ファウスト手に一束の鍵とランプとを持ちて鉄の扉の前に立ちゐる。
ファウスト
もう久しく忘れていた
人間の一切の苦痛を己は身に覚える。
この湿った壁の奥にあれが住まっているのだ。
なんの悪気もない迷で犯した罪だのに。
貴様、這入って行くのをたゆたっているな。
あの娘にまた逢うのをこわがっているな。
遣れ。貴様の躊躇は女の死を促す躊躇だ。
(ファウスト
声(内にて歌ふ。)
あはれ、我身を殺しゝは
うかれ
あはれ、我身を
をそ
冷やかなる
小さき
我骨を埋めつ。
羽美しき森の小鳥とわれなりぬ。
われは飛ぶ、われは飛ぶ。
ファウスト(鎖鑰を開きつゝ。)
歌うのを、鎖の鳴るのを、
恋人が聞いているとは、夢にも知らんのだ。
(進み入る。)
マルガレエテ(床の中に隠れむとしつゝ。)
どうしよう。どうしよう。来るわ。いじめ殺しに。
ファウスト(小声にて。)
黙っておいで。黙っておいで。来たのは己だ。お前を助けに。
マルガレエテ
(ファウストの前にまろがり寄る。)
お前さんも人間なら、どうぞ難儀を察して下さい。
ファウスト
そんなに大声をしては、番人が目を醒ますじゃないか。
(女の鎖鑰を開かんとす。)
マルガレエテ(
まあ、首斬役のあなたが、わたくしを
自由になさるようには、誰がいたしましたか。
まだ夜なかなのに、もう連れにおいでなさる。
どうぞ堪忍して、生かして置いて下さいまし。
あすの朝だって遅くはないではございませんか。
(立ち上がる。)
わたくしはまだこんなに、こんなに若いじゃありませんか。
それにもう死ななくてはならないのですか。
これで美しゅうもございました。それが悪うございました。
青葉の飾は破られて、花はむしられてしまいました。
そんなに荒々しくお
御免なさい。あなたに何もいたした
これまで一度もお目に掛かったことがないじゃありませんか。
どうぞこのお願をお
ファウスト
ああ。この悲惨な有様を見てこらえられようか。
マルガレエテ
もうわたくしはあなたの思召次第になっています。
どうぞ赤さんにお乳を飲ませる間お
わたくしは夜どおし可哀がって遣っていましたの。
それを人が取ってわたくしをせつながらせようと思って、
わたくしが殺したのなんのと申します。
わたくしはもう面白い心持になることは出来ません。
わたくしの事を歌に歌うのですもの。意地の悪いこと。
あるお伽話のしまいがこうなったのでございます。
誰がそれをあの人達に
ファウスト(身を倒す。)
おい。お前をこのみじめな
救おうと思って、恋人がここに伏しているのだぞ。
マルガレエテ(共に身を倒す。)
どうぞ一しょに聖者様方を拝んで下さいまし。
御覧なさい。この踏段の下には、
この敷居の下には
地獄の火が燃えています。
悪魔が
おそろしくおこって、
ひどい音をさせています。
ファウスト(声高く。)
グレエトヘン。グレエトヘン。
マルガレエテ(注意して聞く。)
おや。あれはあの
(跳り上がる。鎖落つ。)
どこにいらっしゃるだろう。お
わたしは
あの方のお頸に飛び附いて、
あの方のお胸に抱かれたい。
お
どうどうがたがたと地獄の音がしている中から、
腹立たしげな悪魔の
あのいとしい、お優しいお声が聞えたわ。
ファウスト
己だよ。
マルガレエテ
あなたなの。どうぞもう一遍仰ゃって。
あなただわ。あなただわ。苦労はみんなどこへ行っただろ。
牢屋の苦艱は。あの鎖は。
あなただわ。助けに来て下すったのだわ。
わたしはもう助かった。
あれ。あなたに始てお目に掛かった、
あの町がもうそこに見えます。
マルテさんとわたしとでお
晴やかな庭もそこに見えます。
ファウスト(伴ひ去らんとして。)
さあ、一しょに来い、来い。
マルガレエテ
まあ、お
わたくしあなたのいらっしゃる所にいたいのですもの。
(あまえゐる。)
ファウスト
早くしなくては。
手間取ると、どんなに悔やんでも
及ばないことになるのだ。
マルガレエテ
まあ。もうキスをすることもお
あなたほんのちょっとの間別れていらっしゃって、
もうキスをすることもお
こうしてあなたに
何か仰ゃって、わたくしを御覧なすって、
息の詰まる程キスをして下さると、
キスをして下さいよう。
なさらなけりゃ、わたくしがいたしますわ。
(抱き附く。)
あら。あなたのお口のつめたいこと。
それに黙っていらっしゃるのね。
お
しまいましたの。
わたし誰に取られてしまったのだろ。
(背を向く。)
ファウスト
おいで。おれに附いておいで。しっかりしてくれなくちゃ。
跡でどんなにでも可哀がって遣る。
どうぞ附いて来てくれ。これだけがお願だ。
マルガレエテ(
本当にあなたなの。きっとでしょうか。
ファウスト
己だよ。おいで。
マルガレエテ
あなた鎖を解いて下すって、
またわたくしをお
なぜ気味が悪くは思召さないのでしょう。
一体どんな女を助けて下さるのだか、あなた、御存じ。
ファウスト
おいで。おいで。もう夜が明け掛かって来る。
