白痴(第四編)ドストエフスキー

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  第四編

      十

 それにしても、公爵はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチが予言したように、結婚式の日までは、『夢のうち』にも、うつつのうちにも死ななかったのである。おそらく実際にはよく眠れないで、悪い夢を見ていたことであろう。しかし、昼の間、人の前に出ると、気だてがよくて、満足しているらしくさえも見えた。どうかすると、ただ恐ろしく沈んでいることもあったが、それはただ一人でいる時だけであった。式は取り急がれて、エヴゲニイの来訪後、およそ一週間ということになった。このように急いでいるので、最も親しい友人さえも(もしもそういう人たちがいたとすれば)、この不仕合わせな狂気じみた男を『救おう』と骨を折ってみたところで、幻滅を感じなければならなかったであろう。
 エヴゲニイが来訪するに至った責任のいくぶんはイワン・フョードロヴィッチ将軍、およびその夫人のリザヴェータ・プロコフィエヴナが負うているという噂があった。しかし、たとい彼ら二人が量り知れないほど善良な気持から、滅亡せんとしつつある哀れな狂人を救おうと望んだとしても、もちろん、この頼りない一つの試み以上に、一歩も踏み出しえなかったに相違ない。二人の地位も、また、おそらくは性癖も、これ以上に真剣な努力を許さなかったのである(それはきわめて自然なことである)。
 前にも述べたように、公爵を取り巻いている人たちさえも、いくぶんは彼に背を向けていた。もっともヴェーラは人目を忍んで涙をこぼしたり、多く自分の部屋に引きこもって、公爵のところへ以前のように顔出しをしなかったり、それくらいのところにとどまっていた。コォリャはこのころ父の葬式のことで忙しかった。老将軍は最初の発作の八日のちに、第二の発作でたおれたのであった。公爵は一家の悲しみに深甚なる同情を寄せて、初めの幾日かは、ニイナ夫人のもとで毎日のように、五、六時間も過ごしたほどであった。葬式のときには教会へも行った。教会に居合わせた群衆が、公爵の行き帰りに、心ならずも何ごとかをささやいていたことに、多くの者は気がついていた。それと同じことが往来でも、公園でもくり返された。公爵が徒歩にしろ、馬車にしろ、通りかかるたびに、わいわいと話し声が聞こえて、彼の名を呼んだり、指さしたり、ナスターシャ・フィリッポヴナの名までが聞こえたりした。人々は葬式のとき、ナスターシャの姿を捜していたが、葬式には彼女は来ていなかった。例の大尉夫人も葬式には来ていなかった。それはレーベジェフが前もって、首尾よく食い止めたからである。
 この葬式は公爵に強く、痛々しい感銘を与えた。彼はまだ教会にいるとき、レーベジェフに何かを聞かれたのに答えて、自分が正教の葬式に列するのは、これが最初で、子供のころ、どこかの村の教会で行なわれた葬式を一つ覚えているだけだとささやいた。
「さようでございますよ、覚えてらっしゃるでしょうが、わたしたちが、ついこのあいだ議長に選挙した、あの御当人が、棺の中にはいってるとは思えませんよ」とレーベジェフは公爵にささやいた、「あなたは、どなたをお捜しで?」
「いや、なに。ちょっとそんな気がしたので……」
「ロゴージンじゃありませんか?」
「いったいあの人がここにいるんですか?」
「はい、教会の中に」
「ははあ、道理で、あの人の眼がちらついたと思った」と公爵はどぎまぎしてつぶやいた、「しかし、なんだってあれが?……ばれたんですか?」
「あの人のことなんぞ、誰も考えてやしません。まるで誰も知らんじゃありませんか。ここにはどんな人だっていますよ、この人だかりですからね。ところで、何をそんなにびっくりなさるんです? わたしはこのごろ、よくあの男に出会いますよ。はい、もう先週は四度ばかり、このパヴロフスクで出っくわしました」
「僕は一度も会いません……あのとき以来……」と公爵はつぶやいた。
 ナスターシャも『あのとき以来』ロゴージンに会ったなどという話を一度もしなかったので、公爵は今では、ロゴージンが何かいわくがあってことさらに顔を見せないのだと、一人で決めていた。この日は一日、彼はひどく考え込んでいた。ところが、ナスターシャはその日は昼も夜も、ひどく陽気であった。
 父の亡くなる前に、公爵と仲なおりをしたコォリャは、ケルレルとブルドフスキイを結婚式の介添え人に頼めと勧めた(それは目前に迫った急務であった)。彼はケルレルならば礼儀正しくやってのけるだろう、ことによったら、適任者かもしれないと請け合った。ブルドフスキイについては何も言うがものはなかった。静かな、おとなしい人間だからである。ニイナ夫人とレーベジェフは公爵に注意して、——たとい結婚が決まったにしても、何の必要があってパヴロフスクで、しかも、人の集まる避暑季節に、大げさなことをするのかと言い、それぐらいならペテルブルグで、かえって内輪にやったほうがよくはないかと言った。
