ゲーテ ファウスト

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小さき清げなる室。
マルガレエテ辮髪べんぱつを編み結びなどしつゝ。

    マルガレエテ
きょうのおかたがどなただか知れるなら、
何かかわりに出してもいと思うわ。
大そうはきはきしたお方のようだったこと。
 
きっとい内のかただわ。
わたしお顔を見たら、すぐ分かってしまった。
でなくては、あんな不遠慮な事はなさらないわ。(退場。)

メフィストフェレス、ファウスト登場。

    メフィストフェレス
さあ、這入るのです。そっと、構わずに。 
 
    ファウスト(暫く黙りゐて。)
どうぞ己をひとりで置いて行ってくれ。
  
 
    メフィストフェレス(四辺を探るやうに見つゝ。)
なかなかどの娘でもこう綺麗にしているものではないて。(退場。) 
 
    ファウスト(あたりを見廻す。)
この神聖な場所を籠めてくれる、
優しい、薄暗い黄昏時たそがれどきよ。好く来てくれた。
渇してわずかに吸う希望の露に命を繋いでいる、
優しい恋のなやみよ。己の胸を占めてくれい。
 
静けさ、秩序ある片附方、物に満足している心持が、
なんとなくこの周囲に浮動しているではないか。
この物足らぬ中になんと云う豊富なことだろう。
この人屋めいた中になんと云う祝福のあることだろう。

(寝台の傍の鞣革なめしがわの椅子に身をす。)

この椅子はあれがまだ生れぬ世を、よろこびにつけかなしみにつけ、
 
かいなを拡げて迎え容れた椅子であろう。
己に掛けされてくれ。家の長老の座のこの椅子に、
幾度か取り巻く子等の群がぶら下がったことであろう。
事に依ったら、あの子がまだふくらんだ頬をしていた時、
神聖なクリストの恩を謝して、この椅子にっている
 
家の長老の萎びた手に、敬虔なキスをしたかも知れぬ。
ああ。い子よ。毎日お前に母のような指図をして、
この卓の上にきれを綺麗にひろげさせ、
足に踏む砂をさえ美しく波立つようにさせる、
そのゆたけさとととのいとの精神が、
 
身の辺にそよいでいるのを己は感ずる。
まあ、なんと云う可哀い手だろう。神々の手のような。
お前のお蔭でこの小屋が天堂になるのだ。
そしてここは。

(手にて寝台の帷の一ひらをかかぐ。)

      まあ、なんと云うぞっとする嬉しさが襲うだろう。
己はたっぷり何時間もここに立ちもとおっていたい。
 
自然よ。お前はここで軽らかな夢の中に、
ただ一度しか生れぬ天使を育てたのだ。
優しい胸に温い性命の満ちている
穉子おさなごがここにいたのだ。
物を織り成す、神聖な、清浄な力で、
 
あの神々こうごうしい姿貌すがたかたちがここで発展したのだ。
 
そこで貴様はどうだ。何がここへ連れて来たか。
己は心の底から感動させられてしまう。
貴様はここで何をしようと思う。なぜそう胸が苦しゅうなる。
けちなファウスト奴。貴様は見違えた奴になったなあ。
 
 
禁厭まじないもやが己をここで包んでいるだろうか。
驀直まくじきに受用しようと云ううながしが己を駆って来たのに、
恋の夢に己は解けて流れるように感ずるではないか。
空気のあつの変るまにまに己は弄ばれて変るのか。
 
もしこの刹那にあれがここへ這入って来たら、
 
己の無作法はどんなにか罪なわれるだろう。
大きなのろま男奴。なんと云う小さくなりようだ。
大方おおかたあれが足の前にとろけた様になって俯さるだろう。

メフィストフェレス登場。

    メフィストフェレス
早くおしなさい。娘が下を遣って来ます。 
 
    ファウスト
行こう、行こう。己はもうここへは来ない。
  
 
    メフィストフェレス
ここにある所から持って来た、
一寸目方のある箱がありますがな。
兎も角もこれをそこの箪笥たんすに入れてお置きなさい。
あの娘が見て気が遠くなる程欲しがることは受合うけあいです。
あいつの体のいろんな物があなたのおもちゃになるように、
 
