白痴(第四編)
ドストエフスキー
中山省三郎訳
第四編
一
この小説の二人の人物が、緑色のベンチであいびきしてこのかた、一週間ほどたった。あるうららかな朝の十時半ごろ、知り合いの誰かのところへ訪問に出かけたワルワーラ・アルダリオノヴィッチ・プチーツィナは、ひどく悲しげに物思いに沈んで、家に帰って来た。
世には、一概に余すところなく、最も典型的で特色のあるところを、言いきることのむずかしい人たちがあるものである。これは普通に、『普通』人とか、『大多数』とか呼ばれていて、事実においてはあらゆる社会の絶対多数を成している人たちである。作家というものは概して、その小説や物語において、社会の典型をとらえて、それを生き生きと、芸術的に再現しようと努めるものである、——その典型を、全くそのままに、現実において見ることはきわめてまれである。にもかかわらず、それはほとんど現実そのものよりはずっと現実的なものである。ポドカリョーシン〔ゴーゴリの喜劇「結婚」の主人公〕はその典型的な点においては、おそらくは誇張でさえもあるかもしれぬ、しかしながら、けっして架空の人物ではないのである。いかばかり多くの聰明な人たちが、ゴーゴリによって、ポドカリョーシンのことを知るに及んで、自分たちの気だてのよい知り合いや友だちの何十人、何百人がポドカリョーシンに酷似していることに気づきだしたことであろう。彼らは、ゴーゴリ以前にすでに自分の友だちがポドカリョーシンのような人間であるとは、承知していたものの、こういう名前を持っていようとは、いまだに知らなかったのである。事実において、花婿が結婚式の前に、窓から飛び出すなどということは、めったにあるものではない。というのは、ほかのことはどうあろうとも、むしろやっかいなことだからである。それにしても、多くの花婿は、たとい立派な聰明な人たちであろうとも、結婚の間ぎわに
さて、これ以上まじめな議論にわたるのを避けて、ここにはただ、——現実においては、人物の典型的な性質があたかも水で薄められているかのように、そうして、かようなジョルジ・ダンダンも、ポドカリョーシンもことごとく現実に存在してはいるが、いささか稀薄な状態にあるかのように思われる——ということを言っておきたい。結局、説明を完璧ならしめるために、モリエールが創ったそのままのジョルジ・ダンダンは、まれにではあるが、やはり現実の世界に見うけられるものであるということを断わっておいて、雑誌の評論めいてきたこの考察を終わることとしよう。それにしても、われわれの前に依然として、疑問は残っている、すなわち、小説家は平凡な、あくまでも『普通』の人たちを、どんな風に取り扱ったらよいか、また、いかにして、かような人たちをいささかなりとも興味のあるように読者の前に示して見せるか? という問題である。小説において、彼らをす通りしてしまうということは絶対に不可能なことである、というのは、平凡な人間は常に、たいていの場合に、浮世の出来事を引き出すとき、必要欠くべからざる
かような『普通の』、すなわち、『平凡な』人間の部類に、今まで(正直にいうと)読者にあまりはっきりと説明はしていないこの小説の二、三の人物も属するものである。ワルワーラ・アルダリオノヴナ・プチーツィナ、その夫のプチーツィン氏、その兄のガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・(イヴォルギン)らがすなわちそれである。
事実において、たとえば、裕福で、家柄も相当で、風采も悪くなく、教育も低くなく、ばかでもなく、むしろ気だての好いほうでありながら、全くなんらの才能もなく、これという特質もなく、奇行さえもなくただ一つの自身の思想もなく、全く『十人並み』の人間であるくらいいまいましいことはない。財産はある、しかし、ロスチャイルドの富には比ぶべくもない。家柄はきちんとしている、が、いまだかつて名をあげたような人は一人もいない。風采も相当なものではあるが、いたって表情に乏しい。教育もかなりにありながら、使い道がわからない。分別はあるが、
