時間
横光利一
私達を養っていてくれた座長が外出したまま一週間しても一向に帰って来ないので、或る日高木が座長の残していった行李を開けてみると中には何も
いつも女達が自分にばかり心を向けていると考えたがる癖のある六尺豊かな高木、賭博が三度の食事よりも好きで壺皿の中の賽の目を透視する術ばかり考えている木下、仏さまと皆からいわれている青白くて温和で酒を飲むと必ず障子を舐める癖のある佐佐、それから女の持物を集めたがる少し変態の八木、腕相撲や足相撲が自慢で町へ這入るといつも玉突ばかり探す松木、物を置き忘れたり落したり何んでも忘れることばかり上手な栗木、
ところがここに逃げることを相談している一団の次の部屋では、内膜炎で舞台半ばに倒れたままいまだに起き上れない波子が一人寝ているのだ。これをどうしたものだろうかということになると皆も黙ってしまってそのことだけは誰も何ともいい出さず、いずれそのまま捨てておいて逃げるより仕様がないではないかと声にこそ出さないだけで暗黙の中に皆が思っているのは明らかであった。私もそれまでは実際はもう他の十一人のために波子をそうして残しておくより仕様がないと思っていたのであるが、相談がすんでふと波子の傍を通るといきなり彼女は床の中から私の片足に抱きついてしまって放さない。皆が逃げるのなら自分も逃げるからどうぞ一緒に連れて逃げてくれといって泣くのである。それではもう一度皆に相談してやるから先ず足だけ放してくれといってはなだめすかして漸く彼女の腕から足を抜いてまた皆を呼ぶと、私は相談をし直した。一同の者は私が彼らを呼ぶともう何事の相談かちゃんと皆には分っているので眼で馬鹿なことはよせよせとしきりに示し出したが、それでもあんなに一緒に逃げたいというんだからひとつ皆も同じ竃の御飯を今日まで食べていた
しかし、さていよいよ逃げるとなると海に沿った断崖の上の山道を七八里も峠を越えて歩かなければならないのだから病人を背負って逃げるのはこれはたいへんなことなのだ。しかも無頼漢の眼をくらませて殊に雨風の中を町の湯へ行くように見せかけて一人ずつ手拭をぶら下げて出ていかねばならないのだ。だが、そうかといってそのままぐずぐずしていては御飯が食べられないのだから腹が空くばかりだし、これはもう無茶でも次の駅まで闇にまぎれて逃げていく一手よりないのである。そこで私は波子の枕もとへいって一度立ってどれほど歩けるものか歩いてみよというと、彼女は立ちは立ったが直ぐ眼が廻るといって蒲団の上へふらふらっとうずくまってしまってまるで骨無し同様な有様なので、私も皆に波子を連れて逃げることを一時の同情からすすめはしたもののこんなことならいっそのことここへ一人残していく方が本人のためでもあり皆のためでもあるとまた思い直して、波子にやっぱりここに一人あなただけ残っている気はないか、残っていたってまさか宿の者は病人を殺すようなこともしなかろうしそのうちに私が金を直ぐ送ってやるからというと、波子はまたわっと泣いてここに一人残されるほどなら自分を殺していってくれという。それではもう仕方がない、折角連れて逃げようとまで皆を納得させたのに今さら自分から連れていかないといい出すのもこれも勝手すぎることだしするので、もう波子のことはそのままにしておいて私も雨の降る夜を待っていた。しかし、雨の降るまで待つのがこれがまたひと通りのことではないのである。誰か銭湯へいくときに着物を一枚質に入れてはあんぱんを買って来て分けて食べたり、また一枚売りつけては銭湯へいく金を造ったりしているのだが、そのうちにうっかりして皆の汽車に乗る金まで使ってしまっては何にもならぬのだからもう煙草一本さえのめないばかりではない。パンだって一日に一度で後は水ばかりでごろごろ終日転っているより仕様がないのだ。すると、丁度折よくそれから二三日して朝から秋雨が降り出して夕方になるとますますひどく雨風にさえ変って来た。