海潮音
上田敏
遙に此書を滿州なる森鴎外氏に獻ず
大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる
獅子舞歌
海潮音序
卷中收むる所の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亞に三人、英吉利に四人、獨逸に七人、プロヴァンスに一人、而して佛蘭西には十四人の多きに達し、曩の高踏派と今の象徴派とに屬する者其大部を占む。
高踏派の莊麗體を譯すに當りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉體を飜するに多少の變格を敢てしたるは、其各の原調に適合せしめむが爲なり。
詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意に非らず、これ或は山嶽と共に舊るきものならむ。然れども之を作詩の中心とし本義として故らに標榜する所あるは、蓋し二十年來の佛蘭西新詩を以て嚆矢とす。近代の佛詩は高踏派の名篇に於て發展の極に達し、彫心鏤骨の技巧實に燦爛の美を恣にす、今茲に一轉機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ヴェルレエヌの名家之に觀る所ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。譯者は今の日本詩壇に對て、專ら之に則れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる所か、譯者の同情は寧ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバネルの詩に注げり。然れども又徒らに晦澁と奇怪とを以て象徴派を攻むる者に同ぜず。幽婉奇聳の新聲、今人胸奧の絃に觸るゝにあらずや。坦々たる古道の盡くるあたり、荊棘路を塞ぎたる原野に對て、之が開拓を勤むる勇猛の徒を貶す者は怯に非らずむば惰なり。
譯者甞て十年の昔、白耳義文學を紹介し、稍後れて、佛蘭西詩壇の新聲、特にヴェルレエヌ、ヴェルハアレン、ロオデンバッハ、マラルメの事を説きし時、如上文人の作なほ未だ西歐の評壇に於ても今日の聲譽を博する事能はざりしが、爾來世運の轉移と共に清新の詩文を解する者、漸く數を増し勢を加へ、マアテルリンクの如きは、全歐思想界の一方に覇を稱するに至れり。人心觀想の默移實に驚くべき哉。近體新聲の耳目に嫺はざるを以て、倉皇視聽を掩はむとする人々よ、詩天の星の宿は徙りぬ、心せよ。
日本詩壇に於ける象徴詩の傳來、日なほ淺く、作未だ多からざるに當て、既に早く評壇の一隅に囁々の語を爲す者ありと聞く。象徴派の詩人を目して徒らに神經の鋭きに傲る者なりと非議する評家よ、卿等の神經こそ寧ろ過敏の徴候を呈したらずや。未だ新聲の美を味ひ功を收めざるに先ちて、早く其弊竇に戰慄するものは誰ぞ。
歐洲の評壇亦今に保守の論を唱ふる者無きにあらず。佛蘭西のブリュンチエル等の如きこれなり。譯者は藝術に對する態度と趣味とに於て、此偏想家と頗る説を異にしたれば、其云ふ所に一々首肯する能はざれど、佛蘭西詩壇一部の極端派を制馭する消極の評論としては、稍耳を傾く可きもの無しとせざるなり。而してヤスナヤ・ポリヤナの老伯が近代文明呪詛の聲として、其一端をかの「藝術論」に露はしたるに至りては、全く贊同の意を呈する能はざるなり。トルストイ伯の人格は譯者の欽仰措かざる者なりと雖、其人生觀に就ては、根本に於て既に譯者と見を異にす。抑も伯が藝術論はかの世界觀の一片に過ぎず。近代新聲の評隲に就て、非常なる見解の相違ある素より怪む可きにあらず。日本の評家等が僅に「藝術論」の一部を抽讀して、象徴派の貶斥に一大聲援を得たる如き心地あるは、毫も清新體の詩人に打撃を與ふる能はざるのみか、却て老伯の議論を誤解したる者なりと謂ふ可し。人生觀の根本問題に於て、伯と説を異にしながら、其論理上必須の結果たる藝術觀のみに就て贊意を表さむと試むるも難い哉。
象徴の用は、之が助を藉りて詩人の觀想に類似したる一の心状を讀者に與ふるに在りて、必らずしも同一の概念を傳へむと勉むるに非ず。されば靜に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に應じて、詩人も未だ説き及ぼさゞる言語道斷の妙趣を翫賞し得可し。故に一篇の詩に對する解釋は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす。例へば本書九〇頁「鷺の歌」を誦するに當て讀者は種々の解釋を試むべき自由を有す。此詩を廣く人生に擬して解せむか、曰く、凡俗の大衆は眼低し。
