ゲーテ ファウスト

.

魔女のくりや

 

(低き竈の火の上に、大いなる鍋掛けあり。その鍋より立ちのぼる蒸気の中に種々の形象を現ず。尾長猿の牝鍋の傍にうずくまり、鍋の中を掻き廻し、煮え越さぬやうにす。尾長猿の牡と小猿等とはその傍に蹲り、火に当りゐる。天井と四壁とは魔女の用ゐる極めて異様なる器械にて装飾しあり。)
ファウスト、メフィストフェレス登場。

    ファウスト
己は気違染みた魔法さわぎは気に食わぬ。
この物狂おしい混雑の中で
己の体がなおると、君は受け合うのか。
己に婆あさんの指図を受けさせて、
 
この腐料理くされりょうりで取った年を三十も
跡へ戻してくれようと云うのか。
これ以上の智慧が君にないなら、己はもう駄目だ。
己の希望の影はもう消えてしまった。
一体自然か哲人かがこれまでに
 
何か霊薬のようなものを一つ位見出さなかったのか。 
 
    メフィストフェレス
いや。あなたはまた理窟を言い出しましたね。
それはあなたを若返らせるには、自然的な方法もあります。
しかし全く別な本に書いてある
奇妙な一章ですよ。
  
 
    ファウスト
己はそれが知りたい。 
 
    メフィストフェレス 
 
         宜しい。それは金も医者も
魔法もなしに獲られる方です。
すぐに野らへお出掛でかけなさい。
そして鋤鍬を使い始めるですね。
それから極狭い範囲の内に、
 
自己と自己の精神とを閉じ籠めて置くですね。
食物はまじりのない物を食う。家畜と一しょに
家畜になって生きる。自分の取入とりいれをする畑は、
自分で肥やしをするのを不都合とは思わない。
これなら八十になっても若くていられる
 
絶好の手段だと云うことを、御信用なさって宜しい。 
 
    ファウスト
それは己の慣れぬ事で、手に鋤を取るとまでは、
どうも己は身を落すことが出来ない。
その上狭い範囲の生活も己の柄にない。 
 
    メフィストフェレス
するとやはり魔女の厄介になるですな。
  
 
    ファウスト
しかしなぜ婆あでなくてはならんのか。
君が自分でその薬を調合したって好いだろう。 
 
    メフィストフェレス
そいつは難有ありがた過ぎた暇潰ひまつぶしですて。そんな暇があると、
魔の橋と云うのがあるが、わたしは橋を千位掛けます。
ああ云う薬は学術ばかりでは出来ない。
 
忍耐がなくては駄目です。
静かに落ち著いた奴が長の年月骨を折って、
その間にただ「時」が薬の発酵を強くするのです。
それに調合が複雑で、
中には不思議な物が這入るのです。
 
無論それも悪魔が授けた方ですが、
悪魔が自身で拵えるわけには行きません。

(獣等を見て。)

御覧なさい。なんと云う可哀らしい奴等でしょう。
あいつが女中で、あいつが家隷けらいです。

(獣等に。)

お上さんは留守らしいね。
  
 
    獣等
烟出けむだしから
内を抜け出て
馳走になりに行きました。 
 
    メフィストフェレス
いつもどの位の間ぶら附いて帰るのだい。 
 
    獣等
わたしどもが手をあぶっている間の留守です。
  
 
    メフィストフェレス(ファウストに。)
どうです。あのきゃしゃな畜生どもは。 
 
    ファウスト
己の見た物の中で、この位ぶさまな物はないな。 
 
    メフィストフェレス
いやいや。今こいつ等と遣るような会話が
わたしは一番すきなのです。

(獣等に。)

おい。のろわれた人形ども。お前達に聞くのだが、
 
そのどろどろした物を掻き交ぜているのはなんだい。 
 
    獣等
これですか。乞食に施すうすい粥です。 
 
    メフィストフェレス
そんならお客はおお勢だな。 
 
    牡猿

(歩み寄り、メフィストフェレスに追従ついしょうす。)

どうぞすぐに旨いさいの目を出して、
わたしに儲けさせて、
 
わたしを金持にして下さい。
随分みじめな身の上です。
これで金さえ持っていると、
も少し智慧も出るのです。 
 
    メフィストフェレス
分かっているよ。富籤にでもあたったら、
 
猿も為合しあわせだろうがな。

(この間小猿等大いなるたまを弄びゐたるが、その丸を転がし出す。)