さアいよいよそれでは今夜こそ逃げ出そうということになって皆でそれぞれ朝から手筈を決めて夜の来るのを待っていたが、私は皆がまア無事に駅へ着いたとしてそれから後を誰と誰とがどんなにして逃げるのであろうかと実はそれが初めから興味があったのだ。四人の女に八人の男の残っているのはそれは万更金の来なかった連中ばかりだとは限っていなくて、一人の女が前から二人もしくは三人ずつの男と放れがたない交渉があったからではないかとも思われたので、これはいずれどこかで一騒動持ち上るにちがいないと思っていたにはいたのである。ところが夜が近かづいて逃げる刻限が迫って来ても誰もそういう様子を現さない。そのうちに一人二人と手拭をぶら下げて出ていったので、それではもう私の知らない間に一緒に逃げるべき女と男は自然に決ってしまったのであろうと思って私も逃げる手伝いをし始めた。逃げる手伝いといったってただそれぞれの着換え一枚か二枚ずつを風呂敷に包んでは塀の外に待たしてある仲間の者に投げ落すだけなのだが、それがこんなときのこととて最後まで宿に残っていたらいつどういう拍子で
竹林ではもう十人ほどが三本の番傘の下に塊って皆の来るのを待っていたが、一同の荷物をまとめて金に換えに質屋へ行った肝心の木下という男がなかなか戻って来ない。それでは木下の奴も、ひょっとすると今頃は金を持って逃げてしまったのではないかと、誰も何んともいわないのにだんだん皆の顔にそんな風な不安が現れ出して、しばらく顔を見合したまま黙っていると、そこへ木下が十円握って帰って来た。とにかく御飯だけは腹へつめていかなければというので、最後に高木が来て十二人すっかり揃うと久し振りに皆で蕎麦屋へ出かけていこうとした。すると、松木がこんなに沢山揃っていっては見附かってしまうに決っているから一人ずつ行こうではないかといい出したので、それもそうだという事になって金を一人ずつ分けようとすると十円紙幣一枚よりない。それでは誰かこまかくして来たらと気づいてもまた町中まで一人いってはそのまま持ち逃げされそうな気がされて誰も一人に許そうとはしないのだ。これじゃ紙幣なんか有ったってなくったって同じことでどうしたら良かろうかとまた暫く黙ってしまうと、そのうちにこんなにいつまでも愚図ついていたんではもう宿屋の方でも気がついて追手を向けているかも分らないといい出すものもあり、追手が来ようとどうしようとこんなにお腹が空ちゃ動けやしないといい出すものもあって、じゃパンでも買って来るのが一番だと決ってもさてそれなら誰が買いにいくかとなると、また一度植えつけられた不安のために容易に誰も何んともいい出さない。もうそうまでなると不思議なもので病人を背負い込んでいる私だけがはっきり逃げも隠れも出来ないに定っているのだから、矢島の発案で皆の者は今度は私一人に金を持ってくれといい出した。しかし、私は私でそんな大事な金なんか持って皆から絶えず気をくばられていたりしては不愉快なので、いっそのこと皆の見ている前で病人の波子に金を持たしたら、当分は波子も誰も彼もから守られるにちがいないと思ったので彼女の懐へ金を押し込んだ。すると、今まで厄病神のように思われて皆から厄介扱いにされていた病人は急に私の肩の上でがっくりと落ちついた金庫みたいになって来て、今度は自然にその病人を中心にした一団の法則が竹林の中で出来始めた。先ず一団の男達は背後で誰かが百を数えるまで波子を背負って歩いてから交代するということになり、女は負う必要だけはないが数を算える番を交代にしていくことに決めて、そこで初めてその順番を決めにかかろうとすると八木が十八拳で決めようといい出した。それじゃ一本歯で来い、いや軟拳にしろといい合っているうちにもう片方の二人から、は、は、よう、たち、はい、に、さんぼん、とやり出したので、傍で見ている女たちも笑い出して高木さんの方が手つきがいいのいや木下さんの方が締っているのといいいい波子を背負う順番だけを漸く決めると、もう先きに立ったものが竹林を出て歩き出した。
