白痴(第二編) ドストエフスキー

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白痴(第二編)
ドストエフスキー
中山省三郎訳

 

  第二編

      一

 この物語の第一篇の終わりとなっているナスターシャ・フィリッポヴナの夜会での奇妙な出来事ののち二日ばかりたって、ムイシュキン公爵は、思いもかけなかった遺産を譲りうけるために、あわただしくモスクワへ出発した。公爵のこうしたあわただしい出発には、必ず他に何か子細があるに相違ないというのが、そのころに広まった噂であった。しかし、このことについては、ペテルブルグを離れてモスクワに滞在中の公爵の動静と同じように、あまり詳しい消息を伝えるわけにはいかない。公爵は丸六か月の間というもの、ペテルブルグを離れていたのであったが、その間に起こったことは、公爵の運命に当然、なんらかの興味をいだかなければならない理由いわれのある人々でさえも、ほんの少ししか知らなかった。
 もっとも、何かしらちょっとした噂を時おり耳にしないわけではなかったが、この噂にしたところで、大部分は奇妙なもので、ともすれば互いに矛盾を来たすものであった。誰よりも公爵に興味をいだいていたのは、エパンチン家の人々であったことは、もとより当然のことであるが、その人々のところへ、出発に際して公爵はいとまごいを言いにゆくことさえもできなかった。とはいえ、エパンチン自身は、そのとき二度三度と公爵に会い、ある重要な事柄について公爵と打ちあわせはしたのであるが、家族の者には、このことをおくびにも出さなかった。それというのも、公爵が出発してから、かれこれ一か月の間、エパンチン家では彼の話をしなかったからである。
 ただひとり将軍夫人、リザヴェータ・プロコフィエヴナだけは、いちばん最初に『わたしは公爵に向かって、ずいぶんひどい思い違いをしていた』と、自分の胸中を打ち明けるのであった。しかし、それから二、三日たつと、もはや公爵とはっきり名を指さずに、誰ということもなく『わたしの一生のうちで最もいちじるしい特徴といえば、性懲りもなく人を見あやまってばかりいることだ』と言ったが、十日ほどたってから、とうとう癇癪かんしゃくを起こして、娘たちに当たり散らし、『間違いはもうたくさんだ! 今後そんな間違いをしてはいけない』と、判決めいた口調で結論した。
 かなり前から、この一家に、そこはかとない不快な気分が漂っていることを、今は気づかないわけにはゆかなかった。なんということもない重苦しい、神経をいらいらさせる、そうかといって思う存分に出しえない、争いのもとになりそうなあるものがわだかまっていて、誰も彼も面白くないような顔をしていた。将軍は仕事に追われて、夜も昼も忙しげであった。彼がこのように忙しそうにして、いかにも事務家らしく立ち回っているのは——ことに勤めのことで——あまり見かけないことであった。家の人でさえも、彼の姿を時たまにしか見られなかった。エパンチン家の令嬢たちはというと、もちろん、この人たちの口から、はっきりとしたことはなんにも聞けなかった。おそらく、この人たちだけの時にさえも口数は少なすぎるくらいであったろう。この令嬢たちは傲慢ごうまんなほどプライドの強い人々であったから、どうかするとお互いの間でさえも打ちとけないようなところがあった。もっとも、最初のひと言はおろか、最初のひと眼で、お互いの心の奥底までも理解し合うほどの仲であったから、あれこれとむだな口をきかなくとも十分に事足りたのであろう。
 ところで、縁もゆかりもない人が局外からこれを観察したならば、いささかなりとも、以上に述べたすべてのことを総合して、『公爵はただの一度、それもほんのちょっとの間、顔を出したにすぎなかったにもかかわらず、とにもかくにも、特殊な印象をエパンチン家の人たちに残して去った』ということだけは、断言できたであろう。おそらくはこの感銘さえも、公爵の奇矯な挙動によってひき起こされた単に好奇心であったかもしれない。しかし、それはどうあろうとも、印象を残して行ったということは明白な事実であった。
