鈴木孫六
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鈴木 孫六(すずき まごろく、生没年不詳)は、戦国時代に活躍した雑賀衆の一人で雑賀鈴木氏の一族とされる。
概要
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孫六の名は、﹃石山軍記﹄や﹃絵本太閤記﹄などの俗書や﹃紀伊国名所図会﹄などの郷土史料に現れるが、良質の史料では確認できない[1]。﹃根来寺焼討太田責細記﹄には同一人物を指すとみられる雑賀孫六の名がある[1]。
その事績については、石山本願寺に味方して織田信長の大軍に当たり、織田軍の兵を恐れさせたという話︵﹃絵本太閤記﹄︶や、天正10年︵1582年︶6月に織田配下の丹羽長秀らが鷺ノ森の本願寺を襲撃し、鈴木孫一らとともにそれを防いだという話がある︵﹃石山軍記﹄︶[1]。鷺ノ森の戦いでは、孫六は右足を鉄砲で撃たれ負傷したとされ、本能寺の変の報を受け織田軍が退却すると、法敵が滅んだことを喜ぶ孫六は、鎧を着たまま足を引きずり舞を踊ったといい、これが後世に跈跛︵ちんば︶踊として伝わったとされている[1]。なお、この鷺ノ森の戦いは実際にはなかったとされる[1]。
また、慶応3年︵1867年︶に平井の蓮乗寺が寺社御役所に提出した﹁内存奉願上口上﹂の控えに、﹁鈴木孫市﹂の弟として孫六の名がある[2]。それによると孫六の実子として権左衛門と常之丞の二人がおり、紀伊に徳川頼宣が入国した際、権左衛門が紀州徳川家に仕官したという[2]。
幕末、会津藩に雑賀孫六郎︵孫六︶がおり[3]、鈴木孫六の子孫とする見方がある[4]。しかし、この孫六郎は藩士・一ノ瀬紀一郎が改名したもので[5]、一ノ瀬︵一瀬︶氏は水戸藩に仕えた雑賀重次︵鈴木重次︶の子・重兵︵しげたけ︶の子孫と伝えられる[6]。孫六郎は後に雑賀重村と名乗り[7]、開拓使に入った[5][7]。
脚注
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(一)^ abcde鈴木真哉﹃紀州雑賀衆 鈴木一族﹄新人物往来社、1984年、227-229頁。
(二)^ ab武内善信﹁秀吉の朝鮮侵略における降倭部将沙也可と﹁雑賀孫市﹂―鈴木孫一一族のその後―﹂﹃雑賀一向一揆と紀伊真宗﹄法藏館、2018年、374-375頁。ISBN 978-4-8318-6250-1。初出‥﹁秀吉の朝鮮侵略における降倭部将沙也可と﹁雑賀孫市﹂をめぐって﹂﹃和歌山地方史研究﹄第72号、2017年。
(三)^ 会津戊辰戦史編纂会 編﹃会津戊辰戦史﹄会津戊辰戦史編纂会、1933年、136、202、363、366頁。全国書誌番号:53010833。
(四)^ 神坂次郎﹃紀州史散策 第四集﹄有馬書店、1981年、45頁。全国書誌番号:82043516。
(五)^ ab標津町郷土研究会 編﹃東蝦夷地シベツと会津藩 蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記︵大工手配・陣屋材運搬〜陣屋建設終了︶﹄標津町郷土研究会、1987年、157–158頁。全国書誌番号:89017435。
(六)^ 好川之範﹃幕末の密使―会津藩士雑賀孫六郎と蝦夷地﹄北海道新聞社︿道新選書﹀、1992年、62–67、228–229頁。ISBN 4-89363-944-7。
(七)^ ab橘文七 編﹃北海道史人名辞典 第二巻﹄北海道文化資料保存協会、1953年、85–86頁。全国書誌番号:58007631。