 こうした杞憂きゆうが何を意味するかは、公爵にとってあまりにも明瞭なことであった。しかし、彼はあっさりとナスターシャの望みだからと答えた。
 あくる日、介添え人に選ばれたという報知を受けたケルレルが、公爵のところへやって来た。はいる前に、彼はちょっと戸口で立ち止まった。そして、公爵の姿が目にはいるやいなや、人差し指を立てながら、右手を高くさし上げて、誓いでもするように叫んだ。
「けっして飲みません!」
 やがて公爵に近づいて、両の手をしっかりと握りしめながら一振りして、「最初にあなたの結婚のことを聞いたころは、むろん、わしはあなたの敵でした。これは、玉突き屋で宣言したとおりです。しかし、これというのも、もっぱら、あなたのためをおもんぱかって、一日も早くプリンセス・ド・ローガンか、少なくともド・シャボォくらいの人を、あなたの御夫人としてみたいと、毎日毎日、親友としての焦燥をもって待ち焦がれていたからです。しかし今は、あなたが少なくともわれわれ全部をたばにしたより、十層倍も高尚な考えを持っておいでになることを悟りました! なんとなれば、あなたは栄華も、富も、また名誉すらも必要となさらないで、ただ真実のみを求めていられるからです。高尚な人の同情にあついことは、わかりきった話です。ところが、あなたは高尚な人になるまいとしても、教育があまりに高すぎるのです。全体から見ましてです! しかし、烏合うごうしゅうたる野次馬連中は、また別な考え方をしています。町じゅうの者が家の中でも、集会の席でも、別荘でも、音楽堂でも、酒場でも、玉突きでも、今度の式のことばかり話したり、わめいたりしています。なんでも窓の下で大騒ぎをしたがっているという噂です。しかも、それが、いわゆる初夜なんですからねえ! 公爵、もし潔白な人間のピストルが必要でしたら、わしはあなたが翌朝『蜜のとこ』からお起きにならない先に正義の弾の半ダースやそこらは射つ覚悟です」と言った。なおまた教会を出るとき、新郎新婦を見たがる連中がどっと押し寄せる場合を気づかって、表に火消しの水管を用意するようにと勧めた。しかし、これはレーベジェフが反対した、「水管なんか持ち出したら、家を木っぱにして持って行かれますよ」
「あのレーベジェフは、あなたに対して陰謀を企てています、ええ、本当です! あの連中は、あなたを禁治産あつかいにしようと思ってるんです、しかも、どうでしょう、自由意志も、財産も、何もかもですよ。つまり、お互いを四つ足と区別するこの二つの大事な物を、奪おうというんですよ! わしは聞きました、確かに聞きました、正真正銘の事実です!」
 公爵は自分でも、何か、こんなたぐいの話を聞いたことがあったような気がした。が、その時はもちろん、何の注意も払わなかった。彼は今もただ笑ったばかりで、すぐにまた忘れてしまった。レーベジェフは全くしばらくのあいだ、やきもきしていたのである。この男のもくろみはいつも感激といったようなものから生まれるが、あまりに熱中しすぎるため、こみ入ってきて、あちこちへ枝葉にわかれて、最初の出発点からすっかり離れてしまうのである。つまりこれが、彼の生涯でたいした成功を見ないゆえんであった。その後ほとんど結婚の当日になって、彼が悔悟の念を表わすために、公爵のところへやって来たとき(彼はいつも公爵に対して陰謀を企てるたびに、悔悟の念を表するため公爵のところへやって来る癖があった、主として陰謀が成功しなかった時に)、自分はタレイラン〔フランスの名外交家。ウィン会議に活躍した。一七五四〜一八三八〕として生まれたのに、どういう風の吹き回しか、ただのレーベジェフでまごまごしているのだ、と前置きして、自分のたくらみの一条をすっかり暴露して見せるので、公爵はそのことに非常な興味を寄せるのであった。彼のことばによると、彼はまず小手しらべとして、必要の際たよりになるような名士の保護を求めて、イワン将軍のところへおもむいたという。すると、将軍は合点がゆかないらしく、自分は心から公爵のためよかれと祈っていると言い、『助けてやりたいのは山々であるが、ここでそんなことをするのは、どうも感心しない』と言ったそうである。リザヴェータ夫人は彼に会うのも、話を聞くのもいやだと言った。エヴゲニイも、S公爵も、ただ困りきったように両手をひろげただけであった。
