獄中生活
堺利彦
一 監獄は今が入り時
寒川鼠骨君には「新囚人」の著がある。田岡嶺雲君には「下獄記」の著がある。文筆の人が監獄に入れば、必ずやおみやげとして一篇の文章を書く例である。予もまた何か書かずにいられぬ。
監獄は今が入り時という四月の二十一日午後一時、予は諸同人に送られて東京控訴院検事局に出頭した。一人の書記は予を導いてかの大建築の最下層に至った。薄暗い細い廊下の入口で見送りの諸君に別れ、予はひとり奥の一間に入れられた。この奥の一間には鉄柵の扉がついていて、中には両便のために小桶が二つおいてあるなど、すでに多少の獄味を示している。あとで聞けばこれが仮監というのであった。ここに待たされること一二時間の後、予は泥棒氏、詐欺氏、賭博氏、放火氏などとともに、目かくし窓の狭くるしい馬車に乗せられた。乗せられたというよりは、むしろ豚のごとくに詰込まれた。手錠をはめられなんだだけがせめてものことであった。
ほどなく馬車は警視庁の門に入った。「お帰り!」「旦那のお帰り!」などと呼ぶ奴がある。「今に奥様が迎えに出るよ」などとサモ気楽げな奴もある。警視庁でまた二時間ばかり待たされて、夕飯の弁当を自費で食った。ここでは巡査達も打解けて「なぜ別に署名人をこしらえておかなかったのです」というのもあれば「そんなことをしないところが社会党じゃないか」というものもある。そんなことから暫くそこに社会主義の研究が開かれて盛に質問応答をやったのは愉快であった。
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二 東京監獄
それからまた同じ馬車に乗せられて(今度は巡査氏の厚意によってややらくな席に乗せられた)東京監獄に着いたのはちょうど夕暮で、それから種々薄気味の悪き身体検査、所持品検査等のあった後、夜具と膳椀とを渡されてある監房に入れられた。
監房は四畳半の一室で、チャンと畳が敷いてある。高い天井には電灯がともされている。室の一隅にはあだかも炉を切ったごとき便所がある。他の一隅には小さな三角形の板張りがあって、土瓶、小桶などが置いてある。こりゃなかなかしゃれたものだと予は思うた。その夜はそのままフロックコートの丸寝をやった。
二十一日の朝、
ここでチョット監獄署の種類別を説明しておかねばならぬ。まず東京監獄が未決監、市ガ谷監獄が初犯再犯などを入れるところ、巣鴨監獄が三犯以上の監獄人種および重罪犯などを入れるところの由。それから予らのごとき軽禁錮囚、および何か特別の扱いをうける分は、みな巣鴨に送られるのである。ついでに書いておくが女囚は八王子におかれ、未丁年囚は川越におかれる。
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三 巣鴨監獄
巣鴨監獄に着いて、サアいよいよ奈落の底に落ちて来たのだと思うと、あまり気味がよくない。
まず玄関のような一室で素裸にせられて、それから次の室で、「口を開けい」「両手をあげい」「四ん這いになれい」などという命令の下に身体検査をうけて、そこで着物と帯と手拭と褌とを渡される。いずれも柿色染であるが、手拭と褌とは縦に濃淡の染分けになって、多少の美をなしているからおかしい。着物は綿入の筒袖で、衿に白布が縫いつけられて、それに番号が書いてある。この白布は後に金札に改められた。堺利彦はこれより千九百九十号というものになり了った。
この前後に姓名、年齢、原籍、罪名等について、それはそれは繁雑きわまる取調べがあった。薩摩なまり、東北なまり、茨城弁など、数多の看守が立ちかわり入れかわり、同じようなことを幾度となく聞きただしては手帳につけて行く。その混雑の有様、面白くもあれば、おかしくもある。中には「いつつかまった」と問うから、「つかまったことはありません」と答えると、不思議そうな顔をして解しかねているのもある。すべてが泥棒扱いだから堪らない。
褌、靴下、風呂敷、ハンケチ、銀貨入りの小袋、ボロボロの股引など、それはそれは明細なことで、人の頭の一つや二つぐらい平気で擲るくせに、事いやしくも財物に関するときは、一毫の微一塵の細といえども、決して決して疎略にはせぬのである。財産神聖の観念はずいぶん深くしみこんだものだ。瘤の一つ二つや血の二三滴より、葉書一枚、手拭一筋の方が余程彼等には重大に感ぜられると見える。
それから柿色の鼻緒のついた庭下駄をはかせられて外に出ると、「そこにシャガンで待ってろ」という命令が下る。暫く待っていると、今度は「立て」「進め」という命令が下る。二足三足進むと、「待て待て、帯の結びようが違う」と叱られる。謹んで承たまわるに、帯は蜻蛉に結んでそしてその輪の方を左に向けるのだとのこと。ヤットそれを直してまた行きかかると、「オイオイ手を振ってはイカン」とまた叱りつけられる。諸君試みにやってごらんなさい、手を少しも振らせずに歩くのは非常に困難なものであります。
