白痴(第二編) ドストエフスキー

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  第二編

      十

 イッポリットはヴェーラ・レーベジェフのすすめるお茶に唇をうるおして茶碗をテーブルの上に置いたが、急に気はずかしくなってきて、ほとんどどぎまぎしているような風をして、あたりを見まわした。
「リザヴェータ・プロコフィエヴナさん、この茶碗をごらんなさい」と彼はなんだか妙にそわそわして、「この磁器の茶碗は、この見事な磁器の茶碗は、いつもレーベジェフのところのガラスの蓋のついた箱の中にしまってあって、一度も出したことがないんですよ……どこの家にもよくあるように、これは細君の嫁入り道具なんでして、……こんなに出したところをみると、……それはもちろん、あなたに敬意を表してですね、それほど喜んでいるわけですよ……」
 彼はもっと何か言いたかったのであるが、何を言っていいのかわからなかった。
「それにしても、やっぱり気はずかしくなったんですね、おおかたそんなことだろうと思っていましたよ!」と、不意にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが公爵の耳に口を寄せてささやいた。「これは、あぶないんじゃありませんかね? あの様子だと今口惜しまぎれに何か、リザヴェータ・プロコフィエヴナもたまらないような、とんでもないことをやらかすにきまってますよ」
 公爵はいぶかしげに相手の顔を眺めた。
「あなたはとっぴなことなんか平気でしょう?」と、エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは言い足した。「わたしもそうなんです。かえって望んでいるくらいです。つまり、わが親愛なるリザヴェータ・プロコフィエヴナに今日てきめんにばちが当たればいいと、ひたすら望んでいるんです。それを見なくちゃ帰れませんよ。あんた、熱があるようですね?」
「後でお話ししましょう、邪魔しないようにしてください。え、僕はぐあいが悪いんです」そわそわしているというよりは、むしろいらだたしげな調子で、公爵はこう答えた。彼は自分の名前を言っているのを耳にした。イッポリットが自分の噂をしていたのである。
「あなたは本気にしないんですか?」とイッポリットはヒステリックに笑った。「そりゃそのはずです。しかし、公爵はいきなり本気にして、少しも驚いたりなんかしないでしょうよ」
「公爵、聞いてるの?」と言ってリザヴェータ・プロコフィエヴナは彼のほうをふり向いた。「聞こえてるの?」
 あたりにいた人は笑いだした。レーベジェフは忙しそうに、前のほうへ突き出て来て、リザヴェータ・プロコフィエヴナのすぐ前をうろうろし始めた。
「この人の話ではね、そら、その変な格好をした男、おまえさんの家主がさ……そこにいる旦那に頼まれて、おまえさんにあてつけてさっき読んだ新聞記事をなおしたんだってさ」
 公爵はあっけにとられてレーベジェフを眺めた。
「いったい、なんだってあんたは黙っているの?」じれったそうに足を踏み鳴らしさえもして、リザヴェータ・プロコフィエヴナはこう言った。
「しかたありませんよ」レーベジェフから眼を離さずに公爵はこうつぶやいた。「この人がなおしたことはよくわかってます」
「本当?」と、リザヴェータ・プロコフィエヴナはすばやくレーベジェフのほうをふり向いた。
「全く本当のことでござんす、閣下!」レーベジェフは片手を胸に当てて、いささかの揺るぎもない落ち着いた態度でこう答えた。
「まるで威張ってるようよ!」とリザヴェータ・プロコフィエヴナは飛び上がらんばかりになって、こう叫んだ。
「ふつつかでして、全くふつつかな!」とレーベジェフはつぶやいて、自分の胸をたたきながらしだいに頭を下げた。
「おまえがふつつか者だって、わたしの知ったことじゃないよ! この男は『ふつつか者』だとでも言えば、それで済むと思ってる。それに公爵、あんたはこんな連中と交際していて、もう一度言っておきますが、はずかしくはないの? もうけっして許しませんよ!」
「公爵はわたしを許してくださいます」レーベジェフは確信と感動とをこめてこう言った。
「ひたすら高潔な気持から」不意に駆け寄って来たケルレルはリザヴェータ・プロコフィエヴナに面と向かって響き渡るような大声をあげてこう言った。「奥さん、苦境に陥った友人を裏切るまいとして、ひたすら高潔な気持のために、あなたが御自分でもお聞きになったように、僕は、この男が僕らを階段から突き落とすなんかと言ったにもかかわらず、さっきはこの訂正の事実を隠していたのです。しかし、本当のことを明らかにするために申しますが、僕は六ルーブルでこの男に頼んだのです。しかし、それもけっして文章をなおすためではなく、主として僕の知らない事実を教えてもらわんがためです。そのほうの事情に通じている人間として、この男に頼んだ次第です。ゲートルのことについても、スイスの先生のところでの大食のことについても、二百五十ルーブルの代わりに五十ルーブルとしたことも、要するに、そうした組合せはみんなこの男が六ルーブルでやったことです。文章はなおしやしなかったんです」
