虞美人草 (中編)
夏目漱石
(承前)
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七
燐寸を擦る事一寸にして火は闇に入る。幾段の彩錦を捲り終れば無地の境をなす。春興は二人の青年に尽きた。狐の袖無を着て天下を行くものは、日記を懐にして百年の憂を抱くものと共に帰程に上る。
古き寺、古き社、神の森、仏の丘を掩うて、いそぐ事を解せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然とは映らぬ。瞬くも嬾き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
一人の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏めたる団子と、他の清濁を混じたる団子と、層々相連って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果の交叉点に据えて分相応の円周を右に劃し左に劃す。怒の中心より画き去る円は飛ぶがごとくに速かに、恋の中心より振り来る円周はの痕を空裏に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎の圜をほのめかして回る。縦横に、前後に、上下四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越の客ここに舟を同じゅうす。甲野さんと宗近君は、三春行楽の興尽きて東に帰る。孤堂先生と小夜子は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で端なくも喰い違った。
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破けて飛ぶ事がある。あるいは発矢と熱を曳いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄まじき喰い違い方が生涯に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢うてただ別れる袖だけの縁ならば、星深き春の夜を、名さえ寂びたる七条に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢する。自然その物は小説にはならぬ。
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく幻のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の方に搬び去ろうか、さらに無頓着である。世を畏れぬ鉄輪をごとりと転す。あとは驀地に闇を衝く。離れて合うを待ち佗び顔なるを、行いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠を意とせざるを、一様に束ねて、ことごとく土偶のごとくに遇待うとする。夜こそ見えね、熾んに黒煙を吐きつつある。
眠る夜を、生けるものは、提灯の火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で埋まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束に夜明までに、あかるい東京へ推し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに解れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛の戸をはたはたと締めて行く。忽然としてプラットフォームは、在る人を掃いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛が遥かの後ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ気に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は淋しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋の隣家に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、家を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは独り言のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋を棚へ上げた腰を卸しながら笑う。相手は半分顔を背けて硝子越に窓の外を透して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。轟と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何哩くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。向の棚に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の頂を顫わせている。給仕が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を眠っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車は轟と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞める時の言葉なんだがな」
「千里の江陵一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を緘じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟と走る。二人の世界はしばらく闇の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い夜を糸のごとく照らして動く電灯の下にあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生れて小夜と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居に、盂蘭盆の灯籠を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊を、東京の苧殻で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗し掛る怒は、撫で下す絹しなやかに情の裾に滑り込む。
紫に驕るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長を顫わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて赫と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透って、当時を裏返す折々にさえ鮮かに煮染んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒の懐に暖めつつ、黒く動く一条の車に載せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑りを衝き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇の遠きより切り放して、現実の前に抛げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとにの下に白くなる疎髯を握っては昔しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き籠って容易には出て来ない。漠々たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々たるわれを、つれなく見捨て去る当時に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩交りの髯をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳の時だったかな」
「学校を廃めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山へ連れていっていただいたでしょう。御母さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋の傍で喫べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母さんも丈夫だったがな。ああ早く亡くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分蒼い顔をしてね、そうして何だか始終おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質の好い男でも、あのまま放って置けばそれぎり、どこへどう這入ってしまうか分らない」
「本当にね」
明かなる夢は輪を描いて胸のうちに回り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き刻りの深き記憶を離れて、咫尺に飛び上がって来る。女はただ眸を凝らして眼前に逼る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び躍る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠る。人も犬も草も木も判然と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱いて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆う風を打つ。追い懸くる冥府の神を、力ある尾に敲いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙る向うが一面に競り上がって来る。茫々たる原野の自から尽きず、しだいに天に逼って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神の代を空に鳴く金鶏の、翼五百里なるを一時に搏して、漲ぎる雲を下界に披く大虚の真中に、朗に浮き出す万古の雪は、末広になだれて、八州の野を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫の裡に、腰から下を埋めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫の襞と藍の襞とを斜めに畳んで、白き地を不規則なる幾条に裂いて行く。見上ぐる人は這う雲の影を沿うて、蒼暗き裾野から、藍、紫の深きを稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然として眼が醒める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑り下りながら、窓をはたりと卸す。広い裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝の毛布を頭から被ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡山よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変軽蔑するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」と宗近君は頭陀袋を棚から取り卸す。室のなかはざわついてくる。明かるい世界へ馳け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干の銀貨を握って、へぎ折を取る左と引き換に出す。御茶は部屋のなかで娘が注いでいる。
「どうだね」と折の蓋を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋の白茶に寝転んでいる傍らに、一片の玉子焼が黄色く圧し潰されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は箸を執らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた箸を眺めながら、ぐっと飲む。
「もう直ですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入る。
「小野さんは宿を捜がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣の襟を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄を跨いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪ずくと危ない」と注意した。
硝子戸を押し開けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が後ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過ぎてね。――阿爺のように年を取ると、どうも硬いのは胸に痞えていけないよ」
「御茶でも上がったら……注ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方に飛び交わす小世界の、普ねく天涯を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭わず植えつけし蚕の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃き落されて、大空の皮を奇麗に剥ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上る窓の中に、四人の小宇宙は偶を作って、ここぞと互に擦れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表を眺めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕京都の停車場では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで膏ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺を逆にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々情けなさそうに白い膏味を頬張る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「猶太人は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「猶太人はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を外してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎を支えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に据えたままぼんやり向うを見ている。
「蜜柑が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫も心配にならない気色で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶も聞く料簡はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児だね。しかし兄思いだよ。狐の袖無を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突でも造えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに擦れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日の世界を擁して新橋の停車場に着く。
「さっき馳けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、停車場に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。
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八
一本の浅葱桜が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ椽は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢に手取形の鉄瓶を沸らして前には絞り羽二重の座布団を敷く。布団の上には甲野の母が品よく座っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、疳の筋が裏を通って額へ突き抜けているらしい上部を、浅黒く膚理の細かい皮が包んで、外見だけは至極穏やかである。――針を海綿に蔵して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬を貼って創口を快よく慰めよ。出来得べくんば唇を血の出る局所に接けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を露わすものは亡ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今卸したかと思われるほどの白足袋を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚いの椽に引き擦るを軽く蹴返しながら、障子をすうと開ける。
