萩原朔太郎 月に吠える

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子供は笛が欲しかつた。
その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。
子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。
子供はひつそりととびらのかげに立つてゐた。
扉のかげにはさくらの花のにほひがする。
 
そのとき室内で大人おとなはかんがへこんでゐた、
大人おとなの思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんまが大人の心を痙攣ひきつけさせた。
みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。
それは春らしい今朝の出来事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。
 
本能と良心と、
わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人おとなの心のうらさびしさよ、
力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓あかりまどのあたりをさまようた。
人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽霊の通りゆく姿をみた。
大人おとなは恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた
「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」
けれどもながいあひだ、幽霊はとびらのかげを出這入りした。
扉のかげにはさくらの花のにほひがした。
そこには青白い顔をした病身のかれの子供が立つて居た。
子供は笛が欲しかつたのである。
 
子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。
子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭脳をみた。
その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。
子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。
子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。
しだいに子供の心が力をかんじはじめた、
子供は実に、はつきりとした声で叫んだ。
みればそこには笛がおいてあつたのだ。
子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。
 
子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。
それ故この事実はまつたく偶然の出来事であつた。
おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。
けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。
もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、
卓の上に置かれた笛について。