虞美人草(前編) 夏目漱石

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虞美人草 (前編)
夏目漱石

 
 
 
 一

 
 
 
 「随分遠いね。元来がんらいどこから登るのだ」
一人ひとり手巾ハンケチひたいを拭きながら立ちどまった。
「どこかおれにも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯からだも四角に出来上った男が無雑作むぞうさに答えた。
そりを打った中折れの茶のひさしの下から、深きまゆを動かしながら、見上げる頭の上には、微茫かすかなる春の空の、底までもあいを漂わして、吹けばうごくかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然きつぜんとして、どうする気かとわぬばかりに叡山えいざんそびえている。
「恐ろしい頑固がんこな山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜のつえに身をたせていたが、
「あんなに見えるんだから、わけはない」と今度は叡山えいざん軽蔑けいべつしたような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝けさ宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行あるいていれば自然と山の上へ出るさ」
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりをあおいでいる。日頃ひごろからなるひさしさえぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広きひたいだけは目立って蒼白あおしろい。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風にさらして、ねばり着いた黒髪の、さかに飛ばぬをうらむごとくに、手巾ハンケチを片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩ぼんのくぼの尽くるあたりまで、くちゃくちゃにき廻した。うながされた事には頓着とんじゃくする気色けしきもなく、
「君はあの山を頑固がんこだと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排あんばいじゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、いた方の手に栄螺さざえの親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼のかどからななめに相手を見下みおろした。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖ステッキを、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるやいなや、歩行あるき出した。せた男も手巾ハンケチたもとに収めて歩行き出す。
「今日は山端やまばな平八茶屋へいはちぢゃや一日いちんち遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端はんぱになるばかりだ。元来がんらい頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌しゃべり続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損みそこなってしまう。つれこそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当けんとうがつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。せた男は無言のままあとにおくれてしまう。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横につらぬいて、けぶる柳の間から、ぬくき水打つ白きぬのを、高野川たかのがわかわらに数え尽くして、長々と北にうねるみちを、おおかたは二里余りも来たら、山はおのずから左右にせまって、脚下にはし潺湲せんかんの響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春はけたるを、山をきわめたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰のすそうて、暗き陰に走る一条ひとすじの路に、爪上つまあがりなる向うから大原女おはらめが来る。牛が来る。京の春は牛の尿いばりの尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ちどまりながら、きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそりかんと行き尽して、かやばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高くして、返れ返れと二度ほどゆすって見せる。桜のつえが暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思うもなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋まるきばしを渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行あるいていると若狭わかさの国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女にいて見た。この橋を渡って、あの細い道をむこうへ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
叡山えいざんの上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、おおせに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行あるけるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前いちにんまえだがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとからいて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
渓川たにがわに危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、かろうじて一縷いちるの細き力にいただきへ抜ける小径こみちのなかに隠れた。草はもとより去年のしもを持ち越したまま立枯たちがれの姿であるが、薄く溶けた雲をとおして真上から射し込む日影にし返されて、両頬りょうきょうのほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野こうのさん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯からだ真直まっすぐに立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
振り廻した杖の先の尽くる、はるか向うには、白銀しろかねの一筋に眼を射る高野川をひらめかして、左右は燃えくずるるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりとなすり着けた背景には薄紫うすむらさき遠山えんざん縹緲ひょうびょうのあなたにえがき出してある。
「なるほど好い景色けしきだ」と甲野さんは例の長身をじ向けて、きわどく六十度の勾配こうばいに擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつのに、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近むねちか君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれもくに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳いくつだったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見りょうけんだと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作ぞうさもなく言って退ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
冗談じょうだんを言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退いてやれ」
百折ももお千折ちおれ、五間とはすぐに続かぬ坂道を、呑気のんきな顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身のたけに余る粗朶そだの大束を、みどる濃き髪の上におさえ付けて、手もけずにいただきながら、宗近君の横をり抜ける。しげる立ち枯れのかやをごそつかせたうしろ姿のにつくは、目暗縞めくらじまの黒きが中をはすに抜けた赤襷あかだすきである。一里をへだてても、そことゆびの先に、引っ着いて見えるほどの藁葺わらぶきは、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引たなびかすみとこしえに八瀬やせの山里を封じて長閑のどかである。
「この辺の女はみんな奇麗きれいだな。感心だ。何だかのようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女おはらめなんだろう」
「なに八瀬女やせめだ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となくでいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、てい、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋そばややぶがたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号はせばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足あとあしで石をころがしてはいかん。あとからいて行くものが剣呑けんのんだ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄かれすすきの中へ仰向あおむけに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号をとなえるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜のつえで、甲野さんのている頭の先をこつこつたたく。敲くたびに杖の先が薄をぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
反吐へどが出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも休息やすみつかまつろう」
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子もかさも坂道に転がしたまま、仰向あおむけに空をながめている。蒼白あおじろ面高おもだかけずせる彼の顔と、無辺際むへんざいに浮き出す薄き雲の※(「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1-90-31)ゆうぜんと消えて入る大いなる天上界てんじょうかいの間には、一塵の眼をさえぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
宗近君は米沢絣よねざわがすりの羽織を脱いで、袖畳そでだたみにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う諸肌もろはだを脱いだ。下から袖無ちゃんちゃんあらわれる。袖無の裏から、もじゃもじゃしたきつねの皮がみ出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊せんようの皮は一狐いっこえきにしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮はまだらにほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほどたちの悪い野良狐のらぎつねに違ない。
御山おやま御登おあがりやすのどすか、案内しまほうか、ホホホけったいとこに寝ていやはる」とまた目暗縞めくらじまが下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然としてそらながめている。
「そう泰然と尻をえちゃ困るな。まだ反吐へどを吐きそうかい」
「動けば吐く」
厄介やっかいだなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛ばんこくの反吐皆どうの一字よりきたる」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君をかついでふもとまで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易へきえきしていたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌あいきょうのない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分いっぷんでも余計動かずにいようと云う算段だな。しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものをたおやわらかい武器だよ」
「それじゃ無愛想ぶあいそは自分より弱いものを、き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁きべんろうするね。そんなら僕は御先へ御免蒙ごめんこうむるぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛けずねまつわる竪縞たてじますそをぐいと端折はしおって、同じく白縮緬しろちりめん周囲まわりに畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引きけるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路そばみち飄然ひょうぜんとして左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静である。静かなる事さだまって、静かなるうちに、わが一脈いちみゃくの命をたくすると知った時、この大乾坤だいけんこんのいずくにかかよう、わが血潮は、粛々しゅくしゅくと動くにもかかわらず、音なくして寂定裏じゃくじょうり形骸けいがい土木視どぼくしして、しかも依稀いきたる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶うやむやわずらいを捨てたるは、雲のしゅうを出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥こうでいを超絶したる活気である。古今来ここんらいむなしゅうして、東西位とうざいいくしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石かせきになりたい。赤も吸い、青も吸い、黄もむらさきも吸い尽くして、元の五彩にかえす事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、せんずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側こちらがわなるすべてのいさくさは、肉一重ひとえの垣にへだてられた因果いんがに、枯れ果てたる骸骨にいらぬなさけの油をして、要なきしかばね長夜ちょうやの踊をおどらしむる滑稽こっけいである。はるかなる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行あるかねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹こんせきを、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いてずいにいって消えぬほどある。いたずらに足の底にふくれ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上になかば掛けたる編み上げのかかとを見下ろす途端とたん、石はきりりとめんえて、乗せかけた足をすわと云うに二尺ほどべらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声にぎんじながら、かさを力に、岨路そばみちを登り詰めると、急に折れた胸突坂むなつきざかが、下から来る人を天にいざな風情ふぜいで帽にせまって立っている。甲野さんは真廂まびさしあおって坂の下から真一文字に坂の尽きるいただきを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色をみなぎらしたるはてもなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、雑木ぞうきの間を四五段のぼると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿しめっぽく思われる。路は山のを、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江おうみの空を深く色どるこの森の、動かねば、そのかみの幹と、その上の枝が、幾重いくえ幾里につらなりて、むかしながらのみどりを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々をうずめ、三百の神輿みこしを埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提さまくさぼだいの仏達を埋め尽くして、森々しんしんと半空にそびゆるは、伝教大師でんぎょうだいし以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手にさえぎる杉の根は、土を穿うがち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとするいわお梯子ていしに、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級のかいを、山霊さんれいたまものと甲野さんは息を切らしてのぼって行く。
行く路の杉にせまって、暗きよりるるがごとくい出ずる日影蔓ひかげかずらの、足にまつわるほどに繁きを越せば、引かれたるつるの長きを伝わって、手も届かぬに、ちかかる歯朶しだの、風なき昼をふらふらとうごく。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗てんぐのような声を出す。朽草くちくさの土となるまで積みるしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘かわほりがさを力に、天狗てんぐまで、登って行く。
善哉善哉ぜんざいぜんざい、われなんじを待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘をほうり出すと、その上へどさりと尻持しりもちを突いた。
「また反吐へどか、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜のつえで、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間すきまに、※(「白+樂」、第3水準1-88-69)てきれき近江おうみうみが光った。
「なるほど」と甲野さんはひとみらす。
鏡を延べたとばかりではき足らぬ。琵琶びわの銘ある鏡の明かなるをんで、叡山の天狗共が、よいぬすんだ神酒みきえいに乗じて、曇れる気息いきを一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎かげろうを巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷ひとはけなすり付けた、※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)れんえんたる春色が、十里のほかに糢糊もこ棚引たなびいている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやってもうれしがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々にちにち人間と御無沙汰ごぶさたになって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山をうしろにして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手ふところでをしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門まさかど※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下みおろしたんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐くより、反吐へどでも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨だるまだね」
「あのけぶるような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲ひょうびょうとしているね。おおかた竹生島ちくぶしまだろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、ものさえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけがまことだよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気うわきはなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのはぴら御免ごめんだ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
小刀細工こがたなざいくすきな人間がさ」
山を下りて近江おうみの野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くにながめているのが甲野さんの世界である。

