絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
一
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が
かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。
右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら
瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう
現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。相互否定的に一となるというのである。過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。現実は形を
右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし
時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも
哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。
多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = reprsenter)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を
自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、形というものなくして働くということはない。動物的生命においては見るといっても、
右にいった如く、個物は何処までも個物として創造的であり、世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、形から形へと考えられる世界でなければならない。始に現在が現在自身を限定するといった如く、形が形自身を限定すると考えられる世界でなければならない。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界は、かかる立場からは何処までも自己自身を形成する、形成作用的でなければならない。かかる意味において自己自身を形成する形が、歴史的種というものであり、それが歴史的世界において主体的役目を演ずるものであるのである。私の形といっているのは、実在から遊離した、唯抽象的に考えられる、静止的な形をいうのではない。形から形へといっても、唯無媒介的に移り行くというのではない。多と一との矛盾的自己同一として、実在の有つ形をいうのである。生物現象というも、何処までも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。しかしその故に生物現象を単に物質の偶然的結合というのならばとにかく、いやしくもそれ自身に実在性を認めるならば、それは形成作用的と考えられねばならない。生物の有つ形というのは、機能的でなければならない。形と機能とは、生物において不可分離的である。形というのは、唯、眼にて見る形の如きものをいっているのではない。生物の本能という如きものも、形成作用である。文化的社会という如きも、形を有ったものでなければならない。形とはパラデーグマである。我々は種の形によって働くのである。
右の如く作られたものから作るものへと無限に動き行く絶対矛盾的自己同一の世界は、形から形へとして何処までも形成作用的である、即ち主体的である。これに無限なる環境が対立する。而して主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。しかし絶対矛盾的自己同一の世界において環境というのは単に質料的なものではない、形相を否定するものでなければならない。一から多へというに対して、多から一へということでなければならない。主体は自己否定的に環境を、環境は自己否定的に主体を形成するのである。形相が質料となり質料が形相となるとか、形相と質料とか形成の程度的差異とかというのではない。多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、過去から考えることである、機械的に考えることである。これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。しかし単に合目的的というのは、生物的生命においてのように、なお空間的たるを脱せない、決定論的たるを免れない。真に一から多へというには、何処までも時間的なものと考えなければなるまい、ベルグソンの純粋持続の如きものを考えなければなるまい。何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、つまり過去からということはないのである。純粋持続が自己自身を否定して自己矛盾的に空間的なる所に、現実の世界があるのである。一瞬の前にも
世界を多から、あるいは一から考えるならば、作られたものから作るものへということはあり得ない。世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、かかることがあることはできない、否、作るという如きことも入れられる余地はないのである。然るに多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。歴史の世界においては単に与えられたものというものはない。与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、新なる主体が出て来ることである。かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。歴史的世界において主体と環境とが何処までも相互否定的に相対立するというのは、時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。而して現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、作られたものから作るものへと動き行くのである。而してそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、多と一との絶対矛盾の自己同一の世界であるということである。かかる世界において作られたということから、作るものが出て来る、而してまた新に作り行くのである。
それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である、現在が矛盾の場所である。抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとはいわれないであろう、結合することができないから矛盾するというのである。しかし何処かで相触れなければ矛盾ということもあり得ない。対立が即
歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。現在というものは無内容である、現在が形を有たない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰返しに過ぎない。空間的な、単なる多の世界である。生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、時が形を有つということができる。合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。生産様式が一種の内容を有つということである、過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。かかる形というのが、生物の種というものである。歴史的世界の生産様式である。これを主体的という。生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である、世界が自己矛盾的に一つの現在であるということができる。生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び附くといっても、なお過程的であって、真の現在というものはない。従って真の生産というものはない、創造というものはない。私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、単に主体的だという
歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、プラトンのいう如く非有が有である。歴史的現在においては、何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。これを私は歴史的生命の弁証法というのである。過去を決定せられたもの、与えられたものとしてテージスとすれば、それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。しかし過去というものが矛盾的自己同一的に決定せられたものであり、過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、即ちアンティテージスが成立する。世界が矛盾的自己同一として創造的であり、生きた世界であるかぎり、かかるアンティテージスが成立せなければならない。而してその矛盾的対立が深く大なればなるほど、即ち真に矛盾的対立であればあるほど、矛盾的自己同一的に新なる世界が創造せられる、それがジンテージスである。現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、大なる創造があるのである。新なる世界が創造せられるということは、単に過去の世界が否定せられるとか、なくなるとかいうのではない、弁証法においていう如くアウフヘーベンせられるのである。歴史的世界においては無限の過去が現在においてアウフゲホーベンされているのである。人間となっても、我々は動物性を脱するのではない。
過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、現在が形を
過去と未来との矛盾的自己同一として自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。いつも超越的なるものが内在的であるのである。現在が形を
右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、過去と未来とが現在において対立し、矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということである。歴史的世界においては単に与えられたものはない。与えられたものは作られたものである。環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、形相が質料を形成するという如きことではない。物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。そこに生物的種との区別があるのである。イデヤ的に生産的なるかぎり、即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、それは生きた社会である。
私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、単に文化的となるということではない。それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、イデヤがイデールとなることである。主体が環境を形成する。環境は主体から作られたものでありながら、単に作った主体のものではなく、これに対立しこれを否定するものである。我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。何処までも主体が生きるには、主体が更生して行かなければならない、絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。歴史的世界のイデヤ的構成力となって行かなければならない。生産した所のものが世界性を有たなければならない、即ち世界的環境を作って行かなければならない。かかる主体のみ、いつまでも生きるのである。主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、主体がなくなるということではない、その特殊性を失って単なる一般となるということではない。無限の過去と未来とが何処までも現在に包まれるという絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、永遠に触れるということができるのである。すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、抽象的一般の世界となるということでもなければ、すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。種の主体的生存ということと、文化とは必ずしも一致せないと考えられるが、何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は世界歴史において生存することはできないであろう。イデヤは主体的生命の原理でなければならない。
