坊っちゃん 夏目漱石(後編)

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坊っちゃん
夏目漱石
 
 

 
 
 
 
 
 
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 六
 
 野だは大嫌だいきらいだ。こんなやつ沢庵石たくあんいしをつけて海の底へしずめちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目だめだ。れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事をう。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐やまあらしがよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんなるい教師なら、早く免職めんしょくさしたらよかろう。教頭なんて文学士のくせ意気地いくじのないもんだ。蔭口かげぐちをきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫にまってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋がちがう。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢わるものだなんて、人を馬鹿ばかにしている。大方田舎いなかだから万事東京のさかに行くんだろう。物騒ぶっそうな所だ。今に火事が氷って、石が豆腐とうふになるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵たいていの事は出来るかも知れないが、――第一そんなまわりくどい事をしないでも、じかにおれをつらまえて喧嘩けんかを吹きけりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔じゃまになるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。むこうの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこのはてへ行ったって、のたれじにはしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
 ここへ来た時第一番に氷水をおごったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一ぱいしか飲まなかったから一銭五りんしかはらわしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師さぎしの恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれはきよから三円借りている。その三円は五年った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中かいちゅうをあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清をみつけるのじゃない、清をおれの片破かたわれと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶あまちゃだろうが、他人からめぐみを受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有ありがたいと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両よりたっといお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発ふんぱつさせて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有ありがたいと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣ひれつ振舞ふるまいをするとはしからん野郎やろうだ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
 おれはここまで考えたら、ねむくなったからぐうぐうてしまった。あくる日は思う仔細しさいがあるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨はくぼくが一本たてに寝ているだけで閑静かんせいなものだ。おれは、控所ひかえじょへはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校までにぎって来た。おれはあぶらっ手だから、開けてみると一銭五厘があせをかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑めいわくでしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へひじいて、あの盤台面ばんだいづらをおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだだれにも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来るなぞをかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめてしのぎけずってる真中まんなかへ出て堂々とおれのかたを持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
 おれは教頭にむかって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽ろうばいして、君そんな無法な事をしちゃ困る。ぼく堀田ほった君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動そうどうを起すつもりで来たんじゃなかろうとみょうに常識をはずれた質問をするから、あたまえです、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼いらいおよぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫だいじょうぶかいと赤シャツは念をした。どこまで女らしいんだか奥行おくゆきがわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄つじつまの合わない、論理に欠けた注文をして恬然てんぜんとしている。しかもこのおれを疑ぐってる。はばかりながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古ほごにするようなさもしい了見りょうけんはもってるもんか。
 ところへ両隣りょうどなりの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツはるき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないようにくつの底をそっとおとす。音を立てないであるくのが自慢じまんになるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒どろぼう稽古けいこじゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭らっぱがなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛でかけた。
 授業の都合つごうで一時間目は少しおくれて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻ちこくしたんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金ばっきんを出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達せんだっ通町とおりちょうで飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目まじめでいるので、つまらない冗談じょうだんをするなと銭をおれの机の上にき返した。おや山嵐のくせにどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁いんえんがないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣ひれつをあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤まっかになってるのにふんという理窟りくつがあるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主ていしゅが来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝けさあすこへ寄ってくわしい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持てまされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出してかせるなんて、威張いばり過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物かけものを一ぷく売りゃ、すぐいてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎やろうだ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云いがかりを云うような所へ周旋しゅうせんする君からしてが不埒ふらちだ」
「おれが不埒か、君が大人おとなしくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれにおとらぬ肝癪持かんしゃくもちだから、負けぎらいな大きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、あごを長くしてぼんやりしている。おれは、別にずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡みまわしてやった。みんながおどろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きなが、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢かんぴょうづらを射貫いぬいた時に、野だは突然とつぜん真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少しわかったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
 
 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始めてだからとんと容子ようすが分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減にまとめるのだろう。纏めるというのは黒白こくびゃくの決しかねる事柄ことがらについて云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰ひまつぶしだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座そくざに校長が処分してしまえばいいに。随分ずいぶん決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、らない愚図ぐずの異名だ。
 会議室は校長室のとなりにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子いすが二十きゃくばかり、長いテーブルの周囲にならんでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルのはじに校長がすわって、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操たいそうの教師だけはいつも席末に謙遜けんそんするという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいりんだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方がはるかにおもむきがある。おやじの葬式そうしきの時に小日向こびなた養源寺ようげんじ座敷ざしきにかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主ぼうずに聞いてみたら韋駄天いだてんと云う怪物だそうだ。今日はおこってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇おどかされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの眼は恰好かっこうはよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
 もう大抵おそろいでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定かんじょうしてみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子とうなすのうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う宿世すくせの因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中とちゅうをあるいていても、うらなり先生の様子が心にうかぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々あおい顔をして湯壺ゆつぼのなかにふくれている。挨拶あいさつをするとへえと恐縮きょうしゅくして頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君にってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
 このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでもわろうかと、ひそかに目標めじるしにして来たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にあるむらさき袱紗包ふくさづつみをほどいて、蒟蒻版こんにゃくばんのような者を読んでいる。赤シャツは琥珀こはくのパイプを絹ハンケチでみがき始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語ささやき合っている。手持無沙汰てもちぶさたなのは鉛筆えんぴつしりに着いている、護謨ゴムの頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうんとかああと云うばかりで、時々こわい眼をして、おれの方を見る。おれも負けずににらめ返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻いたしましたと慇懃いんぎんたぬき挨拶あいさつをした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締とりしまりの件、その他二三ヶ条である。狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊いきりょうという見えでこんな意味の事を述べた。「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳かとくの致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧ざんきの念にえんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分のとがだとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職めんしょくになったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒めんどうな会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識からっても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけにきまってる。もし山嵐が煽動せんどうしたとすれば、生徒と山嵐を退治たいじればそれでたくさんだ。人のしりを自分で背負しょんで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。かれはこんな条理じょうりかなわない議論をいて、得意気に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根にからすがとまってるのをながめている。漢学の先生は蒟蒻版こんにゃくばんたたんだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな馬鹿気ばかげたものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、しまのある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。あの手巾はんけちはきっとマドンナから巻き上げたに相違そういない。男は白いあさを使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届ふゆきとどきであり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深くずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠かんけつがあると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯いたずらをやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙ようかいする限りではないが、どうかその辺をご斟酌しんしゃくになって、なるべく寛大なお取計とりはからいを願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。気狂きちがいが人の頭をなぐり付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。難有ありがたい仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲すもうでも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸ねくびをかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々とうとうと述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行きつまってしまう。狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌しゃべって揚足あげあしを取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊とっかん事件は吾々われわれ心ある職員をして、ひそかにわが校将来の前途ぜんと危惧きぐの念をいだかしむるに足る珍事ちんじでありまして、吾々職員たるものはこの際ふるって自ら省りみて、全校の風紀を振粛しんしゅくしなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮こうけいあたった剴切がいせつなお考えで私は徹頭徹尾てっとうてつび賛成致します。どうかなるべく寛大かんだいのご処分をあおぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列ちんれつするぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
 おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちにち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢とんちんかんな、処分は大嫌だいきらいです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然るいです。どうしてもあやまらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説おんびんせつに賛成と云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々いまいましい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟かくごでいた。どうせ、こんな手合てあい弁口べんこう屈伏くっぷくさせる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑うに違いない。だれが云うもんかとすましていた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子ガラス窓をふるわせるような声で「わたくしは教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏ぼうし軽侮けいぶしてこれを翻弄ほんろうしようとした所為しょいとよりほかには認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬころであります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌しんしゃくを加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄ぐろうするような軽薄な生徒を寛仮かんかしては学校の威信いしんに関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚こうしょうな、正直な、武士的な元気を鼓吹こすいすると同時に、野卑やひな、軽躁けいそうな、暴慢ぼうまんな悪風を掃蕩そうとうするにあると思います。もし反動がおそろしいの、騒動が大きくなるのと姑息こそくな事を云った日にはこの弊風へいふうはいつ矯正きょうせい出来るか知れません。かかる弊風を杜絶とぜつするためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃みのがすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰げんばつに処する上に、当該とうがい教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と云いながら、どんとこしおろした。一同はだまって何にも言わない。赤シャツはまたパイプをき始めた。おれは何だか非常にうれしかった。おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有ありがたいと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らんかおをしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言いおとしましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、とがめる者のないのをさいわいに、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。攻撃こうげきされても仕方がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云って着席したら、一同がまた笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等やつらだ。貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
 それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒の風儀ふうぎは、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入しゅつにゅうしない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋そばやだの、団子屋だんごやだの――と云いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅てんぷらと云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。いい気味きびだ。
 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒しんぼうにゃ到底とうてい出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文してやとうがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令ふれを出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方にふけるとつい品性にわるい影響えいきょうを及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽ごらくがないと、田舎いなかへ来てせまい土地では到底くらせるものではない。それでつりに行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚こうしょうな精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。おきへ行って肥料こやしを釣ったり、ゴルキが露西亜ロシアの文学者だったり、馴染なじみの芸者がまつの木の下に立ったり、古池へかわずが飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子をみ込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯せんたくでもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナにうのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をしてたがいに眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。
 
