痴人の愛 谷崎潤一郎

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 十一
 
「さあ、譲治さん、ワン・ステップよ。踊って上げるからいらっしゃい」
と、それから私はナオミに云われて、やっと彼女とダンスをする光栄を有しました。
私にしたって、きまりが悪いとは云うものの、日頃の稽古を実地に試すのはこの際でもあり、ことに相手が可愛いナオミであってみれば、決してうれしくないことはありません。よしんば物笑いの種になるほど下手糞へたくそだったとしたところで、その下手糞はかえってナオミを引き立てることになるのですから、寧ろ私は本望なのです。それから又、私には妙な虚栄心もありました。と云うのは、「あれがあの女の亭主だと見える」と、評判されて見たいことです。云いかえれば「この女は己の物だぞ。どうだ、ちょっと己の宝物を見てくれ」と大いに自慢してやりたいことです。それを思うと私は晴れがましいと同時に、ひどく痛快な気がしました。彼女のために今日まで払った犠牲と苦労とが、一度に報いられたような心地がしました。
どうもさっきからの彼女の様子では、今夜は己と踊りたくないのだろう。己がもう少しうまくなるまではいやなのだろう。厭なら厭で、己もそれまではたって踊ろうとは云わない。と、もう好い加減あきらめていたところへ、「踊って上げよう」と来たのですから、その一と声はどんなに私を喜ばせたか知れません。
で、熱病やみのように興奮しながら、ナオミの手を執って最初のワン・ステップをみ出したまでは覚えていますが、それから先は夢中でした。そして夢中になればなるほど、音楽も何も聞えなくなって、足取りは滅茶苦茶になる、眼はちらちらする、動悸どうきは激しくなる、吉村楽器店の二階で、蓄音器のレコードでやるのとはガラリと勝手が違ってしまって、この人波の大海の中へぎ出してみると、退こうにも進もうにも、さっぱり見当がつきません。
「譲治さん、何をブルブルふるえているのよ、シッカリしないじゃ駄目じゃないの!」
と、そこへ持って来てナオミは始終耳元で叱言こごとを云います。
「ほら、ほら又すべった! そんなに急いで廻るからよ! もっと静かに! 静かにッたら!」
が、そう云われると私は一層のぼせ上ります。おまけにその床は特に今夜のダンスのために、うんと滑りをよくしてあるので、あの稽古場の積りでうっかりしていると、たちまちつるりと来るのです。
「それそれ! 肩を上げちゃいけないッてば! もっとこの肩を下げて! 下げて!」
そう云ってナオミは、私が一生懸命に握っている手を振りもぎって、ときどきグイと、邪慳じゃけんに肩を抑えつけます。
「チョッ、そんなにぎゅッと手を握っててどうするのよ! まるであたしにしがみ着いていちゃ、此方が窮屈で仕様がないわよ!………そら、そら又肩が!」
これでは何の事はない、全く彼女に怒鳴られるために踊っている様なものでしたが、そのガミガミ云う言葉さえが私の耳には這入はいらないくらいでした。
「譲治さん、あたしもうめるわ」
と、そのうちにナオミは腹を立てて、まだ人々は盛んにアンコールを浴びせているのに、どんどん私を置き去りにして席へ戻ってしまいました。
「ああ、驚いた。まだまだとても譲治さんとは踊れやしないわ、少し内で稽古けいこなさいよ」
浜田と綺羅子がやって来る、熊谷が来る、菊子が来る、テーブルの周囲は再びにぎやかになりましたが、私はすっかり幻滅の悲哀に浸って、黙ってナオミの嘲弄の的になるばかりでした。
「あははは、お前のように云った日にゃあ、気の弱え者は尚更なおさら踊れやしねえじゃねえか。まあそうわずに踊ってやんなよ」
私はこの、熊谷の言葉が又しゃくに触りました。「踊ってやんな」とは何と云う云い草だ。己を何だと思っているのだ? この青二才が!