しかし、傘は十二人に三本よりないところへ向い風で雨が前からびゅうびゅうと吹きつけて来るので、四人に一つの割りで傘を中にし一列に細長く縦隊を作ってびしょびしょと濡れて歩いていかねばならない。一番まん中に病人の波子を御輿のように守ってその後に女達、それから男と行くのだが佐佐が中からとうとう蕎麦を食べ忘れたじゃないかといい出すと、そうだ蕎麦だということになってまた一隊は立ち停った。けれども今からはもう蕎麦どころか追手につかまればまた明日から水ばかりより飲めないのだから、ひと思いに今夜のうちに峠を越してしまえば明日はどうにでもなろうという気勢の方が盛んになって、そのままずるずる一団は芋虫みたいに闇の中へ動いていった。動き出してから暫くは女達のあんこの出たフェルトがぴちゃぴちゃ高く鳴り始めると追手ではないかと気が気でなくなり、ときどきはいい合したように後ろを振り返るときもあったが、もし宿屋が気がついて追手を今頃出している頃だとしても直ぐこっちの難所へは気がつかず、もう一本の道の方へ廻るだろうと栗木がいうとそれもそうだと安心はしたものの、こっちの道にしたって誰も一度も通ったことのあるものはないのだから、行くさきざきに何があるのかどこにどんな畑があるのかそれも分らず、雨に洗われた砂地からしきりに頭を
ところが私もこの空腹にだけは皆と同様困り果てて道傍の畑からでも食物を探そうとしたのであるが、竹林を出てから暫くすると畑なんかは一つもなく、右手は岩ばかりの崖で左手は数百尺の断崖の下でただ波の音がしているだけなのだからどうするわけにもいかないのだ。せめても巾四尺ほどの道から足を踏み外さないだけが一団の儲けもので、今は互に帯を後ろから持ち合ったままひょろひょろして先頭の傘のまにまについていくのであるが、坂を上ったり下ったりうねうねとした道なのでときどき雨がさっと逆さまに下から降って来て、思わず崖の縁へぺったり貼りつけられたように重なったり、伸びたり縮んだり衝きあたったりしながらも茫々と続いた断崖の上を揺れ続けていくのだから、そう食べ物の話ばかりに眼もくらんではいられないのである。そのうちに食べ物の話に夢中になっていた一団のものもいくら饒舌ったって一つも食べられないのに気がついたらしく、一人黙り二人黙り、やがてみんなが黙ってしまうと、ただ病人を背負って歩く足数をその後で数える女の声だけが波の音と風の音との断れ目から聞えて来るだけで、溜息も洩れなければ咳の声さえしなくなって、みな誰も彼も一様にこれはもう暫くたてばどんなになるのかと恐怖に迫られ出した沈黙が、手にとるようにはっきりと感じられて来た。そうこうしているうちにまた病人の出血が激しくなって、男達の脱いだ襦袢を崖の頂きで海に向って取り替えるやら背負う番を変えるやら、前のように気の毒がって激しく泣き出す病人の声と一緒にひと際一団のものが賑やかに立ち返ると、また食べ物の話が出る。そんなに食べ物の話をしては食べたくなるばかりだからやめてくれというものがあると、いやもうせめて食べ物の話でもしてくれなければ食べた気がしないというものがあり、水でも良いから飲めないものかといいながら傘から滴り落ちる雨の滴を舐め出したり、小さな松の木でもあると松の葉をむしって食べながら歩いたり、まるで餓鬼そのままの姿となってしまって笑うにも笑えない。私も私で着物はもう余すところなくびっしょり濡れたうえに咽喉がからからになって来て、雨が吹きつけて来ると却って傘から顔を脱して雨に向って口を開けたり松葉を噛んだりし続けた。それがまた八人の男が一巡病人を背負ってしまって私の番が廻ってくると、どんなに背中の上のものを女だと思おうとしたって、その空腹では歩く力だけでもやっとのことだ。息切れがして来ると眼の前がもうぼうっとかすんで来る。腕がしびれる。足がふらりふらりと中風のように泳ぎ出す。すると舌を噛んだり頭を前の傘持ちにぶっつけたりし続ける。後ろで女が九十近くまで数えて来る頃にはもう病人をそのままそこへどたりと