 
 
 
 
 
 
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 七
 
 おれは即夜そくや下宿を引きはらった。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房にょうぼうが何か不都合ふつごうでもございましたか、お腹の立つ事があるなら、っておくれたら改めますと云う。どうもおどろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだかわかりゃしない。まるで気狂きちがいだ。こんな者を相手に喧嘩けんかをしたって江戸えどっ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまっていて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。面倒めんどうだから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意にかなったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐる、閑静かんせいで住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町かじやちょうへ出てしまった。ここは士族屋敷やしきで下宿屋などのある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷をひかえているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違そういない。あの人をたずねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。さいわい一度挨拶あいさつに来て勝手は知ってるから、がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ごめんご免と二返ばかり云うと、おくから五十ぐらいな年寄としよりが古風な紙燭しそくをつけて、出て来た。おれは若い女もきらいではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方きよがすきだから、そのたましいが方々のおばあさんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり君のおっさんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関げんかんまで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野はぎのと云って老人夫婦ぎりでらしているものがある、いつぞや座敷ざしきを明けておいても無駄むだだから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋しゅうせんしてくれとたのんだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。おどろいたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日あくるひから入れちがいに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領せんりょうした事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、おたがいに乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並せけんなみにしなくちゃ、りきれない訳になる。巾着切きんちゃくきりの上前をはねなければ三度のごぜんいただけないと、事がまればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本もとでにして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれのそばはなれずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずにくらされる。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎いなかへ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立きだてのいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪かぜを引いていたが今頃いまごろはどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々たずねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方そうほう共上品だ。じいさんがるになると、変な声を出してうたいをうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗むやみに出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにおでなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想かわいそうにこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭ぼうとうを置いて、どこのだれさんは二十でおよめをおもらいたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人ふたりお持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁はんばくを試みたにはおそれ入った。それじゃぼくも二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似まねて頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当ほんまのって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶あいさつには痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるにきまっとらい。私はちゃんと、もう、らんどるぞなもし」
「へえ、活眼かつがんだね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ちがれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあおどろいた。大変な活眼だ」
あたりましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子おなごは、むかしちごうて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここにも大分ります。先生、あの遠山のおじょうさんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪べっぴんさんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人とうじんの言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川よしかわ先生がお付けたのじゃがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
厄介やっかいだね。渾名あだなの付いてる女にゃ昔からろくなものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神きじんのおまつじゃの、妲妃だっきのお百じゃのててこわい女がりましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へおよめに行く約束やくそくが出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福えんぷくのある男とは思わなかった。人は見懸みかけによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持っておいでるし、万事都合つごうがよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過よすぎるけれ、おだまされたんぞなもし。それや、これやでお輿入こしいれも延びているところへ、あの教頭さんがおでて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合かけおうておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓てづるを求めて遠山さんの方へ出入でいりをおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付てなづけておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんながるく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがおいでたけれ、その方にえよてて、それじゃ今日様こんにちさまへ済むまいがなもし、あなた」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田ほったさんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにおもどりたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合おりあいがわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんなくわしい事が分るんですか。感心しちまった」
せまいけれ何でも分りますぞなもし」
 分り過ぎて困るくらいだ。この容子ようすじゃおれの天麩羅てんぷら団子だんごの事も知ってるかも知れない。厄介やっかいな所だ。しかしお蔭様かげさまでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐というのは堀田の事ですよ」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはあるかたぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方がえらいのじゃろうがなもし」
 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。取り上げてみると清からの便りだ。符箋ふせんが二三まいついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へまわして、いか銀から、萩野はぎのへ廻って来たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留とうりゅうしている。宿屋だけに手紙までとめるつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかりていたものだから、ついおそくなって済まない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。おいに代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざたがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命いっしょうけんめいにかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭ぼうとうで四尺ばかり何やらかやらしたためてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読くとうをつけるのによっぽど骨が折れる。おれはちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目まじめになって、はじめからしまいまで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻えんばなへ出てこしをかけながら鄭寧ていねいに拝見した。すると初秋はつあきの風が芭蕉ばしょうの葉を動かして、素肌すはだきつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、むこうの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪かんしゃくが強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に無暗むやみ渾名あだななんか、つけるのは人にうらまれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目にわないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷ねびえをして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行ってたよりになるはお金ばかりだから、なるべく倹約けんやくして、万一の時に差支さしつかえないようにしなくっちゃいけない。――お小遣こづかいがなくて困るかも知れないから、為替かわせで十円あげる。――せんだって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と云うものは細かいものだ。
 おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考えんでいると、しきりのふすまをあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見ておでるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をしてぜんについた。見ると今夜も薩摩芋さつまいもつけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧ていねいで、親切で、しかも上品だが、しい事に食い物がまずい。昨日も芋、一昨日おとといも芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好きなまぐろのさし身か、蒲鉾かまぼこのつけ焼を食わせるんだが、貧乏びんぼう士族のけちんぼうと来ちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目だめだ。もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京からせてやろう。天麩羅蕎麦そばを食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗ぜんしゅう坊主だって、これよりは口に栄耀えようをさせているだろう。――おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗ひきだしから生卵を二つ出して、茶碗ちゃわんふちでたたき割って、ようやくしのいだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出懸でかけようと、例の赤手拭あかてぬぐいをぶら下げて停車場ていしゃばまで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島しきしまを吹かしていると、偶然ぐうぜんにもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。平常ふだんから天地の間に居候いそうろうをしているように、小さく構えているのがいかにもあわれに見えたが、今夜は憐れどころのさわぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日あしたから結婚けっこんさして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢いせいよく席をゆずると、うらなり君はおそれ入った体裁で、いえかもうておくれなさるな、と遠慮えんりょだか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、草臥くたびれますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお邪魔じゃまいたしましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本にっぽんが困るだろうと云うような面をかたの上へせてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりのたぬきもいる。皆々みなみなそれ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人おとなしくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツになびくなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様だんなさまが出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫じょうぶのようですな」
「ええせても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑声がきこえたから、何心なくり返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとがならんで切符きっぷを売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶すいしょうたま香水こうすいあっためて、てのひらにぎってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端とたんに、うらなり君の事は全然すっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然とつぜんおれのとなりから、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へんで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬ちりめんの帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖きんぐさりをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物にせものである。赤シャツはだれも知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所うりさげじょの前に話している三人へ慇懃いんぎんにお辞儀じぎをして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足ねこあしにあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側きんがわを出して、二分ほどちがってると云いながら、おれのそばへ腰をおろした。女の方はちっとも見返らないでつえの上にあごをのせて、正面ばかりながめている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛きてきが鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろがちに乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田すみたまで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発ふんぱつして白切符をにぎってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵たいていは下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版でしたように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇ちゅうちょていであったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣ゆかたのなりで湯壺ゆつぼへ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉のどふさがって饒舌しゃべれない男だが、平常ふだん随分ずいぶん弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心をなぐさめてやるのは、江戸えどっ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、とかいえとかぎりで、しかもそのいえが大分面倒めんどうらしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙めんこうむった。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂ふろの数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側にやなぎうわって、柳のえだるい影を往来の中へおとしている。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼ぎろうである。山門のなかに遊廓ゆうかくがあるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾のれんをかけた、小さな格子窓こうしまどの平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯まるぢょうちん汁粉しるこ、お雑煮ぞうにとかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端のきばに近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁いいなずけが他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子はおろか、三日ぐらい断食だんじきしても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜とうがん水膨みずぶくれのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊たんぱくだと思った山嵐は生徒を煽動せんどうしたと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長にせまるし。厭味いやみで練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所よそながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化ごまかしたり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖なんくせをつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公がかわったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根はこねの向うだから化物ばけものが寄り合ってるんだと云うかも知れない。
 おれは、性来しょうらい構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒ぶっそうに思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋をわたって野芹川のぜりがわどてへ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村あいおいむらへ出る。村には観音様かんのんさまがある。
 温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓たいこが鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影ひとかげが見え出した。月にかしてみると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若いしゅかも知れない。それにしてはうたもうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離きょりに逼った時、男がたちまち振り向いた。月はうしろからさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っけた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男のそでけざま、二足前へ出したくびすをぐるりと返して男の顔をのぞんだ。月は正面からおれの五分がりの頭から顋のあたりまで、会釈えしゃくもなくてらす。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女をうながすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗りそくなったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。
 