 町じゅうに広がったさまざまな噂も、しだいしだいに暗々裏に葬られていった。そうした噂というのは、事実、次のようなものであった。ある愚かしい公爵が(誰も正確にその名前を知っているものはなかった)思いがけなく莫大な遺産を譲りうけて、パリの花屋敷シャトー・ド・フレールの有名なカンカン踊りの踊り子で、目下わが国に在留中のフランス女と結婚したといわれ、またある者は、遺産を譲りうけたのは、さる将軍で、有名なカンカン踊りの踊り子のフランス女と結婚したのはロシアのたいへんな金持の商人であり、その男が結婚の席上で酔っ払ったあげく、ちょっとした見栄のために、丸々七十万ルーブルの近ごろの富籤とみくじ付公債を蝋燭の火で焼いてしまったとも言っていた。こうしたいっさいの風説はたちまちの間に消えてしまったが、これは大部分は当時の状況のしからしめたところである。
 たとえば、今度の出来事について、多少のことを知っている者の多くいるロゴージンの子分たちは、エカテリンゴフ駅で、ナスターシャまでがいっしょになってひき起こした恐ろしいばか騒ぎののちちょうど一週間して、ロゴージン自身を頭に立て、一同こぞってモスクワへ出発し、また、この出来事に関心を寄せていた少数の人々のうちの誰彼は、さまざまの噂によって、ナスターシャ・フィリッポヴナがエカテリンゴフでばか騒ぎがあったあくる日、逃げ出して姿を隠したことも、その後モスクワめざして彼女が出発したことも突きとめていた。だから、ロゴージンがモスクワさして出発したことは、ある点でこの風説と符合しているかのように思われた。
 仲間たちの間でかなりに名声のある、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンについても、また噂が立ちそうになったが、ある事情が生じたために、彼に関するいっさいのよからぬ噂は鎮まり、しばらくたつうちに、すっかりあとかたもなくなってしまった。というのは、彼がひどい病気にかかって、社交界はいうに及ばず、勤めのほうへ出ることができなくなったからである。ひと月ほど病気が続いてから、やっと回復したとはいうものの、どうしたわけか、彼は株式会社の勤めをきっぱりと断わったので、彼の椅子には他の人が代わって坐るようになった。彼はエパンチン将軍の家には一度も姿を見せなかったので、将軍のところにも他の官吏が出入りするようになった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに敵意をもっている人たちは、あいつはおのが身に起こった例の出来事のために、すっかりしょげこんで、往来へ出るのさえもはずかしいのだろうなどと、勝手な想像にふけったかもしれない。しかし、実際のところ何かに思い患って憂鬱病ヒポコンデリイにさえかかって、ふさぎ込んでいたかと思うと、癇癪を立てたりするのであった。ワルワーラ・アルダリオノヴナはこの冬プチーツィンのもとにかたづいた。二人を知っている人々は、この結婚は、ガーニャが再び職務に就いて、家族の者を養おうとしなくなったばかりではなく、かえって自分が他人の助力や看護を仰がなければならないような状態に立ち至ったからであると、無遠慮なことを言っていた。
 余談にわたるかもしれないが、エパンチン家では一度としてガヴリーラ・アルダリオノヴィッチのことを口にしたことはなかった。まるで、そんな人間はエパンチン家にばかりではなく、この世にもいなかったかのようであった。ところが、この家の人々はみな(しかもきわめて早く)彼に関するあるきわめて注目すべき出来事を聞き知った。というのは、彼にとっては真に運命の別れ目ともいうべきあの夜、ナスターシャ・フィリッポヴナのところで起こった不快な出来事のあとで、ガーニャは家へ帰ってからも、床にはいらずに熱病やみのように、いらいらした気持で、公爵の帰りを待っていた。エカテリンゴフへ出向いた公爵は、朝の五時過ぎに、そこから帰って来た。その時、ガーニャは公爵の部屋にはいって、その前のテーブルに半焼けの紙包みを置いた。それは彼が気絶して倒れていたとき、ナスターシャが贈った十万ルーブルの金であった。彼はこの贈り物をできるだけ早く、ナスターシャ・フィリッポヴナに返してくれるようにと、くれぐれも公爵に頼むのであった。ガーニャは部屋にはいって来た時は、敵意に満ちたほとんど自暴自棄といってもいいような気持になっていた、けれど、二人の間に二、三のことばが取り交わされてから、ガーニャは公爵の側に二時間も坐り込んで、その間、しきりに声をあげて泣いていた。別れぎわには、二人はもう友情に満ちた親しい間柄になっていたという。