「わたしは注意しとかなきゃなりません」としだいしだいに笑い声が昂じてゆく中で、熱病やみのようにいらいらして、どことなく、のろのろした声でレーベジェフは彼をさえぎった。「わたしがなおしたのは、ただ前半だけで、まん中ごろまで来た時、ある点で意見が合わないで口論をして、わたしはあとの半分はなおさなかったんです、だから、あの中の成ってない所は(あの文章は全く成っちゃおらんなあ!)けっしてわたしの責任じゃござんせん……」
「この人がやきもきするのは、それくらいのところだよ!」と、リザヴェータ・プロコフィエヴナは叫んだ。
「ちょっとお尋ねしますが」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチがケルレルのほうを向いて言った。「記事を訂正したのはいつですか?」
「昨日の朝でした」と、ケルレルが報告した。「僕らはその時、互いに堅く秘密を守るという約束をしたんでした」
「じゃ、この男があんたの前にはいつくばって、何事によらず、あんたの言うことを聞くって誓っていた時分ですよ! ええ、なんていう人たちだろう! おまえのプゥシキンもいらなきゃ、おまえの娘も来てもらうのはよします!」
 リザヴェータ・プロコフィエヴナは立ち上がろうとしたが、不意にいらいらしたようにプチーツィンのほうをふり向いた。
「おまえさんは、なんだってわたしを笑い者にしようとしてここへ引き止めたの!」
「とんでもない」とイッポリットはゆがんだような、薄笑いを浮かべた。「しかし、リザヴェータ・プロコフィエヴナさん、僕は何よりもあなたの恐ろしく突拍子もないのには驚いてしまいました。僕は実のところ、レーベジェフのことがあなたにどれくらい、ききめがあるか知りたいと思って、わざとあなたを引き止めたんですよ、あなた一人が目当てですよ。なぜって、公爵はきっと許してくださると思ったからです。どうです、公爵は本当に許してくだすったでしょう、……もしかしたら、言いわけのことばまで考えていらっしゃるかもしれませんよ、ねえ公爵、そうでしょう?」
 彼は息を切らしていた。その奇怪な興奮はひと言ごとに高まっていった。
「それで? ……」彼の調子に驚きながらも、リザヴェータ・プロコフィエヴナは腹立たしそうにこう言った。「それで?」
「僕はあなたのお噂をいろいろ聞きました、これに似たようなことを……たいへん愉快に……あなたを御尊敬するようになりました」とイッポリットは語り続けた。
 彼は、こうは言っているものの、これらのことばで、全く別な意味を表わそうとしているかのようであった。彼のことばには嘲笑的な調子がこもっていたが、同時にそれとは似てもつかないような疑い深いまなざしで周囲を見回し、うろたえてことばをつまらせる様子がいちじるしく目についた。すべてこうしたことは、その肺病患者らしい顔つきと、異様なほどにぎらぎらと輝く、まるで前後を見失ったようなまなざしと共に思わず人々の注意を彼のうえにじっと引きつけるのであった。
「もっとも、僕は世間知らずではありますが(これは白状します)、それでもずいぶんびっくりさせられましたよ。あんたが大胆にも僕らの仲間に居残られて、しかもこんな……お嬢さんたちまでもいっしょに残られて、こんな醜聞までもお耳に入れるんですからねえ、もっとも、お嬢さんがたは小説のほうでこんなことはとっくに御承知かもしれませんがね。それにしても僕にはわからないかもしれませんが……なぜって、僕は少々あわててますからね、……しかし、それはまずどっちにしたって、いったい、あなたのほかに誰があるでしょう……こんな子供(え、僕は子供に違いありません、またこのことも白状しておきますよ)の願いを聞き容れて、いっしょに表で夜を過ごされたり、何かと……世話をなすったり……何かと……そして、あくる日にははずかしい思いをするような人は……(もっとも、僕も自分の言い方が間違ってることは認めますがね)。こうしたことを何もかも僕は非常に賞讃し、尊敬しています。だが、閣下の、あなたの御主人のお顔には、こういうことはするもんじゃないとはっきり書いてございます……ひ、ひ!」彼はすっかり狼狽して、卑屈な笑い方をしたが、にわかに咳きこんでしまって、二分間ばかりはことばを続けることができなかった。
「息までつまったよ!」リザヴェータ・プロコフィエヴナは、峻厳な好奇心をいだいて彼を見ながら、ひややかな鋭い調子でこう言った。「さあ、いい子だから、もうおしまいにおし、遅くなったから!」
「君、失礼ながら、わたしのほうからも一言、御注意しておきます」とついに我慢しかねて、イワン・フョードロヴィッチはいらいらした調子で、いきなりこう言いだした。「家内がこうしてここにいるのは、レフ・ニコラエヴィチ公爵が、われわれ一同の親友であり、お近所のかたであるからです。それにまた、いずれにしたところで、君のような若造が、リザヴェータ・プロコフィエヴナのすることなすことをかれこれ批評したり、わしの顔に書いてあることを、面と向かってとやかく言うのは生意気だ。全く。それに家内がここに居残ったのは」とひと言ひと言に憤激を新たにしながら、将軍は語り続けた。「君、手っとり早く言うと、驚いたのと、奇妙な若い連中を見ようっていう誰にもよくわかるきわめて現代的な好奇心からなんです。わしが居残ったのは、ときどき往来に立ち止まることがあるのと同じ気持からです、つまり、何かちょっと目につくものがあるとき、その……その……その……」
「珍しいものでしょう」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが口を入れた。
