白痴(第四編)ドストエフスキー

2018/10/22

白痴(第四編)
ドストエフスキー
中山省三郎訳

 

  第四編

      一

 この小説の二人の人物が、緑色のベンチであいびきしてこのかた、一週間ほどたった。あるうららかな朝の十時半ごろ、知り合いの誰かのところへ訪問に出かけたワルワーラ・アルダリオノヴィッチ・プチーツィナは、ひどく悲しげに物思いに沈んで、家に帰って来た。
 世には、一概に余すところなく、最も典型的で特色のあるところを、言いきることのむずかしい人たちがあるものである。これは普通に、『普通』人とか、『大多数』とか呼ばれていて、事実においてはあらゆる社会の絶対多数を成している人たちである。作家というものは概して、その小説や物語において、社会の典型をとらえて、それを生き生きと、芸術的に再現しようと努めるものである、——その典型を、全くそのままに、現実において見ることはきわめてまれである。にもかかわらず、それはほとんど現実そのものよりはずっと現実的なものである。ポドカリョーシン〔ゴーゴリの喜劇「結婚」の主人公〕はその典型的な点においては、おそらくは誇張でさえもあるかもしれぬ、しかしながら、けっして架空の人物ではないのである。いかばかり多くの聰明な人たちが、ゴーゴリによって、ポドカリョーシンのことを知るに及んで、自分たちの気だてのよい知り合いや友だちの何十人、何百人がポドカリョーシンに酷似していることに気づきだしたことであろう。彼らは、ゴーゴリ以前にすでに自分の友だちがポドカリョーシンのような人間であるとは、承知していたものの、こういう名前を持っていようとは、いまだに知らなかったのである。事実において、花婿が結婚式の前に、窓から飛び出すなどということは、めったにあるものではない。というのは、ほかのことはどうあろうとも、むしろやっかいなことだからである。それにしても、多くの花婿は、たとい立派な聰明な人たちであろうとも、結婚の間ぎわにはらのそこでは、潔くポドカリョーシンたることを自認していることであろう。また、あらゆる良人おっとがどこへ行っても、Tu las voulu Georges Dandin(君のお望みどおりだよ、ジョルジ・ダンダン〔モリエールの「ジョルジ・ダンダン」に出る〕)と叫ぶとは限らないであろう。ああ、しかし、蜜月ののちのこの心からの叫びは、全世界の良人によって何百万べん、何千万べんくり返されたことか、あるいは誰か知らん、蜜月の後どころか、結婚のあくる日にさえも。
 さて、これ以上まじめな議論にわたるのを避けて、ここにはただ、——現実においては、人物の典型的な性質があたかも水で薄められているかのように、そうして、かようなジョルジ・ダンダンも、ポドカリョーシンもことごとく現実に存在してはいるが、いささか稀薄な状態にあるかのように思われる——ということを言っておきたい。結局、説明を完璧ならしめるために、モリエールが創ったそのままのジョルジ・ダンダンは、まれにではあるが、やはり現実の世界に見うけられるものであるということを断わっておいて、雑誌の評論めいてきたこの考察を終わることとしよう。それにしても、われわれの前に依然として、疑問は残っている、すなわち、小説家は平凡な、あくまでも『普通』の人たちを、どんな風に取り扱ったらよいか、また、いかにして、かような人たちをいささかなりとも興味のあるように読者の前に示して見せるか? という問題である。小説において、彼らをす通りしてしまうということは絶対に不可能なことである、というのは、平凡な人間は常に、たいていの場合に、浮世の出来事を引き出すとき、必要欠くべからざるきずなとなるからである。したがって、彼らを見すてることは、真実らしさヽヽヽヽヽを失うことになる。小説を、典型的な性格や、あるいはまた単に興味のために、奇怪な、架空の人物のみによって満たすのは嘘らしくもなり、しかもおそらくは、おもしろくもなくなるであろう。われわれの見るところでは、作家にとっては平凡人の間にさえも、興味のある、教訓的なニュアンスを捜し求めることが必要である。たとえば、ある種の平凡な人物の本質が、日ごろの、相も変わらぬ凡庸性に含まれているときとか、さらに進んでは、このような人物がいかなる犠牲を払っても日常性や旧套きゅうとうを破ろうと異常な努力を傾注しているのにもかかわらず、しかもなお依然として相も変わらずもと木阿弥もくあみになるというようなとき、かような人物は一種の独自な、典型的な性質を帯びてくる。つまり、これは、独自性をうるだけのいささかの素質もないのに、全く自分自身たることを欲せず、いかなることがあろうとも独自な、独創的なものたろうとする凡庸性に等しいものである。
 かような『普通の』、すなわち、『平凡な』人間の部類に、今まで(正直にいうと)読者にあまりはっきりと説明はしていないこの小説の二、三の人物も属するものである。ワルワーラ・アルダリオノヴナ・プチーツィナ、その夫のプチーツィン氏、その兄のガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・(イヴォルギン)らがすなわちそれである。