譯述の法に就ては譯者自ら語るを好まず。只譯詩の覺悟に關して、ロセッティが伊太利古詩飜譯の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自國詩文の技巧の爲め、清新の趣味を犧牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必らずしも忠實譯にあらず。されば「東行西行雲眇々。二月三月日遲々」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱が二條の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の樓に上る」と詠じたる例に從ひたる所多し。
明治三十八年初秋
上田敏
ガブリエレ・ダンヌンチオ
燕の歌
海のあなたの靜けき國の
春のはつ花、にほひを
あゝ、よろこびのつばくらめ。
黒と白との
春の心の舞姿。
彌生來にけり、
風もろともに、けふ去りぬ。
春の川瀬をかちわたり、
しなだるゝ枝の森わけて、
舞ひつ、歌ひつ、
戀慕の人ぞむれ遊ぶ。
岡に摘む花、菫ぐさ、
草は香りぬ、君ゆゑに、
素足の「春」の君ゆゑに。
けふは野山も
わだつみの波は輝く
あれ、
あれ、なか
つれなき風は吹きすぎて、
あゝ、
「春」のひくおと、「春」の手の。
あゝ、よろこびの
黒と白との
舞の足どり教へよと、
しばし招がむ、つばくらめ。
たぐひもあらぬ
イソルダ姫の物語、
飾り
しばしはあれよ、つばくらめ。
かづけの花環こゝにあり、
ひとやにはあらぬ花籠を
給ふあえかの姫君は、
フランチェスカの前ならで、
まことは「春」のめがみ
われはきく、よもすがら、わが胸の
吾は聽く、夜の
常にかつ近み、かつ遠み、
夜もすがら、君眠る時、君眠る時、われひとりして。
.
ルコント・ドゥ・リイル
「夏」の
野末遙けき森陰は、裾の
唯熟したる麥の田は
かぎりも波の
畏れ
また、
覺めたる波の
起きてまた伏す行末は
程遠からぬ青草の
人よ、爾の心中を、喜怒哀樂に亂されて、
のがれよ、こゝに
ものみな、こゝに命無く、
されど
來れ、此地の
親み難き
かくての後は、
物の
大饑餓
無邊の
憂愁の國、
大光明の
うつらうつらの夢枕、煩惱界の
こゝに通はぬその夢の限も知らず大いなる。
かゝりし程に、
飢にや狂ふ、おどろしき
あふさきるさの
唯、ひとすぢに、
常の心は、
影暗うして水重き潮の底の
曇れる
こゝ
生きたる物も、死したるも、
行きね
心安かれ、
又さはいへど、
かげ
それ人間も、
見よ、死の神の前にして、二つながらに罪ぞ無き。
象
沙漠は
不動のうねり、
人住むあたり
命も音も絶えて無し。
百里の遠き
また
大日輪の
たまたま見たり、
とぐろの綱を動せば、
うまれの里の野を捨てゝ、
地平のあたり、一團の
みれば
ゆくてのさきの
「時」が噛みてし刻みてし、
巨巖の如き
何の苦も無く
塵にまみれし
雲突く
耳は扇とかざしたり、鼻は象牙に
息のほてりや、汗のほけ、烟となつて
幾千萬の昆蟲が、うなりて
かの
また忍ぶかな、
巨大の
あるは
水かふ岸の
かゝる勇猛沈勇の心をきめて、さすかたや、
ルコント・ドゥ・リイルの出づるや、哲學に基ける厭世觀は佛蘭西の詩文に致死の
*
讀者の眼頭に彷彿として展開するものは、豪壯悲慘なる北歐思想、明暢清朗なる希臘田野の夢、または銀光の朧々たること、其聖十字架を思はしむる基督教法の冥想、特に印度大幻夢涅槃の妙説なりけり。
*
黒檀の森茂げき此世の涯の老國より來て、彼は長久の座を吾等の傍に占めつ、教へて曰く、「寂滅爲樂」。
*
幾度と無く繰返したる大智識の教話によりて、悲哀は分類結晶して、頗る靜寧の姿を得たるも、なほ、をりふしは憤怒の激發に迅雷の轟然たるを聞く。是に於てか電火ひらめき、萬雷はためき、人類に對する痛罵、宛も藥綫の爆發する如く、所謂「不感無覺」の墻壁を破り了ぬ。
*
自家の理論を詩文に發表して、シォペンハウエルの辨證したる佛法の教理を開陳したるは、此詩人の特色ならむ。儕輩の詩人皆多少憂愁の思想を具へたれど、厭世觀の理義彼に於ける如く整然たるは
エミイル・ヴェルハアレン
.
ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ
珊瑚礁
波の底にも照る日影、
照しの光、
ぬれにぞぬれし
輝きにほふ蟲のから、命にみつる
濡髮長き
薄色ねびしみどり石、
枝より枝を横ざまに、何を
忽ち
藍を
床
さゝらがた錦を張るも、
悲しさは
人生れ、人いの眠り、つま戀ふる、凡べてこゝなり、
をさな
皆こゝに物は始まり、皆こゝに事は終らむ、
みおやらの生れし床に、みおやらの
物古りし親のゆづりの
出征
身こそたゆまね、憂愁に思は
モゲルがた、パロスの港、船出して、
チパンゴに在りと傳ふる
船の帆も
西の世界の不思議なる
ゆふべゆふべは壯大の
しらぬ火や、
こがね
白妙の帆船の
.
シュリ・プリュドン
夢
夢のうちに、
けふよりは、なを養はじ、土を
かくて
この
いと深き
ほのぼのとあけゆく光、疑ひて
雄々しかる田つくり男、
はたものの
世の
誰かまた思ひあがりて、
其日より吾はなべての世の人を愛しそめけり。
.
シャルル・ボドレエル
波路遙けき
八重の潮路の
たゞ
この
あはれ、眞白き
今は身の仇、
しどろの足を
雲居の君のこのさまよ、世の
太しき
時こそ今は
花は薫じて追風に、不斷の
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる
花は薫じて追風に、不斷の香の爐に似たり。
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる
闇の
日や落入りて溺るゝは、
闇の
光の過去のあとかたを
日や落入りて溺るゝは、
君が名殘のたゞ在るは、ひかり輝く
燃えあがり、燃え盡きにたる柴の火に耳傾けて、
夜霧だつ闇夜の空の寺の鐘、きゝつゝあれば、
陣營の歩哨にたてる老兵の姿に似たり。
そも、われは心破れぬ。鬱憂のすさびごゝちに、
覺束な、
哀れなる
小山なす
棄てられし
人と海
こゝろ
海こそ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、
水や
底ひも知らぬ
さればぞ
心もともに、はためきて、
寄せてはかへす波の
海も
人よ、
海よ、
かくも
かくて
慈悲悔恨の
げにも非命と
噫、永遠のすまうどよ、噫、
梟
並んでとまる
昔の神をいきうつし、
なにを思ひに暮がたの
傾く
鳥のふりみて達人は
道の悟や開くらむ、
世に
現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の發展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を變じて欝悶と改めしのみと、而も再考して終に其全く變質したるを
*
先人の多くは、惱心地定かならぬまゝに、自然に對する心中の愁訴を、自然其物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃ち巴里叫喊地獄の詩人として胸奧の悲を述べ、人に叛き世に抗する數奇の放浪兒が爲に、大聲を假したり。其心、夜に似て暗憺、いひしらず、汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐悔恨の凄光を放つが如きもの無きにしもあらず。エミイル・ヴェルハアレン
ボドレエル氏よ、君は藝術の天にたぐひなき凄慘の光を與へぬ。即ち未だ曾て無き一の戰慄を創成したり。ヴィクトル・ユウゴオ
ポオル・ヴェルレエヌ
主は
今の世にありて、われを信徒となし給ひぬ。
願はくは吾に與へよ、力と沈勇とを。
いつまでも永く
何の苦もなくて、
羊毛のほかに、その
惜まずして、主に奉る如くわれもなさむ。
また魚とならば、
驢馬ともなりては、主を乘せまつりし昔思ひ、
はた、わが肉より
げに末つ世の反抗表裏の日にありては
人間よりも、畜生の身ぞ信深くて
よくみるゆめ
常によく見る夢乍ら、
曾ても知らぬ
夢見る度のいつもいつも、同じと見れば、異りて、
また
わが心根を悟りてしかの
蒼ざめ顏のわが額、しとゞの汗を拭ひ去り、
涼しくなさむ
栗色髮のひとなるか、
名をだに
うつせみの世を
つくづく見入る
澄みて、離れて、落居たる
秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
佛蘭西の詩はユウゴオに繪畫の色を帶び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ヴェルレエヌに至りて音樂の聲を傳へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。譯者
.