行くこと半町ばかりにして、赤煉瓦の横長い建物の正面の入口に来た。鉄柵の扉に錠がおろしてある。サア来た、いよいよこれだなと思うていると、「新入が十五名」と呼びながら外の看守が我々同勢を内の看守に引渡した。我々は跣足になって鉄扉の中に入った。中はズウット長い石畳の廊下で、冷やりとした薄気味の悪い風がソヨリと吹く。「そこに坐る」といわれたのですぐ前を見ると、廊下の片側に薄い俎のようなものが幾つも並べてあって、その上に金椀だの木槽だのがおいてある。よく見れば杓子も茶碗もある。いうまでもなくこれが御膳部であるのだ。そして人の坐るところには、襤褸でこしらえた莚のようなものがズット敷きわたしてある。そこで十五名一列になって膳の前に坐ると、そこに突立っている看守から「礼!」という号令がかかる。それで一礼して箸をとる。予は僅に二箸三箸をつけたのみで、ほとんど何ものをも食い得なんだ。また、「礼!」という号令の下に一礼して立ちあがると、今度は右側の室の鉄の戸を開けて七八人ずつ入れられた。
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四 巣鴨監獄の構造
ここでチョット巣鴨監獄の大体の構造を説明しておかねばならぬ。
まず正面の突当りが事務所で、その左右に南監と北監とがある。両監とも手の指を拡げたような形になって五個ずつの監に分れている。すなわち合計十監あって、その一監が、二十幾房かに分れている。それから遙か後ろの方に、七個の工場が並んで立っている。そのほかには、病監、炊所(附、浴場)、洗濯工場などがアチコチに立っている。そしてそれらの建物の間には、綺麗な芝原だの、運動場だのいろいろの畑だのがつくられている。 さて、この監獄が日本第一たるはいうまでもなく、世界中でも何番目という完美を極めたものだそうな。さすが日本はエライもので、監獄までが欧米に劣らぬほど繁昌するのだ。それはともあれ、今の正上典獄というのは、いわゆる文明流のやり方で、この日本第一の監獄に着々として改良を試みているとのこと。
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五 初日、二日目、教誨師
予の入れられたのは北監の第六監で、最初の日は懲役七八年の恐ろしい男どもと一しょに六七人である房にいた。甚だおちつかぬ一夜を明して二日目になれば、まず呼出されて教誨師の説諭をうけた。教誨師というのは本願寺の僧侶で「平民新聞というのはタシカ非戦論でしたかな、もちろん宗教家などの立場から見ても、主戦論などということはドダイあるべきはずはないのです。しかしまた、その時節というものがありますからな、そこにはまたいろいろな議論もありましょうが、ドウです時節ということも少しお考えなさっては」というのが予に対する教誨であった。なかなか如才のないことをおっしゃる。午後には無雑作にグルグルと頭を刈られた。これでまず一人前の囚人になった。
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六 監房、夜具、食物
監房は八畳ばかりの板張りで、一方の隅に井戸側のようなものがあって、その中が低く便所になっている。一方の隅には水の出るパイプがあって、その下にチョイとした手洗鉢がとりつけてある。天井は非常に高く、窓は外に向って一つ、廊下に向って一つ、いずれも手のとどかぬところにある。朝早くなど、その窓から僅かの光線の斜めに射し入るのが、何ともいわれぬほどうれしく感ぜられる。
夜具はかなりに広いのが一枚、それを柏餅にして木枕で寝るのだ。着物は夜も晝も同じものでただ寝るときには襦袢ばかり着て着物を上に掛けろと教えられた。役に就く人には別に短着と股引とがある。
食物はずいぶんひどい。飯は東京監獄と違って色が白い。東京監獄は挽割麥だが、こちらは南京米だ。このごろ麦の値が高くなって、南京米の方が安く上るのだそうな。何にせよ味の悪いことは無類で、最初はほとんど呑み下すことが出来なんだ。菜は朝が味噌汁といえば別に不足はないはずだが、その味噌汁たるや、あだかもそこらの溝のドブ泥をすくうて来たようなもので、そのまた木槽たるや、あだかも柄のぬけた古柄杓のようなもので、その縁には汁の実の昆布や菜の葉が引かかっているところなど、初めはずいぶん汚なく感じた。次の夕飯の菜は沢庵に胡麻塩、これはなかなかサッパリしてよい。時々は味噌菜もある。唐辛子など摺りこんで、これも案外うまくこしらえてある。昼が一番御馳走で毎日変っている。まず日曜が豆腐汁、それから油揚と菜、大根の切干、そら豆、うずら豆、馬肉、豚肉など大がい献立がきまっている。豚肉などといえば結構に聞ゆれど、実のところは菜か切干かの上に小さな肉の切が三つばかり乗っているまでのことだ。それでも豚だ豚だとみなが大喜びをする。昼の菜の中で予輩の一番閉口したのは、輪切大根と菜葉とのときで「ヤァ今日は輪大か」と嘆息するのが常であった。飲むものはヌルイ湯ばかり。