この小説の人物ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンは、今のとは違った種類に属している。彼は頭のてっぺんから爪先まで、独創的たらんとする希望に燃えているが、やはり、『ずっと聰明な』人間の部類にはいる。とはいえ、この部類は前にも述べたように、第一のほうよりははるかに不幸である。それはつまり、こういうわけである。
ガヴリーラもすなわち、かような道をたどり始めたのであった。しかし、ようやく始めたばかりなのである。もっともっと長いこと、これからもばかなことをしてゆかなくてはならない自分には才能がないという深刻な、絶ゆることのない自覚と、同時にまた、自分はきわめて独立的な人間なのだと信じようとする押さえがたい要求は、ほとんどまだ少年のころからひどく彼の心を痛めつけていた。彼は
エパンチン家へはいると、彼はさっそく、『どうせ卑劣なことをするならば、よくよくのところまでやるべきだ、ただ自分が得をすることならば』とひとり言を言ったが、ほとんど一度として、あくまでも卑劣なことをやり通したためしがなかった。それにしても、どういうわけで、卑劣なことをぜひともやらなければならないと想像したものか? あの時のアグラーヤの一件で、あっさりと度胆を抜かれたが、これですっかり見切りをつけたわけではなく、
『どうせ卑劣なことをするならば、あくまでもやることだ』と。彼は得意になって、しかもいくぶんの恐怖を交えながら、毎日のように心の中でくり返していた。『どうせ卑劣のことをするのならば、よくよくのところまでやることだ』と絶えず自分に言い含めて、『こんなときに俗人どもはびくびくするが、おれたちはけっしてびくびくなどはしない!』
アグラーヤを失い、そのほかいろんな事情に打ちのめされて、彼はすっかり
彼は父や母もいっしょにプチーツィンのところに居候をしていたがプチーツィンのことを明けすけに侮蔑していた。もっとも、彼は同時に、プチーツィンの忠言を聞き容れて、いつもほとんどこちらから忠言を求めるほど抜け目ない人間であった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはたとえばプチーツィンがロスチャイルドのような金満家になろうとも心がけず、それを目的ともしていないというようなことにまで腹を立てていた。『どうせ高利貸しなのなら、最後まで行かなけりゃだめだ。世間のやつらをうんと
「また、ことによったら、三軒買えるかもわからん!」と心の中では考えたが、けっしてこの空想を口に出して言うようなことはなく、ひた隠しに隠していた。自然はかような人々を心から愛撫するものである。自然は必ずや、プチーツィンに三軒ではなく、四軒の家をもって報いるであろう。すなわち、彼はいとけない子供のころから、けっしてロスチャイルドにはならないということをよく承知していたからである。そのかわり、四軒以上は自然が授けてはくれまい。これで、プチーツィンの立身出世も終わりであろう。
ワルワーラ・アルダリオノヴナは、これとはまるで異なった人間であった。彼女もやはり強い欲望は持っていたが、それは猛烈というよりは、かえって執拗なものであった。問題が瀬戸ぎわに及んだときにも、彼女にはかなりの常識が見られたが、この常識は、どたん場に至るまでも、失われないものであった。彼女もまた独創性というものを空想する『普通の』人間の数にもれなかったことは事実であるが、その代わり彼女はきわめて早く自身には自身の独創性というようなものが露ほどもないことを悟って、あまりこのことを苦にはしなかった。しかし、誰が知ろう、これさえも自分の一種のプライドから来ているかもしれないのである。プチーツィン氏と結婚するにあたって、彼女は非常な決断力をもって実際的な第一歩を踏み出した。しかも結婚するとき、『どうせ卑劣なことをするのならばよくよくのところまでやるべきだ。ただ自分の目的さえ通るのなら』などとは夢にさえも思わなかった(ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチならば、こんな場合に、けっしてこの文句を言い忘れるはずはなく、全く彼は兄として、彼女の決心に同意を表したとき、危うく彼女の前で、この文句を言おうとしたくらいであった)。