渦巻ける烏の群
黒島伝治
.
一
「アナタア、ザンパン、頂だい。」
子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ
松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。
風に吹きつけられた雪が、
子供達は、言葉がうまく通じないなりに、松木に憐れみを求め、こびるような顔つきと態度とを五人が五人までしてみせた。
彼等が口にする「アナタア」には、露骨にこびたアクセントがあった。
「ザンパンない?」子供達は繰かえした。「……アナタア! 頂だい、頂だい!」
「あるよ。持って行け。」
松木は、
そこには、中隊で食い残した麦飯が入っていた。パンの切れが放りこまれてあった。その上から、味噌汁の残りをぶちかけてあった。
子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、互いに手をかきむしり合って、携えて来た
炊事場は、古い腐った漬物の臭いがした。それにバターと、
調理台で、
武石は、ペーチカに白樺の薪を放りこんでいた。ペーチカの中で、白樺の皮が、火にパチパチはぜった。彼も入口へやって来た。
「コーリヤ。」
松木が云った。
「何?」
コーリヤは眼が鈴のように丸くって大きく、常にくるくる動めいている、そして顔にどっか
「ガーリヤはいるかね?」
「いるよ。」
「どうしてるんだ。」
「用をしてる。」
コーリヤは、その場で、汁につかったパン切れをむしゃむしゃ頬張っていた。
ほかの子供達も、或はパンを、或は汁づけの飯を手に
「うまいかい?」
「うむ。」
「つめたいだろう。」
彼等は、残飯桶の最後の一粒まで洗面器に拾いこむと、それを脇にかかえて、家の方へ雪の丘を
「有がとう。」
「有がとう。」
「有がとう。」
子供達の外套や、
三人は、炊事場の入口からそれを見送っていた。
彼等の細くって長い脚は、強いバネのように、勢いよくぴんぴん雪を蹴って、丘を登っていた。
「ナーシヤ!」
「リーザ!」
武石と吉永とが呼んだ。
「なアに?」
丘の上から答えた。
子供達は、皆な、一時に立止まって、谷間の炊事場を見下した。
「飯をこぼすぞ。」
吉永が日本語で云った。
「なアに?」
吉永は、少女にこちらへ来るように手まねきをした。
丘の上では、彼等が、きゃあきゃあ笑ったり叫んだりした。
そして、少し行くと、それから自分の家へ分れ分れに散らばってしまった。
.
二
山が、低くなだらかに傾斜して、二つの丘に分れ、やがて、草原に連って、広く、遠くへ展開している。
兵営は、その二つの丘の峡間にあった。
丘のそこかしこ、それから、丘のふもとの草原が延びて行こうとしているあたり、そこらへんに、
彼等はいずれも食うに困っていた。彼等の畑は荒され、家畜は
板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には、
処々に、うず高く積上げられた乾草があった。
荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。
室内には、古いテーブルや、サモールがあった。
それが、日本の兵卒達に、如何にも、毛唐の臭いだと思わせた。
子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来た。ある時は娘がやって来た。
吉永は、一中隊から来ていた。松木と武石とは二中隊の兵卒だった。
三人は、パン
「お前ンとこへ遊びに行ってもいいかい?」
「どうぞ。」
「何か、いいことでもあるかい?」
「何ンにもない。……でもいらっしゃい、どうぞ。」
その言葉が、朗らかに、快活に、心から、歓迎しているように、兵卒達には感じられた。
兵卒は、殆んど
晩に、炊事場の仕事がすむと、上官に気づかれないように、一人ずつ、別々に、息を切らしながら、雪の丘を
彼等は、家庭の温かさと、情味とに飢え渇していた。西伯利亜へ来てから何年になるだろう。まだ二年ばかりだ。しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。
彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の
誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使していた者どものためだ。それは、××××なのだ。
敵のために、彼等は、只働きをしてやっているばかりだ。
吉永は、胸が腐りそうな気がした。息づまりそうだった。極刑に処せられることなしに兵営から逃出し得るならば、彼は、一分間と
丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。
扉には、隙間風が吹きこまないように、
「
屋内ではペーチカを
「今晩は。」
「どうぞ、いらっしゃい。」
朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。
「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」
娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。
彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。
が、まもなく、平気になってしまった。
のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、何を意味しているか、握手と同時に、眼をどう使うと、それはこう云っているのだ。気がすすまぬように、だらりと手を出せば、それは見込がない。等々……。握手と同時に現われる、相手の心を読むことを、彼は心得てしまった。
吉永がテーブルと椅子と、サモールとがある部屋に通されている時、武石は、鼻から蒸気を吐きながら、他の扉を叩いていた。それから、稲垣、大野、川本、坂田、みなそれぞれ二三分間おくれて、別の扉を叩くのであった。
「
そして、相手がこちらの手を握りかえす、そのかえしようと、眼に注意を集中しているのであった。
彼等のうちのある者は、相手が自分の要求するあるものを与えてくれる、とその眼つきから読んだ。そして胸を湧き立たせた。
「よし、今日は、ひとつ手にキスしてやろう。」
一人の女に、二人がぶつかることがあった。三人がぶつかることもあった。そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。
「ソペールニクかな。」
「ソペールニクって何だい?」
「ソペールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」
.