 エパンチン家一家の人たちの耳へはいったこの風説は、後になって全く本当だということがわかった。こうしたたぐいの風説が、このように早く人に知れわたったのは、いうまでもなく不思議なことには相違なかった。たとえばナスターシャ・フィリッポヴナのところで起こったことのいっさいが、ほとんどあくる日のうちに、それもかなりに微細にわたってエパンチン家に知られてしまったことであった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチに関する報告は、ワルワーラ・アルダリオノヴナの手によって、エパンチン家へ運ばれたものと考えられる。彼女はなぜかしら急にエパンチン家の令嬢たちのところへしげしげと出入りするようになり、まもなくリザヴェータ・プロコフィエヴナが驚いたほど親密な間柄になった。しかし、何かの理由でエパンチン家の人たちと、このように親しくなるのを必要と考えていたにしても、自分の兄のことはけっして口に出そうとはしなかった。自分の兄を追い出さんばかりにとり扱った家と交際はしていても、彼女とても性根のある、かなりにプライドの強い女だったからである。その以前にもエパンチン家の令嬢たちを知らないわけではなかったが、顔を合わすことはきわめてまれであった。もっとも、今でさえ彼女はつかつかと客間にはいるのではなく、何かしらこそこそと逃げこむような風をして裏口からはいって来るのであった。リザヴェータ・プロコフィエヴナは、ワルワーラ・アルダリオノヴナの母ニイナ・アレクサンドロヴナを非常に尊敬はしていたが、今まで一度としてワルワーラを招待したためしがなく、今もって少しも気にはとめていなかった。彼女は驚いたり怒ったりして、ワーリヤと交際をしている娘たちの気まぐれと我の強いせいにして、『あの子たちはもう私に逆らうだけの思案がつかなくなったものですから……』と言っていた。しかし、ワルワーラ・アルダリオノヴナは、結婚する前と同じように、結婚の後も相変わらず令嬢たちを訪問することを続けていた。
 ところで、公爵が出発してから一か月ばかりたったころ、エパンチン将軍夫人は『ベラコンスカヤのお婆さん』から一通の手紙を受け取った。年老いたベラコンスカヤ公爵夫人はその二週間ほど前に、某家に嫁いだ長女をたずねて、モスクワへ行ったのであった。この手紙は将軍夫人に強い感銘を与えたかのように思われた。この手紙のことは娘たちにも、イワン・フョードロヴィッチにも何一つ知らせはしなかったが、かなりに興奮していることは、多くの点から家の人たちには察しがついていた。彼女は娘たちをつかまえて、奇妙なとっぴもないことを話すようになった。彼女は何かしら打ち明けたくてならないのを、どうしたわけか、じっとこらえている様子であった。手紙を受け取った日、彼女は娘たちをいたわって、アグラーヤとアデライーダには接吻までしてやった。娘たちに対して何か後悔しているらしかったが、いったいそれが何のためであるかは、娘たちにもよくわからなかった。まるひと月もの間、手ひどく当たり散らしていたイワン・フョードロヴィッチにまでも彼女は急に控え目な態度を見せた。しかし、それももちろん、あくる日になれば、昨日自分があまりにも感傷的であったことをことのほか腹立たしく思い、昼食の前には、さんざんみんなと口喧嘩をしたりしていた。ところが、夕方になると、また空模様がよくなった。それはともかくとして、概して、この一週間ばかりというものを、彼女はここしばらくの間は見られなかったような珍しく晴れやかな気持で過ごしたのであった。
 それから一週間して、また、第二の手紙が、ベラコンスカヤ夫人から届いたが、今度はもう将軍夫人も皆に打ち明けることにした。彼女はもったいぶった様子をして、『ベラコンスカヤのお婆さん』が(彼女は公爵夫人のことを陰で話す場合には、いつもこう呼ぶのであった)『ほら……変人の、例の公爵のことでたいへん安心のできるようなことを知らせて来た』とこう言った。お婆さんはモスクワであの人を捜し出し、いろんなことを調べて、あるきわめていいことを聞き出したのである。そして最後に、公爵が自分のほうからお婆さんの所へ出かけてたいへんいい印象を与えた。このことはお婆さんが、彼に毎日一時から二時までの間に遊びに来てくれるようにと招待していることを見ても明らかなことであった。『毎日毎日、あそこへ行ってるけれど、いまだに飽かれていないのだよ』と、こう結んでから、将軍夫人はさらに公爵は『お婆さん』の紹介で立派なお邸にも二、三度出入りするようになったと付け足した、『それに、いつまでも長居することもなく、ばか者にありがちなはずかしがりもしないのは結構なことだわ』