 しかし、彼レーベジェフはしょげずに、如才のない法律家と相談した。これは立派な老人で、彼にとっては大の親友、というよりほとんど恩人なのであった。この人の結論によると、それはできない相談ではないが、相当な人が公爵の知能錯乱と、完全な発狂の証明さえすればよい、しかし、そのほかの名士の保証というのが肝腎だとのことであった。レーベジェフはけっして落胆はしなかった。それどころか、一度は公爵のところへ医者を連れて来たことさえある。これもやはり立派な老人で、アンナ勲章を首に掛けている別荘暮らしの人であった。この人が来たのはただ、いわば、この辺の地勢を見て、公爵と近づきになり、ついでに公式にでなしに親友として、自分の診断を告げるためであった。
 公爵はこの医師の来訪を覚えている。その前の晩レーベジェフは、彼の健康がすぐれないと言って、うるさく付きまとい、公爵が断固として医薬をしりぞけたとき、彼は突然こうして医師をつれて来たのである。その口実はつい今しがた二人して、非常に容体の悪くなったチェレンチェフ氏(イッポリット)を訪問して来たので、医師の口から、公爵に病人の容体を知らせるために来訪したというのであった。公爵は、レーベジェフの思いつきを褒めて、非常に医師を歓待した。すぐにイッポリットの話が始まった。医師は、あの自殺当時の光景を、詳しく聞きたいと頼んだ。そして公爵の話や説明ぶりに、すっかり聞きとれてしまった。それからペテルブルグの気候や、公爵自身の病気や、スイスや、シュネイデルのことなどに話が移った。シュネイデルの治療法の説明や、その他いろんな話に、医師はすっかり興味をひかれて、二時間ばかりも尻を据えたほどであった。その間に、彼は公爵の上等の葉巻をふかし、レーベジェフはレーベジェフで、ヴェーラの持って来た芳醇ほうじゅんなリキュールをふるまった。このとき妻もあれば家族もある医師が、一種特別なお世辞をヴェーラにふりまいたので、彼女はすっかり憤慨してしまった。二人は親友として別れた。
 公爵のもとを辞した医師はレーベジェフに向かって、もしあんな人を禁治産にするなら、いったい誰を後見人にしようというのかと言った。レーベジェフが目前に迫っている出来事を、悲愴な面持で述べたのに対して、医師はずるそうな様子で頭を振っていたが、とうとうしまいに、「結婚しないでしまう男なんてめったにあるもんじゃありませんよ。しかし、それはしばらくいても、少なくともわたしの聞いたところでは、あの魅力に富んだ婦人は、一世に絶した美貌のほかに(それ一つだけでも、優に身分ある男をひき付けるに足りますが)、そのほかにトーツキイや、ロゴージンからもらった財産をもっています。真珠とか金剛石ダイヤモンドとか、襟巻ショールとか、家具類とかいったものをね。だから今度の結婚は公爵として、いわば、さして目立つほどの愚昧ぐまいをあらわさないばかりか、かえってずるくてこまかい、世慣れた勘定だかい頭を証明していますよ。してみると、全く正反対の、公爵にとって有利な結論をうながすわけになるじゃありませんか……」と言った。この意見はレーベジェフの心を打ったので、彼もそのまま手をひいてしまった。そこで、いま公爵に向かって、「もう今度こそは、血を流してもいとわないほどの信服の念のほか、何ものもわたしにはございません。そのためにやってまいりましたので」と付け足した。
 この四、五日の間、イッポリットも公爵の心を紛らしてくれた。彼はうるさいほどしばしば使の者をよこすのであった。彼の家族は、ほど遠からぬ小さな家に住んでいた。小さい子供ら——イッポリットの弟と妹は、病人を避けて庭へ出られるというだけでも、別荘住いが嬉しかった。が、可哀そうな大尉夫人は、相変わらず彼の言うがままになって、まるで彼の犠牲になっていた。公爵は毎日親子の愛をわかったり、仲なおりをさせたりしなければならなかった。そこで、病人はいつも彼のことを自分の『お守』と呼んでいたが、しかもその仲裁役を軽蔑せずにいられないらしかった。病人はひどくコォリャに会いたがっていた。それはこの少年が最初は瀕死ひんしの父、のちにはやもめとなった母の傍に付き添って、ほとんど顔を見せなかったからである。ついに彼は、目前に迫った公爵とナスターシャの結婚を、冷笑の対象に選んだが、結局は、公爵を侮辱して怒らしてしまった。公爵はぱったり来なくなった。二日たった朝、大尉夫人がとぼとぼとやって来て、涙ながら公爵においでを願いたいと頼んだ、『でないと、わたしはあれにみ殺されてしまいます』それから、むすこが公爵に大きな秘密を打ち明けたがっていると付け足した。そこで、公爵は行ってみた。