    牡猿
これが世界だ。
上がったり降りたり、
止所とめどなく廻っている。
たまは硝子の音がする。
 
こわれるのに造做ぞうさはない。
なか空洞うつろだ。
あそこは光る。
あそこはなお光る。
丸奴たまめは生きている。
 
己の好い子だ。
おもちゃにするな。
そちゃ死ぬるのだ。
丸は土焼つちやき
かけらが出来る。
  
 
    メフィストフェレス
あのふるいはなんにするのだい。 
 
    牡猿(篩を取り卸す。)
もしあなたが盗坊どろぼうなら、
これですぐに見あらわします。

(牝猿の所に持ち行き、透かし見さす。)

さあ、篩で透かして見ろ。
もし盗坊が分かっても、
 
うっかり口で言いっこなしだ。 
 
    メフィストフェレス(火に近づきつゝ。)
そんならこの鍋は。 
 
    牝牡の猿
馬鹿なお方だ。
鍋一つ御存じない。
釜一つ御存じない。
  
 
    メフィストフェレス
失敬な畜生だな。 
 
    牡猿
この払子ほっすをこう持って、
その腰掛にお掛けなさい。

(メフィストフェレスを椅子に掛けさす。)

    ファウスト

(この間大鏡の前に立ちて、半ばそれに歩み近づき、また半ばそれに歩み遠ざかりゐたるが。)

この己の目に見える、あれはなんだ。この魔の鏡に映るのは、
まあ、なんと云う美しい姿だろう。
 
愛の神に頼むが、お前の翼の一番早いのを貸して、
己をあの女のいる境へ遣ってくれい。
己がここにまっていずに、
鏡の傍へ寄って行くと、
姿は霧を隔てて見るようにぼやけて見える。
 
女と云うものの一番美しい姿はこれだ。
こうも美しい女の姿が世にあろうか。
この横わった体に
天と云う天のせいを見ずばなるまい。
所詮にはこんな物はないのだから。
  
 
    メフィストフェレス
なんの不思議なものですか。神が六日の間働いて、
最後に自分で喝采したのだから、何か少しは
気の利いたものが出来ていなくてはなりません。
差当りあれをたんのうするまで御覧なさい。
今にあなたにあんな好い子を見附けて上げます。
 
運が好くてあんなのの壻になる奴は
為合者しあわせものですね。

(ファウストは依然鏡の中の像を見ゐる。メフィストフェレスは椅子の上にてのびをし、払子を揮ひつゝ語り続く。)

ここの所一寸王が玉座に著いたと云う形だ。
君主の杖も持っている。頭にかんむりがないばかりだ。 
 
    獣等

(これまで種々の怪しげなる動作をなしゐたるが、この時大声にて叫び交しつゝ冠一つ持ち来て、メフィストフェレスに捧ぐ。)

お願ですから
 
この冠を
汗と血とで著けて下さい。

(手づつなる持扱もてあつかいざまをして、冠を二つに割り、そのかけらを持ちて跳り廻る。)

とうとうおしまいだ。
口でしゃべって目では見る。
耳では聞いて歌にする。
  
 
    ファウスト(鏡に向ひて。)
ああ、どうしよう。己はどうやら気が狂いそうだ。 
 
    メフィストフェレス(獣等を指さす。)
もうこうなると己でさえ頭がぐらぐらして来る。 
 
    獣等
こっちとらに出来るなら、
こっちとらがしていなら、
そんならそれがかんがえだ。
  
 
    ファウスト(前の如き態度にて。)
ああ。己の胸は燃えて来た。
どうぞ一しょに早く逃げてくれ。 
 
    メフィストフェレス(前の如き態度にて。)
兎に角正直に告白する
詩人だとは認めて遣らなくてはなるまい。

(この間牝猿の等閑になしゐたる鍋煮え越す。大いなる※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)かえん燃え立ちて、烟突に向ふ。魔女恐ろしき叫声をなし、烟突より火※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の中を穿うがちて降る。)

    魔女
アウ。アウ。アウ。アウ。
 
咀われた畜生奴。ぶた奴。
鍋はほうって置く。上さんには火傷やけどをさせる。
咀われた畜生奴。

(ファウスト、メフィストフェレスの二人を見て。)