全然、反対といってもよいくらいで、ワルワーラ・アルダリオノヴナは、未来の良人が遠慮がちな、気持のよい、まずまず教育があるともいえるほどの人間で、どんなことがあろうとも大それた卑劣なことなど、とてもやりそうにもないということを、根本的に確かめてから、ようやく結婚したのであった。少しくらいの卑劣なことは、ワルワーラも些細なこととして、取り上げはしなかった。これしきの『些細なこと』というものは、誰にもつきものだからである。理想にかなった人間は、けっして見あたるものではない! そのうえに、彼女は、嫁に行けば、それによって、父母兄弟に宿の工面もできるくらいのことはよく承知していた。彼女は兄の不幸を見るに忍びず、以前に家内の者が途方に暮れたことなどは棚へ上げて、兄を援助しようと思い立った。
プチーツィンはどうかすると、友だちらしく、ガーニャをせき立てた。もちろん、役につけというのである。「君はなんだな、将軍だの、将軍の位だのを軽蔑しているが」と彼はときおり冗談まじりに言っていた、「気をつけろよ、『世間の人たち』はみんな、そのうちに順番が来て、結局、将軍になる。待っててみろ、そのとおりになるから」「だって、僕が将軍だの、将軍の位だのを軽蔑してるなんて、どうしてそんなことになるだろう?」とガーニャは肚の中で、皮肉なことを考えていた。ワルワーラは兄を
たぶんは、彼女は事実において、なんらかの役目を果たしたであろう。また、おそらくは、当てにして、たとえば、あまりに兄を当てにして、兄がどんなにしても与えることのできないものを、彼に期待するような
さて、彼女はいま、同家から帰って来たところで、前にも述べたように、ひどく悲しげに沈んでいた。この物悲しい表情のかげには、何かしら、苦々しい嘲笑的なものがのぞかれた。プチーツィンはパヴロフスクの、ほこりのひどい通りに面して立っている不格好な、しかも広々した木造の家に住んでいた。この家はまもなく彼の手にはいるはずになっていたので、彼はもう誰かに売り払う算段にかかっていた。玄関の階段を昇りながら、ワルワーラは二階でただごとならぬ騒がしい音のするのに耳をとめて、兄と父親とがわめいている声を聞き分けた。客間へはいって、兄が激怒のあまりまっさおになって、ほとんど自分の髪の毛を引きちぎらんばかりの勢いで、部屋の中をあちこち駆けまわっているのを見ると、彼女はかすかに苦い顔をして、疲れたような風をして、帽子もとらずに、長椅子へどっかと腰をおろした。もしも、一分間ほども黙っていて、どうしてそんなに走り回っているのかと聞いてやらなかったら、兄が必ず怒りだすに相違ないということをワルワーラは実によく呑み込んでいるので、ついに、彼女は質問の形で、大急ぎに口を出した。
「やっぱり相変わらずの?」
「何が相変わらずだ!」とガーニャは叫んだ、「相変わらずだって! 違う、今どんなことが起きてるかおまえらにゃわかるもんか! 相変わらずどころじゃないんだ! 爺は気ちがいのようになるし……お袋はがなるし。本当だよ、ワーリヤ、おまえはなんて思うか知らんけれど、おれは
「大目に見てやらなくちゃいけないわ」とワーリヤはつぶやいた。
「何のために大目に? 誰を?」とガーニャはいきなり立って、「親父の下劣な仕打ちをか? だめだ、おまえはどう思っても、おれにはとても、できない! だめだ、だめだ、だめだ! なんちゅうていたらくだ、てまえが悪いくせに、よけいに威張り返って。『門へはいるのがいやだから、垣をこわせ!……』なんて無理なことを言って……なんだっておまえはそんなにじっとしているんだ? いつもと違うじゃないか!」
「いつもと同じだわ」ワーリヤは不機嫌そうに答えた。
ガーニャはいっそう眼をこらして妹を見つめた。
「あすこへ行ったのか?」彼は不意に尋ねた。
「ええ」
「ちょっと、また何かどなってる! なんて恥っさらしだ。それにまた、こんな時に!」
ガーニャはさらに眼を見はって、妹をじろじろと眺めていた。
「何か探り出したか?」と彼は聞いた。