 イッポリットは和睦わぼくを求めて、泣きだした。泣きやんでから、いっそう腹を立てたのは、もちろんであるが、ただその怒りを外へ出すのを恐れていた。彼の容体は非常に悪く、もう今度はまもなく死ぬということは、すべての様子から十分にうかがわれた。秘密などは少しもなかった。ただ興奮のために(それもあるいはこしらえごとかもしれない)恐ろしく息を切らしながら、「ロゴージンを警戒なさい」と頼んだくらいのものであった。「あの男はけっして我を折るようなやつじゃありませんよ。公爵、あれはわれわれの仲間じゃないですよ。あの男はいったんこうしようと思ったら、もうびくともしないんですからね……」などと、そんなことを言った。公爵は何かと詳しく尋ねてみて、何か事実を嗅ぎ出そうとしたが、イッポリットの個人としての感じと印象のほか、何の事実も伏在してはいなかった。イッポリットはとどのつまり公爵をびっくりさせたので、それをむしょうに喜んで、それきり話をやめてしまった。初め公爵は、彼の二、三の特殊な質問に答えたくなかったので、『せめて外国へでもお逃げなさい。ロシアの坊さんはどこにでもいますから、向こうでだって結婚することはできますよ』という忠告に対しても、ただほほえむばかりであった。しかし、イッポリットは次のような考えを述べて、きりをつけた。「僕はアグラーヤさんの身の上を心配するんです。あなたがあのお嬢さんを恋してるのを、ロゴージンはよく知っていますから、恋に報ゆるに恋をもってするということになりますよ。あなたがあの男からナスターシャさんを奪ったから、今度はあの男はアグラーヤさんを殺すでしょう。もっとも、アグラーヤさんは今はあなたのものではないですけれど、それでもやはりあなたは苦しいでしょう、そうじゃありませんか?」彼はついに目的を達した。公爵は人心地もなく彼のところを立ち去った。
 ロゴージンに関するこの警戒は、もう結婚の前日に当たっていた。この晩、公爵がナスターシャに会ったのは、結婚前における最後の会見であった。しかし、ナスターシャは、彼を慰めることができなかった。そればかりか、このごろではいよいよ彼の不安を増すばかりであった。以前、といっても四、五日まえまで、彼女は公爵と会うたびごとに、全力を尽くして彼の気を紛らそうとした。公爵の沈んだ様子を見るのが恐ろしかったので、ときには歌をうたって聞かせることさえあった。しかしたいていは思い出せる限りの滑稽な話を、公爵に話して聞かせることが多かった。公爵はいつも笑うようなふりをして見せたが、ときには本当に笑うこともあった——それは、彼女が夢中になって話すときの、すばらしい頓智とんちと明るい感情につり込まれるのであった。しかも、彼女はしょっちゅう夢中になった。公爵の笑顔を見、自分が公爵に与えた感銘を見ると、有頂天になって自慢するのであった。が、このごろ彼女の憂愁と物思いは、ほとんど一時間ごとに募っていった。
 公爵のナスターシャに関する意見は、ちゃんと決まっていた。それでなかったら、もちろん、彼女のもっているあらゆるものが、今は謎めいた、不可解なものに見えたに相違ない。しかしナスターシャはまだよみがえることができるものと、彼は衷心から信じていた。彼がエヴゲニイに向かって、真ごころから彼女を愛していると言ったのは、全く事実であった。彼の愛のなかには、たしかに、何かしら哀れな、病身な子供に寄せる愛着に似たようなものが潜んでいた。そんな子供の勝手に任せておくのは、情において忍びがたいような、不可能でさえもあるような気がするのであった。彼は彼女に対する気持を、けっして人に打ち明けなかった。そういう話を避けられないような場合でさえ、口にすることを好まなかった。当のナスターシャとは、自分たちの『気持』を一度も話し合ったことがない。まるで二人とも、そんな誓いでも立てているかのようであった。二人のいつもの陽気な、威勢のよい話には、誰でも仲間入りができた。ダーリヤはのちになって、『あの当時の二人を眺めていると、ひとりでに嬉しくなって、ほれぼれするくらいでした』と話していた。
 しかし、ナスターシャの精神および理性の状態に関する彼のこうした見方は、そのほかのさまざまな疑惑を避けるのに、いくぶん力があった。今のナスターシャは、三か月ばかり前に知っていたころとは、まるで別人のようになっている。彼は今はもう、『あのとき自分との結婚をいとって、涙とのろいと非難とともに逃げ出した女が、どうして今度はかえって自分のほうから、結婚を主張するようになったのか?』などと考え込まなくなった。『つまり、もうあのときのように、この結婚が僕の不幸になるということを、心配しなくなったのだ』と公爵は考えた。急激に生じたかような自信は、どうしても自然なものであるはずがない、と彼の眼には感じられた。アグラーヤに対する憎しみばかりが、こんな自信を生むべきわけがない。ナスターシャはも少し深い直感をもっている。ロゴージンとのくされ縁に対する恐怖のためでもあるまい。要するに、これらの原因が、いろんな他の事情といっしょになっているのだ。けれど何より明瞭なのは、彼が以前から疑っている事実——哀れな病める心に堪えられないような事実が、この間に伏在しているということである。
