それから
夏目漱石
.
一
誰か
ぼんやりして、
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を
其所で
約三十分の後彼は食卓に就いた。熱い紅茶を
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。この書生は代助を
「学校騒動の事じゃないか」と代助は落付いた顔をして麺麭を食っていた。
「だって痛快じゃありませんか」
「校長排斥がですか」
「ええ、到底辞職もんでしょう」と嬉しがっている。
「校長が辞職でもすれば、君は何か
「冗談云っちゃ
代助はやっぱり麺麭を食っていた。
「君、あれは本当に校長が
「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」
「へえ、そんなもんですかな」と門野は
「先生は一体何を
「あの位になっていらっしゃれば、何でも出来ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。何か為たら好さそうなもんだと思うんだが」
「まあ奥様でも
「いい積りだなあ。僕も、あんな風に
「御前さんが?」
「本は読まんでも
「それはみんな、前世からの約束だから仕方がない」
「そんなものかな」
まずこう云う調子である。門野が代助の所へ引き移る二週間前には、この若い独身の主人と、この
「君は
「もとは行きましたがな。今は
「もと、
「何処って方々行きました。
「じき
「まあ、そうですな」
「で、大して勉強する考えもないんですか」
「ええ、
「
「ええ、もと、
「御母さんはやっぱり……」
「やっぱりつまらない内職をしているんですが、どうも近頃は不景気で、
「好くない様ですって、君、一所に居るんじゃないですか」
「一所に居ることは居ますが、つい面倒だから聞いた事もありません。何でも
「兄さんは」
「兄は郵便局の方へ出ています」
「
「まだ
「すると
「まあ、そんなもんですな」
「それで、家にいるときは、何をしているんです」
「まあ、大抵寐ていますな。でなければ散歩でも為ますかな」
「外のものが、みんな稼いでるのに、君ばかり寐ているのは苦痛じゃないですか」
「いえ、そうでもありませんな」
「家庭が余っ程円満なんですか」
「別段
「だって、御母さんや兄さんから云ったら、一日も早く君に独立して貰いたいでしょうがね」
「そうかも知れませんな」
「君は余っ程気楽な性分と見える。それが本当の所なんですか」
「ええ、別に
「じゃ全くの
「ええ、まあ呑気屋って云うもんでしょうか」
「兄さんは
「こうっと、取って六になりますか」
「すると、もう細君でも貰わなくちゃならないでしょう。兄さんの細君が出来ても、やっぱり今の様にしている積りですか」
「その時に
「その外に親類はないんですか」
「叔母が一人ありますがな。こいつは今、浜で
「叔母さんが?」
「叔母が
「其所へでも頼んで使って貰っちゃ、どうです。運漕業なら大分人が要るでしょう」
「根が
「そう自任していちゃ困る。実は君の御母さんが、家の婆さんに頼んで、君を僕の
「ええ、何だかそんな事を云ってました」
「君自身は、一体どう云う気なんです」
「ええ、なるべく怠けない様にして……」
「家へ来る方が好いんですか」
「まあ、そうですな」
「然し寐て散歩するだけじゃ困る」
「そりゃ大丈夫です。身体の方は達者ですから。風呂でも何でも
「風呂は水道があるから汲まないでも
「じゃ、掃除でもしましょう」
門野はこう云う条件で代助の書生になったのである。
代助はやがて食事を済まして、烟草を吹かし出した。今まで
「先生、今朝は心臓の具合はどうですか」
この間から代助の癖を知っているので、幾分か茶化した調子である。
「今日はまだ大丈夫だ」
「何だか明日にも
「もう病気ですよ」
門野は只へええと云ったぎり、代助の
「門野さん、郵便は来ていなかったかね」
「郵便ですか。こうっと。来ていました。端書と封書が。机の上に置きました。持って来ますか」
「いや、僕が
歯切れのわるい返事なので、門野はもう立ってしまった。そうして端書と郵便を持って来た。端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏
「もう来たのか、昨日着いたんだな」と独り言の様に云いながら、封書の方を取り上げると、これは
「君、電話を掛けてくれませんか。
「はあ、御宅へ。何て掛けます」
「今日は約束があって、待ち合せる人があるから上がれないって。
「はあ。
「親爺が旅行から帰って来て、話があるから一寸来いって云うんだが、――何親爺を呼び出さないでも可いから、誰にでもそう云ってくれ給え」
「はあ」
門野は無雑作に出て行った。代助は茶の間から、座敷を通って書斎へ帰った。見ると、奇麗に掃除が出来ている。
.
二
着物でも着換えて、
「どうした。まあ
「おや、
「中々、
「それから、以後どうだい」
「どうの、こうのって、――まあ色々話すがね」
「もとは、よく手紙が来たから、様子が分ったが、近頃じゃ
「いや
「僕より君はどうだい」と云いながら、細い
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番好いな。あんまり相変るものだから」
そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調を
「やあ、桜がある。今
「向うは大分
「うん、大分暖かい」と力の
「ありゃ何だい」
「婆さんさ。雇ったんだ。飯を食わなくっちゃならないから」
「御世辞が
代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ
「今までこんな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の
「みんな若いのばかりでね」と代助は
「若けりゃ猶結構じゃないか」
「とにかく家の奴は好くないよ」
「あの婆さんの外に誰かいるのかい」
「書生が一人いる」
門野は何時の間にか帰って、台所の方で婆さんと話をしていた。
「それぎりかい」
「それぎりだ。
「細君はまだ
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になった。
「
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、
平岡からは断えず
そのうち段々手紙の遣り取りが
それでも、ある事情があって、平岡の事はまるで忘れる訳には
それで、
「久し振りだから、
「
「好いだろう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似が出来る間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、中々それどころじゃない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云った。代助にはその調子よりもその返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に
「僕は
平岡は酔った眼を心持大きくした。
「大分考えが違って来た様だね。――けれどもその苦痛が後から薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」
「そりゃ不見識な青年が、流俗の
「だって、君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」
「世の中へは昔から出ているさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」
「そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ」
「無論食うに困る様になれば、
平岡の
「僕の知ったものに、まるで音楽の
平岡は
「うん、何時までもそう云う世界に住んでいられれば結構さ」と云った。その重い言葉の足が、富に対する一種の
「少し歩かないか」と代助が誘った。平岡も口程忙がしくはないと見えて、生返事をしながら、一所に歩を運んで来た。通を曲って横町へ出て、なるべく、話の
平岡の云う所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況
けれども、時日を経過するに従って、肝癪が何時となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になった。又なるべくは、融和する様に
「
支店長は平岡の未来の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に
支店長が、自分に万事を打ち明ける
平岡の語る所は、ざっとこうであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上になればなる程
「じゃ支店長は一番旨い事をしている訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁してしまった。
「それでその男の使い込んだ金はどうした」
「千に足らない金だったから、僕が出して置いた」
「よく有ったね。君も大分旨い事をしたと見える」
平岡は苦い顔をして、じろりと代助を見た。
「旨い事をしたと仮定しても、
「そうか」と代助は落ち付き払って受けた。代助はどんな時でも平生の調子を失わない男である。そうしてその調子には低く明らかなうちに一種の丸味が出ている。
「支店長から借りて埋めて置いた」
「何故支店長がじかにその関とか何とか云う男に貸して
平岡は何とも答えなかった。代助も押しては聞かなかった。二人は無言のまましばらくの間並んで歩いて行った。
代助は平岡が語ったより外に、まだ何かあるに違ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで
代助は平岡のそれとは
「それで、これから先どうする積りかね」
「さあ」
「やっぱり今までの経験もあるんだから、同じ職業が
「さあ。事情次第だが。実は
「うん、頼んでみよう、二三日
「もし、実業の方が駄目なら、どっか新聞へでも
「それも
両人は又電車の通る通へ出た。平岡は向うから来た電車の軒を見ていたが、突然これに乗って帰ると云い出した。代助はそうかと答えたまま、留めもしない、と云って
「
「
電車が二人の前で留まった。平岡は二三歩早足に
「子供は惜しい事をしたね」
「うん。
「その後はどうだい。まだ後は出来ないか」
「うん、
「こんなに動く時は子供のない方が却って便利で可いかも知れない」
「それもそうさ。
「一人身になるさ」
「冗談云ってら――それよりか、
ところへ電車が来た。
.
三
代助の父は
誠吾と云う兄がある。学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ出たので、今では
誠吾の外に姉がまだ一人あるが、これはある外交官に嫁いで、今は夫と共に西洋にいる。誠吾とこの姉の間にもう一人、それからこの姉と代助の間にも、まだ一人兄弟があったけれども、それは二人とも早く死んでしまった。母も死んでしまった。
代助の
代助は月に一度は必ず本家へ金を
代助はこの嫂を好いている。この嫂は、
誠太郎と云う子は近頃ベースボールに熱中している。代助が行って時々球を投げてやる事がある。彼は妙な希望を持った子供である。
縫という娘は、何か云うと、好くってよ、知らないわと答える。そうして日に何遍となくリボンを掛け
兄は大抵不在
代助は二人の子供に大変人望がある。嫂にも可なりある。兄には、あるんだか、ないんだか分らない。たまに兄と
代助の
実際を云うと親爺の
親爺は戦争に出たのを
こう云う代助は無論
こんな事を
代助は今この親爺と対坐している。
親爺は刻み
老人は今こんな事を云っている。――
「そう人間は自分だけを考えるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくっては心持のわるいものだ。御前だって、そう、ぶらぶらしていて心持の好い筈はなかろう。そりゃ、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んでいて面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」
「そうです」と代助は答えている。親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云う習慣になっている。代助に云わせると、親爺の考えは、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから
「それは実業が厭なら厭で好い。何も金を
「そうです」
「三十になって遊民として、のらくらしているのは、
代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。仕方がないから、真面目な顔をして、
「ええ、困ります」と答えた。老人は頭から代助を小僧視している上に、その返事が何時でも
「
「二三年このかた風邪を引いた事もありません」
「頭も悪い方じゃないだろう。学校の
「まあそうです」
「それで遊んでいるのは勿体ない。あの何とか云ったね、そら御前の所へ善く話しに来た男があるだろう。
「平岡ですか」
「そう平岡。あの人なぞは、あまり出来の
「その代り
老人は苦笑を禁じ得なかった。
「どうして」と聞いた。
「つまり食う為に働らくからでしょう」
老人にはこの意味が善く
「何か面白くない事でも遣ったのかな」と聞き返した。
「その場合々々で当然の事を遣るんでしょうけれども、その当然がやっぱり
「はああ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を
「若い人がよく
「誠実と熱心があるために、
「いや、
親爺の頭の上に、
その昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなった時、整理の任に当った長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀を脱いでその前に頭を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。
今から十五六年
こう云う過去の歴史を持っていて、この過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考える事を敢てしない長井は、何によらず、誠実と熱心へ持って
「御前は、どう云うものか、誠実と熱心が欠けている様だ。それじゃ
「誠実も熱心もあるんですが、ただ人事上に応用出来ないんです」
「どう云う訳で」
代助は又返答に窮した。代助の考えによると、誠実だろうが、熱心だろうが、自分が出来合の奴を胸に蓄わえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者
「御父さんは論語だの、王陽明だのという、金の
「金の延金とは」
代助はしばらく黙っていたが、
「延金のまま出て来るんです」と云った。長井は、書物癖のある、偏屈な、世慣れない若輩のいいたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも
それから約四十分程して、老人は着物を着換えて、
「おや、
「相変らず
「御父さんから御談義を聞かされちまった」
「また?