わたしがこの箱にいろんなおもちゃを入れて置きました。
相手の子供は子供でもこっちの細工は細工ですから。 
 
    ファウスト
さればさ。そんな事をしたものだろうか。 
 
    メフィストフェレス 
 
                  それに文句がありますか。
それともこの品物をあなたが持っていなさるつもりですか。
そんならあなたも色気なんぞを出して
 
結構な暇を潰すことをおよしになり、
わたしにもこれからさきの骨折を免じてお貰申したい。
まさかあなたはけちなのではありますまいね。
あの可哀らしい小娘を
あなたの胸のおのぞみどおりになびかせようとしている
 
わたしに、頭を掻かせたり、手を摩らせたりするのですか。

(小箱を箪笥に入れ、じょうを卸す。)

さあ、早く逃げましょう。
なんです、その顔は。
今から講堂へでも出て行こうと云うのですか。
形而下学と形而上学とがさながら現われて来て、
 
灰色の顔をしてあなたの前にでも立っていると云うのですか。
さあ、逃げましょう。(退場。)

マルガレエテ燈をりて登場。

    マルガレエテ
なんだかここは鬱陶しくて、むっとするようだこと。

(窓を開く。)

そのくせそとはそんなに暑くもないのに。
わたしなんだか分からないが、変な心持がするわ。
 
早くあさんがお内へおかえりだと好い。
なんだかこう体中からだじゅうがぞくぞくしてならない。
まあ、わたしはなんと云う馬鹿げた、臆病な女だろう。

(著物を脱ぎつゝ歌ひ始む。)

「昔ツウレに王ありき。
ちかいかえせぬ君にとて、
 
いも黄金こがねの杯を
遺してひとりみまかりぬ。
 
こよなき宝の杯を
しけりうたげの度毎に。
この杯ゆ飲む酒は
 
涙をさそふ酒なりき。
 
死なん日近くなりし時
国のあがたの数々を
世嗣よつぎの君に譲りしに、
杯のみはめ置きぬ。
 
 
海に臨めるの上に
王は宴を催しつ。
壮士ますらおあまた宮内みやぬちに、
御座おましの下に集ひけり。
 
これをかぎりの命の火
 
盛れる杯飲み干して、
その杯を立ちながら
海にぞ王は投げてける。
 
落ちて傾き、沈み行く
杯を見てうつむきぬ。
 
王は宴の果てゝより
飲まずなりにき雫だに。」

(著物を納めんと、箪笥を開き、小箱を見る。)

おや。どうしてこんな美しい箱が這入っているのだろう。
わたし錠はたしかに卸して置いたのに。
本当に不思議だこと。何が入れてあるのだろう。
 
誰かあ様にお金を借りに来て
質に入れて置いたのかしら。
おや。ここに鍵が紐で縛り附けてあるわ。
わたしけて見ようや。
まあ、これはなんだろう。たいした物だわ。こんな物は
 
わたし生れてからついぞ見たことがないわ。
装飾品だわ。どんな貴婦人がどんな宴会へでも
附けて行かれるだろうと思うわ。
わたしにでも似合うかしら。
一体誰のだろう。
 

(装飾品を身に附けて鏡に向ふ。)

この耳輪だけでもわたしのだとい。
別の顔のように美しく見えるわ。
ほんとに若くても綺麗でもなんにもなりゃしない。
それだけでも好いには好いのだけれど、
人もそれだけにしきゃ思ってはくれない。
 
褒めるにでも気の毒がりながら褒めるのだもの。
みんなに附いて来られるのも、
ちやほやして貰われるのも、お金次第だわ。
わたしなんぞのように貧乏では為方しかたがないわ。