 
 
 
 
 
 
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 八
 
 赤シャツに勧められてつりに行った帰りから、山嵐やまあらしを疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒ふらちやつだと思った。ところが会議の席では案に相違そういして滔々とうとうと生徒厳罰論げんばつろんを述べたから、おや変だなと首をひねった。萩野はぎのばあさんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手をった。この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減いいかげん邪推じゃすいまことしやかに、しかも遠廻とおまわしに、おれの頭の中へましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川のぜりがわの土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者くせものだとめてしまった。曲者だか何だかよくはわからないが、ともかくもい男じゃない。表と裏とはちがった男だ。人間は竹のように真直まっすぐでなくっちゃたのもしくない。真直なものは喧嘩けんかをしても心持ちがいい。赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚こうしょうなのと、琥珀こはくのパイプとを自慢じまんそうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。喧嘩をしても、回向院えこういん相撲すもうのような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。そうなると一銭五厘の出入でいり控所ひかえじょ全体をおどろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に金壺眼かなつぼまなこをぐりつかせて、おれをにらめた時はにくい奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声ねこなでごえよりはましだ。実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎やろう返事もしないで、まだむくってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
 それ以来山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の墻壁しょうへきになって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐はがんとしてだまってる。おれと山嵐には一銭五厘がたたった。しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
 山嵐とおれが絶交の姿となったに引きえて、赤シャツとおれは依然いぜんとして在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川でった翌日などは、学校へ出ると第一番におれのそばへ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜ロシア文学をりに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々にくらしかったから、昨夜ゆうべは二返逢いましたねとったら、ええ停車場ていしゃばで――君はいつでもあの時分出掛でかけるのですか、遅いじゃないかと云う。野芹川の土手でもお目にかかりましたねとらわしてやったら、いいえぼくはあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなにかくさないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よくうそをつく男だ。これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は随分妙ずいぶんみょうなものだ。
 ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時ごろ出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくのむかしに引きはらって立派な玄関げんかんを構えている。家賃は九円五拾銭じっせんだそうだ。田舎いなかへ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発ふんぱつして、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次とりつぎに出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡くせわたりものだから、生れ付いての田舎者よりも人がるい。
 赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きなくさ烟草たばこをふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績せいせきがよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しんらいしているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分じゅうぶんです。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするものあ剣呑けんのんだという事ですか」
「そう露骨ろこつに云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精しゅっせいして下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合つごうさえつけば、待遇たいぐうの事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、俸給ほうきゅうですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通ゆうずうが出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「どうも難有ありがとう。だれが転任するんですか」
「もう発表になるから話しても差しつかえないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここのの人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへくんです」
日向ひゅうが延岡のべおかで――土地が土地だから一級俸あがって行く事になりました」
だれか代りが来るんですか」
「代りも大抵たいてい極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いていただかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟かくごをしてやってもらいたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
 おれには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣きづかいはない。それに、生徒の人望があるから転任や免職めんしょくは学校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。発句ほっく芭蕉ばしょう髪結床かみいどこの親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶つるべをとられてたまるものか。
 帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車がかよってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日いちんち馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日いちんち車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。さると人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇ものずきだ。
 ところへあいかわらずばあさんが夕食ゆうめしを運んで出る。今日もまたいもですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐とうふぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎かんごろうぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門ほらえもんだ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのおきともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほどくらむきが豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰さたがあろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここにりたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん人を馬鹿ばかにしてら、面白おもしろくもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木とうへんぼくはまずないからね」
「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略さりゃくだね。よくない仕打しうちだ。まるで欺撃だましうちですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合ふつごうな事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるって云うから、ことわろうと思うんです」
「何で、お断わりるのぞなもし」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯ひきょうでさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人おとなしく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢がまんじゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたとくやむのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有ありがとうと受けておおきなさいや」
年寄としよりの癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
 婆さんはだまって引き込んだ。じいさんは呑気のんきな声を出してうたいをうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩きずにうなる爺さんの気が知れない。おれは謡どころのさわぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前をねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡くんだりまで落ちさせるとは一体どう云う了見りょうけんだろう。太宰権帥だざいごんのそつでさえ博多はかた近辺で落ちついたものだ。河合又五郎かあいまたごろうだって相良さがらでとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
 小倉こくらはかまをつけてまた出掛けた。大きな玄関へっ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付めつきをした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだってたたおこさないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺きげんうかがいにくるようなおれと見損みそくなってるか。これでも月給が入らないから返しにきたんだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったらおくへ引き込んだ。足元を見ると、畳付たたみつきの薄っぺらな、のめりの駒下駄こまげたがある。奥でもう万歳ばんざいですよと云う声がきこえる。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。
 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯いっぱい飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔をながめたが、とっさの場合返事をしかねて茫然ぼうぜんとしている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審ふしんに思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、あきれ返ったのか、または双方合併そうほうがっぺいしたのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっさんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支さしつかえないでしょうか」
 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねちし寄せてくる。おれはよく親父おやじから貴様はそそっかしくて駄目だめだ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢ってくわしい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流にり付けられると、ちょっと受け留めにくい。
 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心のうちで申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちんぼうの欲張り屋に相違ないが、嘘はかない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙めんこうむります」
「それはますます可笑おかしい。今君がわざわざおいでになったのは増俸を受けるにはしのびない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなにいやなら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変ひょうへんしちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩ゆずって、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得をけずって得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余じょうよを君にわすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束やくそくで安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合つごうのいい事はないと思うですがね。いやならいやでもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙こうみょうな弁舌をふるえば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたとおそれ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中とちゅうで親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽどいやになっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論をたくましくしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中までれさせる訳には行かない。金や威力いりょく理屈りくつで人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査じゅんさでも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。
 
 
 
 
 
 
 
