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渋谷栄一校訂(C)
朝顔
光る源氏の内大臣時代三十二歳の晩秋九月から冬までの物語
[主要登場人物]
光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大臣、三十二歳
冷泉帝<れいぜいてい>
呼称---内裏の上・内裏・主上、桐壺帝の第十皇子︵実は光る源氏の子︶
紫の上<むらさきのうえ>
呼称---対の上・二条院・女君・君、源氏の正妻
朝顔の姫君<あさがおのひめぎみ>
呼称---斎院・前斎院・宮、式部卿宮の姫君
女五の宮<おんなごのみや>
呼称---桃園の宮・女五の宮・宮、桐壺院の妹宮
源典侍<げんないしのすけ>
呼称---源典侍・祖母殿
第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
(一)九月、故桃園式部卿宮邸を訪問---斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし
(二)朝顔姫君と対話---あなたの御前を見やりたまへば
(三)帰邸後に和歌を贈答しあう---心やましくて立ち出でたまひぬるは
(四)源氏、執拗に朝顔姫君を恋う---東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ
第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
(一)朝顔姫君訪問の道中---夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに
(二)宮邸に到着して門を入る---宮には、北面の人しげき方なる御門は
(三)宮邸で源典侍と出会う---宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに
(四)朝顔姫君と和歌を詠み交わす---西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむも
(五)朝顔姫君、源氏の求愛を拒む---いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
(一)紫の君、嫉妬す---大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど
(二)夜の庭の雪まろばし---雪のいたう降り積もりたる上に
(三)源氏、往古の女性を語る---﹁一年、中宮の御前に雪の山作られたりし
(四)藤壺、源氏の夢枕に立つ---月いよいよ澄みて、静かにおもしろし
(五)源氏、藤壺を供養す---なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて
︻出典︼
︻校訂︼
第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
[第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問]
斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて、御訪らひなどいとしげう聞こえたまふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。
長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ交はしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。
宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきたる御けはひ、しはぶきがちにおはす。年長におはすれど、故大殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。
﹁院の上、隠れたまひてのち、よろづ心細くおぼえはべりつるに、年の積もるままに、いと涙がちにて過ぐしはべるを、この宮さへかくうち捨てたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、もの忘れしぬべくはべる﹂
と聞こえたまふ。
﹁かしこくも古りたまへるかな﹂と思へど、うちかしこまりて、
﹁院隠れたまひてのちは、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず、おぼえぬ罪に当たりはべりて、知らぬ世に惑ひはべりしを、たまたま、朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞こえうけたまはらぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ﹂
など聞こえたまふを、
﹁いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり﹂
と、うちわななきたまひて、
﹁いときよらにねびまさりたまひにけるかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。内裏の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへりと、人びと聞こゆるを、さりとも、劣りたまへらむとこそ、推し量りはべれ﹂
と、長々と聞こえたまへば、
﹁ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな﹂と、をかしく思す。
﹁山賤になりて、いたう思ひくづほれはべりし年ごろののち、こよなく衰へにてはべるものを。内裏の御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがたく見たてまつりはべれ。あやしき御推し量りになむ﹂
と聞こえたまふ。
﹁時々見たてまつらば、いとどしき命や延びはべらむ。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きみな去りぬる心地なむ﹂
とても、また泣いたまふ。
﹁三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか﹂
とのたまふにぞ、すこし耳とまりたまふ。
﹁さも、さぶらひ馴れなましかば、今に思ふさまにはべらまし。皆さし放たせたまひて﹂
と、恨めしげにけしきばみきこえたまふ。
[第二段 朝顔姫君と対話]
あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌も、いとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、
﹁かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり﹂
とて、やがて簀子より渡りたまふ。
暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。
宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。
﹁今さらに、若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべるに、今は内外も許させたまひてむとぞ頼みはべりける﹂
とて、飽かず思したり。
﹁ありし世は皆夢に見なして、今なむ、覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは、静かにやと定めきこえさすべうはべらむ﹂
と、聞こえ出だしたまへり。﹁げにこそ定めがたき世なれ﹂と、はかなきことにつけても思し続けらる。
﹁人知れず神の許しを待ちし間に
ここらつれなき世を過ぐすかな
今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片端をだに﹂
と、あながちに聞こえたまふ、御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。
﹁なべて世のあはればかりを問ふからに
誓ひしことと神やいさめむ﹂
とあれば、
﹁あな、心憂。その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき﹂
とのたまふ愛敬も、こよなし。
﹁みそぎを、神は、いかがはべりけむ﹂
など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入りたまひて、え聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。
﹁好き好きしきやうになりぬるを﹂
など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。
﹁齢の積もりには、面なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける﹂
とて、出でたまふ名残、所狭きまで、例の聞こえあへり。
おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。
[第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう]
心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚がちに思し続けらる。とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。
﹁けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、
見し折のつゆ忘られぬ朝顔の
花の盛りは過ぎやしぬらむ
年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは﹂
など聞こえたまへり。おとなびたる御文の心ばへに、﹁おぼつかなからむも、見知らぬやうにや﹂と思し、人びとも御硯とりまかなひて、聞こゆれば、
﹁秋果てて霧の籬にむすぼほれ
あるかなきかに移る朝顔
似つかはしき御よそへにつけても、露けく﹂
とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。
