夢 萩原朔太郎

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萩原朔太郎

 
 
 
夢と人生 夢が虚妄に思はれるのは、個々の事件が断片であり、記憶の連続がないからである。昨日私は、夢の中で借金し、夢の中で怪我をした。しかし朝になつて見れば、借金を返す義務もなく、負傷の跡方さへもないのである。そして今夜の夢は、それと全く別なことを経験する。だがもしさうでなく、夢が夜毎に連続したらどうであらうか。昨日の夢で怪我をした私は、今夜の夢で病院へ入院し、医師の治療を受けねばならぬ。そして昨日の夢で借りた金を、今夜の夢で催促され、工面しなければならないのである。
 この場合にあつて、夢はまさしく現実である。即ち人々は、昼間の生活と、睡眠中の生活と、二部の併存した人生を生きねばならぬ。神がもし慈悲深く、衆生の人間に対して平等だつたら、おそらくこの二つの生活は、互に反対のものになるであらう。即ち昼間の生活で幸福であり、楽しく満悦してゐるところの人々は、夢の中で苦悩多く、不幸な人生を経験し、その反対の人々は、昼間の生活の代償として、夢の中で幸福な世を送る。そしてすべての人々は、神の公平な摂理の下に、エコヒイキなく平等になる。だがどんな場合にあつても、神は決して公平でない。なぜなら夢は、その人の先天的気質や体質や、特に健康状態によつて決定されるからである。たとへば神経質の人や、内気で非社交的な人々や、不健康で病弱の人々や、即ち一口で言へば、生存競争の劣敗者たる素質を持つた人々は、概して皆苦しい夢、恐ろしい夢、人から苛められるやうな夢ばかり見る。反対に楽天的で陽気な人々や、社交的で元気がよく、健康のすぐれた強壮の人々や、即ち素質的に生存競争の優勝者たる人々は、概して皆楽しい夢、明るい輝いた夢ばかり見る。「富める者は、その持たざる物をも与へられ、貧しき者は、その持つ物をも奪はる」と耶蘇が言つた聖書の言葉は、人生のどんな場合にも真実である。幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、悪しき星の下に生れた人は、夢の中でさへも、二重にまた不幸である。夢がその一夜限りの断片であり、記憶の連続をもたないこと、その故にまた虚妄であるといふことは、せめてもの恩寵として、神に感謝すべきことであるかも知れない。
 
夢を支配する自由 阿片やモルヒネの麻酔が、人を楽しく恍惚とさせるのは、それが半醒半夢の状態を喚起させ、夢を自由に幻想することができるからである。真に深く眠つてしまへば、人はもはや意識を失ひ、或る超自我の生命支配者がするところの、勝手な法則に夢を委ねなければならなくなる。しかもその夢は、たいてい願はしくないこと、思ひがけないこと、厭な楽しくもないことばかりである。しかも覚醒している間は、意識が現実の刺激に対して、一々の決定された法則によつて反応するため、一も真の自由が得られず、人間の精神生活そのものが、物理的法則の支配下に属してしまふ。精神の真の自由――自分の意志によつて、自分の意識を支配することの自由――は、ただ夢と現実の境、半醒半夢の状態にだけある。阿片の酔夢の中では、人はその心に画いてゐるところの、どんなヴィジョンをも幻想し得る。だがさうした毒物の麻酔を借りずに、もつと自然的ノーマルな仕方によつて、夢を自由にコントロールすることができるならば、人生はずつと幸福なものに変るであらう。その時人々は、現実に充たされない多くの欲望を、夢で自由に充たすことができる上に、意識をその決定する因果の法則から、自由に解放することによつて、あらゆる放縦不覊なイメージや美的意匠を、夢で芸術することができるのである。
 
夢と情緒 夢の中で見る事件や物象は、概して皆灰色に薄ぼんやりして、現実のやうにレアルでない。だがその反対に、夢の中で感ずる情緒は、現実のそれと比較にならないほど、ひどく生々なまなまとしてレアリスチックに強烈である。特に悪夢などで経験する、恐怖の情緒の物凄さは、到底普通の言葉で語られないほど、生々なまなまとして血まみれに深刻である。(多くの物凄い怪談は、たいてい夢の恐怖を素材にしてゐる)現実の世界に於ては、たとへどんなに恐ろしい事件、死に直面するやうな事件に遭遇しても、決して夢のそれのやうには恐ろしくない。悲哀の情緒もまた、夢の中では特別に辛烈である。夢で愛人と別れたり、両親と死別したり、それから特に、自分の避けがたい死や不運やを見たりする時ほど、真に断腸の悲しみといふ言葉を、文字通りに感じて歔欷することはない。夢で慈母を喪つた悲しみは、むしろ現実のそれに数倍して哀切である。現実の情緒は、悲哀にまれ、恐怖にまれ、理智の常識する白昼まひるの太陽に照らされて、夢の闇の中で見るやうに強烈でなく、昼間の残月のやうにぼんやりしてゐる。情緒の真のレアリティは、夢の中にのみ実在してゐる。そしてこのことは、夢が何億万年の古い人類の歴史を、我々の記憶の中に再現することを実証する。おそらく我々は、原始に類人猿の一族から発生した時、未だ理智の悟性が芽生えなかつた。その時人間は、鳥類や獣類と同じやうに、純粋に情緒ばかりで行動して居た。そして鳥類や獣類やは、今でも尚依然として、我々が夢の中で感ずるやうに、世界を「現実レアル」に経験して居るのである。
 
