冬の情緒
萩原朔太郎
冬といふ季節は、蕭条とした自然の中にをののいてゐる、人間の果敢ない孤独さを思はせる。我々の遠い先祖は、冬の来る前に穴を掘り、熊や狐やの獣と共に、小さくかじかまつて生きたへて居た。そこには食物も餌物もなく、鈍暗とした空の下で、自然は氷にとざされて居た。死と。眠りと。永遠の沈黙と。――
おそろしい冬に於て、何よりも人々は火を愛した。人間の先祖たちは、自然の脅威にをののきながら、焚火の前に集つて居た。火が赤々と燃えて来る時、人々の
文明の進歩につれて、人々は自然の脅威を征服して来た。不断の満たされた食事と、立派な暖房装置の家を持ち、外出に自動車を有する近代人は、あの蕭条とした自然の中にをののいている原始の恐怖を、もはや全く意識の表象から忘れてしまつた。アスハルトの道路と、コンクリートの建築と、人工暖房装置の中に住んでる近代の人々にとつて、おそらく冬は季節の最も楽しい享楽期であらう。そこにはクリスマスがあり、夜会があり、観劇があり、打ち続く歓楽のプログラムがある。しかしながら尚、人間は永遠に先祖の記憶を遺伝して居る。すべて原始にあつた如く、今日の人間も尚、冬に於けるあの「先祖の情緒」を記憶して居り、本能の奥深い隅に於て、決して抜くことができないのである。
それ故に詩人たちは、昔に於ても今に於ても、西洋でも東洋でも、常に同じ一つの主題を有する。同じ一つの「冬」の詩しか作つて居ない。彼等の思想と題材とは、もちろん一人一人に変つて居るが、その詩的情緒の本質に属するものは、普遍の人間性に遺伝されてる、一貫不易のリリツクである。即ちあの蕭条たる自然の中で、たよりなき生の孤独にふるへながら、赤々と燃える焚火の前に、幼時の追懐をまどろみながら、母の
我れを厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
葱買ひて枯木の中を帰りけり
易水に根深流るる寒さかな
古寺やほうろく棄つる藪の中
月天心貧しき町を通りけり
此等の俳句に現はれる、
(余事の議論に亘るけれども、俳句はもちろん抒情詩の一種であるから、本質に特殊なリリツクを持たないものは似而非物である。芭蕉も、蕪村も、この点では特別に皆すぐれた情熱を有した詩人であつた。俳句に於けるリリツクの本質は、その方面で「俳味」と言はれる情緒であるから、真の本質的な俳句であるほど、俳味が強く匂ひ出してるわけである。俳味を無視した単なる写生や客観描写を、俳句の本質と思つてる人々ほど、詩を知らない似而非俳人はないであらう。)
底本:「日本の名随筆20 冬」作品社
1984(昭和59)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第九巻」筑摩書房
1976(昭和51)年5月発行
入力:向山きよみ
校正:noriko saito
2009年5月5日作成
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