与謝野晶子詩歌集

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かづくきぬにそのとこの梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君 
 
 
 
 
 
 
 
  手の上の氷 
 
日の堪へ難く暑きまゝ 
しばらく筆をさし置きて、 
我れは氷のかたまりを 
載せて遊びぬ、手のひらに。 
 
貧しき家の我子等は 
未だ見ざりしその母の 
この戯れを怪しみて、 
我が前にしも集まりぬ。 
 
可愛ゆき子等よ、こは母が 
珍しきまゝする事ぞ、 
唯だ気紛れにする事ぞ、 
いはれも無くてする事ぞ。 
 
かゝる果敢なきすさびすら 
母が昔の家にては 
許されずして育ちにき、 
唯だ頑なに護られて。 
 
 
可愛ゆき子等よ、ねたくば 
いざ氷をば手に載せよ。 
さて年長けてのち思へ、 
母は自由を愛でにきと。 
 
 
 
 
 
 
 
  我は矛盾の女なり 
 
我れは矛盾の女なり、 
また恐らくは、魂に 
病を持てる女なり。 
我れを知らんとする人は 
先づ此事を知り給へ。 
 
祖国を二なく愛でながら、 
世界の人と生きんとし、 
濫婚国に住みながら、 
一つの恋を尊びぬ。 
我れは矛盾の女なり。 
 
また恐らくは、魂に 
病を持てる女なり。 
貧しき事を詫びながら、 
貴人に似たる歌を詠み、 
人の笑む日に泣くなれば。 
 
 
 
 
 
 
 
  母の文 
 
虫干の日に見出でしは 
早く世に亡き母の文、 
中風ちゆうぶの手もて書きたれば 
乱れて半ば読み難し。 
 
わが三度目の産月うみづきを 
案じ給へるなさけもて 
すべて満たせる文ぞとは 
薄墨ながらいとしるし。 
 
このおん文の着きし日に 
我れは産をば終りしが、 
二日の後に、俄にも 
母は世に亡くなり給ひ、 
 
産屋籠りの我がために 
悲しき事は秘められて、 
母なき身ぞと知りつるは 
一月ひとつき経たる後なりき。 
 
我れに賜へるこの文が 
最後の筆とならんとは、 
母みづからも知りまさぬ 
天の命運さだめの悲しさよ。 
 
あゝ、いましつる其世には、 
母を恨みし日もありき。 
いまさずなりて我れは知る、 
母の真実まことの御心を。 
 
否、母うへは永久とこしへに 
世に生きてこそいますなれ、 
遺したまへる幾人の 
子の胸にこそ在すなれ。 
 
いざ見そなはせ、此に我が 
思ふも母の心なり、 
述ぶるも母の言葉なり、 
歌ふも母の御声みこゑなり。