マルガレエテ
わたくし
赤さんを水の中へ投げ込みましたの。
あれはわたくしとあなたとの赤さんじゃありませんか。
あなたも親だわ。本当にあなたなの。本当かしら。
お手に攫まらせて頂戴な。夢じゃないわ。
可哀らしいお手。でもつめたいこと。
お
血が附いているようだわ。
まあ、飛んだ事をなすったのね。
どうぞその抜身を
おしまいなすって。
ファウスト
もう昔の事は置いてくれ。
己は死んででもしまいそうだ。
マルガレエテ
いいえ。あなたは生きていて下さらなくちゃ困るわ。
わたくしお墓を立てる所をそう申して置きましょうね。
あしたすぐ
行って見て下さいましな。
兄いさんのを傍へ引っ附けて立てて、
それからわたくしのを少し離して。
あんまり遠くになすってはいやよ。
それからわたくしの右の胸の
その外の人は傍へ寄せないで下さいまし。
わたくしあなたのお傍に寄るのが、
本当に嬉しい、楽しい事でございましたの。
それが、なぜだか、もう出来ませんわ。
なんだか無理にお傍へ寄ろうとするようで、
なんだかあなたがお
でもやっぱりあなたなのね。好い、優しい目をなすって。
ファウスト
己だと云うことが分かったなら、さあ、おいで。
マルガレエテ
あちらへ。
ファウスト
外へ出るのだ。
マルガレエテ
外にお墓がございまして、
死が待っていますのなら、参りましょう。
わたくしここからすぐお墓へまいりますの。
それから
なさいますの。わたくし御一しょに参りたくて。
ファウスト
来られるのだ。来れば好い。戸はあいている。
マルガレエテ
わたくし参られませんの。どうせ駄目でございますから。
逃げてどうなりましょう。
乞食になります程みじめな事はございません。
それに良心の呵責を受けていますのですもの。
知らない国をさまよい歩くのはいやでございますし。
それにすぐ攫まってしまいますわ。
ファウスト
己が附いていて遣るのだ。
マルガレエテ
あ。お早くなすって。お早くなすって。
あなたの赤さんですから、お
あちらです。この道を
どこまでも川に附いて上手へ、
あの狭い道をおぬけになって、
森の中へお
あの左側の
池の中でございます。
どうぞすぐお攫まえなすって。
浮き上がろうといたして
まだ手や足を動かしています。
お
ファウスト
おい。気分をはっきりさせてくれないか。
つい一足出れば助かるのだ。
マルガレエテ
ほんにこの山を早く越してしまいましょうね。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃるわ。
わたくし髪の根元を締め附けられるようですの。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃって、
頭をぶらぶら振っていらっしゃるわ。
手真似も、合点合点もなさらないわ。お
お重いのだわ。長くお
わたくし共が楽むようにお休になったのだったわ。
あの頃の面白かったこと。
ファウスト
いくら言って聞せて、頼んでも駄目なら、
己はお前を抱えて出よう。
マルガレエテ
お
そんなにひどくお
外の事はなんだって仰ゃる通にしたじゃありませんか。
ファウスト
夜が明けて来た。おい。おい。
マルガレエテ
夜が明けましたって。そうですね。わたくしの
最期の日ですわ。婚礼をいたす日ですわ。
泊ったことがあるなんぞと、誰にも言わないで下さいまし。
青葉の飾が破れましたわ。
もう出来たことはいたしかたがございません。
またどこかでお目に掛かりましょうね。
踊場でないところでね。
今人が寄って来ますが、聞えないのですわ。
這入り切りませんのね。
鐘を撞いてしまった。杖を折ってしまった。
わたくしを攫まえて縛りましたわ。
もう
今の刀の刃がどの人の
わたくしの項にも打ち卸されて来ますわ。
そこいら中が墓の中のように静かになりましたこと。
ファウスト
ああ。己は生れて来なければ好かった。
メフィストフェレス戸の外に現る。
メフィストフェレス
おいでなさい。おいでなさらないと駄目です。
ぐずぐずしていたってなんにもなりません。余計な
話なんかしていて、馬が身慄をしています。
もう夜が明けそうだから。
マルガレエテ
あのそこへ
あれだ。あれだ。どうぞあれをいなせて下さいまし。
この
わたくしを連れに。
ファウスト
お前の命を助けに。
マルガレエテ
いいえ。いいえ。わたくしは神様の御裁判に任せます。
メフィストフェレス(ファウストに。)
おいでなさい。おいでなさい。女と一しょに置いて行きますぜ。
マルガレエテ
お
どうぞわたくしを取り巻いて、護っていますように。
ハインリヒさん。わたくしあなたがこわくてよ。
メフィストフェレス
あれが
声(
メフィストフェレス(ファウストに。)
早くこっちへ。
(ファウストと共に退場。)
声
(内より、遠く消え去らんとする如く聞ゆ。)
ハインリヒさん。ハインリヒさん。