三
松木も丘をよじ登って行く一人だった。
彼は笑ってすませるような競争者がなかった。
彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともなかった。
三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、
「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり雪の上にへたばりそうだった。「あほらしい。」
丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は
「ガーリヤ!」
彼は、指先で、
「ガーリヤ!」
そして、また、硝子を叩いた。
「何?」
女が硝子窓の向うから顔を見せた。唇の間に白い歯がのぞいている。それがひどく
「這入ってもいい?」
「それ何?」
「パンだ。あげるよ。」
女は、新聞紙に包んだものを窓から受取ると、すぐ硝子戸を閉めた。
「おい、もっと開けといてくれんか。」
「……
彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子供のような笑窪が出来た。彼女は悪い女ではなかった。だが、自分に出来ることをして金を取らねばならなかった。親も、弟も食うことに困っているのだ。子供を持っている姉は、夫に吸わせる煙草を貰いに来た。
松木は、パンを持って来た。砂糖を持って来た。それから、五円六十銭の俸給で何かを買って持って来た。
でも、彼女の一家の生活を支えるには、あまりに金を持っていなすぎる。もっとよけいに俸給を取っている者が望ましい。
肉に
松木の八十五倍以上の俸給を取っているえらい人もやはり
「私、用があるの。すみません、明日来てくださらない。」
ガーリヤは云った。
「いつでも明日来いだ。で、明日来りゃ、明後日だ。」
「いえ、ほんとに明日、――明日待ってます。」
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四
雪は深くなって来た。
炊事場へザンパンを貰いに来る者たちが踏み固めた道は、新しい雪に
雪は、その上へまた降り積った。
丘の家々は、石のように雪の下に埋れていた。
彼方の山からは、始終、パルチザンがこちらの村を
狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼等は群をなして、わめきながら、行くさきにあるものは何でも喰い殺さずにはおかないような勢いでやって来た。歩哨は、それに会うと、ふるえ上らずにはいられなかった。こちらは銃を持っているとは云え、二人だけしかいないのだ。
薄ら曇りの日がつづいた。昼は短く、夜は長かった。太陽は、一度もにこにこした顔を見せなかった。松木は、これで二度目の冬を西伯利亜で過しているのであった。彼は疲れて
ガーリヤは、人眼をしのぶようにして炊事場へやって来た。古いが、もとは相当にものが良かったらしい
「お前は、人をよせつけないから、ザンパンが有ったってやらないよ。」
「あら、そう。」
彼女は響きのいい、すき通るような声を出した。
「そうだとも、あたりまえだ。」
「じゃいい。」
黒く磨かれた、
「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」
松木はうしろから叫んだ。
「いいえ、いらないわ。」
彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。
「ガーリヤ! 待て! 待て!」
彼は
炊事場の入口へ同年兵が出てきて、それを見て笑っていた。
松木は息を切らし切らし女に追いつくと、空の洗面器の中へ乾麺麭の袋を放り込んだ。
「さあ、これをやるよ。」
ガーリヤは立止まって彼を見た。そして真白い歯を
帰りかけて、うしろへ振り向くと、ガーリヤは、雪の道を
「おい、いいかげんにしろ。」炊事場の入口から、武石が叫んだ。「あんまりじゃれつきよると競争に行くぞ!」
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五
吉永の中隊は、大隊から分れて、イイシへ守備に行くことになった。
HとSとの間に、かなり
だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。
電線は切断されづめだった。
HとSとの連絡は始終断たれていた。
そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。
イイシへ守備中隊を出すのは、そこの連絡を十分にするがためであった。
吉永は、松木の寝台の上で私物を
彼は、これまでに、しばしば危険に身を
弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。
彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を
彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。
どこからともなく、誰れかに射撃されたのだ。
二人が立っていたのは山際だった。
交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。
夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。
坂本は、
「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。
「内地に居りゃ、今頃、野良から
「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」
「うむ。」
「ああ、芋が食いたいなあ!」
そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。
吉永は、とび上った。
も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと
「おい、坂本! おい!」
彼は呼んでみた。
軍服が、どす黒い血に染った。
坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。
内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。
機関車は薪を
彼等は四百里ほど奥へ乗りこんで行った。時々列車からおりて、鉄砲で打ち合いをやった。そして、また列車にかえって、飯を焚いた。薪が
そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ
雪解の沼のような
吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでいるかもしれないのだ。
これからだって、どうなることか、分るものか! 分るものか! 俺が一人死ぬことは、誰れも
彼は、お母がこしらえてくれた守り袋を肌につけていた。新しい白木綿で縫った、かなり大きい袋だった。それが、
「おい、おい。お守りの中から金が出てきたが。」
吉永は嬉しそうに云った。
「何だ。」
「お守りの中から金が出てきたんだ。」
「ほんとかい。」
「嘘を云ったりするもんか。」
「ほう、そいつぁ、
松木と武石とが調理台の方から
札も、汗と垢とで黒くなっていた。
「どれどれ、内地の札だな。」松木と武石とはなつかしそうに、それを手に取って見た。「内地の札を見るんは久しぶりだぞ。」
「お母が多分内所で入れてくれたんだ。」
「それをまた今まで知らなかったとは間がぬけとるな。……全く儲けもんだ。」
「うむ、儲けた。……半分わけてやろう。」
吉永は、自分が少くとも、明後日は、イイシへ行かなければならないことを思った。雪の谷や、山を通らなければならない。そこにはパルチザンがいる。また撃ち合いだ。生命がどうなるか。誰れが知るもんか! 誰れが知るもんか!
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六
松木は、酒保から、
晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固く
彼は歩きながら云ってみた。
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「あんたは、なんて生々しているんだろう。」
さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。
丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。
「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。
「今晩は、――ガーリヤ!」
――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。
「ガーリヤ。」
砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒
「ガーリヤ!」
彼は、上に向いて云った。星が切れるように冴えかえっていた。
「おい、こらッ!」
さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。
松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。
彼は、
「また、やって来たな。」武石は笑った。
「君かい。おどかすなよ。」
松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」
「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落して窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ。」
「誰れだ?」
「分らん。」
「下士か、将校か?」
「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」
「
「――中に這入って見てやろう。」
「よせ、よせ、……帰ろう。」
松木は、若し将校にでも見つかると困る、――そんなことを思った。
「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」
武石は
「ガーリヤ、ガーリヤ、
次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。
「ガーリヤ!」
「何だい。」
ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。
「ガーリヤは?」
「用をしてる。」
「一寸来いって。」
「何です? それ。」
コーリヤは、松木の新聞包を見てたずねた。
「こら酒だ。」松木が答えないさきに、武石が脚もとから正宗の四合
武石は、包みの新聞紙を引きはぎ、硝子戸の外から、罎をコーリヤの眼のさきへつき出した。松木は、その手つきがものなれているなと思った。
「
でも、その手つきにいつものような力がなく、途中で腰を折られたように
武石も、物を持って来て、やっているんだな、と松木は思った。じゃ、自分もやることは恥かしくない訳だ。彼はコーリヤが遠慮するとなおやりたくなった。
「さ、これもやるよ。」彼は、パイナップルの
コーリヤはもじもじしていた。
「さ、やるよ。」
「有がとう。」
顔にどっか剣のある、それで一寸沈んだ少年が、武石には、面白そうな奴だと思われた。
「もっとやろうか。」
少年は呉れるものは欲しいのだが、貰っては悪いというように、遠慮していた。
「煙草と砂糖。」松木は、窓口へさし上げた。
「有がとう。」
コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、
「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。
「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」
「這入りこんで現場を見届けてやろう。」
二人は耳をすました。二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉が
「分るか。」
「いや、サモールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」
コーリヤが
「いけない! いけない!」叱るように、かすれた幅のある声を出した。
武石は、突然、その懸命な声に、自分が悪いことをしているような感じを抱かせられ、窓から
コーリヤは、窓の方へ来かけて、途中、ふとあとかえりをして、扉をぴしゃっと閉めた。暫らく二人は窓の下に
丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。
「お休み。」
一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながら交す、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。
