虞美人草(中編) 夏目漱石

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虞美人草   (中編)
夏目漱石

 
 
 
 
(承前)
 
 
 
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 七

 
 
 
 
 
 燐寸マッチる事一寸いっすんにして火はやみに入る。幾段の彩錦さいきんめくり終れば無地のさかいをなす。春興は二人ににんの青年に尽きた。狐の袖無ちゃんちゃんを着て天下を行くものは、日記をふところにして百年のうれいいだくものと共に帰程きていのぼる。
古き寺、古きやしろ、神の森、仏の丘をおおうて、いそぐ事をせぬ京の日はようやく暮れた。倦怠けたるい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然はきとは映らぬ。またたくもものうき空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
一人いちにんの一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界になまぐさき雨を浴びる。一人の世界を方寸にまとめたる団子だんしと、他の清濁を混じたる団子と、層々相連あいつらなって千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果いんがの交叉点に据えて分相応の円周を右にかくし左に劃す。いかりの中心よりえがき去る円は飛ぶがごとくにすみやかに、恋の中心より振りきたる円周は※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおあと空裏くうりに焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎かんきつかんをほのめかしてめぐる。縦横に、前後に、上下しょうか四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越しんえつの客ここに舟を同じゅうす。甲野こうのさんと宗近むねちか君は、三春行楽さんしゅんこうらくの興尽きて東に帰る。孤堂こどう先生と小夜子さよこは、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車ではしなくも喰い違った。
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界とひとの世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。けて飛ぶ事がある。あるいは発矢はっしと熱をいて無極のうちに物別れとなる事がある。すさまじき喰い違い方が生涯しょうがいに一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくしておのずからなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただうてただ別れるそでだけのえにしならば、星深き春の夜を、名さえびたる七条しちじょうに、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢ちょうたくする。自然その物は小説にはならぬ。
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとくまぼろしのごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東のかたはこび去ろうか、さらに無頓着むとんじゃくである。世をおそれぬ鉄輪てつわをごとりとまわす。あとは驀地ましぐらやみく。離れて合うを待ちび顔なるを、いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠そらいを意とせざるを、一様につかねて、ことごとく土偶どぐうのごとくに遇待もてなそうとする。こそ見えね、さかんに黒煙くろけむりを吐きつつある。
眠る夜を、生けるものは、提灯ちょうちんの火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒かじぼうが下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影でうずまってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束じっぱひとからげに夜明までに、あかるい東京へし出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらにほごれて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛しゃりょうの戸をはたはたと締めて行く。忽然こつぜんとしてプラットフォームは、る人をいて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛くちぶえはるかのうしろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬに、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都はさびしいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋つたや隣家となりに住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、うちを畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんはひとごとのように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋ずだぶくろたなへ上げた腰をおろしながら笑う。相手は半分顔をそむけて硝子越ガラスごしに窓の外をすかして見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。ごうと云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何マイルくらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐あぐらをかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。むこうたなに載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高のいただきふるわせている。給仕ボーイが時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼をねむっていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車はごうと走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――あんまりだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのはめる時の言葉なんだがな」
「千里の江陵こうりょう一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口をじた。会話はまた途切れる。汽車は例によってごうと走る。二人の世界はしばらくやみの中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長いを糸のごとく照らして動く電灯のもとにあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生れて小夜さよと云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居すまいに、盂蘭盆うらぼん灯籠とうろうを掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊しょうりょうを、東京の苧殻おがらで迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。かかいかりは、おろす絹しなやかになさけすそすべり込む。
紫におごるものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路につらなるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長たけながふるわせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただしたたる絵筆の勢に、うやむやを貫いてかっと染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底にとおって、当時そのかみを裏返す折々にさえあざやかに煮染にじんで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒はるさむふところに暖めつつ、黒く動く一条の車にせて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものをきしめて行く。車は無二無三に走る。野にはみどりをき、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢をいだく人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇くらやみの遠きより切り放して、現実の前にげ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行きうて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごの下に白くなる疎髯そぜんを握ってはむかしを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引きこもって容易には出て来ない。漠々ばくばくたる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々れんれんたるわれを、つれなく見捨て去る当時そのかみに未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩ごましおまじりのひげをぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳いくつの時だったかな」
「学校をめてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山あらしやまへ連れていっていただいたでしょう。御母おかあさんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子だんごもまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋さんげんぢゃやそばべたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母おっかさんも丈夫だったがな。ああ早くくなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分あおい顔をしてね、そうして何だか始終しじゅうおどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和やさしいんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質たちの好い男でも、あのままほうって置けばそれぎり、どこへどう這入はいってしまうか分らない」
「本当にね」
明かなる夢は輪をえがいて胸のうちにめぐり出す。死したる夢ではない。五年の底から浮きりの深き記憶を離れて、咫尺しせきに飛び上がって来る。女はただひとみらして眼前にせまる夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親のひげを忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋までむかえにくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再びおどる。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちをける。老人は髯から手を放す。やがて眼をねむる。人も犬も草も木も判然はきと映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、まわりつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界をいだいて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじとさかう風を打つ。追い懸くる冥府よみの神を、力ある尾にたたいて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青くけぶる向うが一面にり上がって来る。茫々ぼうぼうたる原野のおのずから尽きず、しだいに天にせまって上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、まなこを半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神のを空に鳴く金鶏きんけいの、つばさ五百里なるを一時にはばたきして、みなぎる雲を下界にひらく大虚の真中まんなかに、ほがらかに浮き出す万古ばんこの雪は、末広になだれて、八州のを圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫そうぼううちに、腰から下をうずめている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、むらさきひだあいの襞とをななめに畳んで、白きを不規則なる幾条いくすじに裂いて行く。見上ぐる人はう雲の影を沿うて、蒼暗あおぐら裾野すそのから、藍、紫の深きを稲妻いなずまに縫いつつ、最上の純白に至って、豁然かつぜんとして眼がめる。白きものは明るき世界にすべての乗客をいざなう。
「おい富士が見える」と宗近君が座をすべり下りながら、窓をはたりとおろす。広い裾野すそのから朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝らくだ毛布けっとを頭からかむったまま、存外冷淡である。
「そうか、なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
叡山えいざんよりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変軽蔑けいべつするね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」と宗近君は頭陀袋ずだぶくろたなから取りおろす。へやのなかはざわついてくる。明かるい世界へけ抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯そぜんを一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干そこばくの銀貨を握って、へぎおりを取る左とかえに出す。御茶は部屋のなかで娘がいでいる。
「どうだね」と折のふたを取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋ながいも白茶しらちゃに寝転んでいるかたわらに、一片ひときれの玉子焼が黄色くつぶされようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子ははしらずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てたはしながめながら、ぐっと飲む。
「もうじきですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋ながいもが髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗きれいに見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入はいる。
「小野さんは宿をがして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯めしと返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣よねざわがすりえりを掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄てさげかばんまたいだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪けつまずくと危ない」と注意した。
硝子戸ガラスどを押しけて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直まっすぐに抜ける気で、中途まで来た時、宗近君がうしろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過こわすぎてね。――阿爺おとっさんのように年を取ると、どうもこわいのは胸につかえていけないよ」
「御茶でも上がったら……ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方じんじっぽうに飛びわす小世界の、あまねく天涯てんがいを行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きをいとわず植えつけしかいこの卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半よわを背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世はき落されて、大空の皮を奇麗にぎ取った白日の、隠すなかれと立ちのぼる窓のうちに、四人の小宇宙はぐうを作って、ここぞと互にれ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布たくふを挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表メヌーながめながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕ゆうべ京都の停車場ステーションでは逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるであぶらばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺フォークさかしまにして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々なさけなさそうに白い膏味あぶらみ頬張ほおばる。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
猶太人ユデアじんは豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
猶太人ユデアじんはともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕ボーイ紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女をはずしてしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想けそうして……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手であごささえながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先にえたままぼんやり向うを見ている。
蜜柑みかんが食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」とごうも心配にならない気色けしきで云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶あいさつも聞く料簡りょうけんはなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目まじめに聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児ねんねだね。しかし兄思いだよ。狐の袖無ちゃんちゃんを縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突ひじつきでもこしらえてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面にひろげて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかにれ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日あすの世界を擁して新橋の停車場ステーションに着く。
「さっきけて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、停車場ステーションに突き当って、しばらく、ばらばらとなる。

 
 
 
 
 
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 八

 
 
 
 
