あとの祭り 山之口貘

2019/01/06

あとの祭り
山之口貘
 
 

 この間の朝、裏の井戸端へ顔を洗いに行くと、近所の人に出会したので、「おはようごさいます。」と、ぼくは挨拶した。すると、その人は、にこにこ顔をして、「今朝は、お早いですね。」と言った。
 つまり、近所の人々も、寝坊のぼくのことを知っているわけなのである。ぼくにはわけがあって、この間から、人並の朝をむかえることにしたいものと、こころがけているのであるが、お早いですねと言われてみると、寝坊だった自分のことを、今更のように見せつけられた感じなのであった。
 実際、これまでのぼくには、朝というものがなかったもおんなじで、ぼくが、洗面器と手拭を持って井戸端へ出る頃は、すでに朝の過ぎ去ったあとなのであって、井戸の流しのコンクリートが、陽に照りつけられて乾いている時なのである。言わばぼくの生活には朝がなくて、その日その日が昼頃からはじまるみたいなのであった。それには、またそれだけの事情があったからなのである。しかし、その事情については、一々ここに述べてはいられないのであるが、一口に言ってしまえば、ぼくはふくろうみたいに夜になってから仕事をするからなのだ。このことが、ぼくの長年の習慣になっていて、女房こどもが出来てからというものは、いよいよ生活がうるさくなって来て、夜でなくては、原稿の仕事に手をつけることが出来なかったからなのである。
 ぼくのところは、娘のミミコと、女房にぼくという三人家族なのであるが、ぼくら三人は、どこに住んでいても、それぞれの部屋というものを持ったためしがなく、現在も、友人の家の一室で三人が暮しているのである。それで、ぼくの机の傍にはいつでも女房こどもがまつわりついているわけだ。ぼくの仕事と言えば、田をつくることとは、はなはだ縁のないみたいに言われているところの、詩をつくることなのであるが、ミミコと女房が、机の側でうごいていたり、おしゃべりをされたりしていたのでは、なかなか仕事がはかどらないので、ぼくはふたりが寝るのを待って仕事にかかるのである。それが、夜の九時頃なのだ。
「もう寝ろよ、仕事が出来ないじゃないか。」
 ぼくは時にそう言って女房こどもを、うながして寝かせることもたびたびなのである。そういうときには、きっと、ミミコが言うにきまっているのだ。
「ちょっと待っててよ。ここんとこまで読んだら、ミミコすぐねちゃうから。」
「宵っぱりしていると、又眼が赤くなって、ものもらいだよ。」
と、叱ると、ミミコはぴしゃりと本を閉じて寝てしまう。ものもらいは、ミミコ自身が、なんども眼に経験して来たもので、ものもらいの出来るたんびに、「宵っぱりして、本ばかり読んでいるからだ。」と、叱られたことを知っているからなのだ。
 こうして、家のもの二人が、寝しずまったころには、どうやら、ぼくのペンが原稿紙の上で働いているのである。そのうちに、夜なかの一時になり三時になり、あるいは、四時五時になることもしばしばであって、朝の気配の近づく頃は、そろそろぼくの寝支度というわけで、結局朝のない生活を、永い間繰り返して来たのである。
 ぼくには、むかしから、うなされる癖がある。それは、書きかけた仕事のあるときに多いようで、その仕事が、思うようにはかどらず、四苦八苦の揚句を、へとへとになって寝るときなどは、きっと、うなされるのである。それがいかにも、悶え苦しんでいるような様子なのだそうで、そんなとき、たびたび女房から、肩を小突かれてぼくは眼を覚ますのである。時には、「おとうさん、おとうさんってば。」と言いながら、ミミコが、ぼくのアゴや肩をゆすぶっていることもあるのだ。
 ある朝のこと、例によって、「おとうさん、おとうさんってば、おきなさいよ。」と、ミミコに、あごをゆすぶられて眼を覚ました。
「また、うなされたのかい?」と、ぼくはねとぼけて言った。すると、ミミコは、眼をまるくしてみせながら、ぼくの耳もとに口をもって来て言った。「どろぼうだって。」ぼくは起きあがると、「どこに?」と言った。
「うちにきまってるじゃありませんか。」と、横から女房がそう言った。ぼくは、昨夜は、三時すぎまで仕事をしていたのである。
「明け方やられたんだね。」
「さあ。」女房は、そう言ってから、「そっちの部屋らしいです。」と言った。その部屋は、ぼくらが寝るときの足もとに当り、廊下をへだてた障子張りの部屋なのだ。そこは家主さんが使っていて、箪笥や長持その他の物が置いてあった。親子三人は廊下に出てその部屋をのぞいたが、家主さん達が、泥棒に引掻き回されたあとを調べているところなのであった。
 女房の話によると、どしんと音がしたようであったが、いつものようにおとうさんがまたうなされて、足でもばたつかせたのかとおもい、そのまま寝入ってしまったとのことである。
「あのときの音が、きっとそうだったんでしょうね。」
 あとの祭りみたいなことを、女房は言ったのであるが、泥棒は、あるいは、ついどしんと降り立ったのかも知れなかった。窓際の畳の上には、そこに音でも立てたみたいな、大きな地下足袋の跡が、どしんと押されていたからなのである。
 
 
 

 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
   1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第三巻」思潮社
   1976(昭和51)年5月
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2018年6月27日作成
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