 
 
 
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 二

 
 
 
 くれない弥生やよいに包む昼たけなわなるに、春をぬきんずるむらさきの濃き一点を、天地あめつちの眠れるなかに、あざやかにしたたらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりもあでやかながめしむる黒髪を、乱るるなと畳めるびんの上には、玉虫貝たまむしかい冴々さえさえすみれに刻んで、細き金脚きんあしにはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒きひとみのさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴はんてきのひろがりに、一瞬の短かきをぬすんで、疾風のすは、春にいて春を制する深きまなこである。このひとみさかのぼって、魔力のきょうきわむるとき、桃源とうげんに骨を白うして、再び塵寰じんかんに帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊もこたる夢の大いなるうちに、さんたる一点の妖星ようせいが、死ぬるまで我を見よと、紫色の、まゆ近くせまるのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かにしおりいて、はくに重き一巻を、女は膝の上に読む。

「墓の前にひざまずいて云う。この手にて――この手にて君をうずめ参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓をはらい、この手にてこうくべき折々の、とこしえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶ばくやも我らをき難きに、死こそ無惨むざんなれ。羅馬ロウマの君は埃及エジプトに葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬にうずめられんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、きわれにこばめる、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、なさけだにあらば、羅馬の神は、よも生きながらのはずかしめに、いちに引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君があだなる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫えいごうに隠したまえ。」