「御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしているんです」
「だから猶始末が悪いのよ。何か云うと、へいへいって、そうして、些とも云う事を聞かないんだもの」
代助は苦笑して黙ってしまった。
「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になって上げるから」
代助はやっぱり立ったまま、嫂の姿を見守っていた。
「今日は妙な半襟を掛けてますね」
「これ?」
梅子は
「
「
「まあ、そんな事は、どうでも
代助は嫂の真正面へ腰を卸した。
「へえ掛けました」
「一体今日は何を叱られたんです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の
「それだから、あの位に御成りになったんじゃありませんか」
「国家社会の為に尽して、金が御父さん位
「だから遊んでないで、御尽しなさいな。貴方は
「御金を取ろうとした事は、まだ有りません」
「取ろうとしなくっても、使うから同じじゃありませんか」
「兄さんが何とか云ってましたか」
「兄さんは
「随分猛烈だな。然し御父さんより兄さんの方が偉いですね」
「どうして。――あら
「そんなもんでしょうか」
「そんなもんでしょうかって、
「どうも此所へ来ると、まるで門野と同じ様になっちまうから困る」
「門野って何です」
「なに
「あの人が? 余っ程妙なのね」
代助は
「
「行きましょう。行くから
「何を」
「御父さまから云われた事を」
「云われた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭が悪いんだから」
「まだ空っとぼけていらっしゃる。ちゃんと知ってますよ」
「じゃ、伺いましょうか」
梅子は少しつんとした。
「貴方は近頃余っ程減らず口が達者におなりね」
「何、姉さんが
「子供は学校です」
十六七の小間使が戸を開けて顔を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸電話口までと取り次いだなり、黙って梅子の返事を待っている。梅子はすぐ立った。代助も立った。つづいて客間を出ようとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所に居らっしゃい。少し話しがあるから」
代助には嫂のこう云う命令的の言葉が
梅子の用事と云うのを改まって聞いてみると、又例の縁談の事であった。代助は学校を卒業する前から、梅子の
其所へ
この候補者に対して代助は一種特殊な関係を
代助の父には一人の兄があった。
直記と誠之進とは
丁度直記の十八の秋であった。ある時二人は城下
その頃の習慣として、侍が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟はその覚悟で家へ帰って来た。父も二人を並べて置いて順々に自分で
母の客に行っていた所は、その遠縁にあたる高木という勢力家であったので、大変都合が好かった。と云うのは、その頃は世の中の動き掛けた当時で、侍の
高木はそれから奔走を始めた。そうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某の親は又、存外訳の
三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となった。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。そうして妻を迎えて、得という一字名になった。その時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になっていた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思って色々勧めてみたが応じなかった。この養子に子供が二人あって、男の方は京都へ出て同志社へ
「大変込み入ってるのね。
「御父さんから何返も聞いてるじゃありませんか」
「だって、
「佐川にそんな娘があったのかな。僕も
「
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因縁つきじゃありませんか」
「先祖の
「おや、そんなものがあるの」
代助は苦笑して答えなかった。
.
四
代助は今読み切ったばかりの薄い洋書を机の上に開けたまま、
海から日が上った。彼等は
代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、此所まで頭の中で繰り返してみて、ぞっと肩を
彼の父は十七のとき、
父ばかりではない。
伯父が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどやどやと、
代助はこんな話を聞く度に、勇ましいと云う気持よりも、まず怖い方が先に立つ。度胸を買ってやる前に、
もし死が可能であるならば、それは発作の絶高頂に達した一瞬にあるだろうとは、代助のかねて期待する所であった。ところが、彼は決して発作性の男でない。手も
代助は机の上の書物を伏せると立ち上がった。縁側の
「
「もう行って来たの」
「ええ、行って来ました。何だそうです。
「誰が? 平岡が?」
「ええ。――どうも何ですな。大分御忙がしい様ですな。先生た余っ程違ってますね。――蟻なら種油を
「蟻じゃない。こうして、天気の
「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。――
代助は
「
「平岡が今日来ると云ったって」
「ええ、来る様な御話しでした」
「じゃ待っていよう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事がこの間から大分気に掛っている。
平岡はこの
その時平岡は、早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙しいんで、どうする事も出来ない、たまに宿のものが教えてくれるかと思うと、まだ人が立ち退かなかったり、あるいは今壁を塗ってる最中だったりする。などと、電車へ乗って分れるまで諸事苦情ずくめであった。代助も気の毒になって、そんなら
それから約束通り門野を探しに出した。出すや
「君、家主の方へは借りるって、断わって来たんだろうね」
「ええ、帰りに寄って、明日引越すからって、云って来ました」
代助は椅子に腰を掛けたまま、新らしく二度の
「あんなに、
代助はこの細君を
「あの時は、どうかしていたんだ」と代助は椅子に
「何か御用ですか」と門野が又出て来た。袴を脱いで、足袋を脱いで、団子の様な素足を出している。代助は黙って門野の顔を見た。門野も代助の顔を見て、一寸の間突立っていた。
「おや、御呼になったんじゃないのですか。おや、おや」と云って引込んで行った。代助は別段
「小母さん、御呼びになったんじゃないとさ。どうも変だと思った。だから手も何も鳴らないって云うのに」という言葉が茶の間の方で聞えた。それから門野と
その時、待ち設けている御客が来た。取次に出た門野は意外な顔をして這入って来た。そうして、その顔を代助の
平岡の細君は、色の白い割に髪の黒い、
三千代は東京を出て一年目に産をした。生れた子供はじき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、とかく具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶらぶらしていたが、どうしても、はかばかしく
三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな
廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。そうして奇麗な手を
三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思わず
汽車で着いた
「待っていらっしゃれば
「だって、大変忙しそうだったから」
「ええ、忙しい事は忙しいんですけれども――
代助は、あの時、夫婦の間に何があったか聞いてみようと思ったけれども、まず
代助は
「久し振りだから、何か御馳走しましょうか」と聞いた。そうして心のうちで、自分のこう云う態度が、幾分かこの女の
「今日は沢山。そう
「まあ、
代助は両手を頭の後へ持って行って、指と指を組み合せて三千代を見た。三千代はこごんで帯の間から小さな時計を出した。代助が真珠の指輪をこの女に贈ものにする時、平岡はこの時計を妻に買って
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思ってたら。――少し寄り道をしていたものだから」と独り言の様に説明を加えた。
「そんなに急ぐんですか」
「ええ、なりたけ早く帰りたいの」
代助は頭から手を放して、烟草の灰をはたき落した。
「三年のうちに大分
代助は笑ってこう云った。けれどもその調子には
「あら、だって、明日引越すんじゃありませんか」
三千代の声は、この時急に生々と聞えた。代助は引越の事をまるで忘れていたが、相手の快よさそうな調子に釣り込まれて、
「じゃ引越してから緩くり来れば可いのに」
「でも」と云った三千代は少し
「実は
「何ですか、遠慮なく
「少し御金の工面が出来なくって?」
三千代の言葉はまるで子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬はやっぱり赤くなっている。代助は、この女にこんな
段々聞いてみると、明日引越をする費用や、新しく世帯を持つ為めの金が入用なのではなかった。支店の方を引き上げる時、向うへ置き去りにして来た借金が三口とかあるうちで、その一口を是非片付けなくてはならないのだそうである。東京へ着いたら一週間うちに、どうでもすると云う堅い約束をして来た上に、少し訳があって、
「支店長から借りたと云う奴ですか」
「いいえ。その方は
代助はなるほどそんな事があるのかと思った。
「何でまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから私考えると
「病気の時の費用なんですか」
「じゃないのよ。薬代なんか知れたもんですわ」
三千代はそれ以上を語らなかった。代助もそれ以上を聞く勇気がなかった。ただ
.
五
翌日朝早く門野は荷車を三台雇って、新橋の停車場まで平岡の荷物を受取りに行った。実は
それから十一時過まで代助は読書していた。が不図ダヌンチオと云う人が、自分の
代助は
代助は縁側へ出て、庭から先にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散って、今は新芽若葉の初期である。はなやかな緑がぱっと顔に吹き付けた様な心持ちがした。眼を
平岡の新宅へ来て見ると、門が開いて、がらんとしているだけで、荷物の着いた様子もなければ、平岡夫婦の来ている気色も見えない。ただ車夫
「旦那と奥さんと一所に来たかい」
「ええ御一所です」
「そうして一所に帰ったかい」
「ええ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち着くだろう。御苦労さま」と云って、又通りへ出た。
神田へ来たが、平岡の旅宿へ寄る気はしなかった。けれども二人の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので
平岡は驚ろいた様に代助を見た。その眼が血ばしっている。二三日
翌日、代助が
「
「君、すっかり
「ええ、すっかり片付けちまいました。その代り、どうも骨が折れましたぜ。何しろ、我々の引越と違って、大きな物が色々あるんだから。奥さんが座敷の真中へ立って、
「少し
「どうもそうらしいですね。色が何だか
代助はやがて書斎へ帰って、手紙を二三本書いた。一本は朝鮮の統監府に
昼過散歩の出掛けに、門野の
代助は、何事によらず一度気にかかり出すと、何処までも気にかかる男であった。しかも自分でその馬鹿気さ加減の程度を明らかに見積るだけの脳力があるので、自分の気にかかり方が
この困難は約一年ばかりで何時の間にか
それから
代助も二言三言この細君から話しかけられた。が三分と
代助が此所へ呼ばれたのは、個人的に此所の主人や、この英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の父と兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻って来たのである。だから、万遍なく方々へ行って、好い加減に頭を下げて、ぶらぶらしていた。その
「やあ、来たな」と云ったまま、帽子に手も掛けない。
「どうも、好い天気ですね」
「ああ。結構だ」
代助も脊の低い方ではないが、兄は一層高く出来ている。その上この五六年来次第に肥満して来たので、中々立派に見える。
「どうです、
「いや、
「どうも外国人は調子が
「そんなに天気を賞めていたのかい。へえ。少し暑過ぎるじゃないか」
「私にも暑過ぎる」
誠吾と代助は申し合せた様に、白い
兄弟は芝生の外れの
「兄の様になると、
「今日は御父さんはどうしました」
「御父さんは詩の会だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答えたが、代助の方は多少可笑しかった。
「姉さんは」
「御客の接待掛りだ」
また
代助は、誠吾の始終忙しがっている様子を知っている。又その忙しさの過半は、こう云う会合から出来上がっているという事実も心得ている。そうして、別に
誠吾が待合へ這入ったり、料理茶屋へ上ったり、
だが面白くはない。話し相手としては、兄よりも嫂の方が、代助に取って
そうかと思うと。時にトルストイと云う人は、もう死んだのかねなどと妙な事を聞く事がある。今日本の小説家では誰が一番偉いのかねと聞く事もある。要するに文芸にはまるで
こう云う兄と差し向いで話をしていると、刺激の乏しい代りには、
だから木蔭に立って、兄と肩を
「兄さん、
「暇」と繰り返した誠吾は、何にも説明せずに笑って見せた。
「
「明日の朝は浜まで行って来なくっちゃならない」
「
「午からは、会社の方に居る事はいるが、少し相談があるから、来ても
「じゃ晩なら
「晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日の晩帝国ホテルへ呼ぶ事になってるから駄目だ」
代助は口を
「そんなに急ぐなら、今日じゃ、どうだ。今日なら可い。久し振りで一所に飯でも食おうか」
代助は賛成した。ところが倶楽部へでも
「
「何構うものか」
二人は園遊会を辞して、車に乗って、金杉橋の袂にある鰻屋へ上った。
其所は河が流れて、柳があって、古風な家であった。黒くなった床柱の
二人は好い心持に酒を飲んだ。兄は飲んで、食って、世間話をすればその外に用はないと云う態度であった。代助も、うっかりすると、肝心の事件を忘れそうな勢であった。が下女が三本目の
実を云うと、代助は今日までまだ誠吾に無心を云った事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、その尻を兄になすり付けた
代助から見ると、誠吾は
代助は世間話の
「で、私も気の毒だから、どうにか心配してみようって受合ったんですがね」と云った。
「へえ。そうかい」
「どうでしょう」
「
「
「誰から」
代助は始めから此所へ落す積りだったんだから、
「貴方から借りて置こうと思うんです」と云って、改めて誠吾の顔を見た。兄はやっぱり普通の顔をしていた。そうして、平気に、
「そりゃ、
誠吾の理由を聞いてみると、義理や人情に関係がないばかりではない、返す返さないと云う損得にも関係がなかった。ただ、そんな場合には放って置けば
誠吾はこの断定を証明する
「そりゃ、姉さんが蔭へ廻って恵んでいるに違ない。ハハハハ。兄さんも余っ程
「何、そんな事があるものか」
誠吾はやはり当り前の顔をしていた。そうして前にある
.
