ハイネ詩集 生田春月訳(全文)

.

ハイネ詩集
生田春月 訳
 

目次
■ 若い悲み
 ・「夢の絵」から(三章)
 ・小唄(二十七章)
■ 抒情挿曲(六十九章)
■ 帰郷(百章)
■ ハルツ旅行から
 ・山の牧歌
 ・牧童
■ 北海
 ・海辺の夜
 ・宣言
 ・船室の夜
 ・凪ぎ
 ・破船者
 ・フヨニツクス鳥
 ・船暈
■ 新しい春(四十四章)
■ 巴里竹枝 その他
 ・セラフィイヌ
 ・アンジエリク
 ・デイアヌ
 ・オルタンス
 ・クラリツス
 ・ジョラントとマリイと
 ・ジェンニイ
 ・エンマ
 ・キテイ
 ・フリイデリイケ
 ・カタリナ
 ・他国で
 ・悲劇
 ・小唄
 ・何処に?
■ 後年の詩から
 ・女
 ・秘密
 ・ロマンツェロから
 ・アスラ
 ・世相
 ・かしこい星
 ・最後の詩集から
 ・エピロオグ

ハイネ詩集中普通広く読まれるのは『歌の本〈ブツフ・デル・リイデル〉』と『新詩集〈ノイエ・ゲデイヒテ〉』とである。 この訳本も右の二巻を主とし、これに後年の『ロマンツェロ』『最後の詩集〈レツツテ・ゲデイヒテ〉』中の作を加へて、 総計三百有一篇、ハイネの才能のあらゆる方面を示すために十分の注意を彿つたつもりである。 ハイネ愛好者の満足を買ふを得ば幸ひである。

『歌の本』中最も主要なる『抒情挿曲〈リリツシエス・インテルメツツオ〉』 (もと劇詩『ラトクリッフ』と『アルマンソル』の中間に挿まれて出版せられたので此名がある) 『帰郷〈デイ・ハイムケエル〉』の二部門、 『新詩集〈ノイエ・ゲデイヒテ〉』巻頭なる『新しい春〈ノイエ・フリユリング〉』及び 『若い悲み〈ユンケ・ライデン〉』中の『小唄〈リイデル〉』は全部訳出したから、 それ等の番号は原詩と全然同一である。そして原詩の番号による事の出来ないものに限り、 番号の打ち方を(その一)といふ風にして置いた。

訳語は全部口語を用ゐた。多少無理なところもあつた代り、或点ではかなり成功したかと思ふ。 訳し方は厳密な直訳をしたり、また極めて意訳をしたりした。韻律上の用意のためである。 尚この訳はレクラム版の全集を底本とし傍らボンス・スタンダアド・ライブラリイの英訳を参照した。

一九一九年一月

訳 者

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
若い悲み(一八一七年 – 一八二一年)

「夢の絵」から 

  その一

むかしわたしは夢みた、はげしい恋を
きれいな捲毛を、ミルテじゆを、木犀草を
苦い言葉の出て来る甘い唇を
悲しい歌の悲しい曲調メロデイ

その夢はとつくに破れて消え失せた
わたしの夢想はすつかり逃げ去つた!
そしてわたしがかつて熱い湯のやうに
やはらかな歌の中に注いだもののみが残つてゐる

とり残された歌よ!さあおまへも行くがよい
そしてとつくに消え去つた夢をたづね出し
もし見付けたらよろしくと言つてくれ——
はかない影にわたしははかない思ひをおくる
 

  その二

夜中の夢にわたしは自分の姿を見た
お祭りの日でゝもあるやうに黒い礼服に
絹の胴衣チヨツキを着込んでカフスをつけてゐた
そしてわたしの前には恋しい人が立つてゐた

わたしはお辞儀をして言つた『あなたが花嫁さん?
まあまあほんとにお目出たう!』
けれどわたしの喉からはやつとのことで
長く引つぱつた恭々うやうやしい冷たい言葉が出たばかり

するといきなり恋人の眼からは
涙がはらはら落ちて来て
やさしい姿は涙になつて溶けてしまつた

あゝ愛らしい眼よ、けだかい愛の星よ
おまへは醒めてゐる時いつでもだましたやうに
夢でもだますのだね、それでつもわたしは信じてあげる!
 

  その三

夢にわたしはちつぽけな可笑しい小男を見た
そいつは竹馬に乗つて大股に行く
まつしろな襯衣シヤツときれいな着物を着てゐたが
中味はといふとよごれてお粗末だつた

中味はみじめで無価値であつた
そのくせ外観みかけは大そう勿体ぶつてゐた
そいつは勇気といふことで長広舌をふるつてゐた
しかも軽蔑するやうに片意地に

『どうだい、誰だか知つてるか?まあ来て見ろ!』
かう言つて夢の神はいかにもずるさうに
鏡の縁の絵をわたしに見せた
祭壇の前にあの小男が立つてゐた
わたしの恋人が並んで立つてゐた、二人は『はい!』と言つた
そして沢山の悪魔が笑つて叫んだ『アーメン!』と

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  一

ほんとにきれいでけがれのない
驚くばかりの娘さん
ただもうおまへのためだけに
わたしはこの身を捧げたい

おまへのやさしい甘い眼は
月影のやうに輝いてゐる
おまへのあかい頬からは
薔薇のひかりがさしてくる

おまへの小さな口からは
白い真珠がのぞいてゐる
けれど一番きれいな寳石は
おまへの胸にそつとしまつてある

わたしがいつかおまへを見た時に
わたしの胸に忍び込んだのが
あれが恋といふものかしら
驚くばかりの娘さん!
 

  二

さびしくわたしはこの苦しみを訴へる
夜のふところに抱かれて
いそいそしてゐる人を避け
喜びの笑ふところも逃げずにゐられない

さびしくわたしの涙は流れてゐる
いつも静かに流れてゐる
しかも燃える心のあこがれは
涙でさへも消しはせぬ

むかしはわたしも元気な子供で
面白さうに遊んだものだ
人生といふものがたのしくて
苦しみとはどんなものかも知らなかつた

この世はいろんな花の咲いてゐる
庭園にはで、わたしの仕事といへば
薔薇や菫や素馨そけいの花の
花守をすることのやうな気がしてゐた

青い野原で夢みるやうに
小川の流れを見てたのに
今来て見ると蒼ざめた
やつれた顔がうつゝてゐる

あの人をこの眼で見てからは
こんなにわたしは蒼ざめて
人知れず胸が痛み出した
何たる不思議なかはりやうだらう

心の底にわたしは長いこと
しづかな平和の天使を抱いてゐた
それに天使は心配にふるへながら
星の故郷に飛び去つた

くらい夜陰やいんはわたしの日をおそひ
不気味な影がわたしを脅かす
そして胸の中ではさゝやくやうに
妙な聞きなれぬ声がひそひそいふ

馴れない苦しみ、馴れない悩みが
はげしい力でわきあがる
そしてわたしの内臓はらわた
馴れない熱が焼きつくす

だがわたしの心をやすみなく
焔がかつと燃やすのは
わたしが苦んで死ぬるのは——
恋よ、おまへの所業しわざだぞ!
 

  三

若者たちは娘の手をとつて
菩提樹の並木を散歩する
それにわたしは、あゝなさけない
たつたひとりで歩いてる

いゝ人と楽しんでゐる人を見ると
心はむすぼほれ眼はくもる
わたしにもいゝ人はあるけれど
あいにく遠方にゐるんだもの

かうしてわたしは長いこと辛抱した
けれどももう苦しくてたまらなくなり
荷物を包んで杖をとり
わたしは旅に出て行つた

さうして幾百里も歩いて行くと
たうとう大きな市街まちの来た
それは河口にたつてゐて
三つの大きな塔がある

そこで忽ちわたしの恋の悩みは消えて
心はうれしさにふるへて来た
そこでわたしは恋人の手をとつて
菩提樹の並木を三歩する
 

  四

こひしい人のところに行つてると
心が愉快になつてくる
するとわたしは心が豊かになつて来て
世界でも売つてやるやうな気持になる

けれどまたあの真白な
腕からわかれて来るときは
わたしの富はすつかり消えてしまひ
またも乞食のやうになる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  五

朝起きるとわたしは問うて見る
あの人は今日来るかしらと
晩には床に突つ伏し吐息する
あゝとうと今日もまた来なかつたと

苦しいおもひに責められて
夜つぴてわたしは眠られぬ
うつらうつらとまどろんでゞもゐるやうに
夜があけるとわたしは歩きまはる
 

  六

まあ何と心の落着かないことだらう!
もう何時間すると、わたしは逢へるのだ
きれいな処女むすめの中の一番きれいなあのひと
だがわたしの心よ、おまへはひどく動悸が打つてるね!

ほんに時間といふ奴はなまけものだ!
のん気にぶらぶらぶらついて
欠伸をしながら歩いてゐる
おいちと急いでくれよ、このなまけもの!

わたしは今にもまつしぐらに駈け附けたい!
だが時間といふ奴は恋をしない奴——
目に見えぬ残酷な紐にくゝられながら
時間は恋人たちの駈足を嘲笑あざわらふのだ
 

  七

沈んだ気持になりながら
木かげで一人でぶらついてると
昔の夢があらはれて
わたしの心に忍び込む

高い小枝にゐる小鳥
誰がおまへたちにその歌を教へたか?
お黙り!わたしの心がそれを聞くと
たまらなく悲しくなるからね

『これはきれいな娘さんにならつたのです
しよつちゆう歌つてゐましたから
わたしたちは直ぐに覚えたのです
美しい黄金のやうなその言葉を』

もうそんな話はやめてくれ
ほんとにずるい小鳥たち
おまへたちはわたしの悲みをらうとするんだね
だがわたしは誰も信用しやしない
 

  八

愛する人よ、わたしの胸に手をお置き——
どうだい、どんなに動悸が打つてるえ?
そこにはわたしの棺箱を
へたな大工がこさへてるんだ

夜昼となく槌打つて
はやもう疾くからわたしを眠らせぬ
あゝ、急いでやつてくれ、棟梁
わたしがすぐに眠れるやうに!
 

  九

わたしの歌が
花であつたらよからうに
わたしはそれをあの人に
送つて嗅がせてやるんだに

わたしの歌が
接吻きすであつたらよからうに
わたしはそれをこつそりと
あの人の頬におくらうに

わたしの歌が
豌豆ゑんどうであつたらよからうに
それをスウプに煮たならば
さぞやおいしいことだらうに

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  十

父の庭園おにはになよなよと
蒼ざめた花が悲しげに咲いてゐた
冬が往つても春が来ても
蒼ざめた花はやつぱり蒼ざめてゐる
その蒼ざめた花は何となく
病身の花嫁のやうに見える

その蒼ざめた花がそつとわたしに囁くには
『ぼつちやん、わたしを摘んで下さいな!』
花にわたしが言ふのには、『いやだよ
わたしはお前を摘みたくない
わたしが一生懸命に
さがしてゐるのは真紅まつかな花だもの』

蒼ざめた花が言ふには『いゝわ
そんならあなたは死ぬまで探しなさい
どうで無駄です、どうしたとても
真紅な花は見附かりますまい
それよりわたしをお摘みなさい
わたしはあなたのやうに病気です』

蒼ざめた花がこんなに囁いてたのむので——
わたしもたうとう摘みました
すると突然わたしの胸はもう血を流さなくなり
わたしの心のまなこは開いて来て
わたしの傷ついた胸のうちに
しづかなきよい楽みがやつて来た
 

  十一

わたしの悩みの美しい揺籃ゆりかご
わたしの安息の美しい墓標はかいし
美しい市街まちよ、いよいよもうお別れだ——
さやうなら!とわたしはおまへに言ふ

さやうなら、わたしの恋人の
足に踏まれた神聖な敷居よ
さやうなら、二人がはじめて逢つた
神聖な場処よ、さやうなら!

二人が一度も逢はずにしまつたなら
美しい心の女王さま!
そしたらわたしもこのやうに
苦しむこともなかつたらうに

おまへの胸にわたしはさはらうとはしなかつた
おまへの愛を決して求めはしなかつた
たゞおまへの息のするところで
黙つて暮さうと思つてゐたばかり

それにおまへはわたしを追ひやつて
むごい言葉を投げ附けた
わたしは狂人のやうになり
心は病んで傷いてゐる

そして身体からだは弱つてゐるけれど
杖にすがつて歩かにやならぬ
遠い他卿の冷たい墓に
疲れた頭をおくまでは
 

  十二

待つてくれ、待つてくれ、船頭さん
わたしも直ぐに港へ往くからね
わたしは二人の処女に別れて行く
欧羅巴と、さうして彼女とに

わたしの目からは血が流れる
わたしの身からも血が流れる
わたしの熱い血をもつて
この苦しみを書くために

それにおまへはなぜ今日はまた
わたしの血を見てふるへてゐるか?
わたしが真蒼まつさをになつて血を流しながら
前に立つてるのを長年見てゐたおまへぢやないか!

不吉な林檎をくれてやつて
われ等の祖先を不幸におとしいれた
あの楽園パラダイスくちなは
古い話をおまへは知つてるか?

林檎はあらゆる不幸を持つて来た!
イヴはそのために死をもたらした
エリンはトロヤの火焔ほのほを齎らした
そしておまへは二つとも、死と火焔ほのほとを齎らした
 

  十三

山と城とは鏡のやうな
ラインの流れにうつつてゐる
わたしの小舟はするすると
きらめく日影のなかをすべる

黄金の波のたはむれを
しづかに眺めてゐるうちに
胸底ふかくかくしてゐる
むかしの感情こゝろがよみがへる

笑顔をつくつてねんごろに
流れはわたしを誘ふけれど
わたしは知つてる—— いくら輝いてゐるからとて
夜陰と死とが底にかくれてゐることを

うはべは楽しさうだが胸に悪意たくみを秘めてゐる
流れよ、おまへは恋人のとほりだよ!
あの人もこんなにねんごろに会釈して
やさしく無邪気に笑つて見せたもの
 

  十四

はじめわたしは苦しくて
とても堪へられないと思つたに
しかもわたしは堪へて来た
だが訊いちやいけない、どうして?と

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  十五

あの星の照つてるところには
ここではとても得られない
喜びがあるにちがひない
死のつめたい腕にだかれたら
生ははじめて暖まり
夜があけて昼になるだらう
 

  十六

金箔と薔薇と扁柏いとすぎとで
わたしはきれいに飾りませう
棺箱ひつぎのやうにこの書物ほん
そしてわたしの歌を入れませう

あゝ、この恋しい思ひも入れることが出来たなら!
愛の墓には安息の草が萠え出して
花が咲いては摘まれてしまふ——
けれどもわたしには咲きはせぬ、墓に入つてしまはねば

こゝにはむかしのわたしの歌がある
エトナの熔岩の流れのやうに
わたしの胸の底から湧き出して
はげしい火花を散らした歌がある!

今では死骸のやうに黙つて寝たまんま
冷たくかたくなつてゐる
けれども愛の心が触れるなら
むかしの熱にかへるだらう

わたしの胸にはかうした予感がある
愛の心がいつかはそれに触れるだらう
遠い遠い土地にゐる恋しい人よ
いつかはこの書物ほんがおまへの手にわたるだらう

すると歌はにはかにいきかへり
蒼ざめた文字はおまへを見るだらう
祈るやうにおまへの美しい眼を見入り
恋するものの嘆息と嘆きとをさゝやくだらう
 

  十七

若い心が裂けるとき
星が空から笑ひます
星は笑つてはなします
たかい空から見おろして

『かあいさうなのは人間だ
心の底から恋をして
心をいためて死ぬほどに
苦労をしなけりやならぬとは』

『わたしたちは決してそのやうな
あはれな人間を殺してしまふ
恋などといふものを感じない
だからわたしたちは死にやしない』
 

  十八

いろんな姿に身を変へて
わたしはいつもおまへのそばにゐる
けれどいつでも悩んでゐる
いつもおまへに苦められて

もしもおまへが夏の日に
花壇の間を三歩して
一羽の蝶を踏みつぶしたら——
おまへはわたしの低いうめきを聞かないか?

もしもおまへが何気なしに
一つの薔薇を摘みとつて
花びらをとつてむしるなら——
おまへはわたしの低いうめきを聞かないか?

もしもかうして薔薇を折るときに
意地の悪い刺があつて
おまへの指を刺しでもするならば——
おまへはわたしの低いうめきを聞かないか?

自分の口から出る声のなかにさへ
おまへは、うめきのこゑを聞かないか?
夜中にわたしは吐息して
おまへの心の底から声立てる
 

  十九

森も野原も青くなり
雲雀は空にさへづつてゐる
春は来ました
光と色と匂ひをもつて

雲雀の歌は冬の間に
凍つた心をやはらげる
そしてわたしの胸からは
悲しい嘆きの歌が湧く

雲雀はほんとにいい声でさへづります
『なぜおまへはそんなにかなしく鳴くんだね?』
《これはわたしが昔から
ずつと歌つて来た歌ですよ!

これはわたしが緑の森かげに
悲しい心でうたふ歌ですよ
あなたのお祖母さんさへ若いとき
聞かれた悲しい歌ですよ!》

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  二十

いち日わたしはあの人を
夜は夜中まで考へた
そしてすつかり眠つてしまつたら
夢はわたしをあの人へ連れて行つた

あの人は薔薇の蕾のやうに美しく
しづかに仕合せさうにすわつてゐる
膝の上には倅をのせ
白い羊をぬひとりしてゐる

あの人はやさしくわたしの方を見て
なぜにわたしが悲しさうに立つてゐるのかわからない
『なぜそんなに蒼い顔をしてらつしやるの?
ハインリッヒ、何がそんなに悲しいの?』

あの人はやさしく見上げてわたしがやはり
泣きながら自分の顔を見てゐるのにおどろいて
『なぜそんなに辛さうに泣いてゐるの?
ハインリッヒ、誰がいけないことをして?』

あの人はやさしい落着いた顔して見るけれど
わたしは苦くて死にさうだ
『ねえ、おまへが、いけないことをしたんだよ
そしてこの胸の中には苦痛がかくれてゐるんだよ』

するとあの人は立ち上つてわたしの胸に
さもものものしく手を置いた
するとたちまち苦痛はのこらず消えてしまひ
わたしは愉快な気持で目が醒めた
 

  二十一

緑の森へ行つて見よう
森には鳥がうたひ花が咲く
いつかわたしも墓へ入つたら
目も耳も土に蔽はれて
花の咲くのも見られないし
鳥の歌ふのも聞けないからね
 

  二十二

さあもう仲よくしようぢやないか
かはいゝ花の美人たち
一しよにしやべつたり笑つたり
楽しいことして遊ばうよ

白いきれいな君影草よ
あかい顔した薔薇ばら子さん
まだらのぶちのある石竹せきちくさん
青いかはいゝ忘れなぐさよ!

おいで、こつちへ来てごらん
みんなわたしは歓迎するよ——
ただもうわたしは意地悪の
木犀草はよせつけまい
 

  二十三

またも昔の気持がかへつて来る
馬を飛ばせて行くやうな
またも恋しい思ひに燃えながら
恋人の家へ走つて行くやうな

またも昔の気持がかへつて来る
馬を飛ばせて行くやうな
憎悪に駆られて戦場へ駈け付けるのを
味方が待つてゐるやうな

旋風のやうに馬を走らせて
森も野原も飛んで行くやうな!
わたしの味方とわたしのかはいゝ子とは
二人とももう殺されてゐるやうな
 

  二十四

日も夜もわたしは頭をひねくつて
何ひとつしでかしたこともない
ハアモニイの中を泳ぎまはり
ひとつもいい詩が出来なかつた

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  二十五

子犬よ、わたしはおまへが好きなのを
おまへはよく知つてゐるだらう
砂糖を御馳走してやると
おまへはわたしの手をめる

おまへはたゞ犬といふので満足してゐる
自分以上の者に見せかけようとしない
それにおまへを除いたわたしの友逹は
みなあんまりてらつてよろしくない
 

  二十六

ほんとにさうだ、さうだ、もし我々が
わかくなかつたら、その忠告はよかつたらう!
我々はかまはず飲んではまたついで
杯を打合はせよう、女はお入りなさいと言つてくれる!

一人の女が我々をしりぞけようと
ほかの女が招いてくれる
そしてこの杯を乾したとて
おい、ラインの岸にはまだどつさり生えてるぜ!
 

  二十七

愛と憎みと、憎みと愛と
のこらずわたしの胸に来る
だがその一つさへも残らない
わたしはやつぱりもとの儘

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲 

   (一八二二年 – 一八二三年)

わたしの嘆きと苦みを
わたしはこの書の中に投げ込んだ
もしおまへがこれを開いて見るならば
わたしの心はおまへに開くだらう  

  一

たのしい春がやつて来て
いろんな花がひらくとき
そのときわたしの胸からも
愛のおもひが萠え出した

たのしい春がやつて来て
いろんな小鳥がうたふとき
こひしい人の手をとつて
わたしは燃ゆるおもひをうちあけた
 

  二

わたしのあるい涙から
いろんな花が咲いて出る
そしてわたしのため息は
あの夜鶯うぐひすの歌となる

おまへがわたしを愛するなら
この花をみなおくりませう
そしておまへの窓のそとに
夜鶯うぐひすの歌はひゞくでせう
 

  三

薔薇よ、百合よ、鳩よ、太陽
それらをむかしわたしは愛したが
もはやわたしは愛しない、今ではひとり
小さな、やさしい、清い、ひとりのあの人が
愛といふ愛の泉となりました
薔薇と、百合と、鳩と、太陽
 

  四

わたしはおまへの目を見ると
この悩みも痛みも消えちまふ
さて、おまへの口に接吻きすすると
わたしはすつかり丈夫になる

わたしがおまへの胸にもたれると
天国へでも行つたやうに思ふ
でも『わたしはあなたを愛します!』と
おまへが言へば、わたしはつらくて泣かずにゐられない

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  五

おまへの顔はあいらしい
夢にこのごろわたしが見たら
まるで天使のやうにやさしかつたが
なぜか苦しさうに蒼ざめてゐた

ただその脣だけはあかかつた
それもすぐ死が接吻きすをして蒼くした
そしておまへの無邪気な眼の
神々しい光も消してしまつた
 

  六

おまへの頬をわたしの頬にあてゝごらん
そしたら涙は一しよに流れよう!
おまへの胸をわたしの胸にあてゝごらん
そしたら焔は一しよに燃えるだらう!