居住をそのままの母は、濃い眉を半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入」と云う。
藤尾は無言で後を締める。母の向に火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に真少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は逝きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥に籠る。熱に堪えざる時は骨を露わす。
「ふん」
長煙管に煙草の殻を丁とはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人の料簡ばかりは御母さんにも分らないね」
雲井の煙は会釈なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても同じ事ですね」
「同じ事さ。生涯あれなんだよ」
御母さんの疳の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「家を襲ぐのがあんなに厭なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪いんだよ。あんな事を云って私達に当付けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮え切らないっちゃありゃしない。彼人の顔を見るたんびに阿母は疳癪が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃しなさい、阿母さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉じ籠って寝転んでるしさ。――そうして他人には財産を藤尾にやって自分は流浪するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「宗近の阿爺の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質ですね。それより早く糸子さんでも貰ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶を卸して、炭取を取り上げた。隙間なく渋の洩れた劈痕焼に、二筋三筋藍を流す波を描いて、真白な桜を気ままに散らした、薩摩の急須の中には、緑りを細く綯り込んだ宇治の葉が、午の湯に腐やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は疾く抜け出した香のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を敲くほどは、さほどとも思えぬが、縁に近くようやく色を増して、濃き水は泡を面に片寄せて動かずなる。
母は掻き馴らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭の白き残骸の完きを毀ちて、心に潜む赤きものを片寄せる。温もる穴の崩れたる中には、黒く輪切の正しきを択んで、ぴちぴちと活ける。――室内の春光は飽くまでも二人の母子に穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴の春を司どる人の歌めく天が下に住まずして、半滴の気韻だに帯びざる野卑の言語を臚列するとき、毫端に泥を含んで双手に筆を運らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須と、佐倉の切り炭を描くは瞬時の閑を偸んで、一弾指頭に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、一もよっぽど剽軽者だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
厩と鳥屋といっしょにあった。牝鶏の馬を評する語に、――あれは鶏鳴をつくる事も、鶏卵を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は滑らかな頬に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠の鉄砲玉は鉛を鎔かして鋳る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は飽くまでも真面目である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、端なくも母の疑問を起す。子を知るは親に若かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども唐、天竺である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき眉の下から、娘を屹と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。筍を輪切りにすると、こんな風になる。張のある眉に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお籠る何物かがちょっと閃いてすぐ消えた。母は相槌を打つ。
「あんな見込のない人は、私も好かない」
趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶の頭はかんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じ剣である。
「いっそ、ここで、判然断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺が、あの金時計を一にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具にして、赤い珠ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって繰っ着いて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談半分に皆の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに謎だと思ってるんですか」
「宗近の阿爺の口占ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の角に敲きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える柘榴石は、蒔絵の蘆雁を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。朧とも化けぬ浅葱桜が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今少時と護る椽に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かな灯が宗近家の座敷に点る。静かなる夜を陽に返す洋灯の笠に白き光りをゆかしく罩めて、唐草を一面に高く敲き出した白銅の油壺が晴がましくも宵に曇らぬ色を誇る。灯火の照らす限りは顔ごとに賑やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火の周囲に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好と思う。
「それじゃ相輪も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた顎はやむを得ず二重に折れている。頭はだいぶ禿げかかった。これを時々撫でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪た何ですか」と宗近君は阿爺の前で変則の胡坐をかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の襟を正しく坐っている。甲野さんが問い懸けられた時、然な糸子の顔は揺いた。
「相輪はなかったようだね」と甲野さんは手を膝の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「阿爺何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼の波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行くばかりで飛脚同然だからいけない。――叡山には東塔、西塔、横川とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火は明かに揺れる。糸子は袖を口へ当てて、崩しかかった笑顔の収まり際に頭を上げながら、眸を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺の区域だね。広い山の中に、あすこに一と塊まり、ここに一と塊まりと坊が集まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「東は修羅、西は都に近ければ横川の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番淋しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪から五十丁も這入らなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶にもあるだろう。――かように候ものは、西塔の傍に住居する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺さん叡山の総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「開基かい。開基は伝教大師さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体昔しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前、叡山の麓で生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人は想こそ無上なれと説いた。逝く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今載せて杳然と去るを思わぬが世の常である。堂に法華と云い、石に仏足と云い、に相輪と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を記して吾事畢ると思うは屍を抱いて活ける人を髣髴するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山に登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。大法鼓を鳴らし、大法螺を吹き、大法幢を樹てて王城の鬼門を護りし昔しは知らず、中堂に仏眠りて天蓋に蜘蛛の糸引く古伽藍を、今さらのように桓武天皇の御宇から堀り起して、無用の詮議に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人の所作である。現在は刻をきざんで吾を待つ。有為の天下は眼前に落ち来る。双の腕は風を截って乾坤に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山一刹の指揮によって、夜来、日来に面目を新たにするものじゃと思い籠めたように、々として叡山を説く。説くは固より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を択んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外真面目である。
「阿爺叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦を食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆」
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「到底のらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を競り出して笑った。洋灯の蓋が喫驚するくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院と云って、延暦寺となったのはだいぶ後の事だ。その時分から妙な行があって、十二年間山へ籠り切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見かな」
と宗近君が今度は独語のように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に背く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ籠ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっと噴き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を逆に撫でる。垂れ懸った頬の肉が顫え落ちそうだ。糸子は俯向いて声を殺したため二重瞼が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫だ。――欽吾さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母さんが心配するだろう」
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然として天地の間に懸っている。世界滅却の日をただ一人生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「一にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
老人は自分の心で、わが母の心を推している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今夕の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。
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九
真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそかなる黄を、一本の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く憚かりの呼吸を吹くようである。
今までは珠よりも鮮やかなる夢を抱いていた。真黒闇に据えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に懸ける暇もなかった。懐に抱く珠の光りを夜に抜いて、二百里の道を遥々と闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海に幾分か往昔の輝きを失った。
小夜子は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて逢う瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬が吠える。自からも、わが来る所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に蔵してなおさらに疑を路上に受くるような気がする。
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫の油は容易に油壺の中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。小夜子の世界は新橋の停車場へぶつかった時、劈痕が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
小野さんも同じ事である。打ち遣った過去は、夢の塵をむくむくと掻き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜から出す。おやと思う間に、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息の根を留めて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく向で吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛の時節を誤って、暖たかき陽炎のちらつくなかに甦えるのは情けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば労らねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の袖に隠れて見た。紫の匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を据えかける途端に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
「阿父は」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、蒸れやすき髪に櫛の歯を入れる暇もない。不断着の綿入さえ見すぼらしく詩人の眼に映る。――粧は鏡に向って凝らす、玻璃瓶裏に薔薇の香を浮かして、軽く雲鬟を浸し去る時、琥珀の櫛は条々の翠を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