「ええ、でも、別に意外なことなんか何もないのよ。あれはみんな本当だってことがわかっただけなの。うちの人のほうがわたしたち二人よりは眼が確かだったわ。あの人が初めっから占ってたようになってしまったわ。どこにいるかしら、あの人は?」
「留守だよ、どうなったんだ?」
「公爵が正式のお婿さんなの、話はもうすっかり決まったんですよ。姉さんたちが聞かしてくれたの。アグラーヤさんも承知ですってさ。今じゃ隠しだてもしなくなったわ(だって今まであの家では、いつもいろんなことを秘密にしてたんですものね)。アデライーダさんの結婚式はね、二人の結婚式を一度におなじ日に挙げることになって、また延びるんですって。ほんとに詩的だわ! まるで詩のようだわね! そんなに用もないのに部屋を駆け回るよりは、結婚祝いの詩でも作ったほうがしゃれてるわよ。今晩、あすこへベラコンスカヤ夫人が来るって。おりよくやって来たものね。ほかにお客さんもあるんだって。公爵は前からの知り合いなんだそうだけど、あらためてベラコンスカヤにあの人を紹介するって、たぶん、公けに披露をするんでしょうよ。あの家の人たちはね、公爵がお客様のいる部屋へはいるとき、何か物を落として、こわすとか、自分でばったり倒れるとか、そんなことがなければいいがと、それだけを気づかっているの。やりかねないことだから」
ガーニャはかなりに注意ぶかく聞き終わった、しかし、彼にとって
「まあ、いいや、わかりきってたことなんだから」しばらく考えてから彼はこう言った。「つまり、これで幕というわけさ!」もう、ずっと静かにはなっていたが、相変わらず部屋の中をあちこち歩き回って、妹の顔を狡猾そうにのぞきながら、彼はなんとなしに妙な薄ら笑いを浮かべて、付け加えた。
「でも、兄さんがまるで哲学者のような気持で聞いてくださるからいいわ。ほんとに、わたし、喜んでるの」とワーリヤは言った。
「うん、肩の荷がおりた。とにかく、おまえだけでも」
「わたしは、とやかく言ったり、うるさい目をかけたりしないで、真ごころから兄さんのために尽くしたような気がするの。兄さんがアグラーヤさんから、どんな幸福を
「だって、いったい、おれが……アグラーヤさんから幸福なんて求めたかな?」
「まあ、どうぞですから、哲学めいたことはよしてちょうだい! むろん、そうだわ。むろん、わたしたち、これでもうたくさんだわ、二人ともばかだったんだから。正直に言うと、わたしは一度だって、このことをまじめにとれなかったの。ただ、『万一』を当てにして、あの人のおかしい性質を勘定に入れながら、手を着けただけなの。そして、何よりも、兄さんを慰めてやりたかったの……。でも、九分どおりだめだったんだわ。わたし、兄さんが何を得ようと骨折っていたのか、今もって、わからないの」
「今度はおまえたち夫婦は、おれをせきたてて、勤めに出そうとかかるんだな。堅忍不抜と意志の力だの、小さいことでもおろそかにするなだの、なんのかんのと、説教するんだろう。そんなことは、
ガーニャは声を立てて笑いだした。
「この人は何か新しいことを考えてるわ」とワーリヤは心の中で考えた。
「いったい、あそこじゃ、どうなんだ、喜んでるのか、親たちが?」いきなりガーニャは問いかけた。
「い、いいえ、そうじゃないらしいの。もっとも、あなた御自分で察しがつくでしょう。旦那様は喜んでるの、でも、お母さんは心配してるわ。前から、あの人の婿としてはいやがったんですよ、お母さんは。知ってのとおり」
「おれは、そんなことはどうでもいい。婿としては無理で、考えるほうが間違ってるんだ、これはもうわかりきったことだ。おれは今のことを聞いてるんだ。今、あすこの連中はどうなんだ? 正式に承諾を与えたのか?」
「それはね、アグラーヤさんが今まで『
ガーニャはついに、苦い顔をしてきた。おそらく、ワーリヤは兄の本心を見抜こうとして、わざわざこの問題に深入りしたのであろう。ところが、またもや二階からわめく声が聞こえてきた。
「おれは親父を追い出すんだ!」
「そしたら、また昨日のように、行く先々でわたしたちに恥をかかせるようなことをするんですよ」
「何、昨日のようにって? どういうことなんだ、昨日のようにって? いったい……」と急にガーニャは愕然とした。