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二
絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合する世界であり、矛盾的自己同一的に現在が形を
過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合より成ると考えることができる。
自己自身を形成し行く世界の形から形へということは、あるいは飛躍的とか無媒介的とか考えられるであろう。個物の働きというものがないとも考えられるであろう。しかし私の考はその逆である。個物とは何処までも自己自身を表現的に限定するものでなければならない、表現作用的に働くものでなければならない。世界の有つ形とは、かかる個物の相互否定的統一、矛盾的自己同一として現れるものでなければならない。それは逆に無数なる個物の表現作用が絶対矛盾的自己同一的世界の無数の仕方においての自己表現といわなければならない。再び我々の自己の意識統一によって考えて見よう。我々の意識現象とは、その一々が独立であり、自己表現的である。その一々が自己たるを主張し要求するといってよかろう。しかも我々の自己というのはジェームスのいう羊群の焼印の如きものではなく、かかる自己自身を表現するものの否定的統一として、形を有ったものでなければならない。それが我々の性格とか個性とかいうものである。自己というものが超越的に外にあるのでなく、意識する所そこに自己があるのであり、その時その時の意識が我々の全自己たるを主張し要求する。しかもそれを否定的に統一し行く所に、真の自己というものがあるのである。我々の自己の意識統一においても、現在において過去と未来とが矛盾的に結合し、全自己が一つの矛盾的自己同一的現在として、過去から未来へと、生産的であり創造的である。意識統一というものも、通常は世界から離して抽象的に(心理学的に)考えられるのであるが、具体的には自己自身を形成する世界の表現作用的個物として考うべきであろう。
一々の個物が何処までも個物的として表現作用的に自己自身を限定するというべき絶対矛盾的自己同一の世界において、個物的多が自己否定的に単に点集合的に考えられる時、それが物理的世界である。物理的世界は数学的記号によって表される数学的形の世界である。個物がそれぞれの仕方において世界を表現すると考えられる時、それが生命の世界である。その環境に即したものが生物的生命の世界である。そこでは個物はなお真に表現作用的でない。個物が何処までも表現作用的に自己自身を限定するという時、人間の歴史的世界である。世界は絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く。生物的世界はいうまでもなく、物質的世界も形を有つ。しかしそれは生産的でない、創造的でない。故になお現在から現在へ、形から形へといわれない、なお真に作られたものから作るものへとはいわれない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合する所、そこにはいつも過去から未来へという時が消されると考えられる、即ち意識面がある。歴史的世界は意識的である。表現作用というものを考えなければ、形から形へということは単に無媒介と考えられる、作用と形というものが無関係と考えられる。しかし働くということは、全世界との関係において、全世界の形において成立するのである。物理現象においても
我々がこの世界において働くということは、物を形成することであり、私が行為的直観的に物を見、物を見るから働くというのは、右の如く個物が何処までも表現的に世界を形成することによって個物であり、逆にそれが絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の一角であるというによるのである。行為的直観というのは、我々が自己矛盾的に客観を形成することであり、逆に我々が客観から形成せられることである。見るということと働くということとの矛盾的自己同一をいうのである。過去と未来とが現在において相互否定的に結合する、即ち現在が矛盾的自己同一として過去未来を包む、現在が形を
行為的直観的に物を見るということは、世界の生産様式的に物を把握することでなければならない。かかる意味において物を見ることは世界を映すことである。ヘーゲルの如き意味において概念的に実在を把握することは、
具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。而して我々はいつも
個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。世界は無限なる表現作用的個物の否定的統一として自己自身を形成し行く。かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという時、個物は無限に欲求的である。我々が欲求的であるということは、我々が機械的であるということでもなく、単に合目的的ということでもない。世界を自己の内に映すということでなければならない。世界を自己形成の媒介とするということでなければならない。動物の生命というものも、既に
絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である。生物の身体的生命というのは、かかる形成作用でなければならない。
(私が斯くいうのは、かつて生物的生命を単に主体的といったのに反すると考えられるかも知れないが、生物的生命の世界ではいまだ主体と環境とが真に矛盾的自己同一とならないのである。真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。作るものが自己自身を否定して作られたものとなることが真に作るものとなるということが、作られたものから作るものへということであるのである。生物的生命の世界においてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである。単に主体的ということそのことがかえって環境的たる