「御忙しいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日も一昨日も会がありまして……」
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ己れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向いて、膝に載せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾の指輪とは無論比較にはならぬ。
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井の白茶けた板の、二た所まで節穴の歴然と見える上、雨漏の染みを侵して、ここかしこと蜘蛛の囲を欺く煤がかたまって黒く釣りを懸けている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸が一本横に貫ぬいて、長い方の端が、思うほど下に曲がっているのは、立ち退いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢でもぶら下げたものだろう。次の間を立て切る二枚の唐紙は、洋紙に箔を置いて英吉利めいた葵の幾何模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい縁の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく椽に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上ほどもない。丈に足らぬ檜が春に用なき、去年の葉を硬く尖らして、瘠せこけて立つ後ろは、腰高塀に隣家の話が手に取るように聞える。
家は小野さんが孤堂先生のために周旋したに相違ない。しかし極めて下卑ている。小野さんは心のうちに厭な住居だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣に辛夷を添わせて、松苔を葉蘭の影に畳む上に、切り立ての手拭が春風に揺らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「御蔭さまで、好い家が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら情けない。ある人に奴鰻を奢ったら、御蔭様で始めて旨い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑したそうである。
いじらしいのと見縊るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が祟ったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好い家でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好なのがなくって……」
と云い懸けると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
細い面をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣は背広に変っている。五分刈は光沢のある毛に変っている。――髭は一躍して紳士の域に上る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。襟は卸し立てである。飾りには留針さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った品の好い胴衣の隠袋には――恩賜の時計が這入っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
五年の間一日一夜も懐に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東長短の袂を分かって、離愁を鎖す暮雲に相思の関を塞かれては、逢う事の疎くなりまさるこの年月を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気に生い立った阿蒙の変りかたではない。色の褪めた過去を逆に捩じ伏せて、目醒しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が恨めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
新橋へは迎に来てくれた。車を傭って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛親子して寝る庵を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。小さい手提の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛といっしょに先へ行った、刻み足の後ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々と来た二人を案内するためではなく、時候後れの親子を追い越して馳け抜けるためのように見える。割符とは瓜二つを取ってつけて較べるための証拠である。天に懸る日よりも貴しと護るわが夢を、五年の長き香洩る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退いている。握る割符は通用しない。
始めは穴を出でて眩き故と思う。少し慣れたらばと、逝く日を杖に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
やさしく咽喉に滑べり込む長い顎を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭を見た。変る髪の風と変る装とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息を吐いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯を逆に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花を看る人は星月夜のごとく夥しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか情けない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣の温泉などは立派に普請が出来て……」
「そうですか」
「小督の局の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「彼所いらは皆掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
「毎年俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓しませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向に返る。金縁の眼鏡と薄黒い口髭がすぐ眸に映る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の緒の、するすると抜け出しそうな咽喉を抑えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角を曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。品のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳ばかりで、いたずらに育った縞柄と、用い古るした琴が恨めしい。琴は蔽のまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。膝に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶が、行儀よく、鬢の末を潜り抜けて、頬と頸の続目が、暈したように曲線を陰に曳いて去る。見事な画である。惜しい事に真向に座った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵を、地に滅り込むほどに回らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻える袖の香が、濃き紫の眉間を掠めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広の胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ宜しく」
「あの……」と口籠っている。
相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと急き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し悪くなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道に離れて行く。未練も会釈もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然として、椽に近く坐った。
降らんとして降り損ねた空の奥から幽かな春の光りが、淡き雲に遮ぎられながら一面に照り渡る。長閑かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶しい。どこやらで琴の音がする。わが弾くべきは塵も払わず、更紗の小包を二つ並べた間に、袋のままで淋しく壁に持たれている。いつ欝金の掩を除ける事やら。あの曲はだいぶ熟れた手に違ない。片々に抑えて片々に弾く爪の、安らかに幾関の柱を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日のように思う。ちらちらに昼の蛍と竹垣に滴る連に、朝から降って退屈だと阿父様がおっしゃる。繻子の袖口は手頸に滑りやすい。絹糸を細長く目に貫いたまま、針差の紅をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮かに眼を醒ませと、への字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥ねた。曲はたしか小督であった。狂う指の、憂き昼を、くちゃくちゃに揉みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇を破る烏の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日を明日と、その日に数る命は、文も理も危い。……
格子ががらりと開く。古の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも苛い埃でね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭な所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋をはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、提げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目に逢った」
「おやおや」と気の毒そうに微笑んだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭で大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈まがいの黄な縞を取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「阿父も敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――価が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り損なってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々しいから帰りには歩いて来た」
「御草臥なすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で髯も何も埃だらけになっちまった。こら」と右手の指を四本并べて櫛の代りに顎の下を梳くと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入んなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分苛くってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と廂の外を下から覗いて見る。空は曇る心持ちを透かして春の日があやふやに流れている。琴の音がまだ聴える。
「おや琴を弾いているね。――なかなか旨い。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような烈しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に笑を浮べて見せる。老人は世に疎いわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談を……」
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「阿父様」
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で逢った時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
後の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が欝ぐものでね。今日なぞは阿父などにもよくない天気だ」
気が欝ぐのは秋である。餅と知って、酒の咎だと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっと琴でも弾いちゃどうだい。気晴に」
娘は浮かぬ顔を、愛嬌に傾けて、床の間を見る。軸は空しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、竪に截って、欝金の蔽が春を隠さず明らかである。
「まあ廃しましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々博士論文を出すんだそうで……」
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の己れには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問に凝ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに緩くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を利かなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。
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十
謎の女は宗近家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅と云う。あるいは雀はちゅちゅで烏はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋の中へ入れて、方寸の杉箸に交ぜ繰り返す。芋をもって自からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石のようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽の面には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真率なる快活なる宗近家の大和尚は、かく物騒な女が天が下に生を享けて、しきりに鍋の底を攪き廻しているとは思いも寄らぬ。唐木の机に唐刻の法帖を乗せて、厚い坐布団の上に、信濃の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から鉢の木を謡っている。謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの妖婆は鍋の中に天下の雑物を攫い込んだ。石の影に三十日の毒を人知れず吹く夜の蟇と、燃ゆる腹を黒き背に蔵す蠑の胆と、蛇の眼と蝙蝠の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて尖れる爪は、世を咀う幾代の錆に瘠せ尽くしたる鉄の火箸を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を泡と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間である。鍋の底からは愛嬌が湧いて出る。漾うは笑の波だと云う。攪き淆ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが品よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛である。大和尚の怖がらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな掌を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その後は……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ後をつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾や藤尾が出まして、御厄介にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