「いや全くそのとおり」と、少々譬喩ひゆのことばに困っていた閣下は大いに喜んだ。「全く、その珍しいものを見るようなもんですよ。しかし、文法的にこう言いうるならば、わしには何よりも驚くべきことで悲しむべきことであったのです。リザヴェータ・プロコフィエヴナがここに居残ったのは君が病気で——もし君が死にかかっているというのが実際のことであるならば——つまり、君のあわれっぽいことばに同情したからだということが、君みたいな若い人が気づかれなかったこと、それがとにかく、わしには何よりも驚くべきことで悲しむべきことであったのです。またどんなことがあろうとも、妻の名誉、性質、品格に汚名をきせることは絶対にできないことです……リザヴェータ・プロコフィエヴナ」将軍は顔をまっかにしてこうことばを結んだ。「おまえが出かけるのだったら、公爵さんにおいとまをなさい、そして……」
「御教訓を感謝いたします、将軍」イッポリットは物思わしげに彼を眺めながら、思いがけなくもまじめな調子でこう言った。
「行きましょうよ、ママ、まだなかなか暇がとれそうだわ!……」とアグラーヤは椅子から立ち上がりながら、いらだたしげに、腹立たしげにこう言った。
「あなた、イワン・フョードロヴィッチ、お願いですから、もう二分ほど待ってください」とリザヴェータ・プロコフィエヴナはいかめしい態度で夫のほうをふり向いた。「なんだかこの人はすっかり熱に浮かされて、うわごとを言っているようです。あの眼を見ればわかります。このままうっちゃっておくわけにはいきません。レフ・ニコラエヴィチ! この人をあなたのところに泊めていただけますか? 今晩ペテルブルクへ連れて行くわけにはゆきませんからね。Cher Prince(ねえ、公爵)あなた、お退屈じゃありませんか?」と夫人はどうしたことか、いきなり公爵のほうを振り向いた。「アレクサンドラ、ここへいらっしゃい、髪をなおさなくちゃいけませんからね、さあ」
 彼女はなおすところなどは少しもない娘の髪をなおしてから、接吻をしてやった。ただこのために彼女は娘を呼んだのである。
「僕はまだまだあなたは伸びられるかただと思いましたよ……」とイッポリットは物思いから覚めて再びこう言いだした。「そうだ! 僕はこういうことを言うつもりだったんです」不意に何か思い出したように彼は喜ばしそうに叫んだ。「そら、ブルドフスキイは心の底から母親をかばおうとしたが、結局は母親をはずかしめることになったでしょう。それに公爵も清い心からして、ブルドフスキイに優しい友情と、莫大な金を提供されようと望まれたのです。われわれのうちの誰一人として、公爵に嫌悪の念をいだいているものはありません。それなのに、この二人は真実の敵味方のような立場に立ってしまいました……は、は、は! あなたがたはブルドフスキイが自分の母親を汚し恥をかかすようなことをするなんてお考えになって、あの男を憎んでいらっしゃる、ね、そうでしょう? そうでしょう? そうなんでしょう? あなたがたは恐ろしくきれい事とか、優雅な形式とかを好んでいらっしゃるじゃありませんか。そればかりを主張していらっしゃるじゃありませんか。それに違いないでしょう?(僕はずっと前からそれだけだと思っていましたよ)。え、皆さんのうちの誰だっておそらくブルドフスキイほど自分の母親を愛する人はないでしょう! 公爵、僕は知ってますよ。あなたは、こっそりガーネチカの手からブルドフスキイのお母さんにお金を贈られたでしょう。ところで、僕は誓って言いますが、今度はブルドフスキイが、形式の繊細さがないとか、母親に対する尊敬がないとか言って、あなたにきっと食ってかかりますよ、ええ、もちろんですとも、はははは!」
 彼はまたもや息を切らして咳きこんだ。
「それでおしまいなの? もうみんな言ってしまったの? そう、行っておやすみなさい、おまえさんは熱にうなされているんだから」彼から心配そうな眼を離そうともせず、リザヴェータ・プロコフィエヴナはいらだたしげにこう言ってさえぎった。「まあ、どうしたことです! おまえさんはまだしゃべってる!」
「あなたは笑ってらっしゃるようですね? どうして、僕を笑うんです? 僕にはちゃんとわかってますよ、あなたは僕のことを笑っていらっしゃるんです!」彼は不安な、いらだたしそうな態度で、不意にエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうを向いてこう言った。
 こちらは実際に笑っていたのである。
「僕はただ君にお尋ねしたいと思ったまでなんですよ。……イッポリット君……失礼しました、僕はあんたの名字を忘れちゃいました」
「チェレンチェフ君です」と公爵が言った。
「あ、チェレンチェフでしたか、公爵、ありがとう。さっき聞いたんですけれど、ついざるぬけになってしまって……チェレンチェフ君、僕は君にお尋ねしたいんですが、実は僕が聞いたところでは、君が十五分ばかり窓のところで群集と話をしたら、みんなは何もかも賛成して、さっそく君のあとからついてゆくと言ったとかいう御意見のようでしたが、あれは本当ですか?」
「そう言ったでしょう、大いにそうかもしれません……」とイッポリットは何か思い出したようにこう答えた。「え、きっと言ったに相違ありません!」と彼は再び元気づいてエヴゲニイ・パーヴロヴィッチをきっと見つめながら不意にこう言った。「いったいそれがどうしたというんです?」