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 九
 
 うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐やまあらし突然とつぜん、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれとたのんだから、真面目まじめに受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつはるいやつで、よく偽筆ぎひつ贋落款にせらっかんなどをして売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目でたらめちがいない。君に懸物かけもの骨董こっとうを売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないでもうけがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化ごまかしたのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁かんべんしたまえと長々しい謝罪をした。
 おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五りんをとって、おれの蝦蟇口がまぐちのなかへ入れた。山嵐は君それを引きめるのかと不審ふしんそうに聞くから、うんおれは君におごられるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だかみょうだからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負けしみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張ごうじょうっぱりだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答がおこった。
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸えどっ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津あいづだ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、はままで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれはさかなを食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿ばかだ」
「君はすぐ喧嘩けんかける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳けいちょうな風を、よく、あらわしてる」
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、はなしがあるから」
 
 山嵐は約束やくそく通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だかあわれっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行をさかんにしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底とうてい物にならないから、大きな声を出す山嵐をやとって、一番赤シャツの荒肝あらぎもひしいでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
 おれはまず冒頭ぼうとうとしてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれよりくわしく知っている。おれが野芹川のぜりがわの土手の話をして、あれは馬鹿野郎ばかやろうだと云ったら、山嵐は君はだれをつらまえても馬鹿よばわりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜ふぬけの呆助ほうすけだと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれよりはるかに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
 それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職めんしょくする考えだなと云った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、だれがなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張いばった。どうしていっしょに免職させる気かと押し返してたずねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智慧ちえはあまりなさそうだ。おれが増給をことわったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいとめてくれた。
 うらなりが、そんなにいやがっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、すでにきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますとげればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席そくせき許諾きょだくしたものだから、あとからおっかさんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人おとなしい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道にげみちこしらえて待ってるんだから、よっぽど奸物かんぶつだ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁てっけんせいさいでなくっちゃ利かないと、こぶだらけのうでをまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術じゅうじゅつでもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっとつかんでみろと云うから、指の先でんでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
 おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕をばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転かいてんする。すこぶる愉快ゆかいだ。山嵐の証明する所によると、かんじんりを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
 君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だをなぐってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加つけたした。山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
 じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲りゅういんが起って咽喉のどの所へ、大きなたまが上がって来て言葉が出ないから、君にゆずるからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
 そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭かしんていといって、当地ここで第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷やしきを買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸みかけからしていかめしい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織じんばおりい直して、胴着どうぎにする様なものだ。
 二人が着いたころには、人数にんずももう大概たいがいそろって、五十じょうの広間に二つ三つ人間のかたまりが出来ている。五十畳だけにとこは素敵に大きい。おれが山城屋で占領せんりょうした十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。右の方に、赤い模様のある瀬戸物のかめえて、その中にまつの大きなえだしてある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里いまりですと云った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。おれは江戸っ子だから、陶器とうきの事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手へたなものだ。あんまり不味まずいから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々れいれいと懸けておくんですとたずねたところ、先生はあれは海屋かいおくといって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
 やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があってりかかるのに都合のいい所へすわった。海屋の懸物の前にたぬき羽織はおりはかまで着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取じんどった。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服でひかえている。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈きゅうくつだったから、すぐ胡坐あぐらをかいた。となりの体操たいそう教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがておぜんが出る。徳利とくりならぶ。幹事が立って、一言いちごん開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツがつ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴ふいちょうして、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだからいたかたがないという意味を述べた。こんなうそをついて送別会を開いて、それでちっともはずかしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるにきまってる。マドンナも大方この手で引掛ひっかけたんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側むかいがわに坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光いなびかりをさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
 赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれはうれしかったので、思わず手をぱちぱちとった。すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日いちじつも早く当地を去られるのを希望しております。延岡は僻遠へきえんの地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴じゅんぼくな所で、職員生徒ことごとく上代樸直じょうだいぼくちょくの気風を帯びているそうである。心にもないお世辞をいたり、美しい顔をして君子をおとしいれたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚とっこうの士は必ずその地方一般の歓迎かんげいを受けられるに相違そういない。吾輩わがはいは大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任ふにんされたら、その地の淑女しゅくじょにして、君子の好逑こうきゅうとなるべき資格あるものをえらんで一日いちじつも早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆てんばを事実の上において慚死ざんしせしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳払せきばらいをして席に着いた。おれは今度も手をたたこうと思ったが、またみんながおれのかおを見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。先生はご鄭寧ていねいに、自席から、座敷のはしの末座まで行って、慇懃いんぎんに一同に挨拶あいさつをした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大せいだいなる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘かんめいの至りにえぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴ちょうだいして、大いに難有ありがた服膺ふくようする訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧あいこのほどを願います。とへえつく張って席にもどった。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭にうやうやしくお礼を云っている。それも義理一遍いっぺんの挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、しんから感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴きんちょうしているばかりだ。
 挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をしてしるを飲んでみたがまずいもんだ。口取くちとり蒲鉾かまぼこはついてるが、どす黒くて竹輪の出来損できそこないである。刺身さしみも並んでるが、厚くってまぐろの切り身を生で食うと同じ事だ。それでもとなり近所の連中はむしゃむしゃうまそうに食っている。大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
 そのうち燗徳利かんどくり頻繁ひんぱんに往来し始めたら、四方が急ににぎやかになった。野だ公は恭しく校長の前へ出てさかずきを頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬けんしゅうをして、一巡周いちじゅんめぐるつもりとみえる。はなはだご苦労である。うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一ぱい差し上げた。せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。ご出立しゅったつはいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、うらなり君はいえご用おおのところ決してそれにはおよびませんと答えた。うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
 それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一ぱい、おや僕が飲めと云うのに……などと呂律ろれつまわりかねるのも一人二人ひとりふたり出来て来た。少々退屈たいくつしたから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかしてながめていると山嵐が来た。どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議こうぎを申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡にらないから……と君は云ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
 