ここには何事がある。
お前達は何者だ。
 
ここへは何しに来た。
なぜ留守に這い込んだ。
お前達は骨々に
火で焼くいたみが見たいのか。

(魔女杓子にて鍋を掻き廻し、ファウスト、メフィストフェレス、獣等に※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおを弾き掛く。獣等おそれうめく。)

    メフィストフェレス

(手に持ちたる払子を逆にして、柄にてあたりの土器、玻璃器はりきたたき立つ。)

れ。打ち破れ。
 
粥は引っ繰り返れ。
硝子はかけらになれ。
これでも洒落だよ。
腐女奴くされおんなめ
手前の歌に合せる拍子だ。
 

(魔女の憤り且つ驚きて退くを見つゝ。)

やい。骸骨奴。案山子かかし奴。己を見忘れやがったか。
檀那様、お師匠様を見忘れやがったか。
実は遠慮はいらんのだ。手前も猫の怪物も、
腕を出せば、敲き潰して遣るのだぞ。
いつ赤い胴著がこわくなくなったのだ。
 
帽子に挿した鳥の羽が見えんか。
己がつらでも隠しているかい。
己に名告なのりをしろと云うのかい。 
 
    魔女
やあ。檀那。飛んだ御無礼をいたしました。
蹄を隠していらっしゃるもんだから。
 
それに二羽のからすはどうなさいました。 
 
    メフィストフェレス
こん度だけは特別でゆるして遣る。
それは顔を合せないことが
大ぶ久しくなっているからな。
それに文化と云う奴が世の中をめ廻して、
 
悪魔をも只では置かねえのだ。
北国生れのおばけはな、もう見ることが出来ないよ。
それ、角や、尻尾しっぽや、爪なんぞは見えまいが。
ただ足は無いと不自由だが、
見せては世間のとおりが悪い。
 
そこでもうよほど前から、若い奴等がするように、
腓腸ふくらはぎ贋物にせものを食っ附けて歩いているのよ。 
 
    魔女(踊りつゝ。)
サタンの檀那がおいでては、
わしゃ嬉しゅうて気が狂う。 
 
    メフィストフェレス
こら。そんな名を口に出すと云うことがあるか。
  
 
    魔女
そりゃなぜでございます。あの名がなんといたしました。 
 
    メフィストフェレス
あれはな、もうお伽話に書かれてから久しゅうなる。
そのくせ人間のためには好くはならない。
一人の悪魔はいなくとも、悪人はおお勢いるからな。
兎に角これからは己を男爵閣下と云うが好い。
 
華族のうようよいる中の己も華族の一人なのだ。
まさか己の血筋が怪しいとは云うまい。
それ、己の紋所はこれだ。

猥褻わいせつなる身振をなす。)

    魔女(止所とめどなく笑ふ。)
へ。へ。お前様のおきまりだ。
やっぱり今でも昔のままの横著者でいらっしゃる。
  
 
    メフィストフェレス(ファウストに。)
どうです。覚えておおきなさい。
これが魔女の扱振あつかいぶりです。 
 
    魔女
そこであなた方の御用向は。 
 
    メフィストフェレス
実は例の薬をたっぷり一杯貰いたいのだ。
だが一番年を食った好い奴でなくてはいけない。
 
一年ましに強く利くのだからな。 
 
    魔女
お易い御用でございます。ここに一瓶ひとびん
わたくしのちょいちょいめるのがございます。
もうちっとも臭くはございません。
これを一杯献じましょう。(小声にて。)
 
ですが、御承知のとおり禁厭まじないなしにあの方が上がると、
一時間とは生きていられませんよ。 
 
    メフィストフェレス
いいや。大事な友達だ。好く利かなくてはならない。
手前の台所の一番好いものが飲せたいのだ。
手前例のをかいて、文句を言って、
 
たっぷり一杯上げてくれ。
 

(魔女怪しげなる動作にて圏をかき、その中に種々の物を排置す。そのうち玻璃器、金属器自ら鳴りて楽を奏し始む。最後に猿等を圏の中に入れ、大いなる書籍を取り出し、一匹の猿を卓にしてそれを載せ、他の猿には炬をらしむ。さてファウストを招きて圏の中に入らしむ。)