さうしてふたりの涙の河が
はげしい焔にそゝぐなら
さうしておまへを力一ぱい抱いたなら——
わたしはこがれこがれて死んぢまはう!
 

  七

わたしは燃えるこの心を
百合のうてなにひたしたい
そしたら百合は音立てゝ
恋しい人の歌をうたふだらう

歌はふるへて響くだらう
あの楽しい時にあの人が
まつかな甘いくちびるで
わたしにしてくれた接吻きすのやうに
 

  八

星ははるかの大空に
何千年もうごかずに
恋のいたみを胸に抱き
顔見合はせてる、いつまでも

彼等はゆたかな、うつくしい
言葉をはなしてゐるけれど
どんなにえらい学者でも
それを知るのは一人もない

わたしはそれを彼等にをそはつた
さうしてつひに忘れない
わたしにとつての文法は
あの恋しい人の顔なんだ
 

  九

歌のつばさにかきのせて
いとしい人よ、わたしはあなたをはこびませう
かなたガンゲスの野のはうへ
かしこにわたしは美しいところを知つてます

そこには静かな月かげを浴びて
紅い花の咲きにほふ園がある
さうして蓮の花たちは
そのしたしい姉妹きやうだいを待つてます

菫はきやつきやつとうち興じ
なかよく星を見上げてゐる
薔薇は匂やかな物語を
互の耳にはなしあふ

おとなしやかな賢さうな羚羊かもしか
をどつてやつて来る、耳をすます
そして遠くでは神聖な
大河の波の音がする

かしこで二人は地にをりて
棕梠の木かげに座をしめて
恋といこひをのみほして
たのしい夢に入りませう

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  十

蓮の花はおどおどしてゐます
あまりにはげしいお日さまの熱に
そして頭を埀れたまゝ
夢みながら夜を待つてます

やがて愛人のお月さまが
そのやさしい光で呼びさます
蓮はしづかに開きます
信心ぶかいその顔を

蓮はかがやくばかりに花咲いて
だまつて空を見上げてゐます
そしては泣いて匂つてふるへます
恋しいおもひと恋のかなしみに
 

  十一

清いラインの流れには
しづかな波に影をひたす
たふといキヨルンのあるまち
大きな名高いその御寺てら
御堂おてらの中には金いろの革に
かれた画像がかけてある
わたしの寂しい生涯に
やさしい光を投げたあの画像すがた

その聖母マリヤのまはりには
天使が飛んで花がにほふ
その眼、そのくち、その頬は
わたしの好きなあの人にいきうつし
 

  十二

おまへはわたしを愛しない、わたしを愛しない
愛しなくともかまはない
おまへの顔さへ見てをれば
わたしはうれしい王様のやうに

おまへはわたしを憎んでゐる、わたしを憎んでゐる
それをおまへのあかい小さな口は言ふ!
でもその口が接吻きすにと差出されさへすれば
それでわたしは満足する
 

  十三

わたしは愛してまいてくれ
かはいゝかはいゝきれいなひとよ!
まいておくれよそのうででそのあしで
またそのしなやかなからだでもつて
 

   *   *   *

蛇の中の一番きれいな蛇が
かつてしつかりまきついて
はげしくだいたしめつけた
一番仕合者のラオコオンを
 

  十四

誓ふな、誓ふな、たゞ接吻きすせよ
わたしはちつとも女の誓ひを信じない!
おまへの言葉は甘くとも
おまへの接吻きすはなほ甘い!
その接吻きすを貰つてわたしはまたおもふ
言葉はほんにあとのない煙だと
 

   *   *   *

誓へよ、誓へよ、いつまでも
わたしはおまへの嘘を信じてあげる!
おまへの胸へ身を伏せて
わたしは仕合者だと信じよう
恋人よ、おまへが永遠に、永遠よりも一層長く
愛してくれるとわたしは信じよう

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  十五

あの人のかあいらしい眼のために
わたしは作らう、すてきなカンツォオネを
あの人の小さな口のために
わたしは作らう、たいしたテルツォネを
あの人のきれいな頬のために
わたしは作らう、上手なスタンザを
してもあの人が心といふものもつてたら
わたしは作らう、立派なソネットを
 

  十六

世間は馬鹿だよ、盲目めくらだよ
だんだん馬鹿げてくるだけだ!
どうだおまへ、世間はおまへの噂して
ひどくたちのよくない女だと言ふ

世間は馬鹿だよ、盲目だよ
世間はおまへをいつも誤解してる
そして奴等は知らぬのだ
おまへの接吻きすがどんなに熱くたのしいか
 

  十七

恋人よ、今日わたしに言つてくれ
おまへは幻影まぼろしぢやないのかい?
あつい真夏の真昼間
詩人の頭から生れたのぢやないか?

いやいや、こんな真紅な口や
こんな不思議に輝く眼は
こんな可愛いゝきれいな子は
詩人はとてもつくれない

バジリスクや吸血蝙蝠ヴアンパイヤア
竜やその他の怪物を
かうしたいやな生物いきもの
詩人の熱は生み出した

だが、おまへとおまへの狡猾や
おまへのかはいゝ頬つきや
やさしい嘘つく眼差まなざしは——
詩人はとてもつくれない
 

  十八

泡から生れたヴィナスの神のやうに
わたしの恋人は美しく輝いてゐる
だがその人は行つてしまふ
ほかの男の花嫁に

心よ、心よ、おまへは辛抱づよい
裏切り女をうらむな
我慢しろ我慢しろ、ゆるしてやれ
馬鹿な女のしたことを
 

  十九

わたしは怨まぬ、たとひ心が裂けようと
もはやこの手にかへらぬ人よ!わたしは怨まぬ
どんなにおまへがダイヤモンドで飾らうと
おまへの心の闇に光はさゝぬのだ

わたしはちやんと知つてゐる
夢におまへの心の闇で
おまへの胸を噛む蛇を見た
わたしは知つてる、恋人よ、おまへがどんなに苦しむか

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  二十

ほんとにおまへは不幸ふしあはせだ、わたしはきらはぬ——
恋人よ、ふたりは一しよに苦しまう
死といふものがやつて来て、いたんだ心を破るまで
恋人よ、ふたりは一しよに苦しまう

わたしはおまへの口にたゝへた嘲りを見る
おまへの瞳に強情の光るを見る
おまへの胸からのぼる傲慢を見る
しかしおまへは不幸ふしあはせだ、
わたしのやうに

またその口のはたには見えぬ痛みがうづき
おさへた涙は瞳の光をくもらせて
たかぶつた胸もうちに傷手いたでをかくしてゐる——
恋人よ、ふたりは一しよに苦しまう
 

  二十一

笛は吹かれる胡弓はひびく
太鼓は大きな音立てる
花嫁は婚礼の舞踏をどりををどる
しかもわたしの恋しいあの人が

銅鑼はがちやがちや叩かれる
吹管シヤルマインは鳴らされる
その間からかすかに洩れてくる
天使エンゼルたちの泣声が
 

  二十二

ぢやあおまへはすつかり忘れたのだね
わたしが長いことおまへの心を獲てゐたのを
おまへの心は甘く小さく偽りだ
おまへの心より甘く偽りの心はない

ぢやあおまへはわたしの心をしめつけた
あの愛と苦みとを忘れたのだね
わたしは知らない、愛が苦みより大きいかを
わたしはたゞ知つてゐる、それが二つとも大きかつたのを
 

  二十三

わたしがどんなにふかを負つてるか
あのちひさな花が知つたなら
私のいたみをなほすため
一しよに泣いてくれるだらう

わたしがどんなにわづらつてるか
あの夜鶯うぐひすが知つたなら
よろこばしげな守唄もりうた
うたつてくれることだらう

わたしのなげきを知つたなら
あのぴかぴか光る黄金の星は
たかいとこから降りて来て
さぞいたはつてくれるだらう

だがみんな知つてはゐなからう
たつた一人がそれを知る
ほんに自分の手でもつて
わたしの心をやぶつたその人が
 

  二十四

なぜに薔薇は青白い
いとしい人よ、なぜだらう?
なぜに緑の草の間に
青い茎はかたらぬか?

なぜに悲しげな声をして
雲雀は空にさへづるか?
なぜにバルザムの間から
死骸のにほひが立ちのぼる?

なぜにあんなに厭はしう
寒い日は野を照らすだらう?
なぜに地はこんなに灰色に
荒れた墓場に似てゐるか?

いとしい人よ、いつてくれ!
なぜにわたしはわづらふか?
いとしい人よ、どうぞいつてくれ
なぜにわたしをすてたのか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  二十五

彼等はおまへにいろんなことを告げた
いろんなことを訴へた!
けれどもわたしの心を苦めてゐる
そのことばかりは言はなかつた

彼等はがやがやしやべり散らし
責め立てるやうに頭を振つた
彼等はわたしを悪人と呼んだ
そしておまへはそれをすつかり信じてしまつた

けれども一番悪いそのことを
ちつとも彼等は知らなかつた
一番悪い、一番馬鹿げたそのことを
わたしはちやんと胸底にかくしておいたので
 

  二十六

菩提樹は花咲き、夜鶯うぐひすはうたひ
なさけぶかげにうれしげに日の笑ふとき
おまへはわたしに接吻きすをした
わたしを抱いて波うつ胸にかきよせた

木の葉は落ちて、鴉はいやな声で鳴き
日は倦んだ目付を投げてるとき
ふたりはよそよそしく呼び交した『さやうなら!』
そしておまへは鄭重に、極く丁寧なお辞儀した
 

  二十七

二人は気だてが似てゐたが
互ひに大層好きだつた
二人はよく『夫婦めうとごつこ』をしたものだ
でもつかみ合つたり叩き合つたりはしなかつた

一緒に笑つたりふざけたり
二人はやさしく接吻きすして抱き合つた
それがたうとう子供らしい気持から
森や野原で『かくれんぼ』をした
ところがあんまり上手にかくれた為めに
互ひに二度と見附け出すことが出来なかつた
 

  二十八

わたしは天国を信じない
いくら坊主がしやべつても
わたしはたゞおまへの眼を信じる
それがわたしの天国だもの

わたしは神様を信じない
いくら坊主がしやべつても
わたしはたゞおまへの心を信じる
その外にわたしの神はない

わたしは悪魔とよぶものを
地獄も地獄の苛責も信じない
わたしはたゞおまへの眼を信じる
それからおまへのよくない心を信じる
 

  二十九

長いことおまへはわたしに操を立てゝ
いろいろわたしの面倒を見てくれて
わたしが困つたり心配したりしてゐる時には
なにかとわたしを慰めてくれた

おまへはわたしに飲み食ひさせ
金まで大層貸してくれて
わたしの着物の心配したり
旅行劵をおくつてくれたりした

かはいゝ人よ、どうぞ神様がいつまでも
暑いにつけ寒いにつけおまへを守つてくれますやうに
そしておまへがわたしにしてくれた
あの親切をおまへにかけてはくれませぬやうに!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  三十

地は長いこと吝嗇けちにしてゐたが
春が来ると急に贅沢になつて来る
何を見ても飛んで笑つて喜んでゐる
それにわたし一人は笑へない

花は花らしく鐘は鳴る
鳥は昔話の鳥のやうにしやべる
けれどもそのおしやべりがわたしは気に入らぬ
わたしは何でもみじめに見える

第一、人間といふものが退屈だ
まへに気に入つてゐた友逹までが——
これはみんなわたしのかはいゝあの人が
『奥様』と呼ばれるやうになつたからだ
 

  三十一

いつもいつまでもわたしは帰らずに
他国で夢みて暮してゐたので
恋しい人はたうとう待ち切れなくなつてしまひ
たうとう結婚の着物を縫つて
そのやさしい腕で花婿を抱いた
馬鹿な若者の中の一番馬鹿なのを

その恋人はやさしく美しかつた
そのきれいな姿はいつも眼にうかぶ
菫いろの眼は薔薇いろの頬は
いつもかはらず咲いてゐる
こんないゝ人をとり逃してしまつたことは
わたしのやつた馬鹿の一番馬鹿なこと
 

  三十二

眼にはゆらめく青すみれ
頬には燃える紅い薔薇
小さいその手は白い百合
いつもさかえて花咲けど
心ばかりは枯れ果てた
 

  三十三

世は美しく空は青い
微風かぜはそよそよ吹いてゐる
花は野原で招いてゐる
あしたの露はかゞやいてゐる
何方どちらを見ても人間は歓呼してゐる——
それでもわたしは墓に寝て
死んだ恋人を抱いてゐたい
 

  三十四

いとしい人よ、もしもおまへが墓場へと
くらい墓場へ行くならば
わたしはそこに下りてゆき
おまへの身体からだにまつはらう

接吻きすし、はげしく抱きつかう
しづかな、冷たい、青ざめた子よ!
わたしはよろこんで、ふるへて、はげしく泣かう
わたしも死骸になつちまはう

真夜中ごにをめいて立ち上り
死人は群れてたのしく舞ひをどる
ふたりは墓にとゞまつて
わたしはおまへの腕に寝る

審判さばきの日、死人の群れは立ち上り
苦みに歓びにみな叫びあふ
ふたりは何を苦しまう
しづかにもたれてよこたはる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  三十五

松は寂しく立つてゐる
北国きたの冷たい山の上に
松は眠つてゐる真白な
雪と氷に蔽はれて

松は夢みる椰子の樹を
遠い東邦ひがしのその椰子は
焼けつくやうな絶壁に
寂しくだまつて悲んでゐる
 

  三十六

きれいな、あかるい黄金の星よ
遠くの恋しい人に告げてくれ
わたしが心きずつき青ざめて
やつぱりあなたを忘れぬと
 

  三十七

あゝ、あの人の足を乗せてゐる
踏台がわたしであつたなら!
どんなにあの人が踏み附けやうと
わたしは苦痛を訴へまい  

  (心は言ふ)
あゝ、あの人のピンをさしておく
クツシヨンでわたしがあつたなら!
どんなにあの人が刺さうとも
わたしは刺されて喜びたい  

  (歌は言ふ)
あゝ、あの人が髪を巻く
紙切れでわたしがあつたなら!
わたしはそつとあの人の耳に囁きたい
わたしの胸につもつてゐることを
 

  三十八

こひしい女と別れたのちは
笑ふことさへ忘れてしまつた
馬鹿者どもに馬鹿げたことを言はせても
それでもわたしは笑へない

女をなくしてしまつてからは
泣くこともまた出来なくなつた
心は辛くて裂けさうだけれど
それでもわたしは泣かれない
 

  三十九

わたしは大きな悩みから
小さな歌をつくり出す
歌は翼の音たてゝ
彼女の胸へと飛んで行く

歌は一たん飛んでは行くけれど
また帰つて来て嘆息する
嘆息しても言はうとしない
何をその胸で見て来たか

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  四十

わたしはどうしても忘れない
わたしの愛したかはいゝ女
おまへがむかしわたしのもので
心も身体からだもあつたのを

その身体からだがわたしはまだ慾しい
若いしなやかなその身体からだ
だが心は要らない、埋めてしまへ
心はわたしが有つてゐる

わたしの心を二つに切つて
その一つをおまへに吹き込みたい
そしておまへを抱いたなら
ふたりは一心同体になる筈だ
 

  四十一

日曜の晴着をまとうた俗物が
森や野原を散歩する
こうしのやうに飛んだり叫んだり
美しい自然に挨拶したり
ロマンティックな風景を
眼を据ゑてぢつと眺めたり
雀の歌やおしやべりに
耳を長くして聞きとれたり

それにわたしは黒いきれをかけた
部屋の小窓にもたれてゐる
わたしの馴染の幽霊が
真昼間さへ訪ねてくる

むかしの恋が泣きながら
死人の国からあらはれて
わたしの傍にそつと来て
わたしの胸を涙にまでもやはらげる
 

  四十二

かへらぬ時の幻影まぼろし
墓のなかからあらはれて
昔のさまをまのあたり
見よとばかりにさし示す

昼は巷をよろめいて
おぼつかなげに悲しげに
ものも言はずにさまよふを
あやしと人も見たであらう

夜は人目もないことゆゑ
まちのとほりをあちこちと
影を追うたり追はれたり
ゆめみ心地でゆきゝする

橋をわたつて行く時は
足音ばかりが高う鳴る
雲間を洩れる月かげは
むづかしさうな目を投げる

おまへのうちの前に来て
ただひと目でも会ひたいと
たかい小窓を見上げては——
どんなに心をいためたらう

わたしは知つてるその窓から
月の光にてらされて石像のやうに
たゝずんでゐるわたしの影を
おまへがいつでも見てたのを
 

  四十三

ある若者がある娘を慕うてゐたら
その娘はほかの男に恋をした
ところがその男はまたほかの女に惚れて
その女といつしよになつたとさ

娘は大そう腹を立て
出あひがしらに好きでもない
男といつしよになつたので
とうとうその若者は気がふれてしまつたとさ

これは昔の話ぢやあるけれど
いつまでたつても古くはならぬ
そしてその話が自分に起つたなら
心が二つに裂けてしまふ
 

  四十四

友情と、恋と、智慧の石と
この三つを誰れでも賞めたてる
わたしも賞めてさがしたが
あゝ!つひに一つも見あたらぬ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  四十五

昔あの人の歌つてくれたあの歌が
響いてくるのを聞いてると
心が苦しくなつて来て
胸がはり裂けさうになる

つらいおもひに堪へかねて
山の森へとかけのぼり
泣いて涙を流したら
あんな苦みさへ溶けてしまふ
 

  四十六

花といふ花は見上げてゐる
かゞやくまぶしい太陽を
河といふ河は流れこむ
かゞやく大きな海原へ

歌といふ歌は飛んで行く
かゞやくわたしの恋人へ——
かなしい歌よ、持つて行け
わたしの涙と吐息をも!
 

  四十七

あおざめた頬を涙に濡らしながら
王女が夢にあらはれる
二人は菩提樹の木かげにすわり
心ゆくまでむつみ合ふ

《あなたのお父様の黄金のしやく
玉座も金剛石ダイヤモンドの冠も
わたしはちつともいりません
かあいらしいあなたさへわたしのものならば》

『とてもそれは』と王女が言ふのには
『わたしは夜を待ちかねて
あまりにあなたの恋しさに
墓を出て来る身ですもの』
 

  四十八

ふたりは仲よく手をとつて
軽い小舟に乗つてゐる
夜はしづかに凪ぎはよい
沖へ沖へと舟は出る

幽霊島はうつくしく
月のひかりにかすんでゐる
たのしい音色が洩れて来て
霧は踊つて波をうつ

音色はいよいよ冴えわたり
霧はいよいよ飛びまはる
けれどそこへはよらないで
沖へ沖へと舟は出る
 

  四十九

むかし話のおもしろさ
その中にある夢の国
魔法の国のたのしさが
白い手をしてさしまねく

そこに夕日にてらされて
大きな花が咲いてゐて
花嫁のやうな顔をして
互にやさしく見合つてゐる——

そこには樹がみなものを言ひ
調子を合せて歌をうたふ
それに舞踊をどりの音楽のやうに
泉は高い音たてる——

そして一度も聞いたことのない
恋の小唄が響いてくる
不思議なたのしいあこがれが
おまへを酔はせてしまふまで!

あゝ、そこへわたしが行けたなら
そこで心を楽しませ
苦しい思ひをふりすてゝ
自由に幸福になれたなら!