 
 一本の浅葱桜あさぎざくらが夕暮を庭に曇る。拭き込んだえんは、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢ながひばち手取形てとりがた鉄瓶てつびんたぎらして前にはしぼ羽二重はぶたえ座布団ざぶとんを敷く。布団の上には甲野こうのの母がひんよくすわっている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、かんすじが裏を通って額へ突き抜けているらしい上部うわべを、浅黒く膚理きめの細かい皮が包んで、外見だけは至極しごく穏やかである。――針を海綿にかくして、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬こうやくって創口きずぐちを快よく慰めよ。出来得べくんばくちびるを血の出る局所にけて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨をあらわすものはほろぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今おろしたかと思われるほどの白足袋しろたびを張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)ふきの椽に引き擦るを軽く蹴返けかえしながら、障子しょうじをすうと開ける。
居住いずまいをそのままの母は、濃いまゆを半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入おはいり」と云う。
藤尾ふじおは無言であとを締める。母のむこうに火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶てつびんはしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目ふしめに眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時にまこと少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春はきつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥いちべつこもる。熱にえざる時は骨をあらわす。
「ふん」
長煙管ながぎせる煙草たばこの殻をちょうとはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人あのひと料簡りょうけんばかりは御母おっかさんにも分らないね」
雲井の煙は会釈えしゃくなく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来てもおんなじ事ですね」
「同じ事さ。生涯しょうがいあれなんだよ」
御母おっかさんのかんの筋は裏から表へ浮き上がって来た。
うちぐのがあんなにいやなんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだからにくいんだよ。あんな事を云って私達わたしたち当付あてつけるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日きょうまでもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。え切らないっちゃありゃしない。彼人あのひとの顔を見るたんびに阿母おっかさん疳癪かんしゃくが起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知しらを切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪をはらむ。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多めったにあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃およしなさい、阿母おっかさんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへこもって寝転んでるしさ。――そうして他人ひとには財産を藤尾にやって自分は流浪るろうするつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
宗近むねちか阿爺おとっさんの所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質たちですね。それより早く糸子いとこさんでももらってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡りょうけんはとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶てつびんおろして、炭取を取り上げた。隙間すきまなくしぶれた劈痕焼ひびやきに、二筋三筋あいを流す波をえがいて、真白ましろな桜を気ままに散らした、薩摩さつま急須きゅうすの中には、緑りを細くり込んだ宇治うじの葉が、ひるの湯にやけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾はく抜け出したかおりのなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底をたたくほどは、さほどとも思えぬが、ふちに近くようやく色を増して、濃き水はあわおもてに片寄せて動かずなる。
母はらしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭さくらずみの白き残骸なきがらまったきをこぼちて、しんに潜む赤きものを片寄せる。ぬくもる穴のくずれたる中には、黒く輪切の正しきをえらんで、ぴちぴちとける。――室内の春光はくまでも二人ふたり母子ぼしに穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑さいぎ不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴かんかそきんの春をつかさどる人の歌めくあめしたに住まずして、半滴はんてき気韻きいんだに帯びざる野卑の言語を臚列ろれつするとき、毫端ごうたんに泥を含んで双手に筆をめぐらしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須きゅうすと、佐倉の切り炭をえがくは瞬時のかんぬすんで、一弾指頭いちだんしとうに脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球はむかしより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。うれしからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者のせつなき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、はじめもよっぽど剽軽者ひょうきんものだね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
うまや鳥屋とやといっしょにあった。牝鶏めんどりの馬を評する語に、――あれは鶏鳴ときをつくる事も、鶏卵たまごを生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通なみのものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾はなめらかなほおに波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠ほうへいこうしょうの鉄砲玉は鉛をかしてる。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母はくまでも真面目まじめである。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、はしなくも母の疑問を起す。子を知るは親にかずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえどもから天竺てんじくである。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どきまゆの下から、娘をきっと見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵したごしらえと見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。たけのこを輪切りにすると、こんな風になる。はりのあるまゆに風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になおこもる何物かがちょっとはためいてすぐ消えた。母は相槌あいづちを打つ。
「あんな見込のない人は、わたしも好かない」
趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶かじかみかんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じつるぎである。
「いっそ、ここで、判然はっきり断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺おとっさんが、あの金時計をはじめにやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具おもちゃにして、赤いたまばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがっていて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談じょうだん半分にみんなの前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だになぞだと思ってるんですか」
「宗近の阿爺おとっさん口占くちうらではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢のかどたたきつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える柘榴石ガーネットは、蒔絵まきえ蘆雁ろがんを高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。おぼろとも化けぬ浅葱桜あさぎざくらが、暮近く消えて行くべき昼の命を、今少時しばしまもえんに、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面やさおもての影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子しょうじのうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かなが宗近家の座敷にともる。静かなる夜を陽に返す洋灯ランプの笠に白き光りをゆかしくめて、唐草からくさを一面に高くたたき出した白銅の油壺あぶらつぼが晴がましくもよいに曇らぬ色を誇る。灯火ともしびの照らす限りは顔ごとににぎやかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火ともしび周囲まわりに起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好かっこうと思う。
「それじゃ相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)そうりんとうも見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられたあごはやむを得ず二重ふたえに折れている。頭はだいぶ禿げかかった。これを時々でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)た何ですか」と宗近君は阿爺おやじの前で変則の胡坐あぐらをかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山えいざんへ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野こうのさん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織のえりを正しく坐っている。甲野さんが問いけられた時、※(「單+展」、第4水準2-4-51)にこやかな糸子の顔はうごいた。
「相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)はなかったようだね」と甲野さんは手をひざの上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
阿爺おとっさん何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭わかさの国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談じょうだんさ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼ふたえまぶたの波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行あるくばかりで飛脚ひきゃく同然だからいけない。――叡山には東塔とうとう西塔さいとう横川よかわとあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火ともしびは明かに揺れる。糸子はそでを口へ当てて、くずしかかった笑顔の収まりぎわつむりを上げながら、ひとみを豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略さりゃくはある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
御叔父おじさん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺えんりゃくじの区域だね。広い山の中に、あすこにかたまり、ここに一と塊まりと坊がかたまっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
とう修羅しゅら西さいは都に近ければ横川よかわの奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番さびしい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)そうりんとうから五十丁も這入はいらなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶ふなべんけいにもあるだろう。――かようにそうろうものは、西塔さいとうかたわら住居すまいする武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺おとっさん叡山えいざんの総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
開基かいきかい。開基は伝教大師でんぎょうだいしさ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体むかしの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前おまい、叡山のふもとで生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭ぼうぐいが坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人はそうこそ無上むじょうなれと説いた。く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今せて杳然ようぜんと去るを思わぬが世の常である。堂に法華ほっけと云い、石に仏足ぶっそくと云い、※(「木+棠」、第3水準1-86-14)とう相輪そうりんと云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史をして吾事わがことおわると思うはしかばねいだいて活ける人を髣髴ほうふつするようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上たいじょうは形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山えいざんに登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。大法鼓だいほうこを鳴らし、大法螺だいほうらを吹き、大法幢だいほうとうてて王城の鬼門をまもりしむかしは知らず、中堂に仏眠りて天蓋てんがい蜘蛛くもの糸引く古伽藍ふるがらんを、いまさらのように桓武かんむ天皇の御宇ぎょうから堀り起して、無用の詮議せんぎに、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人ひまじん所作しょさである。現在はこくをきざんでわれを待つ。有為ういの天下は眼前に落ちきたる。双のかいなは風をって乾坤けんこんに鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山一刹いっさつの指揮によって、夜来やらい日来にちらいに面目を新たにするものじゃと思いめたように、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)びびとして叡山を説く。説くはもとより青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山をえらんで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢ぜいたくになって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外真面目まじめである。
阿爺おとっさん叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦そばを食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆まさか
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
到底とてものらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹をり出して笑った。洋灯ランプかさ喫驚びっくりするくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶そうりょにも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院いちじょうしかんいんと云って、延暦寺となったのはだいぶあとの事だ。その時分から妙なぎょうがあって、十二年間山へこもり切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見りょうけんかな」
と宗近君が今度は独語ひとりごとのように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似まねでもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令にそむく訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へこもったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっとき出した。老人は首を少し上げて頭の禿をさかに撫でる。垂れ懸った頬の肉がふるえ落ちそうだ。糸子は俯向うつむいて声を殺したため二重瞼ふたえまぶたが薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫おっくうだ。――欽吾きんごさんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでもこもる方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母おっかさんが心配するだろう」
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人いちにんもない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然びょうぜんとして天地のあいだかかっている。世界滅却の日をただ一人ひとり生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
はじめにも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
老人は自分の心で、わが母の心をすいしている。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今夕こんせきの会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。

 
 
 
 
 
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 九

 
 
 
 
