の元・立誠小学校の敷地︶の中庭にて初めて行われた。続いて1897年2月に初めての﹁有料上映﹂が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著﹃幼少時代﹄において﹁一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの﹂と評している。
その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。
1898年には先に挙げた﹃化け地蔵﹄﹃死人の蘇生﹄が、翌1899年には﹃芸者の手踊り﹄︵東京歌舞伎座︶が公開された。これは小西本店︵後の小西六写真工業、現コニカミノルタ︶の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる﹁日本率先活動写真会﹂によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる﹃ピストル強盗清水定吉﹄が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を﹁泥芝居﹂と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった[6]。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された﹃紅葉狩﹄がある。
1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館﹁電気館﹂を設置した[7]。翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。
1908年に発表された﹃本能寺合戦﹄は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。京都に浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した﹃碁盤忠信﹄が大ヒットとなり、﹁目玉の松ちゃん﹂として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも1910年に撮られた﹃忠臣蔵﹄は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画においても欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督D・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号を与えられている[8]。
1912年、横田商会・吉沢商店・M・パテー商会・福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京向島の向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派︵後の現代劇︶を、京都では旧劇︵後の時代劇︶を製作した。
1914年4月3日、日本初のカラー劇映画﹃義経千本桜﹄が公開[9]。
ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。井上正夫が1917年に製作した﹃大尉の娘﹄ではクローズアップや移動技法、カットバックといった技法が導入されている。この頃より呼称も﹁活動写真﹂から﹁映画﹂へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。
一方映画評論においては、吉沢商店が1909年に発表した初の映画雑誌﹃活動写真界﹄などが既にあったが、1917年に帰山教正が﹃活動写真劇の創作と撮影法﹄と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動﹁純映画劇運動﹂が起こる。映画芸術協会を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った﹃生の輝き﹄、日本初の女性のヌードシーンを撮影した﹃幻影の女﹄などがある。
その背景には第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように国活、大活といった映画会社が相次いで設立され、1920年には歌舞伎を本業としていた松竹が松竹キネマ合名会社を設立し製作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドのスター・システムを採用し、﹃路上の霊魂﹄の英百合子や﹃虞美人草﹄の栗島すみ子など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響も大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
この純映画劇運動は1923年の関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。1926年に入ると松竹による現代劇が本格化し、牛原虚彦による﹃彼と東京﹄︵1928年︶、﹃陸の王者﹄︵1928年︶など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、五所平之助による﹃村の花嫁﹄︵1928年︶や﹃伊豆の踊子﹄︵1933年︶のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。エルンスト・ルビッチに強い影響を受けた小津安二郎は、﹃大学は出たけれど﹄︵1929年︶、﹃落第はしたけれど﹄︵1930年︶など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。
こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・太秦村に﹁日活太秦撮影所﹂︵後の大映京都撮影所︶が開設される。日活現代劇の代表ともされる溝口健二はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、﹃霧の港﹄︵1923年︶、﹃血と霊﹄︵1923年︶、﹃狂恋の女師匠﹄︵1926年︶など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。
他方、内務省警保局による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助の﹃日輪﹄︵1925年︶などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる﹃狂つた一頁﹄︵1926年︶や欧州で高い評価を受けた﹃十字路﹄︵1928年︶など、﹁純映画劇運動﹂の目的、目標を達成させている。
