夏目漱石 吾輩は猫である(九章 終盤のみ)

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夏目漱石 吾輩は猫である(九章 終盤のみ)

 
(承前)
 
 
「何だ?」
「吉原だよ」
「あの遊廓のある吉原か?」
「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と迷亭君またからかいかける。
主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡しゅんじゅんていであったが、たちまち思い返して「吉原だろうが、遊廓だろうが、いったん行くと云った以上はきっと行く」と入らざるところに力味りきんで見せた。愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
迷亭君は「まあ面白かろう、見て来たまえ」と云ったのみである。一波瀾ひとはらんを生じた刑事事件はこれで一先ひとま落着らくちゃくを告げた。迷亭はそれから相変らず駄弁をろうして日暮れ方、あまり遅くなると伯父におこられると云って帰って行った。
迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた主人は再び拱手きょうしゅしてしものように考え始めた。
「自分が感服して、おおいに見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、迷亭の云う通り多少瘋癲的ふうてんてき系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎れっきとした二人の気狂きちがいの子分を有している。はなはだ危険である。滅多めったに近寄ると同系統内にり込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事てんどうこうへいこと実名じつみょう立町老梅たちまちろうばいは純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。迷亭の記述が棒大のざれ言にもせよ、彼が瘋癲院ふうてんいん中に盛名をほしいままにして天道の主宰をもってみずから任ずるは恐らく事実であろう。こう云う自分もことによると少々ござっているかも知れない。同気相求め、同類相集まると云うから、気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化ちゅうかせられんでも軒をならべて狂人と隣り合せにきょぼくするとすれば、境の壁を一重打ち抜いていつのにか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見るとこのほどじゅうから自分の脳の作用は我ながら驚くくらい奇上きじょうみょうを点じ変傍へんぼうちんを添えている。脳漿一勺のうしょういっせきの化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞と化するあたりには不思議にも中庸を失した点が多い。舌上ぜつじょう竜泉りゅうせんなく、腋下えきか清風せいふうしょうぜざるも、歯根しこん狂臭きょうしゅうあり、筋頭きんとう瘋味ふうみあるをいかんせん。いよいよ大変だ。ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん。まださいわいに人をきずつけたり、世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと云う段じゃない。まず脈搏みゃくはくからして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。」
「こう自分と気狂きちがいばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてそのそばへ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝から晩まで弁当持参でたまばかり磨いている。これも棒組ぼうぐみだ。第三にと……迷亭? あれはふざけ廻るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性こんじょうは全く常識をはずれている。純然たる気じるしにきまってる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸った事はないが、まずあの細君をうやうやしくおっ立てて、琴瑟きんしつ調和しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支さしつかえあるまい。非凡は気狂の異名いみょうであるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から云うとまだ芽生えだが、躁狂そうきょうの点においては一世をむなしゅうするに足る天晴あっぱれごうのものである。こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外心丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合してしのぎけずってつかみ合い、いがみ合い、ののしり合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のようにくずれたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理窟りくつがわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院ふうてんいんというものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用らんようして多くの小気狂しょうきちがい使役しえきして乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」
以上は主人が当夜煢々けいけいたる孤灯のもとで沈思熟慮した時の心的作用をありのままにえがき出したものである。彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼルに似た八字髯はちじひげたくわうるにもかかわらず狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの凡倉ぼんくらである。のみならず彼はせっかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の茫漠ぼうばくとして、彼の鼻孔から迸出ほうしゅつする朝日の煙のごとく、捕捉ほそくしがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。
吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間のひざの上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣けごろもをそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭をで廻しながら、突然この猫の皮をいでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見りょうけんをむらむらと起したのを即座に気取けどって覚えずひやっとした事さえある。こわい事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合わけあいさいわいにも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩のおおいに栄誉とするところである。ただし主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。向後こうごもし主人が気狂きちがいについて考える事があるとすれば、もう一ぺん出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路けいろを取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条なんじょうの径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。

(つづく)