ヴィクトル・ユウゴオ
良心
髮おどろ色蒼ざめて、降る雨を、
エホバよりカインは
夕闇の落つるがまゝに
妻は倦み兒等も疲れて
「
烏羽玉の
廣大の
物陰の奧より、ひしと、みいりたるに、
わなゝきて「未だ近し」と叫びつつ、
倦みし妻、眠れる兒等を促して、
もくねんと、ゆくへも知らに
かゝなべて、日には
色變へて、風の音にもをのゝきぬ。
やらはれの、
眠なく
後の世のアシュルの國、海のほとり、
とゞまらむ。この世のはてに今ぞ
いざ」と、いへば、陰雲暗きめぢのあなた、
いつも、いつも、
おそれみに身も世もあらず、
「隱せよ」と叫ぶ
猛き親を口に指あて眺めたり。
沙漠の地、毛織の幕に住居する
後の世のうからのみおやヤバルにぞ
「このむたに幕ひろげよ」と命ずれば、
ひるがへる布の高壁めぐらして
鉛もて地に固むるに、金髮の
孫むすめ曙のチラは語りぬ。
「かくすれば、はや何も見給ふまじ」と。
「否なほも
ゆきめぐる
「おのれ今固き守や設けむ」と。
そがなかに隱しぬれども、
「いつも、いつも
「恐しき塔をめぐらし、近よりの
難きやうにすべし。
その
鍛冶の
宏大の
野邊かけて
旅人の
石にくみ、
塔影は野を暗うして、その壁ぞ
山のごと厚くなりける。工成りて
戸を固め、壁建終り、
刻める文字を眺むれば「このうちに
神はゆめ入る可からず」と、ゑりにたり。
さて親は
憂愁のやつれ姿ぞいぢらしき。
「おほぢ君、眼は消えしや」と、チラの問へば、
「否、そこに今もなほ在り」と、カインいふ。
「
地の下にわれは
われを見じ、
さてこゝに
たゞひとり
物陰の座にうちかくる、ひたおもて、
ユウゴオの趣味は典雅ならず、性情奔放にして狂ひょう激浪の如くなれど、温藉靜冽の氣自から其詩を貫きたり。對聯比照に富み、光彩陸離たる形容の文辭を疊用して、燦爛たる一家の詩風を作りぬ。譯者
.
フランソア・コペエ
禮拜
さても千八百九年、サラゴサの
われ時に軍曹なりき。此日慘憺を極む。
閉ぢたる戸毎に不順の色見え、
鐵火、窓より降りしきれば、
「憎つくき僧徒の振舞」と
かたみに低く
眼は硝煙に血走りて、
舌には苦がき
噛み切る口の黒くとも、
奮鬪の氣はいや益しに、
狹き
とざま、かうざま顧みがち、
われ軍曹の
精兵從へ推しゆく折りしも、
虐殺せらるゝ婦女の聲、
遙かには轟々の音とよもして、
出でくる時は銃劍の
鮮血淋漓たる兵が、
壁に十字を書置くは、
敵潛めるを示すなり。
鼓うたせず、足重く、
將校たちは色曇り、
さすが、
落居ぬけはひに、寄添ひて、
新兵もどきの胸さわぎ。
忽ち、とある
援兵と呼ぶ佛語の一聲、
それ、戰友の危急ぞと、
驅けつけ見れば、きたなしや、
たゞ僧兵の二十人、
眞白の十字胸につけ、
靴無き足の凜々しさよ、
血染の
大十字架にて、うちかゝる。
慘絶、壯絶。それと一齊射撃にて、
やがては掃蕩したりしが、
冷然として、殘忍に、軍は倦みたり。
皆心中に
とかくに殺戮したれども、
密雲漸く散ずれば、
積みかさなれる屍より
そのうしろ樓門聳ゆ、巍然として鬱たり。
燈明くらがりに
香爐かぐはしく、靜寂の
殿上、奧深く、神壇に
噫けふもなほ
モオル廻廊の古院、
黒衣僧兵のかばね、
天日、石だゝみを照らして、
紅流に
立つや老僧。
唖然としてすくみしわれらのうつけ姿。
げにや當年の己は
空恐ろしくも信心無く、
負けじ心の意氣張づよく
神壇近き
煙草つけたる
一歩も讓らぬ氣象のわれも、
たゞ此僧の髮白く白く
神寂びたるに畏みぬ。
「打て」と士官は號令す。
僧は確に聞きたらむも、
さあらぬ
ミサ
衆皆一歩たじろきぬ。
僧はすこしもふるへずに
信徒の前に立てるやう、
「歸命頂禮」の歌、常に異らず、
聲もほがらに、
「全能の神、爾等を憐み給ふ。」
またもや、一聲あらゝかに
「うて」と士官の號令に
進みいでたる一卒は
老僧、色は
沈勇の
祈りつゞけぬ、
「父と子と。」
續いて更に一發は、
狂氣のさたか、
とかくに
僧は
明いたる手にて祝福し、
げきたる堂上とほりよく、
「聖靈と。」
かくて
事に慣れたる老兵も、
胸に
足に兵器を投げ棄てて
われとも知らず膝つきぬ、
醜行のまのあたり、
殉教僧のまのあたり。
うしろに笑ふ、わが隊の鼓手。
.