聞くところによれば、この三度の菜の代が、今年の初めまでは平均一銭七厘であったが、戦争の開始以後は五厘を減じて一銭二厘となったとのこと。戦争はヒドイところにまで影響するものだ。
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七 特別待遇
六監にいること十日ばかりの後、予は十一監に移された。この十一監は十個の本監のほかにある別監で、古風な木造の、チョット京都の三十三間堂を思い出させるような建物である。監房は片側に十個あるだけで、前は廊下を隔てて無双窓になっている。房内は十二畳ばかりで、前後は荒い格子になって、芝居の牢屋の面影がある。後の方の格子には障子が立てられて、その障子の内にタタキの流し元と便所とが並んでいる。便所のところには板でこしらえた小さい屏風のようなものが立ててある。すべてここは広々として、気が晴れて、窓や障子を開けたときには空も見える。木も見える、雀の飛ぶのも見える、猫の来るのも見える。煉瓦と石と鉄とでかこうた本監にくらべると、居心地のよいことは何倍か知れぬ。
うけたまわるに、この十一監は特別待遇の場所で、軽禁錮の者、重禁錮中の教育ある者(社会にて身分ありし者)、老衰の者などを集めてある。ほかに、モウ本刑を務めあげて、附加刑の罰金を軽禁錮に換えられた、いわぬる換刑の者もここに来ている。チョット申しておくが、世間ではヨク監獄内の通用語としてこの世の中のことを娑婆娑婆という。けれども、実際、今ではソンナ言葉は用いられておらぬ。みな「社会」といっている。
予はこの監に来てから、最初一両日は換刑の者と一しょにおかれ、次に一週間ばかり独房におかれ、最後には他の軽禁錮の者とともに三人でおかれた。その同房の二人は衛戌監獄から来た軍人であった。その他、この監にいる者の中には、恐喝取財未遂の弁護士、詐欺取財の陸軍大佐、官吏侮辱の二六新報の署名人、犬姦事件の万朝報署名人、恐喝取財の日出新聞記者、自殺幇助(情死未遂)の少年、官文書偽造の中学校書記、教科書事件の師範学校長、同上高等女学校長、元警部某、馬蹄銀事件の某々らであった。軽禁錮二個月の我輩なんどは幅のきかぬこと夥だしい。
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八 一日の生活
さて、ここに一日の生活を叙せんに、まず午前五時[#「午前五時」は底本では「午後五時」](六月以後は四時半)に鐘が鳴る。それを合図に飛び起きる。蚊帳をたたむ、布団をたたむ、板の間を掃く、雑巾をかける。そうする中に看守が「礼ッ!」をかける。皆々正坐して頭を下げる。「千九百九十号」「千八百五十三号」などと番号を呼び立てる。「ハイ」と返事をしながらシャッ面を上げる。それがすむと塩で歯を磨いて顔を洗う。塩は毎朝寝ている中に看守が各房に入れて歩く。水は本監ではパイプから出ることになっているが、ここでは当番の者が近所の井戸から汲んで来て配ることになっている。
しばらくすると飯になる。本監では廊下に出て、看守の突立った靴の前に坐って食うのだから、甚だ不愉快に感じたが、ここでは膳を房に入れるので、殊に房の床が廊下よりズット高くなっているので、その不愉快は少しもなかった。
食事がすむと小楊枝を使いながら正坐する。小楊枝は月に一二本ずつ渡される。正坐というのはチャンと膝をくずさず坐ることで、食後一時間は畏まっておらねばならぬ。板張りの上に莚を一枚敷いてその上に畏まるのだから、ずいぶん足が痛くなる。
食後一時間たつとみな胡坐をかく、これを安坐という。それから重禁錮の者は仕事にとりかかり、我々軽禁錮の者は本でも読む。しかし本という奴がソウソウ朝から晩まで読みづめにせられるものでもなし、退屈する、欠伸が出る。ヒソヒソ話をする、馬鹿口をたたく、悪戯をする、便所に行く、放屁をする、鼻唄を歌う、逆立ちをする、それはそれは様々なことで日を暮す。もちろん看守の目を忍んでやるので、時々は見つけられて叱られる。もっとも、これは我々軽禁錮および換刑の者のことで、役に就いている者はかえって日が暮しやすい。そこで軽禁錮の者でも、自ら願うて役に就くのが少なくない。永島永洲君からの見舞の端書に、「永き日を結跏の人の坐し足らず」という句があったが、我々凡夫、なかなかそんなわけに行かぬ。そこでいろいろな妄想空想で、僅に、自ら慰めることになる。
「チョイト、チョイト、旦那おあがんなさい。」「品川さん、[#「品川さん、」は底本では「品川さん」]大森さん、川崎さん、おあがんなさいよ。」(これは自分達が赤い着物を着て格子の前に坐っているところから、自分達を女郎に見立ててのざれ言)