 こうした報告を聞いた令嬢たちはすぐさま、母親がこの手紙のことでまだいろいろのことを隠しているに違いないと気がついた。あるいは、令嬢たちはこのことをワルワーラ・アルダリオノヴナから聞き出していたのかもしれない。ワルワーラにしてみれば公爵のこと並びにそのモスクワ滞在中の出来事についてプチーツィンの知っているだけはすっかり知ることもできるし、またむろん、実際にも知っていたからである。しかもプチーツィンは、誰よりもいちばん詳しく知っていなければならなかったのである。それに、彼は実務的交渉では恐ろしく口かずの少ない男ではあったが、ワーリヤにはきっとこのことを知らせていたに違いないのである。将軍夫人はこれを知ると、たちまち前にもましてワルワーラ・アルダリオノヴナを嫌うようになった。
 しかし、いずれにしても氷は割れてしまったのであるから、急に大声に公爵の話をすることができるようになったのである。そのうえ、公爵がエパンチン家にひき起こしたまま立ち去った、異常な印象となみなみならぬ強い好奇心とが今やひときわあざやかに本体を現わしたのである。将軍夫人はモスクワから送られた報告が娘たちに深く感銘を及ぼしたのには驚いてしまった。また一方、令嬢たちのほうでも、母親の態度には驚かされた。なぜかというに将軍夫人は、『わたしの一生のいちばん目にたつ特徴といえば、人のことで性懲りもなく思い違いばかりしていることです』などともったいらしい口をきいておきながら、そのかげにまわってはモスクワに滞在中の公爵に気をつけてくれるように『権勢家』のベラコンスカヤ婆さんに頼みこんでいたことがわかったからである。しかもこの『お婆さん』というのが、どうかするとなかなかみ輿こしの重い人だから、この人にこんなことを依頼するにはよほど泣きおとすようにして頼みこまなければならないのである。
 さて、いよいよ氷が割れて新しい風が吹き始めると、将軍も急に打ち明けた話をしたので、この人もまた非常な興味をもって事件の成り行きを見ていたことがはじめてわかった。しかし、彼が打ち明けたところはただ『事件の実際的方面』にすぎなかった。将軍の語ったところというのは、彼は公爵のためをおもんぱかって、公爵、特にその指導者サラズキンの行動を看視するようにモスクワのある方面でなかなか羽振りのいい勢力ある二人の人に依頼したのである。それで遺産に関する噂、つまり遺産の事実に関して取りざたされたことはいっさい本当のことであるが、よくよくしらべた結果、遺産そのものは最初、やいやい言われたほど莫大なものではないということがわかったのである。その財政状態は半ば粉糾していて、負債は発見されるし、甘い汁にありつこうとするような人間も出て来るような調子だった。ところが公爵は人々がなんと忠告しようとそれにはかまわず、きわめて非実務的な態度をとったのである。『まあ、これはいいさ』と『沈黙の氷』の割れた今となっては、『衷心から』将軍はこう言って喜んだ。それも『やっこさんは少しばかりあれなんだけれど、いいところがあるから』と思っていたからなのである。
 しかし、なんといっても公爵はそのときばかなことをしでかしたのである。たとえば、故人の債権者の商人が係争中のものであると言って怪しい証書を持って来るし、またある者は公爵のことを嗅ぎヽヽつけてまるっきり証書も持たずにやって来たのであるが、それに向かってどんな態度をとったかというと、あんな連中、あんな債権者なんて少しも権利なんかありはしないと言う友人たちの忠告に耳もかさず、ほとんどたいていの者に満足を与えてやった。しかも、それは彼らの中のある者たちが実際に苦しんでいるということがわかったから満足させてやったにすぎないのである。
 将軍夫人はこのことについて、ベラコンスカヤからも似よりの手紙を受け取り、『ばか、なんてばかなんだろう、手のつけられないばかだ』ときつい調子で言い足したが、むしろこのばかな行為を喜んでいる様子が彼女の顔つきからうかがい知られるのであった。こうした夫人の様子のいっさいから、彼女が公爵に対して、まるで生みの子に向けるような心くばりをしているのに将軍は気づいたのであった。そして夫人はどうしたのか恐ろしくアグラーヤを可愛がりだした。これを見た、イワン・フョードロヴィッチは当分の間恐ろしく事務的なよそよそしい態度をとっていた。