時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品﹃荒木又右衛門﹄︵1925年︶などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい殺陣が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した阪東妻三郎は﹃雄呂血﹄︵1925年︶で人気を博す。そのほか大河内傳次郎による﹃丹下左膳﹄や、市川右太衛門の﹃旗本退屈男﹄、嵐寛寿郎の﹃鞍馬天狗﹄など、新しい時代劇が多数登場した。
1927年︵昭和2年︶、映画実際家連盟﹁友達の会﹂が発足。松竹蒲田から牛原虚彦、島津保次郎、大久保忠素らが、日活からは村田実、溝口健二、岡田嘉子らが、阪妻プロからは鈴木重吉、川浪良太、近藤伊与吉らが参加した[10]。目立った活動はなかったが、製作会社を横断する映画業界人の組織であったことは特筆すべきことであり、文壇界から低くみられがちな映画界の地位向上を図る契機にもなった。
トーキー映画の産みの親リー・ド・フォレスト
映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、河浦謙一は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによるトーキーの実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の昭和キネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術の権利を購入した皆川芳造によるものである。
ミナ・トーキーを使用した小山内薫による﹃黎明﹄は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は1929年の﹃大尉の娘﹄であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式、東條政生のイーストフォン・トーキーを採用しようと研究したが、結局、独自のディスク式トーキーでマキノ正博が監督した﹃戻橋﹄が公開された[11]。イーストフォンは一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による﹃ふるさと﹄︵1930年︶などが続いたが、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは五所平之助の﹃マダムと女房﹄︵1931年︶であった。
資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、一部例外として小津安二郎のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいた[12]。1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果、小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。
また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年﹃モロッコ﹄ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。
こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川緑波などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、﹃愛染かつら﹄︵1938年︶のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。
トーキー映画の出現は、撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては﹃人生劇場・青春篇﹄︵1936年︶、﹃土﹄︵1939年︶の内田吐夢、﹃蒼氓﹄︵1937年︶、﹃阿部一族﹄︵1938年︶の熊谷久虎、松竹を代表する監督としては﹃隣の八重ちゃん﹄︵1934年︶の島津保次郎、﹃愛染かつら﹄︵1938年︶、﹃一人息子﹄︵1936年︶の野村浩将、﹃有りがたうさん﹄︵1936年︶、﹃花形選手﹄︵1937年︶の清水宏などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は﹃浪華悲歌﹄︵1936年︶、﹃祇園の姉妹﹄︵1936年︶などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の﹁映画は東京弁でなければならぬ﹂という概念を打ち崩していった。
1930年に設立されたPCLは1933年より映画製作業界への参入を表明した。黒澤明や本多猪四郎、瀧口修造、井深大など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には木村荘十二の﹃河向ふの青春﹄︵1933年︶、﹃兄いもうと﹄︵1936年︶や松竹より移籍してきた成瀬巳喜男の﹃妻よ薔薇のやうに﹄︵1935年︶、石田民三の﹃花ちりぬ﹄︵1938年︶などが人気を博した。特に成瀬の﹃妻よ薔薇のやうに﹄は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、1937年、小林一三などの働きにより﹁写真化学研究所﹂、京都の大沢商会の映画スタジオである﹁J.O.スタヂオ﹂、阪急資本による配給会社﹁東宝映画配給﹂などと合併し、東宝映画として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。
1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督で製作された﹃新しき土﹄である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。
1937年8月、映画の巻頭に﹁挙国一致﹂﹁銃後を護れ﹂などの1枚タイトルを挿入が義務付けられた[13]。この1枚タイトルは﹁国民精神総動員﹂、﹁忠魂へ 遺族援護の 捧げ銃﹂︵1941年︶﹁撃ちてし止まむ﹂﹁一億の 誠で包め 兵の家﹂︵1943年︶と変遷しながら、終戦まで続いた。同年には映画上映前にニュース映画を上映することが義務付けられ、1940年には新聞各社のニュース映画部門を統合した社団法人日本ニュース映画社︵後の日本映画社︶が設立により、日本のニュース映画は同社が製作する﹁日本ニュース﹂1本のみとなった。
『加藤隼戦闘隊』(1944年)