 事実において、たとえば、裕福で、家柄も相当で、風采も悪くなく、教育も低くなく、ばかでもなく、むしろ気だての好いほうでありながら、全くなんらの才能もなく、これという特質もなく、奇行さえもなくただ一つの自身の思想もなく、全く『十人並み』の人間であるくらいいまいましいことはない。財産はある、しかし、ロスチャイルドの富には比ぶべくもない。家柄はきちんとしている、が、いまだかつて名をあげたような人は一人もいない。風采も相当なものではあるが、いたって表情に乏しい。教育もかなりにありながら、使い道がわからない。分別はあるが、自分自身の思想ヽヽヽヽヽヽヽをもっていない。情はあるが、おうようなところがない、等々、万事がこの調子である。こういう人たちは世間には、実におびただしく、むしろ想像しているよりははるかに多いのである。彼らはあらゆる人々と同じように主として二つの種類に大別される。一つは偏狭で、一つはこれよりは『ずっと聰明である』。前者は後者よりは幸福である。偏狭な平凡人にとっては、たとえば自分こそ非凡な独創的人間であると思いこんで、なんらの動揺もなしにそれを快しとするほど楽なことはない。この国の令嬢たちのある者は断髪をして、青い眼鏡をかけて、ニヒリストと名乗りさえすれば、すぐに自分自身の『信念』を得たと信ずることができるのである。またある者は、心の中に何か人類共通の善良な気持を、ほんの露ほどでも感ずれば、社会発展の先頭に立っているという感じは自分以外の人にはわかるまいと、すぐに思い込んでしまう。また、何かの思想をほんのちょっとでも聞きかじるとか、何かの本の一ページでもほんのちょっとめくって見るとかすれば、もうこれは『自分自身の思想』であって、まぎれもなく、自分自身の頭の中に生まれたのだとさっそく、信じてしまう。もしもこんなことが言えるものならば、無邪気のずうずうしさというものは、かような場合に、驚くべき程度に達する。こんなことはみな有りそうにもないことではあるが、絶えず目撃する事実である。この無邪気のずうずうしさ、この愚かしい人間の自己および自己の才能に対する思い過ごしは、ゴーゴリによって、ピローゴフ中尉〔ゴーゴリの「ネフスキイ通り」の中の人物〕なる驚嘆すべき典型のうちに見事に表現されている。ピローゴフは自分が天才であり、あらゆる天才より以上のものであると思い込んで、疑いさえもしなかった。そんなことがてんで問題にならないほど信じきっていた。もっとも、問題などというものは、彼にとっては全く存在していないのである。偉大なる作家はついに、読者の侮辱された道徳感情を満足せしむるために、彼をひどい目に合わせなければならなかったが、この偉大な人物がただ身震いをして、拷問ごうもんに疲れたからだに勢いをつけるためにパイをぺろりと平らげたのを見ると、ひどくあきれて、手をひろげたまま、読者の思いのままに任せたのであった。私はゴーゴリが偉大な人間ピローゴフをかような低い位置から取り上げたことを常に残念に思っている。というのは、ピローゴフはあくまでもうぬぼれの強い人間であって、彼には、自分が年とともに肩章の『筋』がふえて、偉くなり、たとえば元帥にでもなるくらいの身であるというように想像することは、いともたやすいことで、空想するだけではなく、将官に昇進する以上、元帥になれないという法があろうか? と、そんなことは疑いもしなかったはずだからである。こういう連中のいかばかり多くの者が後に戦場に臨んで、恐るべき失敗をなしていることであろう? また、こうしたピローゴフがこの国の文学者や学者や伝道師の間に、どんなに多くいたことであろう。私は『いた』と言ったが、しかも、もちろん、今もなお『いる』のである……
 この小説の人物ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンは、今のとは違った種類に属している。彼は頭のてっぺんから爪先まで、独創的たらんとする希望に燃えているが、やはり、『ずっと聰明な』人間の部類にはいる。とはいえ、この部類は前にも述べたように、第一のほうよりははるかに不幸である。それはつまり、こういうわけである。聰明なヽヽヽ普通人は、たといちょっとの間(おそらくは一生涯をも)、自分を非常に独創的な、天分のある人間と想像するようなことがあろうとも、しかもなお、心の中に懐疑の虫がひそんでいて、それが、どうかすると、聰明な人間を絶望のどん底にまでも突き落とす。また、たとい、それをあきらめたとしても、心の奥に追い込まれている虚栄心に毒されてしまっている。それにしても、とにかく、私は極端な例を取りすぎたようである。この『聰明な』部類の大多数は、かような悲劇には会わないでしまう。せいぜい、死んでもいい年ごろになって、多少とも肝臓を悪くするくらいのものである。しかも、やはり、あきらめて、おとなしくなるまでには、かような人たちは非常に長いあいだ、若いときから相当の年輩に至るまで、時おり、実にばかなまねを続けたりするものである。が、それというのも、全く独創的たろうとする欲望から来るものである。また、奇妙な場合もある。なかには、独創を欲するために、潔白な人で、わざわざ下劣なことをあえてしようとする者がある。ところが、そんなことをする不幸な人のなかには、ただ単に正直なばかりではなく、善良でさえもあり、自分の家庭では神のように崇められ、自分の労苦によって、自分の家族ばかりではなく、他人の生活までも与えてやって、しかも、どうであろう、一生涯、心の安まる暇もない人がいる。