「あらまあ、兄さんは知らないの?」ワーリヤはふと気がついて言い換えた。
「何か……それじゃ、親父があすこへ行ったってのは本当なのか?」恥ずかしいのと腹立たしいのとで、すっかり赤くなって、ガーニャは大きな声で言った、「ああ、おまえはあすこから帰って来たんじゃないか! 何か
と言って、ガーニャは戸口の方へまっしぐらに駆けつけた。ワーリヤは飛びついて、両手で足をつかまえた。
「どうしたの? まあ、どこへ行くの?」と彼女は言った。「今、お父さんを放したら、あちこちへ行って、もっと悪いことをするわよ!……」
「あすこで何をしたんだ? 何を言ったんだ?」
「だって、あすこの人も自分から話すことはできなかったのよ、何のことだかわからなかったんでしょう。ただお父さんはみんなをびっくりさしただけなの。旦那様のところへ行ったけれど、留守だったもんだから、奥様を呼び出してね。初めのうちは、勤めに出たいから口を捜してくれるようにと頼んだのですって。そうかと思うと今度はわたしたちのことをくよくよし始めて、わたしのことだの、うちの人のことだの、わけても、兄さんのことをこぼしてたそうです、……ろくでもないことをさんざん並べて」
「それをようく探り出しては来られなかったのか?」ガーニャはヒステリカルに、身震いした。
「だって、そんなことがどうして! お父さんも自分では、何を話してたのか、ろくにわかってないらしいの。もっともことによったら、わたしに何もかも聞かしてくれなかったらしいの」
ガーニャは頭をかかえて、窓の方へ駆けて行った。ワーリヤは別の窓のきわに腰をおろした。
「アグラーヤさんて、おかしな人だわ」と、いきなり彼女は言いだした。「わたしを引きとめて、『御両親様に、特にわたくしからよろしくとおっしゃってくださいまし。わたくし、近いうちに、必ず、あなたのお父様にお目にかかるおりがあろうと存じますの』と、こう言うんです。その言い方がとてもまじめくさってるの。変に、ひどく……」
「ひやかしたんじゃないか? ひやかしてたんじゃないのか?」
「ところが、ほんとにそうじゃないの。だから変なの」
「あの人は爺のことを知ってるのか、知ってないのか、どう思う?」
「あの家の人が知らないってことは、わたしも間違いないと思うの。でも、兄さんの話を聞いてたら、——ひょっとするとアグラーヤさんが知ってるかもしれないって、そんな気がしてきたわ。あのひと一人だけ知ってるってつまりね、あの人がとてもまじめくさってお父さんによろしくって言ったときに、姉さんたちもびっくりしてたからなの。そして、ことさら、お父さんによろしくなんてどういうわけかしら? もし、あの人が知ってるとすれば、それは公爵が話したに相違ないわ」
「誰が話したか、そんなことはわけもなくわかることだ! 泥棒め! それだけなら、まだいいんだ。ところが、泥棒はこの家にいるんだ、しかも『一家の
「まあ、ばかなことを!」と、ワーリヤはすっかり腹を立てて叫んだ、「酒のうえでのいたずらじゃないの、それだけのことだわ! それに誰がこんなことを考え出したのよ? レーベジェフや公爵じゃないの……あの人たちは自分はおめでたい人ですからね。なにしろ、たいへんなお利口者で。だから、わたし、そんなに当てにしないの」
「爺は泥棒で、酔っ払い」とガーニャは苦々しげに言い続けた、「おれは乞食で、妹の亭主は高利貸し——これだけあれば、アグラーヤさんにとっては願ったりかなったりだ! いや、申し分がない、立派なものだ!」
「その妹の亭主の高利貸しが、兄さんを……」
「養ってるっていうのか、え? 遠慮するなよ、どうぞですからね」
「兄さんは何をそんなに怒ってる?」とワーリヤはふと気がついて、ことばをあらため、「あなたは、なんにもわからないんだわ、まるで小学生みたいに。こんなことがあったからって、アグラーヤさんに見さげられるとでも思ってるの? あんたはあの人の性質を知らないんだわ。あの人は