六
その日誠吾は中々金を貸して
代助は飲むに従って、段々金を遠ざかって来た。ただ互が差し向いであるが為めに、
「いや、そう云う人間は御免
「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくっちゃ駄目だ。単に兄弟の
こう考えた様なものの、別に兄を不人情と思う気は起らなかった。
代助自身の今の傾向から云うと、到底人の為に判なぞを押しそうにもない。自分もそう思っている。けれども、兄が其所を見抜いて金を貸さないとすると、
けれども、
こう考えながら、代助は床を出た。門野は茶の間で、胡坐をかいて新聞を読んでいたが、髪を
「どうも『
「君読んでるんですか」
「ええ、毎朝読んでます」
「面白いですか」
「面白い様ですな。どうも」
「どんな所が」
「どんな所がって、そう改たまって聞かれちゃ困りますが。何じゃありませんか、一体に、こう、現代的の不安が出ている様じゃありませんか」
「そうして、肉の
「しますな。大いに」
代助は黙ってしまった。
紅茶
代助の頭には今具体的な何物をも留めていなかった。あたかも戸外の天気の様に、それが静かに
代助は近頃流行語の様に人が使う、現代的とか不安とか云う言葉を、あまり口にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云わずと知れていると考えたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分だけで信じていたからである。
代助は
理智的に物を疑う方の不安は、学校時代に、有ったにはあったが、ある所まで進行して、ぴたりと留って、それから逆戻りをしてしまった。丁度天へ向って石を
代助は門野の賞めた「煤烟」を読んでいる。今日は紅茶茶碗の傍に新聞を置いたなり、開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、
代助は椅子の上で、時々身を動かした。そうして、自分では飽くまで落ち付いていると思っていた。やがて、紅茶を
午過になってから、代助は自分が落ち付いていないと云う事を、
「もう学校は引けたのかい。早過ぎるじゃないか」
「ちっとも早かない」と云って、笑いながら、代助の顔を見ている。代助は手を
「誠太郎、チョコレートを飲むかい」と聞いた。
「飲む」
代助はチョコレートを二杯命じて置いて誠太郎に
「誠太郎、御前はベースボールばかり遣るもんだから、この頃手が大変大きくなったよ。頭より手の方が大きいよ」
誠太郎はにこにこして、右の手で、円い頭をぐるぐる
「叔父さんは、昨日御父さんから
「ああ、
「又神経だ」
「神経じゃない本当だよ。全たく兄さんの
「だって御父さんはそう云ってましたよ」
「何て」
「明日学校の帰りに代助の所へ廻って何か御馳走して貰えって」
「へええ、昨日の御礼にかい」
「ええ、今日は己が奢ったから、明日は向うの番だって」
「それで、わざわざ遣って来たのかい」
「ええ」
「
「チョコレートなんぞ」
「飲まないかい」
「飲む事は飲むけれども」
誠太郎の注文を能く聞いてみると、相撲が始まったら、
「叔父さんはのらくらしているけれども実際偉いんですってね」と云った。代助もこれには一寸
「偉いのは知れ切ってるじゃないか」と答えた。
「だって、僕は
誠太郎の云う所によると、昨夕兄が宅へ帰ってから、父と
代助はうん、それから、と云って、始終面白そうに聞いていたが、占者の所へ来たら、本当に
平岡の家は、この十数年来の物価
門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨脹に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割
今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点している、のみならず、
彼等のあるものは、石油缶の底を継ぎ合わせた四角な
代助は垣根の前を通るとき、
平岡が、失敬だがちょっと待ってくれと云った間に、代助は行李と長襦袢と、時々行李の中へ落ちる
やがて、平岡は筆を机の上へ
「どうだい。この間は色々
平岡の言葉は言訳と云わんより
「まだ落ち付かないだろう」と代助が聞いた。
「落ち付くどころか、この分じゃ生涯落ち付きそうもない」と、いそがしそうに
代助は平岡が
「
「うん、まあ、悪くっても仕方がない。気に入った家へ
「そうかも知れない。その代り、ああ云う立派な家が一軒立つと、その蔭に、どの位沢山な家が
「だから
平岡はこう云って大いに笑った。
「何ですか、それは」
「赤ん
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞っといたのか。早く壊して雑巾にでもしてしまえ」
三千代は小供の着物を
「
「これか」
平岡は
「これはもう
代助は始めて、昔の平岡を
「袷の下にネルを重ねちゃもう暑い。襦袢にすると可い」
「うん、面倒だから着ているが」
「洗濯をするから御脱ぎなさいと云っても、中々脱がないのよ」
「いや、もう脱ぐ、己も少々
話は死んだ小供の事をとうとう離れてしまった。そうして、来た時よりは幾分か空気に
「君
「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶだけの事だ。緩くり探しているうちにはどうかなるだろう」
云う事は落ち付いているが、代助が聞くと却って
代助が真鍮を以て甘んずる様になったのは、不意に大きな
代助は同時にこう考えた。自分が三四年の間に、これまで変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化しているだろう。昔しの自分なら、なるべく平岡によく思われたい心から、こんな場合には兄と
それで肝心の話は
平岡は酔うに従って、段々口が多くなって来た。この男はいくら酔っても、中々平生を離れない事がある。かと思うと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽を帯びて来る。そうなると、普通の酒家以上に、
ところが今日は妙である。酒に親しめば親しむ程、平岡が昔の調子を出して来た。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働らいている。又これからも働らく積りだ。君は僕の失敗したのを見て笑っている。――笑わないたって、要するに笑ってると同じ事に帰着するんだから構わない。いいか、君は笑っている。笑っているが、その君は何も
「何笑っても構わない。君が僕を笑う前に、僕は既に自分を笑っているんだから」
「そりゃ、嘘だ。ねえ三千代」
三千代は
「本当でしょう、三千代さん」と云いながら、代助は
「そりゃ嘘だ。おれの細君が、いくら弁護したって、嘘だ。
「冗談云っちゃ不可ない」
「冗談じゃない。全く本気の沙汰であります。そりゃ昔の君はそうじゃ無かった。昔の君はそうじゃ無かったが、今の君は大分違ってるよ。ねえ三千代。長井は誰が見たって、大得意じゃないか」
「何だか
平岡は大きな声を出してハハハと笑った。三千代は
平岡は膳の上の
「今日は久し振りに
代助はこの言葉のうちに、今の自己を昔に返そうとする真率な又無邪気な一種の努力を認めた。そうして、それに動かされた。けれども一方では、
「君は酒を呑むと、言葉だけ酔払っても、頭は大抵確かな男だから、僕も云うがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云うのが厭になった。
「君、頭は
「確だとも。君さえ確なら
「君はさっきから、働らかない働らかないと云って、大分僕を攻撃したが、僕は黙っていた。攻撃される通り僕は働らかない積りだから黙っていた」
「何故働かない」
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、
代助は
「三千代さん。どうです、私の考は。随分
「何だか
「へええ。
「何処ん所って、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡は
代助は盃へ唇を付けながら、これから先はもう云う必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考え直させる為の弁論でもなし、又平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつまで立っても、二人として離れていなければならない運命を
けれども、平岡は酔うとしつこくなる男であった。胸毛の奥まで赤くなった胸を突き出して、こう云った。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、その
平岡は
「君は金に不自由しないから
代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手を
「働らくのも
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を
「
「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」
「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食い
「まだ理論的だね、どうも。それで一向
「では
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、
「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃ
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻っちまった。これだから議論は不可ないよ」と云って、代助は頭を
.
七
代助は風呂へ
「先生、どうです、御燗は。もう少し
「結構」と答えた。すると、門野が、
「ですか」と云い棄てて、茶の間の方へ引き返した。代助は門野の返事のし具合に、いたく興味を
まだ不思議な事がある。この間、ある書物を読んだら、ウエバーと云う生理学者は自分の心臓の鼓動を、増したり、減したり、随意に変化さしたと書いてあったので、平生から鼓動を試験する癖のある代助は、ためしに遣ってみたくなって、一日に二三回位
湯のなかに、静かに浸っていた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上へ持って行ったが、どんどんと云う命の音を二三度聞くや
代助は又湯に這入って、平岡の云った通り、全く暇があり過ぎるので、こんな事まで考えるのかと思った。湯から出て、鏡に自分の姿を写した時、又平岡の言葉を思い出した。幅の厚い西洋
茶の間を抜けようとする拍子に、
「どうも先生は
「何が旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野は、
「やあ、もう御上りですか。早いですな」と答えた。この
休息しながら、こう頭が妙な方面に鋭どく働き出しちゃ、身体の毒だから、
代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であった。代助は長井家の関係から、当時交際社会の表面にあらわれて出た、若い女の顔も名も、沢山に知っていた。けれども三千代はその方面の婦人ではなかった。色合から云うと、もっと地味で、気持から云うと、もう少し沈んでいた。その頃、代助の学友に
この菅沼は東京近県のもので、学生になった二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今までの下宿を引き払って、二人して家を持った。その時妹は国の高等女学校を卒業したばかりで、年は
菅沼の家は
代助は其所へ能く遊びに行った。始めて三千代に
三千代と口を
平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立って、来た事もある。そうして、代助と前後して、三千代と懇意になった。三千代は兄とこの二人に
それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かった代助とも平岡とも知り合になった。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、
その年の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてその間に立ったものは代助であった。
結婚して間もなく二人は東京を去った。国に居た父は思わざるある事情の為に余儀なくされて、これもまた北海道へ行ってしまった。三千代は
けれども、平岡へ行ったところで、三千代が
その上平岡の留守へ
代助は、ともかくもまず嫂に相談してみようと決心した。そうして、自分ながら甚だ
生暖かい風の吹く日であった。曇った天気が
兄の家の門を
入口の書生部屋を
「おや」
縫子の方は、黙って
「如何なる名人が鳴らしているのかと思った」
梅子は何にも云わずに、額に八の字を寄せて、笑いながら手を振り振り、代助の言葉を
「代さん、此所ん所を一寸遣って見せて下さい」
代助は黙って嫂と入れ替った。譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働かした後、
「こうだろう」と云って、すぐ席を離れた。
それから三十分程の間、母子して
「もう
居間にはもう電燈が
代助は突然例の話を持ち出すのも、変なものだと思って、関係のない所からそろそろ進行を始めた。
今夜も遅くなる、もし、誰と誰が来たら何とか屋へ来る様に云ってくれと云う電話を伝えたまま、書生は再び出て行った。代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、
梅子は代助の云う事を素直に聞いていた。代助は
「だから思い切って貸して下さい」と云った。すると梅子は
「そうね。けれども全体
「皮肉じゃないのよ。怒っちゃ
代助は無論怒ってはいなかった。ただ
「代さん、あなたは不断から私を馬鹿にして
「困りますね、そう真剣に
「
代助は黙ってにやにや笑っていた。
「でしょう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちっとも構やしません。いくら
代助は嫂の態度の真率な所が気に入った。それで、
「ええ、少しは馬鹿にしています」と答えた。すると梅子はさも愉快そうにハハハハと笑った。そうして云った。
「兄さんも馬鹿にしていらっしゃる」
「兄さんですか。兄さんは大いに尊敬している」
「
「そりゃ、或点では馬鹿にしない事もない」
「それ御覧なさい。あなたは一家族中
「どうも恐れ入りました」
「そんな言訳はどうでも好いんですよ。貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、
「本当なのよ。それで差支ないんですよ。
「だから
「まだ本気で聞いていらっしゃらないのね」
「これが私の本気な所なんです」
「じゃ、それも貴方の偉い所かも知れない。然し誰も御金を貸し手がなくって、今の御友達を救って上げる事が出来なかったら、どうなさる。いくら偉くっても駄目じゃありませんか。無能力な事は車屋と
代助は今まで嫂がこれ程適切な異見を自分に向って加え得ようとは思わなかった。実は金の工面を思い立ってから、自分でもこの弱点を
「全く車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」
「仕方がないのね、貴方は。あんまり、偉過ぎて。一人で御金を御取んなさいな。本当の車屋なら貸して上げない事もないけれども、貴方には厭よ。だって
梅子の云う所は実に
梅子は、この機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しようと
その
「だって、貴方だって、生涯一人でいる気でもないんでしょう。そう
生涯一人でいるか、或は
代助は
「だが、姉さん、僕はどうしても嫁を貰わなければならないのかね」と聞く事がある。代助は無論真面目に聞く積りだけれども、嫂の方では
「妙なのね、そんなに厭がるのは。――厭なんじゃないって、口では仰しゃるけれども、貰わなければ、厭なのと
代助は今まで嫁の候補者としては、ただの
.