女は顔を上げた。蒼白あおしろほおしまれるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重ひとえの底に、余れる何物かをかくせるがごとく、蔵せるものを見極みきわめんとあせる男はことごとくとりことなる。男はまばゆげになかば口元を動かした。口の居住いずまいくずるる時、この人の意志はすでに相手の餌食えじきとならねばならぬ。下唇したくちびるのわざとらしく色めいて、しかも判然はっきと口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
女はただはやぶさの空をつがごとくちらとひとみを動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごさきに飛ばして、泡吹くかにと、烏鷺うろを争うは策のもっともつたなきものである。風励鼓行ふうれいここうして、やむなく城下じょうかちかいをなさしむるは策のもっともぼんなるものである。みつを含んで針を吹き、酒をいて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華ねんげ一拶いっさつは、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇ちゅうちょする事刹那せつななるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼにまよいと書き、まどいと書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云うに引き上げる。下界万丈げかいばんじょう鬼火おにびに、なまぐさき青燐せいりんを筆の穂に吹いて、会釈えしゃくもなくえがいだせる文字は、白髪しらがたわしにして洗っても容易たやすくは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻すわけには行くまい。
小野おのさん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、くずれた口元を立て直すいとまもない。唇にえみを帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰てもちぶさたに草書にくずしたまでであって、崩したものの尽きんとする間際まぎわに、崩すべき第二の波の来ぬのをわずらっていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉のどすべり出たのである。女はもとより曲者くせものである。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句をいだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものもうつらぬ男の眼には、二の句はもとより愚かである。
女はまだなんにも言わぬ。とこけた容斎ようさいの、小松にまじ稚子髷ちごまげの、太刀持たちもちこそ、むかしから長閑のどかである。狩衣かりぎぬに、鹿毛かげなるこま主人あるじは、事なきにれし殿上人てんじょうびとの常か、動く景色けしきも見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これがれれば、また継がねばならぬ。男は気息いきらして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面ほそおもてに予期のじょうみなぎらして、重きに過ぐる唇の、ぐうかを疑がいつつも、手答てごたえのあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向ってける弓の、危うくもが頭の上に、瓢箪羽ひょうたんばを舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引きえて、女は始めより、わが前にわれる人の存在を、ひざひらける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、はく美しと見つけた時、今たずさえたる男の手から※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取るようにして、読み始めたのである。
男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬ロウマへ行くつもりなんでしょうか」
女はに落ちぬ不快の面持おももちで男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得なっとくする。小野さんは暗い隧道トンネルかろうじて抜け出した。
沙翁シェクスピヤの書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗ってけ出そうとする。魚はふちおどる、とびは空に舞う。小野さんは詩のくにに住む人である。
稜錐塔ピラミッドの空をく所、獅身女スフィンクスの砂を抱く所、長河ちょうが鰐魚がくぎょを蔵する所、二千年の昔妖姫ようきクレオパトラの安図尼アントニイと相擁して、駝鳥だちょう※(「翌の立に代えて妾」、第4水準2-84-92)※(「たけかんむり/捷のつくり」、第4水準2-83-53)しょうしょうに軽く玉肌ぎょっきを払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁のいたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色むらさきいろのクレオパトラが眼の前にあざやかに映って来ます。げかかった錦絵にしきえのなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長きそでを、さっとさばいて、小野さんの鼻の先にひるがえす。小野さんの眉間みけんの奥で、急にクレオパトラのにおいがぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然がぜんとして我に帰る。空をかすめる子規ほととぎすの、も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動けるあやしき色は、く収まって、美くしい手は膝頭ひざがしらに乗っている。脈打みゃくうつとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々れんれんと遠のくあとを追うて、小野さんの心は杳窕ようちょうの境にいざなわれて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息ためいきの恋じゃありません。暴風雨あらしの恋、こよみにもっていない大暴雨おおあらしの恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋をると紫色の血が出るというのですか」
「恋がおこると九寸五分が紫色にひかると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
沙翁シェクスピヤいた所をわたしが評したのです。――安図尼アントニイ羅馬ロウマでオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道しらせを持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬しっとで濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及エジプトの日でげると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言うもなく長いそでが再びひらめいた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔をながめている。
「そこでクレオパトラがどうしました」とおさえた女は再び手綱たづなゆるめる。小野さんはけ出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、なじり方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のようにせいが高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮ついきゅうします。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆おばあさんね」
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しきえくぼのなかにき込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すればいつわりになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。しろい歯に交る一筋の金の耀かがやいてまた消えんとする間際まぎわまで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事をうから知っている。
美しき女の二十はたちを越えておっとなく、むなしく一二三を数えて、二十四の今日きょうまでとつがぬは不思議である。春院しゅんいんいたずらにけて、花影かえいおばしまにたけなわなるを、遅日ちじつ早く尽きんとする風情ふぜいと見て、こといだいてうらみ顔なるは、嫁ぎおくれたる世の常の女のならいなるに、麈尾ほっすに払う折々の空音そらねに、琵琶びわらしき響を琴柱ことじに聴いて、本来ならぬ音色ねいろを興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細しさいもとより分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々にのぞき込んで、いらざる臆測おくそくに、うやむやなる恋の八卦はっけをひそかにうらなうばかりである。
「年を取ると嫉妬しっとが増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
小野さんはまた面喰めんくらう。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられるわけがない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能かんのうなる文学者である。
「そうですね。やっぱり人にるでしょう」
かどを立てない代りに挨拶あいさつは濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬しっとなんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
女の声は静かなる春風はるかぜをひやりとった。詩の国に遊んでいた男は、急に足をはずして下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高いがけの上から、こちらを見下みおろしている。自分をこんな所に蹴落けおとしたのは誰だと考える暇もない。
清姫きよひめじゃになったのは何歳いくつでしょう」
左様さよう、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
安珍あんちんは」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳おいくつでしたかね」
わたしですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同おなどしでした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽどけて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何かおごりましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
可愛想かわいそうに」
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台のきわまりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかはもとより知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものはかならず女である。男は必ず負ける。具象ぐしょうかごの中にわれて、個体のあわついばんでは嬉しげに羽搏はばたきするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴くを競うものは必ずたおれる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴きそこねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍あんちんのようなの」
「安珍はひどい」
許せと云わぬばかりに、今度は受けめた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭おいやなの」
わたしは安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの受太刀うけだちと云う。坊っちゃんはを見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のようにけますよ」
男は黙っている。
じゃになるには、少し年がけ過ぎていますかしら」
時ならぬ春の稲妻いなずまは、女を出でて男の胸をするりととおした。色は紫である。
藤尾ふじおさん」
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷はみどり濃き植込にへだてられて、往来に鳴る車の響さえかすかである。寂寞せきばくたる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁ちゃべりの畳を境に、二尺をへだてて互に顔を見合した時、社会は彼らのかたえを遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓をたたいて市中を練りるいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息いきを引き取ろうとしている。露西亜ロシアでは虚無党きょむとうが爆裂弾を投げている。停車場ステーションでは掏摸すりつらまっている。火事がある。赤子あかごが生れかかっている。練兵場れんぺいばで新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾のあにさんと宗近君は叡山えいざんに登っている。
花のさえ重きに過ぐる深きちまたに、呼びわしたる男と女の姿が、死の底にり込む春の影の上に、明らかにおどりあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せきたる心臓のとびらは、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女なんにょを、躍然と大空裏たいくうりえがき出している。二人の運命はこの危うき刹那せつなさだまる。東か西か、微塵みじんだにたいを動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然べきぜんたる爆発物がげ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体からだ二塊ふたかたまり※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおである。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利じゃりきしる車輪がはたと行き留まった。ふすまを開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢はくずれた。
「母が帰って来たのです」と女はすわったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然はっきと外にあらわさぬうちは罪にはならん。取り返しのつくなぞは、法庭ほうていの証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人なんびと後指うしろゆびす事は出来ぬ。出来れば向うがるい。天下はあくまでも太平である。
御母おっかさんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ちける前に居住いずまいをちょっとつくろい直す。洋袴ズボンひだの崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、っかいぼうに、尻を挙げるための、膝頭ひざがしらそろえた両手は、雪のようなカフスにこうまでおおわれて、くすんだ鼠縞ねずみじまの袖の下から、七宝しっぽう夫婦釦めおとボタンが、きらりと顔を出している。
「まあ御緩ごゆっくりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色けしきもない。男はもとより尻を上げるのはいやである。
「しかし」と云いながら、隠袋かくしの中をぐって、太い巻煙草まきたばこを一本取り出した。煙草の煙は大抵のものをまぎらす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産エジプトさんである。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰をえ直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでもつづめる便たよりが出来んとも限らぬ。
薄い煙りの、黒い口髭くちひげを越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀ていねいな命令を下した。
男は無言のまま再びひざくずす。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりでさむしくっていけません」
「甲野君はいつごろ御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
御音信おたよりが有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出おいでになればよかったのに」
わたしは……」と小野さんは後をかしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染おなじみじゃありませんか」
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目まじめになって、埃及煙草エジプトたばこを肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
御母おっかさんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
わたしはもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在おありになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙ごめんこうむります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床ひらどこに据えた古薩摩こさつま香炉こうろに、いつき残したる煙のあとか、こぼれた灰の、灰のままにくずれもせず、藤尾の部屋は昨日きのうも今日も静かである。敷き棄てた八反はったん座布団ざぶとんに、ぬしを待つ温気ぬくもりは、軽く払う春風に、ひっそりかんと吹かれている。
小野さんは黙然もくねん香炉こうろを見て、また黙然と布団を見た。くず格子ごうしの、畳から浮く角に、何やら光るものが奥にはさまっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今まではとんと気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障きぬざわりのしなやかに、布団ふとんれて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下をのぞいて見た。松葉形まつばがたつなぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子ななこふちかすかに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
金は色の純にして濃きものである。富貴ふうきを愛するものは必ずこの色を好む。栄誉をこいねがうものは必ずこの色をえらむ。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石じしゃくの鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨ゴムである。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
折柄おりから向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、がりえんを伝わって近づいて来る。小野さんはのぞき込んだ眼を急にらして、素知らぬ顔で、容斎ようさいじくを真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
黒縮緬くろちりめんの三つ紋をがたに着こなして、くすんだ半襟はんえりに、まげばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母おっかさんは軽く会釈えしゃくして、椽に近く座を占める。うぐいすも鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終しじゅう御厄介ごやっかいになりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽おらくに――いつも御挨拶ごあいさつを申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児ねんねで、困り切ります、駄々ばかりねまして――でも英語だけは御蔭おかげさまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟はかんものと見えまして――」
御母さんの弁舌は滾々こんこんとしてみごとである。小野さんは一字の間投詞をさしはさいとまなく、口車くちぐるまに乗ってけて行く。行く先はもとより判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いてつづきを読んでいる。