 
 真葛まくずはら女郎花おみなえしが咲いた。すらすらとすすきを抜けて、くいある高き身に、秋風をひんよくけて通す心細さを、秋は時雨しぐれて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降るしもに、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕あさゆうに頼み少なくなぐ。冬は五年の長きをいとわず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑にまずしさを知らぬ春の天下にまぎれ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴ふうきに色づくを、ひそかなる黄を、一本ひともとの細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭くはばかりの呼吸いきを吹くようである。
今まではたまよりもあざやかなる夢をいだいていた。真黒闇まくらやみえた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気にけるいとまもなかった。ふところに抱く珠の光りをに抜いて、二百里の道を遥々はるばると闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海あかるみに幾分か往昔そのかみの輝きを失った。
小夜子さよこは過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔ててう瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬がえる。みずからも、わがる所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷にかくしてなおさらにうたがいを路上に受くるような気がする。
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫ひとしずくの油は容易に油壺あぶらつぼの中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自てんでに働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意にえがく。小夜子の世界は新橋の停車場ステーションへぶつかった時、劈痕ひびが入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
小野さんも同じ事である。打ちった過去は、夢のちりをむくむくとき分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜ごみためから出す。おやと思うに、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息いきの根をめて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなくむこうで吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛きまぐれの時節を誤って、暖たかき陽炎かげろうのちらつくなかによみがえるのはなさけない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれればいたわらねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来のそでに隠れて見た。むらさきの匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸をえかける途端とたんに小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
阿父おとっさんは」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日あしたより、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、れやすき髪にくしの歯を入れる暇もない。不断着の綿入めんいりさえ見すぼらしく詩人の眼にうつる。――よそおいは鏡に向ってらす、玻璃瓶裏はりへいり薔薇ばらを浮かして、軽く雲鬟うんかんひたし去る時、琥珀こはくの櫛は条々じょうじょうみどりを解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
御忙おいそがしいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日きのう一昨日おとといも会がありまして……」
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただおのれよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向うつむいて、ひざせた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾ふじおの指輪とは無論比較にはならぬ。
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井てんじょうの白茶けた板の、二た所まで節穴ふしあな歴然れっきと見える上、雨漏あまもりみをおかして、ここかしこと蜘蛛くもあざむすすがかたまって黒く釣りをけている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸すぎばしが一本横に貫ぬいて、長い方のはじが、思うほど下に曲がっているのは、立ち退いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢ひょうのうでもぶら下げたものだろう。次のを立て切る二枚の唐紙からかみは、洋紙にはくを置いて英吉利イギリスめいたあおい幾何きか模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしいふちの黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬくえんに沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上ちゃけんじょうほどもない。じょうに足らぬひのきが春に用なき、去年の葉をかたとがらして、せこけて立つうしろは、腰高塀こしだかべい隣家となりの話が手に取るように聞える。
家は小野さんが孤堂こどう先生のために周旋したに相違ない。しかしきわめて下卑げびている。小野さんは心のうちにいや住居すまいだと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣そでがき辛夷こぶしを添わせて、松苔まつごけ葉蘭はらんの影に畳む上に、切り立ての手拭てぬぐいが春風にらつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
御蔭おかげさまで、好いうちが手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているならなさけない。ある人に奴鰻やっこうなぎおごったら、御蔭様で始めてうまい鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑けいべつしたそうである。
いじらしいのと見縊みくびるのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫がたたったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好いうちでないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好かっこうなのがなくって……」
と云いけると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇けちな事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
細いおもてをちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣くるめがすりは背広に変っている。五分刈ごぶがり光沢つやのある毛に変っている。――ひげは一躍して紳士の域にのぼる。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。えりおろし立てである。飾りには留針ピンさえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝ったひんの好い胴衣チョッキ隠袋かくしには――恩賜の時計が這入はいっている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
五年の間一日一夜ひとひひとよふところに忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東にしひがし長短のたもとを分かって、離愁りしゅうとざ暮雲ぼうん相思そうしかんかれては、う事のうとくなりまさるこの年月としつきを、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気けなげに生い立った阿蒙あもうの変りかたではない。色のめた過去をさかじ伏せて、目醒めざましき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急にこしらえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分がうらめしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
新橋へはむかえに来てくれた。車をやとって宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛かたつむり親子して寝るいおりを借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様さように云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。さい手提てさげの荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛ひざかけといっしょに先へ行った、きざみ足のうしろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々はるばると来た二人を案内するためではなく、時候おくれの親子を追い越してけ抜けるためのように見える。割符わりふとはうり二つを取ってつけてくらべるための証拠しるしである。天にかかる日よりもとうとしとまもるわが夢を、五年いつとせの長き香洩かもる「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退いている。握る割符は通用しない。
始めは穴を出でてまばゆき故と思う。少しれたらばと、く日をつえに、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
やさしく咽喉のどべり込む長いあごを奥へ引いて、上眼に小野さんの姿をながめた小夜子は、変る眼鏡を見た。変るひげを見た。変る髪のふうと変るよそおいとを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息ためいきいた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶のよりぎゃくに戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山あらしやまへ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山あらしやまは早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花をる人は星月夜のごとくおびただしい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父おとっさんとですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜかなさけない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣だいひかくの温泉などは立派に普請ふしんが出来て……」
「そうですか」
小督こごうつぼねの墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
彼所あすこいらはみんな掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
毎年まいとし俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓ざっとうしませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向まむきに返る。金縁の眼鏡めがねと薄黒い口髭くちひげがすぐひとみうつる。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話のいとくちの、するすると抜け出しそうな咽喉のどおさえて、黙って口をつぐんだ。調子づいてかどを曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。ひんのいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終しじゅう突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのはとしばかりで、いたずらに育った縞柄しまがらと、用い古るしたことうらめしい。琴はおいのまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。ひざに手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶みみたぶが、行儀よく、びんの末をくぐり抜けて、ほおくび続目つぎめが、ぼかしたように曲線を陰にいて去る。見事なである。惜しい事に真向まむきすわった小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多めったに見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げのかかとを、地にり込むほどにめぐらして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向まむきに坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先にひるがえるそでが、濃きむらさき眉間みけんかすめてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広せびろの胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞよろしく」
「あの……」と口籠くちごもっている。
相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くとき立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出しにくくなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道もぎどうに離れて行く。未練も会釈えしゃくもなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然もうぜんとして、えんに近く坐った。
降らんとして降りそこねた空の奥からかすかな春の光りが、淡き雲にさえぎられながら一面に照り渡る。長閑のどかさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶うっとうしい。どこやらで琴のがする。わがくべきはちりも払わず、更紗さらさの小包を二つ並べた間に、袋のままでさびしく壁に持たれている。いつ欝金うこんおいける事やら。あの曲はだいぶれた手に違ない。片々に抑えて片々にはじく爪の、安らかに幾関いくせきを往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐かいがいしくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日きのうのように思う。ちらちらに昼のほたると竹垣にしたた※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうに、朝から降って退屈だと阿父様とうさまがおっしゃる。繻子しゅすの袖口は手頸てくびすべりやすい。絹糸を細長く目にいたまま、針差のくれないをぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、あざやかに眼をませと、の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度かねた。曲はたしか小督こごうであった。狂う指の、き昼を、くちゃくちゃにみこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、ことの京である。なかでも琴は京によう似合う。琴のすきな自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、やみを破るからすの、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴ピアノでも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父とうさまは女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日きょう明日あすと、その日にはかる命は、あやあやうい。……
格子こうしががらりとく。いにしえの人は帰った。
「今帰ったよ。どうもひどほこりでね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所はいやな所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋たびをはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団ざぶとんを買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目にった」
「おやおや」と気の毒そうに微笑ほほえんだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭おかげで大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈はちじょうまがいの黄なしまを取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
阿父おとっさんも敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗りそくなってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々いまいましいから帰りには歩いて来た」
御草臥おくたびれなすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭でひげも何もほこりだらけになっちまった。こら」と右手めての指を四本ならべてくしの代りにあごの下をくと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入おはいんなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分ひどくってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」とひさしの外を下からのぞいて見る。空は曇る心持ちをかして春の日があやふやに流れている。琴のがまだきこえる。
「おや琴を弾いているね。――なかなかうまい。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父おとっさんには分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のようなはげしい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔にえみを浮べて見せる。老人は世にうといわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談じょうだんを……」
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
阿父様おとうさま
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋でった時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
あとの句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車みずぐるまを踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気がふさぐものでね。今日なぞは阿父おとっさんなどにもよくない天気だ」
気がふさぐのは秋である。もちと知って、酒のとがだと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっとことでもいちゃどうだい。気晴きばらしに」
娘は浮かぬ顔を、愛嬌あいきょうに傾けて、床の間を見る。じくむなしく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、たてって、欝金うこんおいが春を隠さず明らかである。
「まあしましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々きんきん博士論文を出すんだそうで……」
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今のおのれには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問にると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なにゆっくりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日いちんち都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口をかなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父おとっさんが手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜おさいはいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日あしたくるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。

 
 
 
 
 
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 十

 
 
 
 
