ゲーテ ファウスト

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遊苑

 

朝日。

帝と殿上人等とあり。ファウスト、メフィストフェレス上品にして目立たざる時様じようの粧をなし、二人皆ひざまずけり。

    ファウスト
そんならあの率爾そつじな火の戯を御勘弁下さいますか。 
 
    帝

(二人をさしまねいて起立せしむ。)

ああ云う笑談は己は大好だいすきだ。
突然※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)かえんの真ん中にいるようになったから、
己は地獄の神のプルトンにでもなったかと思った。
 
見れば暗黒と煤炭との中に、岩で出来た底が
現れていて、そこに火※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)が燃えていた。数千の
猛火はかしこ、ここの裂目から渦巻き上がって、
上の方で円天井のような形に出合っていた。
閃く火の舌で作られている、その絶頂は
 
合って閉じるかと思えば、また離れて開いていた。
よじれた柱の並んで立っている広間の中を、
人民が長い列を作って歩くのが見えた。
それが大きいをかいて、己に近づいて来て、
いつもの様に己を敬ってくれた。
 
中には己の宮中のものも幾人か交っていた。
己は数千の「火の霊」の君主のようであった。 
 
    メフィストフェレス
畏れながらあなたが実際そうでいらっしゃいます。
なぜと云うに四大ことごとく御威厳を認めていますから。
それで服従している火だけはお験になりましたが、
 
今荒れられるだけ荒れている海に飛び込んで
御覧なさい。真珠の多い水底をおふみになるや否や、
たちまち水が涌き立って、御身を中心にして、美しい
さかいが開ける。のぼってはくだる、紫のふちを取った、
明るい緑の波が、自然にふくらんで、立派な
 
御殿になる。どちらへ向いておあるきになっても
その御殿は一足毎に附いて行く。
壁は皆活動している。矢を射るように早く、
入り乱れて動く。寄せたり返したりする。
新しい、優しい光を慕って、驚くべき海の化物が
 
寄って来て、っ附かるが、這入ることは出来ない。
きんの鱗の竜が波を彩って遊んでいる。
鮫のいた※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとを覗いてあなたはおわらいなさる。
今でもお側にいる御殿のものは楽しく暮らして
いましょうが、海の底の人気は未曾有です。
 
それでいて、一番おすきなものに離れては
おいでなさらない。とわに爽かな、立派な御殿を、
物数奇なネレウスの娘どもが覗きに来る。
若いのはこわごわそっと来る。年上のは
横着に出掛ける。大姉おおあねえのテチスが嗅ぎ附ける。
 
あなたを二代目のペレウスにして抱き着いて
キスをする。それからオリンポス領の御座に。 
 
    帝
そんな虚空な領分はお前に任せて置く。
その玉座にはいやでも早くかれるのだ。 
 
    メフィストフェレス
それからつちはもう占めておいでになります。
  
 
    帝
千一夜の物語から、すぐに抜け出したような
お前がここに来たのは、実に為合しあわせだ。
あの宰相の娘のシェヘラツァデのように
お前も才に富んでいるなら、最上の褒美を遣ろう。
随分この現実世界は己の気に入らぬことが
 
度々あるから、お前は己の召すのを待っていろ。 
 
    中務卿(急ぎて登場。)
わたくしのしんから嬉しく思いまする、
このお知らせのような、最上の幸福と申すべき
お知らせを、御前で喜んで奏聞いたすことが
わたくしの生涯にあろうとは存じませんでした。
 