頭はここでようやく上がる。阿父はほっと気息をつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく暖かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど盛でしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日前がちょうど観頃でございましたが、一昨日の風で、だいぶ傷められまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは凄いような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川には緋桜と云うのがあるが、浅葱桜は珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家に云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気なものでアハハハハ。――どうです粗菓だが一つ御撮みなさい。岐阜の柿羊羹」
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、旨いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸を上げて皿の中から剥ぎ取った羊羹の一片を手に受けて、独りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野の母は切り出した。
「せんだって中は欽吾がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合が出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家にさえいるとあなた、妹にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人の病気のせいだから、今さら愚癡をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目に答えたが、ついでに灰吹をぽんと敲いて、銀の延打の煙管を畳の上にころりと落す。雁首から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって家へ見えた時などは皆と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
「彼人の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
謎の女は自分の思う事を他に云わせる。手を下しては落度になる。向うで滑って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海を知らぬ間に用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮申すのでございますが――どう在っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥ねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳になっても心配は絶えませんね」
「此方様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母私はこんな身体で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟を貰って、阿母さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
謎の女は和尚をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀の蓋を丁寧に被せる。煙管は転がった。
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して生の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を利きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
和尚は手提の煙草盆の浅い抽出から欝金木綿の布巾を取り出して、鯨の蔓を鄭重に拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い悪ければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障らないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ後が大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、疳が高くなってちゃあ」
「まるで腫物へ障るようで……」
「ふうん」と和尚は腕組を始めた。裄が短かいので太い肘が無作法に見える。
謎の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言と遽色である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を揃えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人が断然家を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
「聟かね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「左様さね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳ですい」
「もう、明けて四になります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌を下から覗き込むようにする。
「いえもう、身体ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話は放って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、一さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気な女だと覚し召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実は私の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日と云う訳にも行かないですが、晩かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの方なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母の御考は」
「あの通行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり叶ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人に困りますので。一さんは宗近家を御襲ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡くなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜しい――のでございますが」
謎の女の云う事はしだいに湿気を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。辛うじて謎の女の謎をここまで叙し来った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭だと云う。日を作り夜を作り、海と陸とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄妹が活動する。六畳の中二階の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽の鉢に、蟠まる根を盛りあげて、くの字の影を椽に伏せる。一間の唐紙は白地に秦漢瓦鐺の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床は、軸を嫌って、籠花活に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、彩と乱して、糸屑のこぼるるほどの抽出を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方は、一針ごとに春を刻む幽かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這は弥生の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指の先でしきりに敷居を敲いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで余り儲かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父が苔盛園で二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆でもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ私は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
「阿父さまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日が中って二階の方が松のために好いって」
「阿爺も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎でしょう」
「いやに光つくじゃないか。兄さんのかい」
「阿爺のよ」
「阿爺のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無以後御見限りだね」
「あらいやだ。あんな嘘ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏が多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠をかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想に」
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、欄干の隙間から庭前の植込を頬杖に見下している。
「まだあるのよ。一寸」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと撮んだ合せ目を、見る間に括けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔を障子へ向けて、可愛らしい二重瞼を細くする。宗近君は依然として長閑な心を頬杖に託して庭を眺めている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
下顎は頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉から鼻へ抜ける。
「あし。分ったでしょう」
「う。うん」
紺の糸を唇に湿して、指先に尖らすは、射損なった針孔を通す女の計である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母が御出よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶わない」
「でも品がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが嫌じゃ、世話の仕栄がない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。荒川から萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山はないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を借してちょうだい」
「そうして裁縫を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石の指環を買ってやる」
「旨いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに鋏はなくって」
「その蒲団の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落かい」
「これ? 奇麗でしょう。縮緬の御申さん」
「御前がこしらえたのかい。感心に旨く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側へ煙草の灰を捨てるのは御廃しなさいよ。――これを借して上げるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の屑をかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのような方が好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「嫌でもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母はしきりに密談をしているね」
「ことに因ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分の家で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣呑だね。それじゃこっちも気息を殺して寝転んでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
裁縫の手を休めて、火熨に逡巡っていた糸子は、入子菱に縢った指抜を抽いて、色に銀の雨を刺す針差を裏に、如鱗木の塗美くしき蓋をはたと落した。やがて日永の窓に赤くなった耳朶のあたりを、平手で支えて、右の肘を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた膝を斜めに崩した。襦袢の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく滑って、くっきりと普通よりは明かなる肉の柱が、蝶と傾く絹紐の下に鮮かである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか無躾に聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女だね。――御前がそう頬杖を突いて針箱へ靠たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴な姿勢だハハハハ」
「沢山御冷やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
云いながら糸子は首を支えた白い腕をぱたりと倒した。揃った指が針箱の角を抑えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、圧し付けられた手の痕を耳朶共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重の瞼は、涼しい眸を、長い睫に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘に撥ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出な色の絹紐がちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「今度の試験の結果はまだ分らないの」
「もう直だろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「好かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある方が好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至だ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦にならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を透して糸子の頬を暖かに射る。俯向いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と翻える襦袢の袖のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨く手が届くね。盲目にすると疳の好い按摩さんが出来るよ」
「だって慣れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴を引く別嬪がいてね」
「端書に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「嘘よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら廃そう」
「その女の方は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目にならなくっても好い。実は嘘だ。全く兄さんの作り事さ」
「悪らしい」
糸子はめでたく笑った。
.