外地における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。台湾、朝鮮、満州、インドネシアなどにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。
日清戦争により獲得した台湾で高松豊次郎により最初の映画上映が行われたのは1901年である。台湾において最初に製作がなされたのは1921年で、﹃預防霍乱﹄という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人の李松峰により﹃誰之過﹄が製作された。
日本で興った﹁純映画劇運動﹂において、台湾という﹁辺境の地﹂は格好の題材となり、枝正義郎の﹃哀の曲﹄︵1919年︶、田坂具隆の﹃阿里山の侠児﹄︵1927年︶、張雲鶴の﹃血痕﹄︵1929年︶、千葉泰樹・安藤太郎の﹃義人呉鳳﹄︵1932年︶など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。
しかし、現地人による映画製作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。
1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に製作された金陶山の﹃義理的仇討﹄を嚆矢とした。日本政府は当初、尹白南による貯蓄奨励映画﹃月下の誓い﹄︵1923年︶など、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みたが、自身の手による映画製作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。
1926年に羅雲奎が製作した﹃アリラン﹄は、民族主義の高揚における重要な役割を果たした。その他、﹃金色夜叉﹄の翻案で、李慶孫の﹃長恨夢﹄︵1926年︶や李圭煥が製作した反日的内容の﹃主なき渡し舟﹄︵1932年︶などが話題を呼んだ。また、李明雨によって製作された最初のトーキー映画﹃春香伝﹄は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。
日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を製作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎の﹃君と僕﹄︵1941年︶、豊田四郎の﹃若き姿﹄︵1943年︶、今井正の﹃望楼の決死隊﹄︵1943年︶などが公開された。
李香蘭こと山口淑子
日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会︵満映︶が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に﹃支那の夜﹄に登場した李香蘭︵山口淑子︶はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。
1942年ごろより、自由な映画製作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の﹃私の鶯﹄︵1943年︶など、自由闊達な映画が企画・製作された。
1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光雄などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。
1939年に駐蒙軍の支援で成立した蒙古聯合自治政府の後援の元、1943年には『成吉思汗』の撮影が内蒙古で行われた。
上海では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で製作された李香蘭主演の﹃萬世流芳﹄︵1943年︶などがある。
1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画製作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。
インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に製作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が製作されるなどした。
有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで製作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された。後にオーストラリアは捕虜として出演した者を集め、『Calling Australia』の虚偽を告発するドキュメンタリーを製作している[16]。
今井正『青い山脈』(杉葉子と原節子)
1945年8月15日、日本が第二次世界大戦に敗北すると、以後申し合わせにより1週間の全国の映画興行が停止された[17]。その後、GHQ︵連合国軍最高司令官総司令部︶による日本間接統治が開始されたことに伴い、日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE︵民間情報教育局︶によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、黒澤明の﹃暁の脱走﹄︵1950年︶は当初、山口淑子︵満映の李香蘭︶主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている[18]。完成したフィルムはCCD︵民間検閲支隊︶により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された[19]。
また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追及と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。
戦後、最初に公開された映画は佐々木康による﹃そよかぜ﹄で、並木路子による主題歌﹃リンゴの唄﹄が大ヒットした。
CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の﹃多羅尾伴内﹄、阪東妻三郎の﹃破れ太鼓﹄、稲垣浩の﹃手をつなぐ子等﹄、伊藤大輔の﹃王将﹄などがそれにあたる。
また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の﹃わが青春に悔なし﹄︵1946年︶、吉村公三郎の﹃安城家の舞踏会﹄︵1947年︶、今井正の﹃青い山脈﹄などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の﹃はたちの青春﹄︵1946年︶では日本映画最初のキスシーンが撮られた。