ヰルヘルム・アレント
わすれなぐさ
ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく
カアル・ブッセ
山のあなた
山のあなたの空遠く
「
噫、われひとゝ
涙さしぐみかへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「
パウル・バルシュ
春
森は今、花さきみだれ
神よ、
あまりに
やがてぞ花は散りしぼみ、
神よ
あまりにつらき
.
オイゲン・クロアサン
秋
けふつくづくと眺むれば、
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲める。
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。
ヘリベルタ・フォン・ポシンゲル
わかれ
ふたりを「
晝は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。
されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。
テオドル・ストルム
水無月
子守歌風に浮びて、
暖かに日は照りわたり、
田の麥は
茨には紅き果熟し、
いかにおもふ、わかきをみなよ。
ハインリッヒ・ハイネ
花のをとめ
つくづくみれば、そゞろ、あはれ、
かしらや撫でゝ、花の身の
いつまでも、かくは清らなれと、
いつまでも、かくは
いのらまし、花のわがめぐしご。
ルビンスタインのめでたき樂譜に合せて、ハイネの名歌を譯したり。原の意を汲みて餘さじと、つとめ、はた又、句讀停音すべて樂譜の示すところに從ひぬ。譯者
.
ロバアト・ブラウニング
おもわに
すゑの近さも。
敵の
それ、旅は果て、峯は盡きて、
唯、すゑの
なほひと
なまじひに
否、
いにしへの
そも勇者には、
ほそりゆき、
そのとき
あはれ、心の心とや、
そのほかは神のまにまに。
出現
苔むしろ、飢ゑたる岸も
春來れば、
つと走る光、そらいろ、
菫咲く。
こゝかしこ、
やれやれて影はさやけし、
ひとつ星。
うつし世の命を
めぐらせど、
こぼれいづる神のゑまひか、
君がおも。
岩陰に
一
嗚呼、
さて
二
この教こそ
愛を捧げて
愛は
なれ自らを地に捧げ、
春の朝
時は春、
日は
神、そらに
すべて世は事も
至上善
蜜蜂の
寶玉の底に光れる
をとめごの清きくちづけ。
ブラウニングの樂天説は、既に二十歳の作「ポオリイン」に顯れ、「ピパ」の歌、「神、そらにしろしめす、すべて世は事も無し」といふ句に綜合せられたれど、一生の述作皆人間終極の幸福を豫言する點に於て一致し「アソランドオ」絶筆の結句に至るまで、彼は有神論、靈魂不滅説に信を失はざりき。此詩人の宗教は基督教を元としたる「愛」の信仰にして、尋常宗門の繩墨を脱し、教外の諸法に對しては極めて宏量なる態度を持せり。神を信じ、其愛と其力とを信じ、之を信仰の基として、人間恩愛の神聖を認め、精進の理想を妄なりとせず、藝術科學の大法を疑はず、又人心に善惡の奮鬪爭鬩あるを、却て進歩の動機なりと思惟せり。而してあらゆる宗教の教義には重を措かず、たゞ基督の出現を以て説明すべからざる一の神祕となせるのみ。曰く、宗教にして、若し、萬世不易の形を取り、萬人の爲め、豫め、劃然として具へられたらむには、精神界の進歩は直に止りて、厭ふべき凝滯はやがて來らむ。人間の信仰は定かならぬこそをかしけれ、教法に完了といふ義ある可からずと。されば信教の自由を説きて、寛容の精神を述べたるもの、「聖十字架祭」の如きあり。殊に晩年に莅みて、教法の形式、制限を脱却すること益著るく、全人類に亘れる博愛同情の精神愈盛なりしかど、一生の確信は終始毫も渝ること無かりき。人心の憧がれ向ふ高大の理想は神の愛なりといふ中心思想を基として、幾多の傑作あり。「クレオン」には、藝術美に倦みたる希臘詩人の永生に對する熱望の悲音を聞くべく、「ソオル」には、事業の永續に不老不死の影ばかりなるを喜ぶ事の果敢なき夢なるを説きて、更に個人の不滅を斷言す。「亞剌比亞の醫師カアシッシュの不思議なる醫術上の經驗」といふ尺牘體には、基督教の原始に遡りて、意外の側面に信仰の光明を窺ひ、「沙漠の臨終」には神の權化を目撃せし聖約翰の遺言を耳にし得べし。然れども是等の信仰は、盲目なる狂熱の獨斷にあらず、皆冷靜の理路を辿り、若しくは、精練、微を穿てる懷疑の坩堝を經たるものにして「監督ブルウグラムの護法論」「フェリシュタアの念想」等之を證す。之を綜ぶるに、ブラウニングの信仰は、精神の難關を凌ぎ、疑惑を排除して、光明の世界に達したるものにして永年の大信は世を終るまで動かざりき。「ラ、セイジヤス」の秀什、この想を述べて餘あり、又、千八百六十四年の詩集に收めたる「瞻望」の歌と、千八百八十九年の詩集「アソランドオ」の絶筆とは此詩人が宗教觀の根本思想を包含す。
譯者
.