「花を墓に、墓に口を接吻くちづけして、きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯をこそと召す。ゆあみしたるのち夕餉ゆうげをこそと召す。この時いやしき厠卒こものありて小さきかご無花果いちじくを盛りて参らす。女王の該撒シイザアに送れるふみに云う。願わくは安図尼アントニイと同じ墓にわれをうずめたまえと。無花果いちじくの繁れる青き葉陰にはナイルのつち※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおしたを冷やしたる毒蛇どくだを、そっと忍ばせたり。該撒シイザアの使は走る。たつを排してまなこを射れば――黄金こがねの寝台に、位高きよそおいを今日とらして、女王のしかばねは是非なくよこたわる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王のかしらのあたりに、月黒きの露をあつめて、千顆せんかたまを鋳たるかんむりの、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及エジプト御代みよしろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目をねむる」

埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、むる錬香ねりこうの尽きなんとしてかすかなる尾を虚冥きょめいくごとく、まったページが淡くかすんで見える。
「藤尾」と知らぬ御母おっかさんは呼ぶ。
男はやっと寛容くつろいだ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向うつむいている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪ひさしがみの、白い額につづく下から、骨張らぬ細い鼻をけて、くれないすんに織る唇が――唇をそとすべって、ほおの末としっくり落ち合う※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごが――※(「月+咢」、第3水準1-90-51)ててなよやかに退いて行く咽喉のどが――しだいと現実世界にり出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗きれいな――よごさないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口をひらいた。
「いえ、あなた、どうもわがままものの寄り合いだもんでござんすから、始終しじゅう、小供のように喧嘩けんかばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝きょうかつ手段は長者ちょうしゃの好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具おもちゃの九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へげたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間みけんへ向けてげつけた。御母さんは苦笑にがわらいをする。小野さんは口をく。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母おっかさんは遠廻しに棄鉢すてばちになった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終しじゅう身体からだが悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然はきはきしたらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々をねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出してもらいました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋のんきやで、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前おまいさっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝もろひざななめに立てて、青畳の上に、八反はったん座布団ざぶとんをさらりとべらせる。富貴ふうきの色は蜷局とぐろを三重に巻いた鎖の中に、うずたか七子ななこふたを盛り上げている。
右手をべて、輝くものを戛然かつぜんと鳴らすよと思うに、たなごころより滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さにめられると、余る力を横に抜いて、はじにつけた柘榴石ガーネットの飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波はくれないたまに女の白きかいなを打つ。第二の波は観世かんぜに動いて、軽く袖口そでくちにあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女はと立ち上がった。
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、く動く景色けしきを、茫然ぼうぜんながめていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
御母おかあさん」とうしろかえりみながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云ってもとの席に返る。小野さんの胴衣チョッキの胸には松葉形に組んだ金の鎖が、ボタンの穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛さんらん耀かがやいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほどく似合いますね」と御母おっかさんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんはけむに巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計をはずしてしまった。

 
 
 
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 三

 
 
