可愛い山
石川欣一
岩と土とからなる非情の山に、憎いとか
この山、その名を
たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた
大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。
ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で
一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして
さすがは山に住む人だけあって、渓流に落ちたことを苦笑はしていたが、そのために引きかえすこともなく、この善人らしい老人は、直ちにまた徒渉して、白馬尻の小舎に着いた。ここで焚火をして、濡れた衣類を乾かす。私はシャツを貸した。
一夜をここで明かして、翌日は朝から大変な雨であった。とても出られない。一日中、傾斜した岩の下で、小さくなっていた。雨が屋根裏――即ちこの岩――を伝って、ポタポタ落ちて来る。気持が悪くて仕方がない。色々と考えたあげく、
次の朝は綺麗に
それに糧食も、一日分の籠城で、少し予定に狂いが来ているはずである。私は帰ると言い出した。慎太郎さんもすぐ賛成した。何でも、同じ白馬に十四度登っても仕方がないというような、大町を立つ前から判り切っていた理窟を申し述べたことを覚えている。かくて我々二人は一行に別れて下山の途についたのである。
私は、いささか恥しかった。というより、自分自身が腹立たしかった。前年、友人二人と約十日にわたる大登山をやり、大町に帰るなりまた慎太郎さんと林蔵と三人で
この下山の途中である。ふと北の方を眺めた私は、桔梗色に澄んだ空に、ポッカリ浮ぶ優しい山に心を引かれた。何といういい山だろう。何という可愛らしい山だろう!
この、未完成の白馬登山を最後として、私は長いこと山に登らなかった。間もなく私の外国生活が始まったからである。一度日本に帰った時には、今つとめている社に入ったばかりなので、夏休をとる訳にも行かなかった。翌年の二月には、再び太平洋を渡っていた。
だが雨飾山ばかりは、不思議に印象に残っていた。時々夢にも見た。秋の花を咲かせている高原に立って、遥か遠くを見ると、そこに美しい山が、ポカリと浮いている。空も桔梗色で、山も桔梗色である。空には横に永い雲がたなびいている。
まったく雨飾山は、ポカリと浮いたような山である。物凄いところもなければ、偉大なところもない。怪奇なところなぞはいささかもない。ただ優しく、桔梗色に、可愛らしい山である。
大正十二年の二月に帰って来て、その年の四月から、また私は日本の山と交渉を持つようになった。十三年には久しぶりで、
六月のはじめ、慎太郎さんと木崎湖へ遊びに行った。ビールを飲んで昼寝をして、さて帰ろうか、まだ帰っても早いし、という時、私はここまで来た
木崎湖を離れてしばらく行くと、小さな坂がある。登り切ると、ヒョイと
左手はるかに白馬の山々が、恐ろしいほどの雪をかぶっている。だが私どもは、雪も何も持たぬ、小さな、如何にも雲か霞が凝って出来上ったような、雨飾山ばかりを見ていた。
青木湖を離れると
再び言う。雨飾山は可愛い山である。実際登ったら、あるいは藪がひどいか、水が無いかして、仕方のない山かも知れぬ。だが私は、一度登って見たいと思っている。信越の空が桔梗色に澄み渡る秋の日に、登って見たいと思っている。もし、案に相違していやな山だったら、下りて来るまでの話である。山には登って面白い山と、見て美しい山とがあるのだから……
\n 底本:「山の旅 大正・昭和篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年11月14日第1刷発行
2007(平成19)年8月6日第5刷発行
底本の親本:「山へ入る日」中央公論社
1929(昭和4)年10月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年6月21日作成
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