 しかし、この愉快な気分もやはり長くは続かなかった。二週間ほど過ぎたころ、またしてもある変化が起こった。将軍夫人は顔をしかめ、将軍は二、三度肩を震わして再び『沈黙の氷』の中に身をとざした。その理由というのは次のようなことなのである。短いのではっきりしないところはあるが、しかも正確なある秘密の報告を二週間前に将軍は受け取った。それによると、最初モスクワで姿を隠し、すぐそのあとで同じくモスクワでロゴージンに捜し出されたかと思うと、またどこかへ行方を隠して、またまた彼に捜し出されたナスターシャ・フィリッポヴナが、ついに彼と結婚しようという固いことばを与えた。ところが、それからほんの二週間きりたたないうちに、ナスターシャ・フィリッポヴナが三度目に、ほとんど結婚の瀬戸際になって逃げ出し、今度はどこか地方の県下に行方をくらました。ところが、一方ムイシュキン公爵も、自分の事務のいっさいをサラズキンの管理にまかせたまま、モスクワから姿を消したという報告がまたもや閣下のもとに届いた。『あの女といっしょか、その跡を追ったのか——そのへんのところははっきりしないが、何かいわくがありそうだ』と将軍はことばを結んだ。リザヴェータ・プロコフィエヴナも何かしら面白からぬ報告を受けていた。で結局、公爵が出発してから二か月の間に、ペテルブルグにおける彼の噂はいっさい消えてしまって、もはやエパンチン家の『沈黙の氷』はもう破られることがないのであった。とはいえ、ワルワーラ・アルダリオノヴナが令嬢たちのもとを訪れることには変わりはなかった。
 こうした噂や報告などのいっさいにしめくくりをつけるため、次のことを言い添えておくことにしよう。春も近づいたころ、エパンチン家にはきわめて数々の変化が起こったので、自分のほうから便りをしなければ、またしようともしなかった公爵のことは自然と忘れられるようになった。ついに、夏が来たら外国へ行こうというもくろみが冬のうちにしだいしだいに根を広げていった。と言ってもこれはリザヴェータ・プロコフィエヴナと令嬢たちだけの話で、将軍はもちろんこうした『くだらない気晴らし』に暇つぶしをするようなことはできなかった。このように話が決まったのは、自分たちを外国へやらないのは両親ともそろって、いつもいつも自分たちの嫁入り話にばかり夢中になっているからだとすっかり信じていた令嬢たちの執拗な主張が通ったためであった。もしかすると両親のほうでもとうとう、婿むこさがしのことは外国に行っていてもできるから、一夏くらい旅行しても嫁入り話の妨げにはならないくらいか、『かえってぐあいよく』なるかもしれないと考えなおしたのかもわからなかった。
 ところでちょっと言っておくが、以前交渉中であったアファナシイ・イワーノヴィッチと、エパンチン家の総領娘との結婚はすっかり破談になってしまったのである。そこで彼の正式の申込みはしなくて事じまいになった。これは自然にそうなったのであって、取り立てて言うほどの相談もなく、少しの家庭内の争いも起こらずに済んだのであった。公爵の出発とともに双方から話がなくなってしまった。ところが、将軍夫人はその時、『やっとのことで、両手をひろげて十字を切りたいほどうれしい』と、言いはしたものの、この事情のいくぶんかはエパンチン家のその当時の重苦しい気分の原因となったのである。将軍は自分が悪かったと思って、不首尾をこぼしてはいたが、それでも長いこと怒っていた。彼はアファナシイ・イワーノヴィッチを『あのような財産、あんなに如才のない男を!』と惜しがっていた。
 まもなく将軍は、アファナシイ・イワーノヴィッチが来朝中の上流のフランス夫人の王朝正統派の公爵夫人に釣り込まれて結婚式を挙げたうえ、ひとまずパリへ行き、それからブルターニュかどこかへ行くということを聞き出した。『ふん、フランス女めと道ゆきか』と将軍は言い放った。