あゝ!その楽しい夢の国
わたしはいつも夢にみる
けれど朝日がてるときは
はかに泡と消えてしまふ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  五十

わたしはおまへを愛する、昔も今も!
世界がくだけて落ちる日は
木端微塵の破片かけらから
わたしの恋の焔が燃えあがる
 

  五十一

ひかり輝く夏の朝
ひとりで庭をぶらついてると
花は囁き合つたり話し合つてゐる
それにわたしは黙つて歩いてる

花は囁き合つたり話し合つてゐる
そしては気の毒さうにわたしを見て
『わたしたちの姉妹ねえさんをおこつちやいやよ
ねえ、悲しさうに蒼ざめた方!』と言ふ
 

  五十二

わたしの恋はあはれつぽく
くらい光をはなつてゐる
夏の夜かなしいしんみりした
昔話を聞くやうに

『魔法の園にただふたり
恋人同士がさまようてゐる
夜鶯うぐひすたちは歌うたひ
月の光りはかゞやいてゐる

処女は石像のやうに静かに立つてゐる
騎士はその前に跪いてゐる
その時曠野の巨人がやつて来て
処女はおそれて逃げてしまふ

騎士が血みどろになつて斃れた時に
巨人はうちへよろよろ帰つて行く』——
わたしが葬られてしまふとき
この昔話は終るだらう
 

  五十三

彼等はわたしを苦しめて
蒼くなるまでかはらせた
わたしを愛したその人も
わたしを憎んだその人も

彼等はわたしの麺麭に毒を入れ
わたしの杯に毒をついだ
わたしを愛したその人も
わたしを憎んだその人も

しかい一番手ひどく苦めて
わたしを泣かせたその人は
わたしを憎みもしなければ
わたしを愛しもしなかつた
 

  五十四

おまへのやさしい頬の上に
夏はあつげに燃えてゐる
おまへのちひさな心には
つめたい冬がよこたはる

しかしおまへは変るだらう
わたしのかはいゝ恋人よ
頬には冬が来るだらう
夏は心に行くだらう

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  五十五

誰れもわかれのつらさには
かたく手と手をとりあつて
泣いてくどいて吐息して
いつはてるともおもはれぬ

わたし等ふたりは泣きもせず
あゝと吐息もしなかつた
しかしわかれて来たのちに
涙ながした吐息した
 

  五十六

食卓をかこんでお茶を飲みながら
恋の話に花を咲かせてゐた
優美で高尚な紳士たちと
やさしい心の婦人たちと

『恋はプラトニックでなくちやならん』
しなびた顧問官はかう言つた
顧問官夫人は皮肉な微笑わらひをうかべたが
なぜだか『あゝ!』と吐息した

つゞいて僧正ばうさんが口出して
『恋はあんまり夢中にならぬがよい
兎角身からだの毒だから』
お嬢さんはそつと『なぜでせう?』

伯爵夫人はかなしげに
『恋はほんとに熱病ですわ!』
さうしてとなりの男爵に
湯呑をしとやかに差し出した

食卓にはもう一つ空いた席がある
恋人よ、それはおまへの席なんだ
おまへがそこにゐたならば
おまへの恋の話をしたらうに
 

  五十七

わたしの歌は毒にそこねられてゐる——
どうすることも出来やせぬ
おまへはわたしのはなやかな
生活へ毒を盛つたのだ
わたしの歌は毒にそこねられてゐる——
どうすることも出来やせぬ
わたしは、胸にたくさんの蛇を抱いてゐる
そしておまへを、おまへをも
 

  五十八

またもわたしは昔の夢をみる
それは五月のばんだつた
二人は菩提樹のかげにすわり
互にいつまでもかはるまいとの誓ひを立てた

二人は誓つてはまた誓ひ
笑つたり愛撫したり接吻きすをしたりしたが
わたしが誓ひを忘れぬためだと言つて
おまへはわたしの手を噛んだ

おゝ涼しいをしたやさしい人よ!
おゝ美しい噛み附く子!
誓ひは立派なものだつたから
噛むことだけはおまけだね
 

  五十九

山のいたゞきに立つてると
センティメンタルになつて来る
『わたしが小鳥であつたなら!』と
わたしは千たびも吐息する

もしもわたしが燕なら、かはいゝ人よ
おまへのところへ飛んで行かう
そしておまへの窓ぎはに
わたしの寝床をつくらうに

もしもわたしが夜鶯うぐひすなら、かはいゝ人よ
おまへのところへ飛んで行かう
そしてみどりの菩提樹で
夜つぴて歌つて聞かさうに

もしもわたしが金糸黄雀ギムペルだつたなら
わたしはすぐにもおまへの胸へ飛んで行かう
おまへはほんに馬鹿者ギムペルにやさしくて
その痛みをなほしてくれるから

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  六十

わたしの馬車はしづかに行く
たのしげな森の木のかげや
日にきらめいて夢のやうに
花の咲いてゐる谷などを

わたしはすわつて夢みては
あの人のことを考へる
そのとき三つの影法師が
のぞき込んで頭で会釈する

彼等は嘲るやうに
しかめづらしたり飛んだりして
霧のやうにもつれ合ひ
くつくつ笑つて行つてしまふ
 

  六十一

おまへが墓場へ行つたとて
夢にわたしは泣き出した
目が醒めたとき、涙はやはり
頬を濡らして乾かない

おまへがわたしを見棄てたとて
夢にわたしは泣き出した
目が醒めたとき、わたしはやはり
長いこと咽んで泣いてゐた

おまへがかはらぬ誠を見せた
夢にわたしは泣き出した
目が醒めたとき、やつぱりやまないで
涙はながれた滝のやう
 

  六十二

夢におまへがなつかしさうに
挨拶するのを見たときに
わたしはおまへの足もとに
わつとばかりに泣き伏した

いたましさうな目付を向けて
おまへはブロンドの頭を振る
おまへの眼からは真珠のやうな涙の雫が落ちて来る

おまへは何かしづかに一言ひとこといつて
わたしに扁柏あすならうの花輪をくれた
目が醒めると花輪はかげもなく
言葉は忘れて思ひ出せぬ
 

  六十三

風は吠え立て雨は泣く
くらい陰気な秋の夜を
かあいさうな気弱な子
何処におまへはゐるんだね?

その子は寂しい小さな部屋の
窓にもたれて立つてゐる
眼には涙を一ぱいためて
夜の暗をぢつとながめてゐる
 

  六十四

秋風は木立をゆすぶつて
夜は冷たくしめつぽい
灰色の外套にくるまつて
わたしは森を一人で馬を駆る

どんなに馬を走らせても
心の方が先きになる
心はわたしを軽くふはふはと
あの人のうちへと連れて行く

犬は吠え立て従者等しもべら
提灯をもつて出迎へる
わたしは拍車の音たかく
螺旋階段らせんはしごをかけ上る

絨毯じうたんを敷いたあかるい部屋は
いゝ匂ひがして暖かだ
そこには、あの人が、わたしを待つてゐる——
わたしはあの人の腕へ飛んで行く

木の葉の中には風がざわめいてゐる
そして樫の樹はわたしに囁いて言ふ
『ねえ、馬鹿な年若な騎手のりてさん
そんな馬鹿な夢を描いてどうします?』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
抒情挿曲
 

  六十五

光りかゞやく星ひとつ
たかい空から落ちてくる!
それはなに星、恋の星
落ちて行くのが見えるのは!

林檎の樹からはたくさんの
花や木の葉が落ちてくる
いたづらものゝそよ風が
面白さうにもてあそぶ

池の中には白鳥が
泳ぎまはつては歌つてゐる
だんだん声を低くして
つひには水にもぐり込む

暗くしづかになつて来た!
花や木の葉は吹き去られ
星は砕けて飛び散つて
白鳥の歌は消え去つた
 

  六十六

つめたくしんとした真夜中の
森を泣いてはかけまはり
寝てゐる木立をゆすぶると
慰め顔にかしら振る
 

  六十七

誰でも自殺をしたものは
十字路のわきに埋められる
そこには青い花が咲く
それを哀れな罪人の花とよぶ

十字路に立つてわたしは吐息する
夜はひんやりとして音もない
しづかに月の光に動くのは
哀れな罪人の花である
 

  六十八

何処へ行かうとわたしのまはりには
深い恐ろしい暗がある
恋人よ、わたしにはおまへの眼がもはや
輝やかなくなつてからといふものは

甘やかな愛の星かげの
黄金の光はわたしに消え失せた
わたしの足もとには淵があいてゐる——
わたしを取つてくれ、古い夜!
 

  六十九

古いくだらぬ歌反古や
心を悩ます夢まぼろしを
さあもうすつかり葬らう
さあ、大きな柩を持つて来い

何であらうとかまはずに
いろんなものを投げ込むのだから
柩はもつと大きくなくちやならん
ハイデルベルヒの樽のやうに

それから棺台くわんだいを持つて来い
板の厚くしつかりした奴を
それももつと長くなくちやならん
マインツにある橋のやうに

それから一二人の大男を連れて来い
それもキヨルンの御堂おてらづしにある
クリストフ聖者の像よりも
もつと強さうでなくちやならん

その大男に柩を担いで行かせ
海へ沈めてしまはせろ
こんな大きな柩には
大きな墓がいゝからね

してまた柩がそのやうに
なぜ大きく重いか知つてるか?
それはわたしがこの愛と
この苦みとをいれたんだもの

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷 

  (一八二三 – 一八二四年)

僕等は憎むあらゆる半端な快楽を
あらゆる生ぬるいまづい歌を
何の罪をも知らないならば
なぜつくり笑ひなどをして見せる?
臆病者は溜息ついて眼を伏せる
だが勇敢なものは光明へと
そのきよらかな睫毛をあげる  

     —— イムメルマン——
 

  一

わたしのあまりに暗い生活へと
かつてやさしい姿が光を投げ込んだ
もうそのやさしい姿は消えてしまひ
わたしはすつかり夜陰に包まれた

子供がやみのなかにゐて
心がせつなくなつて来ると
その恐ろしさを追ふために
たかい声をあげて歌をうたふ

わたしも馬鹿な子供ゆゑ
今くら暗で歌をうたふ
その歌はたのしいものぢやないけれど
でも心の恐れを追ひ払ふ
 

  二  

  ロオレライ

こんなに心が悲しいのは
一たいどうしたわけかしら
昔むかしの物語が
いつも心をはなれずに

あたりは冷たく暗くなり
ラインはしづかに流れてゐる
岸辺の山のいたゞきは
夕日の光にかゞやいて

山の上にはおどろくばかり
きれいな娘がすわつてゐて
黄金の飾りをかゞやかせ
黄金の髪をいてゐる

黄金の櫛で梳きながら
娘はしづかに歌をうたふ
心の底まで沁みこむやうな
はげしい調しらべの歌をうたふ

小さな舟の舟人は
はげしい痛みにとらはれる
あぶない暗礁いはも目に附かず
山の上ばかりをながめやる

あゝ、やがては舟も舟人も
波に呑まれてしまふだらう
そしてこれはみなあの歌で
おまへがしたのだ、ロオレライ
 

  三

わたしの心、わたしの心は悲しいが
春はうらうら照つてゐる
わたしは古い城あとの
菩提樹にもたれて立つてゐる

下には青い市街の外濠そとぼり
しづかに音もなく流れてゐる
一人の子供が舟をあやつツて
釣を埀れながら口笛を吹いてゐる

むかう岸には絵のやうに
小さく気持よく見えてゐる
別荘や庭園にはや人影や
牛や草場や森などが

婢女をんなは洗濯してからに
草場の中を飛びまはる
水車は金剛石ダイヤモンドをはね散らし
かすかにごとごと音がする

古い灰色の塔のほとりには
番小舎が一つ立つてゐて
赤い服着た若者が
そこを往つたり来たりする

そいつがふりまはす鉄砲は
日にきらきらと輝いてゐる
捧げつゝをしたり担いだりするたびに——
あいつがおれを打つてくれればいゝものを
 

  四

森をさまよひ泣くときに
つぐみは梢に飛びをどり
やさしい声でうたふには
『なぜにおまへは悲しいか?』

燕が、あのおまへの姉妹きやうだい
それをおまへに告げるだらう
こひしい人の窓ぎはに
巣をこしらへてるあの鳥が

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  五

夜はしめつぽく荒れてゐる
空には星のかげもない
森のざわめく木の下を
わたしは黙つて歩きまはる

遠くのさびしい猟師の家に
あかりが一つともつてゐる
でもわたしは入つて行く気がしない
なんだか不気味に思はれて

めくらのお祖母さんは気味わるく
革の肱つき椅子にぢつとして
石像のやうに動かずに
たゞひと言も口にしない

赤い頭髪あたまをした山番の息子は
罵りながら部屋を往つたり来たりして
さうして鉄砲を壁へ投げつけて
腹立たしげに嘲笑あざわら

糸を紡いでゐる美しい娘は泣いて
涙で亜麻あさを濡らしちまふ
その足もとにはすりよつて
ぢいさんの貍がうなつてゐる
 

  六

旅でわたしがはからずも
恋人のうちの人たちに
その妹とお父さんお母さんに出逢つたとき
彼等はわたしを歓迎してくれた

彼等はわたしの身体からだの工合をきいて
さうしてすぐにつけ加へていつた
あなたはそんなに変つてもゐられぬが
たゞなぜか顔色がおわるいと

わたしは叔母さん逹や従姉妹いとこ逹や
その外の退屈きはまる先生方の様子をたづね
それからあの小さな犬ころはどうしてます
やつぱり可愛らしく鳴くでせうねと訊いた

それから急に思ひ出したやうにたづねて見た
お嫁に行つた彼女のことを
すると親切に彼等はこたへてくれた
彼女がいまお産で寝てゐると

わたしはさもうれしいといふ顔をして
いろいろと喜びを述べてからかう言つた
どうぞお帰りになつたらくれぐれも
わたしがよろしく申したとおつしやつて下さいと

妹はその間に口をはさんで言ふのには
『あのかはいらしかつた子犬はね
大きくなつて乱暴でね
ライン河へはふり込まれたのよ』

このかはいらしい子はあの人によく似て来て
笑ふときなんかそつくりだ
そしてあの目付と同じ目付でもつて
またもわたしを悩ました
 

  七

わたし逹は漁師の家にすわつて
海の方を眺めてゐると
夕の霧がやつて来て
高く高くのぼつて行く

灯台にはがついて
だんだんひろがつて行つて
はるかかなたの沖合ひに
船が一隻見えて来た

わたし逹は話した、暴風雨あれのこと
難船のこと舟乗のこと
空と水との間に、心配と
喜びとの間に漂ふ生活のこと

わたし逹は話した、南や北の
遠い国々の岸のこと
そこの不思議な民族たみのこと
またその不思議な風俗のこと

ガンゲス河の岸辺は風がにほはしく
巨大な樹木が花咲いて
美しいもの静かな人たちが
蓮の花のまへに跪いてゐる

ラプランドには背の低い
頭の平たい口の大きな汚ない連中が
焚火をかこんでうづくまり
魚を焼いてはがやがや言つてゐる

娘たちは親身に聞いてゐた
そしてたうたう誰ももう話さなくなつた
船はもう見えなくなつてしまひ
すつかり暗くなつて来た
 

  八

きれいな漁師の娘よ、その舟を
岸に漕ぎ寄せ来てごらん
こゝにすわつて手をとつて
二人仲よくはなさうよ

わたしの胸におまへの頭をおゝき
何もおそれることはない
毎日おそれ気もなく荒海に
んかせきつてる身ぢやないか!

わたしの胸も海とおなじこと
嵐もあれば、潮の満干みちひもあるけれど
底にはたくさん美しい
真珠もかくれてゐるからね
 

  九

月はしづかにのぼつて来て
波を隈なく照らしてゐる
わたしは恋しい人を抱いてゐる
さうして二人の胸は波を打つてゐる

やさしい人のやさしい腕に抱かれて
わたしは海辺にやすんでゐる
『どうしてそんなに風の音を聞いてるの?
どうしておまへの白い手はふるへるの?』

《それは風の音ではありません
海の娘の歌です
あれは昔海に呑まれてしまつた
わたしの姉妹きやうだいの歌ですわ》

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  十

月は雲間にやすんでゐる
大きなオレンヂみたやうに
きらめく光は一面に
灰色の海を照らしてゐる

白い波のくだける海岸を
わたしはさびしく歩いて行く
すると水の底からひそひそと
いろんな甘い言葉が聞えて来る

あゝ、夜は長いあんまり長い
わたしの心はもう黙つちやゐられない——
きれいな水の娘よ、出ておいで
出て来てお通りよ、お歌ひよ!

わたしの頭をおまへたちの膝に取つてくれ
身体からだ霊魂こゝろもみんなあげるから!
わたしが死ぬまで歌つて抱いてくれ
はげしい接吻きすでわたしの生命いのちを取つてくれ
 

  十一

灰いろの雲につゝまれて
今神々は眠つてゐる
わたしは彼等の鼾を聞く
人間はそれを嵐と呼んでゐる

あゝこの嵐!このはげしい大暴雨おほあれ
あはれな舟は砕けちまふ——
あゝ、誰がこの風を鎮めよう
この我儘な大波を!

わたしは嵐を鎮め得ない
帆檣マスト舷板ふなはたのこはれるのも
それでわたしは外套に身をくるむ
神々のやうに眠らうと
 

  十二

風はズボンを身に着ける
水の真白なズボンを!
風は烈しく波を打つ
波は逆巻き吼え立てる

暗い空からはすさまじく
篠つく雨が落ちて来る
まるで古い夜が古い海を
溺れさせてしまはうとするやうに

かもめは帆檣にしがみついて
しやがれた声で鳴き叫ぶ
ばたばたいやな羽搏はばたきをする
何か不幸を予言でもするやうに
 

  十三

嵐は舞踏をどりの曲を弾く
嵐は吠えに吠えたける
なんとまあ、あの船の揺れること!
夜は物凄くまた楽しげだ

さかまく海はすさまじく
山なす海はすさまじく
こゝに真黒な淵を穿つては
かしこに白い山を築く

船室ケビンからは呪咀のろひの声や嘔吐の音や
祈りの声が洩れてくる
わたしは帆檣マストにしつかりつかまつて
うちにゐたらよかつたのに!と考へる
 

  十四

夕闇がだんだん迫つて来て
霧は海一面を蔽うてしまつた
波は不思議な音立てゝ
白い柱を立てゝゐる

人魚は波から海辺に上つて来て
わたしの傍に来てすわる
そのましろな胸を美しく
紗衣うすものの下からのぞかせて

彼女は息さへ出来ぬほど
わたしをしつかりかきいだく——
これはあんまりきついぢやないか
ねえ、美しい人魚さん!

『わたしはあなたをこの腕で
力いつぱい抱きますわ
あなたのお胸であたゝまりたいの
あんまり寒い夜ですもの』

月はだんだん蒼ざめて
くら雲間に照つてゐる
おまへの眼はだんだん曇つて濡れて来る
ねえ、美しい人魚さん!

『だんだん曇つて濡れて来るのぢやありません
わたしの眼はもとから濡れて曇つてゐるのです
水の中から出てまゐつた身ですもの
眼の中に雫が残つてゐるんです』

かもめは悲しげに鳴きさけび
海はさかまき吼え立てる——
おまへの胸は大そう動悸が打つてるよ
ねえ、美しい人魚さん!

『わたしの胸は大そう動悸が打つてます
えゝ、あなたが仰しやる通りだわ
大層あなたを愛してゐますもの
ねえ、かはいらしい人間さん!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  十五

どんなにまあわたしは喜ぶか
おまへの家のかたはらを
毎朝通りすぎるとき
おまへの姿がもしも窓辺に見えたなら

おまへの黒い眼はぢつと
たづねるやうにわたしを見る
『あなたは誰です?見知らぬ方
病人の方、何をあなたは求めます?』
その国ぢゆうに知られてる
わたしは独逸の詩人です
もし一等いゝ名を挙げたなら
わたしの名前もそれでせう

さうしてわたしの求めるものは
独逸で求められてるものがそれですよ
もし一等ひどい苦痛いたみを挙げたなら
私の苦痛いたみもそれでせう
 

  十六

海は沖まで輝いてゐた
入日の余光に照らされて
ふたりは寂しい漁夫れふしの小屋に
たつたふたりきりで黙つてすわつてゐた

霧立ちのぼり波立つて
かもめはあちこちへ飛んでゐた
おまへのかはいゝふたつの眼から
涙の雫が落ちて来た

涙がおまへの手に落ちたとき
わたしはおまへの前に跪いて
おまへの白い手を取つて
その涙をすつかり飲んぢまつた

その日からわたしはだんだん痩せて来て
逢ひたさ見たさに死ぬばかり
あゝ、あの不幸な女の涙
涙といふ毒を飲んでから
 

  十七

むかうの山の頂きに
きれいなお城がたつてゐる
そこにはわたしが恋を味つた
三人のお嬢さんが住んでゐる

土曜日はイェッテがわたしを接吻きすします
日曜日にはユウリアが
さうして月曜日にはクニグンデが
すんでの事わたしを窒息させようとした

けれども火曜日にはこの三人の
お嬢さんのゐるお城には饗宴おひはひがあつて
近隣ちかくの紳士たち淑女たちが
馬や車でやつて来た

わたしはところが招かれなかつた
何といふ馬鹿なことをしたものだ!
おしやべるの叔母さんたちや従姉妹いとこたち
それに気が附いて大笑ひ
 

  十八

《わたしの愛する百合子さん
おまへは夢みるやうに河辺に立つて
かなしげに川をながめては
嘆息してるね『あゝ!』とか『つらい!』とか》

『あなたの愛撫をもつてお行きなさい!
嘘つき、わたしは知つてます
わたしの従姉妹いとこの薔薇さんが
あなたの薄情な心に気に入つたのを』
 

  十九

遥か彼方の地平線ホライゾン
うすぼんやりと見えてゐる
たくさん塔のあるあの市街まちが——
夕の時につゝまれて

しめつぽい風は渦を巻いてゆく
灰色をした水の上を
悲しい櫓音で漕いで行く
わたしの舟の船頭は

日はまたもう一度あらはれて
もう一度さつと輝いて
わたしが愛する人を失つた
あの場処をわたしに見せてくれる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  二十

わたしはおまへに挨拶する
広い不思議な大都会!
おまへの膝にはそのむかし
わたしの恋人が抱かれてをつたのだ

まちの門よ、塔よ、言つてくれ
わたしの恋人は何処へ行つたのだ?
わたしは彼女をおまへ逹にあづけて置いた
おまへ逹はその担保かたにならなきやならぬ

塔には何の罪もない
彼等はその場を動き得ないから
トランクや包みをもつて恋人が
市街まちをさつさと出て行つても

だが門のやつはわたしの恋人を
こつそり逃がしてしまつたのだ
門はいつでも承知する
女のたのむことならば
(門といふ字にはまた馬鹿といふ意味もある)
 

  二十一

かうしてまたも昔の道を行く
むかし馴染のその路を
こひしい人の家のまへに来て見ると
人気もなく荒れ果ててゐる

街道とほりは本当に狭くるしい!
敷石はとても我慢も出来やしない!
家並やなみは頭の上に落ちて来さうだ!
出来るだけ急いで行つちまはう!
 

