ゲーテ ファウスト

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閭門りょもんの前

 

さま/″\の散歩する人出で行く。

    職工の徒弟数人
なぜそっちへ出て行くのだい。 
 
    同じ徒弟の他の群
おいら達は猟師茶屋へ行くのだ。 
 
    初の数人
おいら達は擣屋つきやの方へ行くのだ。
  
 
    徒弟の一人
それより河岸かしの茶屋の方が好いじゃないか。 
 
    第二の徒弟
あっちは途中がまるで詰まらないぜ。 
 
    第二の群
お前はどうする。 
 
    第三の徒弟 
 
       おいらはみんなと行く。 
 
    第四の徒弟
みんなお城の茶屋まで登って行けばいになあ。
あそこが女も一番好いのがいるし、ビイルも旨い。
 
それに喧嘩だって面白い奴が出来るのだ。 
 
    第五の徒弟
人を馬鹿にしていやがらあ。
また背中をなぐられるのかい。三度目になるぜ。
己はあんなところへはかねえ。思ってもぞっとする。 
 
    下女
わたしいやになっちまうわ。町へ帰ろうかしら。
  
 
    第二の女
まあ、あそこの柳の木のとこまで行って御覧よ、来ているから。 
 
    初の下女
来ていたってなんにもなりゃしないわ。
きっとわたしには構わないで、お前と並んで歩いて、
踊場へけば、お前とばかし踊るのだから。
お前が面白くったって、わたしにはなんにもならないわ。
  
 
    第二の女
なに、きょうはひとりじゃなくってよ。
そら、あの髪の綺麗にちぢれた人ね。あれと来ると云ったわ。 
 
    書生
やあ。気持の好い、活溌な歩きようをしているなあ。
君、来給え。あいつ等の行く方へ附いてこう。
濃いビイルに強い烟草。
 
それに化粧をした娘と云うのが、己の註文だ。 
 
    良家の処女
ちょいと、あの書生さん達を御覧なさいよ。
誰とでも御交際の出来る立派な方なのに
女中の跡なんぞに附いてって、
まあ、なんと云う恥曝はじさらしな事でしょう。
  
 
    第二の書生(第一のに。)
おい、君、そんなに駆け出すなよ。あの跡から行く
二人を見給え。気の利いた風をしているだろう。
ひとりは僕の内の隣の娘だ。
あれが僕はすきなんだ。
見給え。あんなにゆっくり歩いている。
 
一しょに行くと云うかも知れない。 
 
    第一の書生
し給えよ。僕は窮屈な事は真っ平だ。
早く来給え。切角の旨い山鯨を取り逃がしてしまう。
日曜日に僕達をさすらせるには、
土曜日にほうきを持った手に限る。
  
 
    市民
いや。こん度の市長にはわたくしは感心しませんなあ。
市長だと云うので、日にまし勝手な事をする。
そして市のためにあの人が何をしています。
一日々々と物事がまずくなるばかりじゃありませんか。
なんでも市民はこれまでになく言いなりになって、
 
これまでになく金を沢山出すことになっています。 
 
    乞食(歌ふ。)
お情深いお檀那様や、お美しい奥様方。
お召はお立派で、お血色はお宜しい。
どうぞ皆様わたくしを御覧なさりまして、
わたくしの難儀にお目を留められ、おすくいなされて下さりませ。
 
こうしてお歎き申すのを、むだになさらないで下さりませ。
めぐみをなさらいでは、おたのしみはございません。
皆様のおあそびなさる日が、
わたくしの取入日とりいれびでございます。 
 
    他の市民
日曜日や大祭日には
 
いくさや鬨の声の話をするのが、わたしは一番すきです。
遠いトルコの国で余所の兵隊同士が
ぶち合っているのが面白いじゃありませんか。
余所にそんな事があるのに、こっちはお茶屋の窓の側で
ビイルを一杯飲み干して、美しい舟の川下へさがるのを眺めて、
 
日が暮れれば楽しく内へ帰って、
難有ありがたい太平の世のためにおいのりをするのですな。 
 
    第三の市民
お隣の方の仰ゃるとおりです。わたくしもその通さ。
余所の奴等はお互に頭の割りくらをするがい。
何もかも上を下へとごった返すが好い。
 
よろず長屋に事なかれですよ。 
 
    一老女(良家の娘達に。)
やれやれ。えらいおめかしが出来ましたな。別品揃だ。
誰だって迷わずにはいられますまい。
おや。そんなにつんけんなさらぬが好い。その位で沢山だ。
お前さん達のおのぞみ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなえることなら、わたしにも出来るつもりだ。
  
 
    良家の娘の一人
アガアテ婆あさん。いやだよ。あっちへおいで。あんな魔法使つかい
往来を一しょに歩いて溜まるもんかね。
せいアンドレアスの晩に、わたしの御亭主になる人を
見せてくれたにはちがいないのだけれど。 
 
    他の娘
わたしにも水晶の中に現して見せてくれてよ。
 
なんでも軍人のようで大勢のきつい人の中にいましたの。
それからわたしどこかで逢うかと思って気を附けていても、
まだその人らしいのに逢わなくってよ。 
 
    兵卒等
牆壁しょうへき聳ゆる
堅固なる城塁よ。
 
おごなみする
気性ある少女子よ。
占領したきはこの二つ。
艱難困苦はだいなれど、
その成功こそめでたけれ。
 
 
召募の喇叭らっぱよ。
汝が響くに任す。
よろこびにわへも導け。
戦死の野へも導け。
これぞきそいなる。
 
これぞ命なる。
城塁も落ちざらめや。
少女子もなびかざらめや。
艱難困苦は大なれど、
その成功こそめでたけれ。
 
かくぞ軍人いくさびと
門出する。

ファウストとワグネルと

    ファウスト
春の恵ある、物呼び醒ます目に見られて、
大河にも細流にも、もう氷がなくなった。
谷間には希望の幸福が緑いろに萌えている。
 
冬は老いて衰えて
荒々しい山奥へ引っ込む。
そして逃げながらそこから
粒立った氷の一しぶきを、青み掛かる野へ、
段だらに痕の附くようにいている。
 
しかし日は白い物の残っているのを許さないで、
何物にも色彩を施そうとする。
そこにもここにも製作と努力とが見える。
それでもこの界隈にはまだ花が咲いていない。
その代りに、日は晴衣を着た人を照している。
 
まあ、跡へ戻っておいで。この高みから
町の方を振り返って見ようじゃないか。
空洞うつろで暗い里の門から、
色々の著物を著た人の群が出て来る。
きょうは誰も誰も日向ぼこりがしたいのだ。
 
あれは皆しゅの復活の日を祝っている。
自分達も復活して、
低い家の鬱陶しい間から出たり、
手職や商売の平生の群を離れたり、
頭の上を押さえている屋根や搏風はふの下を遁れたり、
 
肩の摩れ合うような狭いこうじ
礼拝堂の尊い闇から出たりして、
そとあかりを浴びているのだから、無理は無い。
あれを見給え。大勢が活溌に
田畑の上へ散らばって行く。
 
川には後先になったり並んだりして、
面白げに騒ぐ人を載せた舟が通っている。
あの一番跡の舟なんぞは、
沈みそうな程人を沢山に載せて出て行くところだ。
あの山の半腹の遠い岨道そばみちにさえ
 