 
 やなぎ※(「享+單」、第4水準2-4-50)れて条々じょうじょうの煙をらんに吹き込むほどの雨の日である。衣桁いこうけたこんの背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋くつたび三分一さんぶいち裏返しに丸く蹲踞うずくまっている。違棚ちがいだなせまい上に、偉大な頭陀袋ずだぶくろえて、締括しめくくりのないひもをだらだらとものうくも垂らしたかたわらに、錬歯粉ねりはみがき白楊子しろようじが御早うと挨拶あいさつしている。立て切った障子しょうじ硝子ガラスを通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近むねちか君は貸浴衣かしゆかたの上に銘仙めいせんの丹前を重ねて、床柱とこばしらの松の木を背負しょって、傲然ごうぜん箕坐あぐらをかいたまま、外をのぞきながら、甲野こうのさんに話しかけた。
甲野さんは駱駝らくだ膝掛ひざかけを腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔のむきを換えると、くしを入れたてのれた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋くつたびといっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へに来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母おっかさんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あのがくの字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※雨※風せんうしゅうふう[#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも人扁にんべんだから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこのふすまが面白いよ。一面に金紙きんがみを張り付けたところは豪勢だが、ところどころにしわが寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居どんちょうしばい道具立どうぐだて見たようだ。そこへ持って来て、たけのこを三本、景気にいたのは、どう云う了見りょうけんだろう。なあ甲野さん、これはなぞだぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものがいてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂きちがいの発明した詰将棋つめしょうぎの手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工えかきが描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理じりが分ったら煩悶はんもんもなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話むかしばなしにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深しゅうねんぶかい人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納ほうのうしたところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車のながえと横木をかずらゆわいた結び目を誰がどうしてもく事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目ノットをアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方のていたらんと云う神託しんたくを聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見りょうけんがなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯ひきょうなものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなにえらいと思ってるのか」
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐あぐらのまま旅行案内をひろげる。雨はななめに降る。
古い京をいやが上にびよと降る糠雨ぬかあめが、赤い腹を空に見せていと行く乙鳥つばくらこたえるほど繁くなったとき、下京しもきょう上京かみきょうもしめやかにれて、三十六峰さんじゅうろっぽうみどりの底に、音は友禅ゆうぜんべにを溶いて、菜の花にそそぐ流のみである。「御前おまえ川上、わしゃ川下で……」とせりを洗う門口かどぐちに、まゆをかくす手拭てぬぐいの重きを脱げば、「大文字だいもんじ」が見える。「松虫まつむし」も「鈴虫すずむし」も幾代いくよの春を苔蒸こけむして、うぐいすの鳴くべきやぶに、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門らしょうもんに、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取りこぼたれた。つな※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎとった腕の行末ゆくえは誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨はるさめが降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園ぎおんでは桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
甲野さんは寝ながら日記をけだした。横綴よことじの茶の表布クロースの少しは汗にごれたかどを、折るようにあけて、二三枚めくると、一ページさんいちほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆をって景気よく、
一奩いちれん楼角雨ろうかくのあめ閑殺かんさつす古今人ここんのひと
と書いてしばらく考えている。転結てんけつを添えて絶句にする気と見える。
旅行案内をほうり出して宗近君はずしんと畳を威嚇おどかして椽側えんがわへ出る。椽側には御誂向おあつらえむきに一脚の椅子いすが、人待ち顔に、しめっぽくえてある。※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうまばらなる花の間からとなの座敷が見える。障子しょうじは立て切ってある。うちでは琴のがする。
たちまちきく[#「耳+吾」、56-1]弾琴響だんきんのひびき垂楊すいよう惹恨うらみをひいてあらたなり
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙はなぞである。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭はくとう※(「にんべん+亶」、第3水準1-14-43)※(「にんべん+回」、第3水準1-14-18)せんかいし、中夜ちゅうや煩悶はんもんするために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
宗近君は椅子いす横平おうへいな腰を据えてさっきから隣りのことを聴いている。御室おむろ御所ごしょ春寒はるさむに、めいをたまわる琵琶びわの風流は知るはずがない。十三絃じゅうさんげんを南部の菖蒲形しょうぶがたに張って、象牙ぞうげに置いた蒔絵まきえした気高けだかしと思う数奇すきたぬ。宗近君はただ漫然といているばかりである。
滴々てきてきと垣をおお※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうな向うは業平竹なりひらだけ一叢ひとむらに、こけの多い御影のいを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔えいざんごけわしている。琴のはこの庭から出る。
雨は一つである。冬は合羽かっぱこおる。秋は灯心が細る。夏はふどしを洗う。春は――平打ひらうち銀簪ぎんかんを畳の上に落したまま、貝合かいあわせの貝の裏が朱と金とあいに光るかたわらに、ころりんとき鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳にくは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥にとらえたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空ほんらいくうの不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
琴の手は次第に繁くなる。雨滴あまだれ絶間たえまうて、白い爪が幾度かこまの上を飛ぶと見えて、こまやかなる調べは、太き糸のと細き音をり合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃むげんの琴をいて始めて序破急じょはきゅうの意義を悟る」と書き終った時、椅子いすもたれて隣家となりばかりを瞰下みおろしていた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟りくつばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなかうまいぜ」
椽側えんがわから部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっとえんまで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色けしきがない。
「おい、どうも東山が奇麗きれいに見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川かもがわわたやつがある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団ふとん着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩みずかさが増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちてもつかえなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖きんぶすまたけのこを横にながめ始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとうを折って部屋の中へ這入はいって来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
幾何いくつだと思う」
幾歳いくつだかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然はっきり云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田しまだだよ」
「座敷でもいてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減いいかげんな雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そらきたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこのたけのこを研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、せいが低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙からかみに三本いたのは、どう云う因縁いんねんだろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真青まっさおなのはなぜだろう」
「食うと中毒あたると云うなぞなんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎をくじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、あとから頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。昨日きのうね、僕が湯から上がって、椽側えんがわで肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東おうとう景色けしきを見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が障子しょうじを半分開けて、開けた障子にたれかかって庭を見ていたのさ」
別嬪べっぴんかね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公いとこうより好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、あんまり他愛たあいが無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから椽側えんがわまで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうちくかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものはかすみに酔ってぽうっとしているばかりで、霞をひらいて本体を見つけようとしないから性根しょうねがないよ」
「霞のぱらいか。哲学者は余計な事を考え込んでにがい顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山えいざんへ登るのに、若狭わかさまで突きける男は白雨ゆうだちの酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢つやのある髪で湿しめっぽくし付けられていた空気が、弾力でふくれ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝らくだ膝掛ひざかけり落ちながら、裏を返して半分はんぶに折れる。下から、だらしなく腰にき付けた平絎ひらぐけの細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元にかしこまった宗近君は、即座に品評を加えた。相手はせた体躯からだを持ち上げたひじを二段にのばして、手の平に胴をささえたまま、自分で自分の腰のあたりをめ廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしくかしこまってるじゃないか」と一重瞼ひとえまぶたの長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
居住いずまいだけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
どてらを着て跪坐かしこまってるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払よっぱらいらしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙ごめんこうむろう」と宗近君はすぐさま胡坐あぐらをかく。
「君は感心にを主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹かたはら痛い事はないものだ」
いさめに従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんはさびし気に笑った。勢込いきおいこんで喋舌しゃべって来た宗近君は急に真面目まじめになる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑はいふに入る。面上の筋肉が我勝われがちにおどるためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻いなずまを起すためでもない。涙管るいかんの関が切れて滂沱ぼうだの観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わしてゆかるようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
毛筋ほどな細い管を通して、とらえがたいなさけの波が、心の底からかろうじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来にころがっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、つらまえた人が勝ちである。捕まえそこなえば生涯しょうがい甲野さんを知る事は出来ぬ。
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、そのすみやかなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生はあきらかにえがき出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己ちきである。ったったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点がてんするようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格をえがき出すのは野暮やぼな小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
春の旅は長閑のどかである。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝らくだ膝掛ひざかけ馬簾ばれんをひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語ひとりごとのように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺おやじが生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、うちを藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家をいだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母おばさんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえばおのれにさえあざむかれる。まして己以外の人間の、利害のちまたに、損失の塵除ちりよけかぶる、つらの厚さは、容易にははかられぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見りょうけんか。己にさえ、己を欺く魔の、どこにかひそんでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶うかつには天機をらしがたい。宗近のことは継母に対するわが心の底を見んためのかまか。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌をけるほどの男ならば、思う通りを引き出したあとで、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率しんそつなる彼の、裏表の見界みさかいなく、母の口占くちうら一図いちずにそれと信じたる反響か。平生へいぜいのかれこれからして見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしきふちの底に、詮索さぐりおもりを投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損みそくなった母の意をけて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程きてい以前に、家庭のなかにける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口はくまい。
二人はしばらく無言である。隣家となりではまだこといている。
「あの琴は生田流いくたりゅうかな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無ちゃんちゃんでも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
丹前の胸を開いて、違棚ちがいだなの上から、例の異様な胴衣チョッキを取り下ろして、たいななめに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無ちゃんちゃんは手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。うまいもんだ。御糸おいとさんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴あいつが嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父おじさんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母おっかさんの云う通りに君がうちいで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕はいやなんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「またはもを食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実にな所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚きゅうかくは非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺おやじも外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯さえきと云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦ロンドンで買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具おもちゃになった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あのくさりに着いている柘榴石ガーネットが気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの片身かたみに僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君のまゆの間を、長い事見ていた。御昼のぜんの上には宗近君の予言通りはもが出た。

 
 
 
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 四

 
 