 
 なぞの女は宗近むねちか家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団たどんが水晶と光る。禅家では柳は緑花はくれないと云う。あるいは雀はちゅちゅでからすはかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人をなべの中へ入れて、方寸ほうすん杉箸すぎばしぜ繰り返す。芋をもってみずからおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石ダイヤモンドのようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所でどころが分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽かぐらめんには二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真率なる快活なる宗近家の大和尚だいおしょうは、かく物騒な女があめしたに生をけて、しきりに鍋の底をき廻しているとは思いも寄らぬ。唐木からきの机に唐刻の法帖ほうじょうを乗せて、厚い坐布団の上に、信濃しなのの国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中からはちうたっている。謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの妖婆ようばなべの中に天下の雑物ぞうもつさらい込んだ。石の影に三十日みそかの毒を人知れず吹くよるひきと、燃ゆる腹を黒きかく※(「虫+原」、第3水準1-91-60)いもりきもと、蛇のまなこ蝙蝠かわほりの爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果ててとがれる爪は、世をのろ幾代いくよさびせ尽くしたるくろがね火箸ひばしを握る。煮え立った鍋はどろどろの波をあわと共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間まっぴるまである。鍋の底からは愛嬌あいきょういて出る。ただようは笑の波だと云う。ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからがひんよく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛のうがかりである。大和尚だいおしょうこわがらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖おあったかになりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きなてのひらを出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「そののちは……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人ぶにんだもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰ごぶさたになりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐあとをつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾きんご藤尾ふじおが出まして、御厄介ごやっかいにばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
頭はここでようやく上がる。阿父おとっさんはほっと気息いきをつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやくあったかになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうどさかりでしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日ぜんがちょうど観頃みごろでございましたが、一昨日いっさくじつの風で、だいぶいためられまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜あさぎざくら。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などはすごいような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川あらかわには緋桜ひざくらと云うのがあるが、浅葱桜あさぎざくらは珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家こうずかに云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間もはじめが京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気のんきなものでアハハハハ。――どうです粗菓そかだが一つ御撮おつまみなさい。岐阜ぎふ柿羊羹かきようかん
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、うまいものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人ははしを上げて皿の中からぎ取った羊羹の一片ひときれを手に受けて、ひとりでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野こうのの母は切り出した。
「せんだってじゅう欽吾きんごがまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭おかげ様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者わがままものでございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友ほうゆうと申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合つきあいが出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だかふさいでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。うちにさえいるとあなた、いもとにばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊さっぱりしてて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人あれの病気のせいだから、今さら愚癡ぐちをこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目まじめに答えたが、ついでに灰吹はいふきをぽんとたたいて、銀の延打のべうち煙管きせるを畳の上にころりと落す。雁首がんくびから、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだってうちへ見えた時などはみんなと馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細しさいらしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
彼人あれの病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
なぞの女は自分の思う事をひとに云わせる。手をくだしては落度になる。向うですべって転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海ぬかるみを知らぬに用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮あけくれ申すのでございますが――どうっても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国でくなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日いちじつも早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭からねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母おっかさんだけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負しょい込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳いくつになっても心配は絶えませんね」
此方こちら様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶つれあいに合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母おっかさんわたしはこんな身体からだで、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾にむこを貰って、阿母おっかさんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
謎の女は和尚おしょうをじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀したんふたを丁寧にかぶせる。煙管きせるは転がった。
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申してうみの母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口をきますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
和尚は手提てさげの煙草盆の浅い抽出ひきだしから欝金木綿うこんもめん布巾ふきんを取り出して、くじらつる鄭重ていちょうに拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云いにくければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気にさわらないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそあとが大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、かんが高くなってちゃあ」
「まるで腫物はれものさわるようで……」
「ふうん」と和尚おしょうは腕組を始めた。ゆきが短かいので太いひじ無作法ぶさほうに見える。
なぞの女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言しつげん遽色きょしょくである。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口をそろえて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重ていちょうなのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人あれが断然うちを出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
むこかね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
左様さようさね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳いくつですい」
「もう、明けてになります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげたてのひらを下からのぞき込むようにする。
「いえもう、身体なりばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話はほうって置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、はじめさんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気のんきな女だとおぼし召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実はわたしの方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――はじめも外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日きょうあすと云う訳にも行かないですが、おそかれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あのかたなら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母おっかさんの御考は」
「あのとおり行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったりかなったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人あれに困りますので。一さんは宗近家を御襲おつぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父おとっさんがいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなればくなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶つれあいさえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくってもよろしい――のでございますが」
謎の女の云う事はしだいに湿気しっけを帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。かろうじて謎の女の謎をここまで叙しきたった時、筆は、一歩も前へ進む事がいやだと云う。日を作り夜を作り、海とおかとすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄妹きょうだいが活動する。六畳の中二階ちゅうにかいの、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽しがらきはちに、わだかまる根を盛りあげて、くの字の影をえんに伏せる。一間いっけん唐紙からかみは白地に秦漢瓦鐺しんかんがとうの譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮のとこは、軸を嫌って、籠花活かごはないけに軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、あやと乱して、糸屑いとくずのこぼるるほどの抽出ひきだしを二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方ゆくえは、一針ごとに春をきざかすかな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這はらばい弥生やよいの姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指ものさしの先でしきりに敷居をたたいている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところであんまもうかりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父おとっさん苔盛園たいせいえんで二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆ひっくりかえしでもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺おとっさんも阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちらかつぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃわたしは無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度こんだこっちの大発明だ。ハハハハ。きらいなものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
阿父おとうさまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日があたって二階の方が松のために好いって」
阿爺おやじも親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句ほっく?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎いせざきでしょう」
「いやにぴかつくじゃないか。兄さんのかい」
阿爺おとうさまのよ」
阿爺おとっさんのものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無ちゃんちゃん以後御見限おみかぎりだね」
「あらいやだ。あんなうそばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢えりあかだ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんはあぶらが多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父おとっさんの拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古おふるばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠じんがさをかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想かわいそうに」
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、欄干らんかん隙間すきまから庭前にわさきの植込を頬杖ほおづえに見下している。
「まだあるのよ。一寸ちょいと」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんとつまんだ合せ目を、見るけて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔めど障子しょうじへ向けて、可愛かわいらしい二重瞼ふたえまぶたを細くする。宗近君は依然として長閑のどかな心を頬杖に託して庭をながめている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
下顎したあごは頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉のどから鼻へ抜ける。
あし。分ったでしょう」
「う。うん」
紺の糸をくちびる湿しめして、指先にとがらすは、射損いそくなった針孔を通す女のはかりごとである。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母おっかさん御出おいでよ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうていかなわない」
「でもひんがいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんがきらいじゃ、世話の仕栄しばえがない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無ちゃんちゃんの御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島むこうじまは駄目だが荒川あらかわは今がさかりだよ。荒川から萱野かやのへ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山たんとはないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指をしてちょうだい」
「そうして裁縫しごとを勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石ダイヤモンド指環ゆびわを買ってやる」
うまいのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらにはさみはなくって」
「その蒲団ふとんの横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落しゃれかい」
「これ? 奇麗きれいでしょう。縮緬ちりめん御申おさるさん」
「御前がこしらえたのかい。感心にうまく出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側えんがわへ煙草の灰を捨てるのは御廃およしなさいよ。――これをして上げるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙いためがみの上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人ひまじんだなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸のくずをかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのようなかたが好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
いやでもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母おばさんはしきりに密談をしているね」
「ことにると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨ひのしがいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分のうちで、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣呑けんのんだね。それじゃこっちも気息いきを殺して寝転ねころんでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
裁縫しごとの手をめて、火熨に逡巡ためらっていた糸子は、入子菱いりこびしかがった指抜をいて、※(「年+鳥」、第3水準1-94-59)ときいろしろかねの雨を刺す針差はりさしを裏に、如鱗木じょりんもくの塗美くしきふたをはたと落した。やがて日永ひながの窓に赤くなった耳朶みみたぶのあたりを、平手ひらてで支えて、右のひじを針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れたひざを斜めにくずした。襦袢じゅばんの袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なくすべって、くっきりと普通つねよりは明かなる肉の柱が、ちょうと傾く絹紐リボンの下にあざやかである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか無躾ぶしつけに聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女いちこだね。――御前がそう頬杖ほおづえを突いて針箱へたれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴あっぱれな姿勢だハハハハ」
沢山たんと御冷おひやかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
云いながら糸子は首をささえた白い腕をぱたりと倒した。そろった指が針箱の角をおさえるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、し付けられた手のあと耳朶みみたぶ共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重ふたえまぶたは、涼しいひとみを、長いまつげに隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴をひじねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出はでな色の絹紐リボンがちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目ふしめになった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
今度こんだの試験の結果はまだ分らないの」
「もうじきだろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のあるかたが好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあたとえに云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉のいたりだ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっともにならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあそう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子をとおして糸子の頬を暖かに射る。俯向うつむいた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」とひるがえる襦袢じゅばんそでのほのめくうちを、二本の指に、こことおさえて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、うまく手が届くね。盲目めくらにするとかんの好い按摩あんまさんが出来るよ」
「だってれてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣にことを引く別嬪べっぴんがいてね」
端書はがきに書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山あらしやまへ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚みとれて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
うそよ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁いんねんだよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんならそう」
「その女のかたは何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目まじめにならなくっても好い。実はうそだ。全く兄さんの作り事さ」
にくらしい」
糸子はめでたく笑った。

 
 
 
 
 
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 十一

 
 
 
 