夢と動物愛 動物の情緒(悲哀や、喜悦や、恐怖やの感情)が、いかに生々なまなましく強烈なものだといふことを、夢の経験によつて推測するところの人々は、彼等の畜類に対して、自然に同情と理解をもつようになり、基督教的の倫理観から、動物愛護主義者になる。
 
夢の起源 夢が性慾の潜在意識だといふフロイドの説は、それのドグマによる彼の夢判断と共に、私の考へるところでは誤つて居る。おそらく夢の起源は、人間にも動物にも共通して、祖先の古い生活経験を遺伝してゐるところの、先験的記憶の再現である。夜、夢の中で遠吠えする犬の声が、それ自ら狼の鳴声と同じであるといふことは、疑ひもなく犬の夢が、祖先の狼であつた時の、古い記憶を表象してゐるのである。人間の夢の中に、蛇や蜥蜴やの爬虫類が、最も普通にしばしば現はれるのは、フロイドの言ふ如く性慾の表象でなく、おそらく人類の発生期に於て、それらの巨怪な爬虫類が地球上に繁盛し、憐れな頼りない弱者であつた我等の先祖を、絶えず脅かしてゐた為であらう。人類の先祖は、一億万年もの長い間、非力な頼りない動物として、酷烈な自然と闘ひながら、不断に他の強大な動物から脅かされ、生命の危険におびえわなないて居た。人間がその発育した理智によつて、自然の苛虐から自衛を講じ、次第に他の強敵を征服して、自らの文化と歴史とを作つたのは、極めて最近の事蹟であり、人類進化の悠遠な史上に於ては、殆んど言ふに足らない短日月の歴史にすぎない。我等の意識内容にある記憶の主座は、過去に最もながく人類の経験した、様々の恐ろしいこと、気味の悪いこと、怯え戦つてることばかりである。人は夜の夢の中で、樹人や火人であつた頃の、先祖の古い記憶を再現し、いつも我等の生命を脅かして居たところの、妖怪変化の恐ろしい姿や、得体の解らぬ怪獣やの、魑魅魍魎ちみもうりようの大群に取り囲まれて魘されてゐる。人が本能的に闇黒を恐れるのも、それが敵から襲撃されるところの、最も恐ろしく気味の悪い時であつたからだ。夢の中では、人間も万物の霊長ではなく、馬や牛や動物と変りがない。或はもつとそれよりも、悲しく頼りない生物であるかも知れない。人間の夢の中に理智が現はれ、文化人としての記憶が表象されるのは、おそらく数千万年の将来に属するだらう。
 
心理学者の誤謬 夢の解釈について、多くの心理学者に共通する誤謬は、覚醒時に於ける半醒半夢の状態から、真の昏睡時の夢を類推することである。夢が性慾の潜在意識であるといふフロイドの学説も、おそらくその同じ誤謬から出発してゐる。覚醒時に於ては、既に半ば意識が働き、夢を夢と意識することから、人は或る程度まで、夢を自分の意志によつて、自由にコントロールすることができるのである。そこでフロイドの説の如く、人はその日常生活で抑圧され、ふだんに内攻してゐる性の欲求を、おのづから夢の中に変貌して表象する。多くの人々にあつて「まだ醒めやらぬ明方の夢」が楽しいのは、つまり言つてこの事実を説明してゐる。なぜならフロイドの説によれば、夢は原則として「楽しいもの」であり、性の解放による饗宴でなければならないからだ。だが真の昏睡時の夢は、概してあまり楽しいものではなく、むしろ性の解放とは関係がないところの、恐ろしいことや悲しいことが多いのである。
 ベルグソンの夢の説も、ひとしくまた同じ点で誤つてゐる。ベルグソンによれば、夢は身体の内外に於ける知覚の刺激――戸外の物音や、胃腸の重圧感や――によつて動因的に表象されるといふのである。彼はその例証として、戸外で吠える犬の声から、大砲の音を表象し、それによつて戦争の夢を見たと言つてる。覚醒時に於て、知覚が半ば目を醒ましてゐる時には、疑ひもなくその通りである。しかし意識が全く昏睡してゐる夢の中では、ベルグソンの説明が意味をなさない。おそらく夢の解説は、もつと不思議で解きがたく、謎の深い神秘の闇に低迷してゐる。
 
幼児の夢 幼児は絶えず夜泣きをし、何事かの夢に魘されておびえ泣いてる。母のママ体を出たばかりの小さな肉塊。人間といふよりは、むしろ生命の神秘な原形質といふべき彼等は、夢の中に何物の表象を見るのであらうか。性慾の芽生えもなく、人生に就いて何の経験もない彼等は、おそらくその夢の中で、過去に何万代の先祖から遺伝されたところの、人類の純粋記憶を表象してゐるのであらう。夢に魘えて夜泣きをする幼児の声ほど、生命の或る神秘的な恐怖と戦慄とを、哀切に気味わるく感じさせるものはない。たしかに彼等の幼児は、夢の中で魑魅魍魎に取り囲まれ、人類の遠い先祖が経験した、言説しがたく恐ろしいこと、危険なことを体験し、生命の脅かされたスリルを味はつてゐるのである。夢を性慾の表象とし、それによつて夢判断をするフロイド流の心理学者は、すくなくともその同じ原理によつて、赤児の夢を判断し得ない。夢の起源は、彼等の学者が思惟するよりは、もつとミステリアスな詩人の表象と関聯してゐる。
 
 
 

 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
 
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1986(昭和61)年3月10日第4刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第五巻」筑摩書房
   1976(昭和51)年1月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
微修正:明かりの本
2006年9月21日作成
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