ヰリアム・シェイクスピヤ
花くらべ
燕も
風にもめげぬ
またはジュノウのまぶたより、
ヴィイナス
なほ
菫の色のおぼつかな。
照る日の神も仰ぎえで
これも
それにひきかへ
百合もいろいろあるなかに、
あゝ、今は無し、しよんがいな。
クリスティナ・ロセッティ
花の教
心をとめて窺へば
「
「せめては
そばめられたる身なれども、
盛りさゝげたる盃ぞ。」
この時、百合は追風に、
「見よ、人、われは言葉なく
法を説くなり。」
みづからなせる葉陰より、
聲もかすかに
「人はあだなる
われらの示す
.
ダンテ・ゲブリエル・ロセッティ
小曲
小曲は刹那をとむる
過ぎにしも過ぎせぬ過ぎしひと時に、
捧げたる
「
照りわたるきらびの
小曲は
うらがねをいづれの力しろすとも。あるは「
威力あるもとめの
「戀」の
「死」に
戀の玉座
心のよしと
「
「
また
「
「
夢も通はぬ
設けられたり。たとへそれ、「
そがためによく、「
春の貢
草うるはしき岸の
われは
うら若草のはつ花も、はな
みぐしの
けふのこの日や「春」の足、
葉もなき花の
「春」住む庭の
されど卯月の日の光、けふぞ谷間に照りわたる。
仰ぎて
温かき
契もかたきみやづかへ、戀の日なれや。冷かに
つめたき人は
.
ダンテ・アリギエリ
心も空に
心も空に奪はれて物のあはれをしる人よ、
今わが述ぶる言の葉の君の
心に思ひ給ふこと
さても星影きらゝかに、更け行く
ほとほと過ぎし折しもあれ、忽ち
「愛」の
おしはかるだに、その
あえかの君の
やをら
さゝげ進むれば、かの君も
「愛」は
.
エミイル・ヴェルハアレン
鷺の歌
ほのぐらき
靜かなる
水の
羽ばたきの
清らなる網をうてども、
おとなひをゆめだにしらず。
また知らず日に
欝憂の網に待つもの
ボドレエルにほのめき、ヴェルレエヌに現はれたる詩風はこゝに至りて、終に象徴詩の新體を成したり。此「鷺の歌」以下、「嗟嘆」に至るまでの詩は多少皆象徴詩の風格を具ふ。
譯者
夕日の國は野も山も、その「
物の
見よ、
今こそ時は
日の
めぢの
路に沿ひたる樫の
夕暮がたの悲を心に痛み歩むごと、
また
眠れる如くうつろひて、
たとしへもなく靜かなる
進み近づく夕づとめ、ゆくてを照らす星辰は
壇に捧ぐる
火こそみえけれ、
水かひば
ほらあなめきし
夢も曇るか、こもり
腹しめすまで
まだら牡牛の水かひ
坂くだりゆく
牛は
時しもあれや、
日のかぐろひの
色も、にほひも、日のかげも、
梢のしづく、
夕闇とざす
牛のうめきや、斷末魔。
牧羊の
物憂き
きし
かぎりもなき、わが憂愁の
ゆく水のながれ薄荷莢※《《めぐさがまずみ》》におほはれ、
いざよひの波も重きか、
肩に赤十字ある
色もの凄き羊群も
今、わが
この
火宅
嗚呼、
石は叫び
驕慢の
虚空は震ひ、勞役のたぎち沸くを、
好むや、
あはれ
悲みて夢うつら
つゝむ火焔の帶の
なが胸を
この
滿身すべて
意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。
廊下のあなた、かたことと、かせ
「
これや
人の
これや
うち沈みたるねび聲に
これや
「
これぞ
げに
あるは、
.