 
 ありは甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存せいそんのうちに無聊ぶりょうをかこつ。立ちながら三度の食につくのいそがしきにえて、路上に昏睡こんすいの病をうれう。生を縦横に託して、縦横に死をむさぼるは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃かみそりけずって、人の精神を擂木すりこぎと鈍くする。刺激に麻痺まひして、しかも刺激にかわくものはすうを尽くして新らしき博覧会に集まる。
いぬしたい、人は色にはしる。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫衣しいと云い、黄袍こうほうと云い、青衿せいきんと云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。土堤どてを走る弥次馬やじうまは必ずいろいろの旗をかつぐ。担がれて懸命にかいあやつるものは色に担がれるのである。天下、天狗てんぐの鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより赫奕かくえきとして赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
とうに集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下をく。金銀、※(「石+車」、第3水準1-89-5)※(「石+渠」、第3水準1-89-12)しゃこ瑪瑙めのう琉璃るり閻浮檀金えんぶだごん、の属を挙げて、ことごとく退屈のひとみを見張らして、疲れたる頭を我破がばね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌にちりばめたる宝石がひとり幅をかす。金剛石ダイアモンドは人の心を奪うがゆえに人の心よりも高価である。泥海ぬかるみに落つる星の影は、影ながらかわらよりもあざやかに、見るものの胸にきらめく。閃く影におど善男子ぜんなんし善女子ぜんにょしは家をむなしゅうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底にふるい寄せると博覧会になる。博覧会を鈍きの砂にせばさんたるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
花電車が風をって来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋やましたがんなべあたりおろす。雁鍋はとくの昔にくなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森のかたにぞろぞろ行く。
岡はからめて本郷から起る。高き台をおぼろに浮かして幅十町を東へなだれるくちは、根津に、弥生やよいに、切り通しに、驚ろかんとするものをますはかって下谷したやへ通す。踏み合う黒い影はことごとくいけはたにあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
松高くして花を隠さず、枝の隙間すきまに夜を照らす宵重よいかさなりて、雨も降り風も吹く。始めは一片ひとひらと落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中あいだじゅうは見るからに、万紅ばんこうを大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、こずえから後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪ふぶきはいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやくおさまった。星ならずして夜をる花の影は見えぬ。同時にイルミネーションはいた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
すすきの穂を丸く曲げて、左右から重なる金のきらめく中に織り出した半月はんげつの数は分からず。幅広に腰をおおう藤尾の帯を一尺隔てて宗近むねちか君と甲野こうのさんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
糸子いとこさん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子をまゆ深くかぶって立つ。
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人のきぬの色は黄に似て夜をあざむくを、黒いものが幾筋もたてに刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
貴所方あなたがたは」と糸子を差し置いて藤尾ふじおが振り返る。黒い髪の陰からさっと白い顔がす。頬の端は遠い火光ひかりを受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちはたのしみがあるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯からだ真直ますぐに立てたまま藤尾を見下みおろした。
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指をす。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ但書ただしがきを附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容はうまあたると俗になるのが通例だ」
あたると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際にはずれる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「するとうまく中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味まずくって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼のかどから欽吾きんごを見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が無邪気むじゃきに聞く。
※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの線をやみに渡して空を横に切るは屋根である。たてに切るは柱である。斜めに切るはいらかである。おぼろの奥に星をうずめて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻いなずまの穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。まんじえがいて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して帝座ていざの真中を貫けとばかりげ上げた。かくして塔はむねに入り、棟はとこつらなって、不忍しのばずいけの、此方こなたから見渡すむこうを、右から左へ隙間すきまなく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
あいを含む黒塗に、金を惜まぬ高蒔絵たかまきえは堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄きょくらんを描き、円塔方柱えんとうほうちゅうの数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横にくうを走る※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形をくず気色けしきが見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好かっこうが好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇ちゅうちょした。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
かんむり紅玉ルビーめたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向あおむいた。
空は低い。薄黒く大地にせまる夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下ぶらさがっている。柱とつらなり、甍と積む万点の※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)さかしまに天をひたして、寝とぼけた星のまなこを射る。星の眼は熱い。
「空がげるようだ。――羅馬ロウマ法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中やなかから上野の森へかけて大いなるけんえがいた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支さしつかえなしか。とにかく女王クイーンの冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗きれいよ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影にし付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底みなそこから、腐ったはすの根がそろそろ青いを吹きかけている。泥から生れたこいふなが、やみを忍んでゆるやかに※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとを働かしている。イルミネーションは高い影をさかしまにして、二丁あまりの岸を、尺も残さず真赤まっかになってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色をす。泥にひそむ魚のひれは燃える。
湿うるおえる※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)は、一抹いちまつに岸をして、明かに向側むこうがわへ渡る。行く道によこたわるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりとって長い橋を西から東へける。白い石に野羽玉ぬばたまの波をまたぐアーチの数は二十、欄に盛る擬宝珠ぎぼしゅはことごとく夜を照らす白光のたまである。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とにあつまった。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列にくうに懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人でうまっている」
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは孤堂こどう先生と小夜子さよこを連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天のやしろを抜けてして来る。むこうおかを下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲まわりを捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただまれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸せきすんに見出して、安々とかかとを着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もううしろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧しつぶすためにみんなが揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢たぜいの間に立って、多数よりすぐれたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存せいそんの自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したるのち家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負しょって、幅のかぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎みとがめられるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋のおおきさが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
阿爺おとうさん、大丈夫」とうしろから呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然じねんに押して行けば世話はない」とはさまった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬かたほえみを見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯ちょうちんが孤堂先生の黒い帽子をかすめて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元です。手を出せば人の肩でさえぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足をそろえる暇もなく、そのまま日和下駄ひよりげたの前歯を傾けて背延せいのびをする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民がしかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人をたすける事を拒まぬ親切な人間である。
文明の波はおのずから動いてたよりのない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へくずれ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
暗い底にあいを含むく春の夜をかして見ると、花が見える。雨に風に散りおくれて、八重に咲く遅きを、夜にけん花の願を、人の世のともしびが下から朗かに照らしている。おぼろ薄紅うすくれない螺鈿らでんる。鐫ると云うと硬過かたすぎる。浮くと云えば空を離れる。このよいとこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうもおそろしい人だね」と追いついた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早くうちへ帰りたくなった。どうもおそろしい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛くもの子のように暗い森をおおうて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
すういきおいである。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも御玉杓子おたまじゃくしのうじょうじょく所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなくひり出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しではぐれるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だってこわくって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池をめぐるものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海のき返る薄黒い倫敦ロンドンで、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐かいもなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重ひとえの壁にさえぎられて隣りの家にすすけた空をながめている。それでもえぬ、一生逢えぬ、骨が舎利しゃりになって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古しゅうこに隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲まわりを回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい女連おんなれんはだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶はしにするかね」
「でも欽吾きんごさんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなかうまい事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女にはかなわない」と甲野さんは断案をくだした。
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮普請かりぶしんの入口をまたぐと、ちいさい卓に椅子いすを添えてここ、かしこにならべた大広間に、三人四人ずつのむれがおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんのたもとをぐいと引いた。うしろの藤尾はすぐおやと思う。しかし仰山ぎょうさんに何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこがいている」とずんずん奥へ這入はいって行く。あとをけながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。うしろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しいかがやきを帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と何気なにげなき糸子は、やさしい肩をななめにじ向けた。
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰をおろした三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に所択ところえらばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、はるか隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向まむきに見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、あごの下に抜くもものうく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるるひげは小夜子の方に向いている。
「あら御連おつれがあるのね」と糸子はくびをもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上にたてに挟んだ燐寸箱マッチばこの横側をしゅっとった。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、別嬪べっぴんだろう」と宗近君は糸子に調戯からかいかける。
俯目ふしめに卓布をながめていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしいかたね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と素気そっけなく云い放つ。きわめて低い声である。答を与うるにあたいせぬ事を聞かれた時に、――相手に合槌あいづちを打つ事をいさぎよしとせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻煙草まきたばこの灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も下向したむきになって燐寸マッチる。刹那せつなに藤尾のひとみは宗近君の額を射た。宗近君は知らない。くわえた巻煙草に火を移して顔を真向まむきに起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒いわれを」と云いながら角砂糖を茶碗の中へほうり込む。かにの眼のようなあわかすかな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子はさじでぐるぐるき廻している。
「そら阿爺おとっさんが云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子がきらいだよ。柿羊羹かきようかん味噌松風みそまつかぜ、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラのそばへ持って行くとすぐ軽蔑けいべつされてしまう」
「そう阿爺おとうさまの悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる気遣きづかいはないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上おあがり。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺おとっさんのような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖カステラを口いっぱいに頬張ほおばる。
「ホホホホ一人で饒舌しゃべって……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗をおろして、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、またたきもせず窓を通してうつる、イルミネーションの片割かたわれを専念に見ている。兄の首はしだいにもとの位地に帰る。
四人が席を立った時、藤尾は傍目わきめも触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂然こうぜんとして入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒落しゃらくに女の肩をたたく。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちはたのしみがある。女は仕合せなものだ」と再び人込ひとごみへ出た時、何を思ったか甲野さんはまた前言を繰り返した。
驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! うちへ帰って寝床へ這入はいるまで藤尾の耳にこの二句があざけりれいのごとく鳴った。