しかし、皆のもののへたばりそうにしているのはもういま現在のことなんだから、そんな考えを起したって無論何んにもなりはしないのだ。もう一団の者は油汗を顔ににじませて青黒く、眼はぎろりと坐り出し、なま欠伸がひっ続けて出始めると突如として奇声を発するものもあって、雨風に吹き折られるかのようにどっと突角った岩の上へ崩れかけたりすると、病人はまた捨てていってくれといって泣き上げる。女達は女達でもう髪から着物からびしょびしょで、幽霊みたいにべったりと濡れた髪を顔へひっつけさせたまま歩いているのだが、腰巻の色が下から着物へまで滲み出て来て、コンパクトや財布へまで水が溜ってぬらぬらして来ると、もうどっしりと却って落ちつき出して早く死ぬものなら一思いに死んでしまいたいと菊江がいう。じゃここから飛び込めばわけはないと八木がいうと、その一言の冗談がもうへとへとになっていた栗木の癇に触ったのであろう、人の苦しんでいるときに冗談をいうとは何事だと栗木は八木に詰めよった。すると、八木は八木でそんな思わぬことで詰めよられたんだからびくりとしたのか、逆に立ち直って、いくら菊江に冗談をいったからってそんなことで怒らなくとも良いだろう。菊江なんかはお前がいくら好いたってもう駄目でちゃんと高木と一緒になっているところを自分は見たのだとつい口を
そこでまた一行が高木や佐佐などと落ち合うと病人を背負い変えたり、出血の準備品の乾いた襦袢がもう全く誰からもなくなってしまっているので、今度は男達の腰巻をとって病人をきよめたりして穏かに歩いていった。どうも考えると面白いもので女達の不倫の結果がそんなにも激しい男達の争いをひき起したにも拘らず、しかしまたそれらの関係があんまり複雑ないろいろの形態をとって皆の判断を困らせるほどになると、却ってそれが静に均衡を保って来て自然に平和な単調さを形成していくということは、なかなか私にとっては興味ある恐るべきことであった。だが、間もなくするとこの静かな私達の一団の平和もそれは一層激しくみなのものに襲いかかって来た空腹のために、個性を抜き去られてしまった畜類の平静さに変って来た。全く私も同様にだんだん声も出なくなって腹部の皮が背中へひっついてしまっているかのように感じられると、口中からは唾がなくなって代りに胃液が上って来て、にがにがしくねっとりと渋り出すと眼の縁が熱っぽくなって来て、煙草の匂いのするなま欠伸がまたひとしきり出始める。一同のものも前の格闘の疲れが出て来たのであろう誰も何ともいわないで俯向いたまま雨の中をびしょびしょといくのであるが、そんなにありあり弱りが見えるともう一人静に泣き続けている病人だけが一番丈夫な人間のようにさえ思われ出して、いったいこのさきまだどこまでもと闇の中を続いていそうな断崖の上をどうして越えきることが出来るのかと、むしろ暗憺たる気持ちになって来た。そうなると私達の頭は最早や希望や光明のようなはるかに遠いところにあるもののことは考えないで、この二分さきの空腹がどんなになるであろうか。この一分さきがどうして持ちこたえられるのであろうかと、頭はただ直ぐ次に迫って来る時間のことばかりを考え続け、その考えられる時間はまた空腹そのことについてばかりとなって満ち、無限に拡がった闇の中を歩いているものは私ではなくして胃袋だけがひとりごそごそと歩いているような気持ちがされて、これはまったく時間とは私にとっては何の他物でもない胃袋そのものの量をいうのだとはっきりと感じられた。
私達は凡そそうして宵からもう四五里も歩き続けて来たであろうか。一団の男達は襦袢も腰巻もみな病人にやってしまってなくなった頃丁度崖の中腹の道より少し小高い所に一軒の小屋が見つかった。初めは先頭に立ったものがあれは岩だろうか小屋だろうかといっているうちにそれは廃屋同様の水車小屋だと分ったので、先ず皆は雨から暫くのがれるためにでもそこで少し休んでいこうではないかということになったのだが、中へ這入るともうそこには長い間人が近づいたことがないと見えていっぱいに張り廻された蜘蛛の巣が皆の顔にひっかかった。それでも雨露を凌げるほどの庭が二畳敷ほど黴臭い匂いを放っているのでそこへ十二人の者が塊まって蹲っていると、八木がここは水車小屋だからどこかに水があるにちがいない、水でも捜して飲もうといい出して小屋の周囲をうろうろ廻り出した。しかし、だいいち水を落すべき樋がぼろぼろに朽ちていて