ジォルジュ・ロオデンバッハ
夕暮がたの
かはたれ
まづ天井の
物靜かなる死の如く、
曇れる鏡よく見れば、
わが
影薄れゆき、
壁に
人の記憶の
筆にゑがける風景の黒き雪かと降り積る。
夕暮がたの
沈める
いと徐ろに日の
.
アンリ・ドゥ・レニエ
夕まぐれ、森の
夕まぐれ、風のもなかの
杖と
今更ながら、行きてむか。
ゆふべゆふべの旅枕、
水こえ、山こえ、夢こえて、
つひのやどりはいづかたぞ。
そは
わがまなこ、閉ぢ給ふ國、
岩角に
きり石に
歩む
きしかたの
噫、われ倦みぬ。
道行く人は
ぬかりみ迷ひ、群れゆけど、
かたみに避けて、よそみがち。
しろがねの、
たそがれに、この道のはてに
げにこゝは「
鬼が
梢より梢にわたり、
おのづから曲れる路は
人さらになぞへを知らず、
このさきの都のまちは
まれびとを迎ふときゝぬ。
いざ足をそこに止めむか。
あなくやし、われはえゆかじ。
他の
「
わが「
日のかたや、都のかたや、水のかた、
なべてゆかじな。
噫、小路、
血やにじむわが足のおと、
死したりと思ひしそれも、
あはれなり、もどり來たるか、
噫、小路、
あだなりしわが
あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し、
あな、あはれ、あすゆゑに、
あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し。
愛の教
いづれは「
をさな心も
今はた過ぎしけふの日や、
「
「秋」に響かふ「
(
物のあはれも、さいはひも。)
あゝ、聞け、
「
なが「憂愁」と「歡樂」と
語らふ聲の
(
つはりて枝や
あはれ、
けふ
口ふれあひて、
森蔭はまだ
夕まぐれ、空より落ちて、
笛の
「夏」の歌「秋」を
曙の美しからば、
その晝は晴れわたるべく、
心だに優しくあらば、
身の夜も樂しかるらむ。
ほゝゑみは口のさうび花、
もつれ
あゝ人よ、「愛」を命の
星や照らさむ、なが足を、
いづれは「
花冠
途のつかれに
あらはれ浮ぶわが「
命の朝のかしまだち、
今、たそがれのおとろへを
透しみすれば、わなゝきて、
思ひかねつゝ、またみるに、
避けて、よそみて、うなだるゝ、
あら、なつかしのわが「想」。
げにこそ思へ、「時」の山、
山越えいでゝ、さすかたや、
「命」の里に、もとほりし
なが足音もきのふかな。
さて、いかにせし、盃に
水やみちたる。としごろの
あな
とこしへの
いと
ゆびさせる其足もとに、
つぎなる
こはすさまじき姿かな。
そのかみの
みだれ
蹈む足も醉ひさまだれぬ。
あな
さて、また
みれば
毒ながすなるくち
また「驕慢」に
なが
えび
又、なにものぞ、ほてりたる
もろ手ひろげて「
らうがはしくも走りしは。
唇を噛み破られて、
われを
あはれ、耻かし、このみざま、
なれみづからをいかにする。
しかはあれども、そがなかに、
きぬもけがれと、はだか身に、
出でゆきしより、けふまでも、
あだし「
・・・あゝ
なれは、ゐよりて、
うけつ、あたへつ、とりかはし
飾るや、
ホセ・マリヤ・デ・エレディヤは金工の如くアンリ・ドゥ・レニエは織人の如し。また、譬喩を珠玉に求めむか、彼には青玉黄玉の光輝あり、此には乳光柔き蛋白石の影を浮べ、色に曇るを見る可し。譯者
.