色々な衣裳の彩色が光って見える。
もう村の方からとよめきが聞えて来る。
大勢のためにはここが真の天国なのだね。
「ここでは己も人間だ、人間らしく振舞っても好い」と、
老若ともに満足して叫んでいるのだね。
  
 
    ワグネル
先生。あなたと散歩しますのは、
わたくしの名誉でもあるし、為めにもなります。
一体わたくしは荒々しい事はきらいでございますから、
御一しょでなくてはこんな所へは来ないでしまいましょう。
ヴァイオリンを弾く音、人のどなる声、王様こかしのたまの響、
 
どれもどれもわたくしは聞くのが随分つろうございます。
悪魔にでも焚き附けられているように騒ぎ廻って、
それを歌だ、なぐさみだと云うのでございますからね。 
 
    百姓等(菩提樹の下にて。)

舞踏と唱歌と。

羊飼奴ひつじかいめが踊に来ようとめかした。
著て出たジャケツは色変り。紐や飾が附いている。
 
さすが見た目が美しい。
菩提樹のまわりはうから人籠ひとごみで、
どいつもこいつも狂ったような踊りよう。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
 
胡弓がこんな音をする。
羊飼奴は気がいて、駆け附けた。
その時はずみに片肘が
一人ひとりの娘にかる。
元気な尼っちょが顔を見て云った。
 
「お前さんよっぽどとんまだね。」
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
そう不行儀では困ります。
それでも始めるくるくる廻り。
 
右の方へ踊って行く。左の方へ踊って行く。
あれあれ上著がみんな飛ぶ。
赤くなったり、熱くなったり。
肘を繋いで、息を衝いて休む。
ユホヘ。ユホヘ。
 
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
腰にお前の手が障る。
心安立こころやすだて、馴染振、余り早いと遣り込める。
女夫めおと約束固めても
だました人はたんとある。
 
構わず騙して連れて退く。
菩提樹の方からは。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
胡弓の音やら人の声。
  
 
    百姓爺
やあ。先生様でござりますな。好くおいでなさりました。
わたくしどもをおきらいなさらずに
この人込の中へ
大先生様がいらっしゃる。
このお杯が一番い。
 
丁度注いだばかりだ。
どうぞ召し上って下さりませい。
のどのおかわきを止めておあげ申すと云うだけではござりません。
これに這入っている酒の一滴ずつを丁寧に
勘定して見ます程、どうぞお命をお延べなさりませい。
  
 
    ファウスト
切角の御親切だから頂戴しましょう。
これでお礼を申して、あなた方の御健康を祝します。

(衆人そのあたりに集ふ。)

    百姓爺
ほんとにこう云うめでたい日に、
好うおいでなさりました。
先年わたくしどもが難儀をいたしました時は、
 
あなた様のおめぐみにあずかりました。
ここにこうしてながらえているものの中には、
えらい熱を煩っていたのを、
お亡くなりになった老先生様が、
あぶないきわになってから、直して助けて下さりました。
 
その時分先生様はまだお若かったが、
どの隔離所をもお見まい下された。
どこからも死骸をかつぎ出したのに、
先生様は御無事でおいでなされた。
なんでもあぶない迫門せとをおしのぎなされた。
 
人をおたすけなされたので、神様が先生様をお助なされた。 
 
    一同
先生様も御長寿をなさりまして、
これからも大勢の人おすくい下さりませい。 
 
    ファウスト
いや。人を救うことをおおしえ下され、またすくいをおさずけ下さるのは、
あのてんにいます神様だ。あれをおおがみなさるがい。
 

(ファウスト、ワグネルと共に歩み出す。)

    ワグネル
先生、たいしたものでございますね。どうでございます、
みんなにあんな風に尊敬せられておいでになるお心持は。
先生のように、自己の材能で人をあれまでに
帰服させることが出来れば、幸福でございますね。
年寄は子供に指さしをして見せて遣る。
 
誰だ誰だと問い合って、押しつ押されつ、駆け寄って来る。
胡弓の音がむ。踊手おどりてが足をめる。
とおりになる所に人墻ひとがきを造って、
皆がばらばらと帽子を脱ぐ。
も少しで、晩餐のパンを入れた尊いお箱が通るように、
 
膝を衝いて拝みそうでございますね。 
 
    ファウスト
もう少しだから、あの石の所まで行って、
大ぶ歩いたから休もうじゃないか。
己は好くひとりで物案じをして、この石に腰を掛けていた。
断食や祈祷で身を責めていた時の事だ。
 
あの時は希望もゆたかで、信仰も堅かった。
無理にもてんにいますしゅにおねがい申して、
あの恐ろしいペストの流行を止めておもらい申そうと、
涙を流し、溜息を衝き、手の指を組み合せて悶えた。
今皆があんなに褒めるのが、己には嘲るように聞える。
 
君には己のこの胸のうちが分かるまいが、
親爺にしろ己にしろ、あの褒詞を受ける程に
はたらきをしてはいないのだ。
親爺は行跡に暗い痕のある学者だった。
自然や、神聖なる自然の種々の境界の事を、
 
誠実が無いではないが、自分流義に
物数奇らしい骨の折方をして、窮めようとしていた。
例の錬金術の免許とりのお仲間で、
道場と云う暗いくりやに閉じ籠って、
際限のない、むずかしい方書ほうがきどおりに、
 
気味の悪い物を煮交ぜたものだ。
大胆に言い寄る男性の「赤獅子」を、
かなえ微温湯ぬるゆで女性の「百合」に逢わせる。
それから二人を武火ぶかに掛けて、
ねやから閨へ追い廻す。
 
ようよう玻璃はりの器の中に
色の度々変る「若い女王」が見えて来る。
これが薬だ。病人は大勢死ぬる。
誰が直ったかと、問う人は一人もない。
そんな風で、この谷間から山奥へ掛けて
 
病人に恐ろしい煉薬ねりやくを飲ませ廻ったから、
己達親子はペストより余計に毒を流したらしい。
己の飲ませて遣ったのでも何千人か知れぬ。
大抵衰えて死んだ。毒を遣った横著な人殺ひとごろし
褒められると云う経験を、己はしたのだ。
  
 
    ワグネル
そんな事を御心配なさらなくってもいではありませんか。
人に授かった技術を、
誠実に、間違なくおこなって行けば、
正しい人が責を尽したと云うものではありませんか。
先生はお若い時、老先生を御尊信なさって、
 
喜んでそのおつたえをおうけになる。
それからお年をおとりになって、学問の知識をお殖やしになれば、
御子息が一層高い境界にお達しなさろうと云うもので。 
 
    ファウスト
いや。この迷の海から浮き上がることがあろうと、
まだ望んでいることの出来るものは、為合しあわせだ。
 
なんでも用に立つ事は知ることが出来ず、
知っている事は用に立たぬ。
しかしこんな面白くない事を思って、
お互にこの刹那の美しい幸福をちぢめるには及ばぬ。
あの青い畑に取り巻かれている百姓家が、
 
夕日の光を受けてかがやいているのを御覧。
日は段々いざって逃げる。きょう一日ももう過去に葬られ掛かる。
日はあそこを駆けて行って、また新しい生活を促すのだ。
己のこの体に羽が生えて、あの跡を
どこまでも追って行かれたら好かろう。
 
そうしたら永遠なる夕映ゆうばえの中に、
静かな世界が脚下に横わり、
高い所は皆紅に燃え、谷は皆静まり返って、
白銀しろかねの小川が黄金こがねの江に流れ入るのが見えよう。
そうしたら深い谷々をぞうしている荒山あらやまも、
 