本人にとっては、自分はよく人間としての義務を果たしているという考えが、全く安心にもならず、慰藉いしゃにもならずに、かえってこの考えが心をいらいらさせたりするのである。そうして、『ああ、自分は、なんというつまらないことに一生をつまらなく過ごしたであろう! こんなことが足手まといになって、火薬の発見を妨げたのだ! これさえなかったなら、必ずや火薬か、アメリカを発見したのに相違ない、何をとは、はっきり言えないが、たしかに発見したのに相違ない!』と言う。こういう諸君にあって、最も著しい特徴は、いったい、何を発見しなくてはならないのか、また何を一生涯かかって発見しようとしているのか、——火薬かアメリカか、——それを一生涯のあいだに、どうしてもわからないというところにある。しかも、発見せらるべきものに対する悩みや、思慕の念は、コロンブスとかガリレオのそれにも劣らないほどのものである。
 ガヴリーラもすなわち、かような道をたどり始めたのであった。しかし、ようやく始めたばかりなのである。もっともっと長いこと、これからもばかなことをしてゆかなくてはならない自分には才能がないという深刻な、絶ゆることのない自覚と、同時にまた、自分はきわめて独立的な人間なのだと信じようとする押さえがたい要求は、ほとんどまだ少年のころからひどく彼の心を痛めつけていた。彼は羨望せんぼうの念が強く、猛烈な欲望をもち、生まれながらにしていらいらした神経をもっているとさえも思われる青年であった。欲望の猛烈なのを、彼は欲望の力だと思い違えていた。人にぬきんでようという情熱的な欲望によって、彼はともすれば、無分別な飛躍をあえてしようと決心することがあった。ところが、いざ無分別な飛躍に及ぼうとすると、この主人公はいつもあまりにも聰明になりすぎて、ついに決心が鈍るのであった。それが彼を絶望におとしいれた。おそらく、彼もこの場合に、自分が空想していたことをいくぶんなりとも、実現しようとしては、極度に卑劣なことさえもあえてしようと決心したかもしれぬ。しかし、いよいよ最後の一線にまで及ぶと、常に、あまりにも潔白に過ぎて、極端に卑劣なことなどはできそうにもなくなるのであった(そのくせ、少しくらい卑劣なことならば、いつもやりかねないのであった)。自分の家の貧困と落魄らくはくを、彼は嫌悪と憎悪の情をもって眺めていた。母に対してすらも、自分の母の信望と性格とが、今のところ彼の栄達の主なる支柱を構成しているくらいのことは、自分でもよくよくわかっていながら、高慢に、侮蔑的な扱い方をしていた。
 エパンチン家へはいると、彼はさっそく、『どうせ卑劣なことをするならば、よくよくのところまでやるべきだ、ただ自分が得をすることならば』とひとり言を言ったが、ほとんど一度として、あくまでも卑劣なことをやり通したためしがなかった。それにしても、どういうわけで、卑劣なことをぜひともやらなければならないと想像したものか? あの時のアグラーヤの一件で、あっさりと度胆を抜かれたが、これですっかり見切りをつけたわけではなく、一縷いちるの望みをかけて、相も変わらず、ずるずるにしていたのであった。さればといって、アグラーヤが自分のような身分の低い者のところへ来ようなどとは、いまだかつて本気になって考えたこともないのである。その後、ナスターシャ・フィリッポヴナと話があったころには、彼はたちまちに、いっさいヽヽヽヽを獲得するものは——金の力によると想像したりした。
『どうせ卑劣なことをするならば、あくまでもやることだ』と。彼は得意になって、しかもいくぶんの恐怖を交えながら、毎日のように心の中でくり返していた。『どうせ卑劣のことをするのならば、よくよくのところまでやることだ』と絶えず自分に言い含めて、『こんなときに俗人どもはびくびくするが、おれたちはけっしてびくびくなどはしない!』
 アグラーヤを失い、そのほかいろんな事情に打ちのめされて、彼はすっかり意気沮喪いきそそうして、あの気のちがった男が気のちがった女のところへ持って行って、その女があのとき自分の前へたたきつけた金を、本当に彼は公爵の手もとへ届けてやった。公爵にこの金を返したことを、あとになって彼は何百ぺんとなしに、後悔した。そのくせ彼はこのことを絶えず誇ってもいたのである。が、あのときペテルブルグに公爵が残っている間の三日間というもの、彼は本当に泣き通したが、しかもこの三日の間に、早くも公爵に対して憎悪の念をいだくようになっていた。というのは、あれだけの金を返すということは、『誰にも思いきってできるとは限らない』のに、それをあえてした彼を公爵があまりにも頼りなげに同情の眼をもって眺めすぎたからである。しかし、自分の心の憂えも要するに、絶えず蹂躪じゅうりんされている虚栄心にすぎないのだという、高尚な自省心が湧いて来て、ひどく彼を苦しめるのであった。それから長いことたって、よくよく吟味してみて、はじめて、アグラーヤのような無邪気な、風変わりな女とは、いくらでもまじめに話をつけることができたはずだのにと、はっきりと納得するに至った。後悔の念は彼の心に食い入った。そこで彼は職務をすてて、悲哀と憂鬱とに沈むばかりであった。