  二十二

むかし彼女がわたしにかはらぬ誠を誓つた
あの堂へ久しぶりにのぼつて見たら
むかし彼女の涙のしたゝつたところからは
不気味な蛇が這ひ出してゐた
 

  二十三

夜は静かに街路まちには人の影もない
この家にわたしの恋人は住んでゐたんだ
彼女はもうとくにこの市街まちを棄てゝ行つたが
そのうちはやつぱり同じところに立つてゐる

そこには一人の男が立つてぢつと見上げてゐる
はげしい苦痛に両手をしぼりながら
その男の顔を見たときわたしはぞつとした——
月はわたしにわたし自身の姿を見せたぢやないか!

あゝ、わたしの分身よ、蒼ざめた男よ!
なぜまたおまへはわたしの真似をする?
すぎ去つた日の夜毎夜毎
こゝに立ち尽しては嘆いたその真似を
 

  二十四

おまへはわたしのまだ生きてゐるのを知つてるか
どうしておまへはやすやす眠れるのか?
またも昔の怒がかへつて来ると
わたしはこの桎梏なんかぶちやぶつてしまふぞ

おまへはあの古い小唄を知つてるか?
むかし一人の若者が死んでしまつてから
真夜中ごろに恋人の娘のところに現れて
自分の墓へ娘を連れ込んだといふあの唄を

わたしを信じてくれよ、かはいゝ子
本当に美しいやさしい子
わたしは生きてゐるんだよ
死人より、どの死人よりもつと強いのだよ!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  二十五

娘は自分の部屋に眠つてゐる
月はふるへながら覗いてゐる
うちの外には歌の声や音楽の声が響いてゐる
ワルツの曲調メロデイでもあるやうに

《誰があんなに騒いでわたしの眠を妨げるか
窓からのぞいて見てやらう》
するとそこには一つの骸骨が立つてゐて
胡弓を引いては歌つていふ

『まへにあんなに一緒に踊らうと約束しておきながら
あなたは約束を破つておしまひだつた
今夜は墓場に舞踏会がありますから
さあ来て一緒に踊つて下さいな』

骸骨はしつかり娘をつかまへて
うちの中から呼び出すと
胡弓を引いては歌つて行く骸骨の
あとから娘はついて行く

彼は胡弓を引いては飛び踊り
骨をこつこつ鳴らしては
その髑髏しやりかうべをふりまはす
月のひかりの物すごさ
 

  二十六

わたしがくらい夢の中で
あの人の肖像を眺めてゐると
愛する顔は不思議にも
生きてるやうになつてくる

そして彼女のくちのまはりには
不思議な微笑わらひがうかんで来る
そして悲しい涙でも
うかんだやうに目は光る

わたしの涙もそのやうに
頬をつたつて落ちて来る——
そしてああ、おまへを失つたとは
とても本当だとはおもへない
 

  二十七

わたしはみじめなアトラスだ!
全世界の苦痛を背負つてゐなけりやならぬ
堪へがたいものをわたしは堪へて負うてゐる
そしてわたしの心はもうはや裂けさうだ

あゝ高ぶつた心よ、それはおまへが願つたことだ!
おまへは幸福で、限りないほど幸福であるか
でなくば限りないほど不幸であらうと願つたのだ
そして見ろ、今おまへは悩んでゐる!
 

  二十八

年は来る、年はすぎる
昔馴染の人はみな墓場へ行つた
しかしわたしの心に秘めてゐる
愛はさびしくとりのこされた

たゞ一度、わたしはおまへの顔が見たい
そしておまへの前にひざまづき
そして死にながらおまへにかう告げたい
『奥さん、わたしはあなたを愛します!』
 

  二十九

夢に月は悲しく照つてゐた
星は悲しく照つてゐた
夢はわたしを恋人の住んでゐる
何百哩も隔つた市街まちへ連れて行つた

夢はわたしを彼女の家へ連れて行つた
わたしは階段の石に接吻きすをした
それは彼女の小さな足や
彼女の着物のすそに触つた石だもの

夜は長かつた、夜は寒かつた
石は本当に冷たかつた
その窓からは蒼ざめた姿がのぞいてゐた
月のひかりに照らされて

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  三十

そんなにわたしの目をくもらせて
一体どうしようと言ふのだらう?
このさびしい涙は昔から
わたしの目からはなれない

かつては輝く姉妹きやうだいをもつてゐたが
それはみなくに流れ去つた
わたしの悩みと喜びとにともなうて
夜と風とに消え去つた

ほほゑみながらこの胸へ
あの喜びと悩みとを
なげこんだ青い星もまた
流れてしまつた霧のやうに

あゝ、わたしが抱いてゐた恋すらも
あとのない風のやうに消え去つた!
古いさびしい涙よ
おまへも流れて行つちまへ!
 

  三十一

蒼白い秋の半月が
雲間からそつと覗いてゐる
墓地の隅にはものさびしげに
牧師の家が静かに立つてゐる

母親は聖書を読んでゐる
息子は灯明あかりをぢつと見つめてゐる
姉娘は寝ぼけて伸びをする
姉娘の言ふのには

『あゝ、何て退屈なことだらう
本当にくさくさしてしまふ!
誰か墓場に埋められる時でなくちや
何一つ見るものだつてないんだもの』

母が読書をやめて言ふのには
『そんならお気の毒だね、墓場の入口に
おまへのお父さんの埋められなさつてから
たつた四人よつたり死人があつたきりだものね』

姉娘はその時欠伸して
『かうしてゐたんぢやひぼしになつちまふ
わたしは明日は伯爵のところへ行かう
あの人はお金持だし、わたしを好いてるからね』

息子はからから笑ひ出して
『星の世界ぢや三人の猟夫れふしが酒盛してる
あいつ等はきんを造ることを知つてるから
おれにその秘密を教へるだらう』

母は息子の瘠せた顔を目がけて
聖書をどしんと投げつけて
『この罰当りめ獄道ごくだう
おまへは追剥にでもならうと思ふのか!』

彼等はその時窓を打つ音を聞き
さし招いてゐる手をば見る
戸外そとにはなくなつた父が立つてゐるのだ
黒い僧服を身に着けて
 

  三十二

何といふわるい天気だらう
雨がふる、風がふく、雪がふる
わたしは窓辺にすわつたまゝ
暗の中をばながめてゐる

をりしも灯火あかりが一つあらはれた
動くともなく揺れながら
提灯さげたお婆さんが
街路まちのむかうへとぼとぼ行く

あのお婆さんは玉子と牛酪バタ
粉とを買ひに出たのだらう
さうして大きな娘のために
菓子をこさへてやるのだらう

その娘はうちの肱かけ椅子で
ねむたさうに灯明あかりを見てるだらう
きれいな顔を波のやうな
黄金の捲毛に蔽はせて
 

  三十三

恋のなやみのはげしさに
わたしが苦しんでゐると人は言ふ
さうして人とおなじやうに
たうとうわたしもそれを本当にしてしまつた

大きな眼をした小さな人よ
わたしはいつもおまへに言つた
とても口では言へぬほどおまへを愛して
その愛する思ひにわたしは心を噛まれてゐると

しかし自分の寂しい部屋で
壁にむかつて言つただけ
あゝ!なぜかおまへの前に出ると
いつでもわたしはだまり込んでしまふ

それは意地の悪い天使があつて
わたしの口をおさへてしまふからだ
さうしてあゝ!その悪い天使のために
わたしは今こんなに不仕合だ
 

  三十四

おまへのましろな百合の指に
一度接吻きすが出来たなら
さうしてそれをわたしの胸におしあてゝ
さうして静かに泣けたなら!

おまへの澄んだ菫の眼が
日も夜もむかうにちらついて
さうしてわたしを苦しめる
あゝ、何を語るか甘い空色のこの謎は!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  三十五

『おまへのはかない恋を見て
彼女は何とも言はなかつたか?
おまへは彼女の眼のなかに
一度も愛の答へを読まなかつたか?

おまへは彼女の眼のなかから
心の底まで突き入らなかつたか?
友よ、おまへはかうした事に
いつもはそれ程馬鹿ぢやないんだが』
 

  三十六

ふたりはしんから惚れてゐたが
どちらもうちあかさうとはしないで
そしらぬふりに冷やかに
ものも言はずに行きすぎた

とうと逢はなくなつちまひ
夢のほかには見なかつた
互の愛をも知らずに死んだ
ふたりの墓には苔むした
 

  三十七

わたしが君たちにこの苦しみを訴へた時
君たちは欠伸して何も言はなかつた
しかもそれをわたしが立派な詩にして見せた時
君たちは大そうわたしを賞めそやした
 

  三十八

わたしは悪魔を呼んだ、悪魔が来た
驚いてわたしは彼を見た
彼は醜くもなく、びつこでもない
人好きのする気の利いた男だ
男ざかりといふ年配で
丁寧で、またよく物のわかつた男だ
彼は如才のない外交家だ
そして教会や国家について雄弁をふるふ
顔はいくらか蒼かつたが、それも不思議はない
サンスクリットとヘエゲルを今ぢや研究してゐるからね
彼の愛読の詩人は相変らずフウケエだ
だが彼はもう批評はやらぬと言つてゐる
そんな事は今ぢや祖母おばあさんの
ヘカテエにみなまかせてしまつたのだ
彼はわたしの法律の勉強を賞めて
自分も以前これをやつてゐたものだと言つた
彼はわたしがあまり打ちとけてくれないと
いさゝか不平を言つて、それからうなづいて
我々は以前まへにも一度逢つたことがある
西班牙公使のところで逢つた筈だがと言つた
それで彼の顔をよくよく見たら
成程、昔馴染の男であつた
 

  三十九

人間よ、悪魔を嘲るな
人生といふものは短いからね
そして永遠の地獄の苛責といふものは
いゝ加減な迷信ぢやないからね

人間よ、おまへの借金を払ふがよい
人生といふものは長いからね
そしておまへはまだ度々借りなきやならないからね
おまへがこれまでいつでもしたやうに

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  四十

東方から来た三人の聖なる王様が
市街まちへ入つて来るたびに訊くのには
『坊ちやん方に嬢ちやん方
ベトレエムへはどう行きますか?』

子供も老人としよりもその道を知らなかつた
王様たちは真直に進んで行つた
彼等はやさしく清く輝いてゐる
黄金の星に従つて行つた

星はとまつたヨセフの家に
そこで彼等は中へ入つて行つた
牝牛は吠えた、赤児は泣いた
そして三人の聖なる王様は歌をうたつた
 

  四十一

わたしのかはいゝ子よ、二人は子供であつた
小さな愉快な二人の子供であつた
二人は鶏小舎とりごやへ這ひ込んだ
藁の下へもぐり込んだ

二人は雄鶏のやうに鳴いた
人がちかくへ来たときに
『コケッコオ!』といふとみんなは本当に
雄鶏のなき声だと思つた

庭に置いてあるその箱に
二人はきれいに壁紙をはつた
さうしてその中に一緒に住んだ
さうして立派な住居すまゐをこしらへた

年よりの猫が近所づきあひに
よく訪ねて来たものだ
ふたりはお辞儀をしたり挨拶したり
いろいろお世辞を言つてやつた

ふたりは親切にまた気を附けて
猫の機嫌をうかゞつた
それからといふものはいろいろの
年とつた猫におなじやうな事を言つた

ふたりはすわつて利巧さうな話をして
まるで老人としより同士ででもあるやうに
さうして昔は何もかも
もつとよかつたものだなんぞと愚痴を言つた

愛も信実まことも信仰も
この世からみな消え去つた
さうして珈琲コオフイは高くなり
金はなかなか儲からないと——

子供の遊びは過ぎ去つた
さうして何もかも過ぎ去つた
金も世界もいゝ時も
信仰も恋も信実も
 

  四十二

わたしの心は圧し附けられて
昔を偲んで嘆息する
昔はこの世も住みよくて
人々は暢気に暮してゐた

それに今では何もかも違つてしまつた
何といふ情ないことだらう!
天なる神様もおなくなりになり
地には悪魔も死んでしまつた

そして何もかも悲しさうに見える
冷たく濁つて混乱してゐる
これで愛といふさへもなかつた日には
それこそ落着くところもないわけだ
 

  四十三

まつくろな雲の間から
月の光りの洩れるやうに
すぎ去つた日の暗い鏡の中に
一つのあかるい姿が浮んで来る

甲板に皆すわつてゐる
舟はラインを下りて行く
岸辺の夏の緑のいろは
入日の光に燃えてゐる

きれいなやさしい女の足もとに
わたしは黙つて跪いてゐる
彼女の蒼ざめたあいらしい顔は
あかい夕日に照らされてゐる

琵琶はかき鳴らされる子供はうたふ
驚くばかりのおもしろさ!
空はますます青くなり
心はひろがつて行くやうだ

山やお城も森も野も
お伽噺のやうに過ぎて行く——
さうしてそれらが皆見える
美しい女の輝く眼のなかに
 

  四十四

夢にわたしはあの人を見た
悲しさうにおどおどしてゐるあの人を
むかしあんなに花のやうだつたのが
すつかり萎れて褪せてゐる

彼女の腕に一人の子供を抱いて
一人の子供の手を引いてゐた
貧乏と苦労の影ははつきり見えてゐた
歩きぶりにも目付にもまた着物にも

彼女は市場をよろめいて行つた
そのとき彼女はわたしに出あつたのだ
そしてわたしを見たときに
わたしは静かにやさしく言つた

『さあわたしのうちへお出なさい
あなたは顔色もわるく病気らしい
わたしは懸命に働いて
あなたを養つて上げませう

わたしはあなたのお子さんたちの
お世話をしても上げませう
だが何よりもあなたのお世話をね
気の毒な不仕合なむかしの人よ

さうしてあなたを慕うてゐたことを
わたしは決して言ひません
さうしてあなたがなくなつたら
わたしはあなたの墓で泣きますよ』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  四十五

『友よ!いつまでも昔の歌を
歌つて何の役に立つ?
むかしの恋の卵の上にいつ迄も
おまへは考へながらすわつてゐる気かね?

あゝ!それは相変らずのやり方だ!
殻の中からひよつ子が這ひ出して
ぴいぴい鳴いたり羽根をばたばたさせる
するとおまへはそれを書物の中に閉ぢこめる』
 

  四十六

どうかまあ我慢して下さい
このあらあに出来た歌のなかに
やつぱり昔の悲しい調子が
相変らず響いてゐるやうなら

まあ一寸待つて下さい、そのうちに
この悲しい響も消えるでせう
そしたらあたらしい春のやうな歌が
癒やされた胸から湧くでせうから
 

  四十七

もういろんな馬鹿をやめにして
理性へかへつて行く時だ
わたしはもう長いことおまへと共に
喜劇を演じて来たのだからね

立派な舞台の背景は
ロマンティック風にいてあつた
わたしの騎士外套は黄金きんのやうに輝いてゐた
わたしはデリケエトな感情を味つた

もうわたしはすつかり正気になつて
馬鹿げたあそびをやめてしまはう
だがやつぱりわたしは不仕合な気がする
やつぱり喜劇を演じてゐるやうで

あゝ!わたしは冗談に、無意識に
自分の感じたとほりを言つた
わたしは胸の中に死を抱いて
瀕死の闘技者の役目をつとめたのだと
 

  四十八

ヰスワミトラといふ王様は
夜も寝ないで懸命に
戦争いくさをしたり懺悔をしたりして
ワジシタの牝牛を得ようとした

おゝ、ヰスワミトラといふ王様よ
おゝ、おまへは何たる牡牛ばかだらう
そんなに戦争いくさをしたり懺悔をしたりするなんて
たつた一つの牝牛のために!
 

  四十九

心よ、わたしの心よ、そんなに悲しむな
さうしておまへの運命を堪へるがよい
春が来たならかへすだらう
冬がおまへから取つて行つたものを

それにまあどんなに沢山のものがおまへに残されてゐたらう!
そしてやつぱりこの世はどんなに美しいか!
わたしの心よ、おまへの気に入るものは
何でも、何でも、おまへは愛していゝんだぞ!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  五十

おまへは花にもたとへたい
ほんとに可愛くきれいでけがれてない
わたしはおまへを見るたびに
かなしい思ひにたへかねる

おぼえず両手をさしのばし
おまへのかしらへおしあてゝ
いつまでも可愛くきれいでけがれずにと
神に祈つてやりたくなる
 

  五十一

子供よ!それはおまへの身の破滅だ
だからわたしはわざと骨折つた
おまへの心がわたしを愛して
わたしのために決して燃えないように

ただそれが容易に成功すると
わたしは悲しい気持がする
そして屡々考へる
やつぱりおまへに愛されたいと!
 

  五十二

夜のしとねにうづまつて
寝床にひとり寝てゐると
つい目のさきをなつかしい
たのしい姿が往来ゆきゝする

いつか寝床で眼を閉ぢて
しづかな眠りに入るとき
その姿はそつと音もなく
わたしの夢に忍び込む

けれど夜が明けて眼がさめると
その姿も夢と一緒に消えちまふ
それから終日いちにちその姿を
わたしは胸に抱いてゐる
 

  五十三

紅い小さな口をした娘
甘い涼しい眼をした娘
わたしの可愛い小さな子
わたしはいつもおまへを忘れない

この長い長い冬の夜を
わたしはおまへの傍にゐたい
おまへとならんであの部屋で
おまへと話がして見たい

おまへの小さな白い手を
わたしの口におしつけたい
さうして涙で濡らしたい
おまへの小さな白い手を
 

  五十四

外には雪がつもらうと
霰がふらうと荒れようと
窓ががたがた揺れようと
わたしはけつしてかなしむまい
なぜなれば、愛する人の面影と
春のたのしみとが胸に燃えるから

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  五十五

他人 ひとはマドンナにお祈りする
他人 ひと保羅ポオロ彼得ペテロにお祈りする
けれどわたしは、たゞおまへに
美しいお日様のやうなおまへにお祈りする

わたしに接吻きすを下さい、楽みを
さうして親切にして下さい
娘の中の美しいお日様よ
お日様の下での一番美しい娘さん!
 

  五十六

わたしのはげしい恋の苦しみを
この蒼ざめた顔がおまへに洩らさぬか?
おまへはこの傲慢な口から
乞食の言葉が聞きたいか?

あゝ、あの口はあまりに傲慢だ
たゞ接吻したり、冗談言つたりするだけだ
また皮肉なことさへ言ふだらう
死ぬほどわたしが悩んでゐるときも
 

  五十七

『友よ、おまへは惚れてゐる
いつもあたらしい苦痛に苦しめられてゐる
頭の中は暗くなり
心の方が明るくなる

友よ、おまへは惚れてゐる
しかもおまへは打明けようとしない
そしてわたしはよく見える、その胸の火の
おまへの襯衣シヤツを通して燃えてるのが』
 

  五十八

わたしはおまへの傍にゐたい
おまへの傍にやすみたい
だがおまへはわたしのところを離れて行つた
せはしい仕事があるからと

わたしの心はもうすつかり
あなたのものだとわたしは言つた
するとおまへはふき出して
さうして丁寧に頭を下げた

おまへはかうしてだんだんひどく
わたしの心をくるしめて
さうして別れの接吻きすさへも
たうとう拒んでしまつたね

だがわたしが自殺するなんかと思つちや間違ひだ
たとへどんなに苦しまうとも!
こんなことはみなこれ迄に
一度経験して来た事だからね
 

  五十九

おまへのひとみ青玉サフアイヤ
まあその涼しさ愛らしさ
おゝ、おまへに秋波いろめをつかはれる
その男は三倍にも幸福だ

おまへの心は金剛石ダイヤモンド
まあそのきらきらしてること
おゝ、おまへにそれを燃やさせる
その男は三倍にも幸福だ

おまへの唇は紅玉ルビー
これより美しいものはない
おゝ、そのくちから愛の言葉を聞く
その男は三倍にも幸福だ

おゝ、その幸福な男が誰だか直ぐにわかつたなら
おゝ、その男にどうか出会へたなら
さびしい森のまん中で——
そしたらそいつの幸福はもうおしまひさ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  六十

愛の甘つたるい、嘘ばつかりの言葉でもつて
わたしはわたしをおまへの胸にしつかり結びつけた
するとどうだらう、自分の縄にくゝられて
冗談が真剣になつてしまふ

そこで極くもつともな理由から
おまへが冗談のやうにわたしから飛び去ると
地獄の力がわたしに迫つて来て
わたしは真剣で自殺する
 

  六十一

世界と人生とはあまりに断片的だ——
わたしは独逸の教授プロフエツサアのところへたのみに行かう
先生はこの人生を組立てることを知つてゐて
その中から立派な体系システムを立てるだらう
夜帽をかぶり寝衣ねまきを着ながら先生は
世界の組織のすき間をふさいでくれるだらう
 

  六十二

長いことわたしは頭を悩ました
考へごとをして昼も夜も
けれどもおまへのかはいゝ眼が
たうとうわたしに決心させた

今わたしはおまへのかはいゝ眼の
輝くところに踏み止まる——
もう一度こんなにはげしい恋をしようとは
わたしは考へて見たこともなかつたのに
 

  六十三

今夜はお客があるかして
家ぢゆうは灯火あかりがまぶしい程だ
上の二階のあかるい窓には
人影がひとつ動いてゐる

おまへはわたしの姿を見ない
この下の暗闇に一人で立つてゐるのだから
ましてやおまへは見はしない
暗いわたしの心の中を

暗いわたしの心はおまへを慕つてゐる
おまへを慕つて裂けてしまふ
裂けてふるへて血を流す
けれどおまへはそれを見ない
 

  六十四

この苦しみをのこりなく
たつた一つの言葉につぎ込みたい
さうしてそれを気軽な風にやつたなら
風は気軽に持つて行かう

風はそれをおまへのところに持つて行かう
苦しみを一杯盛つたその言葉を
それはいつでもおまへの耳に入る
それは何処でもおまへの耳に入る

さうしておまへが寝床について
眼を閉ぢたかと思ふ間に
わたしの言葉はおまへについて行く
深い眠の底の夢にまで

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  六十五

おまへは金剛石やら真珠やら
人の慾しがるものは皆持つてゐる
その上一等きれいな眼を有つてゐる——
恋人よ、おまへはその上何が慾しい?