1945年11月16日、GHQは﹁非民主主義的映画排除方指令に関する覚書﹂を交付した。11月19日、超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画236本の上映禁止・焼却指令を発表した[20][21]。
1946年1月28日、GHQは﹁映画検閲に関する覚書﹂を出し、民間検閲課による検閲を開始した。8月13日には、昭和天皇の戦争責任を描いた亀井文夫の記録映画﹃日本の悲劇﹄上映禁止を通告した[20][22]。
東宝で1946年2月に全東宝従業員組合が結成されると﹁第1次東宝争議﹂が起きることになる。これは会社に待遇改善を迫り、最終的には組合の要求が貫徹されるというおだやかなものであった。この勝利に勢いづき東宝の従業員を中核とし、日活を除く映画会社と地方小劇場を除く劇団を結集した産業別単一組合として日本映画演劇労働組合が設立された[23]。1946年10月のストに始まる﹁第2次東宝争議﹂では組合が日本共産党の指導下にあったことで会社側の態度は硬化し交渉が長引き、同年12月にストは組合側の勝利で終わるものの、組合側も大河内伝次郎を中心とする東宝のトップスター10人が﹁十人の旗の会﹂を興して離反し、新会社﹁新東宝﹂が生まれるきっかけとなった。1948年4月の撮影所の270名に及ぶ大量解雇に端を発した﹁第3次東宝争議﹂は米軍まで出動し、﹁来なかったのは軍艦だけ﹂と称されるほど大規模な対立にまで発展した。最終的に組合幹部の自発的退社と引き換えに270名への解雇を撤回するという条件で幕を閉じた。
羅生門。(1950年(昭和25年))
『二十四の瞳』(1954年(昭和29年))
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、日本国は主権を回復した。翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど[24]、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった[25]。
GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、関川秀雄の﹃きけ、わだつみの声﹄︵1950年︶、今井正の﹃ひめゆりの塔﹄︵1953年︶、木下恵介の﹃二十四の瞳﹄︵1954年︶、市川崑の﹃ビルマの竪琴﹄︵1956年︶など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、﹃戦艦大和﹄︵1953年︶や﹃太平洋の鷲﹄︵1953年︶といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた﹃明治天皇と日露大戦争﹄︵1957年︶といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。
映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が﹃羅生門﹄でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年﹃西鶴一代女﹄、1953年﹃雨月物語﹄、1954年﹃山椒大夫﹄と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の﹃七人の侍﹄もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の﹃地獄門﹄がグランプリを受賞するなど、日本映画が欧米でも注目されるようになった。
こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。
『ゴジラ』(1954年(昭和29年))
第2次東宝争議を契機として1948年に東宝から独立して設立された新東宝は、東宝争議により製作不能に陥った東宝のプログラムを埋めるための作品を製作していた。しかし東宝争議終了後、製作部門を完全に新東宝に委譲するか否かで東宝内で対立が起きたため、1950年から自主配給にも乗り出した。初期の新東宝作品は東宝の作風の延長線上にあり、ヴェネツィア国際映画祭国際映画賞を受賞した﹃西鶴一代女﹄(1952年・溝口健二監督)等、文芸映画も多く作られていた。もともと製作のみを担当する会社であり、後発で配給に参入した故の配給網の脆弱さから経営難に陥り、1955年に大蔵貢が社長に就任すると会社のカラーは一変した。大蔵貢は会社の経営を立て直すため徹底した娯楽路線の作品作りに集中させ、怪談ものや低俗なエロティック映画、右翼的な戦争映画といった見世物興行的な作品を量産し、新東宝独特の路線が確立された。1957年の﹃明治天皇と日露大戦争﹄は観客動員数1300万人と当時の日本映画の記録を大幅に塗り替える大ヒットを記録したが、1957年の新東宝作品全体での配給収入を見ると、その年の東映の3分の1にすぎなかった。その後﹃明治天皇と日露大戦争﹄級の大ヒットは生み出せず、大蔵貢の独善的なワンマン経営も祟り、新東宝の業績は急速に悪化していき、1961年に倒産することになる[28]。
日本における映画観客動員数の推移。
『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』(1966年)
成瀬巳喜男
大島渚
『キューポラのある街』(1962年)
『大魔神』(1966年)
1962年、手塚治虫が虫プロダクションを設立。1969年に日本初の大人のためのアニメーション映画として『千夜一夜物語』を製作した。
1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、内訳で見た場合、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減した[35]。逆に、低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画の躍進も見られた。
また、スターシステムと五社協定の崩壊により俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わりが進んだ。前時代に活躍した監督についても、資本を海外に求めた黒澤や大島、ドキュメンタリーへ転進した今村など、徐々に消えていくこととなった。