私は皆の頭を暴力を振うように殴って廻って起きろ起きろと警告した。皆の者は殴られると暫くぼんやりして眼を開けてはいるがそのまままたふらふらと隣りの者へよりかかってしまう者や、急に死に迫っていた目前の自分の危機に気がついて眼をぱちぱちしながらびっくりしている者や、私に殴られて眠ったものを殴る権利を与えられていることを思ってはいきなり前の眠っているものを殴りつけ出す者などがあって、間もなく羽根の停った水車の傍では盛んな殴り合いが始められた。それでも眠りはほんの少しの静まった隙間から這い込んで来て意識を吸い取っていってしまうので、間断なく髪の毛をひっつかんで頭を引き摺り上げては頬っぺたを指の跡の残るほどひっぱたいたり、拳骨でそれこそ鉄拳を食わせるほど殴りつけたりしても、眠りを防害する動作がものの一二分も一致して休止すると、もう危く一同が死へ向って落ち込んでいくので、私も絶えず殴り続けているものの同時に十一人の動作を見詰めつづけている間にはふっとどうしたものやらまた私の意識も極りなき快楽の中へ溶け込んでいってうつらうつらと漂い出すのだ。快楽――まことに死の前の快楽ほど奥床しくも華かで玲瓏としているものはないであろう。まるで心は水々しい果汁を舐めるがように感極まってむせび出すのだから、われを忘れるなどという物優しいものではない。天空のように快活な気体の中で油然と入れ変り立ち変り現れる色彩の波はあれはいったい生と死の間の何物なのであろう。あれこそはまだ人々の誰もが見たこともない時間という恐るべき怪物の面貌ではないのであろうか。――しかし、私は私が死んでしまってなくなれば同時に誰も彼もの全世界の人間が私と一緒に消えてなくなってしまうのだと思うと愉快であった。ひとつみんなの人間を殺してやろうか、とふと思うこの死との戯れがときどき私を誘惑してひと思いに眠ってしまおうと思うに拘わらず、またいつの間にか私の前で皆が眠り出すと私は両手で所かまわず殴りつけているのである。人を死なすまいと努力すること――この有害なことが何故に人々にとって有益なのであろうか。私達は譬えいま死から逃れることが出来たにしたってこの次死ぬときにはこんなに巧妙に何の不安もなく楽々死ぬことなんかは最早や想像することが出来ないのだが、それでも矢っ張り私はもう一度皆を生かせてやりたいと思うと見えて、しきりに女達の鬢をもって引き摺ったり、殴ったり、片足で男達を蹴りつけたりし続けているのは、これをこそ愛というのであろうか、それともこれをこそ習性というのであろうか。首をさえ絞めつけて殺してやりたく思うほど皆のこれからの不幸な行くさきが分っているのに、それにまだ彼らの苦しみを増し与えて助けてやらねばならぬとは、これをこそ救いというのであろう――死ね死ねといいながら私はもう無茶苦茶になってあたかも年来攻め続けて来た不幸と闘うかのように人々の眠りの中を縦横に暴れ廻っていると、人々もだんだん眼が醒めて、まるで今迄の楽しみを奪った奴はこ奴かというようにぽかぽか一層激しく周囲の者を殴り出した。すると、もう人々もさすがにゆっくり眠っていることは出来なくなったと見えて、中には眠りながら手だけは殴る形をして動かしている者もあり、踏んだり蹴ったり殴ったり修羅場みたいに傍若無人になぐり合っているうちに、また一同は眠り出した。そうなると初めの間は蕾のように丸くなって塊っていたものでもだんだん形が崩れて来て、終いには足の間へ頭がいったり胴と胴とが食い違ったり、べたべたしたまま雑然として来始めて殴るにも誰のどこを殴っているのか分らなくなって来て、誰か一人でもこっそり殴られずにすんでいようものならもうそのものは死んでいるかもしれないのだから、出来るだけ大きな面積で暴れ廻って絶えず全部の者を撹乱し続けていなければならぬのだ。