「なあに、ナオミ君が云うほどまずかありませんよ、もっと下手なのがいくらも居るじゃありませんか」
と浜田は云って、
「どうです、綺羅子さん、今度のフォックス・トロットに河合さんと踊って上げたら?」
「はあ、何卒どうぞ………」
綺羅子は矢張女優らしい愛嬌あいきょうもってうなずきました。が、私はあわてて手を振りながら、
「やあ、駄目ですよ駄目ですよ」
と、滑稽なほど面喰めんくらってそう云いました。
「駄目なことがあるもんですか。あなたのように遠慮なさるからいけないんですよ。ねえ、綺羅子さん」
「ええ、………どうぞほんとに」
「いやあいけません、とてもいけません、巧くなってから願いますよ」
「踊って下さるって云うんだから、踊っていただいたらいいじゃないの」
と、ナオミはそれが、私に取っての身に余る面目ででもあるかのように、おッかぶせて云って、
「譲治さんはあたしとばかり踊りたがるからいけないんだわ。―――さあ、フォックス・トロットが始まったから行ってらっしゃい、ダンスは他流試合がいいのよ」
“Will you dance with me?”
その時そう云う声が聞えて、つかつかとナオミの傍へやって来たのは、さっき菊子と踊っていた、すらりとした体つきの、女のようなにやけた顔へお白粉しろいを塗っている、としの若い外人でした。背中を円く、ナオミの前へ身をかがめて、ニコニコ笑いながら、大方お世辞でも云うのでしょうか、何か早口にぺらぺらとしゃべります。そして厚かましい調子で「プリースプリース」と云うところだけが私に分ります。と、ナオミも困った顔つきをして火の出るように真っ赤になって、その癖怒ることも出来ずに、ニヤニヤしています。断りたいには断りたいのだが、何と云ったら最も婉曲えんきょくに表わされるか、彼女の英語では咄嗟とっさの際に一と言も出て来ないのです。外人の方はナオミが笑い出したので、好意があるとて取ったらしく、「さあ」と云って促すような素振りをしながら、押しつけがましく彼女の返辞を要求します。
“Yes, ………”
そう云って彼女が不承々々に立ち上ったとき、その頬ッぺたは一層激しく、燃え上るようにあかくなりました。
「あははは、とうとうやっこさん、あんなに威張っていたけれど、西洋人にかかっちゃあ意気地がねえね」
と、熊谷がゲラゲラ笑いました。
「西洋人はずうずうしくって困りますのよ。さっきもわたくし、ほんとに弱ってしまいましたわ」
そう云ったのは菊子でした。
「では一つ願いますかな」
私は綺羅子が待っているので、いやでも応でもそう云わなければならないハメになりました。
一体、今日に限ったことではありませんけれども、厳格に云うと私の眼にはナオミより外に女と云うものは一人もありません。それは勿論もちろん、美人を見ればきれいだとは感じます。が、きれいであればきれいであるだけ、ただ遠くから手にも触れずに、そうッと眺めていたいと思うばかりでした。シュレムスカヤ夫人の場合は例外でしたが、あれにしたって、私があの時経験した恍惚こうこつとした心持は、恐らく普通の情慾じょうよくではなかったでしょう。「情慾」と云うには余りに神韻漂渺しんいんひょうびょうとした、捕捉ほそくし難い夢見心地だったでしょう。それに相手は全然われわれとかけ離れた外人であり、ダンスの教師なのですから、日本人で、帝劇の女優で、おまけに眼もあやな衣裳いしょうまとった綺羅子に比べれば気が楽でした。
しかるに綺羅子は、意外なことに、踊って見ると実に軽いものでした。体全体がふわりとして、綿のようで、手の柔かさは、まるで木の葉の新芽のような肌触りです。そして非常に此方の呼吸をよくみ込んで、私のような下手糞を相手にしながら、感のいい馬のようにピタリと息を合わせます。こうなって来ると軽いと云うことそれ自身にも云われない快感があります。私の心はにわかに浮き浮きと勇み立ち、私の足は自然と活溌かっぱつなステップを蹈み、あたかもメリー・ゴー・ラウンドへ乗っているように、何処どこまでもするすると、滑かに廻って行きます。