「いや、別になんでもありません。僕はただ念のために知っておきたいと思っただけです」
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは口をつぐんだが、イッポリットはじれったそうに待ちうけながら、やはりじっと相手を見つめていた。
「さあ、どうしたの、済みましたか?」とリザヴェータ・プロコフィエヴナはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのほうをかえり見た。「あなた、早く済ましておしまいなさい、この人はもうやすまなきゃならない時分です! それとも二の句がつげないの?」
 彼女は恐ろしく気短かになっていた。
「僕は実に付け加えたくってしようがないんです」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは笑いながら続けた、「チェレンチェフ君、君の友人諸君から聞かされたこと、それから君が今あんなに弁舌あざやかに述べられたこと全部を総合して考えると、僕の見たところでは、一つの権利謳歌けんりおうかの理論に帰着するようですね。しかも何もかもさし置いて、何もかもよそに見て、何もかもそのほかのものは除外してまで、さらにことによったら権利そのものがどこに存在するかの研究もあとにして……ひょっとすると僕の勘違いでしょうか?」
「もちろん勘違いですよ、僕にはあなたのおっしゃることが呑みこめないくらいです……それから?」
 隅のほうでも不平を漏らす声が起こった。レーベジェフの甥は何やら低い声でつぶやいた。
「もうそれ以上言うことはほとんどありません」とエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが語をついだ、「僕が言っておきたいのはただこういうことです。このことがじきに力の権利、つまり、ただ単なる鉄拳や個人的欲求の権利にいきなり飛躍するかもしれないってことです。もっとも、世の中のことはたいていこれでかたづくんですけどね。プルードンも力の権利を主張していましたからね。アメリカ戦争のときでも、最も進歩的な多くのリベラリストが移民の権益保護のために、黒人は黒人で、白人よりは下に立つべきものだ、したがって力の権利は白人のものだ……と、こんな意味のことを宣言しましたからね」
「それで?」
「つまり、それだから君は力の権利を否定しないのでしょうね?」
「それから?」
「君もなかなかの理屈屋ですね。僕が言いたいのは力の権利っていうものは虎やわにの権利、ダニイロフやゴルスキイの権利とさえもあまり縁が遠くないってことです」
 イッポリットはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチの言うことをほとんど聞いていなかった。『それで』とか『それから』とか言っているのは、むしろ会話の場合に古くから慣れきった習慣のためであって、けっして好奇心をもっていたり、注意を向けているからではないらしかった。
「もうその先は何もありません……これでおしまいです」
「しかし、僕はあなたを怒ってるわけじゃありませんよ」と全く思いがけなく不意にイッポリットは断言して、ほほえみさえも浮かべて、ほとんど無意識に手を差し出した。
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは初めはちょっとびっくりしたが、きわめてまじめな態度で自分のほうへ差し出した手にさわった、まるでわびを聞き届けるときのような風をして。
「僕はもう一つ付け加えずにはいられません」相も変わらず瞹昧あいまいな、しかもうやうやしげな調子で彼はこう言った、「君が僕の話を最後まで聞いてくださったその御注意のほどを感謝いたします。というのは、僕が幾たびとなしに観察した経験に徴しますと、我が国のリベラリストというやからは誰かが何か独自の信念を持っていると、それを大目に見ることができず、さっそく、自分の論敵に悪罵あくばをもって応酬し、あるいは何かもっと卑劣な手段で報いないでは済まさないからです……」
「なるほど、それは全く君のおっしゃるとおりです」とイワン・フョードロヴィッチ将軍が言った。そして両手を後ろに組み合わせると、実に退屈でたまらないというような顔をして露台テラスの出口の方へ身を引いて、いまいましそうにあくびをした。
「さあ、もうあんたの話はたくさんです」いきなりリザヴェータ・プロコフィエヴナは頭ごなしにこう言った。「あんたの話にはうんざりしました……」
「もう遅くなった!」とイッポリットは心配そうに、ほとんど驚いたかのようにこう言って、にわかに立ち上がったが、気が気でないらしくあたりを見回し、「あなたがたをお引き止めしてしまいましたね。実は何もかも申し上げたかったのです……僕は思っていたのです。あなたがた皆さんが……これを最後として……しかし、それも僕の幻想ファンタジヤでした」
 どうやら、彼は発作的に元気づき、ほんのちょっとの間、本物の幻覚のような状態から、意識を完全に呼び返して、さまざまのことを不意に思い出しては語っているようであった。もっともその話はたいてい断片的なもので、それもおそらくは、ただひとり病床にあって、寝つかれぬ夜長のつれづれなるままに、かなり前から思いついて、ついにそらんじていたものらしかった。