神々に似た己のあゆみさまたげることは出来まい。
己の驚いて※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった目の前に、潮の温まった
幾つかの入江をなした海原が、早くも広げられよう。
それでもとうとう女神は沈んでしまうだろう。
ただ新しい願望が目醒める。
 
女神の永遠なる光が飲みたさに、
よるにし昼をおもてにし、
空を負い波に俯して、己は駆ける。
ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。
幻に見る己の翼に、真実の翼が出来て
 
出合うと云うことは容易ではない。
兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隠れて、
告天子こうてんしが人を煽動するような歌を歌うとき、
樅の木の茂っている、険しいいただきの上の空に、
鷲が翼をひろげて漂っているとき、
 
広野の上、海原の上を渡って
鴻雁が故郷へ還るとき、
感情が上の方へ、前の方へと
推し進められるのは、人間の生附うまれつきだ。 
 
    ワグネル
わたくしも随分気まぐれな事を思う時がありますが、
 
ついぞそんな欲望が起ったことはございません。
森や野原の景色をたんのうするまで見れば済む。
これからも鳥の羽が羨ましゅうなろうとは思いません。
それとどの位違うか知れないのは精神上の快楽で、
一枚一枚、一冊一冊と読んで行く心持と云ってはありません。
 
本を読めば、冬の夜もめぐみある、美しい夜になって、
神聖なる性命が手足を温めます。それがなみの本でなくて、
珍奇な古文書ででもあると、あなただって
天上の生活が御自分の処へくだったようでございましょう。 
 
    ファウスト
いや。君は人生のただ一つの欲望をしか知らない。
 
どうぞ生涯今一つの分を知らずにおらせたいものだ。
ああ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。
一つは荒々しい愛惜の情を以て、章魚たこの足めいた
搦み附く道具で、下界に搦み附いている。
 
今一つは無理に塵を離れて、
高い霊どもの世界に登ろうとしている。
ああ。この大気の中に、天と地との間に、
そこを支配しつつ漂っている霊どもがあるなら、
どうぞ黄金色の霞の中から降りて来て、
 
己を新しい、色彩に富んだ生活へ連れ出してくれい。
せめて魔の外套でも手に入って、
それが己をつつんで、余所の国々へ飛んで行けばい。
己のためにはどんな錦繍にも、
帝王の衣にも換え難い宝だがなあ。
  
 
    ワグネル
どうぞあの知れ渡った鬼どもをおよびなさいますな。
あの鬼どもは雲のうちにさまよいつつ広がっていて、
八方から人間に
千変万化の危害を加えようとしております。
北からは歯の鋭い、矢のように尖った舌の鬼共が、
 
先生の処へ襲って来ましょう。
東から来る鬼どもは物を干からびさせて、
あなたの肺の臓で身を肥やそうとします。
中央があなたのいただきの上へ、火に火を重ねる鬼共を
沙漠の方から送って来れば、
 
西からはまた最初気分を爽かにするようで、しまいには
あなたをも田畑をも水に埋める鬼共をよこします。
ああ云う鬼共は愉快げにすばしこくおことばを聞いて、
仰ゃる通になります。それは先生を騙そうとするのです。
てんからよこされた使のような風をして、
 
※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそばかりを天使の詞で囁きます。
だがもう参りましょう。もうそこらが鼠色になりました。
風が涼しくなって、霧が降りて来ました。
夕方になって家の難有みは知れますなあ。おや。先生。
立留たちとまりなすって、驚いたようなお顔で何を御覧なさいます。
 
あの薄明うすあかりの中に何があるので、そんなに御感動なさるのでしょう。 
 
    ファウスト
君あの刈株や苗の間を走っている黒犬が見えるかい。 
 
    ワグネル
はい。さっきから見えていますが、何も大した物ではないようで。 
 
    ファウスト
好く見給え。君はあの獣をなんだと思う。 
 
    ワグネル
尨犬むくいぬです。あいつ等の流義で、御苦労にも
 
見失った主人の跡を捜しているのでございます。 
 
    ファウスト
君あれが蝸牛ででむしの背の渦巻のような、広いをかいて、
次第々々に我々の方へ寄って来るのが分かるか。
それに己の目のせいかも知れないが、あいつの歩く跡の道には
火花が帯のように飛んでいるじゃないか。
  
 
    ワグネル
わたくしには黒い尨犬しか見えません。
それは先生のお目の工合でございましょう。 
 
    ファウスト
どうも己の考では、未来の縁を結ぶために、
微かなまじを己達の足の周囲まわりに引くらしい。 
 
    ワグネル
いや。わたくしの見た所では、主人でない、知らぬ人を
 
二人見て、不安に恐ろしく思って、周囲を飛び廻るので。 
 
    ファウスト
圏が段々狭くなった。もう傍へ来た。 
 
    ワグネル
御覧なさい。犬です。化物ではございません。
うなって、疑ったり、腹這ったり、
尾をったりします。みんないぬの癖です。
  
 
    ファウスト
こら。己達の所へ来い。ここへ来い。 
 
    ワグネル
尨犬らしい気まぐれな奴でございます。
先生がお立留たちとまりになれば、前へ来て据わります。
お物を仰ゃれば、飛び附いて参ります。
何かおほうりになったら、取って参りましょう。
 
水の中からステッキをもくわ[#「口+(「行」のぎょうにんべんにかえて「金」)」、U+20F2B、86-17]えて参るでしょう。 
 
    ファウスト
なるほど。君の云うとおりかも知れん。どうも霊の痕がなくて、
総てが躾に過ぎないようだ。 
 
    ワグネル
いや。好く躾けてある狗なら、
賢い人にも気に入りましょう。
 
不断学生共の好い連になっているのだから、
先生の御愛顧を受ける値打はたしかにあります。

(二人閭門に入る。)

 
 
書斎

 

ファウストいぬを伴ひて入る。

    ファウスト
何か物を暗示するような、神聖な恐怖を起させて、
我等の善い方の霊を呼び醒そうとする、
深いよるおおわれた
 
田畑から己は帰った。
総て荒々しい振舞をさせようとする、
粗暴な欲望は寐入った。
今は博愛の心、
神の愛の心が動いている。
 
 
尨犬むくいぬ。じっとしていろ。そんなに往ったり来たりするな。
そこの出口の所へ行って、何を嗅ぎ廻っている。
その煖炉の背後へ行って寝ていろ。
己の一番い布団を貸して遣る。
そとで、あの坂道のような所で
 
飛んだり跳ねたりして己達を喜ばせた代りに、
歓迎せられた、おとなしい客になって、
己の接待を受けるがい。
 
この狭い書斎に
ランプがいつものように優しく附くと、
 
己達のこの胸の中、
自ら知り抜いている胸の中が明るくなる。
理性がまた物を言いはじめる。
希望の花がまた咲き出す。
ああ。せい小川おがわへ、せいもといずみへと
 
この心があこがれるなあ。
 
尨犬。そんなにうなるな。今己の心の全幅を領している
神聖なる物の音には、
獣の声では調子が合わない。
人間が自分の解せぬ事を嘲り、
 
往々うるさい物に思う善や美を見て
ぐずぐず云うのには、
己達は慣れている。
狗もやっぱりそれをぐずぐず云うのかい。
 
ああ。しかしもうなんと思っても、
 
この胸から満足が涌いてぬ。
なぜまたながれがこう早う涸れて
己達は渇に悩んでいなくてならんのか。
これは年来経験して知っている。
この欠陥を埋め合せようとして、
 
形而上のものを尊重するようになり、
啓示がほしいとあこがれる。
あのどの伝よりも尊く、美しく
新約全書の中に燃えている啓示がそれだ。
原本を開けて見て、
 
素直な感じのままに、一遍
神聖なる本文を
すきな独逸語に訳して見たい。

(一書巻を開き、翻訳の支度す。)