生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。かかる発展は単に生物的生命の連続としてというのではない。さらばといって、単に生物的生命を否定することによってというのでもない。その自己矛盾に徹することである。生物的生命といえども既に自己矛盾を含んでいる。しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。かかる自己矛盾の極限において人間の生命に達するのである。無論それは幾千万年かの歴史的生命の労作の結果でなければならない。作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。
過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。身体は生物的身体的ではなくして歴史的身体的である。我々は作られたものにおいて身体を有つのである。人間の身体は制作的である。我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々は何処までも表現作用的形成の欲求を有っている、制作欲を蔵している。この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。生物の本能的形成においても、既に
我々は制作的身体的に物を見、
絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。我々はこの世界において或物を形成すべく課せられているのである。そこに我々の生命があるのである。我々はこの世界に課題を
絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体を有つ、即ち歴史的身体的である。
かかる社会の成立の根拠は何処にあるか。既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。社会はポイエシスから始まるということができる。動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。しかしそれはすべてポイエシスということから考えられねばならない。私が社会を歴史的身体的と考える
矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、一面には環境から主体へということでなければならない。それを生物的生命的といったが、人間に至ってもそれを脱するというのではない。而して矛盾的自己同一としての人間の世界に至っては、それは単に本能的でなく、表現的形成的でなければならない。それが環境が何処までも自己否定によって主体的となるということである。矛盾的自己同一的な人間の世界では、主体が自己を環境に没することによって主体であり、環境が自己否定によって主体的となることによって環境でなければならない。而して世界が
作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界は作られたものからとして、物質的生産的でなければならない。社会は経済機構を有たなければならない、物質的生産的様式でなければならない。しかしそれは、世界が機械的だということでもなく、単に合目的的だということでもない。世界が一つの現在として自己形成的だということである。そこには既に矛盾的自己同一として歴史的形成作用が働いていなければならない。世界が矛盾的自己同一的に絶対に触れるということがなければならない。社会成立の根柢に宗教的なるものが働いているのである。故に原始社会はミトス的である。原始社会においては、神話は人間世界を支配する生きた実在であるのである(Malinowski, Myth in Primitive Psychology)。古代宗教は宗教というよりもむしろ社会制度であるといわれる(Robertson Smith)。私は社会形成の根柢にはディオニュソス的なものが働いていると思う。ディオニュソス的舞踊から神々が生れたというハリソンの如き考に興味を有つのである(Jane Harrison, Themis)。或地理的環境に或民族が住むことによって、或文化が形成せられると考えられる。地理的環境が文化形成の重大な因子となるはいうまでもない。しかし地理的環境が文化を形成するのでもなく、民族といっても歴史的形成前に潜在的に民族というものがあるのではない。民族というのも、形成することによって形成せられ行くものでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する時、それは生命の世界である、無限なる形の世界、種の世界である。動物においてはそれは本能的であるが、人間においてはそれはデモーニッシュである。そして動物においても然るが如く、それが作られたものから作るものへとして、創造的形成的なるかぎり生きた種であるのである。民族というのは、かかるデモーニッシュな形成力でなければならない。作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、作るものを作るとしてイデヤ的である、世界的であるということである、種の形成が歴史的生産様式的であるということである。矛盾的自己同一的に何処までもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。
動物の本能的動作においても、既に
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三
矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する世界は、多と一との矛盾的自己同一の世界であり、かかる世界の個物として、
個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対する。そこに矛盾的自己同一的に一つの生産様式というものが出来るかぎり、個物が生きるのである。無論そこには、いつも種々なる様式が可能でもあろう。種々なる種の成立する
動物の行為的直観的とか、概念的とかいうのは、言い過ぎといわれるでもあろう。しかし動物的生命といえども、矛盾的自己同一的現在の自己限定として形成作用的であり、見るということと働くということとが不可分離的でなければならない。例えば、動物の眼の如きものでも、無限なる矛盾的自己同一的形成の結果としてできたものであり、動物そのものの種的生命と離すべからざるものでなければならない。矛盾的自己同一的に実在が把握せられる所に、行為的直観というものがあるのである。それはそこに実在の創造的な生産様式が把握せられるということである。生物的生命の種というものも、かかる弁証法的過程によって出来たものでなければならない。この故にその深き根柢には、イデヤというものを考えることができる。イデヤとはイデールではなく、ヘーゲルのそれの如く弁証法的形成作用でなければならない。行為を離れた直観という如きは、抽象的に考えられたものか、然らざれば幻想に過ぎない。生命は動揺的である。そこにはいつも無限なる方向があり、無限に幻想的でなければならない。生命が矛盾的自己同一的なればなるほど