 
 
 
 
 
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 十二

 
 
 
 
 
 貧乏を十七字に標榜ひょうぼうして、馬の糞、馬の尿いばりを得意気にえいずる発句ほっくと云うがある。芭蕉ばしょうが古池にかわずを飛び込ますと、蕪村ぶそんからかさかついで紅葉もみじを見に行く。明治になっては子規しきと云う男が脊髄病せきずいびょうわずらって糸瓜へちまの水を取った。貧に誇る風流は今日こんにちに至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれをいやしとする。
仙人は流霞りゅうかさんし、※(「さんずい+亢」、第3水準1-86-55)ちょうこうを吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像にふけるためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
文明の詩は金剛石ダイヤモンドより成る。むらさきより成る。薔薇ばらと、葡萄ぶどうの酒と、琥珀こはくさかずきより成る。冬は斑入ふいりの大理石を四角に組んで、うるしに似たる石炭に絹足袋きぬたびの底をあたためるところにある。夏は氷盤ひょうばんいちごを盛って、あまき血を、クリームの白きなかにとかし込むところにある。あるときは熱帯の奇蘭きらんを見よがしに匂わする温室にある。野路のじや空、月のなかなる花野はなの惜気おしげも無く織り込んだつづれの丸帯にある。唐錦からにしき小袖こそで振袖ふりそでれ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分をまっとうするために金を得ねばならぬ。
詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人のおこないを愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴ふうきの実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
詩人ほど金にならん商買しょうばいはない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共ひとの金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾ふじおたよりたくなるのは自然のすうである。あすこには中以上の恒産こうさんがあると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥たんすと長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾きんごは多病である。実の娘に婿むこを取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占つじうらがあたればいつもきちである。いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、おのずから開くべき優曇華うどんげの未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲すもうをとらぬ、またとれぬ男である。
天地はこの有望の青年に対して悠久ゆうきゅうであった。春は九十日の東風とうふうを限りなく得意のひたいに吹くように思われた。小野さんはやさしい、物にさからわぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢とそびらを向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁ぼくじゅうにもくらぶべきほどの暗いちさい点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりととどまっている。仰ぐとぐるぐる旋転せんてんしそうに見える。ぱっと散れば白雨ゆうだちが一度にくる。小野さんは首を縮めてけ出したくなる。
四五日は孤堂こどう先生の世話やら用事やらで甲野こうのの方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜ゆうべは出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子さよこを博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母いっぱんひょうぼを徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、こまやかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好かっこうな優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分のかんがえに間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸めいりょうな男である。
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物をけた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見えるしおりがあらわれる。小野さんは左の手に栞をすべらして、細かい活字を金縁の眼鏡めがねの奥から読み始める。五分ごふんばかりは無事であったが、しばらくすると、いつのにやら、黒い眼はページを離れて、筋違すじかい日脚ひあしの伸びた障子しょうじさんを見詰めている。――四五日藤尾にわぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日とおかでもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身にはくしけずる間も千金である。逢えば逢うたびに願のまとは近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まるえにしはない。のみならず、魔は節穴ふしあなすきにも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、こも一夜ひとよに月はる。等閑なおざりのこの四五日に藤尾のまゆにいかな稲妻いなずまが差しているかは夢はかりがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
芭蕉布ばしょうふふすまを開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李やなぎこうりが見える。小野さんは行李の上に畳んである背広せびろを出して手早く着換きかえ終る。帽子は壁にぬしを待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒はなお上草履うわぞうりに、カシミヤの靴足袋くつたびを無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談じょうだんか」と行こうとすると、おろし立ての草履が片方かたかた足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯ランプ部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホあんまり周章あわてるもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変真面目まじめですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛きがかりな顔をして障子のそばに上草履をそろえたまま廊下の突き当りをながめている。何が出てくるかと思う。焦茶こげちゃの中折が鴨居かもいを越すほどの高い背をして、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開むなあきの狭い胴衣チョッキから白い襯衣シャツと白いえりが著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳いしょうを、見栄みばえのせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴ズボン隠袋かくしし込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこをまがると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下のはじにあらわれた。海老茶色えびちゃいろ緞子どんすの片側が竜紋りょうもんの所だけ異様に光線を射返して見える。在来ありきたりの銘仙めいせんあわせを、白足袋しろたびの甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢ながじゅばんらしいものがちらと色めいた。同時にさえぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女なんにょの視線は御互の顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけはくずさない。女ははっと躊躇ためらう。やがて頬に差すくれないを一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油をさぬ黒髪に、さざなみ琥珀こはくに寄る幅広の絹の色があざやかな翼を片鬢かたびんに張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶あいさつをする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入おはいんなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足すりあしに廊下をすべって来る。
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入はいる。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話をうながす。
「昨夜は御忙おいそがしいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭おかげさまで」と云う顔は何となくやつれている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込ひとごみへは滅多めったに出つけた事がないもんですから」
文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいてこわがるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えてさみしく笑った。
「先生も雑沓ざっとうする所がきらいでしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼をはずして、畳の上に置いてある埋木うもれぎの茶托をながめる。京焼の染付茶碗そめつけぢゃわんはさっきから膝頭ひざがしらっている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋ポッケットから煙草入を取り出す。やみを照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出はでを好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金ときんに、しろかねえたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
忙しがる小野を無理に都合させて、かぬ人込へわざわざ出掛けるのもみんな自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、そで振り交わして、長閑のどかあゆみを、春のよいならんで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇ためらった。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態せたい染みた料簡りょうけんからではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味がこもっている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色けしきをどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住みれた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心のうちではそれほどしょうに合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた口籠くちごもる。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋のにおいのする煙草をくゆらしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きもきらいも御前のかじの取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪こうおを支配する人間から、素知らぬ顔ですききらいかを尋ねられるのはうらめしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達はきはきせぬのかと思う。
胴衣チョッキ隠袋かくしから時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」とうまい具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少し焦慮じれったくなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑おひまならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場かんこうばででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、わたしが帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び水泡すいほうに帰した。小夜子は悄然しょうぜんとして帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へせて手早く表へ出る。――同時にく春の舞台は廻る。
紫を辛夷こぶしはなびらに洗う雨重なりて、花はようやく茶にちかかるえんに、す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎かげろうが立つ。黒きを外に、風がなぶり、日が嬲り、つい今しがたは黄なちょうがひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、うしろからさす日の影に、耳をおおうて肩に流すびんの影に、しっとりとしてほのかである。千筋ちすじにぎらついて深きすみれを一面に浴せる肩を通り越して、向う側はとのぞき込むとき、まばゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思うたでの花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかのほっそりした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は寄木よせきの小机にひじを持たせて俯向うつむいている。
心臓の扉を黄金こがねつちたたいて、青春のさかずきに恋の血潮を盛る。飲まずと口をそむけるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いてみだりに道を説く。若き空には星の乱れ、若きつちには花吹雪はなふぶき、一年を重ねて二十に至って愛の神は今がさかりである。緑濃き黒髪を婆娑ばさとさばいて春風はるかぜに織るうすものを、蜘蛛くもと五彩の軒に懸けて、みずからと引きかかる男を待つ。引き掛った男は夜光のたまを迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂をさかしまにして、のちの世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教ヤソきょうの牧師は救われよという。臨済りんざい黄檗おうばくは悟れと云う。この女は迷えとのみ黒いひとみを動かす。迷わぬものはすべてこの女のかたきである。迷うて、苦しんで、狂うて、おどる時、始めて女の御意はめでたい。欄干らんかんほそい手を出してわんと云えという。わんと云えばまたわんと云えと云う。犬は続け様にわんと云う。女は片頬かたほえみを含む。犬はわんと云い、わんと云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾をさかしまにして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
石仏せきぶつに愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信にもとづいて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜ひょうぼうしてはばからぬものは、いかなる犠牲をも相手にせまる。相手を愛するの資格をそなえざるがためである。※(「目+分」、第3水準1-88-77)へんたる美目びもくに魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんはあやうい。せんたる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午ひのえうまである。藤尾はおのれのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
愛の対象は玩具おもちゃである。神聖なる玩具である。普通の玩具はもてあそばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫いちごうも男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則をはずれた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風はるかぜの吹き回しで、あまい潮の満干みちひきで、はたりと天地の前に行きった時、この変則の愛は成就する。
を立てて恋をするのは、火事頭巾かじずきんかぶって、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてをかす。角張かどばった絵紙鳶えだこ飴細工あめざいくであるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きにわたってもふやける気色けしきを見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
沙翁シェクスピアは女を評してもろきは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通すあがれる恋は、かしぎたる飯の柔らかきに御影みかげの砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。み締めるものに護謨ゴムの弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんをえらんだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉あぶらぜみはかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近むねちか君をるは容易である。宗近君をらすは藤尾といえども困難である。の女はあごで相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌しいかたまふところいだいて来る。夢にだもわれをもてあそぶの意思なくして、満腔まんこうの誠を捧げてわが玩具おもちゃとなるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わがまゆに、わがくちびるに、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰かつごうする。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