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被ねこっかぶりの、香具師やしの、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌えんぜつが出来ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩けんかのときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、椽側えんがわをどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながらけ出して来た。
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決してにがさない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目のあたる所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際かべぎわし付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を奇麗きれいに食いつくして、五六間先へ遠征えんせいに出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
 ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少しおどろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱とこばしらへもたれて例の琥珀こはくのパイプを自慢じまんそうにくわえていた、赤シャツが急にって、座敷を出にかかった。むこうからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くできこえなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸おいかけて帰ったんだろう。
 芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同がときの声をげて歓迎かんげいしたのかと思うくらい、騒々そうぞうしい。そうしてある奴はなんこをつかむ。その声の大きな事、まるで居合抜いあいぬき稽古けいこのようだ。こっちではけんを打ってる。よっ、はっ、と夢中むちゅうで両手を振るところは、ダーク一座の操人形あやつりにんぎょうよりよっぽど上手じょうずだ。向うのすみではおいおしゃくだ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰てもちぶさたに下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任をおしんでくれるんじゃない。みんなが酒をんで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
 しばらくしたら、めいめい胴間声どうまごえを出して何かうたい始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線をかかえたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、かね太鼓たいこでねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻ってわれるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
 すると、いつの間にかそばへ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らずはなし家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着とんじゃくなく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫ぎだゆう真似まねをやる。おきなはれやと芸者は平手で野だのひざを叩いたら野だは恐悦きょうえつして笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊の国をおどるから、一ついて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
 向うの方で漢学のおじいさんが歯のない口をゆがめて、そりゃ聞えません伝兵衛でんべいさん、お前とわたしのその中は……とまでは無事にすましたが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物をつらまえて近頃ちかごろこないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻かげつまき、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可はんかの英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞けんぶをやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟ふみやぶるせんざんばんがくのけむり真中まんなかへ出て独りでかくし芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、たな達磨だるまさんを済して丸裸まるはだか越中褌えっちゅうふんどし一つになって、棕梠箒しゅろぼうきを小脇にい込んで、日清談判破裂はれつして……と座敷中練りあるき出した。まるで気違きちがいだ。
 おれはさっきから苦しそうに袴もがず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴はだかおどりまで羽織袴で我慢がまんしてみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮えんりょなくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。気狂会きちがいかいです。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手をふさいだ。おれはさっきから肝癪かんしゃくが起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨げんこつで、野だの頭をぽかりとわしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれたていで、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。おちになったのは情ない。この吉川をご打擲ちょうちゃくとは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動そうどうが始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋くびすじをうんとつかんで引きもどした。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横にねじったら、すとんとたおれた。あとはどうなったか知らない。途中とちゅうでうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
 
 
 
 
 
 
 
