与謝野晶子詩歌集

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おもはずや夢ねがはずや若人わかうどよもゆるくちびる君にうつらずや 
 
君さらば巫山ふざの春のひと夜妻よづままたの世までは忘れゐたまへ 
 
 
 
 
 
 
 
  西部利亜所見 
 
汽車は吼ゆ。 
されどシベリヤの 
雪と氷の原を行く汽車は 
胴体こそ巨大の象のやうなれ、 
この怪獣は石炭のを与へられず、 
薪のみを食らへば、 
吼ゆる声の力無く、 
のろのろと膝行ゐざりゆく。 
 
露西亜文字ろしあもじを読み得ざれば、 
今停まれるは何と云ふ駅か知らず。 
荒野あらのの中の小き停車場ステイシヨンに 
人の乗降のりおりも無く、 
落葉したる白楊の木 
其処此処に聳えて、 
灰色の低き空のもと 
五月の風猶雪を散らせり。 
 
汽笛の叫びに引かれて、 
男、女、子供、 
すべて靴を穿かぬ 
シベリヤの農民等は 
手に手に、おほいなる雁を、 
鶏を、牛乳を捧げて、 
汽車の窓に馳せ寄り、 
かしましく買へと云ひぬ。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
わたしの庭の高い木に 
秋が琴をば掛けにきた。 
翡翠をとし、銀線を 
いとにすげたる黄金きんの琴。 
風は勝れた弾手にて、 
人の心の奥にある 
弧独の夢をゆり起し、 
の葉と共に泣かしめる。