1950年代から1960年代にかけては、映画は10本作れば6本は黒字だったが[36]、1970年代後半はヒット作は10本中2本程度になった[36]。映画人口もピーク時の7分の1[36]。映画がこれほど衰退した国は、世界に例がないと当時いわれた[36]。あまりの衰退ぶりに映画業界から国から助成をという声が盛んに上がったが、1978年6月に日本映画製作者連盟の会長に就任した岡田茂が﹁金も出せば口も出すで、結局あちらの言いなりじゃ自ら首を絞めるようなものだ。地道に一本一本力を込めて、自力再生するしかない。もう東映だ、松竹だと妙な社風を振りかざして睨み合ってる時代じゃない。この斜陽対策を業界全体で考えなくてはならない﹂などと国からの支援を断固反対した[36]。今村昌平は生産縮小により採用を止めていく撮影所の代わりに未来の映画人を養成することを目的とし、1975年に横浜放送映画専門学院(後の日本映画学校、日本映画大学)を設立した[37]。
東京柴又駅の車寅次郎の銅像
経営難に陥った日活は、大映と配給網を統合しダイニチ映配を設立したが、経営悪化は止まらなかった。労働組合を中心に再建がなされ、1971年にはダイニチ映配から離脱、日活ロマンポルノとしてロマンポルノ路線を断行した[51]。日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味し、小林旭や渡哲也は東映へ、宍戸錠はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。日活ロマンポルノは1988年まで週に2本というペースで製作がなされ、神代辰巳、田中登、小沼勝、村川透、池田敏春、中原俊、黒沢直輔、金子修介といった多数の人材を輩出している。ロマンポルノ以外にも日活の労働組合の後押しにより、山本薩夫監督の大作反戦映画﹃戦争と人間﹄シリーズが製作された。第一部は労働組合が主導して前売券を配券したことで、全体で10万枚を売り、配収4億円と成功を収めたが、日活の経営悪化により当初予定していた4部構想は実現できず3部で完結となった。
ダイニチ映配で配給網を日活と統合した大映だったが、1971年には日活が離脱したため大映配給による単独配給に戻った。11月29日、体調不良の永田雅一に代わり息子で副社長の永田秀雅が社長に就任。全従業員に解雇通告が出され業務全面停止。12月に大映は倒産し[51]、後の1974年に徳間書店に買収された。買収後は大映株式会社から大映映画株式会社へと社名が変更となり、徳間書店傘下の映画製作子会社となった。1975年の﹃金環蝕﹄が製作復帰第一号となったが、配給は東宝であり、以後の製作作品も他社が配給を担った。
既存の大手映画会社が苦戦する一方で1976年に角川書店の角川春樹が映画製作に進出し、1976年の﹃犬神家の一族﹄を皮切りに、豊富な予算による制作と出版やテレビドラマ等との複合的効果を狙ったメディアミックスによる戦略化された宣伝を展開。﹃人間の証明﹄、﹃野性の証明﹄、1979年の﹃戦国自衛隊﹄など、大作を立て続けに大ヒットさせ、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破り、角川映画の勢いは1980年代半ばまで続いた。アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎を築いた。1977年に東映が配給した﹃宇宙戦艦ヤマト﹄では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には﹃銀河鉄道999﹄︵東映製作配給︶が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。アニメ映画が評価されなかった[53]時代に異例の評価を得る。
邦画配給会社別の年間配給収入(1999年(平成11年)まで)
今日続く映画状況の起点という意味では、1980年代のテレビ局による本格的な映画参入が挙げられる[25][60]。当時視聴率トップを走っていたフジテレビは、1969年の﹃御用金﹄でテレビ局による映画参入の先鞭をつけたが[60]、その後中断し、14年の歳月を経て1983年の﹃南極物語﹄で再び映画に参入した[60]。1983年は前年暮れに公開されたアメリカ映画﹃E.T.﹄が空前の人気を維持して配収94億円を挙げ、興行街を活性化した年でもあったが、この年夏に公開された﹃南極物語﹄が当時の日本映画新記録となる配収56億円を挙げ、さらに興行街を盛り上げた。﹃南極物語﹄の大ヒットは、製作・宣伝面で、映画界にいくつかの新しい血を導入した。フジテレビの番組に俳優や犬が次々と出演、バラエティ番組で連日取り上げるなど大々的なキャンペーンが行われ、映画公開を一大イベント化した[60]。フジサンケイグループを前面に押し出し、同系列資本が一丸となっての宣伝は、映画界では初めてのことであった。フジテレビは以後も﹃子猫物語﹄︵1986年︶、1980年代末からのバブル時代にはホイチョイ三部作と呼ばれる﹁トレンディ﹂な映画をヒットさせるなど、話題作を連打し、他局もそれにならうようになった。これには自局で放映する映画番組での放映権が獲得しやすいことも理由としてあった[60]。ここに至りテレビ局も映画製作会社としての一面を持つといっていい状況が生まれた[25]。
1980年『復活の日』が満足な興行成績を上げられなかったため、大作映画路線からは撤退。薬師丸ひろ子主演『セーラー服と機関銃』(1981)や原田知世主演『時をかける少女』(1983)といった低予算のアイドル映画へと路線を変更していき、その中で相米慎二や大林宣彦は特異な作家性を発揮した。フジテレビが『南極物語』を大ヒットさせた1983年には『探偵物語』『時をかける少女』をヒットさせたが、派手な宣伝という意味では、次第にフジテレビと入れ代わるようになった。
時代劇やヤクザ映画が行き詰まる中、1980年に大作歴史映画『二百三高地』をヒットさせたほか、『鬼龍院花子の生涯』(1982)のヒットをきっかけに女性文芸大作路線をスタートさせ、その流れは『極道の妻たち』シリーズに発展していった。
80年代に入っても『男はつらいよ』シリーズに頼る状態が続いていたが、1987年には『南極物語』や『子猫物語』といったフジテレビ製作の動物映画のヒットに便乗した『ハチ公物語』が大ヒットを記録。1988年には『釣りバカ日誌』第一作が公開し、『男はつらいよ』に次ぐ看板映画として2009年まで製作された。
日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。
北野武
邦画配給会社別の年間興行収入(2000年(平成12年)以降)
2001年11月16日、文化芸術振興基本法が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年12月7日。この法律のメディア芸術の振興の項目︵第9条︶で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で地方公共団体によるバックアップも明記された。