借財は皆片附けました。
爪の鋭い高利貸どもも黙らせました。
わたくしは地獄の苦を免れました。天にのぼっても
こんな好い気持の事はありますまい。 
 
    兵部卿(続きて急ぎ登場。)
給料を割払にいたして遣しまして、
 
全軍に新規に契約をいたさせました。
槍兵どもは新しい血がめぐるような気になって、
酒保や女子おなごどもまで福々でございます。 
 
    帝
お前方、らくに胸をけて息をしているな。
皺の寄った顔まではればれしているな。
 
それにひどくいそがしそうに出て来おる。 
 
    大府卿(あたかもこの時登場しつゝ。)
どうぞこの為事しごとをした、そこの二人におたずね下さい。 
 
    ファウスト
いや。それは尚書様から奏聞なさるがい。 
 
    尚書(緩かに歩み近づく。)
長生をいたした甲斐に、嬉しい目に逢いました。
そんなら、あらゆる苦艱を歓楽に変えた、
 
この大切な文書もんじょをおきき下さい、御覧下さい。

(朗読。)

「凡そ知らむことを願うものには、悉く知らしめよ。
この一枚の紙幣は千クロオネンに通用す。
帝国領内に埋もれたる無量の宝を
これが担保となす。その宝は
 
直ちに発掘して、兌換の用に供すべき
準備整えり。」 
 
    帝
不届な、しからん詐欺をしたものがあるらしい。
ここにある己の親署は誰が贋せた。
こんな罪を犯したものが刑罰を免れたのか。
  
 
    大府卿
それはあなたのお筆でございます。おおぼえ
あるはずです。つい昨晩でした。パンの神になって
いらっしゃる所へ、尚書がわたくし共と
一しょに参って、「この祭のお祝に、万民の
幸福になる件に、一筆お染下さるように」と
 
申すと、おかきなされたので、その夜の中に
奇術を心得たものに申し附けて、
御慈愛が国中に行き渡るように、
わたくしどもが千万枚紙幣を刷らせました。
十、三十、五十、百クロオネンが別々に出来ました。
 
人民の喜はどんなだか、御想像が出来ますまい。
あの半死半生で、黴の生えたようであった
都を御覧なさい。皆生き上がって、楽んで
上を下へといたしています。これまでも世に
幸福をおあたえになったお名ですが、人がこん度程
 
喜んでお名を見たことはありません。人が皆
助かる、このお名の外の文字もじは不用になりました。 
 
    帝
そして人民は金貨のかわりに受け取るのか。
宮中や軍隊の給料の全額払が出来るのか。
そうだと、奇怪だと思うが、認めずばなるまい。
  
 
    大府卿
受け取って走って行ったものを、支えることは
所詮出来ません。稲妻のように駆け散りました。
銀行の門口は為切しきりがしてけてある。
無論手数料は取るが、一枚一枚
金銀貨と引き換えて遣っている。
 
それを受け取って肉屋、パン屋、酒屋へ行く。
なんでも世間の人間が半分は食奢、半分は
着奢に浮身をやつしているらしい。
商人は反物を切っている。為立したて屋は縫っている。
「帝王万歳」を唱えては、どこの穴蔵も景気好く、
 
たり、焼いたり、皿をちゃらちゃら云わせています。 
 
    メフィストフェレス
誰でも公園の階段あたりを散歩すると、
別品が立派にめかして、人を馬鹿にしたような
孔雀の羽で、片々の目が隠れるようにして
通るのを見るでしょう。それがわたくし共に笑顔を
 
見せて、札に横目を使います。才智や弁説で
口説くより、早くい目が見られます。
もう誰も財布や蝦蟇口がまぐちを邪魔がるには
及ばない。札一枚なら楽に懐中に入れられる。
色文と一しょに持つにも便利だ。
 
坊主は難有ありがたそうにの本に挟んで持つ。
兵隊は「廻れ右」が早く出来るように、
胴巻を軽くする。あなたのなすった
大事業が、下々の小さい所へどう響くかと
云う話が、下卑て来まして済みません。
  
 
    ファウスト
お国中で地の底深く動かずに、待っている
宝の有り余る数々は、用に立たずに
寝ています。どんな大きい計画も、
そう云う宝のためには、けちらちになる。
空想を馳せられるだけ馳せさせて、
 