 かような考えは、実際いろいろの疑惑からある意味で彼を救い出してはくれた。が、この数日間、彼に安心も休息も与えることができなかった。ときには、彼は何も考えまいと努めた。事実、彼はこの結婚を、些細な儀礼かなんぞのように見ているらしかった。自分の運命も、あまりに安く評価しているのであった。エヴゲニイとの会話に類するような話や、その他いろいろの抗議に対しては、全く返答ができなかったはずで、またみずからその資格があるとは思えなかった。だからこそ、こういったたぐいの話を避けていたのである。
 それにしても、アグラーヤが公爵にとって、どんな意味をもっているかということを、ナスターシャはあまりによく知り、かつ了解しているということに彼は気がついた。彼女は口にこそ出して言わないが、まだ初めのうち、時として公爵が、エパンチン家へ出かけようとしているのを見つけたとき、彼は彼女の『顔』を見た。将軍一家が出発したとき、彼女はまるで喜びに輝き渡るようであった。公爵はかなりに気のつかない、察しの悪いほうではあったが、ナスターシャが自分の恋がたきをパヴロフスクから追い出すために、何か世間体の悪いことをしでかしそうだという考えは、急に彼の心を騒がし始めた。結婚に関する別荘じゅうの騒がしい噂も、もちろんナスターシャが恋がたきをいらだたせるために、引き続いて種を供給したのである。
 エパンチン一家の人に会うのがむずかしかったので、ナスターシャはあるとき自分の馬車に公爵を乗せて、相乗りで将軍家の窓ぎわを通るように言いつけた。それは公爵にとって、思いもよらぬ驚きであった。彼はいつもの癖で、もう取り返しのつかない時になって——もう馬車が窓ぎわを通っている時に、はじめて気がついた。彼は何も言わなかったが、その後二日ばかり引き続いて病気した。ナスターシャも、もうかような小手調べをくり返さなかった。
 結婚の二、三日まえから、彼女はひどく考え込むようになった。いつもついには憂鬱を消し飛ばして、また陽気になるのが常であったが、そのはしゃぎ方が以前よりも静かで、あれほど騒々しくもなければ、あれほど幸福らしい快活さもなかった。公爵はいっそうの注意を加えた。ナスターシャが、一度もロゴージンのことを口にしないのも、変に思われた。ただ一度結婚の五日ばかり前に、急にダーリヤから、ナスターシャが非常に悪いからすぐ来るように、との使いがあった。行って見ると、まるで気ちがいのようなありさまである。彼女は悲鳴をあげたり、震えたりしながら、ロゴージンが家の庭に隠れている。たったいま自分で見た、夜になったら、あの男がわたしを殺す……刃物で斬る! と叫ぶのであった。まる一日彼女は気が鎮まらなかった。しかしその晩、公爵がちょっとイッポリットのところへ立ち寄った時、今日用向きでペテルブルグへ行って、たったいま帰ったばかりの大尉夫人が、今日あちらの家へロゴージンが寄って、パヴロフスクのことをいろいろ尋ねた、という話をした。それはちょうどいつごろかという公爵の問いに対して、大尉夫人の答えた時刻は、ナスターシャが今日自分の家で、ロゴージンを見たという時刻にほとんど合っていた。が、それはほんの錯覚だということで、謎が解けた。ナスターシャはなお自分で詳しく聞くために、大尉夫人のところへ行って、すっかり安心した。
 結婚の前夜、公爵と別れたときのナスターシャは、珍しく元気づいていた。ペテルブルグの衣裳屋から明日の衣裳——式服、髪飾り、その他さまざまなものが届いた。公爵は、彼女がそれほどまで衣裳のことで騒ごうとは、思いがけていなかった。が、彼は自分でも、いっさいの品物を褒めそやした。その褒めことばを聞いて、彼女はなおいっそういい機嫌になった。ところが、彼女はちょっとよけいな口をすべらした。彼女は町の人がこの結婚を憤慨していることも、五、六人の暴れ者がわざわざ作った諷刺詩に音楽までつけて、家の傍で一騒ぎをしようとたくらんでいることも、またそのたくらみが、町民の応援を受けないばかりのありさまだなどということも聞き込んでいたので、今はなおさらこの連中の前で意気揚々と、自分の衣裳のぜいたくさと、その趣向で皆をあっといわせてやろうという気になったのである。
『もしできるなら、怒るなと、口笛を吹くなとしてみるがいい!』こう思っただけで、彼女の眼は光りだすのであった。
 彼女はもう一つ秘密な空想をもっていたが、口に出しては言わなかった。つまりアグラーヤか、さもなくば、そのまわし者が、わからないように群集に交じって、教会へ自分を見に来るに相違ない、という風に空想されたのである。そこで、彼女は心の中でその覚悟をしていた。こういう考えにすっかり心を奪われて、夜の十一時ごろ彼女は公爵と別れた。しかし、まだ十二時も打たないうちに、公爵の所へダーリヤの使いが走って来て、「非常に悪いから来てください」と告げた。行って見ると、花嫁は寝室に閉じこもって、ヒステリイの発作に絶望の涙を流していた。彼女はみんなが鍵のかかった扉ごしに言うことを、長いあいだ聞こうともしなかったが、ついに戸をあけて、公爵一人だけ中へ入れると、すぐその後から戸を閉めてしまって、公爵の前にひざまずいた(少なくとも、ダーリヤはそう言っていた。彼女はちらと隙見したのである)。
