第三編
十
公爵には、今まで、この三通の手紙に触れるたびに、どうして寒けがしていたのか、また、どうして日の暮れぎわまでこの手紙を読むのを延ばし延ばししていたのかが、ようやくわかってきた、今朝がた、この三通のなかでどれをあけて見ようかしらと、相変わらず決めかねているうちにいつの間にか長椅子の上で、ぐっすり寝込んでしまったとき、彼はまた重苦しい夢を見たが、その時にもまたあの『罪の女』が彼のところへやって来た。女は今も、長い
この手紙もやはり夢のようなものであった。
どうかすると、人は奇妙な、有りそうもない、不自然な夢を見るものである。眼がさめてみて、その夢をはっきりと思いおこして、奇妙な事実に驚かされることもある。まず何よりも先に、夢を見ている間じゅう、理性の働きがやんでいないことを思いおこす。夢を見ている長い、長い間じゅう、たとえば人殺しに取り囲まれたとき、彼らが凶器を用意して、何かの合図を待っているくせに、狡猾なふるまいをし、殺意をひた隠しに隠して、いかにもなれなれしい態度を見せているとき、自分は非常に達者に、論理的に立ち回っていたということさえも思いおこす。ついには、自分がまんまと彼らをだまして、身を隠してしまう、そうかと思うと、彼には彼らがこちらの
この手紙を読んだあとの感じはほとんどこれと同じようなものであった。まだあけても見ないうちから、公爵にはこの手紙が存在し、存在し得るというその事実が、すでに悪夢にも等しいものと感ぜられた。日の暮れに一人でぶらつきながら(時とすると、自分で自分がどこを歩いているのか、気のつかないことがあった)、公爵は心の中で、どうして
『この手紙を開封なさいます節は(最初のたよりはこういう書き出しであった)、まず最初に署名をごらんくださいまし。この署名があなたに何もかもお話をいたし、説明をいたすことでございましょう。それゆえわたしはあなた様の前に、何も申しわけや、説明をいたしません。もしも、わたしが多少なりと、あなた様と同等くらいの地位におりましたなら、あなた様はこういうずうずうしいことを申しますことに、いっそう腹をお立てなすったかもわかりません。けれど、わたしは何者でしょう、そしてあなたはどういうおかたでございましょうか? わたしたち二人は全く正反対でございますので、あなた様の前へまいりますと、わたしはもう、物の数でもございませんし、たとえわたしが望みましても、とうていあなた様を侮辱することなどはできたものではございません』
先へ行って、別なところで、彼女はこう書いていた。
『わたしのことばを頭のぐあいの悪い者の病める感激とおとりにならないでくださいまし。あなた様はわたしにとりましては——完全そのものでございます! わたしはあなた様を見ました、今も毎日、見ております。けれど、わたしはあなた様をとやかくは申しませぬ。理屈によって、あなた様が完全そのものであると決めるようになったのではございません。わたしはただ信仰したのでございます。けれど、わたしにはあなた様に対しまして、不都合なことがございます。つまり、わたしはあなた様を愛しているのでございます。完全と申すものは愛することのできないものでございましょう。ただ完全は完全として眺めるべきものでございましょう。そうではございませんかしら? それにしましても、わたしはあなた様に思いを
『それにしましても、わたしは気がついております(と彼女は別の手紙に書いている)、わたしは、いつもあなた様をあのかたに結びつけて考えておりますので、いまだ一度として、あなた様があのかたを愛していらっしゃるかしら? などと心に聞いたことさえないのでございます。あのかたはあなた様を見そめたのでした。そして、あなた様のことを、それこそ「光」ででもあるかのように思い起こしておりました。これはあのかた御自身のおことばでございます。わたしがあのかたから聞いたのでございます。けれど、あなた様があのかたにとって光でいらっしゃるということは、もうあのかたから言われなくとも、よくわかっておりました。わたしはまるひと月、あのかたのお傍に暮らしてみて、はじめてあなた様もあのかたを愛していらっしゃるということがわかったのでございます。あなた様もあのかたも、わたしにとりましては、一つのものでございます』
『あれはどうしたことでございましょうか?(と彼女はなおも書いている)昨日、わたしはあなた様のお傍を通りました、すると、あなた様は顔を赤くなすったようでございますね? そんなはずがないかもわかりません、けれど、わたしにはそう見えたのでございます。かりに、あなた様をこのうえもなく汚らわしい