 そこで、エパンチン家では夏近くなれば出発することにして用意万端をととのえていた。と、思いがけなく、またいっさいのことをすっかり変更するような事情が生じたために、旅行はまたしても延期され、将軍と夫人を喜ばした。モスクワからペテルブルグへSという公爵がやって来たのである。この人は有名な、といってもきわめていい意味において有名な人であった。意識的に心の底から有益な事業に従事することを欲し、絶えず働き、いたるところに仕事を見いだすという幸福な珍しい性質をもち、謙譲にして清廉な、いわば現代的な活動家の一人であった。見栄を張ったり、政党的な冷酷な空論を避け、自分を一流の人物だなどと思いこむようなことのないこの公爵は、近ごろ世上に起こっている多くの事物に対して根本的な理解をもっていた。彼は初め官省に勤めたが、その後は引き続いて地方の事業に関係するようになった。それ以外に、彼はロシアの幾つかの学術団体の有力な通信員でもあった。また知り合いの技師と協力して、蒐集しゅうしゅうされた報告や調査にもとづいて計画中の重要な鉄道の一つにいっそう正確な方針をつけることにも力を尽くした。年は三十五くらいであった。『上流社会中の上流人』であった彼は、そればかりでなく、ある重大な用件で、自分の長官にあたる伯爵のところをたずねた際に、彼と出会って知り合いになった将軍が批評したように、『立派な、しっかりした争うべからざる』財産家でもあった。公爵はロシアの『事務的な人たち』と近づきになることをのがさない自分独特の好奇心のために、将軍の家族の人々とも親しくなったのである。三人姉妹のうちで、まん中のアデライーダ・イワーノヴナが彼にかなり強い印象を与えた。春も近づいたころ、公爵はおのが心を打ち明けた。彼はアデライーダの心にかなっていたばかりでなく、またリザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人の心にもかなっていた。自然、旅行は延期され、結婚は春と決められた。
 しかし、旅行は別れたアデライーダを思う悲しみを忘れるために、リザヴェータ・プロコフィエヴナと、その二人の令嬢の一、二か月の散歩といった格好で、夏の半ばから終りへかけて実行されることになっていた。ところがまた、ほかにある新たな事情が生じたのである。もはや春も終り近いころであったが(アデライーダの結婚は少しばかり行き違いがあって夏の半ばまで延期されていた)、S公爵はエパンチン家へ、遠い親類の一人であるが、自分とはきわめて親しいエヴゲニイ・パーヴロヴィッチ・エルという男を伴って来た。この男はまだ若く二十八くらいで、侍従武官であり、名家の出であるし、絵に描かれたような美男子で、そのうえ『新しい』男ときているのである。将軍はこの財産ということにかけてはいつも慎重な態度をとった。そこで彼はさっそく取り調べをして、「どうもそうらしい、まだまだくわしく調べてみないことにはわからんが」と言った。この若くてそのうえ『将来のある』侍従武官はモスクワのベラコンスカヤお婆さんにはひとかたならず持ち上げられていた。ただ一つ、ちょっとばかりむずがゆいような世間の風評があった。つまり、関係のあった女性はかなりな数にのぼり、『不幸な心』を『征服』したこともあるというのであった。アグラーヤを見てからは、彼はエパンチン家にずいぶん長居をするようになった。実際のところ、何も口に出して言ったわけではなく、また何か謎めいたことを言ったのでもないが、この夏は外国旅行などのことを考えることはむだなように両親は思っていた。が、アグラーヤ自身には、あるいは他の違った意見があったのかもしれない。
 これは、この物語の主人公が再び登場する、ほとんど直前に起こったことなのである。見たところでは当時ペテルブルグでは哀れなムイシュキン公爵のことを、もうすっかり忘れてしまったかのごとくである。もし、彼が以前の知り合いのところへ姿を現わしたならば、あたかも天から降って来たように思われたことであろう。しかし、それはともかく、いま一つの事を読者に伝えて、それでこの前書きを終りたいと思う。
 コォリャ・イヴォルギンは、公爵の出発後も、ずっと以前のままの生活を続けていた。つまり中学に通い、親友のイッポリットのところを訪れ、将軍のとりをし、ワーリヤの家事を手伝ったり、走り使いをしたりしていた。しかし下宿人はまもなくいなくなってしまった。フェルデシチェンコはナスターシャの事件があってから三日後に、どこかへ飛び出して行き、そのまま姿を見せなくなったので、彼の噂はすっかり消えてしまった。どこかで酒をくらっていたという人もいたが、確かなことはわからなかった。それに公爵もモスクワへ出発してしまったので、下宿人は皆いなくなったわけである。その後ワーリヤが嫁入りをした際、ニイナ・アレクサンドロヴナとガーニャはいっしょにイズマイロフ連隊の近くのプチーツィンのもとへ引き移って行った。