我々の種的生命というものも、無限なる弁証法的発展の結果として出来たものであるが、我々が単に因襲的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である。我々は時々刻々に創造的でなければならない。私の行為的直観というのは、全体が受働的に一時に現前するなどいう如きことではない。それでは自己というものがなくなることである、自己が単なる一般となることである。これに反し我々が何処までも個物的として、絶対矛盾的自己同一的に、我々の自己に臨む世界に対することである、創造的となることである。私は個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対するというが、生死ということが個物の個物たる所以でなければならない。個物は生死するものでなければならない、然らざれば個物ではない。そして生物的生命といえども、個物の生死ということがなければならない。死ということは絶対の無に入ることであり、生れるということは絶対の無から出て来ることである。それは唯絶対矛盾的自己同一の現在の自己限定としてのみいい得るのである。
生物的生命といえども、形成的でなければならない。そこには既に行為的直観が含まれていなければならない。行為的直観的なる形成作用というのは、個物が何処までも超越的なるもの即ち絶対に対し、絶対矛盾的自己同一を媒介とするということである。真の当為はかかる個物の立場から起るものでなければならない。然らざれば、それは主観的たるを免れない。具体的当為は、我々が自己自身を否定するものによって生きるという個人的存在としての自己矛盾から起るものでなければならない。欲求的なる身体的存在としても、我々は既にかかる自己矛盾的存在であるのである。真の具体的当為とは、何処までも我々を越えたものが行為的直観的に外から我々に求めるものでなければならない、ポイエシスを通して現れ来るものでなければならない(真の実践はいつも行為的直観を媒介するものでなければならない)。身体的なるが故に、我々は自己存在の根柢において自己矛盾である。而して歴史的身体的なるが故に、我々は何処までも当為的であるのである。単に論理的矛盾から具体的当為は出ない。真の絶対として我々に臨むものは、論理的に考えられた絶対ではなく、現実に我々の生死を問うものでなければならない。
絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。かかる世界は何処までも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、無限に自己自身を映すと考えられる意識面を含む世界でなければならない。無限なる過去と未来とが自己矛盾的に現在において合一するという時、そこに時が消される立場がなければならない。矛盾的自己同一的現在の自己形成は意識を契機とするものでなければならない。形成作用というのは機械的でもなく単なる合目的的でもない、意識的でなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、現在が現在自身を越えると考えられ、自己自身を越えたものを映すとして、意識は志向的と考えられる。矛盾的自己同一的現在を中心として、世界は何処までも符号的に表現せられると考えられるのである。しかし世界が
絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成において、時が消されると考えられる意識面においては、世界は何処までも動揺的である。そこには行為的直観が失われるとすら考えられる。我々は自由に考え自由に行い得ると考えられる。我々は絶対矛盾的自己同一として我々に臨むものから離れる。抽象的自由の世界があるのである。しかしそれは世界が亡び行く方向であり、我々が我々自身を失い行く方向たるに過ぎない。我々の意識というのは絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の契機として現れるのであり、意識的に過去と未来とが自己矛盾的に現在に合一するということは、逆に世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するということでなければならない。我々は意識的に自由であればあるほど、逆に行為的直観的に絶対矛盾的自己同一に対するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界の個物として、我々は何処までも自己自身の生死を問うものに対するのである。そこに我々の意識作用は何処までも当為的でなければならない
幾度かいうのであるが、私の行為的直観とは本能的とか芸術的とかいうことではない。無論、本能とはその未発展の状態といい得るであろう。芸術とはその一方向への極限とも考えられるであろう。しかし行為的直観というのは、我々が意識的に実在を把握する、最も根本的な、最も具体的な仕方でなければならない。概念というのは、唯抽象によって成立するのではない。物を概念的に把握するということは、行為的直観的に把握することでなければならない。我々は行為的直観によって、物を概念的に把握するのである(概念とはベグリッフである)。行為的直観的に物を把握するということは、作ることによって見ることである、ポイエシスによって物を知ることである。私は従来、我々が物を作る、物は我々によって作られたものでありながら、それ自身によって独立せるものとして逆に我々を限定する、我々は物の世界から生れるといったが、作られたものから作るものへとして作用が自己矛盾的に対象に含まれる時我々は行為的直観的に実在を把握するのである。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界においてのみ、かかる概念的知識が可能なのである。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時右にいった如く世界は意識的である。かかる世界の形成的要素として、我々は行為的直観的に即ちポイエシス的に実在を把握する。それが我々の概念的知識の本質であるのである。我々の今日概念的知識というものは、その根柢において物を作ることによって行為的直観的に把握し来ったものである。いわゆる実践によって獲得し来ったものである。一般には、眼が実用を離れて知識的と考えられる。しかしアリストテレスが我々は手を