『昨日、あなたにお目にかかってから、家に帰りまして一つの絵を思いつきました。画かきはキリストを描くのに、いつも福音書の物語によっておりますけれど、わたしは違った描き方をしてみたいものです。つまり、わたしはただキリストだけを描きたいのです、——ときには弟子たちも師一人だけを置きざりにしたこともあったはずですものね。わたしはキリストを描いて、ただ一人の子供だけをお傍におくのでございます。子供はキリストの傍で遊んでいます。ことによったら何かしら、子供らしいことばで話しかけて、それをキリストがじっと聞いていたのかもわかりません。けれど、今は物思いにふけっているのです。その手は、ゆくりなくも、置き忘れたかのように、子供のうるわしい頭の上に載せられています。キリストははるか遠くの地平線を眺めて、その眸のなかには、全世界のように、偉大な思想が安らかに宿されています。顔も物悲しげに子供は黙りこんで、キリストの膝によりかかり、小さい手で頬杖をつきながら、首をあげて、物思わしげに、どうかすると子供も物思いにふけるものですが、ちょうどそのようにして、じっとキリストを見つめています。陽は沈んでゆく……これがわたしの絵なのでございます! あなた様は無邪気なおかたで、その無邪気なところに、あなた様の完全そのものが残りなくあらわれています。ああ、このことだけでも覚えていてくださいまし! あなた様を思うわたしの熱情などというものは、あなた様には物の数でもありますまい? けれど、あなた様はもうわたしのものでございます、わたしは一生涯あなた様のお傍におりましょう……わたしは間もなくあの世にゆく身なのでございます』
やがて、最後の手紙にはこう書いてあった。
『後生ですから、わたしの身の上は、けっしてお心にかけてくださいますな。また、わたしがこんなお手紙の書きようをして、わが身を卑しめているとか、たとい自負心からにもせよ、自分を卑しめて、それを潔しとするようなたぐいの女であるとか、どうかおとりになりませんように。いいえ、わたしにはわたしの慰みがございます。もっとも、これをあなた様に御説明することはむずかしいことですの。わたし自身にさえ、かなり苦心はいたしておりますものの、どうしてもはっきりと説明がつきかねる始末でございます。けれど、わたしには、自負心が急に湧いてくるようなことがありましても、自分を卑しめることなどできるものではないと、よくわかっておりますの。心の清らかなために自分を卑しめることも、わたしにはできない芸でございます。こういうわけですから、わたしはけっして自分を卑しめてなどはいないのでございます』
『わたしがあなた様を味方にしたいと存じておりますのは、なぜでございましょうか、あなたのためか、それとも、自分のためか? もとより、自分のためでございます。こうしてこそ、わたしのいっさいの問題が解決されるのでございます、かなり前に、わたしはたしかにそうと自分に言い聞かせたものでした。……承りますれば、姉様のアデライーダ様は、わたしの写真をごらんになられましたおり、このような美貌をもってすれば、世界をひっくり返すこともできるとかおっしゃいました由。けれど、わたしはもう世をあきらめてしまったのです。あなた様はレースやダイヤモンドを身につけて、酔いどれや与太者を引き連れているわたしにお出会いになったために、こんなことをわたしの口からお聞きなすったら、さぞかし、おかしくおぼしめすことでございましょう。けれど、どうかこのことには気をとめないでくださいまし、わたしはもうほとんどこの世のものではなく、それをよく承知しているものでございます。わたしの身のうちに、わたしに代わって何が住んでいるのか、これは知る由もございません。わたしは絶えずわたしを見つめている二つの恐ろしい眼のなかに、このことを毎日のように読み取っておりますがこの眼はわたしの前に見えない時ですら、常にわたしを見つめているのでございます。この眼は今は黙っております(いつも
この手紙の中には、たわごとめいたことが、まだたくさん書いてあった。そのうちの一通の第二の手紙は、大型の書簡箋二枚に、細かくいっぱいに書き尽くされていた。
公爵はついに昨日と同じように、長い間ぶらついたあげく、暗い公園を出た。明るい透き通ったような夜は、いつもよりはいっそう明るいように思われた。『まだそんなに早いのかしら?』と彼は考えた(時計を持ってくるのを忘れたのであった)。遠いどこかで音楽が聞こえるような気がした。『きっと停車場だろう』と彼はまた考えた。『むろん、今日はあの人たちも、あすこへは行かなかったろう』こんなことを想像しているうちに、気がついてみると、いつの間にか、自分はその人たちの別荘のきわに立っているのであった。結局、ここへどうしてもやって来なければならなかったのだとはよくよく承知はしていたが、ここへ来ると、息も止まるような思いで