 ところで、イヴォルギン将軍はどうかというに、これとほとんど時を同じゅうして全く思いがけない事件が起こって、彼は債務監獄に収容されたのである。将軍はこれまでたびたび、友人の大尉なる細君に額面二千ルーブルほどの証文を渡したことがあるが、これがもとで債務監獄に収容されるようになったのである。これは彼が夢にも見たことのないことであった、不仕合わせな将軍は『概して言うならば人間の高潔な心を一途に信じたがためにみじめな犠牲』となったのである。気軽な気持で借金証文や手形に署名する習慣のあった彼は、いつかはこうなるとはしょっちゅう考えてはいたが、それほどてきめんに効力を生じようとは思わなかった。ところが、そうではなかったのである。『こんなことのあったあとで、どうして人を信ずることができよう、貴い信頼の情を示すことなんかできるものか』と将軍は債務監獄で新しく友だちになった者といっしょに坐って、悲痛な調子で叫ぶかと思うと、酒壜を前に控えて、カルス包囲にまつわる逸話や蘇生した一兵士の話をするのであった。監獄の中にいるとはいっても、彼はのうのうとした気持で暮らしていたのである。プチーツィンとワーリヤは、そこが彼にとっていちばん似合いの場所であると言った。ガーニャも、それにすっかり同意した。しかし、ただひとり不仕合わせなニイナ・アレクサンドロヴナだけは、人知れず苦い涙をしぼっていた(このことは家の人にはかえって不思議に思われた)が、暇さえあれば、しげしげと債務監獄にいる夫のもとへ出向いてゆくのであった。
 コォリャのいわゆる、『将軍の事件』以後、つまり姉の結婚以来というものは、コォリャは家の人々と交渉を絶って近ごろでは夜寝泊りに家に帰って来ることも珍しいのであった。聞くところによると、彼は新しくさまざまの人々と交際を結んだということである。それにまた債務監獄ではあまりに顔を知られすぎたほどであった。ニイナ・アレクサンドロヴナがそこへ行ったとき、彼がいなくてはどうにも方法がつかなかったからである。それでも家の人々は、ちょっとした物好きの気持からでも、彼にとやかく言ってうるさがられるようなことはしなかった。以前コォリャに口やかましく言っていたワーリヤも、いま弟が方々うろつき回っていることについて何もやかましくは言わなかった。家の人々には不思議でならなかったのは、ガーニャが例の憂鬱症にかかっているにもかかわらず、まるで友だちに対するような態度でコォリャと話をしたり、応待をしたりすることであった。こんな様子は今までに見られなかったことである。それというのも、これまで二十七歳のガーニャは、自然と年の違う十五歳の弟に少しも情愛のある注意を向けようとはせず、乱暴なふるまいをし、家の者にも厳格なことばかり要求して、事ごとに、『耳をひっぱるぞ』と脅やかすのであった。だからコォリャは『人間として我慢のできる最後の限界』を踏み越えてしまったのである。ところが今ではもうガーニャにとってコォリャはどうかすると、なくてはならぬものと思われた。あの時ガーニャが、金を突き返したということはいくぶんコォリャを驚かした。このためにコォリャは、たいがいのことは兄を許してやろうという気になったのであった。
 公爵が出発してのち、三月たってからイヴォルギン家の人々は、コォリャが突然エパンチン家の人々と近づきになり、そのうえ令嬢たちからは、なかなか優遇されているという噂を耳にした。ワーリヤはすぐこのことに気がついた。つまり、コォリャはワーリヤを経て近づきになったのではなく、『自分の力』で近づきになったのである。彼はしだいしだいにエパンチン家で可愛がられるようになった。将軍夫人は最初の間、彼が出入りするのをかなり不快に思っていたが、やがて、コォリャが『率直で、おべっかを使わない』のを知るに及んで、彼を寵愛するようになった。コォリャがおべっかを使わないのは全く事実である。ときには夫人に新聞や雑誌を読んで聞かせることもあり、日ごろもよくからだを動かしはしたが、この家の中で十分対等の立場で応待するだけの気慨はもっていた。ところが二度ばかりリザヴェータ・プロコフィエヴナ夫人とひどく口論したことがある。そのときコォリャは、あなたは暴君だ、もうあなたの家になんか足踏みしやしないと宣告した。最初のときは『婦人問題』がもとで争論をひき起こし、二度目のときはひわをとるには一年じゅうでいつがいちばんいいかという問題からであった。
