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長谷川泰

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長谷川泰

  /13681842715[1] - 451912311[2]()

経歴

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長谷川泰の済生学舎廃校宣言

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1903年の長谷川泰による突然の済生学舎廃校宣言の理由は、従来文部省が済生学舎を私立大学として許可しない、今後官立府県立医学校が新設されるので医学専門学校として継続して行く必要はもはやないという長谷川泰の判断と、済生学舎の建物・環境が粗末であったので医学専門学校として認められないからであると一般的には考えられている。しかし、実際は以下に述べるように山県有朋の私怨により泰が廃校宣言を決意せざるを得なかった経緯が存在している。

医薬分業問題と衛生局長の辞任

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医師会法案と専門学校令

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済生学舎廃校宣言から済生学舎同窓医学講習会

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長谷川泰は専門学校令に対応すべく本郷真砂町の黴毒医院跡地に2千余坪の校舎を新築する改革案を持っていたが、1年以内では実現不可能であり、苦悩の末、済生学舎廃校の決心を固め、1903年8月30日、『東京日日新聞』等に「済生学舎廃校の理由に付広告」を掲載して廃校宣言を行った。

しかし、実際には済生学舎は既に1884年東京医学専門学校として届け出て認められており、1887年には文部省令第五号による文部大臣森有礼の布達で済生学舎が官立府県立学校と同等であることが認められている。また1896年の卒業式において坪井次郎が済生学舎の顕微鏡実験室は設備完全にしてドイツの大学よりも遥かに優れていると指摘している様に、設備・環境とも整っていたのである。そして直ちに勉学の道を失った学生達の中から有志が集り、その10日後に校長は変わったが同じ教師により同じ教科書を用いて旧済生学舎の生徒へ済生学舎同窓医学講習会として授業が行われ、それが「医学研究会」、日本医学校の設立や東京医学校との合併等を経て今日の日本医科大学に至っている。

維新の元勲と云われる人の中で、凡そ山県有朋ほど、幕末の政局を根に持って執着して忘れ得なかった人はいないと云われ、その私怨から逃れられず長谷川泰は済生学舎廃校宣言を行うが、もはや医学校済生学舎は泰一人の個人的な学校ではなくなり、社会的存在であることを泰は認識出来ていなかったと云う事が指摘できる。

済生学舎

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年表

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25

18673

18684




1210

18692
 187186

 

18703
 

 

 

家族

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  • 父・長谷川宗春(宗斎) - 長岡藩医漢方医。新潟士族。[5][6]
  • 妻・りう - 愛媛松山藩士林儀行の長女[5]
  • 長男・長谷川保定(1885年生) - 写真師、日本乾板監査役。[7]
  • 娘・すて(1884年生) - 松田道一の妻[5]
  • 娘・静(1891年生) - 松山棟庵五男・松山七五郎の妻[8]

親族

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 ()- ,, [9][10]

12

13 - [11] [9]

14/

栄典

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脚注

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(一)^ 31911117-118

(二)^  2010236

(三)^  2010236-237

(四)^ abc73 116

(五)^ abc [36(1903)4]

(六)^   

(七)^ 4 [4(1915)1]

(八)^ 4 [4(1915)1]

(九)^ ab.  . 2023226

(十)^ .  . 2023226

(11)^ 473(2001)

(12)^ 224118901216

(13)^ 524319001221

(14)^ 705119061228

参考文献

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  2011ISBN 978-4990571405

   19096133-134https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777715/78 

  - 20151023

 - 1962

関連作品

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村松梢風『細菌の猟人』自由国民社, 1957年 

関連項目

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  • ホコトン - 長谷川の国会での発言が由来とされる流行語
公職
先代
(新設)
日本の旗 日本薬局方調査会
1900年 - 1902年
次代
石黒忠悳
先代
三宅秀
日本の旗 学校衛生顧問会議議長
1897年 - 1898年
次代
小金井良精
先代
坪井信良
東京府病院長
1876年 - 1881年
次代
(廃止)
先代
(新設)
東京府癲狂院
1879年 - 1881年
次代
中井常次郎
先代
坂井直常
日本の旗 長崎医学校長
1874年
次代
(廃止)