「わたしはなんていうことをしてるんでしょう! なんていうことを! あなたの身をどうしようと思ってるんでしょう!」彼女は痙攣けいれん的に公爵の両足を抱きながら、叫んだ。
 公爵はまる一時間、彼女と坐っていた。二人がどんな話をしたかは、知らない。ただダーリヤの話によると、二人は一時間の後すっかり穏かな、幸福らしい様子で別れたとのことである。公爵はこの晩もう一度使いをやって様子を尋ねたが、ナスターシャはもう寝入っていた。あくる朝、まだ彼女の起きない先に、もう二人の使いが公爵のところから、ダーリヤの家へやって来た。三度目の使いはこんなことづけをもたらした。『今ナスターシャのまわりには、ペテルブルグから来た衣裳屋や、髪結いが一小隊ほど集まって、昨夜のことはそのけはいもない、ただあれほどの美人の結婚前にしか見られないような勢いで、化粧に夢中になっている。ちょうどいま、どのダイヤモンドをつけようか、またどんな風につけようかというので、非常な評議が行なわれているところだ』で公爵はすっかり安心してしまった。
 この結婚についての最後の逸話アネクドートは、事情に通じた人たちによって、次のように語られているが、それは正確な話らしく思われる。
 式は午後八時ということになっている。ナスターシャ・フィリッポヴナは、もう七時にはすっかりしたくができていた。もう六時ごろから、しだいしだいに物見高い人々の群れがレーベジェフの別荘、わけてもダーリヤの家の周囲に集まりだした。七時ごろからは教会も人で埋まってきた。ヴェーラとコォリャは、公爵の身の上をひどく心配していた。とはいえ、二人とも家の用事がかなりたくさんあった。公爵の下宿で受付や、接待のさしずをしていたのである。もっとも式のあとでは、招待らしい招待をしないことになっていた。式に列するために必要な人々をのけると、プチーツィン夫妻、ガーニャ、アンナ勲章を首に掛けた医師、それからダーリヤ、こんな人がレーベジェフから招待を受けたくらいのものである。公爵が、なぜほとんど他人同様の医師を呼ぶ気になったかと尋ねたとき、レーベジェフは得意然として答えた、『首に勲章をかけた立派な人でございますから、体裁のために……』と言って公爵を笑わした。燕尾服に手袋をつけたケルレルとブルドフスキイも、かなりに体裁よく見えた。ただケルレルは、宿の周りに集まっている物見高い連中を、恐ろしくすごい目つきでにらみつけながら、喧嘩ならいつでも来いという様子が、ありありと見えるので、公爵はじめその他の頼み手を当惑させた。
 ついに七時半に、公爵は箱馬車に乗って、教会へおもむいた。ついでに言っておくが、公爵自身も従来のしきたりや風習を、一つも略したくないと特に決めたので、すべてのことが公然と明らさまに、『かたのごとく』取り行なわれた。教会では、絶え間ない群集のささやきや、叫び声のなかを縫いながら、左右へじろじろと恐ろしい視線を投げるケルレルに手を引かれて、公爵はしばらく祭壇の中へ隠れた。ケルレルはナスターシャを迎えに行った。見ると、ダーリヤの玄関先に集まった群集は、公爵の家より二倍も三倍も多いばかりでなく、二倍も三倍も生意気でさえもあった。階段を昇っていると、とても我慢できないような叫び声が耳にはいったので、ケルレルはもうしかるべきことばを返してやるつもりで、公爵のほうをふり向いた。ところが、幸いにブルドフスキイと、玄関から飛び出したダーリヤがおしとどめて、むりやりにつかまえて中へ引っぱり込んでしまった。ケルレルはいらいらして、あわてていた。ナスターシャは立ち上がって、もう一度、鏡を見ながら、『ゆがんだような』微笑を浮かべて(これはあとでケルレルが言ったことである)『まるで死人のように青ざめている』と言った。それからうやうやしく聖像を拝んで、玄関口へ出た。彼女が現われると、わっというどよめきが起こった。最初の一瞬間、笑い声や、拍手や、口笛すらも聞こえたのは事実であるが、すぐにもう別な声が響き渡った。
「なんて別嬪べっぴんだろう!」という叫びが群集の中で聞こえた。
「なあに、そりゃ何もこの女一人っきりじゃないさ!」
「あの女は婚礼で何もかもごまかそうっていうんだ、間抜けめ!」
「いや、ひとつあんな別嬪を見つけてみろ。わーい!」すぐ傍にいた連中が叫んだ。
「よう、公爵夫人! こういう美人のためなら、からだを売っても惜しかない!」とどこかの事務員らしいのが叫んだ。「『命をすててもわが一夜を……』〔プゥシキンの小説「エジプトの夜」に出る〕!」
