与謝野晶子詩歌集

.

与謝野晶子詩歌集3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
露にさめてひとみもたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹 
 
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな 
 
 
 
 
 
 
 
  ノオトル・ダアム 
 
ああ巴里パリーの大寺院ノオトル・ダアムよ、 
年経しカテドラルの姿は 
いと厳かに、古けれど、 
その鐘楼の鐘こそは 
万代に腐らぬ金銅の質をちて、 
混沌の蔓の最先いやさきにわななく 
青き神秘の花として開き、 
チン、カン、チン、カンと鳴る音は 
爽かにめる、 
劇しき、力強き、 
併せて新しき匂ひを 
「時」の動脈に注しながら、 
「時」の血を火の如く逸ませ、 
洪水おほみづの如く跳らせ、 
常に朝の如く若返らせ、 
はた、休む間なく進ましむ。 
その響につれて 
塔の上よりくだる鳥の群あり、 
人は恐らく、そを 
森の梢より風に散る 
秋のの葉と見ん。 
我は馬車、自動車、オムニブスの込合ふサン・ミツセルの橋に立ちつつ、 
端なく我胸に砕け入る 
黄金きんの太陽の片と見てをののけり。 
その刹那、わが目に映る巴里パリーの明るさ、 
いな、全宇宙の明るさ。 
そは目眩めくるめく光明遍照の大海おほうみにして、 
微塵もまた玉の如く光りながら波打ち、 
我も人も 
皆輝く魚として泳ぎ行きぬ。 
 
 
 
 
 
 
 
  覇王樹と戦争 
 
シヤボテンの樹を眺むれば、 
芽が出ようとも思はれぬ 
意外な辺が裂け出して、 
そして不思議な葉の上へ 
新しい葉が伸びてゆく。 
 
ああ戦争も芽である、 
突発の芽である、 
古い人間を破る 
新しい人間の芽である。 
 
シヤボテンの樹を眺むれば、 
生血に餓ゑた怖ろしい 
はりの陣をば張つて居る。 
傷つけ合ふが樹の意志か、 
いいえ、あくまで生きる為。 
 
ああ今、欧洲の戦争で、 
白人の悲壮な血から 
自由と美の新芽が 
ずつとまた伸びようとして居る。 
 
それから、 
ここに日本人と戦つて居る、 
日本人の生む芽は何だ。 
ここに日本人も戦つて居る。 
 
 
 
 
 
 
 
  晩秋 
 
S《エス》の字がたの二人ふたり椅子いす、 
背中あはせのいやな椅子、 
これにあなたと掛けたなら、 
この気に入つた和蘭陀オランダが 
唯だの一夜ひとよで厭になろ、 
その思出もうとましい。 
ギヤルソン外にいい部屋は無いの。 
   (アムステルダムの一夜)