このことを受け、文化庁は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各地方公共団体はフィルム・コミッションなどの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めた。さらに、﹃眠る男﹄︵群馬県︶や﹃船を降りたら彼女の島﹄︵愛媛県︶などのように、地方公共団体が︵﹁補助金﹂や﹁寄付﹂などではなく︶映画に対して直接出資する例も見られるようになった。2000年︵平成12年︶2月 に﹁フィルム・コミッション設立研究会﹂が設立された。2001年︵平成13年︶8月8日 に﹁全国FC連絡協議会﹂設立総会が開催された。パシフィコ横浜で全国FC︵フィルム・コミッション︶連絡協議会の設立総会が開催された。46の正会員団体のうち、フィルム・コミッションの団体数は11。同年12月7日 に ﹁文化芸術振興基本法﹂施行。この法律の対象には、メディア芸術(第九条)として、映画も含まれる。2003年︵平成15年︶4月1日に ﹁全国FC連絡協議会﹂、加盟47団体へ。全国フィルム・コミッション連絡協議会への加盟FC︵フィルム・コミッション︶の数が47団体に達した。4月24日に公開映画の納付義務付けを提言。文化庁の懇談会は、公開された日本映画を東京国立近代美術館フィルムセンターへ納入することを義務付ける事など日本映画を振興させる12の施策提言を最終報告書にまとめた。文化芸術振興基本法公布後は2004年に立教大学現代心理学部映像身体学科、2005年に東京藝術大学大学院映像研究科、2007年に立命館大学映像学部など、映画製作を学ぶ大学内の教育機関の整備も相次いだ。
東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品も多くなった。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地をめぐる観光客︵聖地巡礼︶が増加したケースもある。地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっている。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う﹁フィルムコミッション﹂が各地で設立された。
新海誠
2010年は興行収入が2207億円と歴代最高を記録したが、これはシネコンの普及と洋画の3D映画ブームが要因であった[72]。2011年は東日本大震災の影響もあり、興行収入は再び2000億未満に下落し、2000年代の平均水準である2000億円代に戻るには2014年までかかることとなった。洋画人気が低下し日本映画市場の邦高洋低が続く中、ワーナーブラザーズの日本法人ワーナーブラザーズ・ジャパンは打開策として、2010年の﹃最後の忠臣蔵﹄を皮切りに日本映画の配給のみならず製作にも参入し[73]、﹃るろうに剣心﹄シリーズや﹃銀魂﹄シリーズは大ヒットを記録した。アニメーション映画では2012年には細田守が﹃おおかみこどもの雨と雪﹄、2016年に新海誠が﹃君の名は。﹄でそれぞれ大ヒットを飛ばし、作家性と興行性を兼ね備えたアニメーション監督として広く知られるようになった。﹃君の名は。﹄は日本国内だけでなくアジアを中心に大ヒットし、新海誠は国際的にも認知される監督となった。2016年は12年ぶりに日本製作のゴジラシリーズとしてエヴァンゲリオンシリーズの庵野秀明を監督に抜擢した﹃シン・ゴジラ﹄も公開され、国内で興行・批評の両面で成功を収めた[74]。以前からゴジラシリーズは東宝での単独製作となっていたが、本作もその前例を踏襲し、昨今の日本映画では珍しく製作委員会方式を取らない形での製作となった。2016年はこの二大ヒット作により大きく数字を引き上げられ、国内の年間興行収入は2010年以来6年ぶりに最高記録を更新した[75]。2016年にはさらに、クラウドファンディングで初期制作費を集めた﹃この世界の片隅で﹄が小規模上映から出発して25億円を越えるヒットとなり、1988年度︵第62回︶の﹃となりのトトロ﹄以来、アニメ映画としては28年ぶりにキネマ旬報の日本映画ベスト1位に選ばれた。2017年はインディーズ映画﹃カメラを止めるな!﹄が製作費300万円でありながら興行収入30億を超える異例のヒットを見せた。2018年の﹃万引き家族﹄は監督の是枝裕和が第71回カンヌ国際映画祭で日本人として﹃うなぎ﹄以来21年ぶりに最高賞であるパルム・ドールを獲得した[76]。
2019年には国内の興行収入は過去最高の2611億8000万円を記録し、年間入場者数においても1971年以来48年ぶりに1億9000万人台を回復した[77]。
2000年代にテレビ局は日本の映画興行において圧倒的影響力を持っていたが、2010年代にはその重要性は低下していった。2014年の﹃永遠の0﹄は民放テレビ局が製作に関与していない映画でありながら、興行収入87.6億円と大ヒットを記録。2016年に大ヒットした﹃君の名は。﹄と﹃シン・ゴジラ﹄はどちらもテレビ局が製作に関与していなかった[78]。テレビ局が製作に参加している場合でも、テレビドラマの劇場版よりも﹃テルマエ・ロマエ﹄や﹃キングダム﹄のようなテレビドラマを経ずに直接映画作品として製作された作品のヒットが目立ち始め、歴代最高の興行収入を記録した2019年の邦画興行収入トップ10にテレビドラマの劇場版は一本も入らなかった[79]。アニメーション映画ではスタジオジブリ作品の存在感が低下していった。2012年はスタジオジブリ作品が公開されなかったにも関わらず、アニメ映画の興行収入の合計が400億円を突破した︵それまでスタジオジブリ作品の公開がない年は200億円台だった︶[80]。宮崎駿は2013年の﹃風立ちぬ﹄発表後引退を宣言し2017年にはそれを撤回したものの[81]、スタジオジブリの制作部門は解体され2014年の﹃思い出のマーニー﹄を最後に2023年の﹃君たちはどう生きるか﹄まで10年近くの新作公開の空白期間が生まれることとなった。その一方で東宝の﹃ドラえもん﹄、﹃名探偵コナン﹄、東映の﹃ONE PIECE﹄、﹃ドラゴンボール﹄といった長期アニメシリーズの劇場版の興行成績が伸び始めた[82]。
日本では、基本的に観客は静寂を保つように視聴するのが礼儀となっており、北米のように[83]拍手・声援などで応答することは珍しかったが、2010年代に入ると、アニメ映画ファンを中心に﹁応援上映﹂︵チアリング上映・発声型上映︶などと呼ばれる上映会が注目され始め、それらでは声援など観客たちが映画の進行に合わせて盛り上げることが可能になった。