「愉快々々! これは不思議だ、面白いもんだ!」
私は思わずそんな気になりました。
「まあ、お上手ですわ、ちっとも踊りにくいことはございませんわ」
………グルグルグル! 水車のように廻っている最中、綺羅子の声が私の耳をかすめました。………やさしい、かすかな、いかにも綺羅子らしい甘い声でした。………
「いや、そんなことはないでしょう。あなたがお上手だからですよ」
「いいえ、ほんとに、………」
しばらく立ってから、又彼女は云いました。
「今夜のバンドは、大へん結構でございますのね」
「はあ」
「音楽がよくないと、折角踊っても何だか張合いがございませんわ」
気がついて見ると、綺羅子の唇はちょうど私のこめかみの下にあるのでした。これがこの女の癖だと見えて、さっき浜田としたように、その横鬢よこびんは私の頬へ触れていました。やんわりとした髪の毛ので心地、………そしておりおりれて来るほのかなささやき、………長い間悍馬かんばのようなナオミのひづめにかけられていた私には、それは想像したこともない「女らしさ」の極みでした。何だかこう、いばらに刺された傷のあとを、親切な手でさすってもらってでもいるような、………
「あたし、よっぽど断ってやろうと思ったんだけれど、西洋人は友達がないんだから、同情してやらないじゃ可哀そうよ」
やがてテーブルへ戻って来ると、ナオミがいささかしょげた形で弁解しているのでした。
十六番のワルツが終ったのはかれこれ十一時半でしたろうか。まだこのあとにエキストラが数番ある。おそくなったら自動車で帰ろうとナオミが云うのを、ようようなだめて最後の電車に間に合うように新橋へ歩いて行きました。熊谷も浜田も女連と一緒に、銀座通りをぞろぞろとつながりながらその辺まで私たちを送って来ました。みんなの耳にジャズ・バンドがいまだに響いているらしく、誰か一人がるメロディーをうたい出すと、男も女もぐその節に和して行きましたが、歌を知らない私には、彼等の器用さと、物覚えのよさと、その若々しい晴れやかな声とが、ただねたましく感ぜられるばかりでした。
「ラ、ラ、ラララ」
と、ナオミは一ときわ高い調子で、拍子を取って歩いていきました。
「浜さん、あんた何がいい? あたしキャラバンが一番すきだわ」
「おお、キャラバン!」
と、菊子が頓狂とんきょうな声で云いました。
「素敵ね! あれは」
「でもわたくし、―――」
と、今度は綺羅子が引き取って、
「ホイスパリングも悪くはないと存じますわ。大へんあれは踊りよくって、―――」
蝶々ちょうちょうさんがいいじゃないか、僕はあれが一番好きだよ」
そして浜田は「蝶々さん」を早速口笛で吹くのでした。
改札口で彼等に別れて、冬の夜風が吹き通すプラットホームに立ちながら、電車を待っている間、私とナオミとはあんまり口をきませんでした。歓楽のあとの物淋ものさびしさ、とでも云うような心持が私の胸を支配していました。もっともナオミはそんなものを感じなかったに違いなく、
「今夜は面白かったわね、又近いうちに行きましょうよ」
と、話しかけたりしましたけれど、私は興ざめた顔つきで「うん」と口のうちで答えただけでした。
何だ? これがダンスと云うものなのか? 親をあざむき、夫婦喧嘩げんかをし、さんざ泣いたり笑ったりした揚句の果てに、おれが味わった舞蹈会ぶとうかいと云うものは、こんな馬鹿ばかげたものだったのか? 奴等やつらはみんな虚栄心とおべっか己惚うぬぼれと、気障きざの集団じゃないか?―――
が、そんなら己は何のめに出かけたのだ? ナオミを奴等へ見せびらかすため?―――そうだとすれば己もやっぱり虚栄心のかたまりなのだ。ところで己がそれほどまでに自慢していた宝物はどうだったろう!