立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじくて思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。
[第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う]
東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ語らひたまふ。さぶらふ人びとの、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべく、めできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、今は、まして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、﹁はかなき木草につけたる御返りなどの、折過ぐさぬも、軽々しくや、とりなさるらむ﹂など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。
世の中に漏り聞こえて、
﹁前斎院を、ねむごろに聞こえたまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げなからぬ御あはひならむ﹂
など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、
﹁さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ﹂
と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、
﹁まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと﹂
など、人知れず思し嘆かる。
﹁かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ﹂
など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。
端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、
﹁げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかし﹂
と、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。
第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
[第一段 朝顔姫君訪問の道中]
夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参りたまふ。雪うち散りて艶なるたそかれ時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。さすがに、まかり申しはた、聞こえたまふ。
﹁女五の宮の悩ましくしたまふなるを、訪らひきこえになむ﹂
とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそび、紛らはしおはする側目の、ただならぬを、
﹁あやしく、御けしきの変はれるべきころかな。罪もなしや。塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが﹂
など聞こえたまへば、
﹁馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ﹂
とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ、出でたまひぬ。
﹁かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ﹂
と思ひ続けて、臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、色合ひ重なり、好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、
﹁まことに離れまさりたまはば﹂
と、忍びあへず思さる。
御前など忍びやかなる限りして、
﹁内裏より他の歩きは、もの憂きほどになりにけりや。桃園宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに、いとほしければ﹂
など、人びとにものたまひなせど、
﹁いでや。御好き心の古りがたきぞ、あたら御疵なめる﹂
﹁軽々しきことも出で来なむ﹂
など、つぶやきあへり。
[第二段 宮邸に到着して門を入る]
宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、﹁今日しも渡りたまはじ﹂と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。
御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。これより他の男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、
﹁錠のいといたく銹びにければ、開かず﹂
と愁ふるを、あはれと聞こし召す。
﹁昨日今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ﹂と、思し知らるる。口ずさびに、
﹁いつのまに蓬がもととむすぼほれ
雪降る里と荒れし垣根ぞ﹂
やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。
[第三段 宮邸で源典侍と出会う]
宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、
﹁宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず﹂
とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。
﹁かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし﹂
など、名のり出づるにぞ、思し出づる。
源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。
﹁その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし﹂
とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。
﹁言ひこしほどに﹂など聞こえかかる、まばゆさよ。﹁今しも来たる老いのやうに﹂など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。
﹁この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり﹂
と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。
﹁年経れどこの契りこそ忘られね
親の親とか言ひし一言﹂
と聞こゆれば、疎ましくて、
﹁身を変へて後も待ち見よこの世にて
親を忘るるためしありやと
頼もしき契りぞや。今のどかにぞ、聞こえさすべき﹂
とて、立ちたまひぬ。
[第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす]
西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。
﹁ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし﹂と思し出でられて、をかしくなむ。今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
﹁一言、憎しなども、人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ﹂
と、おり立ちて責めきこえたまへど、
﹁昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ﹂
と思して、さらに動きなき御心なれば、﹁あさましう、つらし﹂と思ひきこえたまふ。
さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、
﹁つれなさを昔に懲りぬ心こそ
人のつらきに添へてつらけれ
心づからの﹂
とのたまひすさぶるを、
﹁げに﹂
﹁かたはらいたし﹂
と、人びと、例の、聞こゆ。
﹁あらためて何かは見えむ人のうへに
かかりと聞きし心変はりを
昔に変はることは、ならはず﹂
など聞こえたまへり。
[第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む]
いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、
﹁いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。いさら川などもなれなれしや﹂
とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人びとも、
﹁あな、かたじけな。あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ﹂
﹁軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。心苦しう﹂
と言ふ。
げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、
﹁もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを﹂と思せば、﹁なつかしからむ情けも、いとあいなし。よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御応へ、はしたなからで過ぐしてむ。年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを﹂とは思し立てど、﹁にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは﹂と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。