「ヘイ、今日はよろし、魚源でござい、お肴は鯛に鰈に鮪の切身。」「ああそれじゃあ鯛を貰いましょう。片身おろしてお刺身にして下さい。しかし新しいかね、肴屋さん。」(これは後の障子と流し元の工合が、サモ台所口に似ているからの洒落)
「ああいい天気だな、今日はどこぞ遊びに行こうか。」「そうさなァ、上野から浅草にでも出かけようか。」「だが遠方に行くのは大儀だな。それよりかやっぱりあの桐の木の下でも散歩しようか。」「そうさ、それもいいな。じゃマア今日は出かけるのはよそう。」(これは午後の運動の事をいったので、後にわかる)
「あなた今夜のお菜は何にしましょう。」「なんぞサッパリしたものがいいなァ。」「じゃァやっぱりいつもの沢庵と胡麻塩にしておきましょうね。」
「ああ天ぷらが食いたい。」「おれはタッタ一つでいいから餅菓子が食いたい。」「何も贅沢はいわないが、湯豆腐か何かで二三杯やりたい。」
「これで碁盤の一つもあれば別に退屈はしないがなァ。」「そしてチョイとビールの一本も出て来るとなァ。」「そして林檎かビスケットでもあるとなァ」「そしてお一つ召しあがれなとか何とかいって美しいのが一人も現われて来りゃ申し分なしだろう。」「ハハハハハ、どこまで贅沢をいうか知れたものじゃない。」
こんな馬鹿なことをいっているうちに昼飯になる。昼の菜の当てッこをしたり、昼の菜の一覧表をつくったり、そんなことも消閑の一策になっている。昼飯は十一時で、天気がよければ十一時半から十二時まで運動がある。これは定役のない者、および監房にて役を執る者に限るので、工場に出て役を執る者には許されぬ。
運動は監の周囲にある桐の木の下だの、小松原の芝の上だのを歩くので、やっぱり厳重なる監督の下に、一列になってグルグルまわるのだが、それでも話のできぬことはなし、おりおりは立止って蟻の戦争など見物することもある。何にせよ運動は一日中の一大愉快で、雨の三日もつづいた揚句は殊にそうだ。
運動後はまた、馬鹿話やらいねむりやらで夕方になる。「もう何時だろう」「今の看守の交代が四時半だろう」「じゃあモウ三十分で飯だ」などという問答は、たいがい毎日同じように繰返される。それから「僕はあとがタッタ百三日だ。わけはない」「乃公は今日がちょうど絶頂だ、明日から下り坂だ。タワイない」「君はモウ一週間で出るのだな」などと、たいがい毎日刑期の勘定がある。
夕飯後にまた点検があって、安坐鈴が鳴る。薄暗い電灯がとぼる。それから二時間ばかりまた退屈すると、八時になって就寝鈴が鳴る。そら来た!と大騒ぎで柏餅がゴロゴロと並ぶことになる。これがまあザット一日の生活だ。ある夜、夜中に目がさめて左のごとき寝言ができた。
隣室の鼾に和して蛙鳴く
紫の桐花の下や朱衣の人
桐の花囚人看守曽て見ず
行く春を牢の窓より惜しみけり
永き日を「御看守様」の立尽す
正坐しても安坐しても日の長き哉
永き日をコソコソ話安坐する
夕ざれば監房ごとの放屁かな
正坐して自慢の放屁連発す
寂しさに看守からかう奴もあり
看守殿退屈まぎれに叱る也
「本職」は昨日拝命したばかり
「本職」という時髯をひねる也
看守部長とかく岩永になりたがり
是はまた重忠張りの看守長
教誨師地獄で仏の格で行き
教誨師袈裟高帽のおん姿
教誨師お前さんはと仰せらる
其方はなどと看守の常陸弁
永き日を千九百九十の坐睡す
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九 入浴、散髪、面会、手紙
入浴はまた獄中生活の愉快の一つで、およそ一週間に一度、或は四五日ぶりに一度ずつ許される。
今日は入浴だというと、みな嬉しがってソワソワしている。時刻が来ると、いずれも手拭を帯にさげて、庭下駄をはいて監の前に出て、五人ずつ並んでシャがむ。「立て! 進め!」で浴場に向って進む。浴場まではザット二町ばかりある。「列を乱してはイカン」「キョロキョロとよそ見をするでナイ」「話をしてはイカン」「手を振ってはイカン」などと絶えず叱られながら、とにかく浴場の前に着く。また並んでシャがむ。それから一列になって、二十人ばかりずつ二組になって浴場に入る。浴場は煉瓦作り、浴槽はタタキでかなりに大きい。湯は蒸気で湧かすことになって、寒暖計まで備えつけてある。我々はイツも一番にはいらせられるので、清潔な点においては申し分なかった。「脱衣!」「入浴!」などの不思議な号令の下に、五六人ずつ列をつくって一番、二番、三番、四番と、二十人あまり一しょにはいる。それから今度は、一方の壁にズット並んでとりつけてあるパイプの下に行って、銘々に頭と顔とを洗う。しかしその水は甚だ払底で、儀式ばかりのようなものではあるが、何にせよ、我輩らの住んでいる角筈あたりの湯に比べると結構なものだ。