十一
蟻は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存のうちに無聊をかこつ。立ちながら三度の食につくの忙きに堪えて、路上に昏睡の病を憂う。生を縦横に託して、縦横に死を貪るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃に削って、人の精神を擂木と鈍くする。刺激に麻痺して、しかも刺激に渇くものは数を尽くして新らしき博覧会に集まる。
狗は香を恋い、人は色に趁る。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫衣と云い、黄袍と云い、青衿と云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。土堤を走る弥次馬は必ずいろいろの旗を担ぐ。担がれて懸命に櫂を操るものは色に担がれるのである。天下、天狗の鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより赫奕として赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
蛾は灯に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を牽く。金銀、、瑪瑙、琉璃、閻浮檀金、の属を挙げて、ことごとく退屈の眸を見張らして、疲れたる頭を我破と跳ね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌に鏤たる宝石が独り幅を利かす。金剛石は人の心を奪うが故に人の心よりも高価である。泥海に落つる星の影は、影ながら瓦よりも鮮に、見るものの胸に閃く。閃く影に躍る善男子、善女子は家を空しゅうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
花電車が風を截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺で卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。
岡は夜を掠めて本郷から起る。高き台を朧に浮かして幅十町を東へなだれる下り口は、根津に、弥生に、切り通しに、驚ろかんとするものを枡で料って下谷へ通す。踏み合う黒い影はことごとく池の端にあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
松高くして花を隠さず、枝の隙間に夜を照らす宵重なりて、雨も降り風も吹く。始めは一片と落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中は見るからに、万紅を大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、梢から後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪はいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやく収った。星ならずして夜を護る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは点いた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
薄の穂を丸く曲げて、左右から重なる金の閃く中に織り出した半月の数は分からず。幅広に腰を蔽う藤尾の帯を一尺隔てて宗近君と甲野さんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「糸子さん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子を眉深く被って立つ。
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の衣の色は黄に似て夜を欺くを、黒いものが幾筋も竪に刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「貴所方は」と糸子を差し置いて藤尾が振り返る。黒い髪の陰から颯と白い顔が映す。頬の端は遠い火光を受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは楽があるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯を真直に立てたまま藤尾を見下した。
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ但書を附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は旨く中ると俗になるのが通例だ」
「中ると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に外れる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると旨く中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味くって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。聴いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼の角から欽吾を見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が無邪気に聞く。
の線を闇に渡して空を横に切るは屋根である。竪に切るは柱である。斜めに切るは甍である。朧の奥に星を埋めて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻の穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。卍を描いて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して帝座の真中を貫けとばかり抛げ上げた。かくして塔は棟に入り、棟は床に連なって、不忍の池の、此方から見渡す向を、右から左へ隙間なく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
藍を含む黒塗に、金を惜まぬ高蒔絵は堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄を描き、円塔方柱の数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横に空を走るの線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形を崩す気色が見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「冠に紅玉を嵌めたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向いた。
空は低い。薄黒く大地に逼る夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下がっている。柱と連なり、甍と積む万点のは逆しまに天を浸して、寝とぼけた星の眼を射る。星の眼は熱い。
「空が焦げるようだ。――羅馬法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中から上野の森へかけて大いなる圜を画いた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支なしか。とにかく女王の冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗よ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に圧し付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底から、腐った蓮の根がそろそろ青い芽を吹きかけている。泥から生れた鯉と鮒が、闇を忍んで緩やかにを働かしている。イルミネーションは高い影を逆まにして、二丁余の岸を、尺も残さず真赤になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色を作す。泥に潜む魚の鰭は燃える。
湿えるは、一抹に岸を伸して、明かに向側へ渡る。行く道に横わるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりと截って長い橋を西から東へ懸ける。白い石に野羽玉の波を跨ぐアーチの数は二十、欄に盛る擬宝珠はことごとく夜を照らす白光の珠である。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とに聚った。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列に空に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人で埋っている」
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは孤堂先生と小夜子を連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天の祠を抜けて圧して来る。向が岡を下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲を捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただ揉まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸に見出して、安々と踵を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう後ろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し潰すために皆が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢の間に立って、多数より優れたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存の自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる後家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負って、幅の利かぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎められるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋の大さが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
「阿爺、大丈夫」と後から呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然に押して行けば世話はない」と挟まった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬に笑を見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯が孤堂先生の黒い帽子を掠めて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元で指す。手を出せば人の肩で遮ぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足を揃える暇もなく、そのまま日和下駄の前歯を傾けて背延をする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民が押しかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人を援ける事を拒まぬ親切な人間である。
文明の波は自から動いて頼のない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へ崩れ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
暗い底に藍を含む逝く春の夜を透かして見ると、花が見える。雨に風に散り後れて、八重に咲く遅き香を、夜に懸けん花の願を、人の世の灯が下から朗かに照らしている。朧に薄紅の螺鈿を鐫る。鐫ると云うと硬過る。浮くと云えば空を離れる。この宵とこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうも怖ろしい人だね」と追いついた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早く家へ帰りたくなった。どうも怖しい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛の子のように暗い森を蔽うて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
数は勢である。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも御玉杓子のうじょうじょ湧く所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなくひり出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで紛れるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だって怖くって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海の湧き返る薄黒い倫敦で、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐もなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重の壁に遮られて隣りの家に煤けた空を眺めている。それでも逢えぬ、一生逢えぬ、骨が舎利になって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古に隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい女連はだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶は廃しにするかね」
「でも欽吾さんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなか旨い事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女には敵わない」と甲野さんは断案を下した。
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮普請の入口を跨ぐと、小い卓に椅子を添えてここ、かしこに併べた大広間に、三人四人ずつの群がおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんの袂をぐいと引いた。後の藤尾はすぐおやと思う。しかし仰山に何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこが空いている」とずんずん奥へ這入って行く。あとを跟けながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。後ろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しい輝を帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と何気なき糸子は、優しい肩を斜めに捩じ向けた。
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰を卸した三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に所択ばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、遥か隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向に見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、顎の下に抜くも嬾うく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるる憂き髯は小夜子の方に向いている。
「あら御連があるのね」と糸子は頸をもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上に竪に挟んだ燐寸箱の横側をしゅっと擦った。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、別嬪だろう」と宗近君は糸子に調戯かける。
俯目に卓布を眺めていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしい方ね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と素気なく云い放つ。極めて低い声である。答を与うるに価せぬ事を聞かれた時に、――相手に合槌を打つ事を屑とせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻煙草の灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も下向になって燐寸を擦る。刹那に藤尾の眸は宗近君の額を射た。宗近君は知らない。啣えた巻煙草に火を移して顔を真向に起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒を」と云いながら角砂糖を茶碗の中へ抛り込む。蟹の眼のような泡が幽かな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子は匙でぐるぐる攪き廻している。
「そら阿爺が云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が嫌だよ。柿羊羹か味噌松風、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラの傍へ持って行くとすぐ軽蔑されてしまう」
「そう阿爺の悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる気遣はないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上り。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖を口いっぱいに頬張る。
「ホホホホ一人で饒舌って……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗を卸して、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、瞬もせず窓を通して映る、イルミネーションの片割を専念に見ている。兄の首はしだいに故の位地に帰る。
四人が席を立った時、藤尾は傍目も触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂然として入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒落に女の肩を敲く。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちは楽がある。女は仕合せなものだ」と再び人込へ出た時、何を思ったか甲野さんは復前言を繰り返した。
驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! 家へ帰って寝床へ這入るまで藤尾の耳にこの二句が嘲の鈴のごとく鳴った。
.