御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
[第一段 紫の君、嫉妬す]
大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、
﹁むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。いかにせむ﹂
と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。
﹁あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ﹂
とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。
﹁宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ﹂
など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。
﹁いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ﹂
とて、﹁常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや﹂と、かつはうち眺めたまふ。
﹁斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ﹂
など、日一日慰めきこえたまふ。
[第二段 夜の庭の雪まろばし]
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。
﹁時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ﹂
とて、御簾巻き上げさせたまふ。
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。
小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。
いと多うまろばさらむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。
[第三段 源氏、往古の女性を語る]
﹁一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。
いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。
うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。世にまた、さばかりのたぐひありなむや。
やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。
前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ﹂
とのたまふ。
﹁尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな﹂
とのたまへば、
﹁さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはことなき静けさ、と思ひしだに﹂
など、のたまひ出でて、尚侍の君の御ことににも、涙すこしは落したまひつ。
﹁この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは、かたき世なりや。
東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる﹂
など、昔今の御物語に夜更けゆく。
[第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ]
月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、
﹁氷閉ぢ石間の水は行きなやみ
空澄む月の影ぞ流るる﹂
外を見出だして、すこし傾きたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、
﹁かきつめて昔恋しき雪もよに
あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か﹂
入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつる、いみじく恨みたまへる御けしきにて、
﹁漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ﹂
とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
﹁こは、など、かくは﹂
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。
﹁とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に
むすぼほれつる夢の短さ﹂
[第五段 源氏、藤壺を供養す]
なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。
﹁苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ﹂
と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、
﹁何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて、罪にも代はりきこえばや﹂
など、つくづくと思す。
﹁かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人とがめきこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ﹂
と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。﹁同じ蓮に﹂とこそは、
﹁亡き人を慕ふ心にまかせても
影見ぬ三つの瀬にや惑はむ﹂
と思すぞ、憂かりけるとや。
︻出典︼
出典1 寿則多辱︵荘子-天地︶︵戻︶
出典2 恋せじと御禊は神もうけずかと人を忘るる罪深くして︵源氏釈所引、出典未詳︶
恋せじと御手洗河にせし御禊神はうけずもなりにけるかな︵古今集恋一-五〇一 読人しらず︶︵戻︶
出典3 君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を︵源氏釈所引、出典未詳︶︵戻︶
出典4 須磨の浦の塩焼き衣馴れ行けば憂き頼みこそなりまさりけり︵源氏釈所引、出典未詳︶︵戻︶
出典5 馴れ行けば憂き世なればや須磨の海人の塩焼衣まどほなるらむ︵新古今集恋三-一二一〇 徽子女王︶︵戻︶
出典6 しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし︵拾遺集哀傷-一三五〇 聖徳太子︶︵戻︶
出典7 身を憂しと言ひ来しほどに今日はまた人の上とも嘆くべきかな︵源氏釈所引、出典未詳︶︵戻︶
出典8 親の親と思はましかば問ひてまし我が子の子には︵拾遺集雑下-五四五 源重之母︶︵戻︶
出典9 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな︵後拾遺集恋三-七五〇 藤原道雅︶︵戻︶
出典10 恋しきも心づからのわざなればおきどころなくもてわづらふ︵中務集-二四九︶︵戻︶
出典11 犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答へよ我が名洩すな︵古今集墨滅歌-一一〇八 読人しらず︶︵戻︶
出典12 ありぬやと試みがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき︵古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず︶︵戻︶
出典13 春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は︵拾遺集雑下-五〇九 紀貫之︶︵戻︶
出典14 遺愛寺鐘*枕聴 香鑪峯雪撥簾看︵白氏文集巻十六、*=埼-土,+欠<右>︶︵戻︶
︻校訂︼
備考--︵/︶ ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 立ち返り--たちか︵か/$か︶へり︵戻︶
校訂2 やうにや﹂と--やうに︵に/+や<朱>︶と︵戻︶
校訂3 似つかはしき--につら︵ら/$か︶はしき︵戻︶
校訂4 書き紛らはし--かき︵き/+まき︶らはし︵戻︶
校訂5 宣旨--せむ︵む/$︶し︵戻︶
校訂6 前斎院を--前斎院︵院/+を<朱>︶︵戻︶
校訂7 御けしきの--御けしきの︵の/+の$<朱>︶︵戻︶
校訂8 たまひて--たま︵ま/+ひ︶て︵戻︶
校訂9 三年--みそ︵そ/$<朱>︶とせ︵戻︶
校訂10 出づる--いつ︵つ/+る︶︵戻︶
校訂11 ほほ笑まれ--をほ︵をほ/$ほゝ︶ゑまれ︵戻︶
校訂12 心ばへ--こ︵こ/+こ︶ろはへ︵戻︶
校訂13 光りあひて--ひかり△︵△/#︶あひ︵ひ/+て︶︵戻︶
校訂14 げに--け︵け/+に︶︵戻︶
校訂15 御あだけ--御仇︵仇/$あたけ︶︵戻︶
校訂16 とて--と︵と/+て︶︵戻︶
校訂17 心苦しう--心くる︵る/+し<朱>︶う︵戻︶
校訂18 なむや--*なむ︵戻︶
校訂19 うつくしげ--うつ︵つ/+く<朱>︶しけ︵戻︶
校訂20 すすい--すゝ︵ゝ/$す<朱>︶い︵戻︶
校訂21 代はりきこえ--かはりき︵き/$︶きこえ︵戻︶
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ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入