 ナスターシャはたしかにハンカチのように青い顔をして出て来た。しかし、その黒い目はおこっている炭火のように、群集に向かって輝いた。この視線に群集は我慢がならなかった。憤慨は歓呼の声と変わった。もう馬車の戸が開いて、ケルレルが花嫁に手を差し伸べていた、おりしも彼女は一声高く叫んで、いきなり階段から群集の中へ飛び込んだ。付き添いの人々は誰も彼も驚きのあまり、しびれたようになった。群集は彼女の前にさっと道を開いた。と、階段から五、六歩のところに、突然ロゴージンが姿を現わした。この男の眼を、ナスターシャは群集の中にとらえたのである。彼女は気ちがいのように彼の傍へ駆け寄って、その両手をひしとつかんだ。
「助けてちょうだい! 連れて逃げて! どこでも好きなところへ、今すぐ!」
 ロゴージンは、彼女をほとんど両手にかかえ込んで、かつぎ込むように馬車の中へ入れた。やがて、一瞬の間に財布の中から百ルーブル紙幣を抜き出して、御者に差し出した。
「停車場へやれ。もし汽車に間に合ったら、もう百ルーブルだ!」
 こう言って、自分もナスターシャのあとから馬車に飛び込み、ばたりと戸を閉めた。御者はしばしも躊躇ちゅうちょすることなく馬に鞭をあてた。あとでケルレルは、責任を事の唐突なのに転嫁した。「もう一秒ひまがあったら、追いついて、あんなまねをさせるんじゃなかったんですがなあ!」と彼はその時の出来事を説明して言った。彼はブルドフスキイと共に、別の馬車に飛び乗って追いかけたが、途中でまた考えを変えた。「もうとにかく遅い! 力づくじゃ取り戻せない!」
「だって、公爵もそれを望まれないだろう!」慄然りつぜんとして、ブルドフスキイはこう言った。
 ロゴージンとナスターシャは、首尾よく時間内に停車場へ駆けつけた。馬車を出たロゴージンは、もう汽車に乗ろうとする間ぎわに、通りかかった一人の娘を引きとめた。娘は中古ではあるが、見苦しからぬ、地味なマントを着て、薄絹の頭巾を頭に被っていた。
「あなたのマントを五十ルーブルではいかがです!」彼はいきなり娘に金をつきつけた。
 相手がまだ合点がいかないで、あっけにとられているうちに、彼はもう手に五十ルーブルを押し込んで、外套と頭巾をひったくった。そして、ナスターシャの肩と頭に、すっぽり着せてしまった。あまりに華麗な彼女の衣裳が目立って、車中の注目をひきやすいからである。娘はなぜこの人たちが、何の値打ちもない自分の古着を、あんな法外な値段で買い取ったか、ずっと後になってそのわけを悟った。
 意外な変事に関する騒ぎは、非常な速度で教会に達した。ケルレルが公爵のほうをさして進んでいる途中、まるで近づきのない人が、大ぜい彼のところへ飛んで来て、根掘り葉掘り尋ねるのであった。騒々しい話し声がやまなかった。意味ありげに首を振る者や、無遠慮に笑う者さえあった。誰ひとり教会を出ようとしないで、花婿がこの報知を受け取る様子を見ようと待ち構えていた。彼はまっさおになったが、聞きとれないくらいの声で、「僕も心配してたんですよ。しかしまさかこんなことになろうとは思わなかった」と言っただけで、静かに知らせを受けた。やがてしばらく無言の後、こう付け足した、「それにしても……あれの境遇になってみたら……当然すぎることかもしれません」この注釈は、ケルレルが後に、『無類の哲学』と評したほどのものである。公爵は見たところ落ち着き払って、元気よく教会を出た。少なくとも、多くの人がそう観察して、あとで話していた。彼は家へ帰って、少しも早く一人きりになりたかったのであろう。しかし、側の者がそうはさせなかった。
 彼のあとに続いて、招待客の誰彼が部屋へはいって来た。その中にはプチーツィンと、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチがいた。それから例の医師もいっしょであった。この人も帰って行くつもりはなかった。それに家全体が、閑人の群れによって文字どおり包囲されていた。まだ公爵が露台テラスへ上がったばかりなのに、ケルレルとレーベジェフとが、幾人かのまるで見知らぬ人たちと、激しく口論している声が聞こえた。その相手の人たちは、見受けたところ、役人らしかったが、どうしても露台へ上がりたいと言って、きかなかった。公爵は口論をしていた人たちのところへ近づいて事情をただした。そして、ねんごろにレーベジェフとケルレルを押しのけながら、露台の階段に立った仲間のかしららしい、もう白髪になった、肉づきのいい紳士のほうにつつましやかに向きなおって、どうか来訪の栄を得たいと、慇懃いんぎんに招じ入れた。紳士は面くらったが、それでもやはりはいって来た。続いて、二人三人と上がって来た。結局、群集の中から七、八人の訪問志望者が現われて、同様に中へはいったが、彼らはできるだけ打ちとけた態度をとろうと努めていた。しかし、もうそれ以上の物好きは出て来なかった。まもなく群集の中から、出しゃばり者を非難する声が聞こえてきた。