十二
貧乏を十七字に標榜して、馬の糞、馬の尿を得意気に咏ずる発句と云うがある。芭蕉が古池に蛙を飛び込ますと、蕪村が傘を担いで紅葉を見に行く。明治になっては子規と云う男が脊髄病を煩って糸瓜の水を取った。貧に誇る風流は今日に至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれを卑しとする。
仙人は流霞を餐し、朝を吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像に耽るためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
文明の詩は金剛石より成る。紫より成る。薔薇の香と、葡萄の酒と、琥珀の盃より成る。冬は斑入の大理石を四角に組んで、漆に似たる石炭に絹足袋の底を煖めるところにある。夏は氷盤に莓を盛って、旨き血を、クリームの白きなかに溶し込むところにある。あるときは熱帯の奇蘭を見よがしに匂わする温室にある。野路や空、月のなかなる花野を惜気も無く織り込んだ綴の丸帯にある。唐錦小袖振袖の擦れ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を完うするために金を得ねばならぬ。
詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の行を愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴の実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
詩人ほど金にならん商買はない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共他の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾に頼たくなるのは自然の数である。あすこには中以上の恒産があると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥と長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾は多病である。実の娘に婿を取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占があたればいつも吉である。急いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、自ら開くべき優曇華の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲をとらぬ、またとれぬ男である。
天地はこの有望の青年に対して悠久であった。春は九十日の東風を限りなく得意の額に吹くように思われた。小野さんは優しい、物に逆わぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢と背を向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁にも較ぶべきほどの暗い小い点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと留っている。仰ぐとぐるぐる旋転しそうに見える。ぱっと散れば白雨が一度にくる。小野さんは首を縮めて馳け出したくなる。
四五日は孤堂先生の世話やら用事やらで甲野の方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜は出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、濃やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の考に間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸な男である。
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を開けた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見える栞があらわれる。小野さんは左の手に栞を滑らして、細かい活字を金縁の眼鏡の奥から読み始める。五分ばかりは無事であったが、しばらくすると、いつの間にやら、黒い眼は頁を離れて、筋違に日脚の伸びた障子の桟を見詰めている。――四五日藤尾に逢わぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日でもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身には梳る間も千金である。逢えば逢うたびに願の的は近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まる縁はない。のみならず、魔は節穴の隙にも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、籠る一夜に月は入る。等閑のこの四五日に藤尾の眉にいかな稲妻が差しているかは夢測りがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
芭蕉布の襖を開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李が見える。小野さんは行李の上に畳んである背広を出して手早く着換え終る。帽子は壁に主を待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒の上草履に、カシミヤの靴足袋を無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談か」と行こうとすると、卸し立ての草履が片方足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホ余まり周章るもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変真面目ですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛な顔をして障子の傍に上草履を揃えたまま廊下の突き当りを眺めている。何が出てくるかと思う。焦茶の中折が鴨居を越すほどの高い背を伸して、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開の狭い胴衣から白い襯衣と白い襟が著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳を、見栄のせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴の隠袋に挿し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを曲ると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の端にあらわれた。海老茶色の緞子の片側が竜紋の所だけ異様に光線を射返して見える。在来りの銘仙の袷を、白足袋の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢らしいものがちらと色めいた。同時に遮ぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女の視線は御互の顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけは崩さない。女ははっと躊躇う。やがて頬に差す紅を一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油を注さぬ黒髪に、漣の琥珀に寄る幅広の絹の色が鮮な翼を片鬢に張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶をする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入んなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足に廊下を滑って来る。
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入る。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話を促がす。
「昨夜は御忙しいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭さまで」と云う顔は何となく窶れている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込へは滅多に出つけた事がないもんですから」
文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて怖がるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えて淋しく笑った。
「先生も雑沓する所が嫌でしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を外して、畳の上に置いてある埋木の茶托を眺める。京焼の染付茶碗はさっきから膝頭に載っている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋から煙草入を取り出す。闇を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金に、銀の冴えたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
忙しがる小野を無理に都合させて、好かぬ人込へわざわざ出掛けるのも皆自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、袖振り交わして、長閑な歩を、春の宵に併んで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇った。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態染みた料簡からではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味が籠っている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色をどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み馴れた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の中ではそれほど性に合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた口籠る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭のする煙草を燻らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌も御前の舵の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪を支配する人間から、素知らぬ顔ですきかきらいかを尋ねられるのは恨めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達せぬのかと思う。
胴衣の隠袋から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と旨い具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少し焦慮くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、私が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び水泡に帰した。小夜子は悄然として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載せて手早く表へ出る。――同時に逝く春の舞台は廻る。
紫を辛夷の弁に洗う雨重なりて、花はようやく茶に朽ちかかる椽に、干す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎が立つ。黒きを外に、風が嬲り、日が嬲り、つい今しがたは黄な蝶がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、後ろからさす日の影に、耳を蔽うて肩に流す鬢の影に、しっとりとして仄である。千筋にぎらついて深き菫を一面に浴せる肩を通り越して、向う側はと覗き込むとき、眩ゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思う蓼の花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかの細りした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は寄木の小机に肱を持たせて俯向いている。
心臓の扉を黄金の鎚に敲いて、青春の盃に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背けるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いて妄りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地には花吹雪、一年を重ねて二十に至って愛の神は今が盛である。緑濃き黒髪を婆娑とさばいて春風に織る羅を、蜘蛛の囲と五彩の軒に懸けて、自と引き掛る男を待つ。引き掛った男は夜光の璧を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂を逆にして、後の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教の牧師は救われよという。臨済、黄檗は悟れと云う。この女は迷えとのみ黒い眸を動かす。迷わぬものはすべてこの女の敵である。迷うて、苦しんで、狂うて、躍る時、始めて女の御意はめでたい。欄干に繊い手を出してわんと云えという。わんと云えばまたわんと云えと云う。犬は続け様にわんと云う。女は片頬に笑を含む。犬はわんと云い、わんと云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾を逆にして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
石仏に愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜して憚からぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼る。相手を愛するの資格を具えざるがためである。たる美目に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危い。倩たる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午である。藤尾は己れのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
愛の対象は玩具である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄ばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。
我を立てて恋をするのは、火事頭巾を被って、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてを溶かす。角張った絵紙鳶も飴細工であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きに渉ってもふやける気色を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
沙翁は女を評して脆きは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通す昂れる恋は、炊ぎたる飯の柔らかきに御影の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。噛み締めるものに護謨の弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを択んだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近君を捕るは容易である。宗近君を馴らすは藤尾といえども困難である。我の女は顋で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌の璧を懐に抱いて来る。夢にだもわれを弄ぶの意思なくして、満腔の誠を捧げてわが玩具となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが眉に、わが唇に、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