動物より人間へという時我々は社会的となる。上にいった如く、社会においては既に個人というものがあるのである。社会というものは、ポイエシスを中心として成立するのである。我々の概念的知識というのは、
過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時我々は何処までも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問うものに対する、即ち唯一なる世界に対するのである。我々が個物的なればなるほど、
行為的直観的自己が何処までも個物的であり、現在が何処までも絶対現在的であればあるほど、認識が客観的ということができる。例えば、物理学者が実験をするというのも、物理学者が物理学的世界の個人的自己として行為的直観的に物を把握することでなければならない。物理学的世界といっても、この歴史的世界の外にあるのではなく、歴史的世界の一面たるに過ぎない。矛盾的自己同一的現在が形を
過去未来合一的に絶対矛盾的自己同一として、即ち絶対現在として自己自身を形成する世界は、何処までも論理的である。かかる世界の自己形成の抽象的形式が、いわゆる論理的形式と考えられるものである。絶対矛盾的自己同一的現在の意識面において世界は動揺的である。我々は過去から未来への因果的束縛を越えて思惟的であると考えられる、自由と考えられる。行為的直観的現実をヒポケーメノンとして種々なる判断が成立する。我々が個物的なればなるほど、
我々が世界の形成要素として個物的なればなるほど、矛盾的自己同一的に自己自身を形成する唯一なる世界に
上にいった如く、すべて我々の行為は行為的直観的に起るのである、個物が世界を映すから起るのである(故に表現作用的である)。我々の知識作用というも、何処までも歴史的行為として見られねばならない。如何にそれが抽象論理的と考えられても、客観的認識であるかぎり、ポイエシス的に、行為的直観的に物を把握するという立場を離れない。無論それは矛盾的自己同一的現在の自己限定として何処までも論理的に自己自身を媒介すべきはいうまでもない。我々が何処までも個物的であり、知識が客観的であればあるほど、
私の行為的直観というのは、判断論理を媒介とせないで、唯無媒介的に、単に受働的ないわゆる直観から直観へと移り行くことを意味するのではない。矛盾的自己同一的現在の世界においては、何処までも個物と世界との対立がなければならない、作られたものと作るものとの対立がなければならない。かかる立場からは、直観と行為とは何処までも対立するものでなければならない。その間には単に主体的立場から考えられる相互否定的対立以上のものがなければならない。そこには絶対の過去と未来との対立がなければならない。無限なる歴史的過去が絶対現在において無限に我々に迫りおるのである。無限の過去が現在において我々に対するということは表現的ということであり、それは単に了解の対象と考えられるが、何処までも我々に対するものが表現的に我々に迫るということ、即ち表現作用的に我々を動かすということが、物が直観的に我々に現れることである。我々の自己の存在そのものを動かすものが、直観的に見られるものである。上に絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界においては環境が自己否定的に自己自身を主体化することによって真の環境となるといったが、我々の自己が自己矛盾的にその中に包まれる世界が我々に直観的な世界である。作用が自己矛盾的に対象に含まれ、見ることから働く世界である、いわば我々が何処までもその中に吸い込まれ行く世界である。
絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのでもない、また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。絶対矛盾的自己同一の世界において、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである。作用が自己矛盾的に対象に含まれるというのは、その根柢において
矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時、過去は既に過ぎ去ったものでありながら、自己矛盾的に現在においてあるものである、無にして有である。作られて作るものたる我々に対して、世界は表現的である。我々人間に対しては、環境が何処までも表現的ということができる。而してそれが作られたものから作るものへとして、何処までも我々に迫るという時、我々に直観的である。個人的自己としての我々の作用的存在を動かすかぎり、直観的である。しかし過去は自己自身を否定して、未来へ行くことによって過去である。未来ありての過去である、無論その逆も真である。歴史においては、単に与えられたものはない、与えられたものは作られたものである、作られたものから作るものへと否定すべく作られたものである。我々は作られたものから作るものへの世界の作るものとして、自己自身を形成する世界の形成要素として、何処までもこれに対立する。而して作られたものから作るものへと世界を形成し行くのである。そこに私のいわゆる行為的直観の立場があるのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する創造的世界の形成要素として個物的なればなるほど、即ち具体的人格的なればなるほど、我々は行為的直観的に歴史的創造の
ポイエシスを中心とする歴史的世界は、その創造の尖端において、無限の過去と未来とに対立する。而してそれは絶対矛盾的自己同一的現在においての対立として主体と環境との対立ということができる。かかる絶対現在においての主体と環境との対立、相互形成は機械的でも、合目的的でもあることはできない。環境は何処までも表現的であり、主体へ、作るものへ、何処までも直観的に迫るのである。直観とは物が我々の自己を奪い去らんとすることである。物と自己とが無関心に対立することではない。物を創造するというのは、自己が物に奪われることではない。自己が物となること、自己がなくなることではない。さらばといって、単に自己が意識的に作用することでもない。作ることによって、真に能働的に、物の真実が把握せられることでなければならない。行為的直観ということが単に自己が物に奪われるということなら、論理を否定するとも考えられるでもあろう。しかしそこには自己が何処までも能働的となることである。物をそのままに受取ることではない、物を能働的に把握することである。我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこに何処までも論理的でなければならない。論理を否定することは、自己を暗ますことである。行為的直観的に、ポイエシス的に、我々の自己は