八
代助が
その夜は
家へ着いたら、
その
日糖事件の起る少し前、東洋汽船という会社は、一割二分の配当をした後の半期に、八十万円の欠損を報告した事があった。それを代助は記憶していた。その時の新聞がこの報告を評して信を置くに足らんと云った事も記憶していた。
代助は自分の父と兄の関係している会社に就ては何事も知らなかった。けれども、いつどんな事が起るまいものでもないとは常から考えていた。そうして、父も兄もあらゆる点に
代助はこう云う考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかった。父と兄の会社に就ても心配をする程正直ではなかった。ただ三千代の事だけが多少気に掛った。けれども、
仕舞にアンニュイを感じ出した。
玄関から座敷へ通って見ると、寺尾は真中へ
本郷の通りまで来たが
「
手紙は古風な状箱の中にあった。その赤塗の表には
けれども中にあった手紙は、状箱とは正反対に簡単な、言文一致で用を済していた。この間わざわざ来てくれた時は、
手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手が
代助はすぐ返事を書いた。そうして出来るだけ暖かい言葉を使って感謝の意を表した。代助がこう云う気分になる事は兄に対してもない。父に対してもない。世間一般に対しては
代助はすぐ三千代の所へ出掛けようかと考えた。実を云うと、二百円は代助に取って中途半端な
代助は
平岡の玄関の
平岡は不在であった。それを聞いた時、代助は話してい
予期した通り、平岡は相変らず奔走している。が、この一週間程は、あんまり外へ出なくなった。疲れたと云って、よく
「昔と違って気が荒くなって困るわ」と云って、三千代は暗に同情を求める様子であった。代助は黙っていた。下女が帰って来て、勝手口でがたがた音をさせた。しばらくすると、
代助は
「
三千代は何にも答えなかった。ただ眼を挙げて代助を見た。
「実は、
その時三千代は急に心細そうな低い声になった。そうして
「
「これだけじゃ駄目ですか」
三千代は手を伸ばして小切手を受取った。
「
代助は金を借りて来た由来を、
「それは、
「それだけで、どうか始末が付きますか。もしどうしても付かなければ、もう一遍工面してみるんだが」
「もう一遍工面するって」
「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消す様に云った。「それこそ大変よ。
代助は平岡の今苦しめられているのも、その起りは、
代助は経済問題の裏面に潜んでいる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く
「そんなに弱っちゃ
「
中二日置いて、突然平岡が来た。その日は乾いた風が朗らかな
「
話してみると、平岡の事情は、依然として発展していなかった。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日こうして遊んで歩く。それでなければ、
平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかった。従って三日前代助が彼の留守宅を訪問した事に就ても何も語らなかった。代助も始めのうちは、わざと、その点に触れないで澄していたが、
「実は
「うん。そうだったそうだね。その節は又
「僕も実は御礼に来た様なものだが、本当の御礼には、いずれ当人が出るだろうから」とまるで三千代と自分を別物にした言分であった。代助はただ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答えた。話はこれで切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持たない方面に
「僕はことによると、もう実業は
「それは、そうだろう」と答えた。平岡はあまりこの返事の冷淡なのに驚ろいた様子であった。が、又あとを付けた。
「先達ても一寸話したんだが、新聞へでも這入ろうかと思ってる」
「口があるのかい」と代助が聞き返した。
「今、一つある。多分出来そうだ」
来た時は、運動しても駄目だから遊んでいると云うし、今は新聞に口があるから出ようと云うし、少し要領を欠いでいるが、追窮するのも面倒だと思って、代助は、
「それも面白かろう」と賛成の意を表して置いた。
平岡の帰りを玄関まで見送った時、代助はしばらく、障子に身を寄せて、敷居の上に立っていた。門野も御附合に平岡の後姿を眺めていた。が、すぐ口を出した。
「平岡さんは思ったよりハイカラですな。あの
「そうでもないさ。近頃はみんな、あんなものだろう」と代助は立ちながら答えた。
「全たく、
代助は返事も
平岡はとうとう自分と離れてしまった。
代助と接近していた時分の平岡は、人に泣いて
平岡に接近していた時分の代助は、人の
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ
こう云う意味の孤独の底に陥って
代助は書斎に閉じ
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、
.
九
代助は又父から呼ばれた。代助にはその用事が大抵分っていた。代助は不断からなるべく父を避けて会わない様にしていた。この頃になっては
代助は人類の
この二つの
代助の父の場合は、一般に比べると、
と云って、父は代助の
代助は
代助はこの前梅子に礼を云いに行った時、梅子から
今日はわざわざその為に来たのだから、
「どうだ、一
「当てて御覧なさい。どの位古いんだか」と一杯注いだ。
「代助に分るものか」と云って、誠吾は弟の唇のあたりを眺めていた。代助は一口飲んで
「
「だから時代を当てて御覧なさいよ」
「時代があるんですか。偉いものを買い込んだもんだね。帰りに一本貰って行こう」
「
「兄さん、今日はどうしたんです。大変気楽そうですね」と代助が聞いた。
「今日は休養だ。この間中はどうも忙し過ぎて降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻を口に
「代さん
「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行って御覧なさい。面白いから」
「貴方もう行ったの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」
「怠けものは
「押の強い事ばかり云って。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い
「ねえ、貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるさそうに葉巻を指の
「今のうち
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた、代助は何にも云わずに、
「兄さん、この間中は何だか大変忙しかったんだってね」と代助は前へ戻って聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云いながら、誠吾は
「何か日糖事件に関係でもあったんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかった」
兄の答は
「日糖もつまらない事になったが、ああなる前にどうか方法はないんでしょうかね」
「そうさなあ。実際世の中の事は、何がどうなるんだか分らないからな。――梅、今日は直木に云い付けて、ヘクターを少し運動させなくっちゃ
「
「嫁の事か」と誠吾が聞いた。
「まあ、そうだろうと思うんです」
「貰って置くがいい。そう
「気を付けないと
「まさかこの間中の奔走からきた低気圧じゃありますまいね」と念を押した。兄は寐転んだまま、
「何とも云えないよ。こう見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない
「馬鹿な事を
「やっぱり僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだろう」と代助は笑いながら立った。
廊下伝いに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は
父はまず眼鏡を外した。それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直った。そうして、ただ一言、
「来たか」と云った。その語調は平常よりも
代助はそれから後は、一言も口を
父の長談義のうちに、代助は二三の新しい点も認めた。その一つは、御前は一体これからさきどうする
代助は次に、独立の出来るだけの財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答えた。すると、父が、では佐川の娘を
次に、
「そんなに佐川の娘を貰う必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなった。
代助は父を怒らせる気は少しもなかったのである。彼の近頃の主義として、人と
その時父は
「じゃ、佐川は
「別にそんな貰いたいのもありません」と明らかな返事をした。すると父は急に
「じゃ、少しは
「
父は
「何も
代助はただ
「そりゃ
「そんな事じゃない」
二人はそれぎりしばらく口を利かずにいた。父はこの沈黙を
「まあ、よく考えて御覧」と云った。代助ははあと答えて、父の
「あなたは僕の事を何か御父さんに
梅子はハハハハと笑った。そうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度好い所だから」と云って、代助を楽器の傍まで引張って行った。
.
十
代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが
代助は父に呼ばれてから二三日の間、庭の隅に咲いた
彼の今の気分は、彼に時々起る
その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。その不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であった。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ
代助が父に
代助は平岡に対しても同様の感じを抱いていた。然し平岡に取っては、それが当然の事であると許していた。ただ平岡を好く気になれないだけであった。代助は兄を愛していた。けれどもその兄に対してもやはり信仰は
代助は平生から、この位に世の中を
一時間の後、代助は大きな黒い眼を開いた。その眼は、しばらくの間一つ所に留まって全く動かなかった。手も足も寐ていた時の姿勢を少しも崩さずに、まるで死人のそれの様であった。その時一匹の黒い蟻が、ネルの襟を伝わって、代助の
「
「御茶でも入れて来ましょうか」と聞いた。代助は、はだかった胸を
「君、僕の寐ていたうちに、誰か来やしなかったかね」と、静かな調子で尋ねた。
「ええ、
「
「
「だって御客なら仕方がないじゃないか」
代助の語勢は少し強くなった。
「ですがな。平岡の奥さんの方で、起さない方が
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
「また出て行ったのかい」
「ええ、まあそうです」
代助は笑いながら、両手で寐起の顔を
代助はこの前平岡の訪問を受けてから、心待に後から三千代の来るのを待っていた。けれども、平岡の言葉は遂に事実として現れて来なかった。特別の事情があって、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使ったのか、疑問であるが、それがため、代助は心の
それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けていた。散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を
彼は平岡の安否を気にかけていた。まだ
こんな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱いて今日に至った。いま
代助は両手を額に当てて、高い空を面白そうに切って廻る燕の運動を縁側から眺めていたが、やがて、それが
代助はぼんやり壁を見詰めていた。門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云い置いて行ったかどうか尋ねようと思ったが、あまり
それから三千代の来るまで、代助はどんな風に時を過したか、
「
三千代の顔はこの前逢った時よりは
「どうかしましたか」と聞いた。
三千代は何にも答えずに
「ああ苦しかった」と云いながら、代助の方を見て笑った。代助は手を叩いて水を取り寄せようとした。三千代は黙って洋卓の上を指した。其所には代助の食後の
「奇麗なんでしょう」と三千代が聞いた。
「
「今すぐ持って来て上げる」と云いながら、折角空けた洋盃をそのまま
「先生、今
「茶は後でも好い。水が要るんだ」と云って、代助は自分で台所へ出た。
「はあ、そうですか。上がるんですか」と茶壺を放り出して門野も付いて来た。二人で
「菓子がなければ、早く買って置けば可いのに」と代助は水道の栓を
「つい、小母さんに、御客さんの来る事を云って置かなかったものですからな」と門野は気の毒そうに頭を掻いた。
「じゃ、君が菓子を買に行けば
「なに菓子の外にも、まだ色々買物があるって云うもんですからな。足は悪し天気は好くないし、
代助は振り向きもせず、書斎へ戻った。敷居を
「どうしたんです」と聞いた。三千代は
「
「
「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。
「毒でないったって、もし二日も三日も
「いえ、
代助は黙って椅子へ腰を卸した。果して詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。よし前者とした所で、詩を
「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。
三千代の頬に
「けれども、慣れっこに
「心臓の方は、まだすっかり善くないんですか」と代助は気の毒そうな顔で尋ねた。
「すっかり善くなるなんて、生涯駄目ですわ」
意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでいなかった。
すると、三千代は急に思い出した様に、この間の小切手の礼を述べ出した。その時何だか少し頬を赤くした様に思われた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分った。彼はそれを、貸借に関した
「この花はどうしたんです。買て来たんですか」と聞いた。三千代は黙って
「好い
「そう傍で嗅いじゃ
「あら何故」
「何故って理由もないんだが、不可ない」
代助は少し
「貴方、この花、
代助は椅子の足を
「じゃ、買って来なくっても好かったのに。つまらないわ、回り
雨は本当に降って来た。
「僕にくれたのか。そんなら早く
「さあこれで好い」と代助は鋏を洋卓の上に置いた。三千代はこの不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見ていたが、突然、
「あなた、
昔し三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日何かのはずみに、長い百合を買って、代助が
「貴方だって、鼻を着けて嗅いでいらしったじゃありませんか」と云った。代助はそんな事があった様にも思って、仕方なしに苦笑した。
そのうち雨は
「
「
三千代は寧ろ恨めしそうに樋から
「帰りには車を云い付けて上げるから
三千代はあまり緩り出来そうな様子も見えなかった。まともに、代助の方を見て、
「
今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時明らかに代助の心の
「平岡君はどうしました」とわざと何気なく聞いた。すると三千代の口元が心持締って見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何にも
「その方はまあ安心なの。来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりゃ好かった。些とも知らなかった。そんなら当分それで好いじゃありませんか」
「ええ、まあ
「
「彼方の方って――」と少し
「私、実は今日それで
代助は少しでも
「私、本当に済まない事をしたと思って、後悔しているのよ。けれども拝借するときは、決して貴方を
「どうせ貴方に上げたんだから、どう使ったって、誰も何とも云う訳はないでしょう。役にさえ立てばそれで好いじゃありませんか」と代助は慰めた。そうして貴方という字をことさらに重くかつ緩く響かせた。三千代はただ、
「私、それで漸く安心したわ」と云っただけであった。
雨が
.