唯々として来るべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄き粧を日ごとにして我の角を鏡の裡に隠していた。その五日目の昨夕! 驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! 嘲の鈴はいまだに耳の底に鳴っている。小机に肱を持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背を椽に、顔を影なる居住は、考え事に明海を忌む、昔からの掟である。
縄なくて十重に括る虜は、捕われたるを誇顔に、麾けば来り、指せば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人と併んで姿見に向った時、大丈夫写るは君と我のみと、神懸けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見た事もない他人である。驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
冴えぬ白さに青味を含む憂顔を、三五の卓を隔てて電灯の下に眺めた時は、――わが傍ならでは、若き美くしき女に近づくまじきはずの男が、気遣わし気に、また親し気に、この人と半々に洋卓の角を回って向き合っていた時は、――撞木で心臓をすぽりと敲かれたような気がした。拍子に胸の血はことごとく頬に潮す。紅は云う、赫としてここに躍り上がると。
我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。有ども無きがごとくに装え。昂然として水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違ない。これが復讐である。
我の女はいざと云う間際まで心細い顔をせぬ。恨むと云うは頼る人に見替られた時に云う。侮に対する適当な言葉は怒である。無念と嫉妬を交ぜ合せた怒である。文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死に優る不面目と思う。小野さんはたしかに淑女を辱しめた。
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰依の頭を下げながら、二心の背を軽薄の街に向けて、何の社の鈴を鳴らす。牛頭、馬骨、祭るは人の勝手である。ただ小野さんは勝手な神に恋の御賽銭を投げて、波か字かの辻占を見てはならぬ。小野さんは、この黒い眼から早速に放つ、見えぬ光りに、空かけて織りなした無紋の網に引き掛った餌食である。外へはやられぬ。神聖なる玩具として生涯大事にせねばならぬ。
神聖とは自分一人が玩具にして、外の人には指もささせぬと云う意味である。昨夕から小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――肱を持たして、俯向くままの藤尾の眉が活きて来る。
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我は愛を八つ裂にする。面当はいくらもある。貧乏は恋を乾干にする。富貴は恋を贅沢にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。尖る錐に自分の股を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっとも価ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠る。逆しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は我! 我! と叫ぶ。――藤尾は俯向ながら下唇を噛んだ。
逢わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪らせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口の中で云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
よし来ても昨夜の女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分を焦らす料簡だろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人が仄かした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
小野はどうしても詫らせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面にあてつけた二人の悪戯は何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で貫こうと、洗髪の後に顔を埋めて考えている。
静かな椽に足音がする。背の高い影がのっと現われた。絣の袷の前が開いて、肌につけた鼠色の毛織の襯衣が、長い三角を逆様にして胸に映る上に、長い頸がある、長い顔がある。顔の色は蒼い。髪は渦を捲いて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日は櫛を入れないとも思われる。美くしいのは濃い眉と口髭である。髭の質は極めて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣を具えて何となく人柄に見える。腰は汚れた白縮緬を二重に周して、長過ぎる端を、だらりと、猫じゃらしに、右の袂の下で結んでいる。裾は固より合わない。引き掛けた法衣のようにふわついた下から黒足袋が見える。足袋だけは新らしい。嗅げば紺の匂がしそうである。古い頭に新らしい足の欽吾は、世を逆様に歩いて、ふらりと椽側へ出た。
拭き込んだ細かい柾目の板が、雲斎底の影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負った黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入る。足袋の主は見なくても知れている。
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は後でする。雨戸の溝をすっくと仕切った栂の柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗髪を見下した。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇の首を擡げた時のようである。黒い髪に陽炎を砕く。
男は、眼さえ動かさない。蒼い顔で見下している。向き直った女の額をじっと見下している。
「昨夕は面白かったかい」
女は答える前に熱い団子をぐいと嚥み下した。
「ええ」と極めて冷淡な挨拶をする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
女は急いて来る。勝気な女は受太刀だなと気がつけば、すぐ急いて来る。相手が落ちついていればなお急いて来る。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んで置きながら悠々として柱に倚って人を見下しているのは、酒を飲みつつ胡坐をかいて追剥をすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちは楽があるんでしょう」
女は逆に寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下している。意味が通じた気色さえ見えぬ。欽吾の日記に云う。――ある人は十銭をもって一円の十分一と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人に依って高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾の間にはこれだけの差がある。段が違うものが喧嘩をすると妙な現象が起る。
姿勢を変えるさえ嬾うく見えた男はただ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
「楽?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する気遣がない」
藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のように楽の多いものは危ないよ」
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり見下している。何事とも知らず「埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」と云う句を明かに思い出す。
「小野は相変らず来るかい」
藤尾の眼は火打石を金槌の先で敲いたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と云う。
藤尾はぎりぎりと歯を噛んだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱に倚っている。
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分私があずかって置きます」
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄木の机に凭せた肘を跳ねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊と海老茶の棒縞が、棒のごとく揃って立ち上がる。裾だけが四色の波のうねりを打って白足袋の鞐を隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底の踵を見せて、向へ行ってしまった。
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土に籠る青味を蒸し返して、湿りながらに暖かき大地を踏んで近づいて来る。磨き上げた山羊の皮に被る埃さえ目につかぬほどの奇麗な靴を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいて来る。
世を投げ遣りのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織の紐を丸打に結んで、細い杖に本来空の手持無沙汰を紛らす甲野さんと、近づいてくる小野さんは塀の側でぱたりと逢った。自然は対照を好む。
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け応があった。そのまま洋杖は動かなくなる。本来は洋杖さえ手持無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは躊躇する。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下から覗き込んだ。
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――昨夕見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。時鳥は一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして連があった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまず繋ぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「何時頃?」の方が便宜ではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が明暸になる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、咽喉の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の垢ほど先を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻えす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと指図をしたらしく感じた時、後から押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから遠退いた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖に牽かれて故へ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴の踵に宿り、時あって杖の先に潜む。魂を描く事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
一歩の空間を行き尽した靴は、光る頭を回らして、棄身に細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく真直に立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことに因ると今日は下読が出来ていないかも知れない」
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく被ったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関に掛かる。
小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に倚りながら、席に返らぬ爪先を、雨戸引く溝の上に翳して、手広く囲い込んだ庭の面を眺めている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、謎の女は立て切った一間のうちで、鳴る鉄瓶を相手に、行く春の行き尽さぬ間を、根限り考えている。
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の考は、すべてこの一句から出立する。この一句を布衍すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶の音を聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑のある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
居住は心を正す。端然と恋に焦れたもう雛は、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
老いて夫なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上に忌わしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬ掟は忌わしいのみか情けない。謎の女は自を情ない不幸の人と信じている。
他人でも合わぬとは限らぬ。醤油と味淋は昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょに呑めば咳が出る。親の器の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を経れば日を重ねて隔りの関が出来る。この頃は江戸の敵に長崎で巡り逢ったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌に逆って、師走正月の拍子をはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子としては不都合と思う。こんなものに死水を取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
幸と藤尾がいる。冬を凌ぐ女竹の、吹き寄せて夜を積る粉雪をぴんと撥ねる力もある。十目を街頭に集むる春の姿に、蝶を縫い花を浮かした派出な衣裳も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦らしてこそ、育て上げた母の面目は揚る。海鼠の氷ったような他人にかかるよりは、羨しがられて華麗に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
蘭は幽谷に生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名ある聟を取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は今日まで出来ずにいた。燦として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず愛嬌があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
小野さんは申分のない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利かぬ。無一物の某を入れて、おとなしく嫁姑を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。夫が外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有に帰してしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の赤裸になれるものなら、降って湧いた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る衣裳はそう無雑作に剥ぎ取れるものではない。降りそうだから傘をやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人が濡れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の思わくもある。そこに謎が出来る。くれると云うのは本気で云う嘘で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、厭々ながら受取った顔つきに、文明の手前を繕わねばならぬ。そこで謎が解ける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを飽くまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦し紛れの屈託顔に六畳敷を出たのは、焦慮いが高じて、布団の上に坐たたまれないからである。出て見ると春の日は存外長閑で、平気に鬢を嬲る温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ気色が悪くなった。
