按摩
小酒井不木
コホン、コホンと老
郊外の冬の夜は
「旦那はずいぶん煙草ずきですねえ。三十分たたぬうちに十本あまりも召し上ったようですねえ」
と、彼は
「うむ。俺はニコチン中毒にかかったんで、身体中の肉がこわばってどうにもならぬから、按摩が通るたびに呼びこまずには
「そりゃ旦那、眼をつぶすに限りますよ」
「ええッ? 何?」と彼は、わが耳を疑うかのように、
「両方の眼をつぶして
彼は背筋にひやりとするような感じを起した。
「お前はその経験があるとでもいうのか?」とたずねた彼の声は、心もち
「そうですよ。実は私の眼も、むかしは一人前に見えたんですが、ふとしたことからモルヒネ中毒にかかって、あげくの果に、眼をつぶすことになりましたが、眼が見えなくなると、不思議にもモルヒネ中毒はけろりとなおりましたよ」
「ふむ、妙な話だなあ。どうしてモルヒネなんか
「さあ、それをきかれると困るんですけれど……」
「いや、話してくれよ」と、彼は吸いさしの煙草を火鉢の灰の中へ突きさした。
按摩はにやり笑った。
「大ぶ乗気になりましたねえ。ええ、もう、白状してもかまわぬ時ですから、思い切って御話ししましょう。実はねえ旦那、私は若い時に人殺しをしたんです」
彼はぎくりとした。
「ははは、旦那、少し肩の肉がかたくなりましたねえ。なに、そんなにびっくりなさることではありませんよ。今じゃ私もおとなしい人間です。まあ私のいうことをお聞き下さい」
按摩は、それから彼が恋の
「……とうとう私はある晩、奴を森の中へおびき出しましたよ。いよいよの時になって、私は奴を一
院長は眼科医ではなかったですが、私が三百円ばかりはいって居る財布を投げ出して、(ほかにまだ五百円ばかり、高飛びするつもりで腹巻の中に持って居ましたが)どうか当分のうち入院させてくれといったら、金に眼が
さて、翌日の晩、奴をやっつけた同じ時刻になると、右の眼が又もやずきんずきんと痛み出しました。で、またモルヒネを注射してもらいましたら、痛みはけろりとなおりました。
すると又、その翌日の同じ時刻に、右の眼が
すると又、その翌日も翌々日も、同じ時刻にだんだんはげしく右の眼が痛み出し、モルヒネ注射の数も段々殖えて行きましたが、とうとう七日目の晩、いや奴の初七日の晩といった方がよいかも知れません。右の眼が痛みと共に急に見えなくなって、つぶれてしまいました。そうしたら、その翌日からは、例の時刻が来ても、右の眼に痛みは起りませんでした。旦那、恋敵の血というやつはよっぽど恐しいものですねえ。
こう申すと、旦那は、どうして私が御用にならなかったかを不審にお思いになるでしょう。旦那、
ところがです、法律上の罰は、みごとに
右の眼がつぶれて、翌日から痛みは去りましたが、さあこんどは、例の時刻が来ると、モルヒネの注射をして貰わねば、身体中がむしゃむしゃして来て、とてもこらえられないようになったんです。それも普通のモルヒネ中毒とはちがって、モルヒネが身体の中へはいって行くときの痛みが恋しくて恋しくてならぬようになったんです。旦那、旦那は、モルヒネが皮膚の中に沁みこんで行くときの、あの
とうとう、しまいには自ら注射器をとって、御無礼な話ですが、恥かしい部分の皮下へ注射したんです。さすがにこの部分の皮膚は痛みが強くて、何ともいえぬ愉快を感じましたが、それも然し四五日以上は続きませんでした。
もう痛いところは
眼ですよ。眼ですよ。眼にものがはいった時の痛みは旦那もよく御承知でしょう。つぶれた眼には痛みはないですが、あいて居る眼は、私の欲望を思う存分
で、その晩、例の時刻に、モルヒネの注射針を左の眼にずぶりと突刺して、徐々に注射しました。さすがに思う存分の痛みを味うことが出来ましたよ。
旦那、旦那は、黒い
ふと、気がついて見ると、旦那、その日をいつだとお思いになります? 奴が死んだ日から、ちょうど四十九日目でしたよ。
その翌日からは、不思議にも、モルヒネがほしくなくなりました。その代り、私は生れもつかぬ
ですから旦那、モルヒネ中毒は、眼をつぶせばなおると私は今でも思って居るのです……」
じっと聞いて居た彼は全身にはげしい寒さを感じた。按摩の話し終ると同時に揉み終ったが、彼はもはや巻煙草をふかす勇気もなく、按摩の顔を見るのが恐しかったので、黙って紙入の中から一円札を取り出して、按摩の手に握らせた。
老按摩はそれをすなおに受取って懐にしまい、立ちぎわに、又もや
「えへへ、旦那、怒っちゃいけませんよ。今の話は、ありゃ、みんな作りごとです。私は生れ
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「新青年 増刊号」博文館
1925(大正14)年8月号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。