こう書いてある。「初にロゴスありき。ことばありき。」
もう此所ここで己はつかえる。誰のたすけを借りて先へ進もう。
 
己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。
なんとか別に訳せんではなるまい。
霊の正しいしめしを受けているなら、それが出来よう。
こう書いてある。「初にこころありき。」
軽卒に筆を下さぬように、
 
初句に心を用いんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものがこころであろうか。
一体こう書いてあるはずではないか。「初にちからありき。」
しかしこう紙に書いているうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。
 
はあ。霊のたすけだ。不意に思い附いて、
安んじてこう書く。「初にわざありき。」
尨犬。己と一しょにこの部屋にいるつもりなら、
うなることをせ。
吠えることをせ。
 
そんな邪魔をする奴を
傍に置いて我慢して遣ることは出来ぬ。
お前か己か、どちらかが
書斎を出てかなくてはならん。
己は客を逐うことは好まぬが
 
あの通り戸は開いている、出てくならけ。
はてな。妙に見えるな。
自然にありそうもない事だ。
あれは幻か。うつつか。
あの尨犬は幅も広がり丈も伸びる。
 
勢好く起き上がって来る。
あれは狗の姿ではない。
己はなんと云う化物を内へ連れて来たのだろう。
もう火のような目、恐ろしい歯並はなみをした
河馬かばのように見える。
 
はあ。もうお主は己の手のうちの物だ。
お主のような、半ば地獄に産み出されたものには、
クラウィクラ・サロモニスの呪がい。 
 
    霊等(廊下にて。)
この中に一人ひとり捕われている。
そとにおれ。附いて這入るな。
 
係蹄わなに掛かった狐のように、
地獄のふるリンクス奴が怯れている。
しかし気を附けて見ておれ。
あちらへ漂い、こちらへ漂い、
のぼっては降りて見ておれ。
 
あいつはとうとう逃げて出よう。
あいつに手が貸されるなら、
あいつを棄て置かぬがい。
己達はあいつには
いろいろ世話になっている。
  
 
    ファウスト
こんな獣に立ち向うには、
先ず四大しだいまじないがいる。
「火のせい サラマンデル 燃えよ。
水の精 ウンデネ うねれ。
風の精 シルフェ 消えよ。
 
土の精 コボルド いそしめ。」
四大を、
その力、
そのさが
知らぬものが、
 
なんで霊どもを御する
師になれよう。
「サラマンデルは
※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおのうちに消えよ。
ウンデネは
 
さざめきて流れ寄れ。
シルフェは
隕石いんせきの美しさに耀かがやけ。
インクブスは
木樵り水汲め。
 
進み出でて終を告げよ。」
四大のどれも
あの獣のうちにはいぬ。
平気でうずくまって、己の顔をにらんでいる。
この呪ではまだ痛い目を見ぬと見える。
 
も少し強いいのり
聞せて遣ろう。
やっこ。お前は地獄を
逃れ出たものか。
そんならこの印を見い。
 
これは暗黒の群が
うなじを屈する印だ。」
はあ。もうとげとげしい毛を竪ててふくれるな。
廃物奴すたれものめ
これが読めるか。
 
かつて芽ざさず、
言挙ことあげせられず、
あらゆるてんそそがれ、
無慙むざんにも刺し貫かれた、これが読めるか。」
煖炉の背後にふうぜられて、
 
象の大さにふくれ上がるな。
部屋一ぱいになる。
霧になって散ろうとする。
天井へ升ってはならぬ。
師の脚下に身を倒せ。
 
見い。己はいたずらにおどしはせぬ。
神聖なる火でお前を焼こうか。
三たび燃え立つ火を
待つなよ。
己の術の一番の奥の手を
 
待つなよ。

(霧落つると共に、メフィストフェレス旅の書生の装して煖炉の背後より現る。)

    メフィストフェレス
そうおさわぎになるには及びません。なんの御用ですか。 
 
    ファウスト
そんならこれが尨犬の正体であったのか。
旅の書生だな。笑わせる事件だ。 
 
    メフィストフェレス
改めて御挨拶をいたします。博識でいらっしゃる。
 
わたくしに汗をたっぷりお掻かせになりました。 
 
    ファウスト
名はなんと云うか。 
 
    メフィストフェレス 
 
        それは小さいおたずねかと存じます。
ことばと云うものをおさげすみになり、
あらゆる外観をお遠ざけになって、
ただ本体の深みをおさぐりになるあなたとしては。
  
 
    ファウスト
しかし君達のは名を聞くと、
大抵本体が読める。
蠅の神、そこなう者、偽る者などと云えば、
はっきり知れ過ぎるではないか。
そんならい。一体君はなんだ。 
 
    メフィストフェレス 
 
              常に悪を欲し、
 
却て常に善を為す、彼力の一部です。 
 
    ファウスト
ふん。その謎めいたことばこころは。 
 
    メフィストフェレス
わたしは常に物を否定するれいです。
そしてそれが至当です。なぜと云うに、
一切の生ずるものは滅してもいものです。
 
して見れば、なんにも生ぜぬにくはない。
こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、
破壊だの、つづめて言えば悪と仰ゃるものは、
皆わたしの分内の事です。 
 
    ファウスト
君は一部だと名告なのる。そして全体で己の前にいるのか。
  
 
    メフィストフェレス
それは少しばかりの真理を申したのです。
人間は、気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。
 
暗黒の生んだおごれる光明は、母の闇夜と古い位を争い、
空間を略取しようとする。
しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、
光明が捕われて物体にねばり附いているからです。
物体から流れて、物体を美しくする。
 
そしてその行く道は物体にさまたげられる。
あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と
一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。 
 
    ファウスト
そこで君の結構な任務は分かった。
君は大体からは物を破壊することが出来んので、
 
小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。 
 
    メフィストフェレス
そうです。勿論それが格別役にも立ちません。
に対して立っているある物
即ち不細工な世界ですな。こいつには、
これまでいろいろな企をして見ましたが、
 
どうにも手が著けようがありません。
海嘯つなみ暴風あらし、地震、火事、どれを持って行っても
跡には陸と海とが依然としているですな。
それからあの禽獣とか人間とか云うのろわれた物は、
一層手が著けられませんね。
 
今までどれ程葬ったでしょう。
それでもやはり新しい爽かな血がめぐっています。
そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。
空気からも、水からも、土地からも、
乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、
 
千万の物の芽が伸びる。
もしわたしが火と云う奴を保留して置かなかったら、
これと云う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。 
 