  
 
    ファウスト(メフィストフェレスに。)
君これはどうすると云うのだい。
こんな馬鹿げた真似、気違染みた為草しぐさ
無趣味極まる欺瞞まやかし
僕はうから知っている。大嫌だいきらいだ。
  
 
    メフィストフェレス
何を気にするのです。ただ笑わせるまでですよ。
そんなに窮屈に考えなくても好いじゃありませんか。
あいつも医者だから、薬が好く利くように、
禁厭まじないをして飲ませなくては気が済まないのです。

(ファウストを強ひて圏の中に入らしむ。)

    魔女

(大袈裟なるこれ見よかしの表情にて、書の中より朗読し始む。)

「汝すべからくすべし。
 
一より十をせ。
二は去るに任せよ。
而してただちに三にけ。
然らば則ち汝は富まむ。
四は喪失せよ。
 
五と六とより
七と八とを生ぜしめよ。
是の如く魔女は説く。
是においてや成就すべし。
九は則ち一なり。
 
十は則ち無なり。
之を魔女の九九と謂ふ。」 
 
    ファウスト
婆あさん熱に浮かされているのじゃあるまいか。 
 
    メフィストフェレス
まだなかなかあんな物じゃありません。
わたしは好く知っていますが、あの本は皆あんな調子です。
 
随分あれで暇を潰したこともあります。
なぜと云うと、まるで矛盾した事は
智者にも愚者にも深秘らしく聞えますからね。
あなたに言いますが、学術は新しいようで古い。
原来三と一だの、一と三だのと云って、
 
真理のかわりに妄想を教えるのは
いつの世にもある遣方やりかたです。そんな工合に
誰にも邪魔をせられずに饒舌しゃべって教えています。
誰が馬鹿に構うものですか。
大抵人間はただことばばかりを聞せられると、
 
何かそれに由って考えられるはずだと思うのです。 
 
    魔女(誦し続く。)
「夫れ学術の
崇高なる威力は
全世界に秘せらる。
然れども思量せざる者
 
贈遺の如くに得べし。
労苦することをもちゐず。」 
 
    ファウスト
なんの無意味な事を己達に言って聞せるのだ。
もうすぐにこの頭が割れそうになって来る。
己にはなんだか馬鹿が十万人も
 
むれをなしてしゃべっているように思われる。 
 
    メフィストフェレス
もうい、好い。えらい巫子みこさん。
早く薬を持って来て、杯の縁まで
一ぱいに注いでくれ。
己の友達にはあの薬が障る気遣はない。
 
この人はこれまでにもいろんな薬を飲んで見て、
大ぶ位の附いている人だから。

(魔女複雑なる作法をなして薬を杯に注ぐ。それをファウスト受けて唇に当つるとき、軽き※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)燃え立つ。)

構わずにぐいとおのみなさい。休まずにぐいと。
すぐにい心持になります。
悪魔と君だの僕だのと云うあなたが、
 
火なんぞをこわがるのですか。

(魔女圏を解く。ファウスト脱出す。)

    メフィストフェレス
さあ、すぐに出掛けましょう。じっとしていてはいけません。 
 
    魔女
もし、あなた、お薬が好く利くようにおいのり申します。 
 
    メフィストフェレス(魔女に。)
何か返礼に己に頼みたい事があるなら、
ワルプルギスの晩に遠慮なく言うがい。
  
 
    魔女
それからこの歌の本を上げますから、時々おうたいなさい。
不思議な利目がございますからね。 
 
    メフィストフェレス(ファウストに。)
さあ、わたしが案内しますから、早くおいでなさい。
薬が内外うちそと一面に染みるように、
汗を出さなくてはいけません。
 
これから高尚な懶惰らんだの価値を分からせて上げる。
今にあなたの体の中で、愛の神が動き出して
折々跳ね廻るのを、面白くお感じになるのだ。 
 
    ファウスト
まあ、待ってくれ。一寸今一度あの鏡を見なくては。
あの女の姿があんまり好かったから。
  
 
    メフィストフェレス
よしなさい。お廃なさい。今にあらゆる女の
手本になるのを、正味で御覧に入れますから。

(聞えぬやうに。)

あの薬が這入っているから、
今にどの女でもヘレナに見える。