フランシス・ヴィエレ・グリフィン
延びあくびせよ
・・・
その
ねむり眼のうまし「命」や。
起きいでよ、呼ばゝりて、過ぎ行く夢は
今にして
ゆく末に
呼ばゝりて過ぎ行く夢は
去りぬ
いでたちの旅路の
愛の一念ましぐらに、
急げ、とく行け、
呼ばゝりて、過ぎ行く夢は、
夢は、また歸り來なくに。
進めよ、
畏をなすか、
あな、急げ・・・あゝ遲れたり。
はしけやし「命」は愛に
・・・
いましめもあだなりけりな。
ゆきずりに、夢は嘲る・・・
さるからに、
むしろ「命」に口觸れて
これに
教をきかで、
たちかへり、色よき「命」かき抱き、
なれが刹那を
死の憂愁に歡樂に
なが
はた、さゞめかむ、はた、なかむ、
うれしの森に、春風や
若緑、
さればぞ歌へ
アルベエル・サマン
伴奏
夏の
楫の
夢をゆくわが船のあし。
船のあし、空をもゆくか、
かたちなき水にうかびて。
ならべたるふたつの
「
水の
波の
わが胸に
.
ジァン・モレアス
色に
そよそよ風の
つれなき北の木枯に、河氷るべきながめかな。
噫、歡樂よ、今さらに、なじかは、せめて爭はむ。
知らずや、かゝる
ゆゑだもなくて、徒に
「悲哀」の
*
ゆめ、な語りそ、人の世は
そは愚かしきあだ心、はたや卑しき
ことに歎くな、
*
死者のみ、ひとり吾に聽く、
世の
亡恩に
ゆめ、
あはれ
たゞ、詩の神のくごの上、指をふるれば、わが
*
長雨空の
水のおもてに、
照り添ふ匂なつかしき秋の
日よ何の意ぞ、
はた
水や曇れ、空も
*
われは夢む、
わだつみの
また
又思ふ、路の
斧の
げに思ひいづ、
*
この一切の
もの恐ろしく汚れたる都の憂あとにして、
終に分け入る森陰の
光も澄める
幼年の日を養ひし
ほだしも波の
磯根に近き
*
噫いち早く襲ひ來る冬の日、なにか恐るべき。
春の
秋のみのりのえびかづら葡萄も摘まず、
*
けふは
時ならずして、
みだれ姿の影黒み
嗚呼、大空の
心は
.
ステファンヌ・マラルメ
靜かなるわが
その空は
いざよひの
ながながし
物象を靜觀して、これが喚起したる幻想の裡、自から心象の飛揚する時は「歌」成る。さきの「高踏派」の詩人は、物の全般を採りて之を示したり。かるが故に、其詩、幽妙を虧き、人をして宛然自から創作する如き享樂無からしむ。それ物象を明示するは詩興四分の三を沒却するものなり。讀詩の妙は漸々遲々たる推度の裡に存す。暗示は即ちこれ幻想に非らずや。這般幽玄の運用を象徴と名づく。一の心状を示さむが爲、徐に物象を喚起し、或は之と逆まに、一の物象を採りて、闡明數番の後、これより一の心状を脱離せしむる事これなり。
ステファンヌ・マラルメ
テオドル・オオバネル
落日の光にもゆる
谷隈になにか見る、
風そよぐ梢より。
故國
小鳥でさへも巣は戀し、
まして青空、わが國よ、
うまれの里の
海のあなたの
海のあなたの遙けき國へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ
海のあなたの遙けき國へ。
オオバネルは、ミストラル、ルウマニユ等と相結で、十九世紀の前半に近代プロヴァンス語を文藝に用ゐ、南歐の地を風靡したるフェリイブル詩社の翹楚なり。
「故國」の譯に
.
アルトゥロ・グラアフ
頼み入りし
とまれるはなし。
そをもふと、胸はふたぎぬ、悲にならはぬ胸も
にがき
きしかたの
のがれしはなし。
そをもふと胸はひらけぬ、
高かき望に。
ガブリエレ・ダンヌンチオ
まさかりの眞晝ぞ
われは昔の野山の
まなびて、こゝに宿からむ、
あゝ、神寂びし
なれがにほひの
海光
淨まはる
轟く
足を延べたるこゝ、
うちひさす都のまちは、
鏡なす
風のみひとり、たまさぐる、
底本:「上田敏全訳詩集」岩波文庫、岩波書店
1962(昭和37)年12月16日第1刷発行
1979(昭和54)年10月10日第19刷発行
※当サイトでは、原文の「ヰに濁点」を「ヴィ」に、「ワに濁点」を「ヴァ」に書き換えました。
入力:阿部哲也
校正:川山隆
2011年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。