2011年には産業革新機構が﹁日本を元気にするコンテンツ総合戦略﹂として経済産業省が企画し、日本のIP(知的財産)を用いてハリウッド映画を作ることで、日本のコンテンツの海外展開を図り、その利益を日本国内に広く還流することで日本のエンタテイメント産業を再生するという目的で株式会社ALL NIPPON ENTERTAINMENT WORKS(ANEW)を設立。ANEW設立以降に7本の映画が企画されたが、実際に撮影に至った映画は0本のまま、ただ同然で身売りされることになった[84]。2015年に経産省は5年ぶりにカンヌ映画祭の﹁ジャパンパビリオン﹂事業を支援した。国内メディアは﹁カンヌで﹃くまモン﹄が大人気﹂などと報じたが[85]
、ほとんどの海外メディアは相手にしなかった。こうした官主導の動きは巨額の赤字を垂れ流しただけで大失敗に終わった[86]。
日本映画製作者連盟 調べ [105][106]
年度 |
興行収入 (億円) |
シェア |
入場者数 (億人)
|
合計 |
邦画
|
2000
|
1709 |
543 |
31.8% |
1.35
|
2001
|
2002 |
781 |
39.0% |
1.63
|
2002
|
1968 |
533 |
27.1% |
1.61
|
2003
|
2033 |
671 |
33.0% |
1.62
|
2004
|
2109 |
791 |
37.5% |
1.70
|
2005
|
1982 |
818 |
41.3% |
1.60
|
2006
|
2029 |
1079 |
53.2% |
1.65
|
2007
|
1984 |
946 |
47.7% |
1.63
|
2008
|
1948 |
1159 |
59.5% |
1.61
|
2009
|
2060 |
1173 |
56.9% |
1.69
|
2010
|
2207 |
1182 |
53.6% |
1.74
|
2011
|
1812 |
995 |
54.9% |
1.45
|
2012
|
1952 |
1282 |
65.7% |
1.55
|
2013
|
1942 |
1177 |
60.6% |
1.56
|
2014
|
2070 |
1207 |
58.3% |
1.61
|
2015
|
2171 |
1204 |
55.4% |
1.67
|
2016
|
2355 |
1486 |
63.1% |
1.80
|
2017
|
2286 |
1255 |
54.9% |
1.74
|
2018
|
2225 |
1220 |
54.8% |
1.69
|
2019
|
2612 |
1422 |
54.4% |
1.95
|
2020
|
1433 |
1093 |
76.3% |
1.06
|
2021
|
1619 |
1283 |
79.3% |
1.15
|
2022
|
2131 |
1466 |
68.8% |
1.52
|
2023
|
2215 |
1482 |
66.9% |
1.55
|
戦前から戦後しばらくまで日本映画にとってアメリカ市場はハワイやカリフォルニアの日本語を理解する日系人の一世および二世の観客を対象とするものに過ぎなかった[107]。この転機となったのがヴェネツィア国際映画祭において1951年に﹃羅生門﹄が金獅子賞を受賞し、日本映画が欧米圏で注目を集めたことである。1954年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した﹃地獄門﹄はアカデミー名誉賞と衣裳デザイン賞を受賞し、ニューヨークのギルド劇場では47週間の長期興行となり成功を収めた。しかし﹃羅生門﹄にしろ﹃地獄門﹄にしろ一部のアートシアターで上映されたに過ぎず、全米規模の人気を得たとは言えなかった。一般的なアメリカ人が戦後最初に出会ったと言える日本映画は1954年の﹃ゴジラ﹄のアメリカ向け再編集版﹃怪獣王ゴジラ﹄である。本作は1956年4月27日、ニューヨークのブロードウェイにあるステート劇場で公開された。同劇場は﹃羅生門﹄が公開されたアートシアターとは違い、およそ3450人もの人数を収容する大劇場であった。﹃怪獣王ゴジラ﹄は一週間に2万2000ドルの興行成績をあげ、続いて5月3日からボストンを中心とするマサチューセッツ州の136館で上映され、最終的には250万ドルの興行成績を記録した。﹃羅生門﹄の興行成績がアメリカで5万ドル、イギリス、イタリアなどの国を合わせて30万ドルであったことを考えると、その差は明らかである。アメリカの一般観客は怪獣映画などの一部の作品を除いて、日本映画に継続的な関心を抱くことはなかった。その後、1964年の﹃三大怪獣 地球最大の決戦﹄まで、東宝が製作した怪獣映画は﹃宇宙大怪獣ドゴラ﹄がテレビ放映のみであったのを除けばすべて米国で劇場公開された。1965年﹃怪獣大戦争﹄、﹃フランケンシュタイン対地底怪獣﹄、1966年﹃フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ﹄では最初から輸出を考慮し、メインキャストに白人俳優を登場させた。1967年﹃キングコングの逆襲﹄ではランキン・バス・プロダクション、1969年﹃緯度0大作戦﹄ではドン・シャープ・エンタープライズ・プロダクションと提携し、日米合作映画も製作した。東宝はこうして着実に輸出実績を伸ばしていたことで、通産省が認定する1967年度の﹁輸出貢献企業﹂200社に映画界では唯一認定を受けるなど、日本映画の海外輸出という点でほかの企業をリードしていた[110]。しかし1970年代以降の国内映画産業の衰退と共に、海外事業も縮小を余儀なくされた。
日本映画の北米での興行は長らく話題に上ることがなかったが、1997年に﹃Shall we ダンス?﹄が950万ドルと小規模ながらヒットし、1999年の﹃劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲﹄は当時の爆発的なポケモンブームもあり、﹃Pokemon: The First Movie﹄のタイトルでワーナー・ブラザーズの配給により異例の全米3000スクリーン規模で公開され、初日だけで興収1010万ドル︵約10億6050万円︶、最終的に興行収入8500万ドルを超える大ヒットになった。これは現在でも米国公開された日本映画で歴代1位の記録となっている。しかしそれから2000年﹃Pokemon: The Movie 2000﹄、2001年﹃Pokemon 3: The Movie﹄、2002年﹃Pokemon 4Ever﹄と続くうちに、年々興行収入は落ちていき、2003年の﹃Pokemon Heroes﹄が200スクリーンで上映されたのを最後に劇場公開は打ち切られることとなった[111]。北米への日本アニメの輸出はテレビ放映とビデオセールが中心であり、﹃ドラゴンボール﹄や﹃セーラームーン﹄のようなテレビアニメは人気を博していたが、映画興行に関しては伸び悩む状態が続いた。