不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気がした。
「ばあ!」彼女は、
玄関から這入ると、松木は、食堂や、寝室や、それから、も一つの仕事部屋をのぞきこんだ。
「誰れが来ていたんです?」
「
「何?」二人とも言葉を知らなかった。
「マイヨールです。」
「何だろう。マイヨールって。」松木と武石とは顔を見合わした。「
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七
少佐は、松木にとって、笑ってすませる競争者ではなかった。
二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、
彼は、屈辱(!)と
つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。
そこには、二人の一等卒が、正宗の四合
彼は、
が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、
「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」
営門で
衛兵司令は、大隊長が
「副官!」
彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。
「副官!」
副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、
「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」
「はい。」
「それから、炊事場へ
「はい。」
「よし、それだけだ。」
副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。
「副官!」
「はい。」
「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ、罰としてここには置かない。そうするんだ。――すぐだ、速刻やってくれ!」
.
八
一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。
雪は、時々、彼等の
草原も、道も、河も
枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。
彼等は、早朝から雪の
どちらへ行けばイイシに達しられるか!
右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が
彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何にも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りに利かなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。
中隊長は、不満げに、彼を
松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、
「どうしたんだ?」
中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。
「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」
「露助は、どうしてるんだ。」
「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。」
「仕様がない奴だ。大きな河があって、河の向うに、
「はい。」
「露助にやかましく云って案内さして見ろ!」
中隊長は歩きながら、腹立たしげに、がみがみ云った。「場合によっては銃剣をさしつけてもかまわん。あいつが、パルチザンと策応して、わざと道を迷わしとるのかもしれん。それをよく監視せにゃいかんぞ!」
「はい。」
松木は、
彼は蒼くなって居た。身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。
だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。
「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」
ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が
「おい、松木!」中隊長は呼び止めた。「道を探すだけでなしに、パルチザンがいやしないか、家があるか、鉄道が見えるか、よく気をつけてやるんだぞ。」
「はい。」
斥候は、やがて、丘を登って、それから向うの谷かげに消えてしまった。そこには武石と、道案内のスメターニンとが彼を待っていた。
松木と武石とは、朝、本隊を出発して以来つづけて斥候に出されているのであった。
中隊長は、不機嫌に、二人に怒声をあびせかけた。
「中隊がイイシ守備に行かなけりゃならんのは誰れのためだと思うんだ! お前等、二人が
そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。
松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、
雪の上に腰を落して休んでいた武石は、
「まだ交代さしてくれんのか。」ときいた。
「ああ。」松木の声にも元気がなかった。
「弱ったなア――俺れゃ、もうそこで
武石は泣き出しそうに吐息をついた。
二人は、スメターニンと共に、また歩きだした。丘を下ると、浅い谷があった。それから、緩慢な登りになっていた。それを行くと、左手には、けわしい山があった。右には、雪の
山へ登ってみよう、とスメターニンが云いだした。山から見下せば地理がはっきり分るかもしれなかった。それには、しかし、中隊が
山のひだは、一層、雪が深かった。松木と武石とは、銃を杖にしてよじ登った。そこには熊の
山は頂上で、次の山に連っていた。そしてそれから、また次の山が、丁度、
遠く彼方の地平線まで白い雪ばかりだ。スメターニンはやはり見当がつかなかった。
中隊は、丘の上を蟻のように遅々としてやって来ていた。それは、広い、はてしのない雪の曠野で、実に、二三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。
「どっちへでもいい、ええかげんで連れてって呉れよ。」二人はやけになった。
「あんまり追いたてるから、なお分らなくなっちまったんだ。」
スメターニンは、毛皮の帽子をぬいで額の汗を拭いた。
.