    ファウスト
そんな風で君は、永遠にやすむ時なく、
恵深く製作する威力に対して、
 
君の陰険に、空しく握り固めた、
冷やかな悪魔のこぶしを揮うのだ。
実に混沌の生んだ奇怪な倅ではある。
何かちと外の事を始めてはどうだね。 
 
    メフィストフェレス
実際そうですね。少し工夫して見ましょうよ。
 
いずれこの次にもっと精しくおはなしします。
きょうはこれで御免を蒙りたいのですが。 
 
    ファウスト
なぜそれを己に問うのだか分からんな。
まあ、これで君にお近附ちかづきになったと云うものだ。
いつでも君の気の向いた時にまた来給え。
 
そこには窓がある。そこには戸口もある。
君にはあの煙突なんぞも非常門になるのだろう。 
 
    メフィストフェレス
間が悪いが打明けて言いましょう。わたしが出て行くには、
ちょいとした邪魔があるのですよ。
あの敷居にあるペンタグランマのしるしですな。
  
 
    ファウスト
ふん。あの印を君は気にするのか。
妙だね。あれに君は縛られるなら、這入る時は
どうして這入ったか。地獄の先生、それを言って見給え。
そんな霊のある印を、どうごまかして這入ったのだ。 
 
    メフィストフェレス
好くあれを御覧なさい。本当に引いてないのです。
 
そとへ向いている一角が、
御覧のとおり、少しいています。 
 
    ファウスト
それは偶然の為合しあわせだった。
そこで君は己のとりこになっているわけだね。
これは意外な、旨い成功だった。
  
 
    メフィストフェレス
実は尨犬は気が附かずに飛び込んだが、
今になって見ると少し工合が違っていて、
どうも悪魔はこの部屋を出にくいのです。 
 
    ファウスト
ところで君なぜ窓から出ない。 
 
    メフィストフェレス
悪魔や化物には掟があって、
 
這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。
初にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。 
 
    ファウスト
そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。
兎に角好都合だ。こうなると君達と
契約を結ぶことも、随分出来るわけだね。
  
 
    メフィストフェレス
それは約束をする上は、あなたに十分の権利がある。
なんのかのと云って、それを狭めるような事はしません。
しかしそれはそう手短には行きませんから、
こん度の御相談にいたしましょう。
今度だけはお暇を下さるように、
 
切にお願申すのですがな。 
 
    ファウスト
それにしてもちょいと位好さそうなものだ。
面白い話が聞きたいのだが。 
 
    メフィストフェレス
いや。今度だけはお暇を下さい。すぐに帰って来ます。
その時なんでもお尋下さい。
  
 
    ファウスト
一体己が君を追い掛けたのではない。
君が自業自得で網に掛かったのだ。
悪魔なんと云うものが、手に這入っては手放せないね。
また早速掴まえようと云うわけには行かんから。 
 
    メフィストフェレス
いや。是非お伽をするのがお望だと云うことなら、
 
それはいておあげ申しても好いですよ。
しかしおなぐさみに何か術をして
御覧に入れても好いと云う条件附に願いましょう。 
 
    ファウスト
それは結構だ。君の勝手にし給え。
なるたけ気持の好い術にしてくれ給え。
  
 
    メフィストフェレス
それは承知です。単調極まる一年間に、
あなたの官能の享けたよりは、
この一時間に享けた方がたっぷりだと思わせて上げます。
これから優しい霊どもが歌ってお聞せ申したり、
美しい形をあらわしてお見せ申すのは、
 
いたずらな幻の戯ではない。
鼻にも好い※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)においがしよう。
舌にも好い味がしよう。
それから心にも好い感じがしよう。
別に用意なんぞはいらない。
 
仲間はもう揃っている。始めろ始めろ。 
 
    霊等
消えよ、目の上なる
暗き穹窿きゅうりゅう
蒼き※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきよ。
やさしく美しく
 
むろを窺へ。
暗き雲霧くもきり
はや散り失せしよ。
星あまたきらめけり。
やさしき日等は
 
照りわたれり。
てんの子等の
れいめく美しさよ。
揺りつゝ身を曲げて
漂ひ過ぎよ。
 
あこがるゝ心もて
こなたへ続け。
そのきぬ
ひらめく帯は
下界を覆ひ、
 
四阿あずまやを覆へ。
恋する二人が深き心もて
生涯を相委ぬる
四阿を覆へ。
四阿は四阿に並べり。
 
芽ぐむ蔓草つるくさあり。
枝たわわなる葡萄は
籠み合ふ酒蔵さかぐら
桶にそそげり。
泡立つ酒は
 
小川おがわと流れ、
浄き宝玉の
川床にせゝらぎて、
山の上の高き処を
になしつゝ、
 
事足れる
緑なる岡の
みずうみに入る。
群鳥むらとり
よろこびを啜り、
 
日のかたへ飛び、
波間に
漂ひ浮ける、
晴やかなる
島々の方へ飛ぶ。
 
その島には合唱の群の
歓び歌ふが聞え、
踊手の野の上に
踊るが見ゆ。
舞ひ歌ふ人皆
 
四方よもにあらけぬ。
岡のつかさに
づるあり。
湖の上に
およぐあり。
 
空にひひるあり。
せいに向へり。
せいなるめぐみ
愛する星の
遠方おちかたに向へり。
  
 
    メフィストフェレス
寐たな。身の軽い、やさしい小僧ども、好く遣った。
好く真面目に骨を折って寐入らせてくれた。
あの合奏のお礼は忘れはしないよ。
へん。悪魔を抑留しようとは、お前にはまだ過ぎた話だ。
小僧ども。こいつの夢にえんな姿を見せて遣れ。
 
迷の海に※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)しずめて遣れ。
ところでこの敷居の禁厭まじないを破るには
鼠の牙がいり用だ。
呼ぶには手間は掛からない。
そこらをがさがさ云わせる奴に、もう己の詞が聞えよう。
 
こら。大鼠、小鼠、蠅に蛙に
南京虫、しらみの王の
おおせだぞ。遠慮なく這って出て、
そこの敷居をかじれかじれ。
ちょいと油を塗り附けると、
 
早速そこへ飛んで来る。
さあ、為事しごとに掛かれ掛かれ。邪魔なのは
その一番手前のすみの所だ。
もう一かじりだ。それでい。さようなら、ファウストさん、
またお目に掛かるまで、たんと夢を御覧なさい。
  
 
    ファウスト(醒めて。)
己はまた騙されたか。
夢に悪魔を見せられて、
尨犬に逃げられるのが、
意味の深いねがいはてか。 
 
     ――――――――――――

ファウスト。メフィストフェレス登場。

    ファウスト
戸をたたいたな。おはいりなさい。誰がまた悩ましに来たのか。
  
 
    メフィストフェレス
わたくしです。 
 
    ファウスト 
 
      おはいりなさい。 
 
    メフィストフェレス 
 
             三度言って下さいまし。 
 
    ファウスト
はてさて。おはいりなさい。 
 
    メフィストフェレス 
 
            それで宜しゅうございます。
そこで大抵中好く交際が出来るつもりです。
あなたの気晴らしをしておあげ申そうと思って、
ちょっと貴公子と云うなりをして来ました。
 
赤い上衣に金の刺繍がしてある。
上に羽織ったのは、こわばる絹の外套です。
帽子には鳥の羽を挿しました。
そしてこんな長い、尖ったけんを吊りました。
そこで早い話が、あなたのほうでも
 
こう云う支度をしておもらい申したいのです。
そこであらゆるきずなを絶って、自由に
人生がどんなものだと云うことを御経験なさるのですね。 
 
    ファウスト
いや。この狭い下界の生活の苦は
どの著物を著ても逃れられまい。
 
一体己は当のない遊をするには、もう年を取り過ぎた。
あらゆる欲を断とうには、まだ年が若過ぎる。
世間が己に何を提供しよう。
闕乏けつぼうに堪えよ、忍べよと云うのが、
人の一生涯時々刻々
 