努力を尽しても、至らぬ勝である。
しかし深く物を察することの出来る達人は、
無際限なるものに無限に信を置きます。 
 
    メフィストフェレス
金銀珠玉のかわりになる、こう云う紙幣は
便利です。値を附けたり、両換したりせずに、
 
持っているだけの物が分かる。酒と色とに
浮かれたいだけ浮かれられる。そして硬貨が
欲しくなれば、両換屋が待っている。
そこになくなれば、ちょいとの掘る。
出て来た杯や鎖を競売にして、
 
すぐに紙幣を償却する。そして厚かましく
悪口を言う、疑深い奴に恥を掻かせて遣る。
馴れてしまえば人は外の物を欲しがりはしない。
そうなれば、御領分の国々に
宝も、金銀も、札も有り余って来ます。
  
 
    帝
いや。己の国はお蔭で大した福利を得た。
出来る事なら、功に譲らぬ賞が遣りたい。
領内の地の底はお前方に任せて置く。
お前方は宝の立派な番人だ。宝のかくしてある
広い場所を知っていることだから、
 
掘る時はお前方の指図で掘らせる。
宝のかしらになっている二人が協力して、
下の世界が上の世界と、相呼応して
福利を致すような位置に立っている
この場合の役目を、楽んで勤めてくれい。
  
 
    大府卿
この人達とわたくしは少しも喧嘩はしますまい。
魔法使を同役にするのは大好だいすきでございます。

(ファウストと共に退場。)

    帝
そこで御殿にいるものに、一人々々札を遣るが、
それをなんに使うか言って見い。 
 
    舎人(金を受く。)
面白く、可笑おかしく、のん気になって暮らします。
  
 
    他の舎人(同上。)
すぐに女に鎖と指環を買って遣ります。 
 
    侍従(金を受く。)
これまでよりも倍旨い酒を買って飲みましょう。 
 
    他の侍従(同上。)
もうかくしの中のさいの目がわたくしの手をむずむずさせます。 
 
    旗手(沈重に。)
質に入れた邸や田畑を受け出します。 
 
    他の旗手(同上。)
これまでの貯蓄の中へ、これもやはり入れて置きます。
  
 
    帝
己は愉快に、大胆に新しい事でもするかと思った。
しかしお前達の人柄を知っていれば、大抵分かる。
それで己も分かったが、幾ら宝がさかって入っても、
お前達はもと杢阿弥もくあみだな。 
 
    阿房(進み出づ。)
下され物があるのなら、わたくしにも下さいまし。
  
 
    帝
また生き戻った所で、飲んでしまうのかい。 
 
    阿房
この魔法の紙切はどうも好く分かりません。 
 
    帝
そうだろう。どうせろくな使いようはすまい。 
 
    阿房
また一枚落っこちました。これはどういたしましょう。 
 
    帝
お前の手に落ちたなら、お前が取って置くがい。
 

(退場。)

    阿房
やあ。五千クロオネン手に入った。 
 
    メフィストフェレス
二本足の酒袋奴。生き戻ったか。 
 
    阿房
これまで度々遣りましたが、今度が一番上出来です。 
 
    メフィストフェレス
額に汗を掻いて喜んでいるな。 
 
    阿房
ちょっと見て下さい。これがかねに通用しますか。
  
 
    メフィストフェレス
うん。お前の咽や腹の欲しがる物は皆買える。 
 
    阿房
では田地や家や牛馬も買えますか。 
 
    メフィストフェレス
知れた事だ。出しさえすれば、不自由はない。 
 
    阿房
では山林や猟場や生洲いけすのある城もですか。 
 
    メフィストフェレス 
 
                  無論だ。
お前がその城の殿様になった顔が見たいな。
  
 
    阿房
はあ。今度は一つ大地主の夢でも見るか。(退場。) 
 
    メフィストフェレス(一人。)
これでも阿房に智慧がないと、誰か云うだろうか。
 
 

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