唯々いいとしてるべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄きよそおいを日ごとにしてかどを鏡のうちに隠していた。その五日目の昨夕ゆうべ! 驚くうちはたのしみがある! 女は仕合せなものだ! あざけりれいはいまだに耳の底に鳴っている。小机にひじを持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背をえんに、顔を影なる居住いずまいは、考え事に明海あかるみむ、昔からのおきてである。
縄なくて十重とえくくとりこは、捕われたるを誇顔ほこりがおに、さしまねけば来り、ゆびさせば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人とならんで姿見に向った時、大丈夫写るは君と我のみと、神けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見た事もない他人である。驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
えぬ白さに青味を含む憂顔うれいがおを、三五の卓を隔てて電灯のもとに眺めた時は、――わがかたえならでは、若き美くしき女に近づくまじきはずの男が、気遣きづかわしに、また親し気に、この人と半々に洋卓テーブルの角を回って向き合っていた時は、――撞木しゅもくで心臓をすぽりとたたかれたような気がした。拍子ひょうしに胸の血はことごとく頬にす。くれないは云う、かっとしてここにおどり上がると。
我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。あれども無きがごとくによそおえ。昂然こうぜんとして水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違ない。これが復讐ふくしゅうである。
我の女はいざと云う間際まぎわまで心細い顔をせぬ。うらむと云うは頼る人に見替られた時に云う。あなどりに対する適当な言葉はいかりである。無念と嫉妬しっとぜ合せた怒である。文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死にまさる不面目と思う。小野さんはたしかに淑女をはずかしめた。
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰依きえこうべを下げながら、二心ふたごころの背を軽薄のちまたに向けて、何のやしろの鈴を鳴らす。牛頭ごず馬骨ばこつ、祭るは人の勝手である。ただ小野さんは勝手な神に恋の御賽銭おさいせんを投げて、波か字かの辻占つじうらを見てはならぬ。小野さんは、この黒い眼から早速さそくに放つ、見えぬ光りに、空かけて織りなした無紋の網に引き掛った餌食えじきである。外へはやられぬ。神聖なる玩具として生涯しょうがい大事にせねばならぬ。
神聖とは自分一人が玩具おもちゃにして、外の人には指もささせぬと云う意味である。昨夕ゆうべから小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――ひじを持たして、俯向うつむくままの藤尾の眉が活きて来る。
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。は愛をざきにする。面当つらあてはいくらもある。貧乏は恋を乾干ひぼしにする。富貴ふうきは恋を贅沢ぜいたくにする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。とがきりに自分のももを刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっともあたいありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえほふる。さかしまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風はプライド! プライド! と叫ぶ。――藤尾は俯向うつむきながら下唇をんだ。
わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕ゆうべ帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪あやまらせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口のうちで云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
よし来ても昨夜ゆうべの女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分をらす料簡りょうけんだろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人がほのめかした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
小野はどうしてもあやまらせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面からかいづらにあてつけた二人の悪戯いたずらは何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字でつらぬこうと、洗髪あらいがみうしろに顔をうずめて考えている。
静かなえんに足音がする。背の高い影がのっと現われた。かすりあわせの前が開いて、肌につけた鼠色ねずみいろの毛織の襯衣シャツが、長い三角を逆様さかさまにして胸にうつる上に、長いくびがある、長い顔がある。顔の色はあおい。髪はうずいて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日はくしを入れないとも思われる。美くしいのは濃いまゆ口髭くちひげである。髭のたちきわめて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣をそなえて何となく人柄に見える。腰はよごれた白縮緬しろちりめん二重ふたえまわして、長過ぎるはじを、だらりと、猫じゃらしに、右のたもとの下で結んでいる。すそもとより合わない。引き掛けた法衣ころものようにふわついた下から黒足袋くろたびが見える。足袋だけは新らしい。げばこんの匂がしそうである。古い頭に新らしい足の欽吾きんごは、世を逆様に歩いて、ふらりと椽側えんがわへ出た。
拭き込んだ細かい柾目まさめの板が、雲斎底うんさいぞこの影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負せおった黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入はいる。足袋の主は見なくても知れている。
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声はうしろでする。雨戸のみぞをすっくと仕切ったつがの柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗髪あらいがみ見下みおろした。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇やまかがしの首をもたげた時のようである。黒い髪に陽炎かげろうを砕く。
男は、眼さえ動かさない。あおい顔で見下みおろしている。向き直った女の額をじっと見下している。
昨夕ゆうべは面白かったかい」
女は答える前に熱い団子をぐいとくだした。
「ええ」と極めて冷淡な挨拶あいさつをする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
女はいて来る。勝気な女は受太刀だなと気がつけば、すぐ急いて来る。相手が落ちついていればなお急いて来る。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んで置きながら悠々ゆうゆうとして柱にって人を見下しているのは、酒を飲みつつ胡坐あぐらをかいて追剥おいはぎをすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちはたのしみがあるんでしょう」
女はさかに寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下している。意味が通じた気色けしきさえ見えぬ。欽吾の日記に云う。――ある人は十銭をもって一円の十分一じゅうぶいちと解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人に依って高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾の間にはこれだけの差がある。段が違うものが喧嘩けんかをすると妙な現象が起る。
姿勢を変えるさえものうく見えた男はただ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
たのしみ?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する気遣きづかいがない」
藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のようにたのしみの多いものは危ないよ」
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり見下みおろしている。何事とも知らず「埃及エジプト御代みよしろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」と云う句を明かに思い出す。
「小野は相変らず来るかい」
藤尾の眼は火打石を金槌かなづちの先でたたいたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と云う。
藤尾はぎりぎりと歯をんだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱にっている。
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分わたしがあずかって置きます」
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄木よせきの机にもたせたひじねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊とくさ海老茶えびちゃ棒縞ぼうじまが、棒のごとくそろって立ち上がる。すそだけが四色よいろの波のうねりを打って白足袋のこはぜを隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底うんさいぞこかかとを見せて、むこうへ行ってしまった。
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土にこもる青味をし返して、湿しめりながらに暖かき大地を踏んで近づいて来る。みがき上げた山羊やぎの皮にかむほこりさえ目につかぬほどの奇麗きれいな靴を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいて来る。
世をりのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織のひもを丸打に結んで、細い杖に本来空ほんらいくう手持無沙汰てもちぶさたまぎらす甲野さんと、近づいてくる小野さんはへいそばでぱたりと逢った。自然は対照を好む。
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受けこたえがあった。そのまま洋杖ステッキは動かなくなる。本来は洋杖さえ手持無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは躊躇ちゅうちょする。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下からのぞんだ。
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――昨夕ゆうべ見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。時鳥ほととぎすは一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたしてつれがあった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまずつなぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「何時なんじ頃?」の方が便宜べんぎではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が明暸めいりょうになる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、咽喉のどの奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪のあかほどせんを制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力ではひるがえす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと指図さしずをしたらしく感じた時、うしろから押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから遠退とおのいた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖にかれてもとへ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴のかかとに宿り、時あって杖の先に潜む。魂をえがく事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
一歩の空間を行き尽した靴は、光るこうべめぐらして、棄身すてみに細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく真直まっすぐに立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことにると今日は下読が出来ていないかも知れない」
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるくかぶったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関にかる。
小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱にりながら、席に返らぬ爪先つまさきを、雨戸引く溝の上にかざして、手広く囲い込んだ庭の面をながめている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、なぞの女は立て切った一間ひとまのうちで、鳴る鉄瓶てつびんを相手に、行く春の行き尽さぬを、根限こんかぎり考えている。
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女のかんがえは、すべてこの一句から出立する。この一句を布衍ふえんすると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶のを聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものはひまのある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
居住いずまいは心を正す。端然たんねんと恋にこがれたもうひいなは、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
老いておっとなきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上にいまわしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬおきては忌わしいのみかなさけない。謎の女はみずからを情ない不幸の人と信じている。
他人でも合わぬとは限らぬ。醤油しょうゆ味淋みりんは昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょにめば咳が出る。親のうつわの方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日をれば日を重ねてへだたりの関が出来る。この頃は江戸のかたきに長崎でめぐったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌にさからって、師走しわす正月の拍子ひょうしをはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子ししとしては不都合と思う。こんなものに死水しにみずを取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
さいわいと藤尾がいる。冬をしの女竹めだけの、吹き寄せてを積る粉雪こゆきをぴんとねる力もある。十目じゅうもくを街頭に集むる春の姿に、ちょうを縫い花を浮かした派出はで衣裳いしょうも着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿むこと名乗る誰彼を、迷わしてこそ、らしてこそ、育て上げた母の面目はあがる。海鼠なまこの氷ったような他人にかかるよりは、うらやましがられて華麗はなやかに暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
らん幽谷ゆうこくに生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名あるむこを取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は今日こんにちまで出来ずにいた。さんとして群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず愛嬌あいきょうがあって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
