ゲーテ ファウスト 森鴎外訳

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山中の谷、森、岩、凄まじき所

 

山の上、巌穴の間に、神聖なる隠遁者等分かれゐる。

    合唱の声と谺響こだま
ゆらぎてなびき寄る木立。
かたわらかさないわお
 
絡み附く木の根。
幹と幹とはひたと並べり。
谷川は波立ちてほとばしり、
いと深き岩穴いわあなは蔭をなせり。
獅子はもだありて優しく、
 
我等の周囲めぐりを歩み、
尊き境を、
せいなる愛の御庫みくらを畏み守れり。 
 
    感奮せる師父

(虚空を昇降しつゝ。)

とはなるよろこびの火。
燃ゆる愛の契。
 
沸きかへる胸のいたみ
泡立つ神のきょう
征箭そやよ。我を貫け。
槍よ。我を刺せ。
杖よ。我を砕け。
 
雷火よ。我を焼け。
いたずらなるものを
すべあらけしめ、
とはなる愛の核心かくしんたる、
とはなる星を照らしめよ。
  
 
    沈思せる師父(低き所にて。)
深き谷底の上に、
わが脚下あしもとなるいわおの重くすわれる如く、
千筋の小川おがわの、
恐ろしき滝のしぶきと、流れ落つる如く、
おのが強き力もて、
 
木の幹の真直ますぐくうに聳ゆる如く、
所有あらゆる物を造り、所有る物を育つる
大威力の愛現前せり。
 
森も石根いわねも波立つ如く、
激する水音は身の周囲めぐりに聞ゆれど、
 
怒号しつゝも心優しく、
谷間の土を肥やさんため、
その豊かなる滝の水は滝壺にぞ流れ落つる。
毒ある霧を懐ける
下界の空気を浄めんため、
 
雷火はかがやきつゝぞくだり撃つ。
 
こは皆愛の使なり。
この身の周囲めぐりにありて、永遠に物を造る力を、この使は宣伝す。
あはれ、その力よ。鈍き官能の埒に限られ、
きびしく煩悩の鎖に繋がれ、
 
冷かに、糾紛せる霊のなやめる、
わが胸のうちをも照せよかし。
あはれ、神よ。わが思量をもくせしめ、
わがゑたる心を照せよかし。 
 
    天使めく師父(高低の中間の所にて。)
や。あの髪の毛のゆらめくような樅の木立のあいだを抜けて、
 
靡いて来る暁の雲はなんだろう。
あの雲のなかに生きているものをてて見ようか。
あれは穉い霊共れいどもの群だな。 
 
    合唱する神々こうごうしき童子の群
お父うさん。わたくし共はどこを飛んでいますか。
かた。わたくし共はなんですか、仰ゃって下さい。
 
わたくし共は為合しあわせです。
誰にも、誰にもこの世が、ほんにらくでございます。 
 
    天使めく師父
子供達。夜なかに生れて、
精神や官能の半分醒めた子供達。
両親がすぐ亡くしたかわりに、
 
天使の群が儲物をした子供達。
愛する人が一人ひとりいると云うことは、
お前達も感じているだろう。いからこっちへ来い。
兎に角、為合せもの共、
世間の艱難は少しも知らないのだな。
 
己の目と云う、
この世で用に立つ道具の中へ降りて来い。
そして己の目を我物にして使って、
この土地の様子を見ろ。

(師父童子等を目の中に受け容る。)

あれが木だ。あれが岩だ。
 
あれが落ちて行って、
恐ろしい瀬になって、
嶮しい道を縮める水の流だ。 
 
    神々しき童子等(目の中より。)
たいした見物みものでございますね。
でもここは余り陰気です。
 
恐ろしくて体が震えます。
かた。親切なおかた。逃がして下さいまし。 
 
    天使めく師父
そんなら段々高い世界へ昇って行け。
そして神様がそばにおいでになって、
力を添えて下さるのだから、いつも浄い為方しかたで、
 
いつとなく次第に大きくなるがい。なぜと云って見ろ。
それが広大な※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきの中に出来ている、
霊共のえさだ。
それが広がって神々しさになる、
永遠な愛の啓示だ。
  
 
    合唱する神々しき童子の群

(山の絶頂をめぐりつゝ。)