「どうだね、君、君がこの女を連れて歩いたら、果して君の注文通り、世間はあッと驚いたかね?」
と、私は自らあざけるような心持で、自分の心にそう云わないではいられませんでした。―――
「君、君、盲人めくら蛇にじずとは君のことだよ。そりゃあ成る程、君に取ってはこの女は世界一の宝だろう。だがその宝を晴れの舞台へ出したところはどんなだったい? 虚栄心と己惚れの集団! 君はうまいことを云ったが、その集団の代表者はこの女じゃあなかったかね? 自分独りで偉がって、無闇むやみに他人の悪口を云って、ハタで見ていて一番鼻ッ摘まみだったのは、一体君は誰だったと思う? 西洋人に淫売いんばいと間違えられて、しかも簡単な英語一つしゃべれないで、ヘドモドしながら相手になったのは、菊子嬢だけではなかったようだぜ。それにこの女の、あの乱暴な口の利き方は何と云うざまだ。仮りにもレディーを気取っていながら、あの云い草はほとんど聞くに堪えないじゃないか、菊子嬢や綺羅子の方がはるかたしなみがあるじゃないか」
―――この不愉快な、悔恨と云おうか失望と云おうか、ちょっと何とも形容の出来ないいやな気持は、その晩家へ帰るまで私の胸にこびりついていました。
電車の中でも、私はわざと反対の側に腰かけて、自分の前に居るナオミとうものを、も一度つくづくと眺める気になりました。全体己はこの女の何処がよくって、こうまでれているのだろう? あの鼻かしら? あの眼かしら? と、そう云う風に数え立てると、不思議なことに、いつもあんなに私に対して魅力のある顔が、今夜は実につまらなく、下らないものに思えるのでした。すると私の記憶の底には、自分が始めてこの女に会った時分、―――あのダイヤモンド・カフエエの頃のナオミの姿がぼんやり浮かんで来るのでした。が、今に比べるとあの時分はずっとかった。無邪気で、あどけなくて、内気な、陰鬱いんうつなところがあって、こんなガサツな、生意気な女とは似ても似つかないものだった。己はあの頃のナオミに惚れたので、それの惰勢が今日まで続いて来たのだけれど、考えて見れば知らない間に、この女は随分たまらないイヤな奴になっているのだ。あの「悧巧りこうな女は私でござい」と云わんばかりに、チンと済まして腰かけている恰好かっこうはどうだ、「天下の美人は私です」というような、「私ほどハイカラな、西洋人臭い女は居なかろう」と云いたげな、あの傲然ごうぜんとしたつらつきはどうだ。あれで英語の「え」の字もしゃべれず、パッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイスの区別さえも分らないとは、誰も知るまいが己だけはちゃんと知っているのだ。………
私はこっそり頭の中で、こんな悪罵あくばを浴びせて見ました。彼女は少し反り身になって、顔を仰向けにしているので、ちょうど私の座席からは、彼女が最も西洋人臭さを誇っているところの獅子ししぱなあなが、黒々とのぞけました。そして、その洞穴の左右には分厚い小鼻の肉がありました。思えば私は、この鼻の孔とは朝夕深い馴染なじみなのです。毎晩々々、私がこの女を抱いてやるとき、常にこう云う角度からこの洞穴を覗き込み、ついこの間もしたようにそのはなをかんでやり、小鼻の周りを愛撫あいぶしてやり、又或る時は自分の鼻とこの鼻とを、くさびのように喰い違わせたりするのですから、つまりこの鼻は、―――この、女の顔のまん中に附着している小さな肉の塊は、まるで私の体の一部も同じことで、決して他人の物のようには思えません。が、そう云う感じをもって見ると、一層それが憎らしく汚らしくなって来るのでした。よく、腹が減った時なぞにまずい物を夢中でムシャムシャ喰うことがある、だんだん腹が膨れて来るにしたがって、急に今まで詰め込んだ物のまずさ加減に気がつくやいなや、一度に胸がムカムカし出して吐きそうになる、―――まあ云って見れば、それに似通った心地でしょうが、今夜も相変らずこの鼻を相手に、顔を突き合わせて寝ることを想像すると、「もうこの御馳走ちそうは沢山だ」と云いたいような、何だかモタレて来てゲンナリしたようになるのでした。