「では、さようなら!」と彼は不意に鋭い声で言った。「あなたがたは、僕にすらすらとわけもなくさようならが言えるとお思いですか? は、は!」と言って彼は自分の不器用なヽヽヽヽ質問をいまいましげに嘲笑するのであった。そうかと思うと不意に、言いたいことがどうしてもうまく出て来ないのにごうを煮やしたように、いらだたしげに声高く言いだすのであった。「閣下! 僕にそれだけの価値があるとお思いでしたら、まことにおこがましい次第ですが、僕の葬式に立ち会っていただけませんでしょうか、……ねえ、皆さん、あなたがたも将軍に続いて!……」
 彼はまたもや笑いだした。しかしこれはもう狂人の笑いであった。リザヴェータ・プロコフィエヴナはびっくりしながら彼のほうへ近づいて、その手をつかんだ。イッポリットはやはりその笑顔のまま、じっと彼女を見つめていた。しかもその笑いは前から続いているのではなくて、顔に凍りついたまま残っているもののようであった。
「あのね、僕がここへ来たのは、樹木を見るためなんですよ。それ、あれです……(彼は公園の木立ちを指さした)おかしいじゃありませんか? 何もおかしいことはありませんか?」彼はまじめな調子でリザヴェータ・プロコフィエヴナに尋ねたが、急に、考え込んでしまった。やがて一分もたつと頭をあげて、一心にきょろきょろと一同の中を捜し始めた。
 彼は右手のすぐそばの以前の場所に立っているエヴゲニイ・パーヴロヴィッチを捜していたのである。彼はそれを忘れてあたりを捜しているのであった。「あ、あなたはまだいたんですか!」と彼はついに捜し出した。「あなたはさっき、僕が窓のところで十五分ばかりしゃべろうとしていたのを、しきりに笑っていましたね……あのね、僕は十八の子供じゃないんですよ、僕は長いこと枕の上に寝続けて、永い間その窓の外を眺めて、長いこと考えていたのです……あらゆることを……あの……。死人には年がないってことを、あなたは御存じでしょうね。僕は先週、夜中にふと眼がさめたとき、そんなことを考えたのです……。あなたは何を最も恐れているのか、御自分でおわかりですか? あなたは僕らを軽蔑していらっしゃるけれど、僕らの誠実なのを何よりもいちばん恐れていらっしゃるんですよ! 僕はそのこともやはりその晩、寝ていて考えたのです……ねえ、リザヴェータ・プロコフィエヴナさん、僕がさっきあなたのことを笑おうとしたなんて、そんなことを考えていらっしゃるんですか? いいえ、僕はあなたのことを笑ったりなんかしません、ただあなたを讃美しようと思ったのです……コォリャが言っていましたが、公爵があなたを子供だっておっしゃったそうですね……それは大出来です……そうだ、ええと、僕はどうしたんだろう……まだ何か言いたいことがあったんだけど……」彼は両手で顔をおおって考え込んだ。
「あ、そうだ、さっき、あなたが、さようならっておっしゃったとき、ああ、ここにこんな人たちがいるが、みんなやがては亡くなってしまう、永久に亡くなってしまう! こんなことを僕は不意に考えたのです。それからこの木立ちもやはり同じことだ、——あとには煉瓦れんがの壁が……僕の窓のま向かいにある……マイエルの家の赤い壁ばかり、……さあ、あの連中にこんなことをすっかり言ってみろ……試しに言ってみろ。ほら、美人がいる……それなのに、おまえは死人じゃないか、死人だと言って自己紹介をしろ、『死人はなんでも言えるんだ』ってそう言ってみろ……公爵夫人マリヤ・アレクセーヴナはとがめはなさるまいって、そう言え、は、は!……あなたがたは笑っているんじゃありませんか?」彼はいぶかしげに周囲を見回した。「あのね、寝ていると、いろんな考えが浮かぶんですよ……それで、僕は自然は皮肉なものだと確信したのです……あなたは先刻、僕のことを無神論者だとおっしゃいましたねえ、ところがこの自然は……なんだってあなたがたはまた笑うんです? あなたがたは恐ろしく残酷ですねえ!」と彼は周囲を見回しながら、突然、悲しそうな憤りの声をあげた。「僕はコォリャを堕落させはしなかったですよ」不意に思い出したように、今までと全く違ったまじめな自信ありげな調子で彼はことばを結んだ。
「誰一人、ここでおまえさんを笑ってる人はいないんだから、気を落ち着けなさい!」とリザヴェータ・プロコフィエヴナはほとんど悩ましそうに言った。「明日は新しいお医者さんが来ますよ。前の医者は診察を誤ってたのです。さあ、かけなさい、足もとがふらふらしてるじゃないの! うわごとばかり言ってて……ああ、この人をいったいどうしたらいいんでしょう!」と彼女は、はらはらしながら彼を安楽椅子に坐らせた。
 彼女の頬にはかすかな涙が光った。
 イッポリットは胸を打たれたように立ち止まって、片手をおずおずと差し伸ばし、この涙にさわった。彼はどことなく子供らしいほほえみを浮かべた。