いやな声で歌われて、
誰の耳にも聞えて来る
永遠なる歌なのだ。
己は毎朝恐怖の念をして目を醒ます。
ただ一つの、ただ一つの願も※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなえずに、
 
歓楽の暗示をさえ
かたくなな批評で打ちこわし、
活動している己の胸の創作を
凡百の世相で妨碍ぼうがいする
日の目をまた見ることかと思えば、
 
己はにがい涙をこぼして泣きたくなる。
また夜闇が下界を包みに降りて来ても、
己は恐る恐る身を臥所ふしどに倒す。
そこでも甘寐うまいの安さを貪ることは出来ずに、
恐ろしい夢に驚かされる。
 
己のこの胸のうちに住んでいる神は
心の深い底の底まで掻き乱すことは出来るが、
己のあらゆる力の上に超然と座を占めている神は、
外界の物を何一つ動かすことが出来ぬ。
それで己には世にあるのが重荷で、
 
死が願わしくせいが憎いのだ。 
 
    メフィストフェレス
そのくせ死が真に客として歓迎せられることは決して無いのです。 
 
    ファウスト
いや。勝軍かちいくさのかがやきのうちに
死が血に染まった月桂樹の枝を※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみまとう人、
急調の楽につれて広間を踊り廻った揚句に、
 
少女の腕に支えられながら死を迎えた人はさいわいだ。
ああ。己もあの高い精霊を覿面てきめんに見たとき、
歓喜の余にその場に死んで倒れてしまえば好かったに。 
 
    メフィストフェレス
でも誰やらあの晩に
茶色な汁を飲み干さなかったようですね。
  
 
    ファウスト
ふん。君は探偵が道楽だと見える。 
 
    メフィストフェレス
わたしは全知ではないが、大ぶいろんな事を知って居ますよ。 
 
    ファウスト
あの恐ろしい心のみだれの中で、
馴れた優しい音色にかれ、
おさなかった世の記念かたみの感情が、
 
旧い歓楽の余韻に欺かれたとは云え、
餌やおとりやまやかしで人の霊をとりこにし、
目をくらましたりすかしたりして、
この悲哀の洞窟どうくつに繋いで置こうとするような、
あらゆる手段を己はのろう。
 
人の霊が自ら高しとして我と我身のるいをなす、
その慢心を先ず咀う。
わが官能の小窓に迫る
現象の幻華を咀う。
わが夢の世に来て欺く
 
名聞や身後の誉の迷を咀う。
妻となり子となり奴婢ぬひとなり鋤鍬となり、
占有せんゆうと称して人に媚ぶる一切の物を咀う。
宝を見せて促して冒険の業をもさせ、
またおこたり快楽けらくさそうて
 
軟いしとねを体の下にも置き直す、
あの金銭を己は咀う。
葡萄から醸す霊液を咀う。
恋の成就の快楽を咀う。
希望を咀う。信仰を咀う。
 
何より切に忍耐を咀う。 
 
    合唱する霊等(目に見えず。)
いたまし。痛まし。
強きこぶしもて
美しき世界を
なむじ毀ちぬ。
 
世界は倒れ崩れぬ。
半ば神なる人毀ちぬ。
そのくずを「無」のうちへ
我等負ひ行きつゝ、
失はれし美しさを
 
歎く。
下界の子のうちの
力強きなむじ
さきより美しく
そを再び建立せよ。
 
が胸のうちにそを建立せよ。
爽かなる目もて耳もて
新なるせいあゆみ
始めよ。
さらば新しき歌
 
聞えむ。 
 
    メフィストフェレス
あれはわたしの仲間の
小僧どもです。
ませた言草いいぐさで歓楽や事業を
あなたに勧めるのをお聞なさい。
 
官能のはたらき、体の汁のめぐりまる
寂しい所から、
遠い世間へ
あいつ等はあなたを誘い出すのです。
 
角鷹くまたかのようにあなたの命の根をつつ
 
うれえ」をおもちゃにするのはおよしなさい。
最下等の人間とでも一しょにいたら、
人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。
こう申したからとて、何もあなたを
下司げすの中へ連れ出そうと云うのではありません。
 
わたしはえらい人のお仲間ではない。
それでもあなたがわたしと一しょに
世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、
即座にわたしは甘んじて
あなたのものになってしまう。
 
まあ、兎に角お連になって見て、
わたしのする事がお気に入ったら、
御家隷ごけらいにもなるですね。 
 
    ファウスト
そしてそのかわりに己のほうからどうすれば好いのだ。 
 
    メフィストフェレス
そりゃあまだ急ぐことはありません。
  
 
    ファウスト
いやいや。悪魔は利己主義だから、
人のためになることを
容易に只でしてはくれまい、
条件をはっきり言って貰おう。
そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。
  
 
    メフィストフェレス
そんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、
休まずに頤で使われましょう。
そこであの世でお目に掛かった時は
あなたがあべこべに使われて下さるですね。 
 
    ファウスト
あの世なんぞは己は余り気にしない。
 
まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、
別の世界がその跡へ出来ようというものだ。
この大地から己の歓喜は涌く。
この日が己の苦痛を照す。
己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、
 
それから先はどうにでもなるが好い。
未来に愛やにくみがあるか、
あの世にもまたこの世のように
上と下とがあるかなどと、
己は問うて見る気がないのだ。
  
 
    メフィストフェレス
そう云うおかんがえなら思い切ってお遣なさい。
お約束なさい。その上は早速
わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。
まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。 
 
    ファウスト
ふん。悪魔風情が何を見せるつもりやら。
 
向上の道にいそしむ人間の霊が
君なんぞに分かったためしがあるかい。
腹の太らない馳走か、
水銀のようにころころと
間断なく手のうちで散る赤いきんか、
 
勝つことのない博奕ばくちか、
己の懐に抱かれていながら
隣の男を流眄ながしめに見る女か、
隕石いんせきのように消えてしまう
名望の、神のような快さをでも授けるのか。
 
摘まぬに腐るこのみでも、日毎に若葉の
茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。 
 
    メフィストフェレス
そんな御註文には驚きません。
そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。
しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を
 
食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。 
 
    ファウスト
ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、
その時は己はどうなっても好い。
己を甘いことばで騙して
己に自惚うぬぼれの心を起させ、
 
己を快楽けらくすかすことが君に出来たら、
それが己の最終の日だ。
賭をしよう。 
 
    メフィストフェレス 
 
     宜しい。 
 
    ファウスト 
 
        容赦はならぬ。
己がある「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云ったら、
 
君は己を縛り上げてくれても好い。
己はそれきり滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまいになるだろう。
時計がまって針が落ちるだろう。
 
己の一代はそれまでだ。 
 
    メフィストフェレス
だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。 
 
    ファウスト
己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、
どうぞしっかり覚えていて貰おう。
己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。
 
君のにしろ、誰のにしろ。 
 
    メフィストフェレス
そんならきょうの卒業宴会に
早速御家隷の役をしましょう。
ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように
一寸二三行書いて置いておもらい申しましょうか。
  
 
    ファウスト
書物かきものまで取るのかい。悪く堅い奴だな。
男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。
口で言った己の詞が永遠に己の生涯を
自由にすると云うだけでは不満足なのかい。
一体世界のあらゆる潮流は頃刻けいこくやすまないのに、
 