しかし、眠むけというものは暴れたものほど次には激しく襲われて沈められる恐れのあるもので、直ぐ暫くすると私も私が刺戟を与えて醒したものから頭を叩かれたり膝で横腹を蹴られたりして眼を醒す。醒す度にまた私は皆の身体の中でのたうち廻って沈んでしまう。そうして幾度となく私達は眠ったり醒ましたりし合っているうちに、私達の小屋の外でもそれに従って変化が着々と行われていたと見えて、いつの間にか雨もやみ、天井の崩れ落ちた壁の穴から月の光りがさし込んで蜘蛛の巣まではっきり浮き上っているのを発見した。私達は眠け醒しに戸外へ出ようとするとなかなか足が動かない。そこで腹這いになって戸外へ出ると、月の光りに打たれながら更めて山や海を眺めてみた。すると、私の傍にいた佐佐が物もいわずに私の袖をひっぱって
それでもう一同は助かったと同様であった。小屋の中の者は足が動かないのにかかわらず我れ勝ちにと腹這いになって崖の方へ降りて来ると、蜘蛛の巣をいっぱいつけた蒼然とした顔を月の中に晒しながら変る変る岩の間へ鼻を押しつけた。岩の匂いに満ちた清水が五百羅漢のような一同の咽喉から腹から足さきまで突き刺さるように滲み透って生気がはじめて動き出して来ると、私も皆と一緒に月に向ってこれこそ明瞭に生きていることだと感じるかのように歎声を洩してはまた岩の間へ口をつけた。しかし、私はふと皆が置き去りにして来た病人のことを思うともうひょっとするとひとり眠入ってしまって死んでいるのではないかと思われて、皆の者にどうかしていっぱいでも病人に水を飲ましてやる工夫はないかというと、そうだそうだ病人が何よりだということになってそれなら水を入れるには帽子が良いからという高木の発案でソフトに水を受けてみると、水は数歩ももじもじしている間にすっかり洩れてしまって何の役にも立ちはしない。それで今度は皆の帽子を五つ合して水を受けるとやっとどうやら洩れないだけは洩れなくなったが小屋まで持っていく迄には疑いなく無くなるのは決っているのだ。そんなら小屋まで一番早く帽子を運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではないかと佐佐がいい出すと、それは一番名案だということになっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に立ち停ると、私は最後に病人の所へ水を運ぶ番となって帽子の廻って来るのを待っていた。その間私は絶えず病人を揺り続けているのだが、もう彼女はさっきから殴り続けられた指跡を赤く皮膚に残したまま、私に揺られるがままに身体をぐたぐた崩して寝入ってしまってなかなか眼を醒しそうにもない。それで私は彼女の髪の毛を持ってぐさぐさ揺るとぼんやり眼を開けたは開けたが、それもただ開けたというだけで同じ所をじっと眼を据えて見ているだけである。そこへ丁度最初の帽子が殆ど水をなくして廻って来たので私は病人の口のなかへ僅に洩れる滴をちょろちょろと流し込んでやると、病人も初めてはっきり眼が醒めたと見え、私の膝に手をかけて小屋の中を見廻した。水だ水だ早く飲まぬとなくなるからといってはまた膝の上へ病人を伏せて次の帽子を待っている。すると、また帽子が廻って来る、また滴を落すという風に幾回も繰り返しているうちに、私には遠く清水の傍からつぎつぎに掛け声かけながらせっせと急な崖を攀じ登って来る疲れた羅漢達の月に照らされた姿が浮んで来ると、まるで月光の滴りでも落してやるかのように病人の口の中へその水の滴を落してやった。
底本:「定本 横光利一全集 第四巻」河出書房新社
1981(昭和56)年
入力:佐藤和人
校正:かとうかおり
1998年11月3日公開
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