創造の立場においては過去と未来とが絶対に相対立するものでなければならない。しかもそれは単なる対立ではなく、矛盾的自己同一的対立として、作られたものから作るものへと創造的に動き行くのである。この故に世界は矛盾的自己同一的現在として自己形成的である、即ち意識的である。過去と未来との矛盾的自己同一なるが故に、意識的なのである。世界は絶対の過去として必然的に我々を圧して来る。しかし矛盾的自己同一的世界の過去として、単に因果的に、我々を圧するのでない。単なる因果的必然は、我々の自己を否定するものではない。それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根柢に迫るものでなければならない、我々を魂の底から動かすものでなければならない。行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根柢から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的でもなく、単に否定的でもなく、悪魔的に我々に迫り来るものでなければならない。真に我々の魂に迫るものは、かえって抽象論理を以て我々を
行為的直観的に世界を見るということは、逆に行為的直観的に世界を形成することを含むのである。過去は自己自身を否定して未来へ行くべく過去であり、未来は自己自身を否定して過去となるべく未来である。世界が絶対過去として何処までも直観的に、我々の個人的自己をその生命の根柢から奪うということは、世界が非創造的となることである、世界が自己自身を否定することである。直観自身が自己矛盾である。世界が生きるかぎり、即ち創造的であり生産的であるかぎり、世界は自己矛盾に陥らざるを得ない。我々の行為的自己は、かかる世界の自己矛盾の底より生れるのである。世界が絶対過去として直観的に個人的自己に迫り来るというのは、機械的にでもなく合目的的にでもなく、我々の魂の譲与を迫り来ることでなければならない。単なる了解の対象としてでなく、信念の対象として、行為を唆すものとして、迫り来ることでなければならない。それは何処までも論理性を有ったものでなければならない。然らざれば、我々の個人的自己を動かすものではない、我々の行為的自己に対して与えられたものとはいえない。絶対矛盾的自己同一的現在において、作られたものとして我々を動かすものは、抽象論理的に我々に迫るものでなければならない(
私の行為的直観的に実在を把握するというのは、抽象論理を媒介とせないというのではなく、我々が矛盾的自己同一的世界の形成要素として個物的であり、創造的であればあるほど、絶対矛盾的自己同一的現在において行為的直観的に与えられるものは、論理的に我々を動かすものでなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するのが、具体的論理である。かかる意味において、芸術も具体的論理的である。私は人間の歴史的形成の立場から芸術を見るのであって、後者から前者を見るのではない。
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四
直観的に与えられたものが、論理的に我々を動かすというのは、普通の考に反することであろう。私のいう所があるいは無理押しと考えられるかも知れない。しかし直観とか所与とかについて、従来の考え方は知的自己の立場からであって、具体的な歴史的・社会的自己の立場からではない、即ち行為的・制作的自己の立場からではない。判断論理の立場からは、与えられたものといえば非合理的と考えられ、直観といえば論理を拒否すると考えられるでもあろう。しかし具体的人間としては、我々は制作的・行為的として歴史的・社会的世界に生れ来るのであり、何処まで行ってもかかる立場を脱するものではない。与えられるものは歴史的・社会的に与えられるのであり、直観的に見られるものは行為的・制作的に見られるのであり、表現的に我々を動かすものである。矛盾的自己同一的現在の世界において与えられたものとして、我々の個人的自己に迫るものでなければならない。社会というのは、矛盾的自己同一的世界の自己形成として成立するのである。如何に原始的であっても、単に本能的ではない、単に全体的ではない、多と一との矛盾的自己同一的でなければならない。我々は個人的自己として絶対矛盾的自己同一的なるもの超越的なるものに対しているのである。マリノースキイのいう如く、原始社会にも既に個人というものが含まれていなければならない。動物的群居と異なるものがあるのである。原始社会はトーテムとかタブーとかにより極度に束縛せられる。しかしなお個人の自由というものがあるのである、故に罪というものがあるのである。
具体的人間としての我々に与えられるものは、心理学者の直覚という如きものではなく、社会的に与えられるものでなければならない、我々を包むものとして与えられるのである。矛盾的自己同一的世界の自己形成として強迫的に与えられるのである、私のいわゆる弁証法的一般者の自己限定として与えられるのである。社会的因襲的に過去からとして要請せられるのである。論理的には特殊的といっても、我々が歴史的・社会的であるかぎり、種的であるかぎり、本質的にそれから動かされざるを得ないのである。それはレヴィ・ブリュールの如く論理以前ということができるであろう。しかしプラトンの論理といえども、その根柢においてイデヤの分有にほかならない。単なる抽象的論理はかえって真の論理ではない。具体的論理は両面の矛盾的自己同一でなければならない。いうまでもなく、論理が真の論理となるには、ミトス的なものは否定せられて行かなければならない。作られたものから作るものへと、社会は弁証法的に進展し行くのである。しかし何処まで行っても、その根柢において、歴史的・社会的形成として、ポイエシス的に実在を把握し行くという行為的直観の過程たるを脱せない。具体的論理たるかぎり、
歴史的に与えられたものは、絶対矛盾的自己同一的現在において世界史的に与えられたものとして、我々が個人的自己であればあるほど、それを否定することができないまでに自己の生命の根柢に迫るのである。直観的に我々に迫るものは、世界史的に迫るものとなるのである。社会の特殊性は単なる特殊性ではなく、
ヘーゲルは人格がイデヤ的存在であるために、財産を