己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。
しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、
誰も好んでそれをはらそうとするものがない。
胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。
そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。
 
ところが、字を書いて印を押した巻紙を、
世間のものは皆化物のようにこわがっている。
いざ筆にのぼするとなると、一字一句にも気怯きおくれがする。
そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお持廻もちまわりになる。
おい、悪霊あくりょう。君は何がいるのだ。
 
紙に書くのか、かわに書くのか、石や金にるのかい。
鉛筆か、鵝ペンか、それとものみで書けと云うのか。
己は君の註文どおりにするのだがね。 
 
    メフィストフェレス
何もそんなにむきになって誇張した
言草をしなくったって好いでしょう。
 
どんな紙切でも好いのです。
ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。 
 
    ファウスト
それで君の気が済むことなら、
下らない為草しぐさだが異存はないよ。 
 
    メフィストフェレス
血という奴は兎に角特別な汁ですからね。
  
 
    ファウスト
己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。
平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、
君に約束する事とが一つなのだからね。
己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。
所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。
 
大なる霊は己を排斥して、
「自然」の戸は己の前に鎖された。
思量の糸は切れて、
あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。
どうぞ官能世界の深みに沈めて、
 
燃える情欲の渇をいやしてくれ給え。
未だかつてかかげられたことのない秘密の垂衣たれぎぬの背後に
一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。
さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に
この身を投げよう。
 
受用と痛苦と、
成就と失敗とが
あらん限の交錯をなして来るだろう。
活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。 
 
    メフィストフェレス
あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。
 
どうぞ到る処に撮食つまみぐいをして、
逃げしなにい物を手繰たくりなさるが好い。
たんとおたのしみなさって、跡腹の病めないようになさい。
兎に角すばしこく手をおだしなさい。ぼんやりしていないで。 
 
    ファウスト
いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。
 
最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。
恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。
物の識りたい欲をなげうったこの胸は、
これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、
人間全体の受くるべきはずのものを
 
この内の我で受けて味わって見よう。
この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、
歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、
この自我を即人生になるまで拡大して、
遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。
  
 
    メフィストフェレス
まあ、おききなさい。わたしは何千年と云う間
このしわいお料理をんでいるから、知っています。
揺籃ゆりかごから棺桶までの道中に、
この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。
わたしどもは知っています。この一切の御馳走は
 
神と云う奴でなくてはこなせない。
なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、
わたしどもをいつも暗い所に置いて、
あなたがた夜昼よるひるを寝たり起きたりして過させるのだ。 
 
    ファウスト
しかし己は遣って見る。 
 
    メフィストフェレス 
 
          さあ、出来ないこともないでしょう。
 
だが、気になることが一つありますよ。
時は短くして道は長しですな。
のぞみ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなうような工夫をおさずけしましょうか。
一つ詩人と云う奴と結托なさるです。
そこでその先生が思想を馳騁ちていして、
 
宇宙の物のあらゆる栄誉を
あなたの頭銜とうかんに持って来るのです。
胆大たんだいなること獅子の如く、
足早きこと鹿の如く、
血の熱することイタリア人の如く、
 
堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。
その先生におたのみなさって、宏量と狡智とを兼ねて、
温い青春の血を失わずに、
予定の計画どおりに恋をすると云う
秘法を授けてお貰なさるが好い。
 
わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。
そして小天地先生の尊号をたてまつるですな。 
 
    ファウスト
しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、
窮めようとしている人生の頂上が
窮められないものとしたら、己は一体何物だ。
  
 
    メフィストフェレス
あなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。
何百万本の※(「糸+求」、第4水準2-84-28)ちぢれけを植えた仮髪をおかぶりなさっても、
何尺と云う高さの足駄をお穿はきなさっても、
所詮あなたはあなたですな。 
 
    ファウスト
己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、
 
己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。
さてじっと据わって考えて見ても、
内から新しい力は涌いて出ぬ。
毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。
己は一歩も無極に近づいてはいぬ。
  
 
    メフィストフェレス
いや、先生、それは通途つうずの物の見ようで
物を御覧になると云うものだ。
生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、
も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。
なに、べらぼうな。それはたしかにあなたの物と云うのは、
 
手足や頭やし□だけでしょう。
しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、
それが自分の物でないとは云われません。
六匹の馬のだいが払えたら、
その馬の力が自分のではないでしょうか。
 
そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に
二十四本足のある男だ。
さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞはやめにして
御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。
わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、
 
牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を
圏なりに引き廻されているようなものです。
その外囲そとまわりにはどこにも牧草が茂っているのに。 
 
    ファウスト
そこで手始にどうしろと云うのだ。 
 
    メフィストフェレス 
 
               出掛けるですね。
一体ここはなんと云う拷問所ごうもんじょです。
 
こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、
生きていると云うものですか。
こんな事は御同僚の太っ腹に任せておおきなさい。
なんだっての無いわらをいつまでもくのですか。
それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は
 
学生どもには言うことが出来ないのでしょう。
そう云えば、さっきから廊下に一人ひとり来ているようですね。 
 
    ファウスト
今面会することは己には出来ないが。 
 
    メフィストフェレス
小僧大ぶ長く待っているのだから、
慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。
 
一寸その上衣と帽子とをわたしにおかしなさい。
こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。

(メフィストフェレス著換ふ。)

これで好い。跡はわたしの頓智に任せておおきなさい。
十五分間もあれば沢山だ。
どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。
 

(ファウスト退場。)

    メフィストフェレス(ファウストの服装にて。)
へん。これからは人間最高の力だと云う
理性や学問を馬鹿にして、
幻術魔法によって、
いつわりの心を長ぜさせるrbが好い。
そうなりゃあ先生こっちのものだ。
 
なんの箝制けんせいも受けずに、前へ前へと進んで行く
精神を運命に授けられたので、
先生慌ただしい努力のために、
下界の快楽けらくを飛び越して来たものだ。
これから己が先生を乱暴な生活、
 
平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、
もがかせて、放さずに、こびり附かせて、
※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)くことを知らない嗜欲の脣の前に、
旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。
先生医し難い渇に悶えるだろう。
 
そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、
破滅せずにはいられまいて。

一学生登場。

    学生
わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、
どこで承っても御高名な
先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、
 
わざわざまかり出ましたのですが。 
 
    メフィストフェレス
これは御丁寧な挨拶で痛み入る。
わしもほかに沢山いるとおりのなみの男だ。
どうだね。少しはここらの様子を見たかね。 
 
    学生
どうぞ何分宜しくおねがい申します。
 
わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、
奮発して出て参ったものでございます。
母はなかなか手放しませんでしたが、
是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。 
 
    メフィストフェレス
それは君丁度好い土地へ来られた。
  
 
    学生
実の所はなんだかもう帰りたくなりました。
この高い石垣や広い建物を見ますと、
余りい心持はいたしません。
なんだかこう窮屈らしい所で、
草や木のような青いものも見えませんし、
 
講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、
なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。 
 
    メフィストフェレス
それは習慣ですよ。
生れたばかりの赤子に乳を含ませると、
すぐには吸い附かないものだ。
 
少し立てば旨がって飲む。
それと同じ事で今に君も知識の乳房に
かじり附いて離れないようになるさ。 
 
    学生
それはわたくしも学問の懐に抱かれないのは山々です。
どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。
  