「これもやっぱり親の罰だ。親をだまして面白い目を見ようとしたって、ロクな事はありゃしないんだ」
と、私はそんな風に考えました。
しかし読者よ、これで私がすっかりナオミに飽きが来たのだと、推測されては困るのです。いや、私自身も今までこんな覚えはないので、一時はそうかと思ったくらいでしたけれど、さて大森の家へ帰って、二人きりになって見ると、電車の中のあの「満腹」の心は次第に何処かへすッ飛んでしまって、再びナオミのあらゆる部分が、眼でも鼻でも手でも足でも、蠱惑こわくちて来るようになり、そしてそれらの一つ一つが、私に取って味わい尽せぬ無上の物になるのでした。
私はその後、始終ナオミとダンスに行くようになりましたが、その度毎たびごとに彼女の欠点が鼻につくので、帰りみちにはきっと厭な気持になる。が、いつでもそれが長続きしたことはなく、彼女に対する愛憎の念は一と晩のうちに幾回でも、猫の眼のように変りました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 十二
 
閑散であった大森の家には、浜田や、熊谷や、彼等の友達や、主として舞蹈会で近づきになった男たちが、追い追い頻繁に出入りするようになりました。
やって来るのは大概夕方、私が会社から戻る時分で、それからみんなで蓄音機をかけてダンスをやります。ナオミが客好きであるところへ、気兼ねをするような奉公人や年寄は居ず、おまけに此処ここのアトリエはダンスに持って来いでしたから、彼等は時の移るのを忘れて遊んで行きます。始めのうちはいくらか遠慮して、飯時になれば帰ると云ったものですが、
「ちょいと! どうして帰るのよ! 御飯をたべていらっしゃいよ」
と、ナオミが無理に引き止めるので、しまいにはもう、来れば必ず「大森亭」の洋食を取って、晩飯を馳走するのが例のようになりました。
じめじめとした入梅の季節の、或る晩のことでした。浜田と熊谷が遊びに来て、十一時過ぎまでしゃべっていましたが、外は非常な吹き降りになり、雨がざあざあガラス窓へ打ちつけて来るので、二人とも「帰ろう帰ろう」と云いながら、暫く躊躇ちゅうちょしていると、
「まあ、大変なお天気だ、これじゃあとても帰れないから、今夜は泊っていらっしゃいよ」
と、ナオミがふいとそう云いました。
「ねえ、いいじゃないの、泊ったって。―――まアちゃんは無論いいんだろう?」
「うん、己アどうでもいいんだけれど、………浜田が帰るなら己も帰ろう」
「浜さんだって構やしないわよ、ねえ、浜さん」
そう云ってナオミは私の顔色をうかがって、
「いいのよ、浜さん、ちっとも遠慮することはないのよ、冬だと布団ふとんが足りないけれど、今なら四人ぐらいどうにかなるわ。それに明日は日曜だから、譲治さんも内にいるし、いくら寝坊してもいいことよ」
「どうです、泊って行きませんか、全くこの雨じゃ大変だから」
と、私も仕方なしに勧めました。
「ね、そうなさいよ、そして明日は又何かして遊ぼうじゃないの、そう、そう、夕方から花月園へ行ってもいいわ」
結局二人は泊ることになりましたが、
「ところで蚊帳かやはどうしようね」
と、私が云うと、
「蚊帳は一つしかないんだから、みんな一緒に寝ればいいわよ。その方が面白いじゃないの」
と、そんな事がひどくナオミには珍しいのか、修学旅行にでも行ったように、きゃっきゃっと喜びながら云うのでした。
これは私には意外でした。蚊帳は二人に提供して、私とナオミとは蚊やり線香でもきながら、アトリエのソオファで夜を明かしても済むことだと考えていたので、四人が一つ部屋の中へごろごろかたまって寝ようなどとは、思い設けてもいませんでした。が、ナオミがその気になっているし、二人に対してイヤな顔をするでもないし、………と、例の通り私がぐずぐずしているうちに、彼女はさっさとめてしまって、
「さあ、布団を敷くから三人とも手伝って頂戴ちょうだい
と、先に立って号令しながら、屋根裏の四畳半へ上って行きました。
布団の順序はどう云う風にするのかと思うと、何分蚊帳が小さいので、四人が一列にまくらを並べる訳には行かない。それで三人が並行になり、一人がそれと直角になる。