 嘘のように思われるかもしれないが、将軍夫人はそれから三日目に、ぜひ来てくれるようにと従僕に手紙を持たしてやった。コォリャはこれにとやかく言うこともなく、さっそく出向いて行った。どうしたことか、アグラーヤ一人だけはいつも彼にいい顔を見せず、お高くとまっているような態度を示した。ところがコォリャがいくぶん彼女を驚かすような運命を担っていたのである。あるとき、復活祭ちかくのことであった、コォリャは機会をねらってアグラーヤに一通の手紙を渡して、誰も人のいないときに渡してくれといって頼まれたのだと言った。アグラーヤはこわい目で『うぬぼれな小僧っ子め』とにらみつけた。しかし、コォリャはそのまま出て行った。彼女は手紙をひろげて、読み始めた。

『かつて、あなたは僕を深く信頼してくださいました。おそらくあなたは今ではいっさいをお忘れになられたかもしれません。なぜ僕があなたにお手紙をしたためる気持になったのでしょう? 僕にはわかりませんが、しかしあなたに、他の誰でもなくぜひあなたに僕のことを思い出していただきたいという希望が、押えても押えても私の心に起こってきたのです。あなたがたお三人は僕にとってはなくてはかなわぬ人です、僕は幾たび思ったことでしょう。ところが僕はお三人のうちでいつもあなたばかりを見ていたのであります。あなたは僕にとってはなくてはかなわないかたです。どんなことがあってもなくてはかなわないかたです。僕は自分のことについて別に何も書くこともなければ話すこともありません。私自身もそんなことをしようとは思いません。僕はただもう、あなたが幸福でいらっしゃればと望むばかりです。幸福にお暮らしですか? 僕の申し上げたいのはただこれだけです。
 あなたの兄なる エル・ムイシュキン公爵』

 この短い、かなり無意味な手紙を読み終えると、アグラーヤは、にわかに顔を赤らめて考え込んでしまった。彼女の思想の流れを伝えるのは困難なことであろう。しかし、たしかに彼女は『誰かに見せようかしら?』と考えた、しかし、彼女はなんだかきまりが悪いような気がした。で、とうとうさげすむような変なほほえみを浮かべて、手紙を自分の小机の引出しへ放り込んだ。ところがあくる日になると、再び彼女はそれを引き出して、堅牢な背皮の装幀のしてある厚い本の間にはさんだ(彼女は自分の書類を必要に応じて、すぐ捜し出すことができるように、いつもこうするのであった)。一週間ばかりたって、ふと、ゆくりなくどんな本だったかのぞいて見ると、それは、『ラマンシュのドン・キホーテ』であった。アグラーヤはそれをみておそろしく笑いこけたが、なぜかわからなかった。
 彼女が二人の姉のどちらかにこの獲物を見せたかどうかも、やはりわからないのである。
 しかし、彼女はもう一度この手紙を読んだとき、不意に頭に浮かんだことがあった。いったい、あのうぬぼれ屋で威張りやの小僧を公爵が通信員などに、おそらくはこの土地での、頼りになるただ一人の通信員などに選ぶなんてことがあるものだろうか? とふと思い浮かべたのである。全くばかにしきったような表情を浮かべて、ともかく彼女はコォリャをとらえて聞いてみた。すると、いつもおこりっぽい『小僧』が、この時は彼女のばかにしきった表情には少しの注意も向けずに、きわめてさりげない様子で説明するのであった。公爵がペテルブルグを出発するに当たって、彼は自分の住所を公爵に知らせて、何か用事があったら知らせてくれるように言っておいたのである、そしてこの手紙を頼まれたのがはじめての使命であり、またはじめての手紙であると。そう言ってから、彼は自分の言ったことを証明するために、自分宛に来た手紙を出して見せた。アグラーヤは躊躇ちゅうちょすることなく手紙を読んだ。コォリャ宛の手紙には次のように書いてあった。

 
  コォリャさん、どうか同封の手紙をアグラーヤ・イワーノヴナさんに渡してください。では、お大切に。
  あなたを愛する 公爵エル・ムイシュキン
 

「事もあろうに、こんな水腫れの小僧を信用するなんて滑稽だわ」アグラーヤは手紙をコォリャに返しながら、いまいましげにつぶやいて、侮蔑しきった顔をして彼のそばを通り過ぎて行った。
 コォリャはもう我慢がならなかった。彼はわざわざこの時とばかりに、ガーニャにわけも話さずにむりやりにもらって来た、まだ真新しい緑色の首巻を巻いていたのであった。彼はひどく憤慨した。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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