 はいって来た連中は、席を与えられて話を始め、茶の饗応にあずかった——しかも、それがひどく礼儀正しく、つつましく行なわれるので、はいって来た連中は、いささか面くらった。いうまでもなく会話を浮き立たせ、『しかるべき』話題に話を向けようとする試みも、少しはあった。またぶしつけな質問も、『威勢のいい』注意も、少しは出た。しかし、公爵はそれに対して、きわめて淡白に愛想よく、しかもそれと同時に、客の身分に対する信用を表わしながら、自分の品格をも落とさないように応対したので、ぶしつけな質問も自然と消えてしまった。しだいしだいに、会話はまじめな調子を帯びていった。一人の客はふとしたことばをとらえて、いきなり極度に憤慨して、自分はどんなことがあろうとも領地を売らない、それどころか、時の至るのを待つことにする、「事業は金銭にまさるものです」「これがあなた、わたしの経済方針ですよ、ちょっとお知らせしておきます」と弁じた。このことばは公爵に向けて発せられたので、公爵はレーベジェフが耳もとに口を寄せて、あの人は家も邸も持ってはいません、領地なんぞがあってたまるもんですか、とささやくのを相手にしないで、熱心にその考えを賞讃した。
 もうほとんど一時間ばかりたった。茶も飲みつくした。茶が済んでみると、客人たちはもうこのうえ長居するのが、ぐあい悪くなってきた。医師と白髪の紳士は熱意をこめて公爵に別れを告げた。一同も熱心に騒々しく挨拶し始めた。『落胆なさることはありません。あるいはこれがかえって幸いだったかもしれません、云々うんぬん』といった風の意見や希望も吐かれた。シャンペンをねだろうとする試みもあるにはあったが、これは客の中の目上の者が若い連中を押さえた。一同が散り散りになった時、ケルレルはレーベジェフのほうへかがみ込んで、こう言った、
「君や僕だったら、大きな声を出したり、なぐり合ったり、いいかげん恥さらしなまねをして、警察のごやっかいになるところだったよ。ところが、公爵はあのとおり、新しい友だちをこしらえたじゃないか、しかも立派な友だちだ。おれはあの人たちをよく知ってる!」
 もうかなりに『御機嫌』になっているレーベジェフは、ため息をついて言った、「賢く知恵ある者に隠して、幼児おさなごに示したまう——おれはずっと以前に、あのかたのことをこう言ったが、今度はこうつけ足すよ——神はかの幼児を守りて、深きふちより救いたまいぬ。神とそのすべての使徒みつかいよ!」
 ついに、十時半ごろになって、公爵は一人きりになった。頭が痛い。最も遅く帰ったのは、式服をふだん着に換える手伝いをしたコォリャであった。二人はねんごろに別れた。コォリャは今日の出来事をくどくどしく言わずに、明日は早い目に来ると約束した。後になって、彼は——最後の別れの時にさえ、公爵がなんにも打ち明けてくれなかったところを見ると、公爵は自分にさえあの決心を隠していたのだと言った。まもなく家じゅうに、ほとんど誰一人いなくなった。ブルドフスキイはイッポリットの家へ行ってしまい、ケルレルとレーベジェフもどこかへ出かけて行った。ただヴェーラ一人がしばらく部屋の中に居残って、お祭りらしい飾りつけを、ふだんの体裁に手早くかたづけていた。出がけに彼女はちょっと公爵の部屋をのぞいた。彼はテーブルに両肘ついて、頭をかかえながら、じっと腰をかけていた。彼女はそっと近づいて、公爵の肩にさわった。公爵はいぶかしげに彼女を眺めたが、一分間ほどは、気がつかないらしかった。やっと気がついて、いっさいのことを思い合わせて、急にひどく興奮した。それにしても、結局、あすの朝の一番列車の間に合うように、七時に部屋の戸をたたいてくれと、ひとかたならず熱心に依頼しただけであった。ヴェーラは承知をした。
 公爵は、誰にもこのことを言わないでくれと、一生懸命に頼みだした。彼女はそれをも承知して、やがて出かけようと戸をあけたとき、公爵は三たび彼女を呼び止めて、両手をとって接吻した。それから、いきなり額を接吻して、何か『なみなみならぬ』様子をしながら、「では、明日また!」と言った。これは、少なくとも、後になってヴェーラが言ったことである。彼女は極度に公爵の身の上を恐れながら立ち去った。あくる朝約束どおりに、七時過ぎに公爵の部屋の戸をたたいて、ペテルブルグ行きの汽車はもう十五分しかないと知らせたとき、公爵がすっかり元気づいて、ほほえみすら浮かべながら、戸をあけたように思われたので、彼女は少し安心した。公爵はほとんど昨夜着換えをしなかったが、しかし寝るには寝たのである。彼の考えでは、その日のうちに帰れるはずであった。してみると、たしかに、公爵はペテルブルグへ出かけることを、この時ヴェーラにだけは知らせることができる、またそうするのが当然だと考えたのであろう。
 
(つづく) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 

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