「まあ、もう少し見ててくれ、呑み込めるか、呑み込めないか、わかるから」と、ガーニャは謎めいたことをつぶやいた、「とにかく、おれは爺のことだけは、アグラーヤさんに知られたくなかったんだ。公爵はじっとこらえて、しゃべりはしないだろうと思ってたんだが。なにしろ、公爵はレーベジェフにさえ口どめしていたんだ。おれが無理に頼んだ時にでも、すっかり言おうとはしなかったほどだ……」
「だからねえ、兄さん、公爵は別としても、話はすっかり知れてるんだわ。それにしても、今どうするつもりなの? 何を当てにしてるの? まだ何か当てがあったとしたら、それがあるために、兄さんはアグラーヤさんの眼から見ると、受難者のように見えるだけのことでしょうよ」
「しかし、いくらあの人がロマンチックだといっても、醜態を演ずるのは気がひけるだろうよ。何ごとにもある程度、誰にしろ、ある程度というものがあるんだ。おまえたちだってみんなそのとおりだ」
「アグラーヤさんが気おくれするんですって?」ワーリヤはさげすむかのように兄を見つめながら、激昂した。「けれど、あんたって人はあさましい根性をもってるんですね! あんたはなんの値打ちもない人だわ。かりに、あの人がおかしな変人だったとしても、その代わり、あの人は、わたしたちみんな合わせたよりも、ずっとずっと気高い人ですよ」
「まあ、いいよ、いいよ、そう怒るな」と得意そうにガーニャはまたつぶやいた。
「わたしはただお母さんが可哀そうなの」とワーリヤは続けて、「あのお父さんの一件が、お母さんに聞こえなけりゃいいがと、それが心配だわ! ああ、心配だわ」
「だって、もう必ず聞こえてるはずだ」とガーニャは言った。
ワーリヤは、二階にいる母のところへ行こうとして立ち上がりかかったが、ふと思いとどまって、しげしげと兄の顔を眺めた。
「だって、誰がそんなことを言ったかしら?」
「きっとイッポリットだろうよ。ここへ引っ越して来るなり、すぐに、お母さんに言いつけたと思う、何よりのみやげだくらいに考えて」
「じゃ、どうしてあの人が知ってるのか、聞かしてちょうだいな。公爵とレーベジェフが誰にも言わないことに決めているし、コォリャだって何も知らないのだし」
「イッポリットかえ? あれは自分で嗅ぎつけたんだ。あいつがどれくらいずるいやつだかとても想像もつくまい。あいつは、とてものおしゃべりで、悪いことだの、人聞きの悪いことなら、何ごとによらず、すぐに嗅ぎつける恐ろしい鼻をもってるんだ。まあ、おまえは本気にするかしないかわからんけれど、あいつはアグラーヤさんまで、まんまと丸めこんでしまったんだ! 丸めこんでいないとしたら、すぐに丸めこむだろう。ロゴージンもやはり、あいつに渡りをつけたんだ。それをどうして公爵は気がつかないんだろう? 今、あいつはおれをどれくらい探索したがってるかわからないんだ! あいつはおれを目のかたきにしてるけれどそれはもうかなり前からわかっているんだ。どうしてそうなんだろう死にかかってるくせに、——どうにも呑み込めない! しかし、おれはあいつをだましてみせる。いいか、あいつがおれを探索するんでなくって、あべこべにこっちからやってみせる」
「そんなに憎らしいんなら、どうして、あの人を引っぱり込んだの? それに、あの人を探索したってはじまらないじゃないの?」
「おまえが引っぱり込めって勧めたんじゃないか」
「あの人が役に立つと思ったからなの。けども、ね、あの人は今アグラーヤさんに惚れ込んで、手紙を出したんですよ。わたし、根掘り葉掘り聞かれたわ、あの人のことを……。だって、奥様にまで手紙をやりかねないくらいだったんですもの」
「そのほうにかけては大丈夫だ!」毒々しく笑いながら、ガーニャは言った。「もっとも、何か
「追い出してしまいなさい」
「おれはあいつを憎んじゃいない。が、軽蔑はしてるんだ」とガーニャは傲然と言い放った、「うん、そう、そう、憎んでてもいい、それでもいい!」いきなり彼は非常に激昂して叫んだ、「あいつが
しかし、騒ぎはたちまちに近づいて来て、いきなりドアが開いた。イヴォルギン老人が憤然として、顔をまっかにして、身をぶるぶる震わせながら、夢中になって、同じくプチーツィンに食ってかかった。老人のあとからは、ニイナ・アレクサンドロヴナ、コォリャ、最後にイッポリットがついてはいって来た。
(つづく)