 
 甲野こうのさんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
生死因縁しょうしいんねん無了期りょうきなし色相世界しきそうせかい現狂癡きょうちをげんず
小野さんは色相しきそう世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖つつそでを着て学校へ通う時から友達にいじめられていた。行く所で犬にえられた。父は死んだ。外でひどい目にった小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
水底みなそこは、暗い所にただようて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右にうごこうが、ひだりになびこうがなぶるは波である。ただその時々にさからわなければ済む。れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考えるひまもない。なぜ波がつらくおのれにあたるかは無論問題にはのぼらぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所にえていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
京都では孤堂こどう先生の世話になった。先生からかすりの着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園ぎおんの桜をぐるぐるまわる事を知った。知恩院ちおんいん勅額ちょくがくを見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前いちにんまえは食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
東京は目のくらむ所である。元禄げんろくの昔に百年の寿ことぶきを保ったものは、明治のに三日住んだものよりも短命である。余所よそでは人がかかとであるいている。東京では爪先つまさきであるく。逆立さかだちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
きりきりと回ったあとで、眼を開けて見ると世界が変っている。眼をすっても変っている。変だと考えるのはるく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計をたまわった。浮かび出したは水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
世界は色の世界である。ただこの色をあじわえば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれてあざやかに眼にうつる。鮮やかなる事錦をあざむくに至って生きて甲斐かいある命はとうとい。小野さんの手巾ハンケチには時々ヘリオトロープのにおいがする。
世界は色の世界である、形は色の残骸なきがらである。残骸をあげつらって中味のうまきを解せぬものは、方円のうつわかかわって、盛り上る酒のあわをどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見極みきわめても皿は食われぬ。くちびるを着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義のさかずきいだいて、路頭に跼蹐きょくせきしている。
世界は色の世界である。いたずらに空華くうげと云い鏡花きょうかと云う。真如しんにょの実相とは、世にれられぬ畸形きけいの徒が、容れられぬうらみを、黒※郷裏こくてんきょうり[#「甘+舌」、72-14]に晴らすための妄想もうぞうである。盲人はかなえでる。色が見えねばこそ形がきわめたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作しょさである。小野さんの机の上には花がけてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡めがねが掛かっている。
絢爛けんらんの域をえて平淡にるは自然の順序である。我らはむかし赤ん坊と呼ばれて赤いべべを着せられた。大抵たいていのものは絵画にしきえのなかに生い立って、四条派しじょうはの淡彩から、雲谷うんこく流の墨画すみえに老いて、ついに棺桶かんおけのはかなきに親しむ。かえりみると母がある、姉がある、菓子がある、こいのぼりがある。顧みれば顧みるほど華麗はなやかである。小野さんはおもむきが違う。自然の径路けいろさかしまにして、暗い土から、根を振り切って、日のとおる波の、明るいなぎさただようて来た。――あなの底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴ふしあなからのぞいて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点のくれないがほのかにうごいている。東京へたてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのもいとわず、たびたび過去の節穴を覗いては、長きを、永き日を、あるは時雨しぐるるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退とおのいた。その上、色もよほどめた。小野さんは節穴を覗く事をおこたるようになった。
過去の節穴をふさぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇ばらである。薔薇のつぼみである。小野さんは未来を製造する必要はない。つぼんだ薔薇を一面に開かせればそれがおのずからなる彼の未来である。未来の節穴を得意のくだからながめると、薔薇はもう開いている。手を出せばつらまえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳のそばで云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、かならず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色こんじきに燃えている。博士の傍には金時計が天からかかっている。時計の下には赤い柘榴石ガーネットが心臓のほのおとなって揺れている。そのわきに黒い眼の藤尾さんがほそい腕を出して手招てまねぎをしている。すべてが美くしいである。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
むかしタンタラスと云う人があった。わるい事をしたばちで、ひどい目にうたと書いてある。身体からだは肩深く水にひたっている。頭の上にはうまそうな菓物くだもの累々るいるいと枝をたわわに結実っている。タンタラスは咽喉のどかわく。水を飲もうとすると水が退いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺すすむと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っけて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長いまゆを押しつけたように短かくして、きっにらめている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなってげながら暗くなる事がある。時計がはるかな天から隕石いんせきのように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来をえがき出す。
机の前に頬杖ほおづえを突いて、色硝子いろガラス一輪挿いちりんざしをぱっとおお椿つばきの花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手ひらてでたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですとむこうをむいて、すたすた歩き出す」
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻ざんこくなのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごを持ち上げると、障子しょうじが、すうといて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流すごうりゅうにかいた名宛なあてを見た時、小野さんは、急に両肱りょうひじに力を入れて、机に持たしたたいねるようにうしろへ引いた。未来を覗く椿つばきくだが、同時に揺れて、唐紅からくれない一片ひとひらがロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。まったき未来は、はやくずれかけた。
小野さんは机に添えてひだりの手をしたまま、顔をななめに、受け取った封書をてのひらの上に遠くからながめていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当けんとうはついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつてかめのこに聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅こうらの中に立てこもる。打たれる運命を眼前に控えた間際まぎわでも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸いっすんのがれる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
ややしばらく眺めていると今度は掌がむずゆくなる。一刻の安きをむさぼったあとは、安きおもいを、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上にぎゃくに置いた。裏から井上孤堂いのうえこどうの四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字そうじは、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
小野さんはさわらぬ神にたたりなしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机とひざとは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人をげて見ないうちはどうも柔術家たる所以ゆえんを自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気のんきうらやましいと思う。――椿の花片はなびらがまた一つ落ちた。
一輪挿いちりんざしを持ったまま障子をけて椽側えんがわへ出る。花は庭へてた。水もついでにあけた。花活はないけは手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。ひのきがある。へいがある。むこうに二階がある。乾きかけた庭に雨傘がしてある。じゃの目の黒いふち落花らっか二片ふたひらへばりついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引きってまた部屋のなかへ這入はいって来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴ふしあながすうといて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰をかがめて手を伸ばすや否や封を切った。

「拝啓柳暗花明りゅうあんかめいの好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀がしたてまつりそうろう。小生も不相変あいかわらず頑強がんきょう小夜さよも息災に候えば、乍憚はばかりながら御休神可被下くださるべくそうろう。さて旧臘きゅうろう中一寸申上候東京表へ転住の義、其後そのご色々の事情にてはかどりかね候所、此程に至り諸事好都合にらちあき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度くだされたくそうろう。二十年ぜんに其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留とうりゅうの外は、全く故郷の消息にうとく、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住みるしたる住宅は隣家蔦屋つたやにて譲り受け度旨たきむね申込もうしこみ有之これあり、其他にも相談の口はかかり候えども、此方こちらに取り極め申候。荷物其他嵩張かさばり候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持のこと一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。ふるきを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下くださるべくそうろう
「御承知のとおり小夜は五年ぜん当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住のすみやかなる事を希望致し居候。同人行末ゆくすえの義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述もうしのべず。追て其地にて御面会の上とくと御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓ざっとうの事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車をえらみたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層いっそ途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致いたすべくそうろう。まずは右当用迄匆々そうそう不一」

読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいたはじが青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行きどまった時、やむを得ず、ひとみを転じてロゼッチの詩集をながめた。詩集の表紙の上に散った二片ふたひらくれないも眺めた。紅に誘われて、右のかどに在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日おととい挿した椿つばきは影も形もない。うつくしい未来を覗くくだが無くなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ちのぼる。一種古ぼけた黴臭かびくさいにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇ちゅうちょする毛筋の末を引いて、細いえにしに、絶えるほどにつながるる今と昔を、のあたりに結び合わすにおいである。
半世の歴史を長き穂の心細きまでさかしまに尋ぬれば、さかのぼるほどに暗澹あんたんとなる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れの末に、きりの力のとがれるをさいわいと、記憶の命を突きとおすは要なしと云わんよりむしろ無惨むざんである。ジェーナスの神は二つの顔に、うしろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。そびらを過去に向けた上は、眼に映るは煕々ききたる前程のみである。うしろを向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日きのうきょう、寒い所から、寒いものが追っけて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖くあざやかなるうちに、おのれをき込んで、一歩でも過去を遠退とおのけばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かにちりばめられて、動くかとは掛念けねんしながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸をでていた。ところが、昔しながらとたかをくくって、過去のくだを今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。せまって来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗りえて、暗夜やみよを照らす提灯ちょうちんの火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
自然は自然を用い尽さぬ。きわまらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分はんぷんと立たぬうちに、障子しょうじから下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見てみだりに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌あいきょうがあるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文はんもんの価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日こんにちまで下女の人望をつないだのも全くこの自覚にもとづく。小野さんは下女の人望をさえみだりに落す事を好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事あたわずとむかしの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退いて不安が這入はいる。下女はるいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃つけやきばで不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主いえぬしが這入るについて、愛嬌が示談じだんの上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、い。し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったりうしろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっとたいわせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気をえて反対へ出る。反対と反対が鉢合はちあわせをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子ふりこのようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りのるい野郎だと悪口わるくちが云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
そこへ浅井君が這入はいってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手でつぶすように握って、畳の上へほうり出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐あぐらをかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日きのう行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜ロシア料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜ロシア料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻さっきだった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおってっくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たらゆっくり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人ひとりぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分昔堅気むかしかたぎだからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹いってつなんだ」
「近頃は家計くらしの方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時なんじかな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
うまい事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
門口かどぐちで分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。