おまへのきれいな眼のために
わたしは数へることも出来ないほどの
不朽の歌をこしらへた——
恋人よ、おまへはこの上何が慾しい?

おまへのきれいな眼をもつて
おまへはわたしを大層苦しめた
さうしてわたしをこんなにしてしまつた——
恋人よ、おまへはこの上どうしたい?
 

  六十六

よし幸福しあはせをなくしても、まづまつさきに
愛するものは誰だらう、神様だ
だがその次に幸福しあはせをなくしても
愛するものは誰だらう、馬鹿者だ

わたしはかうした馬鹿者だ
よしない恋に身をこがす
太陽と月と星とは笑ふ
そしてわたしも一緒に笑ふ—— さうして死んでしまふ
 

  六十七

おまへの心の生ぬるさ
小心さにはとても適しない
岩をも通す勢ひの
わたしの恋のはげしさは

おまへは愛の大通りの好きな女だ
さうしてわたしはおまへがその夫と
手をとり合つて歩いて行くのを見る
小心なはらみ女のその様子!
 

  六十八

《ねえ、お嬢さん、あなたの真白な胸の上に
このわづらつてゐる詩人の疲れた頭を
うつらうつらとやすめることを
どうぞゆるして下さいませんか!》

『何ですつて?あなたはまあ飛んでもない
よくそんな失礼な事がわたしに申されますね?』
 

  六十九

彼等はわたしに忠告や教訓を与へて
名誉の雨をふり注いでくれて
まあ少しばかりお待ちなさい
そしたら何とか保護してあげませうと言つた

だが彼等の保護なんか待つてゐたら
わたしはかつゑてくたばつたらう
わたしをすゝんで世話してくれる
立派な人は一人も来なかつたらう

立派な人!彼はわたしを食はせてくれた
わたしはその恩を決して忘れはしない
だが彼に接吻きすしてやれないのは残念だ!
なぜと言ふのに、その立派な人はわたし自身であつたから

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  七十

この愛すべき青年は
どんなに尊敬していゝかわからない位だ
彼はライン酒や牡蠣やリキユウル酒やを
いつでもわたしに御馳走してくれた

彼は上着もズボンもよく似合つてゐたが
襟飾は一層似合つてゐた
そして毎朝彼はやつて来て
わたしの機嫌をうかゞつた

わたしのどえらい名声や
わたしの機智ヰツト才能タレントの話をしたり
わたしのためになるようにと
いろいろ彼は骨折つてくれた

さうしてばんになると満座の中で
いかにも感激したやうな顔をして
婦人連に朗読して聞かせた
わたしのすばらしい詩をみんな

おゝ、若しもこのやうな青年が
まだ見つかつたらどんなにか嬉しからう
かうして毎日のやうにだんだんと
いゝものゝ無くなつて行く今の世に
 

  七十一

わたしは自分が神様で
天にすわつてゐる夢を見た
天使たちはわたしのまはりに集つて
みんなわたしの詩を賞めてくれる

買へば大変な金が要るぐらゐ
菓子を食べたり砂糖漬を食べたり
カルディナルをさへ飲む始末
それに借金などは少しもない

ところが今度は退屈でたまらなくて
いつそ地上にゐたならと
こんな神様なんかの身でなくて
悪魔であつたらよかつたと考へた

長髄ながすね天使のガブリエル
早く急いで降りて行つて
わたしの友人のオイゲンを
早くこゝへ連れて来い

教室なんかで探さずに
トオカイ酒を飲んでゐるところを探して来い
ヘドヰツヒ寺院なんかで探さずに
マイエル嬢のところで探して来い』

すると天使は翼をひろげ
さつと下界へ降りて行き
彼をつかまへて連れて来た
あのいたづら者の旧友を

『おいこら、おれは神様だぞ
おれは世界を治めてゐるんだぞ!
今にすばらしいものになつてやると
始終おまへに言つてゐた通りだ

そして毎日竒蹟を行つてゐるが
それを見たらおまへは、有頂天になるだらう!
そこでおれは今日はおまへを楽しますために
伯林ベルリン市街まちに恵みを埀れてやる

街路とほりの敷石といふ敷石は
今にすつかり割れてしまひ
その一かけ毎にうまさうな
生きてゐる牡蠣がついてゐよう

檸檬レモン水は雨か露のやうに
頭の上から降つて来るし
街路まちの溝には極上等の
ライン酒を一杯流させよう』

伯林人はもうすつかり夢中になつて
はやがつがつと食ひはじめる
判事、検事といふ厳しい先生たちは
溝の中から飲みはじめる

詩人連は飛上るほど狂喜する
この神様の御馳走に!
中尉連や旗手連は
街路とほりをすつかり甞めまはる

中尉連や旗手連は
至極賢い連中だから
今日のやうな竒蹟が毎日起るものぢやない
この機会をはづすなと考へてゐるのだ
 

  七十二

七月の暑い盛りに別れて行つて
一月の寒い最中にまた出逢ふ
あの祈りはあんなに暑いと言つてゐたのに
今では涼しく、いや冷たくさへなつてゐる

やがてわたしはまたも別れて行く
今度来た時は温かくもなく冷たくもなくて
おまへ逹の墓の上をわたしは歩くだらう
自分もみじめな老いた心を抱きながら
 

  七十三

美しいくちから引きはなされて
しつかり巻いてゐた美しい腕からはなされて
まだもう一日とゞまつてゐたいと思つても
はやもう馭者は馬を引いてやつて来た

これが浮世だ、かはいゝ子!尽きせぬ嘆き
尽きせぬ別れ、これが永遠のおさらばだ!
おまへの心もわたしの心を止め得ないのだらうか?
おまへの眼さへわたしを引止め得ないのだらうか?
 

  七十四

夜つぴてわたしたちは二人きり
郵便馬車で旅をした
互の胸にもたれてやすんだり
ふざけ散らしたり笑つたり

ところがとうと夜が明けたとき
いとしい人よ、二人はどんなに驚いたか?
二人の間にはすわつてをつた
アモオルが、あの盲目の旅人が
(独逸では無賃の乗客をも盲目の旅人といふ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  七十五

あの狂気じみた女が何処にとまつてゐるか
誰も知つてゐる人はない
篠つく雨のふる中を罵りながら
市中まちぢゆうをわたしはかけ廻る

市中まちぢゆうの宿屋から宿屋へと
息せき切つてかけつけて
突けんどんな給仕たちに
たづねて見ても突き止められぬ

すると向うの窓からあの女が
手招きをしてくすくす笑つてゐるのを見た
あゝ、わたしはおまへがこんな大旅館に
まさか泊つてゐようとは思はなかつた
 

  七十六

くらい夢の中ででもあるやうに
家並は長く連つてゐる
外套の襟に顔をうづめて
わたしは黙つて歩いて行く

高く聳えた寺院おてらの鐘楼から
鐘は一二時を告げ知らす
美しい顔とたのしい接吻きすとをもつて
あの人は今わたしを待つてゐる

月はわたしの道連れだ
わたしの行手を親切に照らしてくれる
おやもうあの人の家に来た
わたしはいそいそとして月に声かける

『わたしの古い友逹よ、有難う
君はよく道を照らしてくれたねえ
もうわたしは君にお別れする
どうか今度はほかの人を照らしてくれたまへ!

さうして若し何処かで恋に悩んでゐる
ひとり寂しく嘆いてゐる人を見たならば
君が昔わたしを慰めてくれたやうに
どうかその人を慰めてやつてくれたまへ!』
 

  七十七

おまへの接吻きすがどんな痛みを与へても
おまへのくちはまたそれをなほしてくれるだらう
よしまた晩までになほしてくれなくとも
なに、別に急いだことはない

まだこんなに長い一夜ひとばんといふものがある
ねえ、かはいゝ子よ、さうぢやないか!
こんなに長い夜中ばんぢゆうには
たくさん接吻きすも出来よう、たのしめよう
 

  七十八

おまへがわたしの妻になつたその時は
さだめし人も羨むほどであらう
おまへは何の苦労も知らず
愉快に幸福しあはせに暮すだらう

たとへおまへがどんなに叱らうと
罵らうとも、わたしはぢつと我慢しよう
だが、若しおまへがわたしの詩を賞めぬなら
わたしは直ぐにおまへを離縁する
 

  七十九

あの人がやさしくわたしを抱いたとき
わたしの心は空へ飛んで行つた!
わたしの心を飛ばせた、そのひまに
あの人のくちから蜜を吸ふために

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  八十

接吻きすのなかにはどんな嘘!
嘘の中にはどんな楽しみ!
あゝ、だましてやるのはどんなに楽しいか
だまされてゐるのはなほ楽しい!

恋人よ、おまへがどんなに拒まうと
わたしは然し知つてゐる、おまへが許すそのことを!
わたしは信じよう、おまへが誓ふそのことを!
わたしは誓はう、おまへが信じるそのことを!
 

  八十一

わたしはおまへの真白な肩に
そつと頭をもたせかけ
さうしてこつそりうかゞつた
おまへの胸が誰のために鳴つてゐるか

青い服着た驃騎兵フザアルは喇叭を吹いて
まちの門から入つて来る
さうして明日はわたしを棄てるだらう
こんなにかはいゝあの人は

明日はおまへはわたしを棄てるだらう
だが今日だけはまだわたしのものだ
そしておまへの美しい腕の中で
わたしは二重に幸福しあはせ
 

  八十二

青い服着た驃騎兵フザアルは喇叭を吹いて
まちの門から練つて出る
その時わたしは持つて来た
おまへに薔薇の花束を

本当に乱暴なお客様!
兵隊さんにはかなはない!
そのうえおまへの胸にさへ
たくさんとまつて行つたのだ
 

  八十三

若い身そらでいろいろと
わたしは辛い目にあつた
恋といふ熱にうかされて
だが今ではたきぎが高いから
そんな火なんか消しませう
Ma foi!(さうともさ!)それに限ります

美しい娘さんよ、これを考へて
馬鹿な涙はお拭きなさい
馬鹿な恋の悩みはお棄てなさい
あなたに生命いのちが残つてゐるならば
古い恋なんかお忘れなさい
Ma foi!(さうともさ!)わたしの腕に抱かれて
 

  八十四

おまへは本当にわたしを憎んでゐるか?
おまへは本当に変つてしまつたか?
わたしは大きな声で世間に訴へよう
おまへがあんなにひどい仕打をしたことを

おゝ、この恩知らずの唇め
あの時おまへをあのやうに
愛して接吻きすした男のことを
よくまあそんなにひどく言へるねえ?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  八十五

あゝその眼は昔あのやうに
わたしをあいらしく見たときとかはらない
その唇はわたしの生活を
たのしくしてくれたときとかはらない!

あゝ、その声は昔のあのやうに
わたしが嬉しく聞いたときとかはらない!
たゞわたしは昔のわたしでない
変つた人間になつて帰つて来た

白い美しいその腕の
はげしい愛撫に身をまかせ
わたしはかうしてゐるけれど
たゞつまらないといふ気がするばかり
 

  八十六

この罪深い慾望をおさへることが
出来たら神様のお気に入るだらう
だがそれがうまく行かなかつたなら
たいした楽みが得られよう
 

  八十七

世間の噂にのぼつちやいけないからね
ウンテル・デン・リンデンで逢つても知らぬ顔してゐておくれ
あとで二人がうちへ帰つてから
何でも好きなことが出来るぢやないか
 

  八十八

友よ、このウンテル・デル・リンデンへ来い
こゝでおまへは修養が出来る
こゝでおまへは目のさめるやうな
女逹を見てたのしめる

みんな派手な着物のぱつとした
愛嬌のあるやさしさに
どつかの詩人は頭をふつて
さまよふ花だと名を附けた

なんてきれいなはねの帽子だらう!
なんてきれいな土耳古シヨオルだらう!
なんてきれいな色の頬だらう!
なんてきれいなましろのくびだらう!
 

  八十九

君等はわたしを理解しちやくれなかつた
わたしも君等をちつとも理解しなかつた
たゞ我々が汚ないとこにゐた時だけは
すぐに互に理解し合つた

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  九十

去勢者たちは不服を言つた
わたしが歌をはじめたとき
彼等はいろいろ非難した
わたしの歌は下等だと

それから彼等は歌ひ出した
実に小さなやさしい声で
彼等は歌つた、涼しい声で
水晶のやうな顫音トリラア

彼等は歌つた、恋のあこがれを
恋のなやみと満足を
すると御婦人がたはお泣き出しになつた
まあなんて高尚な歌でせうと言つて
 

  九十一

サラマンカのまちの城壁の上に
風はそよそよ吹いてゐる
其処を愛する婦人ドンナの手をとつて
わたしは夏の夕方散歩する

美しい人のほつそりした
身体からだのまはりに手をやつて
仕合せな指ではかつて見る
彼女の立派な胸の高鳴りを

だが心配さうな囁きが
菩提樹の並木を渡つてゆく
下の小暗い水車の小川には
不安な夢が悲しくつぶやいてゐる

『あゝ、奥様センノラ、今にわたしはこゝから追放されて
サラマンカのまちの城壁の上を
二人でこれから散歩が出来ないやうな
何だかそんな気がしてなりません』
 

  九十二

わたしの隣室には美男子の名を取つた
ドン・ヘンリケスが住んでゐる
ふたりの部屋は隣同士
薄い壁一枚へだてられてゐるばかり

サラマンカの女たちはぼつとなる
口髭をひねり、拍車を鳴らし
犬をたくさん引連れて
あの男が街路まちを歩いて行くのを見ると

けれど静かな夜になると
彼は部屋にたつた一人ですわつてゐる
手なれた六弦琴ギタアを抱きかゝへて
心はさみしい夜にみたされて

彼はいとをはげしくかき鳴らし
何だか出鱈目に弾きはじめる——
あゝ!そのきいきい云ふ音が
宿酔ふつかゑひのやうにわたしを苦しめる!
 

  九十三

ふたりが始めて逢つた時、おまへの目付と声とによつて
おまへがわたしを好いてくれてゐるのに気が附いた
意地の悪いお母さんさへ傍にゐなかつたなら
きつとふたりは直ぐにも接吻したであらう

明日はまたわたしはこのまちをたつて行く
これまで通りに旅を続けて行くために!
するとおまへはブロンドの頭を窓から出すであらう
そしたらわたしは心をこめた最後の接吻きすをおまへに投げませう
 

  九十四

日ははや山の上にのぼつてゐる
羊のむれは遠くで鳴いてゐる
恋人よ、わたしの羊よ、光よ、たのしみよ
もう一度わたしはおまへの顔が見たい!

わたしは窺ふやうな面付かほつきで見え上る——
さやうなら、かはいゝ人よ、わたしは旅に上るのだ!
駄目だ!窓掛すらも動かない
彼女はまだ床にゐて—— わたしの夢でも見てゐるのか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
帰郷
 

  九十五

ハレムのまちの市場には
二頭の大きな獅子が立つてゐる
おい、このハルレの傲慢な獅子よ
おまへたちは本当によく馴らされてゐる!

ハルレのまちの市場には
大きな巨人が立つてゐる
つるぎを手にして身動きもしない
恐怖のために化石して

ハルレのまちの市場には
大きな寺院おてらが立つてゐる
愛国的な大学生諸君が
そこで祈祷いのりをさゝげるのだ
 

  九十六

世帯しよたい上手の美しい婦人
家も屋敷も世話が行届いて
廏も穴倉もきちんと片附いてゐる
畠はすつかり耕されてゐる

庭の隅から隅までも
すつかり掃除が行届き
藁は立派に始末して
寝床に入れる用意が出来てゐる

けれどあなたの胸とあなたの唇は
美しい婦人よ、すつかりほつたらかしてありますね
さうしてあなたの寝室は
半分しきや役に立つてはゐませんね
 

  九十七

夏の夕は落ちて来た
森と緑の牧場の上に
青い空からは黄金の月が
匂はしい光を投げてゐる

河のほとりには蟋蟀こほろぎが鳴き
水はさらさら音立てる
旅人はそのせゝらぎに聞き惚れてゐる
静かななかに一つの呼吸いきの音

その河辺にはただひとり
美しい妖精エルフが水に浸つてゐる
白いかはいゝかひなくび
月の光にてらさせて
 

  九十八

知らぬ道には夜が落ちてゐる
心は傷つき身体からだは疲れてゐる
あゝ、いま静かな天の恵みのやうに
美しい月よ、おまへの光は流れ落ちる

あゝ、美しい月よ!おまへの輝きは
夜の恐れを追つてしまふ
わたしの悩みは消えてしまひ
眼にはいつしか露がおく
 

  九十九

死はほんに冷めたい夜だ
生はあつくるしい昼間だ
もう暗くなる、わたしはねむい
昼はわたしをつからした

わたしの寝床を蔽うた木の
葉かげに若い夜鶯うぐひす
きよいまことの恋をうたふ
わたしは夢の中でもそれを聞く
 

  百

『不思議なはげしい火のために
心をすつかり燃やさせながら
むかし君があんなに美しく歌つてゐた
あの君の恋人はどうしたい?』

《あの火は消えてしまつたよ
僕の心は冷たくなつて悲しんでゐる
さうしてこの小さな書物こそ
僕の恋の灰を盛つた骨壺だ》

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
ハルツ旅行から 

  (一八二四年)

山の牧歌

山の上には小舎こやがたつてゐて
年とつた山番が住んでゐた
そこには緑の樅の樹がさらさら鳴つて
黄金いろの月が輝いてゐる

小舎の中には精巧たくみ彫刻ほりものをした
肱掛椅子が一脚置いてある
それに懸けてゐるものは幸福しあはせ
そしてその幸福者しあはせものはこのわたしだ

わたしの膝に腕を突いて
娘は踏台にかけてゐる
瞳は二つの青い星
口は真紅まつかな薔薇の花

さうしてそのかはいらしい青い星は
ほがらかにわたしを眺めてゐる
さうして百合のやうなその指は
紅い薔薇の上にふざけたやうに置かれてゐる

母親はふたりを見てゐない
わき目も振らずに糸を紡いでゐる
父親はまた六絃琴ギタアを弾いて
古い歌曲メロデイを歌つてゐる

娘はそつと囁くやうに
声をひそめてひそひそと
いろんな大切な秘密をば
みんなわたしに打明ける

『けれど叔さんがなくなつてから
わたし逹はもう行けません
あのゴスラルの射的場に
本当におもしろい処ですけれど

こゝは寂しうございます
冷たい山の上なのですもの
冬中まるでわたし逹は
雪に埋められてゐるやうなものですわ

わたしは臆病な娘なの
それで子供のやうにこはいのよ
夜ふけになると山の悪魔まものたちが
いたづらをしに出て来るんですもの。』

不意に娘は黙つてしまひ
自分の言葉におびやかされたやうに
ふたつの小さな手でもつて
その眼をそつとかくしてしまふ

樅の樹のそよぎは一層高く鳴り
糸車はぶんぶん音立てる
その間には六絃琴ギタアの音が
古い曲調メロデイをひゞかせる

『こはいことなんかないよ、かはいゝ児
悪魔まものの力なんぞ何でもない!
昼も夜もおまへを、かはいゝ児
天使が番をしてゐてくれますからね!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
牧童

羊飼ひの子は王様だ
緑の丘はその玉座
頭にかゝるお日さんは
大きな金のかんむり

その足もとには赤いぶちの入つた小羊が
やさしい阿諛者ごきげんとりが寝そべつてゐる
こうしのむれは騎士カヴアイリル
大股に威張つて歩き廻る

仔山羊はみんなお抱へ役者
そして小鳥と牝牛とは
お抱へ楽師の一組で
笛を吹いたり鈴を鳴らしたりする

気もちよく響くその音楽に
瀑布たきの轟き、樅の樹の
気もちのよいそよぎが調子を合せるのを
聞きながら王はすやすや眠り入る

その間にも大臣の
犬は警備を怠らず
そのいさましい鳴声は
国の四方に反響こだまする

若い王様は眠さうに呟いて言ふ
『国を治めるのは実にむづかしい
あゝ、早くうちへ帰りたい
女王のところに帰りたい!」

女王の腕にやはらかく
この王の頭をやすめたい!
女王のきれいな眼の中に
僕の無限の国はある!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
北海