散髪もまたチョットよい気ばらしになる。これは、たいがい二週間に一度くらいのようだ。床屋さんももとより囚人である。湯屋の三助も、医者の助手(看護夫)も、みなやはり囚人だからおかしい。
床屋がまわって来て廊下に陣をとると、一房から十房まで順々に出かけて刈ってもらう。バリカンでただグルグルとやるのだから雑作はない。もちろん顔も剃ってくれる。特に髭を蓄えることを願う者には許しておく。フケトリと鋏も、そこにおいてある。それで爪でも摘みながら見張の看守と話でもしているときには、獄中生活も存外趣味のあるものだ。
面会は囚人にとって非常に愉快のことであるが、あまり再々人が来ると一々には許されぬ。手紙は大概のものは見せられる。百穂君の絵葉書だけは一枚きりしか見せられなんだ。それから中村弥二郎君が予の無聊を慰めんとて、昔話を書いた葉書を寄こされたが、それは「不得要領につき不許」という附箋がついて、出獄のときに渡された。獄中ではただ無事(或は単調)に苦しむのであるから、手紙、面会、入浴、散髪、運動等、何でも少し変ったことがあれば非常に愉快に感ずる。
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一〇 食事当番
今一つ気ばらしになったことは、四五日ぶりに一度ずつ食事当番がある。他の監では役夫というものがあって、それが食事の世話やら掃除やらするのであるが、我々の監には無定役囚が多いので、別に役夫はおかずに、その無定役囚の中から、代り代り食事の当番を出すことになっていた。
当番は二人あるいは三人で、まず炊所から運んで来た飯や菜を盛りわけて膳立てをする。鐘が鳴るとそれを各房に配る。食事がすむとあと片づけをする。水を汲んで来て膳碗を洗う。洗物がすむと廊下を掃く。それを一日に三度繰返すのでなかなか風流なものです。まだそれから食事の世話のほかに、流し口の掃除、裏庭の草取りなど、やらせられるときもある。存外おもしろいものです。甚だしきは、みなの者を運動に出す世話をするために、草履箱から草履を出して各房の前に並べてやり、運動が終れば、またその草履を集めて箱に入れてやることもある。これらはズンと風流なものです。
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一一 眼鏡、書籍
最初予の一番困ったのは眼鏡をとられたことである。もっとも眼鏡がなくてはなんにも見えぬというほどでもないが、十一度ばかりの近眼で、十余来年寝るときのほか、かってはずしたことのない最親最愛の眼鏡であるから、いま忽然とそれと別れた不愉快は非常である。すぐあとで下げ渡してやるといわれた言葉を楽しみにしていたが、二三日たってヤット眼鏡下付願という手続ができた。モウ占めたと楽しんでいると、また二三日してやっと医者の視力検査があった。モウいよいよだと思うていると、また二三日してようやくのことで下げ渡された。
親子再会とでもいうべき情合で、ただ何となく嬉しく心にぎやかで、かけて見たりはずして見たり、息を吹きかけて拭いて見たりしているうち、どうも少し右の玉のゆがんでいるのが気に食わぬ。隣の人にもそれを見せて、ここを少しコウ曲げて、などといいながら、こわごわ撓めているとき、脆や、ポキリとまんなかの金が折れた。サアしまった! こんな弱ったことはない。「見しやそれとも分かぬ間に、雲かくれにし夜半の月」「たまたま会いは会いながら、つれない嵐に吹きわけられ」失望落胆、真にたとえるにものがなかった。茶碗の破れたのすらつぎあわせて見るのが人情だから、いろいろとやっては見たが、金と金とのつぎ目の折れたのは、指先ばかりではどうにも仕様がない。それでも何とか法のないものかと、様々にいじっているうち、これを糸で結びつけてはという智慧が出た。それから着物の裾のシツケ糸をぬいて、それを二重によりあわせて、ともかくも結びつけた。鼻の上にかけてみると少々工合は変だけれど、物を見るに差支えはない。ああ真にこれで助かった!
眼鏡の待遠かったよりも、更に一層待遠かったのは書籍であった。初日、二日目、三日目、ようやく落つくと同時に退屈する。欲しいほしいはただ書籍である。書籍は教誨師先生よしよしと受込んだきりで容易に運んでくれぬ。一週間あまりすぎてからヤット二冊だけ渡された。
書籍は同時に二冊以上は見せぬという定めだそうな。役のある人ならば、日曜のほかには一日に一二時間しか読書の暇はないのだから、二冊という制限もよいか知らぬが、朝から晩まで本ばかり読む人に、タッタ二冊とは情ない。
しかしマア二冊にせよ本は来たし、こわれたにせよ眼鏡はある。モウ千人力だという心地がした。二冊の本は、
Hyndman : Economics of Socialism.