 
 
 
.
 五

 
 
 
 山門を入る事一歩にして、古き世のみどりが、急に左右から肩を襲う。自然石じねんせき形状かたち乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯落さくらくと平らかに敷き詰めたるこみちに落つる足音は、甲野こうのさんと宗近むねちか君の足音だけである。
一条いちじょうの径の細くすぐなるを行き尽さざる此方こなたから、石に眼を添えてはるかなる向うをきわむる行き当りに、あおげば伽藍がらんがある。木賊葺とくさぶきの厚板が左右から内輪にうねって、だいなる両の翼を、けわしき一本の背筋せすじにあつめたる上に、今一つ小さき家根やねが小さき翼をして乗っかっている。風抜かざぬきか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精舎しょうじゃを、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんはつえとどめた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり恰好かっこううまくそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる理形フォームかなってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
舟板塀ふないたべい趣味しゅみ御神灯ごじんとう趣味しゅみとは違うさ。夢窓国師むそうこくしが建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥しょうようする価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も家根やねになって明治まで生きていれば結構だ。安直あんちょくな銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭然いちもくりょうぜんだ」
「何が」
「何がって、この境内けいだい景色けしきがさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ這入はいると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池れんちに渡した石橋せっきょう欄干らんかんに尻をかける。欄干の腰には大きな三階松さんがいまつが三寸の厚さをかして水に臨んでいる。石にはこけが薄青く吹き出して、灰を交えたむらさきの質に深く食い込む下に、枯蓮かれはすじくがすいすいと、去年のしも弥生やよいの中に突き出している。
宗近君は燐寸マッチを出して、煙草たばこを出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな悪戯いたずらはしなかった」と甲野さんは、※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごの先に、両手でつえかしらを丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の真似まねをするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と北京ペキンへ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の阿爺おやじぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は我儘わがまま過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
今までは真面目の上に冗談じょうだんの雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少しうしろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風邪かぜなおれば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と露西亜ロシアの戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
亜米利加アメリカを見ろ、印度インドを見ろ、亜弗利加アフリカを見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬに殺されているんだ」
すべてを爪弾つまはじきした甲野さんは杖の先で、とんと石橋せっきょうたたいて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山がざんと云う坊主は一椀の托鉢たくはつだけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横にはしたてにする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右にさっひらいた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨さがの春を傾けて、京の人は繽紛絡繹ひんぷんらくえき嵐山らんざんに行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
天竜寺てんりゅうじの門前を左へ折れれば釈迦堂しゃかどうで右へ曲れば渡月橋とげつきょうである。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場ステーションの方へ旅衣たびごろも七日なのか余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条にじょうから半時はんときごとに花時をあだにするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢たいせいを忘れている。京ほどに女の綺羅きらを飾る所はない。天下の大勢も、京女きょうおんなの色にはかなわぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性セックスの感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味いやみがない」
「どうも淡粧あっさりして、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極しごく御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあかったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するからいやになっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見りょうけんを洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店にならべてある、抹茶茶碗まっちゃぢゃわんを見始めた。土をねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけている。
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げてながめているそでを、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れたかけを土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居をまたぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あのことの主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残むざんな事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃおっつかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物やっかいぶつだ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとくたたき壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、停車場ステーションへ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨さがより二条にじょうに引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波たんばへ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡かめおかに降りた。保津川ほづがわ急湍きゅうたんはこの駅よりくだおきてである。下るべき水は眼の前にまだゆるく流れて碧油へきゆうおもむきをなす。岸は開いて、里の子の土筆つくしも生える。舟子ふなこは舟をなぎさに寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、こべりは尺と水を離れぬ。赤い毛布けっとに煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭のかずは四人である。真っ先なるは、二間の竹竿たけざおづく二人は右側にかい、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいとかいが鳴る。粗削あらけずりにたいらげたるかし頸筋くびすじを、太い藤蔓ふじづるいて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手のふしたかきは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんとく力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根くびねを抑えられた櫂が、くごとにしわりでもする事か、こわうなじ真直ますぐに立てたまま、藤蔓とれ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、とどまる暇なきに、前へ前へと送る。かさなる水のしじまって行く、こうべの上には、山城やましろ屏風びょうぶと囲う春の山がそびえている。せまりたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡さんきょうに入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭のたいかして岩と岩のせまる間を半丁のむこうに見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、ふなばたから首を出した時、船ははや瀬の中にすべり込んだ。右側の二人はすわと波を切る手をゆるめる。かいは流れて舷に着く。へさきに立つは竿さおよこたえたままである。かたむいて矢のごとく下る船は、どどどときざみ足に、船底に据えた尻に響く。われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君がゆびさうしろを見ると、白いあわが一町ばかり、か落しにみ合って、谷をかすかな日影を万顆ばんかたま我勝われがちに奪い合っている。
さかんなものだ」と宗近君は大いに御意ぎょいに入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は至極しごく冷淡である。松を抱くいわの、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、さおあやつり去る。通る瀬はさまざまにめぐる。廻るごとに新たなる山は当面におどり出す。石山、松山、雑木山ぞうきやまと数うるいとま行客こうかくに許さざるき流れは、船をってまた奔湍ほんたんに躍り込む。
大きな丸い岩である。こけを畳むわずらわしさを避けて、むらさき裸身はだかみに、ちつけて散る水沫しぶきを、春寒く腰から浴びて、緑りくずるる真中に、舟こそ来れと待つ。舟はたても物かは。一図いちずにこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲うずまいて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。けずられて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末ゆくえである。岩に突き当って砕けるか、き込まれて、見えぬ彼方かなたにどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波をむ岩の太腹にもぐり込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手ががると共に舟はぐうと廻った。この獣奴けだものめと突き離す竿の先から、岩のすそを尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
急灘きゅうなんを落ち尽すとむこうから空舟からふねのぼってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命のこぶしを収めて、肩から斜めに目暗縞めくらじまからめた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟をいて来る。水行くほかに尺寸せきすんの余地だに見出みいだしがたき岸辺を、石に飛び、岩にうて、穿草鞋わらんじり込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手はかれてそそぐ渦の中に指先をひたすばかりである。うんと踏ん張る幾世いくよの金剛力に、岩は自然じねんり減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱ひきづなをわが勢にさからわぬほどに、すべらすためのはかりごとと云う。
「少しはおだやかになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山のはるかの上に、なたの音が丁々ちょうちょうとする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏のどぼとけを突き出して峰を見上げた。
れると何でもするもんだね」と相手も手をかざして見る。
「あれで一日働いて若干いくらになるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いてようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつにはしっている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。ねがわくは船頭のさおを借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏じょうぶつしている時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ちった。
「そう困った日にゃほうが付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
肝胆相照かんたんあいてらすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものにちがいない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは黙然もくねんとして、船の底を見詰めた。言うものは知らずとむかし老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川ほづがわと肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手をたたく。
乱れ起る岩石を左右に※(「榮の木に代えて糸」、第3水準1-90-16)めぐる流は、いだくがごとくそと割れて、半ばみどりを透明に含む光琳波こうりんなみが、早蕨さわらびに似たる曲線をえがいて巌角いわかどをゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山らんざんどす」と長いさおこべりのうちへし込んだ船頭が云う。鳴るかいに送られて、深いふちすべるように抜け出すと、左右の岩がおのずから開いて、舟は大悲閣だいひかくもとに着いた。
二人は松と桜と京人形のむらがるなかにい上がる。幕とつらなるそでの下をぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
赤松の二抱ふたかかえたてに、大堰おおいの波に、花の影の明かなるを誇る、橋のたもと葭簀茶屋よしずぢゃやに、高島田が休んでいる。昔しのまげを今の世にしばし許せとかぶ瓜実顔うりざねがおは、花に臨んで風にえず、俯目ふしめに人を避けて、名物の団子をながめている。薄く染めた綸子りんず被布ひふに、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねるきぬの色は見えぬ。ただ襟元えりもとより燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれがこといた女だよ。あの黒い羽織は阿爺おやじに違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪ひょうたんえいを飾る三五の癡漢うつけものが、天下の高笑たかわらいに、腕を振ってうしろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、たいを斜めにえらがる人を通した。色の世界は今がさかりである。