海辺の夜

夜は冷たく星も見えない
海は大口あけて欠伸してゐる
さうして海の上には腹這ひになつて
無恰好な北風が寝そべつてゐる
さうして上機嫌になつた片意地な恋人のやうに
呻くやうな低い声でひそひそと
彼は水にむかつて饒舌しやべつてゐる
いろんな馬鹿げた話を話してゐる
殺伐極まる可笑しな巨人の伝説や
諾威のの太古おほむかしのサガやを
さうしてその間には高く笑つたり吠えたりして
エッダのまじなひの歌を響かせる
まらルウネンの箴言は
暗い魅するやうな力をもつて導くので
白い海の子供たちは大喜びで
高く飛び上つては歓呼する
すつかり高慢な気持になつて

そのとき平たい岸辺には
潮に濡らされた砂の上を
一人の旅人が歩いてゐる
彼の心は風や波より荒れてゐる
彼の歩みをはこぶ度び
火花が散つて貝がらが鳴る
彼は茶色の外套マントにしつかりくるまつて
夜風を衝いて急いで行く
さびしい漁夫の小舎の火は
さも楽しさうにまたたいて
彼の行手を照らし、彼をさし招く

父と兄とは海に出てゐて
小舎には一人で、たつた一人ぼつちで
漁夫の娘が留守をしてゐる
本当に美しい漁夫の小娘が
娘は炉辺ろばたにすわつて
釜の煮え立つ音を聞いてゐる
何をか告げるやうな楽しいひそやかなその音を
さうしてばちばちいふ小枝を火にくべて
そつと火を吹くその度びに
赤い光りがゆらゆらのぼり
魔法のやうにうつし出す
花のやうな美しいその顔を
粗い灰色の寝衣ねまきから
心を動かすやうにのぞいてゐる
白いやさしいその肩を
そのほつそりとした腰のまはりに
下着をしつかり結んでゐる
小さな用心深い手を

ところが不意にばつたり戸が開いて
見馴れぬ客が入つて来る
彼の眼はおだやかな愛の光を帯びて
驚き怖れてゐる百合のやうに
がたがたしながら彼の前に立つてゐる
白いほつそりとした娘をぢつと眺めやる
さうして彼は外套を地に投げて
さうして笑つて話し出す

『ねえ、娘よ、わしは約束を守つてやつて来た
そしてわしと一緒に天の神々が
人間の娘のところに下りて来て
人間の娘と睦み合つて
人間の娘と一緒になつて
人を治める王者の族や
世界の竒蹟なる英雄などを生んだ
古い時代がやつて来たのだ
だがもうそんなに驚かないでもいゝ
わしが神だといふことを
どうかお願ひだ、わしに茶をわかしてラム酒を入れてくれ
戸外そとはまつたく寒かつたからね
さうしてこんな夜風にあたると
我々もまた凍えてしまふ、我々不死の神々も
容易く不滅の風邪を引いて
不滅の咳にかゝるからね』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
宣言

夕の幕は下りて来て
海はますます荒れ狂ふ
わたしは海岸にすわつて
白い波の舞踏をどりを眺めてゐた
そしてわたしの胸は海のやうに湧き上り
深い郷愁がわたしの心をとらへてしまふ
やさしい姿よ、おまへのための郷愁——
おまへはいたるところでわたしを取りかこみ
いたるところでわたしを呼ぶ
いたるところで、いたるところで
風の音にも、海のとゞろきにも
自分の胸の嘆息にも

細い蘆の茎でわたしは砂に書いた
『アグネス、わたしはおまへを愛する!』と
けれども意地の悪い波が来て
このたのしい心の告白を
ついわけもなく消してしまふ

脆い蘆よ、直ぐくづされてしまふ砂よ
流れ砕けてしまふ波よ、わたしは最早おまへ逹を信じない!
空は暗くなる、わたしの心は荒くなる
わたしは強い手でもつてかの諾威の森林から
一番高い樅の樹を引き抜いて来て
それをエトナな燃え上る
あの真紅まつかな噴火口にひたして
その火を含んだ巨大な筆で
暗いそらのおもてにわたしは書かう
『アグネス、わたしはおまへを愛する!』と

そしたら毎夜、大空に
永遠の焔の文字は燃えるだらう
さうして後から後から生れて来る子孫等は
歓呼しながらこの天の言葉を読むであらう
『アグネス、わたしはおまへを愛する!』と

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
船室の夜

海には真珠がかくれてゐる
空には星が照つてゐる
しかしわたしの胸には、わたしの胸には
わたしの胸には恋がある

海は大きく空はひろい
しかしわたしの胸はなほひろい
そして真珠や星よりも
わたしの恋は更にきれいに光つてゐる

若い小さな娘さん
わたしのひろい胸へお出で
わたしの胸と海と空とはね
恋のためなら死にもする
 

   *   *   *

青く澄んだ空には美しい
星がぴかぴか輝いてゐる
あそこへわたしはこの唇をおしつけたい
さうしてはげしく泣いて見たい

あの星はわたしの愛する人の眼だ
絶えずまたゝきながら輝いて
わたしにやさしく挨拶する
青く澄んだ大空から

あの青く澄んだ大空へ
恋しい人の眼の方へ
わたしは腕をさしのばし
さうしてしきりに乞ひ願ふ

『やさしい眼よ、恵みの光よ
おゝ、わたしの心を幸福にして下さい
わたしを死なせて下さい
さうしておまへと、そのそらとを褒美に下さい!』
 

   *   *   *

天の眼からはふるへながら
黄色な火花が闇を通して落ちて来る
さうしてわたしの心は愛のために
だんだんひろくなつて行く

おゝ、おまへ逹天の眼よ!
おまへ逹がわたしの心で泣き出すと
その輝く星の涙のために
わたしの心は一杯になる
 

   *   *   *

海の波からゆすられながら
夢のやうな思ひにすかされながら
わたしは静かに船室の
暗い隅の寝台に横つてゐる

開かれてゐる艙口から
高いあかるい星を眺めやる
深くも心に愛する人の
いとしい甘い目差まなざし

そのいとしい甘い目差まなざし
わたしの頭上に番してゐる
その眼はしきりに輝いては合図する
青く澄んだ大空から

青く澄んだ大空を
わたしは楽しい気持で長いこと眺めてゐる
真白な霧の面紗おもぎぬ
そのいとしい眼を隠してしまふ迄
 

   *   *   *

わたしの夢みる頭を置いてゐる
舷側ふなばたに、船の板壁に
波は、荒波は砕け散る
波はつぶやき音立てゝ
ひそひそわたしの耳にさゝやく
『おゝこの馬鹿な若者よ
おまへの腕は短かく空は遠い
さうして星は黄金の釘でもつて
あの高見にしつかり打ちつけてある——
無益なあこがれ、無益な吐息
おまへは寝入るが何よりだ』
 

   *   *   *

静かな白雲にすつかり蔽はれてゐる
広い荒野をわたしは夢にみる
さうしてその白雲の下に埋められて
わたしは眠つてゐる、寂しく冷たい死の眠りを

けれども暗の空からは星の眼が
わたしの墓を見下してゐる
甘い眼よ!その眼は勝ち誇つたやうに輝いてゐる
静かに快濶に、しかも愛の思ひに充ち満ちて

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
凪ぎ

海は凪ぎだ!太陽は
水面に光を投げてゐる
さうして波の寳石のなか
緑の溝をつくつて船は行く

とものところには舵手かぢとり
腹這ひに寝て低い鼾声いびきを立てゝゐる
帆檣のそばには帆をつくろひながら
瀝青タアルまみれになつたボオイがうづくまつてゐる

彼のよごれた頬つぺたは紅く燃え
その広い口は悲しげにぴくぴくしてゐる
その美しい大きな眼は
悲しい色を浮べてゐる

それは船長が彼の前に立つて
恐ろしい権幕で罵つたからだ
『この泥坊め、貴様はおれの樽から
青魚にしん一尾ぴき盗んだな!』と

海は凪ぎだ!波間には
利巧な魚が頭を出して
日なたぼつこをやりながら
尾では面白く水をばちやばちやさせてゐる

するとかもめは高空から
魚の上に落ちて行き
すばやく嘴でひつさらひ
また青空へ飛び上る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
破船者

希望のぞみも恋も!みんな破れてしまつた!
さうしてわたし自らは
海が怒つて投げ出した死骸のやうに
わたしは海岸に横つてゐる
荒涼とした海岸に
わたしの前には水の沙漠がある
わたしのうしろには悲みと苦みがある
わたしの上には雲が飛ぶ
形のない灰色の風の娘たちが
霧の桶でもつて
海から水を汲み上げては
さも重さうに引きずつて
また海の中へこぼしてしまふ
何といふ悲しい退屈な無駄な仕事だらう
まるでわたし自身の生涯のやうに

波はつぶやきかもめはさけぶ
苦しく楽しい昔の思出や
忘れた夢や、消え去つた面影が
わたしの胸に浮んで来る

北の国に一人の女がゐる
美しい女王のやうに美しい女が
扁柏いとすぎのやうにすらりとした身体からだには
軽い白い着物をまとうてゐる
ふさふさした黒髪は
まるで楽しい夜のやうに
かるく束ねられた頭からこぼれて落ちて
夢のやうにもつれて乱れてゐる
美しい蒼白い顔のまはりに
そしてその美しい蒼白い顔からは
はげしい大きな眼が輝いてゐる
まるで真黒な太陽のやうに

おゝ、真黒な太陽よ
わたしはどんなに感動して
どんなに屡々おまへの焔を飲んだらう
さうして火の酔ひによろよろよろめいたらう——
それからその引きしまつた誇らはしい唇には
鳩のやうにやさしい微笑がうかび
その引きしまつた誇らはしい唇は
月光のやうに甘く、薔薇の匂ひのやうに
ものやはらかな言葉を吐いた——
するとわたしの心はたかまつて
鷲のやうに空へ飛んだ

波よかもめよ、黙つてしまへ!
すべては過ぎ去ぎたのだ、希望のぞみ幸福しあはせ
希望のぞみも恋も!わたしは地面に横はる
荒れた心の破船者は!
さうしてわたしの熱した顔を押附ける
濡れてしめつた砂の上に

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
フヨニツクス鳥

一羽の鳥が西から飛んで来て
東の方へ飛んで行く
香木かうぼくが匂はしく生えてゐて
棕梠しゆろの木はさらさら鳴り、泉は冷々する
東の故郷の庭園へ——
飛んで行きながら不思議な鳥は歌ふ

『彼女は彼を愛してゐる!彼女は彼を愛してゐる!
彼女はその小さな胸に彼の姿を抱いてゐる
それをたのしくこつそりかくしてゐる
さうして自分ではそれに気が附かない!
けれども夢の中で彼は彼女の前に立つ
彼女は泣いてくどいて彼の手に接吻きすをする
さうして彼の名前を呼ぶ
さうして叫びながら目を覚ましてはつとする
さうして不思議さうにその美しい眼をこする——
彼女は彼を愛してゐる、彼女は彼を愛してゐる!』
 

   *   *   *

帆檣にもたれて高い甲板デツキの上に
立つてわたしは鳥の歌を聞いてゐる
銀白のたてがみをもつた黒緑の馬のやうに
白い波がしらを揚げて波は飛び上る
白鳥のやうに帆をきらめかして
ヘルゴランド人は舟を走らせる
この勇ましい北海のノマアド人は!
わたしの上には永遠の青空に
真白な雲が飛んで行く
さうして永遠の太陽は
燃え立つ天の薔薇のやうに
喜ばしげに海の間に光を投げてゐる
さうして天と海とわたし自身の心とは
空のかなたに反響こだまする
『彼女は彼を愛してゐる!彼女は彼を愛してゐる!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
船暈

灰色の午後の雲は
海の上に低く埀れてゐる
海は黒く雲にむかつて逆巻いてゐる
そしてその間を船は走つてゐる

船暈ふなゑひに悩みながらやつぱり帆檣にもたれてすわつた儘
わたしは自分の身について考へ事をしてゐる
はじめ非常に幸福であつたのが
のちに大層不幸になつたとき
かのロトの父がしたやうな
太古おほむかしからの灰色なあの考へ事を
時々はまたいろんな昔話を思つて見る
十字架のしるしをつけた昔の巡礼が
海で嵐に遭つたとき信心ぶかく
聖母の尊い御像に接吻きすした話や
またこんな暴風しけのとき船暈ふなゑひに悩んだ騎士が
その貴婦人の愛する手套てぶくろくちにおしつけて
心を慰めたといふ話やを——
けれどもわたしはすわつて腹立しげに噛つてゐる
宿酔ふつかゑひ嘔気はきけに効くといふ
古い青魚にしんを、塩漬のこの名薬を!

その間にもおそろしく
巻きかへる波と船は戦つて
棒立になる軍馬のやうに
つと突立つて舵もめきめきいふかと思ふと
今度はまら真逆様に落ち込んで行く
吠えわめく水の深淵に
それからまた暢気な気持になつて
はげしい力でうちよせて来る
大きな波の真黒な腹の上に
身を横たへようと思ふとき
いきなり荒い大滝が
白い渦を巻いて落ちて来て
わたしは飛沫しぶきのためにびしよ濡れになつてしまふ

こんなに揺れて傾いて震動しては
とても堪へられない!
わたしは無益に目を馳せて独逸の岸を
探すけれど、あゝ!たゞ水ばかり
何処までも水、動く水ばかり!

ちやうど冬の夕に旅人が
温かい茶の一杯を渇望するやうに
今わたしの心はおまへを渇望してゐる
わたしを生んだ独逸の国よ!
たとひおまへの地面が狂沙汰きちがひざた
驃騎兵フザアルや悪詩で蔽はれてゐようとも
また生ぬるい薄弱な規則で蔽はれてゐようとも
たとひおまへの斑馬ぶちうまあざみの代りに
薔薇を飼葉かひばにして肥つてゐようとも
たとひおまへの貴族の猿どもが
閑暇ひまにあかして着飾つて傲然とかまへ込み
ほかの賤しい這ひ廻る畜類けだものどもよりも
ずつと自分がえらいのだと思つてゐようとも
たとひおまへの蝸牛の会合が
自分逹がのろのろ歩いて行くからとて
自分逹を不朽だとめようとも
たとひ乾酪チイズの虫は乾酪チイズの一部か否かについて
毎日議論が戦はされてゐようとも
たとひ羊毛を上等にするために
埃及の羊を改良することや
牧羊者ひつじかひが彼等をほかの羊とおなじやうに
わけへだてなく刈込むことなどについて
長いこと協議が交されてゐようとも
たとへ愚鈍や不正やが
すつかりおまへを蔽うてゐようとも、おゝ独逸よ!
それでもわたしはおまへに渇望する
すくなくとも、おまへはそれでも陸地だからね!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  (一八二八年 – 一八三一年)

松は寂しく立つてゐる
北国の————————
————
松は夢みる椰子の樹を
遠い————
————
 

  プロロオグ

画廊で君は屡々見るであらう
槍と楯とに身をかためて
戦争いくさに出かけて行かうとする
立派な男子をとこの肖像を

ところがいたづら好きの愛のアモレツト
その槍と剣とを奪ひ取り
花の鎖で彼をからんでしまふ
たとひどんなに顔をしかめて拒まうとも
かうしたやさしい鎖にからまれて
喜びと悲みとにわたしは凡てを忘れてしまふ
時代の大きなたゝかひ
他人 ひとが戦はなければならぬとき
 

  一

真白な樹の下にぢつとすわつて
おまへは遠い風の叫びを聞いてゐる
天には無言の雲かげが
霧につゝまれて行くのを眺めてゐる
地にも森も野原もおとろへて
裸になつてしまつたのを眺めてゐる——
おまへのまはりにもおまへの中にも冬が来て
さうしておまへの心は凍つてゐる

不意に何だか真白なものが
おまへの上に落ちて来る
おまへは腹立しげに考へる
立木が吹雪をぶつかけたのだと

だがそれは吹雪ではなかつたと
やがて気が附いてびつくりするその嬉しさ
それは匂はしい春の花だ
おまへをからかひ、おまへを蔽ふのは

何たるぞくぞくする嬉しさだらう!
冬は春に変つてしまひ
雪は花に変つてしまひ
さうしておまへの心はふたゝび愛の燃える
 

  二

森は芽ぐんで青くなり
まるで少女のやうに嬉しさにふるへてゐる
太陽は空から笑つて言ふ
『若い春よ、よく来たね!』

夜鶯うぐひす!おまへもたのしげに
また悲しげに鳴いてるね
咽ぶやうな長く曵つぱつた音を出して
さうしておまへの歌は愛の思ひで一杯だ!
 

  三

春の夜の美しい眼は
慰めいたはるやうに見下してゐる
愛がおまへをそんなに小さくしたのなら
またおまへを高めてくれるだらう
緑に萠えた菩提樹の枝にとまつて
夜鶯うぐひすは楽しく歌つてゐる
その歌がわたしの胸に沁み入ると
心はまたもや広くなる
 

  四

わたしは花を愛する、だがどの花だかわからない
それがわたしを苦しめる
そこでわたしはいろんな花を見まはして
やさしい一つの心を探す

花は夕日の光にみな匂ひ
夜鶯うぐひすはしきりに鳴いてゐる
わたしはその心を求める、わたし自身の心のやうに
美しく波打つその心を

夜鶯うぐひすは鳴いてゐる、その甘い歌声を
わたしは知つてゐる
わたしたちは辛い悲しい気持だもの
悲しい辛い気持はひとつだもの

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  五

春はこの世にやつて来た
草も木もみな花咲いて
青い空にはうつくしく
薔薇色の雲が棚曵いてゐる
高い小枝の茂みから
夜鶯うぐひすはやさしくうたつてゐる
柔かな緑の三葉草の中に
白い羊はをどつてゐる

わたしは歌ひも飛びもせず
病人のやうに草の間に寝ころんで
遥か遠くの物音を聞きながら
自分でもわからない夢を見てゐる
 

  六

わたしの胸をかるく通してあいらしく
声立てるのはおまへかい
響けよ、小さな春の歌
響いて行けよ、何処までも

乱れて花の咲きにほふ
恋しい家へ響いて行け
もしあの薔薇を見たならば
接吻きすして言へよ、わたしがよろしく申したと
 

  七

蝶は薔薇に惚れこんで
花のまはりを飛びめぐる
その蝶にまたかゞやく日光が
惚れてめぐりにつきまとふ

だが、薔薇は誰れを慕つてゐるんだらう?
わたしはそれが知りたくてならない
それは歌つてゐる夜鶯うぐひすだらうか?
それは黙りこんでゐる星だらうか?

薔薇が誰れを慕つてゐるのかわたしにはわからない
だがわたしはおまへ逹みんなを好いてゐる
薔薇を、蝶々を、日光を
夕の星を、夜鶯うぐひすを!
 

  八

樹といふ樹はみな鳴りさわぎ
鳥といふ鳥はみな歌ふ
この緑の森の管絃楽部オオケストラ
楽団長カペルマイステルは誰であらう?

彼処あそこで始終尤もらしくうなづいてゐる
あの灰いろの珠鶏なべけりだらうか?
それとも始終きまつた時間ときをおいて
くつくと鳴いてゐる、あのペダントだらうか?

ほかのものがみな歌つてゐるに
まるで指揮でもするやうに
長い脚をがらがらいはせてゐる
あの真面目くさつた鸛鳥こふづだらうか?

いや、わたし自身の心のなかに
森の楽団長カペルマイステルはひかへてゐて
調子を取つてゐるのにちがひない
さうしてその名はアモオルといふのにちがひない
 

  九

『はじめて夜鶯うぐひすがああはれて
美しい歌をうたふと、そのにつれて
そこにもここにも青い草が萠え出し
林檎の花がほころび菫が咲いた

夜鶯うぐひすが自分の胸を噛みやぶつて
紅い血を流すと、その血から
美しい薔薇の木が生え出した
するとその木に夜鶯うぐひすは愛の歌をうたふ

我々はじめこの森中もりぢゆうの小鳥はみんな
その傷から流れた血と仲よくする
けれど薔薇の歌が消え去ると
森中もりぢゆうもまた滅びてしまふのだ』

こんなに樫の木の巣の中で
父の雀は子雀たちに話して聞かす
母の雀はしつきりなしに囀りながら
いかにも満足さうにすわつてゐる

彼女は立派な妻君で
よく子供を育てて、ふくれたりしない
父の雀は閑つぶしにと
子供たちに神様のことを教へてやる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  十

なま温かい春の夜気が
いろんな花を咲かせる時だもの
気を附けないでゐたならば
わたしの心はまたもや恋に陥るだらう

けれどそのいろんな花のうちどの花が
わたしの心をとらへるだらう?
かたはらに歌ふ夜鶯うぐひすたちは
百合さんがあぶないとわたしをいましめる
 

  十一

そら大変だ、鐘が鳴る
そしてあゝ!わたしは頭を失つた!
春と、ふたつの美しい眼が
わたしの心に陰謀むほんを企てたのだ

春とふたつの美しい眼が
わたしの心をまたもやだまさうとする!
きとこれはあの薔薇も夜鶯うぐひす
この陰謀むほんに加担してゐるにちがひない
 

  十二

あゝ、わたしは涙にあこがれる
悩みをなだめる恋の涙に
さうしてしまひにこのあこがれが
満たされてしまふのを恐れてゐる

あゝ、恋のたのしい苦しみが
恋の苦く悲しい楽しみが
またもはげしく心を傷けようと
つい癒されたばかりの胸へ忍び込む
 

  十三

空色をした春の眼が
草のなかからのぞいてゐる
それはいとしいかはいゝ菫
それをわたしは花輪につみとらう

摘んでわたしは考へる
するとわたしの胸で嘆息する
その考へをのこりなく
夜鶯うぐひすは高音を張つて鳴く

わたしのおもつたとほりを夜鶯うぐひす
歌つた、そして四辺あたり木精こだました
わたしのやさしい秘密はみんな
はや森中で知つてゐる
 

  十四

おまへがわたしの傍を通るとき
そつと着物のはしが触れたばかりでも
わたしの心は躍り出して
おまへの美しい姿を追つかける

そのときおまへは振り向いて
その大きな眼でわたしをぢつと見る
するとわたしの心は吃驚びつくりして
もうおまへについて行けなくなつてしまふ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  十五

ほつそりとした睡蓮ひつじぐさ
うみの中から夢みるやうに目を上げると
月は空から挨拶する
愛の悩みに燃えながら

するとさも恥しさうに睡蓮は
またも波間に頭を落してしまふ——
そしてその足もとに蒼ざめた
あはれなものゝ倒れてゐるのを見る
 

  十六

おまへがいゝ眼をもつてゐるならば
そしてわたしの歌をのぞいて見るならば
おまへは一人の美しい若い女が
その中を歩き廻つてゐるのを見るだらう

おまへがいゝ耳をもつてゐるならば
おまへはその声を聞くであらう
その嘆息は笑ひは歌声は
おまへのあはれな心を惑はすだらう

その女は眼付と言葉とで
わたしと同じやうにおまへを惑はすだらう
愛にとらはれた春の夢想家よ
おまへは森を迷つて行くであらう
 

  十七

この春の夜に何がおまへを追廻すのか?
おまへは空を狂はせた
菫はぼつくりしてふるへてゐる!
薔薇は恥かしさに赤くなつてゐる
百合は死人のやうに真蒼まつさをになつてゐる
彼等は嘆いて口籠つてぶるぶるふるへてゐる

おゝ愛する月よ、花といふものは
実に無邪気なものではないか!
さうだ、たしかにわたしが悪かつた!
だがわたしが恋しい思ひに夢中になつて
星と話をすてゐたときに
彼等が立聞してゐようなどとどうして予期しよう!
 