 彼は父や母もいっしょにプチーツィンのところに居候をしていたがプチーツィンのことを明けすけに侮蔑していた。もっとも、彼は同時に、プチーツィンの忠言を聞き容れて、いつもほとんどこちらから忠言を求めるほど抜け目ない人間であった。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチはたとえばプチーツィンがロスチャイルドのような金満家になろうとも心がけず、それを目的ともしていないというようなことにまで腹を立てていた。『どうせ高利貸しなのなら、最後まで行かなけりゃだめだ。世間のやつらをうんとしぼって、やつらの膏血こうけつで金を鋳造するがいい。せいぜい気骨を見せて、ユダヤの王様になることだ!』プチーツィンは内気な、物しずかな男で、ただほほえんでいるばかりであった。ところが、ある時、ガーニャにこのことを真剣に言って聞かせるのを必要なことだとまで考えて、彼はいくぶんの威厳さえも示して、実行したことがあった。ガーニャに向かって、彼は、自分はけっして不正なことはしていない、したがって、自分をユダヤ人などと言うのは、いわれのないことだ、また、金がそんなに貴重なものであろうとも、これは自分の知ったことではない、自分は正当に、正直に、ありのままに仕事をしているのであり、ただ、『かような』業務の手先になっているだけであると論証して、最後には、自分が業務のうえできちょうめんなために、一流の人たちにも、善い意味でよく知られ、自分の業務もいよいよ拡張しつつあると言った。「ロスチャイルドにはならない、なったってしかたがないから」と彼は笑いながら付け足した、「ただ、リテイナヤ通りに家を一軒、ひょっとしたら、二軒も手に入れて、それでおしまいにする」
「また、ことによったら、三軒買えるかもわからん!」と心の中では考えたが、けっしてこの空想を口に出して言うようなことはなく、ひた隠しに隠していた。自然はかような人々を心から愛撫するものである。自然は必ずや、プチーツィンに三軒ではなく、四軒の家をもって報いるであろう。すなわち、彼はいとけない子供のころから、けっしてロスチャイルドにはならないということをよく承知していたからである。そのかわり、四軒以上は自然が授けてはくれまい。これで、プチーツィンの立身出世も終わりであろう。
 ワルワーラ・アルダリオノヴナは、これとはまるで異なった人間であった。彼女もやはり強い欲望は持っていたが、それは猛烈というよりは、かえって執拗なものであった。問題が瀬戸ぎわに及んだときにも、彼女にはかなりの常識が見られたが、この常識は、どたん場に至るまでも、失われないものであった。彼女もまた独創性というものを空想する『普通の』人間の数にもれなかったことは事実であるが、その代わり彼女はきわめて早く自身には自身の独創性というようなものが露ほどもないことを悟って、あまりこのことを苦にはしなかった。しかし、誰が知ろう、これさえも自分の一種のプライドから来ているかもしれないのである。プチーツィン氏と結婚するにあたって、彼女は非常な決断力をもって実際的な第一歩を踏み出した。しかも結婚するとき、『どうせ卑劣なことをするのならばよくよくのところまでやるべきだ。ただ自分の目的さえ通るのなら』などとは夢にさえも思わなかった(ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチならば、こんな場合に、けっしてこの文句を言い忘れるはずはなく、全く彼は兄として、彼女の決心に同意を表したとき、危うく彼女の前で、この文句を言おうとしたくらいであった)。全然、反対といってもよいくらいで、ワルワーラ・アルダリオノヴナは、未来の良人が遠慮がちな、気持のよい、まずまず教育があるともいえるほどの人間で、どんなことがあろうとも大それた卑劣なことなど、とてもやりそうにもないということを、根本的に確かめてから、ようやく結婚したのであった。少しくらいの卑劣なことは、ワルワーラも些細なこととして、取り上げはしなかった。これしきの『些細なこと』というものは、誰にもつきものだからである。理想にかなった人間は、けっして見あたるものではない! そのうえに、彼女は、嫁に行けば、それによって、父母兄弟に宿の工面もできるくらいのことはよく承知していた。彼女は兄の不幸を見るに忍びず、以前に家内の者が途方に暮れたことなどは棚へ上げて、兄を援助しようと思い立った。
 プチーツィンはどうかすると、友だちらしく、ガーニャをせき立てた。もちろん、役につけというのである。「君はなんだな、将軍だの、将軍の位だのを軽蔑しているが」と彼はときおり冗談まじりに言っていた、「気をつけろよ、『世間の人たち』はみんな、そのうちに順番が来て、結局、将軍になる。待っててみろ、そのとおりになるから」「だって、僕が将軍だの、将軍の位だのを軽蔑してるなんて、どうしてそんなことになるだろう?」とガーニャは肚の中で、皮肉なことを考えていた。ワルワーラは兄をたすけるために、自分の活動範囲を広めようと決心して、エパンチン家へもぐり込んだ。これには子供のころの思い出が、大いにあずかって力があった。彼女も、その兄も、まだ子供であったころ、エパンチン家の人たちといっしょに遊んだことがあるからである。ここで断わっておくが、もしも、ワルワーラ・アルダリオノヴナがエパンチン家を訪れるにあたって、何かなみなみならぬ空想を追っていたとしたら、おそらく彼女はみずから肩を並べていた連中のところから、一挙にして脱け出したと言えるであろう。しかし、彼女の追って行ったのは空想ではなかった。そこには、むしろ彼女としての、かなりに根本的な考慮があった。すなわち、彼女はこの家族の性質に基礎をおいたのである。アグラーヤの性質については、常にむことなしに研究していた。兄とアグラーヤの二人の仲を元どおりにまとめるのが、彼女の役目であった。