「僕は……あなたのことを……」と彼は嬉しそうに言いだした。「あなたはおわかりにはなりますまいが、どれほど僕があなたのことを……この人はいつも僕にあなたのことを夢中になって話して聞かせたんです、ほら、この人、コォリャです……僕はこの人が夢中になるのが好きでたまらないんです。僕はこの人を堕落なんかさせやしませんでした……僕はこの人をあとに残して行かなければなりません……僕はみんなを打っちゃって行こうと思っていました、——けれど、そんな人は一人もいませんでした、誰もいなかったのです……僕は事業家になりたいと思いました。僕はその権利をもっていました……ああ、僕はなんていろんなことを望んだのでしょう! 僕は今ではもう何も望みません、何も望もうとは思いません、僕はもう何も望まないと自分の心に誓ったのです。僕なんかいなくたって、他の人が真理を探求してくれるでしょう! それにしても、自然は皮肉なものだ! なんだって自然は」彼は急に興奮してことばをついだ、「なんだって自然はあとになって冷笑を浴びせかけるつもりで、最も優れたものを創り出すのでしょうね? 自然はこの世において完全なものと認められる唯一の人間をつくった……そういう人間を人に示しておきながら、流血の惨事をひき起こすようなことを必ず口にするようにその人間を運命づけているのです。しかも、もしその血が一時にほとばしり流れたならば、人々はきっとむせびかえることでしょう! ああ、僕が死ぬのはいいことなんだ! 僕もまた生きていたら、おそらく何か恐ろしい嘘を言うに違いありません、自然がそんな風にしむけるでしょう!……僕は誰も堕落なんかさせやしませんでした……僕はただあらゆる人の幸福のために、真理の発見と普及のために生きていたかったのです……僕は窓からマイエルの壁を眺め、ほんの十五分間ばかり話をして、あらゆる人を説き伏せようと考えました。そして一生にただ一度、共鳴しました……それもあらゆる人とではなく、あなたとでした! いったい、何の得るところがあったか? 何もありません! ただあなたに軽蔑されることになっただけです! つまり、僕はばかなんです、つまり、よけい者です、つまり、潮時が来たわけです! しかも何一つ思い出となるようなことも残すことができなかった! 音もなく、足跡もなく、何一つ成しとげた事もなく、何か一つの信念を普及することもなく!……このばか者を笑わないでください! 忘れてください! 何もかも忘れてください……後生ですから忘れてください、そんなに残酷にならないでください! 実はねえ、僕はこんな肺病患者にならなかったら、自殺でもしていたはずですよ……」
 彼はもっといろんなことが言いたそうであったが、言いきらずに安楽椅子にどっかと身を投げ出し、両手で顔をおおったまま、小さな子供のように声を立てて泣きだした。
「まあ、いったい、この人をどうしろっておっしゃるんですか!」リザヴェータ・プロコフィエヴナはこう叫んで、彼の傍に駆け寄り、頭に手をかけて、しっかりと自分の胸に抱きしめた。彼はしゃくりあげてすすり泣くのであった。「さあ、さあ! もう泣くのはおよし、もうたくさんだよ、おまえさんは本当にいい子なんだよ、神様もお許しになりますよ。おまえさんは無学なんだから。さあ、結構、男らしくなさい、……それにおまえさんはずかしくなりますよ……」
「僕はあそこにね」とイッポリットは一生懸命に頭をもたげようとしながら言いだした。「弟と妹たちがいるんです、まだ小っちゃくって、可哀そうな、無邪気な子供たちです……あのひとがこの子たちを堕落させるんです! 聖母マドンナのようなあなたは……御自分がまだ子供なんですから、——あの子たちを救ってやってください! あの……あのひとの手からひったくってやってください……あのひとは……はずかしい……ああ、あの子たちを助けてください、助けてやってください、神様が百倍にして御恩は返してくださるでしょう、お願いですから、後生ですから!……」
「もうなんとかおっしゃってください、イワン・フョードロヴィッチ、いったいどうしたらいいんです!」と、たまりかねたようにリザヴェータ・プロコフィエヴナは叫んだ。「後生ですから、そのしかつめらしい沈黙だんまりはよしてください! あなたがなんとか決めてくださらなければ、わたしはここで夜を明かしますから、それは承知してください、あなたはずいぶん得手勝手な権力をふり回してわたしをひどい目にあわせました!」
 リザヴェータ・プロコフィエヴナは興奮して夢中になり、待ったなしの返事を待ち設けていた。しかし、こうした場合(よし人数は多くとも)、その場に居合わす者は、かかり合いになることを恐れて、たいていは、沈黙と逃げ腰の好奇心をもって応酬しておいて、あとになってからはじめて自分の考えを述べるものである。この場に居合わせた人たちの中には、ひと言も口をきかずに、朝まででも、じっとそのまま坐り込んでいそうな連中もあった。たとえば、ワルワーラ・アルダリオノヴナである。彼女はこの晩、少し離れたところに坐り続けたまま、ずっと沈黙を守って、異常な好奇心をいだきながら、ただひたすらに耳を傾けていた。しかし、それにもおそらく何か因縁があるのかもしれない。
「おお、僕の意見はだな」と将軍は口を切った。「今さしあたって必要なことといえば、われわれが騒ぎ立てることではなくて、いわばむしろ看護人なんだがな。それも気のつく落ち着いた人が泊っててくれるとありがたいんだが。それにしてもともかく、公爵と相談して……さっそく安静にしてやらなければ……。明日になったら、またなんとかお話に乗ってもいいだろう」
「あ、もう十二時だ、さあ出かけよう。イッポリットは僕らといっしょに行くんですか、あなたの所へ残るんですか?」ドクトレンコは気短かに、いらだたしそうに公爵のほうを向いた。
「よろしかったら、あなたがたも残ってはいかがです」と公爵は言った。「場所はありますから」
