与謝野晶子詩歌集

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去年こぞゆきし姉の名よびて夕ぐれの戸に立つ人をあはれと思ひぬ 
 
十九つづのわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき 
 
ひと年をこの子のすがた絹に成らず画の筆すてて詩にかへし君 
 
白きちりぬ紅きくづれぬゆかの牡丹五ざんの僧の口おそろしき 
 
 
 
 
 
 
 
 
  旭光照波 
 
元日の夜明の 
伊豆の海のほとり、 
おほいなる浴室の此処彼処、 
うす闇の中に 
人々の白き人魚の肌。 
 
がらす戸の外には 
たわやかなる紺青の海。 
大空の色は翡翠の如く、 
その空と海の合へる涯には 
今起る、 
黄金きんと焔の雲の序曲。 
 
あはれ、神々しき 
初日の登場、 
燦爛たる火の鳥の舞。 
大海おほうみは酔ひて、 
波ことごとく 
恋する人のとなりぬ。 
 
 
 
 
 
 
 
  家 
 
崖に沿ひたる我が家は、 
その崖下を大貨車の 
過ぎゆく度に打震ふ。 
四とせ五とせ住みながら、 
慣れぬ心の悲しさに、 
また地震かと驚きぬ。 
船をば家とする人も 
かかる恐怖おびえを知らざらん、 
我れは家をば船とする。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
からりと晴れた 
夏の日に、 
季節ちがひの 
くわりん[#「くわりん」に傍点]のの香りが 
一すぢ、 
わたしの心のなかに、 
その果肉の甘さを以て 
ただよつてゐる。 
 
わたしの心は 
踊り疲れた女のやうに 
半眠つてゐる。 
さうして、半嗅いでゐる、 
そのくわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りを。 
 
こんな時が 
十分ほど続いて、 
ふと現実に還つたあとで、 
また、しばらく、 
わたしの重い頭が 
猶そのくわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りを 
目の前にあるやうに探してゐる。 
 
耳もとには 
貪欲な蚊が一つ二つ唸つてゐる。 
平凡な 
暑くるしい夕ぐれ。 
書きかけた原稿が 
机にわたしを待つてゐる。 
くわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りは 
わたしの感情と一緒に 
もうまた帰りさうにない。