 たぶんは、彼女は事実において、なんらかの役目を果たしたであろう。また、おそらくは、当てにして、たとえば、あまりに兄を当てにして、兄がどんなにしても与えることのできないものを、彼に期待するような誤謬ごびゅうに陥っていたかもしれない。それにしても、なお彼女はエパンチン家では、かなりに巧妙に立ち回った。何週間もの間、兄のことはおくびにも出さずに、きわめて素朴な風をして、しかも品位を失わずに、いつも非常に誠摯せいしに、真摯な態度を保っていた。心の奥はどうかというに、省みてやましいところがなかったので、みずからをとがめなければならないようなことは少しもなかった。これは彼女に力を添えるものであった。ただ一つ、時として自分にも気のつくことは、彼女もまたおそらく、執念深く、心のなかに自負心と、ほとんど圧迫された虚栄心ともいうべきものとを、かなりに多くもっているということであった。わけても、時おり、エパンチン家からの帰りがけには、ほとんどいつものように、このことに気がつくのであった。
 さて、彼女はいま、同家から帰って来たところで、前にも述べたように、ひどく悲しげに沈んでいた。この物悲しい表情のかげには、何かしら、苦々しい嘲笑的なものがのぞかれた。プチーツィンはパヴロフスクの、ほこりのひどい通りに面して立っている不格好な、しかも広々した木造の家に住んでいた。この家はまもなく彼の手にはいるはずになっていたので、彼はもう誰かに売り払う算段にかかっていた。玄関の階段を昇りながら、ワルワーラは二階でただごとならぬ騒がしい音のするのに耳をとめて、兄と父親とがわめいている声を聞き分けた。客間へはいって、兄が激怒のあまりまっさおになって、ほとんど自分の髪の毛を引きちぎらんばかりの勢いで、部屋の中をあちこち駆けまわっているのを見ると、彼女はかすかに苦い顔をして、疲れたような風をして、帽子もとらずに、長椅子へどっかと腰をおろした。もしも、一分間ほども黙っていて、どうしてそんなに走り回っているのかと聞いてやらなかったら、兄が必ず怒りだすに相違ないということをワルワーラは実によく呑み込んでいるので、ついに、彼女は質問の形で、大急ぎに口を出した。
「やっぱり相変わらずの?」
「何が相変わらずだ!」とガーニャは叫んだ、「相変わらずだって! 違う、今どんなことが起きてるかおまえらにゃわかるもんか! 相変わらずどころじゃないんだ! 爺は気ちがいのようになるし……お袋はがなるし。本当だよ、ワーリヤ、おまえはなんて思うか知らんけれど、おれは親父おやじを追い出すか、……それとも、おれがここをおん出るかするんだ」他人の家から誰を追い出すこともできないのに気がついたとみえて、彼はこう付け足した。
「大目に見てやらなくちゃいけないわ」とワーリヤはつぶやいた。
「何のために大目に? 誰を?」とガーニャはいきなり立って、「親父の下劣な仕打ちをか? だめだ、おまえはどう思っても、おれにはとても、できない! だめだ、だめだ、だめだ! なんちゅうていたらくだ、てまえが悪いくせに、よけいに威張り返って。『門へはいるのがいやだから、垣をこわせ!……』なんて無理なことを言って……なんだっておまえはそんなにじっとしているんだ? いつもと違うじゃないか!」
「いつもと同じだわ」ワーリヤは不機嫌そうに答えた。
 ガーニャはいっそう眼をこらして妹を見つめた。
「あすこへ行ったのか?」彼は不意に尋ねた。
「ええ」
「ちょっと、また何かどなってる! なんて恥っさらしだ。それにまた、こんな時に!」
 ガーニャはさらに眼を見はって、妹をじろじろと眺めていた。
「何か探り出したか?」と彼は聞いた。
「ええ、でも、別に意外なことなんか何もないのよ。あれはみんな本当だってことがわかっただけなの。うちの人のほうがわたしたち二人よりは眼が確かだったわ。あの人が初めっから占ってたようになってしまったわ。どこにいるかしら、あの人は?」
「留守だよ、どうなったんだ?」
「公爵が正式のお婿さんなの、話はもうすっかり決まったんですよ。姉さんたちが聞かしてくれたの。アグラーヤさんも承知ですってさ。今じゃ隠しだてもしなくなったわ(だって今まであの家では、いつもいろんなことを秘密にしてたんですものね)。アデライーダさんの結婚式はね、二人の結婚式を一度におなじ日に挙げることになって、また延びるんですって。ほんとに詩的だわ! まるで詩のようだわね! そんなに用もないのに部屋を駆け回るよりは、結婚祝いの詩でも作ったほうがしゃれてるわよ。今晩、あすこへベラコンスカヤ夫人が来るって。おりよくやって来たものね。ほかにお客さんもあるんだって。公爵は前からの知り合いなんだそうだけど、あらためてベラコンスカヤにあの人を紹介するって、たぶん、公けに披露をするんでしょうよ。あの家の人たちはね、公爵がお客様のいる部屋へはいるとき、何か物を落として、こわすとか、自分でばったり倒れるとか、そんなことがなければいいがと、それだけを気づかっているの。やりかねないことだから」