うれしく
手を輪に
繋ぎて動き、
尊き心を歌へ。
かしこく教へられて
 
汝達なんたちよすがを得ん。
さて汝達が敬ふ神を
拝むことを得ん。 
 
    天使等

(ファウストの不死の霊を載せてやゝ高き空中に漂ふ。)

悪の手から、
霊の世界の尊い一人が救われました。1
 
「誰でも、断えず努力しているものは、
われ等が救うことが出来る。」
それにこの人には
上のほうからも愛の同情が加わっています。
神々しい群が
 
しんからこの人を歓迎します。 
 
    やや未熟なる天使等
愛して下さる、
せいなる贖罪の少女達の手で授けて下さった、あの薔薇の花が、
わたくし共を助けて勝たせてくれました。
この霊の宝を手に入れる
 
大きい為事しごとを成就させてくれました。
わたくし共がそれをくと、悪がけました。
わたくし共がそれを中てると、魔が逃げました。
慣れた地獄の刑罰のかわり
悪霊共が愛慾を起しました。
 
あの年の寄った悪魔の先生でさえ
鋭い苦痛を身に覚えました。
さあ、凱歌を挙げましょう。為事しごとは出来ました。 
 
    やや成熟せる天使等
どうもわたくし共には
下界の屑をき載せて持っているのがつろうございます。
 
よしやその屑が石綿で出来ていても、
清浄ではございません。
強い霊の力が
元素を
掻き寄せて、持っていると、
 
霊と物との二つが密接して
一つになった両面体を割くことは、
どの天使にも出来ません。
それを分けることの出来るのは、
ただ永遠な愛ばかりでございます。
  
 
    やや未熟なる天使
岩山のいただきのめぐりに、霧のように棚引いて、
それから気近けぢかく動いて来る
霊共の振舞が
今わたくしに感ぜられます。
雲が澄んで来て、
 
神々しい子供達の賑やかな群が、
わたくしに見えます。
下界のいましめを遁れて、
輪になって集って、
天上の
 
新しい春とかざりとを味っている
子供達でございます。
この人も、追々すっかりとくの附くように、
最初はちょっと
この子供達と一しょになるが宜しゅうございましょう。
  
 
    神々しい童子等
さなぎのようになっておいでなさるこのかたを、
わたくし共は喜んでお引受ひきうけ申します。
そういたすと、わたくし共は
天使のしちを持っているわけになりまする。
このかたに引っ附いている綿屑を
 
取って上げて下さい。
もうこれでせいなる生活においりになって、
美しく、大きくおなりなさいました。 
 
    マリアを敬う学士

(最高き、最浄き石龕せきがんにて。)

ここは展望が自由に利いて、
心が高尚になる。
 
あそこを、漂って昇って行きながら、
女達が通り過ぎる。
あの真ん中に、星の飾をして、
立派なかたがおいでになる。
あれが天妃てんひだ。
 
あの光明で己には分かる。

(歓喜して。)

ああ。世界の最高の女王じょおう
あの青く張った
天の幔幕の中で、
あなたの秘密を拝ませて下さい。
 
男の胸を
おごそかに、優しく動して、
聖なる愛のよろこびを以て、
あなたに向わせる物を、受け容れて下さい。
 
あなたが荘重にお命じなさると、
 
我々の勇気は侵されないようになります。
あなたが満足をおあたえ下さると、
熱した心がたちまちに爽かになります。
最も美しい意味での神少女かみおとめよ。
尊むに堪えたる神母しんぼよ。
 
我等がためには選ばれたる天妃よ。
神々と同じ種性すじょうなる女神めがみよ。
 
あなたの周囲めぐりめぐっている
軽い雲があります。
あれは贖罪の女達です。
 
お膝元で
※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきを吸って、
めぐみを仰いでいる
優しい群です。
 
さわり申すことの出来ぬあなたにも、
 
誘惑に陥り易い人達が
たよりに思ってお近づき申すことは、
禁じてないのです。
あの人達は自分の弱みのほうへ引き込まれると、
救って遣るのがむずかしいのです。
 
意欲の鎖を自分の力で引きちぎることが
誰に出来ましょう。
斜に、たいらゆかを踏む足は
どんなにか早く滑るでしょう。
目附めつきや挨拶や世辞の息に、
 
誰が騙されずにいましょう。

(赫く神母天翔あまがけり来る。)