「どうしてあなたは、ここにいらっしゃるんですの?」と、ついに彼女は口をきった。
「僕……ちょっとお寄りして……」
「ママはちょっとかげんが悪いんですの。アグラーヤもやはりそうですの。アデライーダはいま
「僕はやって来ました……皆さんのところへ……今……」
「あなた、いま何時か御存じ?」
「い、いいえ……」
「十二時半ですわ。うちではいつも一時に寝みますの」
「あ、僕は……九時半ごろと思ってたんです」
「かまいませんわ!」と彼女は笑いだした。「なぜさっきいらっしゃらなかったんですの? あなたを、ひょっとしたらお待ちしてたかもしれないんですよ」
「僕は……思ってたんですが……」彼は帰りかけて、おずおずと、口ごもった。
「さよなら! あした、みんなを笑わしてやりますわ」
彼は公園を取り巻いている道を通って、わが家のほうへと歩いて行った。胸は激しく動悸をうち、思いは乱れ、身のまわりのものは何もかも夢ではないかと思われた。すると、不意に、さきに二度が二度とも夢をさました同じ幻が今もまた彼の前に現われた。相も変わらぬ同じ女が公園の中から出て来て、あたかも、ここで待ちぶせでもしていたかのように、彼の前に立っていたのである。彼は身震いして、すくっと立ち止まった。女は彼の手を取って、固く握りしめた。『いやいや、これは幻ではないんだ!』
ここに、ついに彼女は一別以来はじめて、公爵の前に面と向かって、立っていたのである。彼女は何かしらことばをかけていたが、相手は黙々として女の顔を見つめていた。胸がいっぱいになって、あわれにも
「立って! 立って!」と彼は女を立ち上がらせながら、おびえたような声でささやいた。「早く立って!」
「あなたは仕合わせなの? 仕合わせ?」と彼女は尋ねるのであった、「たったひと言聞かしてちょうだい、あなたはいま仕合わせなの? 今日、今? あの女のところにいらっして? あの女はなんて言ったの?」
彼女は立ち上がりはしなかった、相手の言うことには耳も傾けなかった。ただ、せわしげに問いかけて、気ぜわしく言い寄るばかりで、あたかも人に追われてでもいるかのようであった。
「あなたのおっしゃるとおり、明日ゆきますの。わたしはけっして……。もうあなたにお目にかかるのもこれが最後じゃないかしら、最後! 今度こそ本当の最後じゃないかしら!」
「気を落ち着けて、早く立って!」と公爵はやるせなげに言う。
女は男の手を取って、むさぼるように相手を見つめるのであった。
「さようなら!」こう言ったかと思うと、彼女はようやく立ち上がって、ほとんど走るようにして、すばやく彼の傍を離れて行った。と、不意にロゴージンが彼女の傍にあらわれて、その手を取って引き立てて行くのが、公爵の眼に映った。
「ちょっと待って、公爵」とロゴージンが叫んだ。「五分たったら、きっと帰って来る」
五分するとたしかに彼は戻って来た。公爵はやはり元のところに帰って来るのを待っていた。
「馬車に乗せておいたんだ。馬車は十時から、あそこの隅で待っていたんだ。
「あの人は自分で君を連れて来たのか?」
「ふん、なんだって?」とロゴージンは作り笑いをして、「それで今までのことがわかったよ。君、手紙はすっかり読んだろうな?」
「はたして君は本当にあの手紙を読んだのか?」公爵はこのことを思い出していまさらながら驚いて尋ねるのであった。
「もちろんだ。どんな手紙でも自分で見してくれたんだ。剃刀のことを覚えてるだろうな、へ! へ!」
「
「そんなことはわかるもんか。ひょっとしたら、そうじゃないかもしれんよ」ひとり言のようにロゴージンは低い声でもらした。
公爵は答えなかった。
「じゃ、失敬」とロゴージンは言った、「僕も明日、立つんだ、悪く思うなよ! ところで、ちょっと」と彼はいきなりふり返って付け足した、「なんだって彼女になんとも返事してやらなかったんだ? あなたは仕合わせなの、どうなの? と聞かれたくせに」
「いや、いや、いや!」と公爵は言い知れぬ悲しみにうたれて叫ぶのであった。
「『うん』と言えないのがあたりまえよ!」と、ロゴージンは意地悪そうに笑って、行ってしまった、ふり返りもせずに。
(つづく)
底本:「白痴」角川文庫
1969(昭和44)年5月発行
翻訳:中山省三郎
改訳 編集:明かりの本
2018年10月11日作成
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