 ガーニャはかなりに注意ぶかく聞き終わった、しかし、彼にとって刮目かつもくすべきこのニュースが、少しも著しい効果を与えなかったらしいので、妹はいまさらながら驚いた。
「まあ、いいや、わかりきってたことなんだから」しばらく考えてから彼はこう言った。「つまり、これで幕というわけさ!」もう、ずっと静かにはなっていたが、相変わらず部屋の中をあちこち歩き回って、妹の顔を狡猾そうにのぞきながら、彼はなんとなしに妙な薄ら笑いを浮かべて、付け加えた。
「でも、兄さんがまるで哲学者のような気持で聞いてくださるからいいわ。ほんとに、わたし、喜んでるの」とワーリヤは言った。
「うん、肩の荷がおりた。とにかく、おまえだけでも」
「わたしは、とやかく言ったり、うるさい目をかけたりしないで、真ごころから兄さんのために尽くしたような気がするの。兄さんがアグラーヤさんから、どんな幸福をたがっていたのか、そんなことは聞いたこともなかったわ、わたし」
「だって、いったい、おれが……アグラーヤさんから幸福なんて求めたかな?」
「まあ、どうぞですから、哲学めいたことはよしてちょうだい! むろん、そうだわ。むろん、わたしたち、これでもうたくさんだわ、二人ともばかだったんだから。正直に言うと、わたしは一度だって、このことをまじめにとれなかったの。ただ、『万一』を当てにして、あの人のおかしい性質を勘定に入れながら、手を着けただけなの。そして、何よりも、兄さんを慰めてやりたかったの……。でも、九分どおりだめだったんだわ。わたし、兄さんが何を得ようと骨折っていたのか、今もって、わからないの」
「今度はおまえたち夫婦は、おれをせきたてて、勤めに出そうとかかるんだな。堅忍不抜と意志の力だの、小さいことでもおろそかにするなだの、なんのかんのと、説教するんだろう。そんなことは、そらに覚えてるよ」
 ガーニャは声を立てて笑いだした。
「この人は何か新しいことを考えてるわ」とワーリヤは心の中で考えた。
「いったい、あそこじゃ、どうなんだ、喜んでるのか、親たちが?」いきなりガーニャは問いかけた。
「い、いいえ、そうじゃないらしいの。もっとも、あなた御自分で察しがつくでしょう。旦那様は喜んでるの、でも、お母さんは心配してるわ。前から、あの人の婿としてはいやがったんですよ、お母さんは。知ってのとおり」
「おれは、そんなことはどうでもいい。婿としては無理で、考えるほうが間違ってるんだ、これはもうわかりきったことだ。おれは今のことを聞いてるんだ。今、あすこの連中はどうなんだ? 正式に承諾を与えたのか?」
「それはね、アグラーヤさんが今まで『いや』と言わなかったって、——ただそれだけのことなの。でも、あの人としては、それよりほかにしかたがなかったのよ。あの人が今まで非常識なくらいに、内気で、はにかみやだったってことは兄さんだって承知してるでしょう。子供のころ、ただお客さんのところへ出たくないばっかりに、戸棚のなかへもぐりこんで、中に二時間もじっとしてたことがあるじゃありませんか。ところが、あんなのっぽヽヽヽになって、今でもそっくりそのままじゃないの。ねえ、わたし、どういうわけか、あの家にはほんとに何かしら大変なことがあるように思えるの。それも、あの人だけに限って。あの人はね、公爵がまるで天にでも昇ったように、いい機嫌でいるんだから、せめて毎日こっそりと何か物を言ってやればやれるものを、その気持を見せたくなくって、朝から晩まで一生懸命になって公爵のことを笑ってるんですって……。公爵はそりゃあ、とても滑稽なんですって。わたし、あの家の人から聞いたの。けど、わたしもやっぱり、あの姉さんたちから面と向かってばかにされてるような気がしたわ」
 ガーニャはついに、苦い顔をしてきた。おそらく、ワーリヤは兄の本心を見抜こうとして、わざわざこの問題に深入りしたのであろう。ところが、またもや二階からわめく声が聞こえてきた。
「おれは親父を追い出すんだ!」鬱憤うっぷんの晴れるのを喜んででもいるように、ガーニャはほえたてた。
「そしたら、また昨日のように、行く先々でわたしたちに恥をかかせるようなことをするんですよ」
「何、昨日のようにって? どういうことなんだ、昨日のようにって? いったい……」と急にガーニャは愕然とした。
「あらまあ、兄さんは知らないの?」ワーリヤはふと気がついて言い換えた。
「何か……それじゃ、親父があすこへ行ったってのは本当なのか?」恥ずかしいのと腹立たしいのとで、すっかり赤くなって、ガーニャは大きな声で言った、「ああ、おまえはあすこから帰って来たんじゃないか! 何かぎつけて来たのか? 爺はあすこへ行ったのか? 行ったのか、行かないのか?」
 と言って、ガーニャは戸口の方へまっしぐらに駆けつけた。ワーリヤは飛びついて、両手で足をつかまえた。
「どうしたの? まあ、どこへ行くの?」と彼女は言った。「今、お父さんを放したら、あちこちへ行って、もっと悪いことをするわよ!……」
「あすこで何をしたんだ? 何を言ったんだ?」
「だって、あすこの人も自分から話すことはできなかったのよ、何のことだかわからなかったんでしょう。ただお父さんはみんなをびっくりさしただけなの。旦那様のところへ行ったけれど、留守だったもんだから、奥様を呼び出してね。初めのうちは、勤めに出たいから口を捜してくれるようにと頼んだのですって。そうかと思うと今度はわたしたちのことをくよくよし始めて、わたしのことだの、うちの人のことだの、わけても、兄さんのことをこぼしてたそうです、……ろくでもないことをさんざん並べて」