王陽明伝習録(第一巻)
まずハイドマン氏の「社会主義の経済学」を読みながら、飽いて来ればチョイチョイと伝習録を読んで、二日三日と愉快に暮したが四日目ぐらいにははや両方とも読んでしまう。仕方がないからまた繰返して初めから読む。そうしているうちにある日教務所長の武田教誨師というが見えて、暫く予の房に入って閑談せられた。
それで予は書籍のことを訴えたれば、丁度そのとき、予は独房におかれていたので、「独房の者には冊数の制限は入らぬ」とのことで、その翌朝早く、予の持って来た本を悉く下げ渡された。予はほとんどこおどりせんばかりに嬉しく感じた。モウ千人力どころではない。実に百万の味方を得た心地がした。予の持って来た本は前二冊のほか、左の七冊であった。
Encyclopedia of Social Reforms(Bliss).
Nuttall’s English Dictionary.
Progress and Poverty (Henry George).
Truth(Zolla).
The Twenty Century New Testament.
王陽明伝習録(第二巻、第三巻)
予はまずゾラの「真理」を読んだ。これは予がさきに抄訳した「労働問題」「子孫繁昌の話」とともに、ゾラ最終の三大作をなすもので、主としてドレフュース事件を仕組み、仏国ローマ教の害毒を痛罵し、初等教育制度改善の必要を叫んだものである。このごろロイテル電報などが毎度報じて来る、仏国の宗教教育法のことなども、この書によって始めて十分の意味がわかるようになった。予はこの書に慰められて五六日をすごしたが、その間たいてい毎日一度ずつぐらいは、シミジミと泣かされた。
次に予はヘンリー・ジョージの「進歩と貧困」を読んだ。これまで拾い読みばかりしていたのを今度はじめて通読した。彼の文章の妙に至っては、ほとんど評する言葉を知らぬ。一面は文学的で、一面は科学的で、しかしてまた他の一面は宗教的である。勁抜の文、奇警の句、そのマルサス人口論を、論破するごとき、痛快を極め鋭利を極めている。
次に予は新約の四福音書と使徒行伝の初めの方少しばかりとを読んだ。二十世紀訳は文章が今様になっているので我々素人には読みやすくて、まことによい。キリスト教に現われたる共産制度の面影等は殊に予の注意を惹いた。
伝習録からはあまり得るところがあったとも思われぬ。ブリスの「社会改良百科字典」は、その題目の多きとその趣味の広きとにおいて、予の獄中生活を慰めてくれたこといくばくか知れぬ。殊に「
ナッタルの字書の功労は今更いうにもおよぶまい。ある時のごときは退屈のあまり、この字書の挿画を初めから終まで一々ていねいに見てしまったことがある。
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一二 役、労働時間、工賃
予はみずから役に就かなんだので、役の実際はよくわからぬが、何にせよ、七個の工場で種々なる労働をやっている。鍛冶屋もあれば靴屋もある。寝台をこしらえているものもあれば、ズックの靴をこしらえているのもある。足袋の底を織っているのもあれば、麻縄をよっているものもある。馬鈴薯やソラ豆をつくっているのもあれば、洗濯をやっているのもある。便所掃除のごとき汚い役まわりもあれば、炊所係のごとき摘み食いのできる役廻りもある。いずれもその才能、性情等に応じて申し渡されるので、異存を申し立てることは決して相成らぬ。時間は最も長いときで十時間半、最も短かいときで八時間半であったかと記憶する。そして各囚人にはそれぞれ定まった課程があって、それだけの仕事は是非させられることになっている。就役中は話もできず、休むこともできず、便所に行きたい時には手を挙げて許可を請うのだそうな、それから役には工賃が定まっていて、その十分の二三ぐらいは本人の所得となる。それで長期の囚人は百円も二百円も持って出るのがあるとのこと。
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一三 賞罰
囚人が反則をすればすぐに懲罰に附される。懲罰の第一は減食である。減食といえば食物の量を三分の一ぐらいに減じられて、数日の間、チャント正坐させられる。それがつらさに首を縊る者が折々ある。平気な奴でも体重の一貫目くらい忽ち減る。
それから減食でもこたえぬ奴は暗室に入れる。重罪囚で手に合わぬ奴には
賞としては一週間に一度か二度か食事に別菜がつく。そのほかには、湯に先に入れる、着物の新しいのを貸す、月一度と極った手紙を二度出させるなどの特待があるばかり。
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一四 理想郷
さて、かく獄中生活の荒ましを語った上で、予をして更に少しく監獄なるものの全体を観察せしめよ。