「ね、こうしたらいいじゃないの。男の人が三人そこへお並びなさいよ、あたし此方こっちへ独りで寝るわ」
と、ナオミが云います。
「やあ、えれえ事になっちゃったな」
蚊帳がれると、熊谷は中を透かして見ながらそう云いました。
「これじゃあどうしても豚小屋だぜ、みんなごちゃごちゃになっちまうぜ」
ごちゃごちゃだっていいじゃないか、贅沢ぜいたくなことを云うもんじゃないわ」
「ふん! 人様の家に御厄介になりながらか」
「当り前さ、どうせ今夜はほんとに寝られやしないんだから」
「己あ寝るよ、グウグウいびきをかいて寝るよ」
どしんと熊谷は地響を立てて、着物のまんま真っ先にもぐり込みました。
「寝ようッたって寝かしゃしないわよ。―――浜さん、まアちゃんを寝かしちゃ駄目よ、寝そうになったらくすぐってやるのよ。―――」
「ああ蒸し暑い、とてもこれじゃ寝られやしないよ。―――」
まん中の布団にふん反り返ってひざを立てている熊谷の右側に、洋服の浜田はズボンと下着のシャツ一枚で、せた体を仰向けに、ぺこんと腹をへこましていました。そして静かに戸外の雨を聞き澄ましてでもいるように、片手を額の上に載せて、片手でばたばたと団扇うちわを使っている音が、一層暑苦しそうでした。
「それに何だよ、僕ア女の人がいると、どうもおちおち寝られないような気がするよ」
「あたしは男よ、女じゃないわよ、浜さんだって女のような気がしないって云ったじゃないか」
蚊帳の外の、うす暗い所で、ぱっと寝間着に着換える時ナオミの白い背中が見えました。
「そりゃ、云ったことは云ったけれど、………」
「………やっぱり傍へ寝られると、女のような気がするのかい?」
「ああ、まあそうだな」
「じゃ、まアちゃんは?」
「己ア平気さ、お前なんか女の数に入れちゃあいねえさ」
「女でなけりゃ何なのよ?」
「うむ、まあお前は海豹あざらしだな」
「あはははは、海豹と猿と孰方どっちがいい?」
「孰方も己あ御免だよ」
と、熊谷はわざと眠そうな声を出しました。私は熊谷の左側に寝ころびながら、三人がしきりにべちゃくちゃ云うのを黙って聞いていましたが、ナオミが此処へ這入はいって来ると、浜田の方か、私の方か、いずれ孰方かへ頭を向けなければならないのだが、と、内々それを気にしていました。と云うのは、ナオミの枕が孰方つかずに、曖昧あいまいな位置に放り出してあったからです。何でもさっき布団を敷く時に、彼女はわざとそう云う風に、あとでどうでもなるように置いたのじゃないかと思われました。と、ナオミは桃色の縮みのガウンに着換えてしまうと、やがて這入って来てっ立ちながら、
「電気を消す?」
と、そう云いました。
「ああ、消してもらいてえ、………」
そう云う熊谷の声がしました。
「じゃあ消すわよ。………」
「あ、痛え!」
と、熊谷が云ったとたんに、いきなりナオミはその胸に飛び上って、男の体をみ台にして、蚊帳の中からパチリとスイッチを切りました。
暗くはなったが、表の電信柱にある街燈がいとう灯先ほさきが窓ガラスに映っているので、部屋の中はお互の顔や着物が見分けられるほどもやもやと明るく、ナオミが熊谷の首をまたいで、自分の布団へ飛び降りた刹那せつなの、寝間着のすそさっとはだけた風の勢が私の鼻をなぶりました。
まアちゃん、一服煙草たばこを吸わない?」
ナオミはぐに寝ようとはしないで、男のようにまたを開いて枕の上にどっかと腰かけ、上から熊谷を見おろしながら云うのでした。
「よう! 此方をお向きよ!」
「畜生、どうしてもおれを寝かさねえ算段だな」
「うふふふふ、よう! 此方をお向きよ! 向かなけりゃいじめてやるよ」
「あ、いてえ! よせ、せ、止せッたら! 生き物だから少し鄭重ていちょうにしてくんねえ、蹈み台にされたりられたりしちゃ、いくら頑丈でもたまらねえや」
「うふふふふ」
私は蚊帳の天井を見ているのでハッキリ分りませんでしたが、ナオミは足の爪先つまさきで男の頭をグイグイ押したものらしく、
「仕方がねえな」
と云いながら、やがて熊谷は寝返りを打ちました。
まアちゃん、起きたのかい?」
そう云う浜田の声がしました。
