与謝野晶子詩歌集

.

 
 
 
 
 
 
 
歌に声のうつくしかりし旅人の行手の村の桃しろかれな 
 
朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君 
 
 
 
 
 
 
 
  衣通姫 
 
    (今井鑷子女の新舞踊のために作る。) 
今宵のこころ躍るかな、 
君来たまふや、来まさぬや、 
隔てて住めば藤原も、 
近江国にことならず。 
 
あやしく躍る心かな、 
何がつらきか、此世には、 
思ひあへども逢はぬこと、 
逢はれぬことにくぞ無き。 
 
心うれしく躍るなり、 
身に余りたる我が恋は 
君知らしめせ、忍びかね、 
きぬを通して光るとも。 
 
こころぞ躍る、この夕、 
君来たまはんしるしなり、 
蜘蛛は軒より一すぢの、 
長き糸こそ垂れにけれ。 
 
 
 
 
 
 
 
  森の新秋 
 
今日の森は涼し、 
わたり行く風の音 
はらはらと旗を振る。 
 
濃いお納戸なんどの空、 
上の山より斜めに 
遠き地平にまで晴れたり。 
 
まろく白き雲ひとつ 
帆の如くに浮び出で、 
その空も海に似る。 
 
森の木は皆高し、 
ぶな、黒樺、稀れに赤松、 
樹脂のの爽かさ。 
 
太陽は近き幹をすべり、 
我が凭る椅子の脚にも 
手を伸べてきんを塗る。 
 
かのぶな[#「ぶな」に傍点]の枝に巣あり、 
何の小鳥ぞ、胸は朱、 
鳴かずして二羽帰る。 
 
紅萩、みじかき茅、 
りんだうの紫の花、 
猶濡れたれば行かじ。 
 
我れは屋前の椅子に、 
読みさせる書をまた開く。 
秋は今日森に満つ。