監獄はまずその建築が堅牢である。宏壮である。清潔である。棟割長屋に住むものより見れば、実に大厦高楼の住居といわねばならぬ。衣服夜具のごときも、ほぼ整頓している。冬期においてはもちろん非常の寒さにも苦しむには相違ないが、さりとて常に襤褸をまとい、或はそれすらもまとい得ざるものより見れば、実にありがたき避寒所といわねばならぬ。食物も悪いには相違ないが、塵だめをあさる人間あることを思えば、必ずしも不平はいわれぬ。何にせよ、監獄は衣食住の平等と安全とにおいて、遙か社会より優っている。
監獄の住民はこの平等にして安全なる衣食住の間に、電灯鉄道蒸汽等種々なる文明の利器を利用して、各その才能性情に応ずる分業をなし、ほぼ共同自治の生活をなしている。況んや心身の疾病のためには、病院もあれば教会もある。ほとんど何不足なき別社会といわねばならぬ。
かく見来るときには、監獄は実に一種の理想郷である。予が休養のため理想郷に入るといったのも、またけっして嘘ではなかった。しかしながらまた、この理想郷を他の一面より見るときは全く別種の観が眼前に現われて来る。
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一五 看守
監獄の住民は囚人ばかりではない。ほかに看守というものがある。看守は囚人を戒護する官吏であるが、その境遇の気の毒さは決して囚人に劣るものではない。ある老看守はかつて予に語っていわく、「午前三時に起きて、三時半に家を出て、四時に監獄に着いて、四時半から勤務しはじめて、一時間半ごとに三十分ずつ休憩して、午後六時半の閉監まで勤務して、それからあと仕舞をして家に帰ると七時半ぐらいになる。靴も脱がずに縁側に腰かけていると、ホンの暫くの間だけわが家の庭の景色を薄光に見ることができる。湯などにはめったにゆく暇がない、二週間に一度の休みはたいがい寝て暮します」と。しかして彼らの俸給は僅々十二円か十五円にすぎぬのである。
看守と囚人とを別々に見れば、共に気の毒なる境遇の人々であるが、さてこの二人種の関係を考えてみれば、滑稽といおうか、馬鹿馬鹿しいといおうか、更にこれを悲惨といおうか、予はこれを評するに言葉を知らぬ。
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一六 出獄前の一日
出獄の前日には満期房というのに移される。ここには明日自由の身となるべき窃盗氏、詐欺氏、カッパライ氏、恐喝氏、持逃げ氏などが集まって来る。いよいよ今日きりの一昼一夜を暮しかね明しかねて、様々の妄想を逞うしながら馬鹿話に耽っている。
まず一人ずつ呼出されて教誨師の説諭をうける。教誨師も一向気の乗らぬ調子で役目柄だけのお茶をにごす。囚人はただハイハイとお辞儀をして、房に帰って舌を出す。そして何を話すかと聞いていれば、食いたい、飲みたい、遊びに行きたい、たいがいはまずそれである。最も良心の鋭敏な奴が「モウとても真人間にはなられない」と嘆息する。「これがドウしても止められないとは何たる因果な男だろう」とひとりで笑っているのもある。最も思慮分別ありげな奴の言葉を聞けば、「いっそヤルなら大きなことをやるか、それでなくちゃスッパリ止めるのだ。」多くの奴はテンデ止めるの止めないという問題は起しておらぬ。
予が最も趣味多く感じた一話がある。あるカッパライの大将いわく、「小僧の二人も内にかくまっておけば、その日その日に不自由をすることはないぜ、鰹節がなくなれば鰹節をさらって来るし、炭がなくなれば、炭をさらって来るし、ホントに便利なもんだ。それに彼奴ら義理が堅くてとッつかまってもめったにボロを出しゃしないや。いつやら兄さんも一しょに来い来いというからついて行って見ると、ある宮の境内にきて、兄さんお酒が好きだから今にもって来てやる、ここに待っていろという。暫くするとビールを二本さげて来た。コップがないというと、またはしりだして今度はガラス屋からコップを一つさらって来た。ホントにおかしいように便利なもんだぜ。」
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一七 獄中の音楽
囚人半月天を見ず。
囚人半月地を踏まず。
されど自然の音楽は、
自由にここに入り来る。」
朝は朝日に雀鳴く。
わが妻来れ、チウチウチウ。
子らはいずこぞ、チュンチュンチュン。
ここに
夕は夕日に牛の鳴く。
永き日暮れぬ、モオオオオ。
務め終りぬ、モオオモオ
いざや休まん、モオモオモオ。」
夜は夜もすがら蛙鳴く。
人は眠れり、ロクロクロク。
世はわが世なり、レキレキレキ。
歌えや歌え、カラコロコロ。」
晴には空に鳶の声、
笛吹くかとぞ思わるる。
羽衣の袖ふりはえて、
舞うや虚空の三千里。
舞いすまし、吹きすます。
ピーヒョロリ、ピーヒョロリ。」
雨には軒の玉水の、
鼓打つかと思わるる。
緒を引きしめて気を籠めて、
打つや手練の乱拍子。
打ちはやし、打ちはやす、
トウトウタラリ、ポポンポン。」
ああ面白ろの自然かな。
ああ面白ろの天地かな。」
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一八 出獄雑記
六月二十日午前五時、秋水のいわゆる「鬼が島の城門のような」巣鴨監獄の大鉄門は、儼然として、その鉄扉を開き、身長わずかに五尺一寸の予を物々しげにこの社会に吐き出した。