十一
何時の間にか、人が
近頃代助は前よりも誠太郎が好きになった。外の人間と話していると、人間の皮と話す様で
この頃誠太郎はしきりに玉乗りの
誠太郎はこの春から中学校へ行き出した。すると急に
代助は堀端へ出た。この間まで向うの土手にむら
新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは
家の門を
「いや、御早うがしたな」と云って玄関へ出て来た。代助は何にも答えずに、帽子を
「締めときますか。暑かありませんか」と聞いた。代助は
「締めて置いてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子を締めて出て行った。代助は暗くした
彼は人の
代助が
この根本義から
だから、代助は今日まで、自分の脳裏に
この主義を出来るだけ遂行する彼は、その遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲われて、自分は今何の為に、こんな事をしているかと考え出す事がある。彼が番町を散歩しながら、
その時彼は自分ながら、自分の活力に充実していない事に気がつく。
彼は立て切った室の中で、一二度頭を抑えて振り動かしてみた。彼は昔から今日までの思索家の、
彼は高尚な生活欲の満足を
「やっぱり、三千代さんに逢わなくちゃ
彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔いた。もう一遍出直して、平岡の
「何だって、今時分来たんだ」と代助は愛想もなく云い放った。彼は寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際していたのである。
「今時分が丁度訪問に好い刻限だろう。君、又昼寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可ん。君は一体何の為に生れて来たのだったかね」と云って、寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送った。時候はまだそれ程暑くないのだから、この所作は
「何の為に生れて
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は
寺尾は
「これを訳さなけりゃならないんだ」と云った。代助は依然として黙っていた。
「食うに困らないと思って、そう無精な顔をしなくっても好かろう。もう少し判然としてくれ。此方は生死の戦だ」と云って、寺尾は小形の本を、とんとんと
「
寺尾は、書物の
「二週間」と答えた後で、「どうでもこうでも、それまでに片付なけりゃ、食えないんだから仕方がない」と説明した。
「偉い勢だね」と代助は冷かした。
「だから、本郷からわざわざ
「面倒だな。僕は今日は頭が悪くって、そんな事は遣っていられないよ。
「なんぼ、僕だって、そう無責任な翻訳は出来ないだろうじゃないか。誤訳でも指摘されると後から面倒だあね」
「仕様がないな」と云って、代助はやっぱり横着な態度を維持していた。すると、寺尾は、
「おい」と云った。「冗談じゃない、君の様に、のらくら遊んでる人は、たまにはその位な事でも、しなくっちゃ退屈で仕方がないだろう。なに、僕だって、本の善く読める人の所へ行く気なら、わざわざ君の所まで来やしない。けれども、そんな人は君と違って、みんな忙しいんだからな」と少しも
「じゃなるべく少しにしようじゃないか」と断って置いて、
「やあ、
「分らない所はどうする」と代助が聞いた。
「なにどうかする。――誰に聞いたって、そう善く分りゃしまい。第一時間がないから已を得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如くに天から極めていた。
相談が済むと、寺尾は例によって、文学談を持ち出した。不思議な事に、そうなると、自己の翻訳とは違って、いつもの通り非常に熱心になった。代助は現今の文学者の
寺尾の
そこへ門野が大きな
「もう、そろそろ蛍が出る時分ですな」と云った。代助は
「まだ出やしまい」と答えた。すると門野は例の如く、
「そうでしょうか」と云う返事をしたが、すぐ真面目な調子で、「蛍てえものは、昔は大分
「そうさ。どう云う訳だろう」と代助も空っとぼけて、真面目な
「やっぱり、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでしょう」と云い終って、自から、えへへへと、
「また御出掛ですか。よござんす。洋燈は
代助は門を出た。江戸川まで来ると、河の水がもう暗くなっていた。彼は
実を云うと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍
いま一遍は、
三遍目には、平岡の社へ出た留守を訪ねた。その時は用事も何もなかった。約三十分ばかり縁へ腰を掛けて話した。
それから以後はなるべく小石川の方面へ立ち回らない事にして今夜に至ったのである。代助は
翌日眼が覚めると、依然として脳の中心から、半径の違った円が、頭を二重に仕切っている様な心持がした。こう云う時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なった切り組み細工で出来上っているとしか感じ得られない癖になっていた。それで
代助はかかる脳髄の異状を以て、かつて酒の
床の上に起き上がって、彼は又頭を振った。
「小母さん、そう働らいちゃ悪いだろう。先生の膳は僕が洗って置くから、
「御宅から
「勝、御迎って何だい」と聞くと、勝は恐縮の態度で、
「奥様が車を持って、迎に行って来いって、
「何か急用でも出来たのかい」
勝は固より何事も知らなかった。
「御出になれば分るからって――」と簡潔に答えて、言葉の
代助は奥へ這入った。婆さんを呼んで着物を出させようと思ったが、腹の痛むものを使うのが
その日は風が強く吹いた。勝は苦しそうに、前の方に
何か事が起ったのかと思って、上り掛けに、書生部屋を
「やあ、
「叔父さん、奥さんは何時
「今日は
「だって今日は日曜じゃありませんか」と誠太郎は
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
直木は代助の顔を見てとうとう笑い出した。代助も笑って、座敷へ来た。そこには誰も居なかった。替え立ての畳の上に、丸い
座敷を通り抜けて、兄の部屋の方へ来たら、人の影がした。
「あら、だって、それじゃ
「そら来た。ね。だから一所に連れて行って
「代さん、今日
「ええ、まあ暇です」と代助は答えた。
「じゃ、一所に歌舞伎座へ行って
代助は嫂のこの言葉を聞いて、頭の中に、
「ええ宜しい、行きましょう」と機嫌よく答えた。すると梅子は、
「だって、貴方は、
「一遍だろうが、二遍だろうが、
「貴方も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は
兄は用があると云って、すぐ出て行った。四時頃用が済んだら芝居の方へ回る約束なんだそうである。それまで自分と縫子だけで見ていたら好さそうなものだが、梅子はそれが厭だと云った。そんなら直木を連れて行けと兄から注意された時、直木は
梅子と縫子は長い時間を御化粧に費やした。代助は
父は今朝早くから出て、家にいなかった。何処へ行ったのだか、嫂は知らないと云った。代助は別に知りたい気もなかった。ただ父のいないのが
「ひどく、信用を落したもんだな」
代助はこう云って、嫂と縫子の
代助は風を恐れて鳥打帽を
芝居の中では、嫂も縫子も非常に熱心な
幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙な事を聞いた。何故あの人は
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であった。そうして舞台に
代助の右隣には自分と同年輩の男が
代助は苦しいので、何返も席を立って、後の廊下へ出て、狭い空を仰いだ。兄が来たら、嫂と縫子を引き渡して早く帰りたい位に思った。一遍は縫子を連れて、
兄は
すると幕の切れ目に、兄が入口まで帰って来て、代助一寸来いと云いながら、代助をその金縁の男の席へ連れて行って、愚弟だと紹介した。それから代助には、これが神戸の高木さんだと云って引合した。金縁の紳士は、若い女を顧みて、私の
五六分して、代助は兄と共に自分の席に返った。佐川の娘を紹介されるまでは、兄の見え次第逃げる気であったが、今ではそう
芝居の仕舞になったのは十一時近くであった。外へ出て見ると、風は全く
「御神さん、電車へ乗るなら、
車の中では、眠くて
彼はこの取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思い出さざるを得なかった。そうして其所にわが安住の地を
翌日代助は
この友人は国へ帰ってから、約一年ばかりして、京都在のある財産家から嫁を貰った。それは無論親の云い付であった。すると、
友人は時々
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を
彼は
彼は肉体と精神に於て美の類別を認める男であった。そうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考えた。あらゆる美の種類に接触して、そのたび
此所まで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮んだ。その時代助はこの論理中に、或
.
十二
代助は
代助は二三の
家の門を
「誠太郎、何だい、人のいない留守に来て、御馳走だね」と云うと、誠太郎は、笑いながら、
「其所にいるなら、いても構わないよ」と云っても、聞かなかった。
代助は誠太郎を
「叔父さんは
この日誠太郎は、父の使に来たのであった。その口上は、
「何だい、
「それじゃ、叔父さん、明日は来ないんですか」と聞いた。代助は已を得ず、
「うむ。どうだか分らない。叔父さんは旅行するかも知れないからって、帰ってそう云ってくれ」と云った。
「何時」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日明日のうちと答えた。誠太郎はそれで納得して、玄関まで出て行ったが、
「何処へいらっしゃるの」と代助を見上げた。代助は、
「何処って、まだ分るもんか。ぐるぐる回るんだ」と云ったので、誠太郎は又にやにやしながら、
代助はその夜すぐ立とうと思って、グラッドストーンの中を門野に掃除さして、携帯品を少し詰め込んだ。門野は少なからざる好奇心を
「少し手伝いましょうか」と突立ったまま聞いた。代助は、
「なに、訳はない」と断わりながら、一旦詰め込んだ香水の
「先生、車をそう云っときますかな」と注意した。代助はグラッドストーンを前へ置いて、顔を上げた。
「そう、少し待ってくれ
庭を見ると、生垣の
彼は又旅行案内を開いて、細かい数字を丹念に調べ出したが、少しも決定の
「又御出掛ですか。何か御買物じゃありませんか。
「今夜は
平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が
「そんなに
平岡は居なかった。三千代は今湯から帰った所だと云って、
平岡は三千代の云った通りには中々帰らなかった。何時でもこんなに遅いのかと尋ねたら、笑いながら、まあそんな所でしょうと答えた。代助はその笑の中に一種の
代助は平岡の経済の事が気に掛った。正面から、この頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねてみた。三千代はそうですねと云って、又前の様な笑い方をした。代助がすぐ返事をしなかったものだから、
「
「仕方がないんだから、
代助はその夜九時頃平岡の家を辞した。辞する前、自分の紙入の中に有るものを出して、三千代に渡した。その時は、腹の中で多少の工夫を費やした。彼は先ず何気なく懐中物を胸の所で開けて、中にある紙幣を、勘定もせずに
「そんな事を」と、
「指環を受取るなら、これを受取っても、同じ事でしょう。紙の指環だと思って御貰いなさい」
代助は笑いながら、こう云った。三千代はでも、
「大丈夫だから、御取んなさい」と
「又来る。平岡君によろしく」と云って、代助は表へ出た。町を横断して
「大変遅うがしたな。
「明日も
眼が覚めた時は、高い日が縁に黄金色の震動を射込んでいた。枕元には新聞が二枚
「青山から
「やあ兄さん」と
「この室は大変好い
「僕の頭の見える前からでしょう」と答えて、昨夜の香水の事を話した。兄は、落ち付いて、
「ははあ、大分
兄は滅多に代助の所へ来た事のない男であった。たまに来れば必ず来なくってならない用事を持っていた。そうして、用を済ますとさっさと帰って行った。今日も何事か起ったに違ないと代助は考えた。そうして、それは昨日誠太郎を好加減に
「
「ええ、実は今朝六時頃から出ようと思ってね」と代助は
「六時に立てる位な早起の男なら、今時分わざわざ青山から遣って来やしない」と云った。改めて用事を聞いてみると、やはり予想の通り肉薄の遂行に過ぎなかった。
「なに
「じゃ、放って置いて御覧なされば好いのに」と云った。
「ところが女と云うものは、気の短かいもので、御父さんに悪いからって、今朝起きるや否や、己をせびるんだからね」と誠吾は
「私はそう考えた」と代助が云った。兄はなるほどと答えたが別段感心した様子もなかった。葉巻の短かくなって、口髭に火が付きそうなのを無暗に
「それで、必ずしも今日旅行する必要もないんだろう」と聞いた。
代助はないと答えざるを得なかった。
「じゃ、今日
代助は又好いと答えない訳に行かなかった。
「じゃ、己はこれから、一寸
「一体どうなんだ。あの女を
代助は座敷へ戻って、しばらく、兄の警句を
兄の云う所によると、佐川の娘は、今度久し振に叔父に連れられて、見物
代助は
代助が青山に着いた時は、十一時五分前であったが、御客はまだ来ていなかった。兄もまだ帰らなかった。嫂だけがちゃんと支度をして、座敷に坐っていた。代助の顔を見て、
「あなたも、随分乱暴ね。人を出し抜いて旅行するなんて」と、いきなり遣り込めた。梅子は場合によると、
「今に御客さんが来たら、僕が奥へ知らせに
そのうち待ち設けた御客が来たので、代助は約束通りすぐ父の所へ知らせに行った。父は、案のじょう、
「そうか」とすぐ立ち上がっただけであった。代助に小言を云う暇も何も無かった。代助は座敷へ引き返して来て、袴を穿いて、それから応接間へ出た。客と主人とはそこで
「いや、どうも遅くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り返って、
「大分早かったね」と小さな声を掛けた。
食堂には応接室の次の間を使った。代助は戸の開いた間から、白い卓布の角の
「ではどうぞ」と父は立ち上がった。高木も
食卓は、
卓上の談話は重に平凡な世間話であった。始のうちは、それさえ余り興味が乗らない様に見えた。父はこう云う場合には、よく自分の好きな書画
父は乾いた会話に色彩を添えるため、やがて好きな方面の問題に触れてみた。ところが
梅子は
令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、始めは琴を習ったが、後にはピヤノに
「先達ての歌舞伎座は
「芝居は御嫌いでも、小説は御読みになるでしょう」と聞いて芝居の話を
「いえ小説も」
令嬢の答を待ち受けていた、主客はみんな声を出して笑った。高木は令嬢の為に説明の労を取った。その云う所によると、令嬢の教育を受けたミス何とか云う婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど
「それは結構だ」と賞めた。梅子は、そう云う教育の価値を全く解する事が出来なかった。にも
「本当にね」と趣味に
「じゃ英語は御上手でしょう」
令嬢はいいえと云って、心持顔を赤くした。
食事が済んでから、主客は又応接間に戻って、話を始めたが、
「何か一つ如何ですか」と云いながら令嬢を顧みた。令嬢は固より席を動かなかった。
「じゃ、代さん、
「まあ、蓋を開けて御置なさい。今に遣るから」と答えたなり、何かなしに、無関係の事を話しつづけていた。
一時間程して客は帰った。
「代助はまだ帰るんじゃなかろうな」と父が云った。代助はみんなから一足後れて、
「おい、すぐ帰っちゃ
代助は一人で父の
「あの、若旦那様に
「うん、今行く」と返事をして、それから、兄夫婦にこういう理窟を述べた。――自分一人で父に逢うと、父がああ云う気象の所へ持って来て、自分がこんな
兄は議論が
「じゃ、さあ行こう」と立ち上がった。梅子も笑いながらすぐに立った。三人して廊下を渡って父の室に行って、何事も起らなかったかの如く着坐した。
そこでは、梅子が如才なく、代助の過去に父の小言が飛ばない様な手加減をした。そうして談話の潮流を、なるべく今帰った来客の品評の方へ持って行った。梅子は佐川の令嬢を大変大人しそうな
令嬢の資格が
「大した異存もないだろう」と尋ねた。その語調と云い、意味と云い、どうするかね位の程度ではなかった。代助は、
「そうですな」とやっぱり
「まあ、もう少し善く考えてみるが
.