「それをようく探り出しては来られなかったのか?」ガーニャはヒステリカルに、身震いした。
「だって、そんなことがどうして! お父さんも自分では、何を話してたのか、ろくにわかってないらしいの。もっともことによったら、わたしに何もかも聞かしてくれなかったらしいの」
 ガーニャは頭をかかえて、窓の方へ駆けて行った。ワーリヤは別の窓のきわに腰をおろした。
「アグラーヤさんて、おかしな人だわ」と、いきなり彼女は言いだした。「わたしを引きとめて、『御両親様に、特にわたくしからよろしくとおっしゃってくださいまし。わたくし、近いうちに、必ず、あなたのお父様にお目にかかるおりがあろうと存じますの』と、こう言うんです。その言い方がとてもまじめくさってるの。変に、ひどく……」
「ひやかしたんじゃないか? ひやかしてたんじゃないのか?」
「ところが、ほんとにそうじゃないの。だから変なの」
「あの人は爺のことを知ってるのか、知ってないのか、どう思う?」
「あの家の人が知らないってことは、わたしも間違いないと思うの。でも、兄さんの話を聞いてたら、——ひょっとするとアグラーヤさんが知ってるかもしれないって、そんな気がしてきたわ。あのひと一人だけ知ってるってつまりね、あの人がとてもまじめくさってお父さんによろしくって言ったときに、姉さんたちもびっくりしてたからなの。そして、ことさら、お父さんによろしくなんてどういうわけかしら? もし、あの人が知ってるとすれば、それは公爵が話したに相違ないわ」
「誰が話したか、そんなことはわけもなくわかることだ! 泥棒め! それだけなら、まだいいんだ。ところが、泥棒はこの家にいるんだ、しかも『一家のあるじ』で!」
「まあ、ばかなことを!」と、ワーリヤはすっかり腹を立てて叫んだ、「酒のうえでのいたずらじゃないの、それだけのことだわ! それに誰がこんなことを考え出したのよ? レーベジェフや公爵じゃないの……あの人たちは自分はおめでたい人ですからね。なにしろ、たいへんなお利口者で。だから、わたし、そんなに当てにしないの」
「爺は泥棒で、酔っ払い」とガーニャは苦々しげに言い続けた、「おれは乞食で、妹の亭主は高利貸し——これだけあれば、アグラーヤさんにとっては願ったりかなったりだ! いや、申し分がない、立派なものだ!」
「その妹の亭主の高利貸しが、兄さんを……」
「養ってるっていうのか、え? 遠慮するなよ、どうぞですからね」
「兄さんは何をそんなに怒ってる?」とワーリヤはふと気がついて、ことばをあらため、「あなたは、なんにもわからないんだわ、まるで小学生みたいに。こんなことがあったからって、アグラーヤさんに見さげられるとでも思ってるの? あんたはあの人の性質を知らないんだわ。あの人はりにった花婿まで振りすてて、どこかの大学生のとこへ、喜び勇んで逃げて行って、屋根裏で餓え死にするくらいのことをやりかねない人なのよ、——これがあの人の夢なんだわ! しっかりと、プライドをもって、この境遇を耐え忍ぶことができたら、兄さんだって、あの人から話せる人だと思われたでしょうよ。それだけのことが、あなたにはどうしても呑み込めなかったのね。公爵があの人を釣ったのは、第一に、無理にわが物にしようとしなかったのと、第二に、公爵が誰の眼から見ても白痴ばかだったからなの。もう、あの人は公爵のことで、家じゅうの者を悩ましているだけでも楽しいんですからね。ああ、あんたって人には何も呑み込めないんだわ!」
「まあ、もう少し見ててくれ、呑み込めるか、呑み込めないか、わかるから」と、ガーニャは謎めいたことをつぶやいた、「とにかく、おれは爺のことだけは、アグラーヤさんに知られたくなかったんだ。公爵はじっとこらえて、しゃべりはしないだろうと思ってたんだが。なにしろ、公爵はレーベジェフにさえ口どめしていたんだ。おれが無理に頼んだ時にでも、すっかり言おうとはしなかったほどだ……」
「だからねえ、兄さん、公爵は別としても、話はすっかり知れてるんだわ。それにしても、今どうするつもりなの? 何を当てにしてるの? まだ何か当てがあったとしたら、それがあるために、兄さんはアグラーヤさんの眼から見ると、受難者のように見えるだけのことでしょうよ」
「しかし、いくらあの人がロマンチックだといっても、醜態を演ずるのは気がひけるだろうよ。何ごとにもある程度、誰にしろ、ある程度というものがあるんだ。おまえたちだってみんなそのとおりだ」
「アグラーヤさんが気おくれするんですって?」ワーリヤはさげすむかのように兄を見つめながら、激昂した。「けれど、あんたって人はあさましい根性をもってるんですね! あんたはなんの値打ちもない人だわ。かりに、あの人がおかしな変人だったとしても、その代わり、あの人は、わたしたちみんな合わせたよりも、ずっとずっと気高い人ですよ」
「まあ、いいよ、いいよ、そう怒るな」と得意そうにガーニャはまたつぶやいた。
「わたしはただお母さんが可哀そうなの」とワーリヤは続けて、「あのお父さんの一件が、お母さんに聞こえなけりゃいいがと、それが心配だわ! ああ、心配だわ」
「だって、もう必ず聞こえてるはずだ」とガーニャは言った。
 ワーリヤは、二階にいる母のところへ行こうとして立ち上がりかかったが、ふと思いとどまって、しげしげと兄の顔を眺めた。