椽を左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右は鍵の手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱餅の底を渡る気で真直な向う角を見ると藤尾が立っている。濡色に捌いた濃き鬢のあたりを、栂の柱に圧しつけて、斜めに持たした艶な姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手頸だけが白く見える。萩に伏し薄に靡く故里を流離人はこんな風に眺める事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、御母さん」と斜めな身体を柱から離す。振り返った眼つきには愁の影さえもない。我の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と我が聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋鯉が跳ねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――御母さんの部屋では少しも聞えないよ」
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう蓮の葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今始て」と謎が云う。謎ばかり考えているものは迂濶である。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳を畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀が鳴く。時雨れる。木枯が吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所に坐って謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。薄濁のする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽く温む底から、朦朧と朱い影が静かな土を動かして、浮いて来る。滑らかな波にきらりと射す日影を崩さぬほどに、尾を揺っているかと思うと、思い切ってぽんと水を敲いて飛びあがる。一面に揚る泥の濃きうちに、幽かなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去る痕は、一筋のうねりを見せて、去年の蘆を風なきに嬲る。甲野さんの日記には鳥入雲無迹、魚行水有紋と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書でかいてある。春光は天地を蔽わず、任意に人の心を悦ばしむ。ただ謎の女には幸せぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭を畳むと云った。銭のような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の嫩い命を托して、娑婆の風に薄い顔を曝すうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙の薄きに過ぎて、重苦しと碧を厭う柔らかき茶に、日ごとに冒す緑青を交ぜた葉の上には、鯉の躍った、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠となって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色を眺める。鯉はまた躍った。
母は無意味に池の上をていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾は屹と向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ眸を反らす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳走るほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
清水の舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留った。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
「御前――あの人と喧嘩でもしたのかい」
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
昨夕の事を打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母は無論躍起になって、こっちに同情するに違ない。打ち明けて都合が悪いとは露思わぬが、進んで同情を求めるのは、餓に逼って、知らぬ人の門口に、一銭二銭の憐を乞うのと大した相違はない。同情は我の敵である。昨日まで舞台に躍る操人形のように、物云うも懶きわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝かしたり、果は笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさして、面白く興じていた手柄顔を、母も天晴れと、うごめかす鼻の先に、得意の見栄をぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向で、内実の昨夕を見たら、招く薄は向へ靡く。知らぬ顔の美しい人と、睦じく御茶を飲んでいたと、心外な蓋をとれば、母の手前で器量が下がる。我が承知が出来ぬと云う。外れた鷹なら見限をつけてもういらぬと話す。あとを跟けて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ちやった後で、捨てて来たと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかも知れない。いや帰るに違ないと、小夜子と自分を比較した我が証言してくれる。帰って来た時に辛い目に逢わせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさしたりする。そうして、面白そうな手柄顔を、母に見せれば母への面目は立つ。兄と一に見せれば、両人への意趣返しになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉は躍る。蓮は芽を吹く、芝生はしだいに青くなる、辛夷は朽ちた。謎の女はそんな事に頓着はない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におれば何をしているかと思い、考えておれば何を考えているかと思い、藤尾の所へ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱に罹った。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫用すると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。困り切るのはどっちの云い分か分らない。ただ謎の女の方では、飽くまでも欽吾に困り切っている。
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物の挟ったような皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない囈語を云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。一にやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか」
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
椽側を曲って母の影が障子のうちに消えたとき、小野さんは内玄関の方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ廻らず抜けて来る。
磬を打って入室相見の時、足音を聞いただけで、公案の工夫が出来たか、出来ないか、手に取るようにわかるものじゃと云った和尚がある。気の引けるときは歩き方にも現われる。獣にさえ屠所のあゆみと云う諺がある。参禅の衲子に限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんの上にも利く。小野さんは常から世の中に気兼をし過ぎる。今日は一入変である。落人は戦ぐ芒に安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落す靴足袋の黒き爪先に憚り気を置いて這入って来た。
一睛を暗所に点ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もう舐められている。
「今日は……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの眸はぐらついた。
「御無沙汰をしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女は遮った。ただしそれぎりである。
男は出鼻を挫かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶ暖かになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、後は故のごとく静になる。ところへ鯉がぽちゃりとまた跳る。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉がと云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷に注いている。――壺のごとく長い弁から、濃い紫が春を追うて抜け出した後は、残骸に空しき茶の汚染を皺立てて、あるものはぽきりと絶えた萼のみあらわである。
鯉がと云おうとした小野さんはまた廃めた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただいいえと受けた。男は仕損ったと心得て、だいぶ暖になりましたと気を換えて見たが、それでも験が見えぬので、鯉がの方へ移ろうとしたのである。男は踏み留まれるところまで滑って行く気で、気を揉んでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いで汚い腫物を知らぬ人の鼻の前に臭わせると同じ事になる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵とは云わせぬ。今宵限の朧だものと、即興にそそのかされて、他生の縁の袖と袂を、今宵限り擦り合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋めて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支ない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月を、向では離れじと、日の間とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁の色に、細くともこれまで繋ぎ留められた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。その場限りで祟がなければこれほど旨いものはない。しかし中毒たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は実を手繰寄せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便もあるに、隠そうとする身繕、名繕、さては素性繕に、疑の眸の征矢はてっきり的と集りやすい。繕は綻びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身のは生涯洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸に括られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血に通うこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸に暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知を切る当座の嘘は吐きたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
「昨夕博覧会へ御出に……」とまで思い切った小野さんは、御出になりましたかにしようか、御出になったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の鼻面を掠めて、黒い影が颯と横切って過ぎた。男はあっと思う間に先を越されてしまう。仕方がないから、
「奇麗でしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確受け留める。後から
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当がつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。当り障りのない答は大抵の場合において愚な答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を緘んだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛と云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を審にする必要がある。
「誰か御伴がありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと拗ねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の外にですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか渦の中を漕ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつの間にやら平地へ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その隙に
「そんなに忙しいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を後へ引く。長い髪が一筋ごとに活きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳高く笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は茫然としている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。燦たる金剛石がぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆でぴしゃりと頬辺を叩かれた。同時に頭の底で見られたと云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩となる。
「実は一週間前に京都から故の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と嘯きながら頭を低れた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕兄と一さんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の辺に亀屋の出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで皆して御茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、飽くまでも粧う。
「大変旨い御茶でした事。あなた、まだ御這入になった事はないの」
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。
春の影は傾く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜の夢に藤尾は、驚くうちは楽がある! 女は仕合なものだ! と云う嘲の鈴を聴かなかった。
(後編へつづく)
底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
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