小野さんは申分もうしぶんのない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅がかぬ。無一物のそれがしを入れて、おとなしく嫁姑よめしゅうとめを大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。おっとが外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有にしてしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の赤裸はだかになれるものなら、降っていた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る衣裳いしょうはそう無雑作むぞうさぎ取れるものではない。降りそうだからかさをやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人がれるのを構わずにわがままな手を出すのは人のおもわくもある。そこになぞが出来る。くれると云うのは本気で云ううそで、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、厭々いやいやながら受取った顔つきに、文明の手前をつくろわねばならぬ。そこで謎がける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡りょうけんで貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものをくまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦しまぎれの屈託顔に六畳敷を出たのは、焦慮じれったいがこうじて、布団の上にたたまれないからである。出て見ると春の日は存外長閑のどかで、平気にびんなぶる温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ気色きしょくが悪くなった。
えんを左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右はかぎの手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱餅ひしもちの底を渡る気で真直まっすぐな向う角を見ると藤尾が立っている。濡色ぬれいろさばいた濃きびんのあたりを、つがの柱にしつけて、斜めに持たしたえんな姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手頸てくびだけが白く見える。萩に伏しすすきなび故里ふるさと流離人さすらいびとはこんな風にながめる事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、御母おっかさん」とななめな身体を柱から離す。振り返った眼つきにはうれいの影さえもない。の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」とが聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋鯉ひごいねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――御母おっかさんの部屋では少しも聞えないよ」
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もうはすの葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今はじめて」と謎が云う。謎ばかり考えているものは迂濶うかつである。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳かやを畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀こおろぎが鳴く。時雨しぐれる。木枯こがらしが吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所にすわって謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。薄濁うすにごりのする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽くぬるむ底から、朦朧もうろうあかい影が静かな土を動かして、浮いて来る。なめらかな波にきらりと射す日影をくずさぬほどに、尾をっているかと思うと、思い切ってぽんと水をたたいて飛びあがる。一面にあがる泥の濃きうちに、かすかなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去るあとは、一筋のうねりを見せて、去年のあしを風なきになぶる。甲野さんの日記には鳥入とりいって雲無迹くもにあとなく魚行うおゆいて水有紋みずにもんありと云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書かいしょでかいてある。春光は天地をおおわず、任意に人の心をよろこばしむ。ただ謎の女にはさいわいせぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂すいきょうと云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭せいせんを畳むと云った。ぜにのような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日のわかい命を托して、娑婆しゃばの風に薄い顔をさらすうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙みのがみの薄きに過ぎて、重苦しとみどりいとう柔らかき茶に、日ごとにおか緑青ろくしょうを交ぜた葉の上には、鯉のおどった、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬたまとなって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色をながめる。鯉はまた躍った。
母は無意味に池の上を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みつめていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾はきっと向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へひとみらす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳走かんばしるほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
清水きよみずの舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留った。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
御前おまい――あの人と喧嘩けんかでもしたのかい」
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
昨夕ゆうべの事を打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母は無論躍起やっきになって、こっちに同情するに違ない。打ち明けて都合が悪いとは露思わぬが、進んで同情を求めるのは、うえせまって、知らぬ人の門口かどぐちに、一銭二銭のあわれみを乞うのと大した相違はない。同情はの敵である。昨日きのうまで舞台に躍る操人形あやつりにんぎょうのように、物云うもものうきわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝かしたり、はては笑わしたり、らしたり、どぎまぎさして、面白く興じていた手柄顔を、母も天晴あっぱれと、うごめかす鼻の先に、得意の見栄みえをぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向で、内実の昨夕ゆうべを見たら、招くすすきむこうなびく。知らぬ顔の美しい人と、むつまじく御茶を飲んでいたと、心外なふたをとれば、母の手前で器量が下がる。我が承知が出来ぬと云う。れたたかなら見限みきりをつけてもういらぬと話す。あとをけて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ちやった後で、捨てて来たと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかも知れない。いや帰るに違ないと、小夜子と自分を比較した我が証言してくれる。帰って来た時にからい目にわせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさしたりする。そうして、面白そうな手柄顔てがらがおを、母に見せれば母への面目は立つ。兄とはじめに見せれば、両人ふたりへの意趣返いしゅがえしになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉はおどる。はすを吹く、芝生はしだいに青くなる、辛夷こぶしちた。謎の女はそんな事に頓着とんじゃくはない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におれば何をしているかと思い、考えておれば何を考えているかと思い、藤尾の所へ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱にかかった。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫用らんようすると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。困り切るのはどっちの云い分か分らない。ただ謎の女の方では、飽くまでも欽吾に困り切っている。
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物のはさまったような皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない囈語ねごとを云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。はじめにやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか」
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
椽側えんがわを曲って母の影が障子しょうじのうちに消えたとき、小野さんは内玄関ないげんかんの方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ廻らず抜けて来る。
けいを打って入室相見にゅうしつしょうけんの時、足音を聞いただけで、公案の工夫くふうが出来たか、出来ないか、手に取るようにわかるものじゃと云った和尚おしょうがある。気の引けるときは歩き方にも現われる。けものにさえ屠所としょのあゆみと云うことわざがある。参禅さんぜん衲子のうしに限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんの上にもく。小野さんは常から世の中に気兼をし過ぎる。今日は一入ひとしお変である。落人おちゅうどそよすすきに安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落す靴足袋くつたびの黒き爪先つまさきはばかり気を置いて這入はいって来た。
一睛いっせい暗所あんしょに点ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もうめられている。
今日こんにちは……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんのひとみはぐらついた。
御無沙汰ごぶさたをしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女はさえぎった。ただしそれぎりである。
男は出鼻をくじかれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶあったかになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、あともとのごとく静になる。ところへこいがぽちゃりとまたはねる。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉がと云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷こぶしいている。――つぼのごとく長いはなびらから、濃いむらさきが春を追うて抜け出した後は、残骸なきがらむなしき茶の汚染しみ皺立しわだてて、あるものはぽきりと絶えたうてなのみあらわである。
鯉がと云おうとした小野さんはまためた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただいいえと受けた。男は仕損しまったと心得て、だいぶあったかになりましたと気を換えて見たが、それでもげんが見えぬので、鯉がの方へ移ろうとしたのである。男は踏みとどまれるところまですべって行く気で、気をんでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕ゆうべ博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いでむさ腫物しゅもつを知らぬ人の鼻のさきにおわせると同じ事になる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵きずとは云わせぬ。今宵限こよいかぎりおぼろだものと、即興にそそのかされて、他生たしょうの縁のそでたもとを、今宵限りり合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首をうずめて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支さしつかえない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなくならべられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月としつきを、むこうでは離れじと、とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤きえにしの色に、細くともこれまでつなめられた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬうそとなる。嘘は河豚汁ふぐじるである。その場限りでたたりがなければこれほどうまいものはない。しかし中毒あたったが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘はまこと手繰寄たぐりよせる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便たよりもあるに、隠そうとする身繕みづくろい、名繕、さては素性すじょう繕に、うたがいひとみ征矢そやはてっきりまとと集りやすい。繕はほころびるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の※(「金+肅」、第3水準1-93-39)さび生涯しょうがい洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者りこうものである。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸にくくられているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血にかようこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸てくびに暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知しらを切る当座の嘘はきたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
昨夕ゆうべ博覧会へ御出おいでに……」とまで思い切った小野さんは、御出になりましたかにしようか、御出になったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の鼻面はなづらかすめて、黒い影がさっと横切って過ぎた。男はあっと思うせんを越されてしまう。仕方がないから、
奇麗きれいでしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確きっぱり受け留める。あとから
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当けんとうがつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。あたさわりのない答は大抵の場合においてな答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口をつぐんだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛むねもりと云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静をつまびらかにする必要がある。
「誰か御伴おつれがありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんとねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄のほかにですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうかうずの中をぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつのにやら平地ひらちへ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。そのすき
「そんなにいそがしいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩をうしろへ引く。長い髪が一筋ごとにきているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳高かんだかく笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は茫然ぼうぜんとしている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。さんたる金剛石ダイヤモンドがぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆しっぺいでぴしゃりと頬辺ほおぺたたたかれた。同時に頭の底で見られたと云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩そうくずれとなる。
「実は一週間前に京都からもとの先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」とうそぶきながら頭をれた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕ゆうべ兄とはじめさんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池のふち亀屋かめやの出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこでみんなして御茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、くまでもよそおう。
「大変おいしい御茶でした事。あなた、まだ御這入おはいりになった事はないの」
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度こんだ是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。
春の影はかたぶく。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。そのの夢に藤尾は、驚くうちはたのしみがある! 女は仕合しあわせなものだ! と云うあざけりれいを聴かなかった。

 
 
 
 
(後編へつづく)

 
 底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
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