「閣下!」思いがけなくもケルレル君がこう言って、感激したように将軍の傍へ駆け寄って来た。「今晩の看病に適当な人間が必要でございましたら、僕は友人のためにいさぎよく犠牲になりましょう……あの男は実に気だてのいいやつです! 閣下、僕はかなり前からあの男をえらい人間だと思って尊敬しております! もちろん、僕は教養の点では浅い人間です。しかし、この男のほうは何か批評でもさしたら、まさに真珠です。一言一句これみな真珠のこぼれ散る感があります、閣下!……」
 将軍はがっかりしたように顔をそむけた。
「どうしたって汽車に乗れるわけはありませんから、あの人に泊っていただけるのはたいへん嬉しいです」リザヴェータ・プロコフィエヴナのいらだたしい問いに答えて公爵はこう説明した。
「まあ、おまえさんは居眠りでもしているんじゃないの? あんたがいやだって言うのなら、公爵はわたしが家へ連れてゆきますよ! まあ、この人までが倒れそうになってる! あんたはあんばいでも悪いの?」
 リザヴェータ・プロコフィエヴナはさっき公爵が瀕死の病床にしていないのを見た時、その顔つきから察して、公爵の健康をあまりよいほうへ誇張して考え過ぎたのである。しかし、ついさきほどまでの病気、それにつきまとう重苦しい回想、今宵の数々の気苦労から来た疲労、『パヴリシチェフのむすこ』事件、今のイッポリットの事件、——こうしたすべてのことがいっしょになって、病的な公爵の感受性を、ほとんど熱病的な状態にまで駆り立てたのである。しかも、そのうえに、今、公爵のひとみの中にはまだ何か別な懸念、むしろ危惧の念ともいうべきものが浮かんでいた。公爵はイッポリットが何かやりだしはしないかと恐れるように、おずおずと彼を眺めた。
 にわかにイッポリットは立ち上がった。その顔はゆがんで、ものすごいほどに青ざめ、絶望に近い羞恥の色が漂っていた。これは主として、憎々しげに臆病そうに一座の人々を眺める眸と、わなわな震える唇のうえをはい回る弱々しいゆがんだ微笑に現われるのであった。彼はすぐに伏し目になって、ほほえみを浮かべたまま、露台テラスの出口のわきに立っているブルドフスキイとドクトレンコのほうへふらふらと近づいて行った。彼はこの人たちといっしょに帰るつもりなのである。
「あ、これだ、僕が危ぶんでいたのは!」公爵は叫んだ。「てっきりこんなことだろうと思って!」
 イッポリットは狂気じみた憎悪を浮かべていきなり彼のほうをふり返った。その顔の筋肉がことごとく震えながら物を言っているように思われた。
「ああ、あんたはこれを危ぶんでいたんですって! あんたが『てっきりこんなことだろうと思った』んですって! 実はね、僕がここで誰かを憎んでいるとすれば」と彼は口角泡を飛ばして声をからしながら金切り声でわめき立てた。「(僕はあなたがたをみんな憎んでるけれど)、それは、あんたなんですよ。面かぶりの、口先のうまい人間、白痴ばかの、百万長者の慈善家のあんたを、世界じゅうの誰よりも最も憎んでるんです! 僕はあんたの噂を聞いていた時分から、ちゃんとあんたって人間がわかっていたんです。そして憎んでいたんですよ。心の中のありったけの憎悪を傾けて憎んでいたんです。……今夜のことも、あんたのたくらんだことです! あんたが僕に発作が起きるほどにしたんです! あんたは死にかかっている人間に恥をかかした! 僕のさっきのばかげたふるまいも、あんたの罪です! 僕が死なないで生きているのだったら、あなたを殺してやる! あんたのお慈悲なんぞ、欲しくもありません。そんなものは誰からももらいやしません。いいですか、誰からも何一つもらいはしませんよ! 僕はさっきは熱で夢中になっていたんだから、あんたがたは今になって威張ることなんぞはできないんですよ!……僕はあんたがたを、永久にのろってやります!」
 ここまで来ると、彼はすっかり息が切れてしまった。
「泣いたのがはずかしくなったんですよ!」とレーベジェフはリザヴェータ・プロコフィエヴナにささやいた。「『てっきりこんなことだろうと思った』なんて、これはこれは公爵、なかなかの慧眼けいがんですね……」
 しかし、リザヴェータ・プロコフィエヴナは彼に一瞥いちべつさえも与えなかった。彼女は突っ立ったまま、傲然ごうぜんと身をそらして、頭を後にぐっと引いて、軽蔑を含んだ物好きそうなまなざしで、『この連中』を眺めていた。イッポリットのことばが切れた時、将軍はちょっと両肩を揺り上げたが、彼女は腹立たしげに、いったい、そのしぐさはなんということです? ととがめ立てるような風をして、将軍の頭の先から足の先までじろりとにらめまわした。が、すぐに彼女は公爵のほうに開きなおって、
「公爵、うちの風変わりな仲よしさん、結構な一晩を過ごさしてくだすって、どうもありがとう。たぶん、わたしたちを、うまうまと、こんなばか騒ぎに引きずり込んでやったと思って、とても嬉しいでしょうね……だけど、もうたくさんよ、どうもありがとう、せめて、わたしに自分というものをよく見さしてくだすったことだけでもかたじけない次第ですわ!……」
 言い終わると、彼女はぷりぷりしながら、自分の小さなマントをなおし始めた。『あの連中』の帰ってしまうのを待っていたのである。間もなく、十五分ばかり前に、ドクトレンコがレーベジェフのせがれの中学生を呼びにやっておいた辻馬車が、『連中』のところへやって来た。将軍も夫人のあとをうけて、さっそく、くちばしを容れた。
「公爵、僕は実際、全く思いもよらなかったですよ……なにしろ、ああして親密な御交際を願っていたあとですからねえ……それに、とうとう、リザヴェータ・プロコフィエヴナも……」