十三
四日程してから、代助は又父の命令で、高木の
プラットフォームで高木は突然代助に向って、
「どうですこの汽車で、神戸まで遊びに行きませんか」と勧めた。代助はただ
「近い内に又是非いらっしゃい」と云った。令嬢は窓のなかで、
車に乗ってすぐ牛込へ帰って、それなり書斎へ這入って、仰向に倒れた。門野は一寸その様子を
代助は寐ながら、自分の近き未来をどうなるものだろうと考えた。こうして
彼は父と違って、当初からある計画を
彼は父と兄と
彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像してみた。そうして
もし
彼は寐ながら、
その時代助の脳の活動は、夕闇を驚ろかす
すると突然誰か耳の
代助はこの時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り尽してしまうまで横になって待っていた。それから起きた。茶の間へ来て見ると、自分の膳の上に
代助は風呂場へ行って、頭を濡らしたあと、独り茶の間の膳に就いた。そこで、
かねて読み掛けてある洋書を、
代助は今
彼は書物を伏せた。そうして、こんな時に書物を読むのは無理だと考えた。同時にもう安息する事も出来なくなったと考えた。彼の苦痛は何時ものアンニュイではなかった。何も
彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を
彼はその晩を赤坂のある待合で暮らした。其所で面白い話を聞いた。ある若くて美くしい女が、さる男と関係して、その種を宿した所が、
翌日になって、代助はとうとう又三千代に逢いに行った。その時彼は腹の中で、
代助は家を出る前に、
平岡の家の前へ来た時は、曇った頭を厚く
「又来ました」と云った時、三千代は濡れた手を振って、馳け込む様に勝手から上がった。同時に表へ回れと眼で合図をした。三千代は自分で
「無用心だから」と云った。今まで日の
「御待遠さま」と云って、代助を
代助は又忙がしい所を、邪魔に来て済まないという様な尋常な云訳を述べながら、この無趣味な庭を眺めた。その時三千代をこんな家へ入れて置くのは実際気の毒だという気が起った。三千代は水いじりで
「結構な身分ですね」と冷かした。三千代は自分の荒涼な胸の
「
「そんなに
「この間の事を平岡君に話したんですか」
三千代は低い声で、
「いいえ」と答えた。
「じゃ、
その時三千代の説明には、話そうと思ったけれども、この頃平岡はついぞ落ち付いて
代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねてみた。三千代は例によって多くを語る事を好まなかった。
同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつつある事もまた一方では
三千代の
「一つ私が平岡君に
手紙には向うの思わしくない事や、物価の高くて
三千代の父はかつて多少の財産と
「
「何だって、まだ奥さんを御貰いなさらないの」と聞いた。代助はこの問にも答える事が出来なかった。
しばらく
「
表へ出た代助は、ふらふらと一丁程歩いた。
「大変顔の色が悪い様ですね、どうかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行って、蒼い額から奇麗に汗を
それから二日程代助は全く外出しなかった。三日目の午後、電車に乗って、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢って、三千代の
「やあ、
「失敬だが、もう一時間程して来てくれないか」と云った。代助は帽子を取って、又暗い埃だらけの階段を下りた。表へ出ると、それでも涼しい風が吹いた。
代助はあてもなく、其所いらを
裏通りを三四丁来た所で、平岡が先へ立って或家に這入った。座敷の軒に
会話は新聞社内の有様から始まった。平岡は忙しい様で却って楽な商売で好いと云った。その語気には別に負惜みの様子も見えなかった。代助は、それは無責任だからだろうと
「なるほどただ筆が達者なだけじゃ仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかった。すると、平岡はこう云った。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれだけでも中々面白い事実が挙がっている。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れようか」
代助は自分の平生の観察から、こんな事を云われて、驚ろく程ぼんやりしてはいなかった。
「書くのも面白いだろう。その代り公平に願いたいな」と云った。
「無論嘘は書かない積りだ」
「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に
平岡はこの時邪気のある笑い方をした。そうして、
「日糖事件だけじゃ物足りないからね」と奥歯に物の挟まった様に云った。代助は黙って酒を飲んだ。話はこの調子で段々はずみを失う様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に
代助はこの話を聞いた時、その実社会に触れている点に
これも代助の耳には、真面目な響を与えなかった。
「やっぱり現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は
「実は君に話したい事があるんだが」と代助は
「そりゃ、僕も
「君も大分変ったね」と
「君の変った
代助は平岡の言語の
「君は近来こう云う所へ大分頻繁に出はいりをすると見えて、家のものとは、みんな御馴染だね」
「君の様に金回りが好くないから、そう豪遊も出来ないが、
「余計な事だが、それで家の方の経済は、収支償なうのかい」と代助は思い切って猛進した。
「うん。まあ、
こう云った平岡は、急に調子を落して、極めて気のない返事をした。代助はそれぎり食い込めなくなった。
「不断は今頃もう家へ帰っているんだろう。この間僕が訪ねた時は大分遅かった様だが」と聞いた。すると、平岡はやはり問題を回避する様な語気で、
「まあ帰ったり、帰らなかったりだ。職業がこういう不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、
「三千代さんは
「なに大丈夫だ。
「そんな事が、あろう筈がない。いくら、変ったって、そりゃ
「君はそう思うか」と云いさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、ただ、
「思うかって、誰だってそう思わざるを得んじゃないか」と半ば口から出任せに答えた。
「君は三千代を三年前の三千代と思ってるか。大分変ったよ。ああ、大分変ったよ」と平岡は又ぐいと飲んだ。代助は覚えず胸の
「
「だって、僕は家へ帰っても面白くないから仕方がないじゃないか」
「そんな筈はない」
平岡は眼を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が
「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金も要る。従って家の経済も
平岡は、白
「家庭か。家庭もあまり
この言葉を聞いたとき、代助は平岡が
「君が東京へ来たてに、僕は君から説法されたね。何か遣れって」
「うん。そうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」
代助は実際平岡が驚ろいたろうと思った。その時の平岡は、熱病に
「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、ああ云う消極な意見も出すが。――元来意見があって、人がそれに
「無論大いに遣る積りだ」
平岡の答はただこの一句ぎりであった。代助は腹の中で首を傾けた。
「新聞で遣る積りかね」
平岡は
「新聞にいるうちは、新聞で遣る積りだ」
「大いに要領を得ている。僕だって君の一生涯の事を聞いているんじゃないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」
「出来る積りだ」と平岡は簡明な
話は此所まで来ても、ただ抽象的に進んだだけであった。代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は
代助は
「いや
代助は少々平岡を低く見過ぎたのに
その夜代助は平岡と遂に愚図々々で分れた。会見の結果から云うと、何の為に平岡を新聞社に訪ねたのだか、自分にも分らなかった。平岡の方から見れば、
代助は翌日になって独り書斎で、
もし思い切って、三千代を引合に出して、自分の考え通りを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと強い事が云えた。もっと平岡を
代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を取って、平岡に接していた事を
代助は昔の人が、頭脳の
此所で彼は
彼は三千代と自分の関係を、天意によって、――彼はそれを天意としか考え得られなかった。――
彼は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従う代りに、自己の意志に殉ずる人にならなければ済まなかった。彼はその手段として、父や
.
十四
自然の
彼は結婚問題に就て、まあ
もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前まで押し詰められた様な気持がなかったなら、代助は父に対して無論そう云う所置を取ったろう。けれども、代助は今相手の顔色
彼はただ彼の運命に対してのみ
門野は時々書斎へ来た。来る度に代助は
「
飯は依然として、普通の
代助は最後の不決断の自己
縁談を断る方は単独にも何遍となく決定が出来た。ただ断った後、その反動として、自分をまともに三千代の上に浴せかけねば
代助は父からの催促を心待に待っていた。しかし父からは何の
一番仕舞に、結婚は道徳の形式に
こう決心した翌日、代助は久し振りに髪を刈って髯を
青山へ来て見ると、玄関に車が二台程あった。
「御父さんは居ますか」
「代さん、少し
「そんな事も無いだろう」と打ち消した。
「だって、
「庭の
「
「道理でぽかんとしていると思った。どうかしたんですか。風邪ですか」
「何だか知らないけれど
梅子はこう答えて、すぐ新聞を膝から卸すと、手を鳴らして、小間使を呼んだ。代助は再び父の在、不在を確めた。梅子はその問をもう忘れていた。聞いてみると、玄関にあった車は、父の客の乗って来たものであった。代助は長く懸からなければ、客の帰るまで待とうと思った。嫂は
梅子が涼しい眼付になって風呂場から帰った時、代助は粽の一つを振子の様に振りながら、今度は、
「兄さんはどうしました」と聞いた。梅子はすぐこの陳腐な質問に答える義務がないかの如く、しばらく
「
「兄さんがどうしましたって」と聞き直した。代助が先の質問を繰り返した時、嫂は
「どうしましたって、例の如くですわ」と答えた。
「相変らず、留守勝ですか」
「ええ、ええ、朝も晩も滅多に
「姉さんはそれで
「今更改まって、そんな事を聞いたって仕方がないじゃありませんか」と梅子は笑い出した。
「世間の夫婦はそれで済んで行くものかな」と
「何ですって」と切り込む様に云った。代助の眼が、その調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、
けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、その謝絶に次いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注がれていた。従って、いくら平生の自分に帰って、梅子の相手になる積りでも、梅子の予期していない、変った音色が、時々会話の中に、思わず知らず出て来た。
「代さん、貴方今日はどうかしているのね」と仕舞に梅子が云った。代助は
「だって、兄さんが留守勝で、さぞ
「いや、僕の知った女に、そう云うのが一人あって、実は甚だ気の毒だから、つい
「本当に? そりゃ
「名前は云い
「じゃ、貴方がその旦那に忠告をして、奥さんをもっと可愛がるようにして御上になれば
代助は微笑した。
「姉さんも、そう思いますか」
「当り前ですわ」
「もしその夫が僕の忠告を聞かなかったら、どうします」
「そりゃ、どうも仕様がないわ」
「放って置くんですか」
「放って置かなけりゃ、どうなさるの」
「じゃ、その細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでしょうか」
「大変理責めなのね。そりゃ旦那の不親切の度合にも
「もし、その細君に好きな人があったらどうです」
「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人がある位なら、始めっから
代助は黙って考えた。しばらくしてから、
「僕は今度の縁談を断ろうと思う」
代助の
「僕は今まで結婚問題に就いて、貴方に何返となく迷惑を掛けた上に、今度もまた心配して貰っている。僕ももう三十だから、貴方の云う通り、大抵な所で、御勧め次第になって好いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ已めにしたい希望です。御父さんにも、兄さんにも済まないが、仕方がない。何も当人が気に入らないと云う訳ではないが、断るんです。この間御父さんによく考えてみろと云われて、大分考えてみたが、やっぱり断る方が好い様だから断ります。実は今日はその用で御父さんに逢いに来たんですが、今御客の様だから、
梅子は代助の様子が真面目なので、
「でも、御父さんはきっと御困りですよ」
「御父さんには僕が
「でも、話がもう
「話が
「けれども
「それを今云いに来た所です」
代助と梅子は向い合ったなり、しばらく黙った。
代助の方では、もう云う
「貴方の知らない
「
「何故ですって聞いたって、
「理窟でなくっても構わないから話して下さい」
「貴方の様にそう何遍断ったって、つまり同じ事じゃありませんか」と梅子は説明した。けれども、その意味がすぐ代助の頭には響かなかった。不可解の眼を挙げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を
「つまり、貴方だって、何時か一度は、
代助は落ち付いて