 
 
 
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 六

 
 
 
 丸顔にうれい少し、さっうつ襟地えりじの中から薄鶯うすうぐいすらんの花が、かすかなるを肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子いとこはこんな女である。
人に示すときは指を用いる。四つをたなごころに折って、余る第二指のありたけにあれぞとす時、指す手はただ一筋のまぎれなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは指点す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
人に指点す指の、ほっそりと爪先つまさきに肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点しょうてん構成かたちづくる。藤尾ふじおの指は爪先のべにを抜け出でて縫針のがれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干らんかんを渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目にかかりませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰ごぶさたをして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
向島むこうじまは」
「まだどこへも行かないの」
うちにばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影がす。
「そんなに御用が御在おありなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行くみちである。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側むこうがわへ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、このそでは、この詩とこの歌は、なべ、炭取のたぐいではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字をかむらせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
はじめさんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは上滑うわすべりをして前へ進む。糸子は返事をする前に顔をげて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子をじっと見る。針は真逆まさかの用意に、なかなかひとみうちには出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へからまってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。はじめさんが貰うときまれば本気にがしますよ」
黐竿もちざおは届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子はきわどいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索さぐりの綱を、ぷつりと切って、さかさまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの不手際ふてぎわである。あたったのに手答てごたえもなくよそおわるるは不器量ふきりょうである。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇をんだ。ここまでして来てとどまるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたはわたしの姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬にわれを忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心のうち冷笑あざわらって引き上げる。
甲野こうのさんと宗近むねちか君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人ふたりの妹は肝胆の外廓そとぐるわで戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追いけられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものをつかまえる勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んでけ込んで来た。袞竜こんりょうの袖に隠れると云うことわざがある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは蹌々踉々そうそうろうろうとして来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上にせる従容しょうようの紋付を、まだあつらえていない。二十世紀の人は皆この紋付もんつきを二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便たよる未来がほこさかしまにして、過去をほじり出そうとするのはなさけない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵たいていうそ渡頭ととうの舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾きんごさんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気のんきよ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでもうちの兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重はぶたえ手巾ハンケチを膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯のかどいろどる金の筋がすっと外界にうつる。敵は首尾よくわが術中におちいった。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信おたよりはないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書はがきぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母おばさんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶるとふるえる。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾ハンケチを出して、薄い口髭くちひげをちょっとでる。かすかなにおいがぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都のかたはじめさんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんの手巾はちょっといきおいを失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗きれいだと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
無精ぶしょうに似合わない事ね。何と」
隣家となりの琴は御前よりうまいって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪べっぴんだと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんにっちゃかなわない」
「でも、あなたの事はめてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪べっぴんだ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念をまじえたる眼を輝かして、すらりと首をうしろに引く。たてがみに比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝のすみれのみが星のごとく可憐かれんの光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条さんじょう蔦屋つたやと云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、すがる未来に全く吸い込まれたる人は、刹那せつな戸板返といたがえしにずどんと過去へ落ちた。
追い懸けて来る過去をがるるは雲紫くもむらさきに立ちのぼ袖香炉そでこうろけぶる影に、縹緲ひょうびょうの楽しみをこれぞと見極みきわむるひまもなく、むさぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶いっさつに、結ばぬ夢はめて、さかしまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇そうかんだあり、容易にせいを踏む事を許さずとある。
蔦屋つたやがどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿とまってるんですって。だから、どんなとこかと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋はたごやじゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴がきこえて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家おとなりで美人が琴をいてるのを、気楽に寝転ねころんで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、とこの山吹を無意味にながめている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴のも、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白いが出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意をしかねる。らぬ事と黙ってひかえているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――まわえんで、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くにけむるように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗なまあるい山は――あの山が、青い御供おそなえのように、こんもりとかすんでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首をかたげる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
女詩人じょしじんの空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもするわけはない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌にさからった時は、必ず人をもってわびを入れるのが世間である。女王の逆鱗げきりんなべかま味噌漉みそこし御供物おくもつでは直せない。役にも立たぬ五重の塔をかすみのうちに腫物はれもののように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾のまゆはぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気にさわったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
針鼠はりねずみでれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
五重の塔を持ち出せばなおおこられる。琴のは自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑けいべつを招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取りけられた。女二人を調停するのは眼の前にこころよからぬ言葉の果し合を見るのがいやだからである。文錦あやにしきやさしきまゆに切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取除者とりのけものを仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさくからまってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子ばつを合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を軽蔑けいべつする料簡りょうけんではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いもののかしら耀かがやかず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸がく。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
人をのろわば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり筋違すじかいに見えて、その先に井桁いげたがあって、小米桜こごめざくられ擦れに咲いていて、釣瓶つるべが触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだんり落ちて来る。重い雲がかさなり合って、弥生やよいをどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖垣そでがきのはずれに幣辛夷してこぶしの花が怪しい色をならべて立っている。木立にかしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れにうつる。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
居は気を移す。藤尾の想像は空と共にこまやかになる。
「小米桜を二階の欄干てすりから御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜のうしろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴のがするんです」
琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家となりの庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりとかすめる。
「ホホホホ御厭おいやなの――何だか暗くなって来た事。花曇りがけ出しそうね」
そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとからすぐすいと追懸おいかけて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや本降ほんぶりになりそうだ事」
わたし失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
糸子は立ち上がる。話しは春雨と共にくずれた。

 
 
(中編へつづく)
 
 
 
 
 底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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