  十八

青いすゞしい眼でもつて
おまへはわたしをぢつと見る
すると夢でも見るやうな気になつて
わたしはものも言へなくなつてしまふ
おまへの青い目のことばかり
わたしは何処へ行つても思つてゐる——
青い思ひの大波は
わたしの心にいうちよせる
 

  十九

またも心は打負かされて
深い怨みも消えてしまひ
またもやさしい感情を
五月はるはわたしに吹込んだ

またもわたしは急いで通る
昔馴染の並木道を
さうして一つ一つのボンネットの下に
美しい昔の面影を探して見る

またもわたしは緑の河ばたに
またも橋のたもとに立つて見る——
あゝ、多分彼女はこゝを通るだらう
彼女の眼はわたしを見るだらうと

滝の響のその中に
わたしは聞く、またも微かな溜息を
さうしてわたしのやさしい心はよくさとる
真白な波の言ふことを

またも曲りくねつた道の上で
夢想に耽つてゐるときに
籔の中から小鳥等は
恋に狂つた馬鹿な男を嘲弄する

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  二十

薔薇は匂つてゐる—— けれども薔薇はそのことを
自分の匂つてゐることを感じてゐるだらうか?
また夜鶯うぐひすはその甘い響をもつた歌声で
我々の心を動かすことを自分で悟つてゐるだらうか?——

それはわたしにわからない、けれども真実といふものは
いつも心を苦くする!それゆゑ薔薇と夜鶯うぐひす
その感情を偽つてゐたならば、その嘘は
有益だつたに違ひない、何事にもさうであるやうに——
 

  二十一

おまへを愛してゐるためにおまへの顔を
わたしは避けずにゐられない—— 怒つちやいけない!
美しい空のやうなおまへの顔は
どんなにわたしの悲しい顔にふさはしからう!

おまへを愛してゐるためにわたしの顔は
こんなに醜くやつれて瘠せはてた——
おまへがしまひにわたしを醜く思ふといけないから——
それでわたしはおまへを避けるのだ—— 怒つちやいけない!
 

  二十二

わたしは花の間をぶらぶらする
さうして自分も花のやうな気持になる
まるきり夢中で歩きながら
一歩毎ひとあしごとにわたしはよろよろする

おゝ、わたしをしつかりつかまへてくれ!
はげしい恋に正気を失つて
おまへの足もとへ倒れてしまひさうだから
この人のたくさんゐる庭で
 

  二十三

さか巻く海の波の上に
影はどんなにふるへてゐても
月は静かにしつかりと
御空みそらを滑つて行くやうに

そのやうにおまへは、愛する人よ
静かにしつかり歩いてゐるが
おまへの姿はわたしの胸にふるへてゐる
わたしの胸が荒れてゐるので
 

  二十四

ふたりの胸は、愛する人よ
神聖同盟を結んだのだ
ふたつの胸は互にもたれ合ひ
互にすつかり知り合つた

あゝ、ただつぼみの薔薇だけは
おまへの胸を飾つてゐる
ふたりの仲間の薔薇だけは
しつぶされてしまつた気の毒に

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  二十五

はじめて時計を発明したものは
時間や分秒を発明したものは誰だらう?
それは寒さに凍えた悲しい男であつた
彼は冬の夜ひとりすわつて考へ込んで
鼠の不気味な泣き声を数へたり
虫のこつこつ木を噛る音を数へたりしたのであつた

はじめて接吻きすを発明したものは誰だらう?
それは幸福に燃えてゐる唇だつた
それは接吻きすしながら何も考へなかつた
それは美しい月の五月であつた
花は土地から咲き出だし
太陽は笑ひ鳥は鳴いてゐた
 

  二十六

石竹はまあ何といふいゝ匂ひ!
星は黄金の蜂のやうに
心配さうにまたゝいてゐる
菫いろをした大空に!

栗の林の茂みから
白い立派な邸宅やしきが見える
硝子戸はがたがたいつてゐる
さうしてなつかしい声はわたしに囁いてゐる

たのしいふるへ、甘いをのゝき
こはごはながらのやさしい抱擁——
若い薔薇さうびは聞耳立てゝるし
夜鶯うぐひすは高くうたつてゐる
 

  二十七

このすべての幸福しあはせについてこれまでの
これとおなじ夢をわたしは見なかつたらうか?
それはおなじ木立ではなかつたらうか?
おなじ花、接吻きす、愛の目差まなざしではなかつたらうか?

この河のほとりのふたりのかくれ場の
木の葉越しに月はかがやいてゐなかつたらうか?
その入口には大理石に刻んだ神々が
静かに番してゐなかつたらうか?

あゝ!わたしは知つてゐる、このすべての
やさしい夢がどんなに変るかを
どんなに冷たい雪の外套に
心も樹立も包まれてしまふかを

どんなに我々自身が冷たくなり
互に別れて忘れてしまふかを
今こんなにやさしく思ひ合つてゐる我々が
こんなにやさしく互ひの胸にやすんでゐる我々が
 

  二十八

暗闇くらやみの中で盗む接吻きす
暗闇くらやみの中でかへす接吻きす
さうした接吻きすはどんなに楽しからう
まことの愛に心が燃えてゐるならば!

あとさきのことを気にかける
心はそのをり考へる
過ぎた日のことをいろいろと
未来のことをいろいろと

けれど接吻きすをするときに
あんまり考へすぎるのは危険けんのんだ——
いつそそれより泣くがいゝ
泣くのがずつと気やすいからね
 

  二十九

むかし年よりの王様があつた
髪は真白く心は重かつた
この気の毒な年よりの王様は
若い婦人を妃に立てた

むかしきれいなお小姓があつた
髪はブロンド心はかろく
若い妃のもすそを彼は
さも嬉しさうに持つてゐた

おまへはこの昔話を知つてゐるか?
たのしくも悲しくも響くこの歌を!
二人はたうとう死なねばならなかつた
あまりはげしい恋ゆゑに

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  三十

くの昔に消え去つた幻像まぼろし
わたしの記憶に栄えてゐる——
おまへの声の響の中にあつて
わたしをこんなに動かすものは何であらう?

わたしを愛してゐることを言つてはいけない!
わたしは知つてゐる、この世では
美しいものは、春もまた恋も
つひには身の恥になつてしまふのを

わたしを愛してゐることを言つてはいけない!
たゞ黙つて接吻きすして笑つておいで
わたしが明日萎れた薔薇の
花輪をおまへに見せるとき
 

  三十一

『月の光に酔うて菩提樹の花は
甘い匂ひを注いでゐる
さうして夜鶯うぐひすの歌声は
空と木立を満たしてゐる

愛する人よ、この菩提樹の下に
すわつてゐるのはどんなに愉快だらう
黄金の月の輝きが
木立の葉越しに洩れるとき

この菩提樹の葉を見るがよい!おまへはそれが
心臓の形をしてゐるのに気が附くだらう
だから恋してゐるものは
この樹が一番好きなのだ

だがおまへは遠いあこがれの
夢にひたつてゐるやうに笑つてゐるね——
ねえ、かはいゝ子よ、どんな願望のぞみ
おまへのかはいゝ心に浮んで来たんだね?』

《あゝ、それをあなたに話しませう
ねえ、わたしの話をお聞きなさいな
わたしはね、冷たい北風が
不意に白い雪をもつて来たらいゝと思ひますわ

さうしてふたりが毛皮にくるまつて
きれいに飾つた橇に乗つて
鈴の音を響かせ、鞭を鳴らして
河や野原を滑つて行けたらいゝことね》
 

  三十二

月の照つてゐる森なかを妖精エルフのむれが
馬を駆つてゐるのをこのごろ見たが
彼等のかくは吹き立てられ
彼等の鈴は鳴つてゐた

額に金のつのの生えてゐる
彼等の白い小馬は矢のやうに
白鳥がそらかけるやうに
風を切つて飛んで来た

女王は笑ひながらわたしに会釈して
笑ひながら傍を駆けすぎた
それはわたしに新しい恋を告げたのだらうか?
それともまた死ぬことを知らせたのだらうか?
 

  三十三

朝は茎をおまへに送る
これは森で夜明けにつんだのだ
晩には薔薇を持つて行く
これは庭で夕方折つたのだ

このしをらしいふたつの花は
何をおまへに告げるだらう?
おまへが昼間はまことを尽し
夜には愛しておいでと言ふ
 

  三十四

おまへのよこしたこの手紙
あまりわたしは気にとめぬ
おまへはもはやわたしを愛しないといふ
しかし手紙は長かつた

一二頁が足らぬほど
きれいに書いたふみのあと!
誰れがこんなにこまかに書くものか
もしも厭気いやけがさしたなら

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  三十五

わたしの口がおまへの美しさをたゝへる
うまい比喩たとへを見附けたために
この恋をわたしが世間の人に
洩らしはせぬかと心配せずともよい

花に蔽はれた森のなかに
静かな人の知らない場処がある
そこにあの熱烈な秘密は埋めてある
あの深く秘められた情熱は

いつか薔薇の花からあやしい火花が
燃え上るらうとも—— 心配するな!
世間はそれが火だとは思はずに
熱烈な詩だと思ふだらう
 

  三十六

昼間とおなじやうに夜もまた
春はわたしのために音楽を奏する
それは青々した反響こだまとなつて
夢の中にまで入つて行く

すると小鳥は童話おとぎばなしの鳥のやうに
一層楽しげな声でうたひ
その声が一層やはらかに響いて行くと
一層心のときめく菫の匂ひが立ちのぼる

薔薇も一層あかく燃え立つて
ちやうど昔の絵にけてゐる
天使の頭のやうな子供らしい
黄金色の円光を帯びてゐる

するとわたしは自分が夜鶯うぐひす
この薔薇にわたしの愛を訴へようと
夢のやうな気持で不思議な歌を
うたつて聞かせてゐるのだと思ひ込む——

朝の日かげの呼び醒ますまで
または窓の外に鳴いてゐる
あの今ひとつの夜鶯うぐひす
たくみな歌声が呼び醒ますまで
 

  三十七

かはいゝ金の足をもつた星は
空をおづおづ歩いて行く
夜のふところに眠つてゐる
地を醒ましてはならないと

森は黙つて聞耳立ててゐる
その一葉々々は緑の耳!
山は夢でもみてゐるやうに
その影の腕をのばしてゐる

だが彼方むかうで呼んだのは何だらう?
その反響こだまはわたしの胸に沁み通る
それはわたしの愛するものゝこゑだつたのか?
それとも夜鶯うぐひすにすぎなかつたか?
 

  三十八

春は真面目だ、その夢は悲しい
花はみな苦しみに心を動かされてゐるし
また夜鶯うぐひすの声の中には
人知れぬ悲しみがこもつてゐる

おゝ、微笑するな、愛する人よ
そんなに晴れ晴れと懇ろに微笑するな!
おゝ、いつそお泣き!そしたらその涙を
わたしはおまへの顔から吸ひ取つてあげるから
 

  三十九

そんなに深く愛してゐる人のその胸から
またもわたしは引きはなされて——
はやも別れて行けねばならぬ
おゝ、どんなにわたしは止まつてゐたいだらう!

車はめぐり橋はがたがたいふ
河はその下に濁つて流れてゐる
わたしはふたゝび幸福から別れて行く
こんなに深く愛してゐる人のその胸から

空には星が飛んでゐる
ちやうどわたしの悩みを避けるやうに——
さやうなら、愛する人よ、わたしは遠い国へ行く
だが何処へ行かうとわたしの胸はおまへの為に燃えてゐる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
新しい春
 

  四十

わたしの望みは花のやうに咲き出しては
また花のやうに萎れてしまふ
花咲いてはまた萎れてしまふ——
かうしてつひに枯れてしまふのだ

わたしは知つてゐる、そのために
わたしの愛と楽しみはすつかり破られた
わたしの心は賢くて気が利いてゐるから
人知れず胸の中で血を流してゐる
 

  四十一

まるで老人の顔のやうに
そらはなさけない色をしてゐる
たつた一つの赤い眼は
灰色の雲の髪にかこまれてゐる

彼が地上を見おろすと
花はのこらず枯れてしまふ
人間ひとの心のなかにある
愛も歌もみな枯れてしまふ
 

  四十二

冷たい心の中に腹立たしい思ひを抱いて
腹立たしげに冷たい世界を旅をする
秋も終りだ、湿つぽい霧は
死んだやうな土地を包んでゐる

風はぴゆうぴゆう音立てゝ
樹立の赤い葉をゆすぶり落す
森は嘆息ためいきを吐き、裸の野原は煙つてゐる
さて一番悪いことがやつて来る、雨!
 

  四十三

晩秋の霧、冷たい夢
山も谷も凍つてしまひ
嵐は木立の葉をむしり
骨ばかりの樹はみな幽霊のやうだ

たゞ一本の樹だけが悲しげに黙つた儘
葉を奪はれないで立つてゐる
悲しみの涙にでも濡れたやうに
彼はその緑の頭をゆすつてゐる

あゝ、わたしの心はこの曠野に似てゐる
そして彼方あそこに見えるあの木立
あの常緑とこみどりの木こそはおまへの姿だ
わたしのかはいゝ美しい妻よ!
 

  四十四

空は灰色に濁つてゐる!
市街まちもやつぱりもとのまゝだ!
さうしてやつぱりもの悲しげに
エルベ河に影をひたしてゐる

長い鼻をした連中の長談義ながだんぎ
あゝその退屈な様子はたまらない
おまけに偽善で高慢で
くだらぬことで鼻息を荒くする

美しい南の国よ!どんなにわたしはたふとぶか
おまへのそらを、おまへの神々を!
この取得のない人間の屑どもと
このいやな天気とにまた出会つてから!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
巴里竹枝 其他 

  (一八三二年 – 一八三九年)

セラフィイヌ
 

  その一

夢にさそひこむやうな暮方の
森をぶらぶらしてゐると
たえずわたしにより添うて
やさしいおまへの姿が動いてゐる

それは、まへの白い面紗ヴエルぢやないか?
やさしいおまへの顔ぢやないか?
それとももみの間を洩れて来る
月のひかりにすぎないか?

しづかに流れる音のするのは
わたし自身の涙であるか?
それともおまへが本当に泣きながら
わたしのそばを行きつもどりつしてゐるのか?
 

  その二

しづかな海のほとりには
夜のとばりが降りてゐた
をりしも月が雲からあらはれると
波はさゝやくやうに月に問ふ

『あそこに立つてゐる男は馬鹿なのかい
それとも恋をしてゐるのかい?
嬉しげにしてゐるかと思へば悲しげに
悲しげにしてゐるかと思へば嬉しげにしてゐるが』

すると月はしづかに微笑んで
あかるい声で言ふのには
『あの男は恋もしてゐるし馬鹿でもある
なほその上に詩人だよ』
 

  その三

おまへがわたしを愛することを
わたしはくから知つてゐた
でもそれをおまへが打ち明けたとき
わたしはどんなに驚いたらう

わたしは山へと駆けのぼり
どんなに叫んで歌つたらう
わたしは海辺へ飛んで行き
どんなに入日に泣いたらう

わたしの心も日のやうに
熱い思ひに燃えてゐる
さうしてやはり大きくうつくしく
愛の海へと沈むのだ
 

  その四

いかにも物好きな顔つきで
かもめはこちらを眺めてゐる
わたしがおまへの唇に
耳おしあてゝゐるんだもの!

何がおまへのくちから湧くか
わたしの耳に接吻きすするか
それとも言葉で満たすのか
かもめは知りたく思ふだらう

わたしの心に鳴つて行くものが
何だか自分で知れたなら!
言葉と接吻きすとは手ぎはよくまぜられてゐる
これは何だと一口に言へぬほど

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
巴里竹枝 其他
 

  その五

おまへがどんなにわたしを欺したか
誰にも他人 ひとには告げなかつたが
わたしは海へ出かけて行つて
魚にすつかり話して置いた

をかぢや隠してやつたゆゑ
おまへの手管てくだを知るまいが
しかしあの広い海中うみぢうぢや
おまへの不実を知つてゐる
 

  その六

海の中へ突出したルウネ石の上に
わたしは夢想を抱いてすわつてゐる
風は鳴りさわぎかもめはさけぶ
波はさか巻き泡は立つ

わたしも昔はたくさんの美しい子や
たくさんのいゝ友逹を愛してゐた——
今彼等は何処へ行つたらう?風は鳴り
泡は立ち波はさか巻く

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
アンジエリク
 

  その一

美しい若い女よ、わたしは決して信じない
そのはにかんでゐる唇の言ふことを
こんな大きな黒い眼は
徳といふものをもつちやゐない

この鳶色は筋を引いた嘘を消しちまへ!
わたしはおまへをしんから愛してゐる
おまへの白い胸に接吻きすさせてくれ——
白い胸よおまへはわたしの心が分るかい?
 

  その二

わたしは彼女の眼をふさいで
そのくちの上に接吻きすをする
するともう彼女はわたしをはなさないで
どうしたわけだと訊いてしやうがない

日が暮れるとから夜があけるまで
彼女は始終わたしに問ふ
『あなたはわたしのくち接吻きすをなさるのに
どうしてわたしの眼をおふさぎなさいます?』

わたしは言はない、なぜさうしたか
なぜだか自分でもわからない——
さうして彼女の眼をふさいでは
そのくちの上に接吻きすをする
 

  その三

楽しい接吻きすに酔はされておまへの腕に
いゝ気持になつてわたしがゐる時に
おまへは独逸の話をわたしにしちやいけない
わたしはとても堪らない—— それにはわけがある

どうぞ独逸の話はもうやめにしてくれ!
故郷の有様や故郷の人の暮しについて
きりのない問を発してわたしを苦しめてくれるな——
それにはわけがある—— わたしはとても堪らない

樫の樹は緑だし、独逸の女の眼はあを
彼等は愛や希望や信仰を求め
あこがれ悩んでは嘆息する!
わたしはとても堪らない—— それにはわけがある

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
デイアヌ

ビヤスカの入海のほとりであつた
彼女の生れた土地は
彼女ははやあかんぼの時でさへ
二匹の仔猫をおしつぶした

彼女は跣足はだしでピレネエの
山から山を駈けまはつてゐたが
それからペルピニヤンに出て行つて
たちまち大女おほをんなの名をあげた

今でもフォオブウル・サン・デニスで
くらべものもない大女とうたはれて
あの小男のサア・ヰリアムに
一万三千ルイを費はせた

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
オルタンス
 

  その一

女からされたり女にしたりする
接吻きすといふものはすべて前もつて
運命の手にちやんとめられてゐるものと
むかしはわたしも信じてゐた

その時分なんぞは本当に
是非でもしなければならぬ事でもするやうに
接吻きすしてやつたり貰つたり
真面目くさつてしたものだ

ほかのいろんなものとおなじく接吻きす
余計なものだとさとつた今は
野暮なおもひはさらりとすてゝ
浮いた心で接吻きすをする
 

  その二

あたらしい曲調メロデイをあたらしく
わたしは琴で弾いて見る
歌詞テキストは古い!それはソロモンの
『女は苦いといふあの言葉だ

女は友逹を裏切るどころでなく
その良人をつとさへ平気でだますのだ!
恋の黄金の杯の
最後のしづく苦蓬にがよもぎ

して見ると聖書バイブルに載つてゐる
蛇に誘惑されて罪を犯し
永遠に呪咀のろひを身に受けたといふ
あの古い伝説は本当であるか?