九
薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。
どちらへ行けばいいのか!
疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。
疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去ってしまうものだ。
一個中隊すべての者が雪の中で凍死する、そんなことがあるものだろうか? あってもいいものだろうか?
少佐の性慾の××になったのだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。
何故、シベリアへ来なければならなかったか。それは、だれによこされたのか? そういうことは、勿論、雲の上にかくれて彼等、には分らなかった。
われわれは、シベリアへ来たくなかったのだ。むりやりに来させられたのだ。――それすら、彼等は、今、殆んど忘れかけていた。
彼等の思っていることは、死にたくない。どうにかして雪の中から逃がれて、生きていたい。ただそればかりであった。
雪の中へ来なければならなくせしめたものは、松木と武石とだ。
そして、道を踏み迷わせたのも松木と武石とだ。――彼等は、そんな風に思っていた。それより上に、彼等に魔の手が強く働いていることは、兵士達には分らなかった。
彼等が、いくらあせっても、行くさきにあるものは雪ばかりだった。彼等の四肢は
だが、どこまで行っても雪ばかりだ。……
最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。
松木は、意識がぼっとして来たのは、まだ知っていた。だが、まもなく頭がくらくらして前後が分らなくなった。そして眠るように、意識は失われてしまった。
彼の四肢は凍った。そして、やがて、身体全体が固く棒のように硬ばって動かなくなった。
……雪が降った。
白い
雪は、なお、降りつづいた。……
.
一〇
春が来た。
太陽が雲間からにこにこかがやきだした。枯木にかかっていた雪はいつのまにか落ちてしまった。雀の群が
鉄橋を渡って行く軍用列車の
積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたてて
吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた。
松木と武石との中隊が、
一週間探した。しかし、行衛は依然として分らなかった。少佐は、もうそのことは、全然忘れてしまっているようだった。彼は、本部の二階からガーリヤの家の方を眺めて、口笛で、「赤い夕日」を吹いたりした。
春が来た。だが、あの一個中隊が、どこでどうして消えてしまったのか、今だにあとかたも分らなかった。
吉永は、丘の上の兵営から、まだ、すっかり雪の解けきらない広漠たる曠野を見渡しながら、自分がよくも今まで生きてこられたものだ、とひそかに考えていた。あの時、自分達の中隊が、さきに分遣されることになっていたのだ。それがどうしたのか、出発の前日に変更されてしまった。彼の中隊が、
徒歩で深い雪の中へ行けば、それは、死に行くようなものだ。
彼等をシベリアへよこした者は、彼等が、×××
丘の左側には汽車が通っていた。
河があった。そこには、まだ氷が張っていた。牛が、ほがほがその上を歩いていた。
右側には、はてしない曠野があった。
枯木が立っていた。解けかけた雪があった。黒い烏の群が、空中に渦巻いていた。
烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を
その群は、昨日も集っていた。
そして、今日もいる。
三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。
或る日、村の警衛に出ていた兵士は、
「おい、待て! それゃ、どっから、かっぱらって来たんだ?」
「あっちだよ。」
「あっちに落ちとったんだ。」
「うそ云え!」
「あっちだ。あっちの雪の中に沢山落ちとるんだ。……兵タイも沢山死んどるだ。」
「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」
日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語った。
翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、
兵士達が行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。
そこには、半ば
雪は半ば解けかけていた。水が靴にしみ通ってきた。
やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。
兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。
烏は、また、鳴き叫びながら、空に
烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。
底本:「昭和文学全集 第32巻」小学館
1989(平成元)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「黒島伝治全集 第1巻」筑摩書房
1970(昭和45)年4月発行
入力:大野裕
校正:Juki
2000年3月22日公開
2013年10月1日修正
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