「ああ、起きちゃったよ、盛んに迫害されるんでね」
「浜さん、あんたも此方をお向きよ、でなけりゃ迫害してやるわよ」
浜田はつづいて寝返りを打って、腹這いになったようでした。
同時に熊谷がガチャガチャとたもとの中からマッチをさぐり出す音がしました。そしてマッチを擦ったので、ぼうッと私の眼瞼まぶたの上に明りが来ました。
「譲治さん、あなたも此方を向いたらどう? 独りで何をしているのよ」
「う、うん、………」
「どうしたの、眠いの?」
「う、うん………少しとろとろしかけたところだ、………」
「うふふふふ、うまく云ってらア、わざと寝たふりをしてるんじゃないの、ねえ、そうじゃない? 気がめやしない?」
私は図星を指されたので、眼をつぶってはいましたけれど、顔が真っ赤になったような気がしました。
「あたし大丈夫よ、ただこうやって騒いでるだけよ、だから安心して寝てもいいわ。………それともほんとに気が揉めるなら、ちょっと此方を見てみない? 何も痩せ我慢しないだって、―――」
「やっぱり迫害されたいんじゃないかね」
そう云ったのは熊谷で、煙草に火をつけて、すぱッと口を鳴らしながら吸い出しました。
「いやよ! こんな人を迫害したって仕様がないわよ、毎日してやっているんだもの」
「御馳走様だなア」
と浜田の云ったのが、心からそう云ったのでなく、私に対する一種のお世辞のようにしか取れませんでした。
「ねえ、譲治さん、―――だけれど、迫害されたいんならして上げようか」
「いや、沢山だよ」
「沢山ならあたしの方をお向きなさいよ、そんな、一人だけ仲間外れをしているなんて妙じゃないの」
私はぐるりと向き直って、枕の上へあごを載せました。と、立て膝をして両脛りょうはぎを八の字に蹈ん張っているナオミの足の、一方は浜田の鼻先に、一方は私の鼻先にあるのです。そして熊谷はとうと、その八の字の間へ首を突っ込んで、悠々と敷島を吹かしています。
「どう? 譲治さん、この光景は?」
「うん、………」
「うんとは何よ」
あきれたもんだね、まさに海豹に違いないね」
「ええ、海豹よ、今海豹が氷の上で休んでるところよ。前に三匹寝ているのも、これも男の海豹よ」
低く密雲の閉ざすように、頭の上に垂れ下がっている萌黄もえぎの蚊帳、………夜目にも黒く、長々と解いた髪の毛の中の白い顔、………しどけないガウンの、ところどころにあらわれている胸や、腕や、ふくらッぱぎや、………この恰好かっこうは、ナオミがいつもこれで私を誘惑するポーズの一つで、こう云う姿を見せられると私はあたかもえさを投げられた獣のようにさせられるのです。私は明かに、ナオミが例のそそのかすような表情をして、意地の悪い眼で微笑しながら、じっと此方を見おろしているのを、うす暗い中で感じました。
「呆れたなんてうそなのよ。あたしにガウンを着られるとたまらないッて云う癖に、今夜はみんなが居るもんだから我慢してるのよ。ねえ、譲治さん、あたったでしょう」
馬鹿ばかを云うなよ」
「うふふふふ、そんなに威張るなら、降参させてやろうか」
「おい、おい、ちと穏やかでねえね、そう云う話は明日の晩に願いてえね」
「賛成!」
と、浜田も熊谷のに附いて云って、
「今夜はみんな公平にして貰いたいなア」
「だから公平にしてるじゃないの。恨みッこがないように、浜さんの方へは此方の足を出しているし、譲治さんの方へは此方を出してるし、―――」
「そうして己はどうなんだい?」
まアちゃんは一番得をしてるわよ、一番あたしのそばにいて、こんな所へ首を突ン出してるじゃないの」
「大いに光栄の至りだね」
「そうよ、あんたが一番優待よ」
「だがお前、まさかそうして一と晩じゅう起きてる訳じゃねえだろう。一体寝る時はどうなるんだい?」
「さあ、どうしようか、孰方へ頭を向けようか。浜さんにしようか、譲治さんにしようか」
「そんな頭は孰方へ向けたって、格別問題になりやしねえよ」
「いや、そうでないよ、まアちゃんはまん中だからいいが、僕に取っちゃ問題だよ」
「そう? 浜さん、じゃ、浜さんの方を頭にしようか」