 
    メフィストフェレス
まあ、外の話は跡の事にして
何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。 
 
    学生
ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と学問とに
 
通じたいと存じます。 
 
    メフィストフェレス
それは至極のお考だ。
しかし余所見をしては行けませんよ。 
 
    学生
それは体をも魂をも委ねて遣ります。
しかし愉快な暑中休暇なんぞには
 
少しは自由を得て暇潰ひまつぶしな事も
遣られるようだと好いのですが。 
 
    メフィストフェレス
光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。
なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。
まあ、わしに御相談とあれば、
 
最初に論理学を聴くだね。
そこで君の精神が訓錬を受けて、
スパニアの長靴で腓腸ふくらはぎを締め附けられたように、
思慮の道を
改めてゆっくり歩くようになるのだ。
 
燐火が空を飛ぶように、
縦横たてよこ十文字に跳ね廻っては行かん。
それから暫くはこう云う教育を受ける。
たとえば勝手に飲食のみくいをするように、
これまで何事も一息に、無造做むぞうさにしたのを、
 
一、二、三と秩序を経て遣るようにする。
一体思想の工場こうば
機屋の工場のようなもので、
一足踏めば千万本の糸が動いて、
は往ったり来たりする、
 
目に止まらずに糸を流れる、
一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。
哲学者と云う奴が出掛けて来て、
これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。
第一段がこうだ、第二段がこうだ。
 
それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。
もし第一段、第二段がなかったら、
第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。
そんな理窟をどこの学生も難有ありがたがっている。
しかし誰も織屋になったものは無い。
 
誰でも何か活動している物質を認識しよう、
記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを
エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。
 
自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。 
 
    学生
どうも仰ゃる事が皆は分かりません。 
 
    メフィストフェレス
それは君が複雑な事を単一に戻して、
それぞれ部門に入れて考えるようになると、
おいおい今よりは好く分かるようになる。
  
 
    学生
どうも頭の中で擣屋つきやの車が廻っているようで、
ぼうっとしてまいりました。 
 
    メフィストフェレス
それから君、先ず何は措いても、
形而上学に取り掛からなくてはいかん。
なんでも人間の頭にまりにくい事を、
 
あの学問で深邃しんすいに領略するのだね。
頭に這入る事をすにも、這入らない事を斥すにも
立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。
それはまあ、後の事として、最初半年は
講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。
 
毎日五時間の課程がある。
鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。
聴く前に善く調べて置いて、
一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。
そうすると、先生が本に書いてある事より外には
 
なんにも言わないのが、跡で好く分かってい。
しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。
聖霊せいれいが口ずから授けて下さると云うかんがえでね。 
 
    学生
それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。
筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。
 
なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、
安心して内へ持って帰ることが出来ますから。 
 
    メフィストフェレス
ところで君、兎に角何科にするのだね。 
 
    学生
どうも法律学は遣りたくありません。 
 
    メフィストフェレス
わしもあの学科の現状は知っているから、
 
君が気の進まないのも無理とは思わない。
兎角法律制度なんと云うものは
永遠な病気のように遺伝して行く。
先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、
国から国へゆるゆると広められる。
 
そのうち道理が非理になって、仁政が秕政ひせいになる。
人は澆季ぎょうきには生れたくないものだ。
さて人間生れながらの権利となると、
惜いかなどこでも問題になっていない。 
 
    学生
そのお話で厭なのが益々厭になりました。
 
先生のお指図を受けるものは、実に為合しあわせです。
そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。 
 
    メフィストフェレス
そうさな。君を方向に迷わせたくはない。
あの学問をして、
邪路にはしらないようにするのは、すこぶるむずかしいて。
 
あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。
それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。
まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、
その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。
概して詞に、言句にたよるに限る。
 
そうすれば不惑の門戸から
堅固の堂宇に入ることが出来る。 
 
    学生
しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。 
 
    メフィストフェレス
それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬがい。
なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、
 
詞が猶予なく差しているものだ。
詞で立派に議論が出来る。
詞で学問の系統が組み立てられる。
詞に都合好く信仰を托することが出来る。
詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。
  
 
    学生
どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、
も少し御面倒を願いたいのでございます。
どうぞ医学はどんなものだと云うことについても
しっかりした御一言を承らせて下さいまし。
三年の学期は短いのに、
 
学問の範囲は実に広いのです。
先生がちょいと一言方針を御しめし下さいますと、
それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。 
 
    メフィストフェレス(独語。)
もうそろそろ乾燥無味な調子にきて来た。
ちと本色の悪魔で行って遣るかな。
 

(声高く。)

医学の要旨は造做もないものだよ。
君は大天地と小天地とを窮めるのだ。
そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、
なるがままにさせて置くのさ。
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、
 
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。
ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、
それが本当の男と云うものだ。
見た所が、君は大ぶ体格がい。
度胸もなくはないだろう。
 
そこで君に自信が出来て来ると、
世間の人も自然に君を信じて来るのだ。
殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。
女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、
いろいろな言葉の絶える時はない。
 
それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。
そこで君がかなり真面目に遣って行くと、
女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。
なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より
君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。
 
さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって
障られない所々ところどころを、初対面のしるしにいじって遣る。
脈なんぞを旨く取るのだね。
そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、
熱心らしい、狡猾そうな目附めつきをして、
 
探って見て遣るのだね。 
 
    学生
そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。 
 
    メフィストフェレス
兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、
緑なのは黄金こがねなす生活の木だ。 
 
    学生
正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。
 
また改めて先生のお説の極深い処を伺いに
参りましても宜しゅうございましょうか。 
 
    メフィストフェレス
なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。 
 
    学生
恐れ入りますが、お暇乞をいたすには
この記念帖にお書入かきいれを願わなくてはなりません。
 
どうぞ先生の御眷顧ごけんこを蒙りましたおしるしを。 
 
    メフィストフェレス
お易い事で。

(書きて渡す。)

    学生(読む。)
エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
(爾等知善与一レ悪。則応神。)

(恭しく帖を閉ぢて退場。)

    メフィストフェレス
その古語のとおりにしろ。己の姪の蛇の云うとおりにしろ。
一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。
 

ファウスト登場。

    ファウスト
さあ、どこへ行くのだ。 
 
    メフィストフェレス 
 
          おすきな所へ行きましょう。
先ず御一しょに小天地を見て、それから大天地を見ます。
まあ、一とおりの修行を遣って御覧なさい。
なかなか面白くて有益ですよ。 
 
    ファウスト
しかしこの長い髯の看板どおりに、
 
気軽な世間の渡様わたりようは己には出来ない。
所詮遣って見ても旨くは行くまいて。
己には世間に調子を合せると云うことが出来たことがない。
人の前に出ると、自分が小さく思われてならない。
己は間を悪がってばかりいるだろうて。
  
 
    メフィストフェレス
そんな事はどうにかなりますよ。
万事わたしにお任せなさると、すぐに調子が分ります。 
 
    ファウスト
そこでどうしてこの家を出て行くのだ。
馬や車やともなんぞはどこにある。 
 
    メフィストフェレス
それはついこの外套を拡げればい。
 
これに乗って空を飛んで行くのです。
この大胆な門出には
大きな荷物だけは御免蒙ります。
わたしが少しばかりの瓦斯ガスを製造しますと、
そいつが造做なく二人を地から捲き上げてくれます。
 
そこで荷が軽いだけ早くのぼれる。
新生涯の序開だ。ちょっとおよろこびを申します。