    合唱する贖罪の女の群
とはの国々のそら
おん身は翔り来給ふ。
たとへん物なきおん身よ。
恵深きおん身よ。
 
われ等の訴ふるを聞き給へ。 
 
    大いなる女罪人
ファリセイの人々に嘲られつつも、
神々しく浄められたる御子みこ御足みあしのもとに、
バルサムなす涙を流しし
愛に頼りて願ひまつる。
 
奇しきをいと多くしたたらせし
へいに頼りて願ひまつる。
尊き御手みて御足みあしを柔かに拭ひまつりし
髪に頼りて願ひまつる。 
 
    サマリアの女
昔はやくアブラムが家畜の群に水飼ひし
 
泉に頼りて願ひまつる。
救世主の御唇みくちびるに冷かに触るゝことを得し
釣瓶つるべに頼りて願ひまつる。
かなたよりそそぎ来て、
とはに清く、さはに溢れ、
 
あらゆる世界を繞り流るる、
清き、豊かなる泉に頼りて願ひまつる。 
 
    エジプトのマリア
主を据ゑまつりし
いと畏き所に頼りて願ひまつる。
いましめてかどより我身を押し出だしし
 
かいなに頼りて願ひまつる。
沙漠にて我が怠らずなしし
四十年よそとせの贖罪に頼りて願ひまつる。
わがすなの上に書きつる
喜ばしきわかれの辞に頼りて願ひまつる。
  
 
    三人諸共に
大いなる罪ある女子共おみなこども
かたはらより遠ざけ給はで、
贖罪の利益りやく
永遠とこしえに加へ給ふおん身なれば、
ただ一たび自ら忘れしのみにて、
 
あやまちすとも、自らさとらざりし、
この善きれいにも、
ふさはしく御免みゆるしを賜へ。 
 
    贖罪の女等の一人

(かつてグレエトヘンと呼ばれしもの。神母にすがりまつりて。)

較べる物のないあなた様。
光明の沢山さしているあなた様。
 
どうぞお恵深くお顔をこちらへおむけ遊ばして、
わたくしの為合しあわせを御覧なされて下さいまし。
昔お慕われなされたおかた
今はもうにごりのないようにおなりなされたお方が
帰っておいでなさいました。
  
 
    神々しき童子等

(輪なりに動きて近づきつつ。)

もうこのかたは手足が大層伸びて、
わたくし共より大きくおなりになりました。
おおかた大事にお世話をして上げた御返報を
沢山なすって下さるでしょう。
わたくし共は人の世の群から
 
早く引き放されましたが、
この方はおまなびになったのです。
おお方わたくし共におおしえなすって下さるでしょう。 
 
    一人の贖罪の女

(かつてグレエトヘンと呼ばれしもの。)

難有ありがたい霊の群に取り巻かれていらっしゃるので、
新参のあの方は自分で自分がお分かりにならない位です。
 
まだ新しい生活にお気が附かない位です。
それでももう難有い方々かたがたに似ておいでになりました。
御覧なさい。下界のきずなを皆切って、
古い身の皮からそっくり抜け出しておしまいなすって、
新しい若々しいお力が、
 
霞のころもおもてに顕れておいでなさいます。
あの方におおしえ申すことをおゆるし下さいまし。
まだ新しい日の光を目映まばゆがっておいでなさいますから。 
 
    赫く神母
さあ、おいで。お前もっと高いそらへおのぼり
お前がいると思うと、そのひとも附いて行くから。
  
 
    マリアを敬う学士。

(俯伏して崇拝しつつ。)

悔を知る、優しきもの等よ。
汝達なんたち皆畏き境界に
つつしみて身を置き換へんため、
すくい御目みめを仰ぎまつれ。
あらゆる向上の心は
 
なんじが用をなせかし。
童貞女よ。神母よ。天妃よ。女神よ。
永く御恵みめぐみを垂れ給へ。 
 
    合唱する深秘の群
一切の無常なるものは
ただ影像たるに過ぎず。
 
かつて及ばざりし所のもの、
こゝには既に行はれたり。
名状すべからざる所のもの、
こゝには既に遂げられたり。
永遠に女性なるもの、
 
我等を引きて往かしむ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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