「だからそいつが問題なんだよ、此方へ頭を向けられても心配だし、そうかと云って河合さんの方へ向けられても、やっぱり何だか気が揉めるし、………」
「それに、この女は寝像が悪いぜ」
と、熊谷が又口を挟んで、
「用心しないと、足を向けられた方のやつは夜中に蹴ッ飛ばされるかも知れんぜ」
「どうですか河合さん、ほんとに寝像が悪いですか」
「ええ、悪いですよ、それも一と通りじゃありませんよ」
「おい、浜田」
「ええ?」
寝惚ねぼけて足の裏をめたってね」
そう云って熊谷がゲラゲラ笑いました。
「足を舐めたっていいじゃないの。譲治さんなんか始終だわよ、顔より足の方が可愛かわいいくらいだって云うんだもの」
「そいつあ一種の拝物教だね」
「だってそうなのよ、ねえ、譲治さん、そうじゃなかった? あなたは実は足の方が好きなんだわね?」
それからナオミは、「公平にしなけりゃ悪い」と云って、私の方へ足を向けたり、浜田の方へ向け変えたり、五分おきぐらいに、何度も何度も布団ふとんの上を彼方此方あっちこっちへ寝そべりました。
「さあ、今度は浜さんが足の番!」
と云って、寝ながら体をぶん廻しのようにぐるぐる廻したり、廻す拍子に両脚を上げて蚊帳の天井を蹴っ飛ばしたり、向うの端から此方の端へぽんとまくらを投げつけたりする。その海豹の活躍ぶりが激しいので、それでなくても布団の半分はみ出している蚊帳のすそがぱっぱっとめくれて、蚊が幾匹も舞い込んで来る。「此奴こいつあいけねえ、大変な蚊だ」と、熊谷がムックリ起き上って、蚊退治を始める。誰かが蚊帳を蹈んづけて、釣り手を切って落してしまう。その落ちた中でナオミが一層ばたばたと暴れる。釣り手を繕って、蚊帳をり直すのに又長いこと時間がかかる。そんな騒ぎで、やっといくらか落ち着いたような気がしたのは、東の方が明るみかけた時分でした。
雨の音、風の響き、隣りに寝ている熊谷のいびき、………私はそれが耳について、ついとろとろとしたかと思うと、ややともすれば眼がさめました。一体この部屋は二人で寝てさえ狭苦しい上に、ナオミの肌や着物にこびりついている甘い香と汗のにおいとが、醗酵はっこうしたようにこもっている。そこへ今夜は大の男が二人も余計えたのですから、尚更なおさらたまらない人いきれがして、密閉された壁の中は、何だか地震でもありそうな、息の詰まるような蒸し暑さでした。ときどき熊谷が寝返りを打つと、べっとり汗ばんだ手だのひざだのが互にぬるぬると触りました。ナオミはと見ると、枕は私の方にありながら、その枕へ片足を載せ、一方の膝を立てて、その足の甲を私の布団の下へ突っ込み、首を浜田の方へかしげて、両手は一杯にひらいたまま、さすがのお転婆てんばもくたびれたものか、い心持そうに眠っています。
「ナオミちゃん………」
と、私はみんなの静かな寝息をうかがいながら、口のうちでそう云って、私の布団の下にある彼女の足をでてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これはたしかに己の物だ、己はこの足を、彼女が小娘の時分から、毎晩々々お湯へ入れてシャボンで洗ってやったのだ、そしてまあこの皮膚の柔かさは、―――十五のとしから彼女の体は、ずんずん伸びて行ったけれど、この足だけはまるで発達しないかのように依然として小さく可愛い。そうだ、この拇趾おやゆびもあの時の通りだ。小趾こゆびの形も、かかとの円味も、ふくれた甲の肉の盛り上りも、べてあの時の通りじゃないか。………私は覚えず、その足の甲へそうッと自分の唇をつけずにはいられませんでした。
夜が明けてから、私は再びうとうととしたようでしたが、やがてどっと云う笑い声に眼がさめて見ると、ナオミが私の鼻のあなかんじよりを突っ込んでいました。
「どうした? 譲治さん、眼がさめた?」
「ああ、もう何時だね」
「もう十時半よ、だけど起きたって仕様がないからどんが鳴るまで寝ていようじゃないの」
雨がんで、日曜日の空は青々と晴れていましたが、部屋の中にはまだ人いきれが残っていました。
 
 
 
 
 
 

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