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 十
 
 祝勝会で学校はお休みだ。練兵場れんぺいばで式があるというので、たぬきは生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人ひとりとしていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍たいごを整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か二人ふたりずつ監督かんとくとして割り仕掛しかけである。仕掛しかけだけはすこぶる巧妙こうみょうなものだが、実際はすこぶる不手際である。生徒は小供こどもの上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等やつらだから、職員が幾人いくたりついて行ったって何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのにときの声をげたり、まるで浪人ろうにんが町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌しゃべってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言をったって聞きっこない。喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は大違おおちがいである。下宿のばあさんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎かんごろうである。生徒があやまったのはしんから後悔こうかいしてあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、ずるい事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったりびたりするのを、真面目まじめに受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿ばかと云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってればつかえない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまでたたきつけなくてはいけない。
 おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅てんぷらだの、団子だんごだの、と云う声が絶えずする。しかも大勢だから、だれが云うのだか分らない。よし分ってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱しんけいすいじゃくだから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うにまってる。こんな卑劣ひれつな根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底とうてい直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似まねをしなければならなく、なるかも知れない。むこうでうまく言いけられるような手段で、おれの顔をよごすのをほうっておく、樗蒲一ちょぼいちはない。向こうが人ならおれも人だ。生徒だって、子供だって、ずう体はおれより大きいや。だから刑罰けいばつとして何か返報をしてやらなくっては義理がわるい。ところがこっちから返報をする時分に尋常じんじょうの手段で行くと、向うから逆捩さかねじを食わして来る。貴様がわるいからだと云うと、初手からみちが作ってある事だから滔々とうとうと弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃こうげきする。もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩けんかのように、見傚みなされてしまう。大変な不利益だ。それなら向うのやるなり、愚迂多良童子ぐうたらどうじを極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく云えば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いてつらまえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。そうなっては江戸えどっ子も駄目だめだ。駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。どうしても早く東京へ帰ってきよといっしょになるに限る。こんな田舎いなかに居るのは堕落だらくしに来ているようなものだ。新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
 こう考えて、いやいや、いてくると、何だか先鋒せんぽうが急にがやがやさわぎ出した。同時に列はぴたりと留まる。変だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町おおてまちき当って薬師町やくしまちへ曲がる角の所で、行きづまったぎり、し返したり、押し返されたりしてみ合っている。前方から静かに静かにと声をらして来た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と師範しはん学校が衝突しょうとつしたんだと云う。
 中学と師範とはどこの県下でも犬とさるのように仲がわるいそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方せまい田舎で退屈たいくつだから、暇潰ひまつぶしにやる仕事なんだろう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分にけ出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税のくせに、引き込めと、怒鳴どなってる。後ろからは押せ押せと大きな声を出す。おれは邪魔じゃまになる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ! と云う高くするどい号令がきこえたと思ったら師範学校の方は粛粛しゅくしゅくとして行進を始めた。先を争った衝突は、折合がついたには相違そういないが、つまり中学校が一歩をゆずったのである。資格から云うと師範学校の方が上だそうだ。
 祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む、参列者が万歳ばんざいを唱える。それでおしまいだ。余興は午後にあると云う話だから、ひとまず下宿へ帰って、こないだじゅうから、気にかかっていた、清への返事をかきかけた。今度はもっとくわしく書いてくれとの注文だから、なるべく念入ねんいりしたためなくっちゃならない。しかしいざとなって、半切はんきれを取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。あれにしようか、あれは面倒臭めんどうくさい。これにしようか、これはつまらない。何か、すらすらと出て、骨が折れなくって、そうして清が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。おれはすみって、筆をしめして、巻紙をにらめて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返もり返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、あきらめてすずりふたをしてしまった。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やっぱり東京まで出掛けて行って、って話をするのが簡便だ。清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食だんじきよりも苦しい。
 おれは筆と巻紙をほうり出して、ごろりと転がって肱枕ひじまくらをしてにわの方をながめてみたが、やっぱり清の事が気にかかる。その時おれはこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心まことは清に通じるに違いない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事でくらしてると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
 庭は十坪とつぼほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の蜜柑みかんがあって、へいのそとから、目標めじるしになるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑のっているところはすこぶるめずらしいものだ。あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗きれいだろう。今でももう半分色の変ったのがある。ばあさんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、うまい蜜柑だそうだ。今にうれたら、たんとし上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、充分じゅうぶん食えるだろう。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
 おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然ぐうぜん山嵐やまあらしが話しにやって来た。今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走ちそうを食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮のつつみたもとから引きずり出して、座敷ざしき真中まんなかへ抛り出した。おれは下宿で芋責いもぜめ豆腐責になってる上、蕎麦そば屋行き、団子だんご屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんからなべと砂糖をかり込んで、煮方にかたに取りかかった。
 山嵐は無暗むやみに牛肉を頬張ほおばりながら、君あの赤シャツが芸者に馴染なじみのある事を知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろうと云ったら、そうだぼくはこのごろようやく勘づいたのに、君はなかなか敏捷びんしょうだと大いにほめた。
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽ごらくだのと云うくせに、裏へまわって、芸者と関係なんかつけとる、しからんやつだ。それもほかの人が遊ぶのを寛容かんようするならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上とりしまりじょう害になると云って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあのざまは。馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化ごまかす気だから気に食わない。そうして人が攻撃こうげきすると、僕は知らないとか、露西亜ロシア文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人をけむくつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中ごてんじょちゅうの生れ変りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
「湯島のかげまた何だ」
「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと絛虫さなだむしくぜ」
「そうか、大抵たいてい大丈夫だいじょうぶだろう。それで赤シャツは人にかくれて、温泉の町の角屋かどやへ行って、芸者と会見するそうだ」
「角屋って、あの宿屋か」
「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰めんきつするんだね」
「見届けるって、夜番よばんでもするのかい」
「うん、角屋の前に枡屋ますやという宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子しょうじへ穴をあけて、見ているのさ」
「見ているときに来るかい」
「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ」
随分ずいぶん疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜てつやして看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱った事がある」
「少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。あんな奸物かんぶつをあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代って誅戮ちゅうりくを加えるんだ」
愉快ゆかいだ。そう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
「まだ枡屋に懸合かけあってないから、今夜は駄目だ」
「それじゃ、いつから始めるつもりだい」
「近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれたまえ」
「よろしい、いつでも加勢する。ぼく計略はかりごと下手へただが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
 おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略はかりごとを相談していると、宿の婆さんが出て来て、学校の生徒さんが一人、堀田ほった先生にお目にかかりたいてておでたぞなもし。今お宅へ参じたのじゃが、お留守るすじゃけれ、大方ここじゃろうててさがし当ててお出でたのじゃがなもしと、しきいの所へひざいて山嵐の返事を待ってる。山嵐はそうですかと玄関げんかんまで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかってさそいに来たんだ。今日は高知こうちから、何とかおどりをしに、わざわざここまで多人数たにんず乗り込んで来ているのだから、是非見物しろ、めったに見られないおどりだというんだ、君もいっしょに行ってみたまえと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。おれは踴なら東京でたくさん見ている。毎年八幡様はちまんさまのお祭りには屋台が町内へ廻ってくるんだから汐酌しおくみでも何でもちゃんと心得ている。土佐っぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。みょうやつが来たもんだ。
 会場へはいると、回向院えこういん相撲すもう本門寺ほんもんじ御会式おえしきのように幾旒いくながれとなく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、なわから縄、つなから綱へわたしかけて、大きな空が、いつになくにぎやかに見える。東のすみに一夜作りの舞台ぶたいを設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだそうだ。舞台を右へ半町ばかりくると葭簀よしずの囲いをして、活花いけばな陳列ちんれつしてある。みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。あんなに草や竹を曲げてうれしがるなら、背虫の色男や、びっこ亭主ていしゅを持って自慢じまんするがよかろう。
 舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。花火の中から風船が出た。帝国万歳ていこくばんざいとかいてある。天主の松の上をふわふわ飛んで営所のなかへ落ちた。次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を射抜いぬくようにがると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青いけむりかさの骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。風船がまた上がった。今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、温泉の町から、相生村あいおいむらの方へ飛んでいった。大方観音様の境内けいだいへでも落ちたろう。
 式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。田舎にもこんなに人間が住んでるかとおどろいたぐらいうじゃうじゃしている。利口りこうな顔はあまり見当らないが、数から云うとたしかに馬鹿に出来ない。そのうち評判の高知の何とか踴が始まった。踴というから藤間か何ぞのやる踴りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
 いかめしい後鉢巻うしろはちまきをして、ばかま穿いた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列にならんで、その三十人がことごとく抜き身をげているには魂消たまげた。前列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の間隔かんかくはそれより短いとも長くはない。たった一人列をはなれて舞台のはしに立ってるのがあるばかりだ。この仲間はずれの男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜身の代りに、胸へ太鼓たいこけている。太鼓は太神楽だいかぐらの太鼓と同じ物だ。この男がやがて、いやあ、はああと呑気のんきな声を出して、妙なうたをうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんとたたく。歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。三河万歳みかわまんざい普陀洛ふだらくやの合併がっぺいしたものと思えば大した間違いにはならない。
 歌はすこぶる悠長ゆうちょうなもので、夏分の水飴みずあめのように、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも拍子ひょうしは取れる。この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速じんそくなお手際で、拝見していても冷々ひやひやする。となりも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じようにわすのだから、よほど調子がそろわなければ、同志撃どうしうちを始めて怪我けがをする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険あぶなくもないが、三十人が一度に足踏あしぶみをして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、おそ過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲はんいは一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、なかなかもって汐酌しおくみせきおよぶところでない。聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、こしの曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。はたで見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
 おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、今までおだやかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りにうごき始める。喧嘩だ喧嘩だと云う声がすると思うと、人のそでくぐけて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝けさ意趣返いしゅがえしをするんで、また師範しはんの奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへもぐんでどっかへ行ってしまった。
 山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人をけながら一散にけ出した。見ている訳にも行かないから取りしずめるつもりだろう。おれは無論の事逃げる気はない。山嵐のかかとを踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が真最中まっさいちゅうである。師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。師範は制服をつけているが、中学は式後大抵たいていは日本服に着換きがえているから、敵味方はすぐわかる。しかし入り乱れて組んづ、ほごれつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。巡査じゅんさがくると面倒だ。飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩のはげしそうな所へおどんだ。せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所をけようとしたが、なかなかそううまくは行かない。一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に比較的ひかくてき大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。止せと云ったら、止さないかと師範生のかたを持って、無理に引き分けようとする途端とたんにだれか知らないが、下からおれの足をすくった。おれは不意を打たれてにぎった、肩を放して、横にたおれた。かたくつでおれの背中の上へ乗った奴がある。両手と膝を突いて下から、ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間にはさまりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
 ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨ほおぼねあたったなと思ったら、後ろからも、背中をぼうでどやした奴がある。教師のくせに出ている、て打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石をげろ。と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、そばに居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五がりの頭をかすめて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、おそれ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思うんだ。身長なりは小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練くずねりの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも退却たいきゃくは巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。
 山嵐はどうしたかと見ると、紋付もんつき一重羽織ひとえばおりをずたずたにして、向うの方で鼻をいている。鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上がって真赤まっかになってすこぶる見苦しい。おれは飛白かすりあわせを着ていたからどろだらけになったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかしほっぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
 巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、つらまったのは、おれと山嵐だけである。おれらは姓名せいめいを告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末てんまつを述べて下宿へ帰った。
 
