ドストエフスキーに就いて 片上伸

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ドストエフスキーに就いて
片上伸
 
 

 どんな人間でもその性格に皆多少の矛盾を有っている。そしてその矛盾のために多少とも苦しみ悩んでいる。そしてその矛盾の苦しみの烈しければ烈しいほどその求めている統一に達することの困難であるのは勿論だが、同時にその大いなる矛盾は大いなる統一を予想するものであるといえる。人の一生の幸不幸は、性格の矛盾の大小によってきまるわけではなくてその矛盾がどれだけ統一せられつつ進んで行ったかということによってきまる。また人の大小は、その矛盾の奥にそれを統一する人格の力がどれだけ力強く潜んでいたかによってきまる。トルストイのような人はこの意味で不幸な人であったとは言えるが、しかし彼は大きな人であった。あれだけの永い強い悩みに持ちこたえた力というものは、彼の一生のあらゆる事業や著述や、一切の表に現れたもの以外によって、彼の大きさを最もよく語っている。
 ドストエフスキーはその点では寧ろ幸福な人であった。彼の一生は随分不幸と災厄と貧困と疾病とのために苦しんだ一生であったとはいうものの、それ等は彼にとって本当の不幸とするに足らぬものであった。彼の疾病や貧苦やは、自分以外の事情から来たところもあったが、しかし殆ど凡て彼自身が自ら招いたものであったと言ってよい。大方彼自身の性格が自ら惹き起したところであると言ってよい。彼は随分不規律な放縦な惑溺の生活を送った人である。彼はその性格にどこか大きな底の知れないような欠陥を有っていた人である。彼の性格にはどこかに底の抜けたような空罅があって、一旦そこに触れると何もかも吸い込まれ巻き込まれてしまうようなところがあった。彼の一生の不幸困難というものも、多くはこの性格が招いたところである。
 しかし彼はその性格にこういう「底知れぬ」闇を有っていたとともに、それよりも深い強い光りを有っていた。彼はその自分の光りに頼って安心することの出来る人であった。その闇が深ければ深いほど、その光りは益※(二の字点、1-2-22)明かに光りを放った。彼の最も深い性格の根底は、その光りの中に在った。そしてこの光りは、彼の性格の暗黒を相手にして闘うに及ばぬ程に強い強いものであった。そこがドストエフスキーの強みである。彼の性格の欠陥は随分人並外れたものである。彼は随分いろんな意味で底抜けである。その為に随分苦しんだり困ったりしている。それでいて彼はその苦しみや、それを招いた自分の性格の欠陥を真向から相手取って闘つてはいない。彼には自分の性格の矛盾というようなことを問題にして心を苦しめているようなところがない。特別にその矛盾や欠陥をどうかしようとしたりしているところがない。少くともそういう様子が見えない。何だかそういう点では平気のようにも見える。トルストイの悩みに比べてみると尚更そういう感じがある。トルストイは随分気の毒な不幸な人であったとして考えられるが、ドストエフスキーはその点では非常に強みのある、幸福な人であったと思われる。自然が一切の矛盾を包んでしかも日光の中に生きているように、彼も亦その性格の強烈な日光によって、あらゆる欠陥や矛盾に深く傷けられる事なく生き得た人である。ドストエフスキーは実にどういう意味に於いても「猫のようなエナジー」を有った人であった。トルストイは不幸な人と言えるが、ドストエフスキーは不幸な人とは言えない。彼は寧ろ珍しく幸福な人だと言わねばならぬ。彼の性格の複雑深刻を一貫するシムプリシテイーの力を解する人ならば、必ず彼を幸福だということに同意するであろう。
 彼の矛盾は昼と夜との如く、東と西との如くであると、あるドイツの批評家は言っている。しかもその意味は、昼と夜とが相反対する性質を有っているに拘らず相闘うことなく循環する如くに、彼はその矛盾に拘らず人間の生活を信愛する点に於いて一つであったということでなくてはならぬ。彼は自分の性格に欠陥を有っているが故に欠陥ある人生に専ら共鳴を感じた。しかも彼はその欠陥ある人生を信愛する事が出来た故に、彼の人生の表現はただの上っらのリアリズムに止まらなかった。彼の作が与える特殊の魅力はその点から来ているのである。しかしここでは彼のリアリズムの特色に就いては言う余裕がないから省いて置く。
 
 
 

 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「片上伸全集 第3巻」日本図書センター
   1997(平成9)年3月25日復刻発行
底本の親本:「片上伸全集 第三巻」砂子屋書房
   1939(昭和14)年7月10日発行
入力:高柳典子
校正:岩沢秀紀
2012年7月1日作成
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