「だって、誰がそんなことを言ったかしら?」
「きっとイッポリットだろうよ。ここへ引っ越して来るなり、すぐに、お母さんに言いつけたと思う、何よりのみやげだくらいに考えて」
「じゃ、どうしてあの人が知ってるのか、聞かしてちょうだいな。公爵とレーベジェフが誰にも言わないことに決めているし、コォリャだって何も知らないのだし」
「イッポリットかえ? あれは自分で嗅ぎつけたんだ。あいつがどれくらいずるいやつだかとても想像もつくまい。あいつは、とてものおしゃべりで、悪いことだの、人聞きの悪いことなら、何ごとによらず、すぐに嗅ぎつける恐ろしい鼻をもってるんだ。まあ、おまえは本気にするかしないかわからんけれど、あいつはアグラーヤさんまで、まんまと丸めこんでしまったんだ! 丸めこんでいないとしたら、すぐに丸めこむだろう。ロゴージンもやはり、あいつに渡りをつけたんだ。それをどうして公爵は気がつかないんだろう? 今、あいつはおれをどれくらい探索したがってるかわからないんだ! あいつはおれを目のかたきにしてるけれどそれはもうかなり前からわかっているんだ。どうしてそうなんだろう死にかかってるくせに、——どうにも呑み込めない! しかし、おれはあいつをだましてみせる。いいか、あいつがおれを探索するんでなくって、あべこべにこっちからやってみせる」
「そんなに憎らしいんなら、どうして、あの人を引っぱり込んだの? それに、あの人を探索したってはじまらないじゃないの?」
「おまえが引っぱり込めって勧めたんじゃないか」
「あの人が役に立つと思ったからなの。けども、ね、あの人は今アグラーヤさんに惚れ込んで、手紙を出したんですよ。わたし、根掘り葉掘り聞かれたわ、あの人のことを……。だって、奥様にまで手紙をやりかねないくらいだったんですもの」
「そのほうにかけては大丈夫だ!」毒々しく笑いながら、ガーニャは言った。「もっとも、何か曖昧あいまいなことがきっとあるんだろう。あいつが惚れたってことは、ありそうなことだ。なにしろ、餓鬼だからな! しかし……あんな婆さんに匿名の手紙をやるなんて、そんなことはしないだろう。あいつは実に意地の悪い、一人よがりのぼんくらなんだ!……それは本当だと思う、よくおれは知ってる。あいつはあの人の前で、おれのことを腹黒だってぬかしやがった、それがあいつの手始めだったんだ。おれは白状するけど、初めは、まるでばかみたいに、いろんなことをあいつにぶちまけていたんだ。あいつが公爵に対する復讐からして、おれのためになってくれるだろうとそう思っていた。ところが、どうして、どうもとても、こすい野郎でな! 本当に。今になって、すっかりあいつの素姓を見抜いてしまった。あいつは、今度の泥棒の一件は、手めえのおふくろから、大尉夫人から聞いたんだ。うちの爺がそんなことをやる気になったとすれば、それは大尉夫人のためなんだ。あいつめ。何のきっかけもないのに、いきなり、『将軍』が手めえのおふくろに四百ルーブルくれる約束をしたって、全くなんでもない話のときに、遠慮会釈もなしに言いやがるんだ。それでおれは何もかも読めたんだ。そう言って、あいつも嬉しそうに、じいっとおれの顔をのぞきやがってな。うちのおっ母さんに告げ口をしたのもやっぱりおっ母さんに胸のはり裂けるような思いをさせるのがおもしろくってしたのに相違ない。いったい、あいつはなんだって死なないんだろう? ひとつおれに教えてくれないかな! だって、三週間たったら、必ず死ぬはずだったんじゃないか、それだのに、ここへ来てからよけい肥ってきた! 咳もしなくなったし、ゆうべは、自分でも、あくる日から喀血かっけつをしなくなったって、そう言っていた」
「追い出してしまいなさい」
「おれはあいつを憎んじゃいない。が、軽蔑はしてるんだ」とガーニャは傲然と言い放った、「うん、そう、そう、憎んでてもいい、それでもいい!」いきなり彼は非常に激昂して叫んだ、「あいつがとこの上で死にかかってもいい、おれは面と向かって言ってやる! もしも、おまえがあいつの告白を読もうものなら、……ああ、ずうずうしい打ち明け話だ! あれはピローゴフ中尉だ、あれは目もあてられないノズドリョフ〔ゴーゴリ作「死せる魂」の人物〕だ、要するに餓鬼だよ! ああ、あのとき、あいつをいやというほどぶんなぐって、あいつの度胆を抜いてやったら、どんなに痛快だったろう。あのときうまくいかなかったから、今、あいつはみんなに復讐しているんだ……。ところで、あれはなんだ? また二階でがやがやしてる! ほんとに、なんだ、あれは? おれはもう我慢ができない」と彼は部屋へはいって来たプチーツィンに向かって叫んだ、「なんだっていうんだ、おれたちはしまいにどうなるんだ? あれは……あれは……」
 しかし、騒ぎはたちまちに近づいて来て、いきなりドアが開いた。イヴォルギン老人が憤然として、顔をまっかにして、身をぶるぶる震わせながら、夢中になって、同じくプチーツィンに食ってかかった。老人のあとからは、ニイナ・アレクサンドロヴナ、コォリャ、最後にイッポリットがついてはいって来た。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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