 
 
 
 
 
 
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 十一
 
 あくる日が覚めてみると、身体中からだじゅう痛くてたまらない。久しく喧嘩けんかをしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり自慢じまんもできないととこの中で考えていると、ばあさんが四国新聞を持ってきて枕元まくらもとへ置いてくれた。実は新聞を見るのも退儀たいぎなんだが、男がこれしきの事に閉口へこたれて仕様があるものかと無理に腹這はらばいになって、ながら、二頁を開けてみるとおどろいた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師堀田某ほったぼうと、近頃ちかごろ東京から赴任ふにんした生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾しそうしてこの騒動そうどう喚起かんきせるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生にむかって暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記ふきしてある。本県の中学は昔時せきじより善良温順の気風をもって全国の羨望せんぼうするところなりしが、軽薄けいはくなる二豎子じゅしのために吾校わがこうの特権を毀損きそんせられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人ごじん奮然ふんぜんとしてってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢ぶらいかんの上に加えて、彼等かれらをして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、おきゅうえたつもりでいる。おれは床の中で、くそでもらえといながら、むっくり飛び起きた。不思議な事に今まで身体の関節ふしぶしが非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
 おれは新聞を丸めて庭へげつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架こうかへ持って行っててて来た。新聞なんて無暗むやみうそくもんだ。世の中に何が一番法螺ほらくと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの云ってしかるべき事をみんなむこうでならべていやがる。それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下に某と云う名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとしたせいもあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲ただのまんじゅう以来の先祖を一人ひとり残らず拝ましてやらあ。――顔を洗ったら、ほっぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、おどろいて引き下がった。鏡で顔を見ると昨日きのうと同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
 今日の新聞に辟易へきえきして学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくるやつも、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄てがらで、――名誉めいよのご負傷でげすか、と送別会の時になぐった返報と心得たのか、いやにひやかしたから、余計な事を言わずに絵筆でもめていろと云ってやった。するとこりゃ恐入おそれいりやした。しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴どなりつけてやったら、むこう側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、となりの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
 それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至っては、紫色むらさきいろ膨張ぼうちょうして、ったら中からうみが出そうに見える。自惚うぬぼれのせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどくられている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つかたまっている。ほかの奴は退屈たいくつにさえなるときっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口で云うが、心のうちではこの馬鹿ばかがと思ってるに相違そういない。それでなければああいう風に私語合ささやきあってはくすくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた。先生万歳ばんざいと云うものが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の焼点しょうてんとなってるなかに、赤シャツばかりは平常の通りそばへ来て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申しむ手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君をさそいに行ったから、こんな事がおこったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件についてはあくまで尽力じんりょくするつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。おれには心配なんかない、先で免職めんしょくをするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消とりけしの手続きはしたと云うから、やめた。
 おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計みはからって、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校にうらみをいだいて、あんな記事をことさらにかかげたんだろうと論断した。赤シャツはおれ等の行為こういを弁解しながら控所ひかえじょを一人ごとにまわってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴ふいちょうしていた。みんなは全く新聞屋がわるい、しからん、両君は実に災難だと云った。
 帰りがけに山嵐は、君赤シャツはくさいぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴そぼうなようだが、おれより智慧ちえのある男だと感心した。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物かんぶつだ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易たやすくかね」
「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」
「友達が居るのかい」
「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「わるくすると、られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日あした辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所にたのんだって居るのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠しょうこの挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁はんばくするのはむずかしいね」
厄介やっかいだな。それじゃ濡衣ぬれぎぬを着るんだね。面白おもしろくもない。天道是耶非てんどうぜかひかだ」
「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取っておさえるより仕方がないだろう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよかろう。おれは策略は下手へたなんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
 俺と山嵐はこれでわかれた。赤シャツがはたたして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底とうてい智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力わんりょくでなくっちゃ駄目だめだ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどのつまりは腕力だ。
 あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、ひらいてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行ってたぬき催促さいそくすると、あしたぐらい出すでしょうと云う。明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽きょぎの記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭せつゆを加えた。新聞がそんな者なら、一日も早くつぶしてしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈すっぽんに食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日こんにちただ今狸の説明によって始めて承知つかまつった。
 それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然ふんぜんとやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座そくざに一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首をかたむけた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかとたずねるから、いや云われない。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決しょけつしてくれと云われたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓はらつづみたたき過ぎて、胃の位置が顛倒てんどうしたんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴかおどりを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎いなかの学校はそう理窟りくつが分らないんだろう。焦慮じれったいな」
「それが赤シャツの指金さしがねだよ。おれと赤シャツとは今までの行懸ゆきがかり上到底とうてい両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化ごまかされると考えてるのさ」
「なお悪いや。だれが両立してやるものか」
「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着とうちゃくしないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさしつかえるからな」
「それじゃおれをあいのくさびに一席うかがわせる気なんだな。こん畜生ちくしょう、だれがその手に乗るものか」
 