「まあ、どうして、まあ、こんなことになったんでしょうね!」と叫んで、アデライーダはすばやく公爵に近づいて、握手を求めた。
 公爵は途方に暮れたように彼女にほほえみかけた。とたんに炎のように性急な、早口なささやきが彼の耳を焼きつけたような気がした。
「もし今すぐにでも、あなたがこの汚らわしい連中を振りすててしまわなければ、わたしは生涯、一生涯、あなた一人を憎み続けます!」アグラーヤのささやきであった。
 彼女はわれを忘れているようであったが、公爵に顔を見る暇も与えず、すばやく身を翻してしまった。しかし、病人のイッポリットはどうにかこうにかしてみんなが辻馬車に乗せ込んでしまったので、公爵にとってはいまさら振りすてる人もいなければ、振りすてる物もなかった。
「どうでしょう、イワン・フョードロヴィッチ、まだこんなことが長く続くんでしょうか? あなたはどうお考えですの? まだこの先長く、あんな憎たらしい小僧どもにやきもきさせられるんでしょうか?」
「いや、おまえ、……もちろん、わしも覚悟はしているし……公爵だって……」
 イワン・フョードロヴィッチも公爵に手を差し出したが、握る暇もなく、ぷんぷんしながら騒々しい物音を立ててテラスを下って行ったリザヴェータ・プロコフィエヴナのあとを追って駆け出した。アデライーダとその婚約の男、それにアレクサンドラなどは、愛嬌を見せて心から公爵に別れを告げた。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチもその中の一人であった。彼は一人で愉快そうにしていた。
「筋書どおりでしたね! ただあなたまでが可哀そうに、つらい目に会ったのはお気の毒でした」と彼は実に愛くるしい微笑を浮かべてささやいた。
 アグラーヤは別れも告げずに帰って行った。
 しかし、この夜の出来事はこれだけでは済まなかった。リザヴェータ・プロコフィエヴナはさらに一人、全く思いがけない人と邂逅かいこうして、苦しい思いを忍ばなければならなかった。
 彼女がまだ階段をおりて往来(公園の周囲を取り巻いている)へおりきらぬうちに、二頭の白馬に引かせたまばゆいばかりにすばらしい馬車——幌馬車ほろばしゃが不意に公爵の別荘の傍を駆け抜けた。馬車の中には二人のあでやかな貴婦人が坐っていた。しかし、十歩とも駆け抜けないうちに、馬車はぴたりと止まった。婦人の一人はまさしく、どうしても見過ごしならぬ人の姿を眼にとめたかのようにすばやく後ろをふり返った。
「エヴゲニイ・パーヴロヴィッチ! あんただったの?」と不意に透き通るような美しい声が響いた。この声を聞いて身震いしたのは公爵のほかにもう一人あったらしい。「まあ、わたしすっかり嬉しくなっちゃったわ、とうとう捜し当てた! わたしあんたのためにわざわざ町に使いをやったのよ、二人! 一日じゅうあんたを捜していたんだわ!」
 エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは雷に打たれたように、階段の中途に立ち止まってしまった。リザヴェータ・プロコフィエヴナもその場にじっとたたずんでいたが、それはエヴゲニイ・パーヴロヴィッチのように恐ろしさに茫然としたのではなかった。彼女は五分間前、『あの連中』をにらみつけたときと同じように、傲然としてひややかな軽蔑の眼で、この傍若無人な女を見つめたが、たちまちその落ち着き払った眸をエヴゲニイのほうへ移した。
「ずいぶんお久しぶりだわね!」と透き通るような声が続いた。「クプフェロフの手形のことは安心していらっしゃい。わたしが説き伏せてロゴージンに三万ルーブルで買わせましたから。三か月の間は安心できてよ。それからビスクープやらそのほかのやくざ者のほうは、知り合いの間柄だからきっとうまくゆくでしょうよ! まあ、ざっとこんな風に万事がうまくいったの! じゃ、御機嫌よう。明日また!」
 幌馬車は動きだし、間もなく消えうせた。
「あれは気ちがいだ!」憤りのあまり顔を赤くして、いぶかしげに周囲を見回しながら、やっとのことでエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは叫んだ。「あの女の言うことは少しもわからない! 手形って何だろう! いったい、あの女は何者だろう!」
 リザヴェータ・プロコフィエヴナはまだ二秒ばかりじっと彼を見つめていたが、急に身を翻して自分の別荘のほうへ歩きだした。エヴゲニイ・パーヴロヴィッチは、ちょうど一分してから、ひどく興奮のていで、公爵の立っているテラスへ引き返して来た。
「公爵、あなたは本当に、今のは何のことだかおわかりになりませんか?」
「さっぱりわかりません」と公爵は答えたが、自分の心もなみなみならぬ病的な緊張を続けていた。
「ほんと?」
「ええ」
「僕もわからないのです」と言ってエヴゲニイ・パーヴロヴィッチは不意に笑いだした。
「ほんとに、あの手形とかなんとかには少しも関係がないんです、ええ、けっして嘘じゃありません!……あ、あなたはどうなさいました、気でも狂いそうじゃありませんか?」
「おお、いや、いや、大丈夫です、けっして……」
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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