歴史的世界は、生物の始から人間に至るまで、多と一との矛盾的自己同一である。而して作られたものから作るものへと動いて行くのである。動物的生命においては、なお個物的多が全体的一に対立せない、即ち個物が独立せない。作られたものから作るものへとの歴史的進展の過程が、全体的一の過程と考えられる、即ち合目的的と考えられる。個物が独立せないということは、逆に一がなお真の一でないということである、個物的多の世界に対して超越的でないということである、なお多の一であるということである。これに反して人間の世界においては、如何に原始的であっても既に多と一との矛盾的自己同一的である。しかしそれでも原始的社会にあっては、個物はなお真に独立的ではない、全体的一は抑圧的である。全体的一は単に超越的である。多は一の多である。然るに個物は何処までも独立的たることによって個物である。絶対矛盾的自己同一の世界においては、個物が個物自身を形成することが世界が世界自身を形成することであり、その逆に世界が世界自身を形成することが個物が個物自身を形成することである。多と一とが相互否定的に一となる、作られたものから作るものへである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、かかる契機が含まれていなければならない。それが文化的過程である。かかる立場において、個物的多を生かすことが全体的一が生きることであり、全体的一が生きることが個物的多が生きることである。社会が実体的自由として倫理的実体となり、歴史的世界の形成作用として我々の行為は道徳的意義を有つ。世界が絶対矛盾的自己同一として矛盾的自己同一的に、イデヤ的に自己自身を形成し行く所に、我々が行為的直観的に創造的なる所に、真の道徳があるのである。
かかる意味において、文化的過程は倫理的でなければならない。文化的発展が実体的自由としての国家を媒介とするということもできるのである。倫理的実体たる社会の個人として創造的なるかぎり、我々の行為が道徳的であり、絶対矛盾的自己同一的世界の形成作用として、イデヤ的形成的なるかぎり、社会が倫理的実体であるのである。かかる世界のイデヤ的形成の要求が何処までも独立的に自己自身を限定する個人的自己において、当為として意識せられるのである。芸術や学問も、かかる立場においてイデヤ的形成作用たるかぎり、倫理的意義を有するということができる。これに反し真の国家の名に価するものは、いわゆる政治以上のものでなければならない。マキアヴェルリが国家の本質とした「力」virt というものすら、創造性を意味していたものと考えることができるであろう。多と一との矛盾的自己同一的形成作用として、国家はそれ自身が自己矛盾的存在である。故に国家存在理由には、いつも矛盾が含まれている。しかしそこに国家の存在理由があるのでなければならない。歴史的世界に実在するものは、すべて自己矛盾的でなければならない。而して文化はかかる実在の自己形成から成立するのである。現在の十字架において
絶対矛盾的自己同一の世界は、作られたものから作るものへとの自己形成の過程において、イデヤ的である、直観的なるものを含むといった。しかし私はそこに世界の自己同一を置くのではない。もし
絶対矛盾的自己同一の世界は自己自身の中に自己同一を
過去と未来とが自己矛盾的に、現在において同時存在的なる矛盾的自己同一的現在の形成要素として、我々は生命の始においてかかる約束の下に立たねばならない。我々はいつも絶対に接しているのである。唯これを意識せないのである。我々は自己矛盾の底に深く省みることによって、自己自身を翻して絶対に結合するのである、即ち神に帰依するのである。これを
宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。しかしそれは自力
東洋的無の宗教は即心是仏と説く。それは唯心論でもなく神秘主義でもない。論理的には、多と一との矛盾的自己同一ということでなければならない。一切即一というのは、一切が無差別的に一というのではない。それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。そこに絶対現在として歴史的世界成立の原理があるのである。我々は絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、いつもこれに対するということもできない絶対に接しているのである。即今目前孤明歴々地聴者、此人処々不滞、通貫十方といわれる。我々は自己矛盾の底に絶対に死して、一切即一の原理に徹するのが即心是仏の宗教である。祇今聴法者、不是四大、能用四大、若能如是見得、便乃去住自由という。しかもそれは虚幻の伴子たる意識的自己ということではなく、そこには絶対否定的転換がなければならない。故にそれは唯心論とか神秘主義とかいうものとは逆に、絶対の客観主義でなければならない。真の学問も道徳も、これによって成立するのである。心といっても主観的意識をいうのでなく、内亦不可得であり、無といっても、有に対する相対的無をいうのではない。
多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界である。故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者に対する。而して
世界は絶対矛盾的自己同一として、自己自身を越えたものにおいて自己同一を
右の如く絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、いつもその矛盾的自己同一的現在において論理的に推論式的一般者と考えられる。斯く世界が何処までも自己自身の中に自己否定の契機を有つということが、世界が矛盾的自己同一的たる
我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。アリストテレスのいう如く、身体的発展は自然のポイエシスである。しかし我々の社会的生命において、それが真に技術的となる。我々の身体は歴史的身体的と考えられる。かかる立場から、我々の歴史的生命は何処までも技術的といい得るであろう。しかしまた逆に歴史的生命が技術的ということは、矛盾的自己同一的に、何処までもイデヤ的形成的ということでなければならない。故に種的形成からイデヤ的形成に発展する。かかる意味においてのみ、特殊が即一般といい得るのである。
底本:「西田幾多郎哲学論集」岩波文庫、岩波書店
1989(昭和64)年12月18日第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集 第9巻」岩波書店
1979(昭和54)年
初出:「思想 第202号」
1939(昭和14)年3月
[]内の編集者による注記は省略しました。
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校正:ちはる
2001年6月5日公開
2014年4月12日修正
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