 翌日あくるひおれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
「何で私に辞表を出せと云わないんですか」
「へえ?」と狸はあっけに取られている。
「堀田には出せ、私には出さないでいと云う法がありますか」
「それは学校の方の都合つごうで……」
「その都合が間違まちがってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
 なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付きはらってる。おれは仕様がないから
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑あんかんとして、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから……」
「出来なくなっても私の知った事じゃありません」
「君そう我儘わがままを云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴りれきに関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸があおくなったり、赤くなったりして、可愛想かわいそうになったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるならかためて、うんと遣っつける方がいい。
 山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支さしつかえあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧りこうらしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶あいさつをしてはまの港屋までさがったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋ますやの表二階へひそんで、障子しょうじへ穴をあけてのぞき出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツがしのんで来ればどうせ夜だ。しかもよいの口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎにきまってる。最初の二晩はおれも十一時ごろまで張番はりばんをしたが、赤シャツのかげも見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目をんで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日しごんちすると、うちの婆さんが少々心配を始めて、おくさんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮ちゅうりくを加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しもげんが見えないと、いやになるもんだ。おれは性急せっかちな性分だから、熱心になると徹夜てつやでもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅党でもきる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固がんこなものだ。よいから十二時すぎまでは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈がすとうの下をにらめっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、とまりが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組うでぐみをして溜息ためいきをつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯しょうがい天誅を加える事は出来ないのである。
 八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵けいらんを八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責いもぜめに応ずる策である。その玉子を四つずつ左右のたもとへ入れて、例の赤手拭あかてぬぐいかたへ乗せて、懐手ふところでをしながら、枡屋ますや楷子段はしごだんを登って山嵐の座敷ざしきの障子をあけると、おい有望有望と韋駄天いだてんのような顔は急に活気をていした。昨夜ゆうべまでは少しふさぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いんきくさいと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快ゆかい愉快と云った。
「今夜七時半頃あの小鈴こすずと云う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああ云うずるい奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「そうかも知れない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈らんぷを消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。きつねはすぐ疑ぐるから」
 おれは一貫張いっかんばりの机の上にあった置き洋燈らんぷをふっと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命いっしょうけんめいに障子へかおをつけて、息をらしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもういやだぜ」
「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合つごうのいいように毎晩勘定かんじょうするんだ」
「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代り昼寝ひるねをするだろう」
「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈きゅうくつでたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々てんもうかいかいにしてらしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子ぼうしいただいた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮えんりょなく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。
 世間は大分静かになった。遊廓ゆうかくで鳴らす太鼓たいこが手に取るようにきこえる。月が温泉の山のうしろからのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、しもの方から人声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿をき留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄こまげたを引きる音がする。眼をななめにするとやっと二人の影法師かげぼうしが見えるくらいに近づいた。
「もう大丈夫だいじょうぶですね。邪魔じゃまものは追っ払ったから」まさしく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇みはだっちゃんだから愛嬌あいきょうがありますよ」「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防しんぼうした。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下をくぐって、角屋の中へはいった。
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだとかしやがった」
「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
 おれと山嵐は二人の帰路を要撃ようげきしなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれとたのんで来た。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。大抵たいていなら泥棒どろぼうと間違えられるところだ。
 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子のすきから睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀なんぎな思いをした事はいまだにない。いっその事角屋へ踏み込んで現場を取っておさえようと発議ほつぎしたが、山嵐は一言にして、おれの申し出をしりぞけた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中とちゅうさえぎられる。訳を話して面会を求めれば居ないとげるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢がまんした。
 角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとをけた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木すぎなみきがあって左右は田圃たんぼになる。それを通りこすとここかしこに藁葺わらぶきがあって、はたけの中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木でつらまえてやろうと、見えがくれについて来た。町をはずれると急にあしの姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいてり向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは狼狽ろうばいの気味で逃げ出そうという景色けしきだったから、おれが前へ廻って行手をふさいでしまった。
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行ってとまった」と山嵐はすぐなじりかけた。
「教頭は角屋へ泊ってるいという規則がありますか」と赤シャツは依然いぜんとして鄭寧ていねいな言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。
取締上とりしまりじょう不都合だから、蕎麦屋そばや団子屋だんごやへさえはいってはいかんと、云うくらい謹直きんちょくな人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂をにぎってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へたたきつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天ぎょうてんした者と見えて、わっと言いながら、尻持しりもちをついて、助けてくれと云った。おれは食うために玉子は買ったが、つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪かんしゃくのあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生ちくしょう、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶にたたきつけたら、野だは顔中黄色になった。
 おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠しょうこがありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨げんこつを食わした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉ろうぜきである。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりとぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだなぐってやる」とぽかんぽかんと両人ふたりでなぐったら「もうたくさんだ」と云った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これにりて以来つつしむがいい。いくら言葉たくみに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共ふたりともだまっていた。ことによると口をきくのが退儀たいぎなのかも知れない。
「おれは逃げもかくれもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査じゅんさなりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へうったえたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
 おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀わたくしぎ都合有之これあり辞職の上東京へ帰り申候もうしそろにつき左様御承知被下度候さようごしょうちくだされたくそろ以上とかいて校長あてにして郵便で出した。
 汽船は夜六時の出帆しゅっぱんである。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
 その夜おれと山嵐はこの不浄ふじょうな地をはなれた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆しゃばへ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
 きよの事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄かばんを提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったとなみだをぽたぽたと落した。おれもあまりうれしかったから、もう田舎いなかへは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋しゅうせん街鉄がいてつの技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関げんかん付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎はいえんかかって死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へめて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向こびなたの養源寺にある。
(明治三十九年四月)
 
 
 

 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「ちくま日本文学全集 夏目漱石」筑摩書房
   1992(平成4)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
※底本の注にれば、本作品の原稿には、「そのうち学校もいやになった。」の後に、漱石自身による2字あけの指定があるという。このファイルでは、その情報にもとづいて、当該の箇所を2字あけとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:真先芳秋
校正:柳沢成雄
1999年9月13日公開
2011年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。