「貴方の仰しゃる所も、一理あるが、私にも私の考があるから、また
「そりゃ代さんだって、小供じゃないから、一人前の考の御有な事は勿論ですわ。私なんぞの要らない差出口は御迷惑でしょうから、もう何にも申しますまい。
梅子は少し激したと見えて猶も云い募ろうとしたのを、代助が
「だって、女房を持てばこの上猶御父さんの厄介に
「
「じゃ、御父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非持たせる決心なんですね」
「だって、貴方に好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中探して歩いたって無いんじゃありませんか」
「どうして、それが分ります」
梅子は張の強い眼を据えて、代助を見た。そうして、
「貴方はまるで代言人の様な事を仰しゃるのね」と云った。代助は
「姉さん、私は好いた女があるんです」と低い声で云い切った。
代助は今まで冗談にこんな事を梅子に向って云った事が能くあった。梅子も始めはそれを本気に受けた。そっと手を廻して真相を探ってみたなどという
代助は帯の間から時計を出して見た。父の所へ来ている客は中々帰りそうにもなかった。空は又曇って来た。代助は一旦引き上げて又改ためて、父と話を付けに出直す方が便宜だと考えた。
「僕は又来ます。出直して来て御父さんに御目に掛る方が好いでしょう」と立ちにかかった。梅子はその間に回復した。梅子は飽くまで人の世話を焼く実意のあるだけに、物を中途で投げる事の出来ない女であった。抑える様に代助を引き留めて、女の名を聞いた。代助は固より答えなかった。梅子は是非にと逼った。代助はそれでも応じなかった。すると梅子は何故その女を貰わないのかと聞き出した。代助は単純に貰えないから、貰わないのだと答えた。梅子は仕舞に涙を流した。
「じゃ、貴方から
「そうですね」と
「じゃ、若し話す方が都合が好さそうだったら話しましょう。もし又悪るい様だったら、何にも云わずに置くから、貴方が始から御話なさい。それが
「何分
歩きながら、自分は今日、自ら進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちに
彼はこの次父に
約二十分の後、彼は安藤坂を上って、
しばらくは、
家へ帰ると、門野が例の如く慢然たる顔をして、
「大分遅うがしたな。御飯はもう御済みになりましたか」と聞いた。
代助は飯が欲しくなかったので、要らない
「
「いいえ」
代助は、
「じゃ、宜しい」と云ったぎりであった。門野は物足りなそうに入口に立っていたが、
「先生は、何ですか、御宅へ
「何故」と代助はむずかしい顔をした。
「だって、御出掛になるとき、そんな御話でしたから」
代助は門野を相手にするのが面倒になった。
「宅へは行ったさ。――宅から使が来なければそれで、好いじゃないか」
門野は不得要領に、
「はあそうですか」と云い放して出て行った。代助は、父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるという事を知っているので、ことによると、帰った後から
その夜代助は
夜半から強く雨が降り出した。釣ってある
雨は翌日まで晴れなかった。代助は湿っぽい縁側に立って、暗い空模様を眺めて、
代助は手を打って、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現れた。手紙を受取りながら、
「大変好い
「車を持って行って、乗せて来るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乗りつけの帳場まで出て行った。
代助は、百合の花を眺めながら、部屋を
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。
やがて、夢から覚めた。この一刻の
そのうちに時は段々移った。代助は断えず置時計の針を見た。又
三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝いに這入って来た。銘仙の
代助は椅子の一つを指さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助はその向うに席を占めた。二人は始めて相対した。然し
「何か御用なの」と三千代は
「ええ」と云った。二人はそれぎりで、又しばらく雨の音を聴いた。
「何か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、
「ええ」と云った。双方共
「まあ、
雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。二人は雨の為に、雨の持ち
「
「兄さんと
「
「あの時分の事を考えると」と半分云って
「覚えていますか」
「覚えていますわ」
「貴方は派手な半襟を掛けて、
「だって、東京へ
「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ」
「あの時はあんな
「ええ、
「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」
「そう」と三千代は
三千代が清水町にいた頃、代助と心安く口を聞く様になってからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から
三千代の兄と云うのは
三千代が来てから後、兄と代助とは
代助はその頃から趣味の人として、三千代の兄に臨んでいた。三千代の兄はその方面に
兄は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した
代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。語るに従って、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返って来た。二人の距離は又元の様に近くなった。
「あの時兄さんが
「兄さんが達者でいたら、別の人になっている訳ですか」
「別な人にはなりませんわ。貴方は?」
「僕も同じ事です」
三千代はその時、少し
「あら
「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」と答えたまま、猶しばらくは眼を相手から離さなかった。三千代は
「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」と云った。
三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過ぎた。代助は消えて行く影を踏まえる如くに、すぐその尾を
「違やしません。貴方にはただそう見えるだけです。そう見えたって仕方がないが、それは
代助の方は通例よりも熱心に
「僻目でも何でも
代助は黙って三千代の様子を
「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い
「僕はそれを貴方に承知して
三千代は猶泣いた。代助に返事をするどころではなかった。
「承知して下さるでしょう」と耳の
「
「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」と云って、
「打ち明けて下さらなくっても
「僕が悪い。
代助は三千代の
「残酷だわ」と云った。小さい口元の肉が顫う様に動いた。
「残酷と云われても仕方がありません。その代り僕はそれだけの罰を受けています」
三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、
「どうして」と聞いた。
「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」
「だって、それは貴方の御勝手じゃありませんか」
「勝手じゃありません。貰おうと思っても、貰えないのです。それから以後、
「復讎」と三千代は云った。この二字を恐るるものの如くに眼を働かした。「
「いや僕は貴方に
三千代は涙の中で始て笑った。けれども一言も口へは出さなかった。代助は
「僕は今更こんな事を貴方に云うのは、残酷だと承知しています。それが貴方に残酷に聞こえれば聞こえる程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。その上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きている事が出来なくなった。つまり
「残酷では御座いません。だから詫まるのはもう
三千代の調子は、この時急に
「ただ、もう少し早く云って下さると」と云い掛けて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。――
「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」
「そうじゃないのよ」と三千代は力を
今度は代助の方が微笑した。
「それじゃ構わないでしょう」
「構わないより
「ただ平岡に済まないと云うんでしょう」
三千代は不安らしく
「三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか」
三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が
「では、平岡は貴方を愛しているんですか」
三千代はやはり
「仕様がない。覚悟を極めましょう」
代助は背中から水を
しばらくすると、三千代は急に物に襲われた様に、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く
二人はこう凝としている
しばらくして、三千代は
「私もう帰ってよ」と云った。代助は、
「御帰りなさい」と答えた。
雨は小降になったが、代助は固より三千代を独り返す気はなかった。わざと車を雇わずに、自分で送って出た。平岡の家まで附いて
「万事終る」と宣告した。
雨は夕方
.
十五
三千代に
会見の翌日彼は永らく手に持っていた
彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日まで、熱烈を
彼は通俗なある外国雑誌の購読者であった。その中のある号で、
代助は今道徳界に於て、これ等の
彼は
奥から梅子が出て来るまでには、大分
「
帰る途中も不愉快で堪らなかった。この間三千代に逢って以後、味わう事を知った心の平和を、父や嫂の態度で幾分か破壊されたと云う心持が
代助は
彼は家に帰った。父に対しては只薄暗い不愉快の影が頭に残っていた。けれどもこの影は近き未来に
最後に彼の周囲を人間のあらん限り包む社会に対しては、彼は何の考も
代助は彼の小さな世界の中心に立って、彼の世界を
「善かろう」と云って、又家を出た。そうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場まで来て、奇麗で早そうな奴を
翌日も書斎の中で前日同様、自分の世界の中心に立って、左右前後を一応
「
三日目にも同じ事を繰り返した。が、今度は表へ出るや否や、すぐ江戸川を渡って、三千代の所へ来た。三千代は二人の間に何事も起らなかったかの様に、
「
「何でそんなに、そわそわしていらっしゃるの」と無理にその上に
一時間ばかり話しているうちに、代助の頭は次第に穏やかになった。車へ乗って、当もなく乗り回すより、三十分でも好いから、早く
「又来ます。大丈夫だから安心していらっしゃい」と三千代を慰める様に云った。三千代はただ微笑しただけであった。
その夕方始めて父からの
「御役所風だね」と云いながら、わざと端書を門野に見せた。門野は、
「青山の御宅からですか」と
「どうも何ですな。昔の人はやっぱり
食事を終るや否や、本郷から寺尾が来た。代助は門野の顔を見て
「断りますか」と聞いた。代助はこの間から珍らしくある会を一二回欠席した。来客も逢わないで済むと思う分は両度程謝絶した。
代助は思い切って寺尾に逢った。寺尾は何時もの様に、
寺尾は、この間の翻訳を
代助は気の毒になって、当座の経済に幾分の補助を与えた。寺尾は感謝の意を表して帰った。帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それは
代助はその晩自分の前途をひどく気に掛けた。もし父から物質的に供給の道を
彼は眼を開けて時々
定刻になって、代助は出掛けた。
弁慶橋で乗り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになった。頭も楽に
玄関を上って、奥へ通る前に、例の如く一応
「
「御父さんが待って御出でしょうから、一寸行って話をして来ましょう」と立ち掛けた。嫂は不安らしい顔をして、
「代さん、成ろう事なら、年寄に心配を掛けない様になさいよ。御父さんだって、もう長い事はありませんから」と云った。代助は梅子の口から、こんな陰気な言葉を聞くのは始めてであった。不意に穴倉へ落ちた様な心持がした。
父は烟草盆を前に控えて、
「降るのに御苦労だった」と
その時始めて気が付いて見ると、父の頬が何時の間にかぐっと
「どうか
父は親らしい色を一寸顔に動かしただけで、別に代助の心配を物にする様子もなかったが、
「
父は年の
父は普通の実業なるものの困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主の、一見地味であって、その実自分等よりはずっと
「そう云う親類が一軒位あるのは、大変な便利で、かつこの際甚だ必要じゃないか」と云った。代助は、父としては
その上父に対して何時にない同情があった。その顔、その声、その代助を動かそうとする努力、
けれども三千代と最後の会見を遂げた今更、父の意に
彼は三千代の前に告白した己れを、父の前で白紙にしようとは
彼は平生の代助の如く、なるべく口数を利かずに控えていた。父から見れば何時もの代助と異なる所はなかった。代助の方では却って父の変っているのに驚ろいた。実はこの間から幾度も会見を謝絶されたのも、自分が父の意志に
「貴方の
「勇気が要るのかい」と手に持っていた
「当人が気に入らないのかい」と父が又聞いた。代助は
「じゃ何でも御前の勝手にするさ」と云って苦い顔をした。
代助も不愉快であった。然し仕方がないから、礼をして父の前を
「己の方でも、もう御前の世話はせんから」と云った。座敷へ帰った時、梅子は待ち構えた様に、
「どうなすって」と聞いた。代助は答え様もなかった。
.