蛇は地べたを這ひまはつては
今でも籔の中からうかゞつてゐて
昔のやうにおまへとむつみ合ひ
その舌の音はおまへを慰める

あゝ、暗く冷たくなつて来た!
太陽のまはりを鴉が飛びまはり
いやな声で鳴き立てる、愛も楽みも
もう永遠に終つてしまつたのだ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
クラリツス
 

  その一

何処をおまへが歩いてゐようとも
いつでもおまへはわたしを見る
そしておまへが冷遇すればするほど
わたしは一層おまへから離れない

たのしい悪意がわたしの心を占めてゐる
親切な感情きもちなんかもうないのだ
だからわたしからすつかり離れようと思ふなら
おまへはわたしを愛さなきやならない
 

  その二

おまへのわたしに笑つて見せることが遅すぎた
おまへのわたしに嘆息することがおそすぎた!
あの感情はもうくに死んぢまつたんだ
おまへはあの時あんなに残酷に嘲つたのぢやないか

おまへの愛を酬いることが遅すぎた!
おまへの熱烈な愛の眼は
わたしの心に落ちて来る
ちやうど日光が墓標の上に落ちるやうに
 

   *   *   *

わたしは知りたい、わたし逹が死ねば
わたし逹のたましひは何処へ行くのだらう?
消えた火は何処へ行つたのだらう?
吹きやんだ風は何処へ行つたのだらう?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
ジョラントとマリイと

ふたりともやさしく愛らしい
どちらを愛したものだらう?
母親はまだ美しい女だし
娘は美しい子だもの

あの白いおぼこな身体からだを見ると
大層心を動かされる!
けれども男の愛に答へる道を知つてゐる
この気の利いた眼も素敵ぢやないか

わたしの心はあの灰色の友逹に似てゐる
ふたつの乾草の束を見くらべて
どちらの飼葉かひばがうまいだらうと
思案をしてゐるあの驢馬に

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
ジェンニイ

わたしはもはや三十五
それにおまへはまだ十五……
おゝジェンニイ、わたしはおまへを見てゐると
むかしの夢を思ひ出す!

千八百十七年に
わたしは一人の少女を見た
姿も性質きだてもおまへにそつくりで
髪もおまへの髪だつた

わたしが大学に入ることになつて
『僕は直ぐまた帰つて来るからね
どうか待つてゐておくれ』とおまへに言ふと——
おまへは言つた《あなたはわたしの唯一の幸福よ》

三年間も法律を勉強してゐたが
ちやうど五月の一日に
ゲッティンゲンでわたしは聞いた
わたしの花嫁が結婚したことを

それは五月の一日だつた!
春は緑に笑つた、野に谷に
鳥はうたつた、虫は喜ばしげに
日光の中を飛んでゐた

けれどわたしは蒼くなり病気になつて
すつかり元気が無くなつた
わたしが毎晩どんなに苦しんだか
それを知るのは神様だけだ

でもわたしはなほつた、わたしの身体からだ
今では樫の樹のやうに頑丈だ……
おゝジェンニイ、わたしはおまへを見てゐると
むかしの夢を思ひ出す!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
エンマ

エンマよ、わたしに本当をお言ひ
わたしが恋のために馬鹿になつたか?
それとも恋といふものが
わたしの馬鹿の結果にすぎないか?

おゝ、真実まことあるエンマよ
わたしの迷つた恋のほかに
わたしの恋の迷ひのほかに
このジレンマがその上わたしを苦める

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
キテイ

昨日わたしが接吻きすした幸福は
今日ははや破れて消えてしまつた
そしてわたしはまことの夢を
長いこと得てゐたためしがない

ほんの好竒心からいろんな女を
わたしはこの胸に引き寄せた
けれども彼等はわたしの心を見ると
直ぐまたそこから飛んで行つた

その行つてしまふまへに一人は笑つた
一人は色を失つた
たゞキテイだけは悲しさうに泣いた
わたしを棄てて行くまへに

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
フリイデリイケ
 

  (一八二四年)

ねえ伯林ベルリンを棄てゝ行きませう、この深い砂と
薄い茶と、この気の利かない人逹の市街まち
彼等は神も世界もまた自分自身をさへ
ヘエゲルの合理主義で理解してゐる連中ですからねえ

ねえ一緒に印度にまゐりませう、あの太陽の国へ
アンプラの花がかぐはしく匂ひをはなち
白い着物を着た信心深い巡礼のむれが
ガンゲスのほとりをさして急いで行く国へ

そこには棕櫚の樹がそよぎ波がきらめいて
神聖な河のほとりには蓮の花が
永遠に青いインドラの城にむかつて咲いてゐる

そこでわたしはおまへの前に恭々しく跪いて
おまへの足に接吻きすしておまへに言はう
奥さんマダム!あなたは女の中の一番美しいお方です!』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
カタリナ
 

  その一

美しい星がわたしの夜の上にのぼつて来る
その星は甘い慰めの微笑を見せて
新生活をわたしに約束する——
おゝ、本当だよ!

ちやうど月にむかつて海の湧き立つやうに
わたしの荒い心は嬉しく飛びあがる
おまへのやさしい光へと——
おゝ、本当だよ!
 

  その二

若い薔薇の花が咲いて
夜鶯うぐひすがうたつた時
おまへはわたしを引きよせて
やさしい手つきで接吻きすをした

秋が来て薔薇の花を散らし
夜鶯うぐひすをも追ひやつてしまふと
おまへも飛んで行つてしまつた
そしてわたしはひとり取残された

夜はもう長く冷たくなつた——
ねえ、おまへはいつまでわたしをぢらすのだ?
わたしはこれから昔の幸福をいつまでも
夢に描いて満足してゐなけりやならないのか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
他国で

むかしわたしは美しい祖国を有つてゐた
そこには樫の樹が
高く聳えて、菫がやさしくうなづいてゐた
それは夢だつた

独逸語でわたしに接吻きすして独逸語で娘は言つた
(その言葉の響がどんなにいゝか
とても他人 ひとにはわかるまい)『わたしはあなたを愛します!』
それは夢だつた

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
悲劇
 

  一

わたしと一緒に逃げてくれ、そしてわたしの妻になつてくれ
さうしてわたしの胸にやすんでくれ
遠い他国でわたしの胸が
おまへの祖国だ、おまへの生れた家だ

おまへが一緒に行つてくれぬならこゝでわたしは死んでしまふ
そしたらおまへはたつた一人ぼつちになるであらう
たとひ生れた家にとゞまつてゐようとも
知らぬ他国にゐるのとおなじことであらう
 

  二

春の夜だといふのに霜が降りた
霜はやはらかな青い花の上に下りた
花は萎れた枯れ果てた

ある若者がある娘を慕ひ
ふたりは親の知らぬ間に
こつそり駈落してしまつた

ふたりは諸国をさまようた
何の幸福しあはせにもあはなかつた
ふたりはやつれた、なくなつた
 

  三

彼女の墓の上には一本の菩提樹が立つてゐる
その中で小鳥が囀り夕風がさらさらいつてゐる
さうしてその下の青々とした草場には
水車場の若者が情婦と一緒にすわつてゐる

風は何だか薄気味わるく吹いてゐる
小鳥は甘く悲しく鳴いてゐる
今までしやべつてゐたふたりは急に黙り込んで
ふたりは泣き出して、さうして自分でその理由がわからない

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
小唄
 

  その一

『眼よ、死ぬ時のある美しい星よ!』
こんなに響いたその歌は
かつてわたしがトスカナの
海のほとりで聞いたその歌は

小さな娘がうたつてゐた
海辺で網をつくろいながら
わたしを見てゐた、わたしがこのくち
その真紅なくちに押しつけるまで

その歌とその海とその網とを
またわたしは思ひ出さずにはゐられない
はじめておまへを見たときを——
だが今はまたおまへに接吻きすせずにはゐられない
 

  その二

それは仕合せな男といへる
その男は然しくたびれよう
三人の馬鹿にきれいな恋人と
たつた二本の足とをもつならば

わたしは一人を朝ごとに
一人を毎晩おつかける
三人目のは昼ごろに
わたしのところへやつてくる

さやうなら、おまへ逹三人の恋人よ
わたしはたつた二本の足しきやもたぬ
わたしは静かに田舎にひつこもり
美しい自然でもたのしまう

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
何処に?

何処につかれた旅人の
いこふべき地はあるだらう?
南の国の棕櫚かげか?
ラインの岸の菩提樹リンデンのしたか?

見知らぬ人の手をかりて
沙漠に埋められる身だらうか?
それとも荒れた海岸うみぎし
波のとられる身だらうか?

何処へ行つてもかはらずに
空はわたしを取りめぐる
夜ともなれば死のランプ
星はわたしの上に照る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
後年の詩から 

  (一八三九年 – 一八五六年)

ふたりは互に深く愛し合つてゐた
女は毒婦だつた、男は泥棒だつた
男が仕事をやつてゐる時に
女は寝床に倒れて笑つてゐた

日は喜びと楽みとの中に過ぎて行つた
夜毎、彼女は彼の胸にゐた
彼が牢獄らうやに連れて行かれた時
彼女は窓から眺めて笑つてゐた

彼は彼女に伝言ことづてした『どうぞ逢ひに来てくれ
おれはおまへに逢ひたうてならぬ
おまへの名を呼んで苦しんでゐる—— 』と
彼女はかしらを振つて笑つてゐた

朝の六時に彼はめられた
七時には墓場へ送られた
それに彼女にはや八時には
赤い酒を飲んで笑つてゐた

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
秘密

我々は嘆息しない、眼は乾いてゐる
我々は微笑する、また笑ひさへもする!
どんな眼付にもどんな顔付にも
会つて秘密を洩らしたことはない

黙つて苦痛を忍びながらもその秘密は
我々の血みどろになつた心の底にやすんでゐる
たとへ心の中に荒れ出さうとも
痙攣しながらも口はやつぱり閉ぢられてゐる

揺籃に寝てゐる赤児に問うて見ろ
墓場に寝てゐる死人に問うて見ろ
多分彼等はおまへに告げるだらう
いつもわたしがおまへに打明けないでゐたことを

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
ロマンツェロから
 

  その一

若し人がおまへを裏切つたなら
一層真実を守るがよい
そして死ぬほど心が苦しうなつたら
おまへの琴を手にとるがよい

絃を鳴らせば、焔と熱に燃え立つた
勇者の歌が響くだらう!
するとはげしい怒りも溶けてしまひ
おまへの心は甘く血を流すだらう
 

  その二

幸福は浮気な娼婦だ
おなぢ処にぢつとしてゐない
おまへの額の髪を撫でて
素早く接吻きすして行つてしまふ

不幸夫人はそれとは反対だ
おまへをしつかり胸に抱き寄せて
わたしはちつとも急ぎませんと言つて
おまへの寝台に腰かけて編物をはじめる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
アスラ

毎日々々、美しい花のやうな
サルタンの姫は夕方に
白い水をぱちやぱちや飛ばしてゐる
噴水のほとりをゆきつ戻りつなさいます!

毎日々々、若い奴隷は夕方に
白い水をぱちやぱちや飛ばしてゐる
噴水のほとりに立つてゐました
奴隷は一日ごとにだんだん蒼くなつて行きました

ある夕方、姫は奴隷の傍に寄り
早口にお訊きになるのには
『わたしはおまへの名が知りたい
おまへの故郷とおまへの種族とが!』

すると奴隷が言ふのには
『わたしはモハメッドといつてヱエメンの者で
わたしの種族は恋すると
死なねばならないアスラです』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
世相

多くのものを有つものは
なほその上多くを手に入れる
僅かしか有たないものは
その僅かなものさへ奪はれる

だがおまへが何一つ有つてゐないなら
あゝ、そしたら首をくゝつて死んぢまへ——
なぜならば何ものかを有つもののみが
乞食よ、生きる権利を与へられてゐるのだから

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
かしこい星

花は人間の足の直ぐ届くところにある為に
大抵はみな踏まれてしまふ
通りすぎるとき彼等は遠慮なく踏みにじる
弱々しい花もしぶとい花も

真珠は海の箪笥にしまつてある
けれども人間はそれをも探し出し
穴を穿つて桎梏くびきにつないでしまふ
絹紐の桎梏くびきにつないでしまふ

星はかしこい、利巧にも
我々の地球から身を遠ざけてゐる
天上高く世界の灯明のやうに
星は永遠に危なげなしにかゝつてゐる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
最後の詩集から
 

  その一

神聖な寓言バラブルは止めるがよい
敬虔な臆説ヒポテシスは止めるがよい!
我々のために露骨に卒直に
この罪の深い疑問を解いてくれ

なぜに血を流しながら苦しみながら
たゞしい者が十字架の重荷を引きずつてゐるのに
幸福な勝利者として傲然と
悪人が馬にまたがつて行くのだらう?

その罪は誰にあるのだらう?
我等の主が全能の主でないのか?
それともそれは主御自身の罪なのか?
あゝ、そんな事を考へるのは賤しいことだ

かやうに我々は絶えず問ひ続ける
たうとう一握りの土でもつて
我々の口がふさがれてしまふまで——
だがそれが答へと言へようか?
 

  その二

以前わたしはわたしの行く道に
たくさん花の咲いてゐるのを見た
けれども摘みに下りるのは大儀だつたので
馬を駆つてわたしは立ち去つた

かうして今にも死にさうに病み衰へて
もう墓穴の掘られてゐる今となつては
わたしの記憶の中にいつでも嘲るやうに
あの花の匂ひが浮んで心を苦しめる

とりわけ一つの火のやうな色をした
菫がいつもわたしの頭に燃えてゐる
あの時あの蓮葉な女に手も触れないで
しまつたことが実に残念だ!

だがレエテの水が今でもその力を
失はないでゐることがわたしの慰藉なぐさめ
それこそおろかな人間の心を
忘却の楽しい暗で洗つてくれる水だもの
 

  その三

わたしは笑つてやつた日も夜も
馬鹿な男や女たちを
わたしもひどい馬鹿をした——
だが利巧は一層悪い結果をもたらした

下女が孕んで子を産んだ——
なぜまたそれをそんなに嘆くのだ?
生きてゐる時一度も馬鹿をしなかつた者は
決して賢者ではなかつたのだ
 

  その四

わたしは見た、彼等の笑ふのを、微笑を浮べるのを
わたしは見た、彼等の滅びてしまふのを
わたしは聞いた、彼等の泣声を、喉をごろごろいはせるのを
さうして平気で眺めてゐた

わたしは彼等の柩に従つて
墓地まで会葬したけれど
帰つて来ると正直に白状するが
舌皷を打つて昼飯をたらふくつめ込んだ

けれども今は悲しい心持になつて
くに死んで行つた人逹を不意に思出す
急に燃え上る恋の火のやうに
その思ひ出が不思議にも心を荒れ廻る!

とりわけユルヘンのあの涙が
わたしの記憶の中に流れて止まず
憂愁かなしみははげしい渇望のぞみにかはり
日も夜もわたしは彼女を呼ぶ!————

この萎れた花は幾度となく
わたしの熱にうかされてゐる時の夢にあらはれる
するとわたしは彼女が死んでから
わたしの愛を容れてくれたのだと考へる

おゝ、やさしい幻よ、どうぞお願ひだ
しつかりわたしを抱き寄せて
おまへの口をわたしの口に押し当てゝ——
この最後の時の苦さを甘くしてくれ!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
最後の詩集から
 

  その五

十字路に三人の女がすわつてゐる
彼等は歯をむき出しては糸を紡ぎ
嘆息しては考へ込んでゐる
それは実に醜い婆さんたちだ

一番目の女は捲糸竿いとざをを手に持つて
糸を巻いては
濡らしてゐる
そしてその埀れ下つた唇は乾いてゐる

二番目の女は紡錘つむををどらせてゐる
紡錘つむはぐるぐる廻つてゐる
いかにもおどけた風をして
この婆さんの眼は真赤に血走つてゐる

三番目の運命神パルツエ
鋏を手にもつて
懺悔歌ミゼエレをくちずさんでゐる
その尖つた鼻のあたまには黒子ほくろが一つある

おゝ、どうか急いで断つてくれ
この悪運の糸を
さうしてわたしをなほしてくれ
この恐ろしい生の悩みから!
 

  その六

恋は三月に始まつた
そのときからわたしの心は病み附いた
けれども緑の五月が来たときに
わたしの悲みは終つてしまつた

それは午後ひるすぎの三時であつた
菩提樹の茂みの奥にある
かくれ場の腰掛の上で
わたしは彼女に恋をうちあけた

花は匂つてゐた、樹立の中では
夜鶯うぐひすが鳴いてゐた、けれどもふたりはその歌の
たつたひと言も耳には入れなかつた
ふたりはもつと大切なことを話してゐたのだもの

ふたりは互に死ぬ迄変らぬ誠を誓つた
時は流れた、夕紅ゆふやけは消えた
けれどもふたりは長いことすわつたまゝ
闇の中でやつぱり泣いてゐた
 

  その七

わたしの思考かんがへの樹におまへはちやんとくゝられてゐる
わたしの考へること、わたしの思ふことを
おまへは考へなければならに、思はなければならない
おまへはわたしの精神こゝろから免れることは出来ないのだ

わたしの精神こゝろははげしい息をいつもおまへに吹きつける
そしておまへのゐる処にはきつとゐる
おまへは寝床の中にゐてさへも
彼の接吻きす、彼の忍び笑ひを避け得ない!

わたしの身体からだは墓場に横はつてゐる
けれどもわたしの精神こゝろは今でも生きてゐる
彼はまるで家の霊でゞもあるやうに
おまへの胸に住んでゐるのだ、かはいゝ人よ!

その住み心地のいゝ巣を貸しておやりなさい
おまへはその怪物からとても免れ得ない
たとひおまへが支那日本まで逃げようとも——
おまへはそのあはれな盗賊からのがれ得ない!

おまへが何処へ行かうとも逃げようとも
おまへの胸にわたしの精神こゝろはちやんとゐる
そしておまへはわたしの考へを考へなければならないのだ——
わたしの思考かんがへの樹におまへはちやんとくゝられてゐる
 

  その八

心といふもの有つものは、その心の中に
愛といふもの有つものは、もう半ば
負けてしまつてゐるのだ、そこでかうしてわたしは今
猿轡さるぐつわをはめられ縛られて横はつてゐる——

わたしが死ぬるとわたしの身体からだから
舌は切れてしまふだらう
彼等はわたしがまた冥土から
出て来てしやべるのを恐れてゐるからね

死人は墓穴で黙つて腐つて行く
そしてわたしは決して漏らしはしない
あのやうにわたしに加へられた
いろんな笑ふべき悪業を
 

  その九

わたしが馬鹿なためにおまへの性悪を
忍んでゐると思つちやいけない
またわたしが赦すことに慣れてゐる
神様だと思つちやいけない

おまへの気儘もおまへの意地悪も
わたしは勿論黙つて忍んで来た
わたしの位置に他人を立たせたら
くにおまへを打ち殺してしまつたらう

重い十字架よ!それでもわたしは曵きずつて行く!
おまへはわたしがいつも忍んでゐるのを見るだらう——
おい、女よ、わたしはわたしの罪を
償ふためにおまへを愛してゐるのだぞ

さうだ、おまへはわたしの煉獄だ
けれどもおまへの意地悪い腕からは
恵み深く慈悲深い神様でさへ
わたしを救ひ出してくれはしない

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
最後の詩集から
 

  その十

こんなにはげしく燃え上つてゐる恋の火は
我々の心の滅ぼされたとき何処へ行くのであらう?
それはもと出て来たところへ帰つて行くのであらう
あはれな亡者どもの焼き苦しめられてゐる地獄へと
 

  その十一

永遠よ、どんなにおまへは長いだらう
千年よりもまだ長い
千年もわたしはあぶられて
あゝ!まだすつかり炙られきらぬ

永遠よ、どんなにおまへは長いだらう
千年よりもまだ長い
でもしまひには悪魔がやつて来て
わたしを頭から食つてしまふ
 

  その十二

死がやつて来る—— 今わたしは言はう
わたしの誇りが永遠に黙つてゐるやうに
命じたことだが—— おまへの為めに、おまへの為めに
おまへの為めにわたしの胸は打つたのだ!と

柩は出来た、わたしは今墓場に埋められて
永遠の安息に入るのだ
だがおまへは、おまへは、あゝマリイ
おまへはいつもわたしを思ひ出しては泣くであらう
おまへはまた美しい手をふりしぼりさへもするだらう——
おゝどうかおまへも諦めてくれ—— これが運命だ
人間の運命だ—— どんなに大きい美しい
どんなに善いものでも悪い最後を遂げるのは

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
エピロオグ

我々の墓を名声があたゝめる!
馬鹿な話だ!くだらぬことだ!
我々にすつかり惚れ込んで
厚い唇で我々に接吻きすする
肥のにほひのぷんとする牛飼女の方が
もつとよく我々をあたゝめるだらう
また火酒やプンシュやグロオグを
腹一杯に飲んだなら
我々はそのはらわたの底までも
もつとあたゝめられるだらう
たとひきたない居酒屋で
泥棒や詐欺師と一緒に飲まうとも——
彼等は絞首台を逃れて来たものだが
それでも彼等は生きて息して威張つてゐるのだから
一層羨ましいものではないか
テエティスの偉大な息子よりも——
ペリイデスの言葉はもつともだ
『たとひ一番あはれな奴隷の生活でも
地上に生きてゐた方がいゝ』
スティックの河のほとりにあつて
ホメロスにさへも歌はれた英雄であるよりも
亡者の王であるよりも!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
底本:「ハイネ詩集」(新潮文庫、第三十五編)
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年) 
「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力:osawa
編集:明かりの本
2017年7月7日作成
物語倶楽部作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、物語倶楽部で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。