久しぶりの洋服の着ごころ甚だ変にて、左の手に重たき本包みをさげ、からだを右にかたむけながらキョロキョロとして立ちたる予は、この早朝の涼気のなかに、浮びて動かんとするがごとき満目の緑に対して、まず無限の愉快を感じた。
ようやく二三歩を運ぶとき、友人川村氏のひとり彼方より来るに遭うた。相見て一笑し、氏に導かれて茶店に入った。あああ、これで久しぶり天下晴れて話ができる。
間もなく杉村縦横君が自転車を走らせて来てくれた。つづいては筒袖の木下君、大光頭の斎藤君などを初めとして、平民社の諸君、社会主義協会の諸君などが二十人あまり押寄せた。最後に予の女児真柄が、一年五個月の覚束なき足取にて、隣家のおばさんなる福田英子氏と、親戚のおじさんなる小林助市氏とに、両手をひかれながらやって来た。予は初めて彼が地上を歩むを見た。そして彼はすでに全く予を見忘れていた。
かく親しき顔がそろうて見れば、その中に秋水の一人を欠くことが、予にとっては非常の心さびしさであった。彼はその病床より人に托して、一書を予に寄せた。「早く帰って僕のいくじなさを笑ってくれ」とある。笑うべき乎、泣くべき乎。一人は閑殺せられ、一人は忙殺せられ、而して二個月後の結果がすなわちこれであるのだ。
予はそれより諸友人に擁せられて野と畑との緑を分け、朝風に吹かれながら池袋の停車場に来た。プラットフォームに立ちて監獄を顧み、指点して諸友人と語るとき、何とはなしに深き勝利の感の胸中に湧くを覚えた。
新宿の停車場に降りれば、幸徳夫人が走り寄って予を迎えてくれた。停車場より予の家まで僅か四五丁であるが、その道が妙に珍しく感じられる。加藤眠柳君から獄中に寄せられた俳句「君知るや既に若葉が青葉した」とあったのがすなわちそれだ。わが家に入ればまたわが家が妙に珍しく感じられる。門より庭に入りて立てば、木々の緑が滴るばかりに濃く見えるのだもの。
予の病妻は予の好める豆飯を炊いて待っていた。予は彼の如何に痩せたるかを見たる後、靴を脱せずして直ちに秋水を訪うた。秋水は、病床に半ば身を起して予の手を握った。彼は予の妻とともに甚だしく痩せていた。
歌のようなものが一首できていた。
いつしかに桐の花咲き花散りて葉かげ涼しくわれ獄を出ず
監獄の中で風情のある木は桐ばかりであったから。
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一九 出獄当座の日記
六月二十日 出獄。終日家居、客とともに語りかつ食う。
二十一日 出社。社中諸君が多忙を極めている間に、予一人だけ茫然として少しも仕事が手につかず。
二十二日 同上。
二十三日 編輯終る。予は少々腹工合を悪くした。
二十四日 腹工合甚だ変也
二十五日 とうとう下痢をやりだした、よほど注意はしていたのだが。午後下剤を飲み、夜に入りて十数回の下痢があった。
二十六日 せっかくの出獄歓迎園遊会に出席はしたが、何分疲労が、甚だしいので、写真を取ったあとですぐに帰宅した。
二十七日 秋水の家に風がよく通すので、午後半日をそこで暮した。二個の病客が床を敷き並べて相顧みて憮然たるところ百穂君か芋銭君かに写してもらいたいような心地がした。
二十八日 ようやく下痢がとまった。粥を食い、刺身を食い、湯に入る、甚だ愉快。
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(附)園遊会の記
六月二十六日午前九時より堺生の[#「堺生の」は底本では「塀生の」]出獄歓迎を兼ねて園遊会が開かれた。……場所は、角筈十二社の池畔桜林亭である。……幸いに曇天で、……来会者は男女合せて百五十余名の多きに達した。……安部磯雄氏発起人総代として開会の趣旨を述べ、その中に「本日の会合はもとより堺氏出獄の歓迎を兼ねてでありますが、実をいえば、牢にはいるということは社会主義者にとりては普通のことでありますから、もしわが党の士のなかに出獄者あるごとに歓迎会を開くこととすれば、今後何百回ここで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ。で、私は今日の会も堺氏の出獄を期して、われら同志友人がここに一日の園遊会を開いたという風に思い」たいと語った。……
(発起人の一人)
(安部氏のこの意見は、当時としては、誠によく見透しのついた、適切な警告であった。――堺生)
(一九一一年三月「楽天囚人」より)
底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
初出:「楽天囚人」
1911(明治44)年3月
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2012年9月15日修正
※訂正注記に際しては、「堺利彦全集 第三巻」法律文化社、1970(昭和45)年9月30日発行を参照しました。
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