十六
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体を
凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う
この落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかった。三千代は精神的に云って、既に平岡の所有ではなかった。代助は死に至るまで
彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く静に落ち着いていた。
「又都合して
代助はこの間から三千代を訪問する
平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかった。たまに一言二言それとなく問を掛けてみても、三千代は寧ろ応じなかった。ただ代助の顔を見れば、見ているその間だけの
「すこし又話したい事があるから来て下さい」と前よりは
中二日置いて三千代が来るまで、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかった。彼の頭の中には職業の二字が大きな
青山の宅からは何の消息もなかった。代助は
「先生、将棋はどうです」などと持ち掛けた。夕方には庭に水を打った。二人共
代助は夜に
「どうも非常な暑さですな」と云って、這入って来た。代助はこう云う
三千代はこの
「
「でも買物をした
代助は幾度か己れを語る事を
代助は漸くにして思い切った。
「その後
三千代はこの問を受けた時でも、依然として幸福であった。
「あったって、構わないわ」
「貴方はそれ程僕を信用しているんですか」
「信用していなくっちゃ、こうしていられないじゃありませんか」
代助は
「僕にはそれ程信用される資格がなさそうだ」と苦笑しながら答えたが、頭の中は
「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は真面目になった。
「僕は白状するが、実を云うと、平岡君より
「僕の身分はこれから先どうなるか分らない。少なくとも当分は一人前じゃない。半人前にもなれない。だから」と云い
「だから、どうなさるんです」
「だから、僕の思う通り、貴方に対して責任が尽せないだろうと心配しているんです」
「責任って、どんな責任なの。もっと
代助は
「徳義上の責任じゃない、物質上の責任です」
「そんなものは欲しくないわ」
「欲しくないと云ったって、是非必要になるんです。これから先僕が貴方とどんな新らしい関係に移って
「解決者でも何でも、今更そんな事を気にしたって仕方がないわ」
「口ではそうも云えるが、いざと云う場合になると困るのは眼に見えています」
三千代は少し色を変えた。
「今貴方の御父様の御話を伺ってみると、こうなるのは始めから解ってるじゃありませんか。貴方だって、その位な事は
代助は返事が出来なかった。頭を抑えて、
「少し脳がどうかしているんだ」と独り言の様に云った。三千代は少し涙ぐんだ。
「もし、それが気になるなら、
代助は急に三千代の
「そんな事を
「詫まるなんて」と三千代は声を
三千代は声を立てて泣いた。代助は
「じゃ我慢しますか」と聞いた。
「我慢はしません。当り前ですもの」
「これから先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」
代助は
「貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」
「漂泊――」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」
代助は又ぞっとした。
「このままでは」
「このままでも構わないわ」
「平岡君は全く気が付いていない様ですか」
「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だって
「そう死ぬの殺されるのと安っぽく云うものじゃない」
「だって、放って置いたって、永く生きられる
代助は硬くなって、
一仕切
「僕が自分で平岡君に逢って解決を付けても宜う御座んすか」と聞いた。
「そんな事が出来て」と三千代は驚ろいた様であった。代助は、
「出来る積りです」と
「じゃ、どうでも」と三千代が云った。
「そうしましょう。二人が平岡君を
「能く解りましたわ。どうせ間違えば死ぬ積りなんですから」
「死ぬなんて。――よし死ぬにしたって、これから先どの位間があるか――又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
三千代は又泣き出した。
「じゃ能く詫ります」
代助は日の傾くのを待って三千代を帰した。然しこの前の時の様に送っては行かなかった。一時間程書斎の中で蝉の声を聞いて暮した。三千代に逢って自分の未来を打ち明けてから、気分がさっぱりした。平岡へ手紙を書いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持ってみたが、急に責任の重いのが苦になって、拝啓以後を書き続ける勇気が出なかった。卒然、
「まだ早いじゃありませんか。日が当っていますぜ」と云いながら、坊主頭を両手で抑えて
狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足を
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から
晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。
代助はその晩わざと雨戸を引かずに
翌日の朝彼は思い切って平岡に手紙を出した。ただ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて
翌日は平岡の返事を心待に待ち暮らした。その明る日も当にして終日
五日目に
その晩は水を打つ勇気も
「先生今日は御疲ですか」と門野がバケツを鳴らしながら云った。代助の胸は不安に
「君、平岡の所へ行ってね、先達ての手紙は御覧になりましたか。御覧になったら、御返事を願いますって、返事を聞いて来てくれたまえ」と頼んだ。猶要領を得ぬ恐がありそうなので、先達てこれこれの手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云う事まで説明して聞かした。
門野を出した後で、代助は縁側に出て、
「行って参りました」と
「そうかい、御苦労さま」と代助は答えた。
「実はもっと早く出るんだったが、うちに病人が出来たんで遅くなったから、
「病人?」と代助は思わず問い返した。門野は暗い中で、
「ええ、何でも奥さんが御悪い様です」と答えた。門野の着ている白地の
「余程悪いのか」と強く聞いた。
「どうですか、能く分りませんが。何でもそう軽そうでもない様でした。
代助は少し安心した。
「何だい。病気は」
「つい聞き落しましたがな」
二人の問答はそれで絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ
代助は夜の中に
「まだ暗闇ですな。
寐る前に門野が
「御宅からの様です、
代助は始めて洋燈を書斎に入れさして、その下で、状袋の封を切った。手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであった。――
「この間から奥さんの事で貴方もさぞ御迷惑なすったろう。
まだ後が大分あったが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかった。代助は中に這入っていた小切手を引き抜いて、手紙だけをもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて
代助は
その晩も
家の事はさのみ気に掛からなかった。職業もなるがままになれと度胸を据えた。ただ三千代の病気と、その源因とその結果が、ひどく代助の頭を悩ました。それから平岡との会見の様子も、様々に想像してみた。それも
門野が
「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云った。代助はすぐ風呂場へ行って水を浴びた。朝飯は食わずに
仕舞に何か用事を考え出そうとした。不図机の上に乗せてあった梅子の封筒が眼に付いた。代助はこれだと思って、強いて机の前に坐って、嫂へ謝状を書いた。なるべく
「平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余り
家の前には車が一台下りていた。玄関には靴が
「いや、御使で」と平岡が云った。やはり洋服を着て、蒸される様に扇を使った。
「どうも暑い所を」と代助も
二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いてみたかった。然しそれがどう云うものか聞き
「三千代さんは病気だってね」
「うん。それで社の方も二三日休ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れてしまった」
「そりゃどうでも構わないが、三千代さんはそれ程悪いのかい」
平岡は断然たる答を一言葉でなし得なかった。そう急にどうのこうのという心配もない様だが、決して軽い方ではないという意味を手短かに述べた。
この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出た
「君の用事と三千代の云う事と何か関係があるのかい」と平岡は不思議そうに代助を見た。
平岡の話は
「三千代さんの君に詫まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだろう。或は
「何だい。改たまって」と平岡は始めて眉を正した。
「いや前置をすると言訳らしくなって
「まあ何だい。その話と云うのは」
好奇心と共に平岡の顔が
「その代り、みんな話した後で、僕はどんな事を君から云われても、やはり大人しく仕舞まで聞く積りだ」
平岡は何にも云わなかった。ただ眼鏡の奥から大きな眼を代助の上に据えた。外はぎらぎらする日が照り付けて、縁側まで射返したが、二人は
代助は一段声を潜めた。そうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係がどんな変化を受けて、今日に至ったかを、詳しく語り出した。平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代助は
「ざっとこう云う経過だ」と説明の結末を付けた時、平岡はただ
「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。
「すると君は自分のした事を悪いと思ってるんだね」
「無論」
「悪いと思いながら今日まで歩を進めて来たんだね」と平岡は重ねて聞いた。語気は前よりも
「そうだ。だから、この事に対して、君の僕等に与えようとする制裁は
平岡は答えなかった。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云った。
「僕の
今度は代助の方が答えなかった。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云った。
「すると君は当時者だけのうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「そうさ」
「三千代さんの心機を一転して、君を元よりも倍以上に愛させる様にして、その上僕を
「それが君の
「出来ない」と代助は云い切った。
「すると君は悪いと思ってる事を今日まで発展さして置いて、
「矛盾かも知れない。
「じゃ」と平岡は稍声を高めた。「じゃ、僕等二人は世間の掟に
代助は同情のある気の毒そうな眼をして平岡を見た。平岡の険しい眉が少し解けた。
「平岡君。世間から云えば、これは男子の面目に
平岡は何とも云わなかった。代助も
「君は三千代さんを愛していなかった」と静かに云った。
「そりゃ」
「そりゃ余計な事だけれども、僕は云わなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだろうと思う」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛している」
「
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛していなかった事が事実だとしても」と平岡は強いて己を抑える様に云った。
「君は三年
「三年
「そうだ。その時の記憶が君の頭の中に残っているか」
代助の頭は急に三年前に飛び返った。当時の記憶が、闇を
「三千代を僕に周旋しようと云い出したものは君だ」
「貰いたいと云う意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だって忘れやしない。今に至るまで君の厚意を感謝している」
平岡はこう云って、しばらく
「二人で、夜上野を抜けて
代助は黙然としていた。
「僕はその時程
「僕もあの時は愉快だった」と代助が夢の様に云った。それを平岡は打ち切る勢で
「君は何だって、あの時僕の為に泣いてくれたのだ。なんだって、僕の為に三千代を周旋しようと
平岡は声を
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」
平岡は
「その時の僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを
代助は涙を
「どうも運命だから仕方がない」
平岡は
「善後策に就て君の考があるなら聞こう」
「僕は君の前に詫まっている人間だ。
「僕には何にもない」と平岡は頭を抑えていた。
「では云う。三千代さんをくれないか」と思い切った調子に出た。
平岡は頭から手を離して、
「うん遣ろう」と云った。そうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通りそれ程三千代を愛していなかったかも知れない。けれども
「僕は君に詫った。三千代さんも君に詫まっている。君から云えば二人とも、
「それは分っている。本人の病気に付け込んで僕が意趣晴らしに、
代助は平岡の言葉を信じた。そうして腹の中で平岡に感謝した。平岡は次にこう云った。
「僕は今日の事がある以上は、世間的の夫の立場からして、もう君と交際する訳には行かない。今日限り絶交するからそう思ってくれたまえ」
「仕方がない」と代助は首を垂れた。
「三千代の病気は今云う通り軽い方じゃない。この先どんな変化がないとも限らない。君も心配だろう。然し絶交した以上は
「承知した」と代助はよろめく様に云った。その頬は
「君、もう五分ばかり坐ってくれ」と代助が頼んだ。平岡は席に着いたまま無言でいた。
「三千代さんの病気は、急に危険な
「さあ」
「それだけ教えてくれないか」
「まあ、そう心配しないでも
平岡は暗い調子で、地に息を吐く様に答えた。代助は堪えられない思いがした。
「もしだね。もし万一の事がありそうだったら、その前にたった一遍だけで可いから、
平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかった。代助は苦痛の遣り所がなくて、両手の
「それはまあその時の場合にしよう」と平岡が重そうに答えた。
「じゃ、時々病人の様子を聞きに遣っても
「それは困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時だけだと思ってるんだから」
代助は電流に感じた如く
「あっ。
代助は
「苛い、苛い」と云った。
平岡は代助の眼のうちに狂える恐ろしい光を
「そんな事があるものか」と云って代助の手を抑えた。二人は魔に
「落ち付かなくっちゃ
「落ち付いている」と代助が答えた。けれどもその言葉は
.
十七
代助は夜の十時過になって、こっそり家を出た。
「今から
「何一寸」と
平岡の住んでいる町は、
代助は今朝も
代助は三千代の門前を二三度行ったり来たりした。軒燈の下へ来るたびに立ち留まって、耳を澄ました。五分
代助が軒燈の下へ来て立ち留まるたびに、守宮が軒燈の硝子にぴたりと
代助は守宮に気が付く
道端に石段があった。代助は半ば夢中で其所へ腰を掛けたなり、額を手で抑えて、固くなった。しばらくして、
彼は立ち上がった。
その晩は火の様に、熱くて赤い
所へ門野が来て、御客さまですと知らせたなり、入口に立って、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であった。客は誰だと聞き返しもせずに手で支えたままの顔を、半分ばかり門野の方へ向き
「やあ、
「暑いな」と云った。
「御宅でも別に御変りもありませんか」と代助は、さも疲れ果てた人の如くに尋ねた。
二人は
「今日は実は」と云いながら、
「実は御前に少し聞きたい事があって来たんだがね」と封筒の裏を代助の方へ向けて、
「この男を知ってるかい」と聞いた。
「知ってます」と代助は
「元、御前の同級生だって云うが、本当か」
「そうです」
「この男の細君も知ってるのかい」
「知っています」
兄は又扇を取り上げて、二三度ぱちぱちと鳴らした。それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段落した。
「この男の細君と、御前が何か関係があるのかい」
代助は始めから万事を隠す気はなかった。けれどもこう
「実は平岡と云う人が、こう云う手紙を御父さんの所へ
手紙は細かい字で書いてあった。一行二行と読むうちに、読み終った分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺
「
「本当です」と答えた。兄は
「まあ、どう云う了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と
「どんな女だって、
「御前だって満更道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今まで折角金を使った
代助は今更兄に向って、自分の立場を説明する勇気もなかった。彼はついこの間まで全く兄と同意見であったのである。
「姉さんは泣いているぜ」と兄が云った。
「そうですか」と代助は夢の様に答えた。
「御父さんは怒っている」
代助は答をしなかった。ただ遠い所を見る眼をして、兄を眺めていた。
「御前は平生から
兄の言葉は、代助の耳を
「代助」と兄が呼んだ。「今日はおれは御父さんの使に来たのだ。御前はこの間から家へ寄り付かない様になっている。
「よく分りました」と代助は簡明に答えた。
「貴様は馬鹿だ」と兄が大きな声を出した。代助は
「愚図だ」と兄が又云った。「不断は人並以上に減らず口を
兄は
「じゃ帰るよ」と今度は普通の調子で云った。代助は
「おれも、もう逢わんから」と云い捨てて玄関に出た。
兄の去った後、代助はしばらく元のままじっと動かずにいた。門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち上がって、
「門野さん。僕は
代助は暑い中を馳けないばかりに、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直に
「焦る焦る」と歩きながら口の内で云った。
飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「ああ動く。世の中が動く」と
底本:「それから」新潮文庫、新潮社
1948(昭和23)年11月30日発行
2010(平成22)年8月25日136刷改版
2013(平成25)年2月15日141刷
初出:「東京朝日新聞」、「大阪朝日新聞」
1909(明治42)年6月27日〜10月4日
入力:富田倫生
校正:松永佳代
2013年6月13日作成
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