これはディズニーやドリームワークスのアニメーション映画が3000スクリーンから4000スクリーンに対し、日本のアニメ映画の上映は数館から数十館で、観客はトータルで数万人というケースがほとんどであり、2003年のアカデミー長編アニメ映画賞に輝いた﹃千と千尋の神隠し﹄ですら当初の上映劇場数は百数十スクリーン、アカデミー賞受賞後も700スクリーン余りに過ぎないことも要因であった。この転機となったのが、ハリウッドメジャーの一角であるソニー・ピクチャーズが日本アニメ専門の米国配給会社ファニメーションとクランチロールの2社を傘下にしたことで大規模なスクリーン確保が実現できるようになったことである[90]。そこに新型コロナウイルス感染症の流行によりハリウッド映画の公開中止・延期が続き、上映する作品が不足したことも重なり、2020年以降はアニメ映画が北米興行ランキングの上位にしばしば登場するようになった。また、2023年には東宝の自社配給により2000スクリーン以上の規模で公開された﹃ゴジラ-1.0﹄が日本の実写映画としては異例の大ヒットとなり、﹃劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲﹄に次ぐ北米での日本映画の興行歴代2位の記録を達成した。
(一)^ ジョン・ウェイン主演のアメリカの戦意高揚映画﹃フライング・タイガー﹄︵1942年︶では、﹃燃ゆる大空﹄の一部フィルムが着色されたうえで流用︵盗用︶されている。
(二)^ 1945年7月2日付﹃読売新聞﹄には、劇場や映画館以外でも映画を上映できるように工夫を求める投書が掲載されている[15]。
(三)^ 1945年に制作され同年8月5日に封切られた﹃北の三人﹄が、戦時下の日本で最後に完成し、同年8月15日の敗戦当時に国内で唯一上映されていた劇映画であるとされる。
(四)^ ﹃金環蝕﹄(1975)、﹃犬神家の一族﹄(1976)は配給のみで製作はそれぞれ徳間大映と角川春樹事務所が担当した。
(五)^ 外国語映画賞という独立した部門になる前の名誉賞では1951年︵第24回︶﹃羅生門﹄、1954年︵第27回︶﹃地獄門﹄、1955年︵第28回︶﹃宮本武蔵﹄が受賞している。
(六)^ 当時中国がアニメ制作に力を入れていたことから[123]、岡田が徳間に橋渡しを頼み[114]、中国電影公司の代表団が1979年2月に来日した際、岡田が中国のアニメーションと手を組んで一緒に仕事をしたいと頼んだら、中国から東映動画と組みたいと返答があり、中国に招待されたため、今田智憲東映動画社長がスタッフを連れて訪中し[114]、東映動画は従来韓国で行っていたアニメ制作の下請けを中国にやってもらおうと、1979年からアニメ制作の下請けを中国に移した[123]。
(七)^ ﹃未知との遭遇﹄も1万ドルで購入していた[126]。
(八)^ 他の買い付け作品は﹃龍の子太郎﹄﹃先生のつうしんぼ﹄﹃愛と死﹄﹃霧の旗﹄﹃憧憬﹄﹃人間の証明﹄﹃四年三組のはた﹄﹃羅生門﹄﹃私は二歳﹄[114]。
(九)^ ︹引用者註︺出典の先頭の﹁2016年4月1日、﹂は誤植と思われる。1980年の映画祭で出品されたのは二本ではなく四本。
(一)^ 四方田犬彦﹃日本映画史100年﹄︵集英社 ISBN 978-4087200256︶pp.14-16
(二)^ “欧米・アジアなど、海外で人気の日本映画の傾向とは”. 日本経済新聞 (2012年10月22日). 2023年11月24日閲覧。
(三)^ 田中純一郎﹃日本映画発達史﹄[要ページ番号]
(四)^ 山本喜久男﹃日本映画における外国映画の影響﹄早稲田大学出版部、1983年。ISBN 4-657-83008-2。 pp.600-603
(五)^ 山本喜久男﹃日本映画における外国映画の影響﹄早稲田大学出版部、1983年。ISBN 4-657-83008-2。 [要ページ番号]
(六)^ ﹁日本映画史100年﹂p.44
(七)^ ab東宝特撮映画全史 1983, pp. 550–554, ﹁特撮映画関係年表﹂
(八)^ ﹁日本映画史100年﹂p.48
(九)^ 下川耿史 家庭総合研究会 編﹃明治・大正家庭史年表:1868-1925﹄河出書房新社、2000年、393頁。ISBN 4-309-22361-3。
(十)^ 映画製作の実務者が﹁友達の会﹂を結成﹃大阪毎日新聞﹄昭和2年2月16日︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p19 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(11)^ ﹃映画渡世・天の巻 - マキノ雅弘自伝﹄、マキノ雅弘、平凡社、1977年、p.141-142.
(12)^ ﹁日本映画史100年﹂p.80
(13)^ ab日本映画発達史 田中純一郎[要ページ番号]
(14)^ ﹃日本映画史100年﹄p.96
(15)^ “休日の娯楽妨げる空襲 劇場と映画館以外でも慰問を︵1945年7月2日︶‥戦争投書アーカイブ”. 読売新聞. (2023年6月19日). https://www.yomiuri.co.jp/serial/webkiryu/wararchive/20230619-SYT8T4268743/ 2022年6月30日閲覧。
(16)^ ﹁日本映画史100年﹂p.123
(17)^ ﹃日本メディア史年表﹄︵2018年1月1日、吉川弘文館発行、土屋礼子著︶155頁。
(18)^ ﹁日本映画史100年﹂p.134
(19)^ ﹁日本映画史100年﹂p.129
(20)^ ab日本管理法令研究 日本管理法令研究会[要文献特定詳細情報]
(21)^ 朝日新聞[要文献特定詳細情報]
(22)^ 映画史 岩崎昶[要文献特定詳細情報]
(23)^ “日映演︵日本映画演劇労働組合︶﹇労﹈1946.4.28”. 法政大学大原社会問題研究所. 2024年7月6日閲覧。
(24)^ abcdef東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, pp. 122–123, ﹁プロジェクト東宝チャンピオンまつり 祭り囃子は遠くに﹂
(25)^ abcdefg“世界を解き明かすコラムー 研究者に迫る ー総合文化政策学部 日本映画がより発展するために 内山隆 教授”. AGU RESEARCH. 青山学院大学 (2012年). 2024年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月24日閲覧。
(26)^ ﹃仁義なき日本沈没 東宝vs.東映の戦後サバイバル﹄pp.46-62。
(27)^ 井上雅雄﹃戦後日本映画史 企業経営史からたどる﹄新曜社、2022年9月30日、278頁。ISBN 9784788517813。
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